第40話 閑話:生の実感


 東の空が白み始め、世界がまだ薄藍色に沈んでいる早朝。

 

 昨日泊まった宿場の外れにある広場に、私は一人立っていた。


 早朝の冷気が、肌を心地よく刺す。


 かつての私――病室の天井だけを見つめていた頃なら、この寒さで肺が痛み、咳き込んでいただろう。


 だが今は違う。


「ふぅぅぅ――――……」


 深く、長く息を吐く。


 冷たい空気が灰の奥底まで満ち、それに寒さに反発するように、心臓が力強く脈打たれ、熱が指先ひとつひとつにまで行き伝わる。


 自分の身体が、自分の意志で制御できているという感覚。

 それが嬉しくて、愛おしくて、私は毎朝こうして剣を握る。



「……ッ!」



 早朝の静寂を斬るように、剣を一閃させる。


 思考の意思と動作の挙動。その一致を測る。


 自分が思い描く軌道をなぞるため、重心の移動、筋肉の収縮、剣の軌道――それらを完璧に同調させていく。



 踏み込み。転身。斬り上げ。

 

 土を蹴る感触。風を切る音。汗が頬を伝う感覚。



 その全てが、私が「生きている」という証だった。


(もっと速く。もっと鋭く。この身体は、まだ応えてくれる)


 以前であればだいそれた望みを抱く。


 それはただの強さのためではない。

 動けることが楽しいのだ。


 自由に手足を伸ばせることが、必死に汗をかけることが、たまらなく幸福なのだ。


 いつの間にか私は夢中で剣を振るっていた。まるで、喜びを表現する舞のように。




「……綺麗」


 不意に、愛らしい声が聞こえた。


 私は動きを止め、振り返る。

 そこには、木陰に佇むアリシアの姿があった。ショールを羽織り、少々寝乱れた髪をそのままに(逆にそれが可愛らしいが)、呆然と私を見つめている。



「これはこれは……すまぬ、起こしてしまったか。アリシア殿」

「いえ……目が覚めて、部屋を訪ねたら貴方がいなかったから」


 彼女は恥ずかしそうに頬を染め、おずおずと近づいてきた。


「邪魔をしてごめんなさい。でも……美しすぎて。つい――」


「はっはっは。ただの素振りなんて退屈なものでしょうに」



「いいえ。まるで、舞踏ダンスを見ているようでした」

「アリシア殿は誉め上手だな」


 アリシアは、私の剣――ではなく、汗に濡れたこちらの顔を、眩しそうに見つめた。


「ユイ様は、本当に強いのですね。そして……その強さは、神様から与えられた力だけではないのですね」


「……どういう意味でしょう?」


「楽しそうでした。剣を振るう貴方は、誰よりも生き生きとしていて……見ている私まで、胸が熱くなるほどに」


「――……!」


 彼女の言葉に、私は虚を突かれた思いだった。


 ああ、この方には敵わないな。

 私の根底にある「生への渇望」と「歓喜」を、一幕で見透かされたようだ。



「……私は、欲張りなのでしょう」


 私は剣を鞘に納め、苦笑した。


「”以前”は、指一本動かすのも無体な身体でしたゆえ。いま、こうして大地を踏みしめられることが嬉しくて仕方がない……いまのこの自由を、誰にも奪われたくない」


 そう言って拳を握りしめると、アリシアがそっと、その拳を両手で包み込んでくれた。

 冷え切っていた私の手に、彼女の体温がじんわりと伝わってくる。


「ユイ様が強情なのはよく存じております」

「参ったな……」


「でも、その強さが私は好きです。……ユイ様を見習い、私も背筋を伸ばさなくてはなりませんね」


「アリシア殿……」


「ふふ。さて、そろそろ戻りましょうか。汗を拭かないと、風邪を引いてしまいますよ?」

「……確かに。魔物の群れよりも風邪のほうが厄介だからな」


 軽口を叩き合いながら、二人並んで宿へと戻る。

 ちょうど朝日が昇り切り、一日の始まりを告げていた。



 ――守りたい、と改めて思う。

 私の、この自由な身体と、最強の剣技は、すべてこの笑顔を守るためにあるのかもしれないな――自然にそう思えた。


 宿の入り口が見えてきたところで、私は一つ伸びをした。


「さて、では私は一風呂浴びて汗を流してきます。この宿には、大きな共同浴場があるそうですよ」


「ええ、朝一番なら貸切かもしれません」

「それはいい。……では、アリシア殿もご一緒にいかがですか? 背中くらいなら流しますよ?」

「えっ……え、えええっ!?」


 アリシアがこちらの申し出に素っ頓狂な声を上げ、真っ赤になる。

 その可愛らしい反応に、私は思わず噴き出した。


「もちろん無理にとはいわないが」

「も、もう! ユイ様のいじわる……っ! わたしが断れないと思っているでしょう……!?」


 膨れる彼女。愛らしい彼女。


 こんな穏やかな朝が、いつまでも続けばいい。

 そう願いながら、私たちは朝の光の中へと歩みを進めた。

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