骨壷

♢♢♢ 

「お前の緊急連絡先な、親父さんの妹さんだった。つまり岬の叔母さんだな」

 日が沈み始めたころ、加賀センと夏希が家にやってきた。俺は朝届いたベッドフレームの組み立てを諦めて床に転がっていた。

「叔母さんか……。存在すら知らないけど」

「電話は出てくれて、軽く事情を話したら念書を書いてくれるって言ってたよ。この後二十時から会いに行ってくる」

「え、まじで?話早……」

「叔母さん伝でお前の親父さんにバレるかもと思ったが、仲悪いんだろうな。勝手に緊急連絡先にされてたこともキレてたけど、お前の名前を出したら、あの子の父親が何かした?って聞かれたんだ。金銭的援助もできるし念書でもなんでも書くけど、できるだけお前の親父には関わりたくないってさ」

「兄じゃなくて『俺の父親』って認識か、確かに距離感じるなー。まぁでも、俺も別に保護とか求めてないしサインしてくれるだけでもありがたいか」

「いや、お前は……お前らはもっと怒っていいんだよ!まだ未成年なんだから大人がこどもを守るのは当たり前だし、責任放棄されてることにはもっと怒るべきなんだ。大人なんてこんなものだって諦めてるかもしれないけど……それは先生たち大人の責任だな」

「えぇ、何急に……怒ってへこむなよ……」

 俺と加賀センの話を聞きながら、気を遣って黙ってベッドを組み立てていた夏希もさすがに声を発した。

 

「確かに大人は万能じゃないし、間違えることも気づかないことももちろんある。でも、親は本来こどもを守るもので、傷つけるなんてもってのほかだ。でも実際、それがわからない親っていうのも少なくはない。お前ら未成年は何をするにも保護者の許可がいるし、高校生は金もなければ一人で生きていく力も方法もまだ少ない。だからってずっと理不尽な環境と向き合っていなきゃいけないのか?そんなことはないんだ。親が無理なら先生でいい。もし先生が信頼できないなら、他の誰でもいい。お前らは助けを求めるべきだし、助けられるべきなんだ。親に恵まれなかったならその分周りの大人が気づいて手を差し伸べなければいけない。いじめも虐待もどうしてこの世からなくならないのか、それは原因療法をしていないから。起こったことに対処するだけで本当の助けにならないことも多いだろ。だから、俺は、せめてお前らだけは、きちんと助けたいと思っているんだ。この世界を諦めずに抗ってくれよ」

 

 涙目で自分のために熱演する大人を始めて目の当たりにして、鼻の奥がツンとした。人間も大人も嫌いだけど、加賀センのことは嫌いじゃない。俺を傷つける大人に自分の世界を侵食されていたけれど、確かに自分のことを気にしてくれる人も存在しているんだ。加賀センは今まで何も聞かずに、俺にとっての逃げ場を作ってくれていたことにも気づいていた。文系の先生のくせに体育教師みたいに熱血で、窓から眺めていた時にはグラウンドの野球部の男子生徒の背中をバンバン叩いたり、肩を組んだりと人との距離が近いんだなと思っていた。でも、俺には一切触れることはなかった。わかりやすく距離を取るわけではなく、最大限俺の傷に気づかないふりをしてくれていたんだと思う。

「教室にもほぼ行っていない一生徒のために、なんでそんなに必死になってくれるんだよ」

「……俺は昔、生徒の自殺を止められなかったことがあるんだ。なんどもSOSを出してくれていたのに、本当の意味で助けることは何もできなかった。正直トラウマだよ。だからもう二度とそんな悲しい事件は起こしたくないし、差し伸べた手を取ってもらえるような先生になろうと決めたんだ」


「そっか、うん、俺、加賀センに助けて……ほしい」

 ハッとして顔を上げると、加賀センが思わず声を発してしまった俺を嬉しそうに見ている。涙目のまま。ガタイのいい三十代男性教師が。

「任せろ、もう一度大人を信じてくれ!」

 ついに加賀センの目から涙がこぼれた。

「お前らも泣けよ!?おじさん感極まっちゃってさーもうさーあー」

 子供のように喚きながら俺らに近寄ってくる加賀センを見てたら、どうでもよくなって夏希と顔を見合わせて爆笑する。

「加賀屋先生!鼻水!汚いです!寄るな!」

「橘お前!ついに先生に向かって寄るななんて言ったな!問題児ニ人が!」

「加賀セン牛乳飲む?」

「飲むよ!!」

「なんで半ギレ……」


「まぁとにかくニ人も落ち着いたところで、今後のことを話そうか」

 加賀センは牛乳を紙パックからそのままラッパ飲みしている。まだ冷蔵庫は届いていないから外に出しっぱなしだったけど……まぁ買ったのは昨日だし、この部屋も結構寒いから大丈夫か。

「俺ら落ち着いてたよな?」

「うん、先生が騒いでただけだね」

「とにかく、先生はこれから岬の叔母さんのところに念書をもらいに行く。岬は終業式までとりあえず欠席。信頼できる先生にだけ事情を共有しておく。教頭はだめだが校長は信頼できる。高校生の力の限界をよくわかっている人だよ。岬の保健室登校の件も許可もらってるしな」

「俺、校長会ったことないけど……」

「入学式から来てないもんな。冬哉は僕たち生徒の中でもなんか……トイレの花子さん的な存在だよ。幻?みたいな」

「えぇ、俺七不思議みたいになってんの?」

「まぁ、知らない間に結構大ごとになってたし、話をする機会は作るって言ってたよ。岬と、橘のおばあさんと、岬の親父さんに」

「は、父親にも……?」

「お子さんを預かっている身として話さなきゃいけないことはあるんだろう。叔母さんに念書を書いてもらったところで親父さんに学校を訴えられでもしたら終わりだろ」

 父親のことを考えるだけで体が冷えていくのがわかる。もう戻りたくない。……心底怖い。

「岬。大丈夫だ。任せろって言っただろ。ただ、ある程度お前の状況を知っておく必要はある。話せるところまででいいから教えてくれないか」

 心臓が跳ねるのがわかる。知られたくはないけれど、自分のためにここまでしてくれる人たちに事情は言えません、だなんて虫が良すぎるよな。夏希が心配そうな顔をしてこっちを見ている。席を外すか迷っているのか、落ち着かない様子だ。拒絶されないことを祈り、大きく息を吐く。

「俺は、義理の父親から虐待されてる」

 


 十歳になるまでは、すごく幸せだった。物心がついた時から、ずっと小さなアパートに母さんと二人で生活していた。ワンルームの畳の部屋で、風呂は小さいしキッチンも狭いし、風が吹くと窓ガラスががたがた鳴るようなぼろい家。でも日当たりは良くて、母さんが自分で縫ったカーテンが揺れる部屋はいつも暖かかった。俺には父親も祖父母もいなくて、小学校が終わった後は母さんの医療事務の仕事が終わるまで学童で過ごしていた。

「お前の母ちゃん、男にイロメ使ってるらしいな!俺の母ちゃんが近寄るなって言ってた!」

「は?近寄るなって言われてるんだから近寄るなよタコ」

 根拠のないうわさ話を娯楽とする哀れな母親から聞いた言葉を、意味もなく使いたいだけの同級生がケンカを売ってくることもよくあった。たまに教科書が隠されていたり、上履きが泥まみれになっていたりもした。でも、幸い俺は目つきも口も悪く、おまけに嫌がらせへの反応も悪いからそれ以上ひどいイジメには発展しなかった。群れでしか向かってこない鼻たれ小僧に何をされたってノーダメージだ。

 学童が終わると、ひそひそ噂話をする近所のババアや俺を被害者にしたいおせっかいババアには目もくれず、母さんの職場の病院まで迎えに行って一緒に帰る日々。

「お友達と仲良くしてる?」

「友達はいないけど毎日快適に過ごしてるよ。給食うまい」

「そっかぁ」

 夕陽がキラキラと反射する川沿いを歩きながら話す時間はかなりお気に入りだった。母さんは俺が何を言ってもにこにこ嬉しそうに話を聞いて、決して否定しなかった。同級生への暴言に対しては「さすがにだめよ」と注意されたが。

 

 今思えば肉とか豪華な食事なんて出なかったけど、必ず汁物はつけてくれていたし、毎日温かいご飯が食べられるだけで幸せだったと思う。それに、母さんはよく俺のことを「宝物」だと言って頭をなでて抱きしめてくれた。

「冬ちゃんは私の宝物よ。冬ちゃんは絶対に自由に生きるのよ。ママはあなたが生きていればそれで幸せよ」

 ふゆちゃん、と呼ぶ声は心地いい。腰まで伸びる色の薄い髪はいつも綺麗に手入れされていて、同じ色の自分の髪はずっと誇らしかった。白い肌に透き通った瞳を持つ母さんは、子供ながらにも美人だと思っていた。だからこそボロいアパートや古い商店街なんかにいると、合成かと思うほど浮いていた。


「希さん、今日も大根サービス!家内には内緒っすよ」

 いつも行く八百屋のおじさんはにこにこと俺たちに優しくて、奥さんは冷ややかな目を向ける。当時は分からなかったその理由が今ならよく分かる。母さんは普通に生きていくには美しすぎた。そして優しいがゆえに人の好意をないがしろにせず、困ったように笑うしかできない母さんは、はたから見れば八方美人と言うんだろう。


 小学校四年生の夏休みに、母さんは一人の男を連れて帰ってきた。この町ではあまり見ないパリっとしたスーツの男。真ん中でわけられた黒い前髪からうさんくさい笑顔がのぞいている。背が高く、細身だががっちりしていて謎の威圧感がある。そいつは外靴のままずかずかと部屋に入ってきて、俺の前に立つ。

「はじめまして。君がとうやくんかな?」

「誰だよ、人の家に上がるなら靴脱げよ」

「私は岬白夜。君のお父さんになるんだ」

「岬さん、その話は……」

 笑顔ではなく怯えながらびくびく話す母さんは珍しくて、幼い俺でも二人の間にあるのは好意じゃないことはわかった。俺の生活は俺の中では完成されていて、母さんとの生活を脅かす存在なんて必要なかった。

「お父さんなんかいらねーし。母さんはお前と結婚するなんて言ってんのかよ」

 そう言った瞬間に目の前が真っ暗になった。畳に身体が打ち付けられ、衝撃が走った頬が熱い。倒れている?鼻から流れた温かいものを触るまで殴られたことに気付かなかった。

 

「お父さんに向かってお前なんて言うんじゃない」

「岬さん!やめて!冬ちゃんに手を出さないで!」

「お前が馬鹿だからだろう!お前のせいで子供が殴られてるんだ!私に責任転嫁するんじゃない!どこの誰か知らん奴と子どもなんか作りやがって!お前は生まれた時から私のものだと決まっていただろう!」

 母さんを怒鳴るな、と言えたのか言えていなかったのか、俺の意識はそこで途絶えてしまった。


 その日から俺の生活が一変した。ご飯、着替え、家、教育。与えられるものは全て一級品だったが、同時に恐怖と痛みに支配される日々。やっぱりあの狭いアパートでの母さんとの生活に勝る生活なんてこの世になかった。少しでも機嫌を損ねると怒鳴り散らして暴力をふるう男と一緒に住むなんて、地獄以外の何でもない。

 家庭教師が与えた宿題が終わっていないから、ピアノの練習をしないから、ピアノの音がうるさいから、お前のことが気に食わないから、あいつにとって俺を殴る理由はなんだってよかった。

 

 この男は母さんの許嫁だったそうだ。「いいところのお嬢さん」だった母さんは将来が決められていたが、それを押し切って俺の父親と駆け落ちした結果、家族から絶縁されていた。その人との暮らしは、決して豊かではなかったが幸せだったと教えてくれた。父親は俺が生まれる前に事故で亡くなり、母さんは一人で俺を育ててくれていた。

「あの人が死んだときは世界が終わったかと思うくらい苦しかったけど、冬ちゃんのおかげで生きてこれたのよ」

 母さんは底抜けに優しい。その愛情が眩しくて暖かくて、ずっと嬉しかったんだ。

 

 しかし、あの男はその後も母さんに執着して探し続けた。そしてついに俺たちは男の思惑通り、手中に収まってしまったというわけだ。母さんは無理やり籍を入れさせられ、仕事もやめてまともに家を出ることも許されなくなった。俺は学校に行っている時間以外はなるべく母さんのそばを離れないようにしていた。でも、あの男が帰ってくると文字通り足蹴にされ、否応なく離されてしまった。

 

 ずっと、怖くて不安でいっぱいだ。陽だまりに包まれたアパートにはもう戻れない。ニコニコしながら俺の手を引いて歩いてくれる母さんももういない。

「冬ちゃん、ごめんね。私がばかだから冬ちゃんを酷い目に合わせる」

 母さんは目に見えて衰弱していった。ずっと泣いて謝っていたと思えば、急にご機嫌になって鼻歌を歌いながら庭の散歩をする。そしてしばらくしたら草むらに倒れこんで、泣きわめいて「死にたい」と何度も言う。

 何度も何度も、死にたいと言う。自分の髪をむしる。美しい髪はツヤをなくし、いつもぼさぼさだった。たまに髪を梳いたけど、すぐに掻き毟ってしまう。

 どこにも行かないで、俺を置いていかないで。俺のために笑ってほしい。俺がこんな地獄から連れ出してやりたい。それなのに、俺はこの世で最も無力だった。


 

 その生活が3年ほど続き、俺が小学校を卒業した春に母さんは自殺した。精神を安定させるための薬をたくさん飲んで、お風呂で首を切って死んだ。

 

 誰も傷つけないように生きていた母さんが、自分の首を自分で切って死んだ。それがどんなに恐ろしいことかなんて、小学生でもわかる。それよりも地獄だったんだよな、ここでの生活が。


 俺は母さんの生きる理由ではいられなかった。俺が生きていればいいわけではなかった。自由になりたかったんだよな。なぁ、死んだら自由になれるのかよ。

 母さんの遺書は今でも男の手の中にあり、俺は最愛の人の最後の言葉を知ることもできない。そんなことが許されるのか?母さんが誰よりも愛していたのは俺だったという自負があるのに。無力だ。


 そして、十四歳で初めて、俺は母さんの代わりになった。いくら中学生とはいえ、大人の男に本気で拘束されてしまえば抗いようがない。

「顔はあの女と一緒で美しいから男でも我慢してやる。この顔に生まれてよかったな、お前が何にも使い物にならない子供だったら面倒みる義理なんてないからな」

 

 憎い男が俺のことを見下してくる。苦しくて、痛くて、惨めで、悲しくて、悔しくて、汚らしくて、殺したくて、死にたい。

 あぁ、母さんもずっとこんな気持ちだったんだろうな。俺は何もできなかった。何も気づいてなかったんだな。呼吸をするだけで精いっぱいで、逃げる気力なんて湧かない。

 日に日に心は蝕まれて、大人の男が怖くなった。大勢の人の中にいると呼吸ができなくなった。俺はこの先ずっと、後悔して、骨壷を抱えて生きてゆくんだろう。


 男の意図なんてわからないが、定期的に一切部屋を出してもらえない期間がある。朝も夜もなく、ひたすら暴力と気持ち悪い性欲にまみれた息苦しい部屋。血もたくさん出るし、意識は途絶えるし、電流を流されたような衝撃は何度経験しても慣れることはない。この部屋の重たいカーテンが俺を世間から隠す。この世界も俺も、全てが気持ち悪い。


「今回も部屋を出られなかったんだけど、あいつが留守にしてる間に珍しく部屋の鍵をかけ忘れたみたいで。とりあえず外に出たら、夏希に見つかって」

 じっと俺を見つめて話を聞いてくれた二人の前で、初めて服の袖をまくった。

「お前、それ……」

 両手首にある真っ赤に擦れた輪っか状の傷。いくつかは青あざのようになっていて、昔の俺の抵抗が見て取れる。引いただろうか。

「……許せないな。悠長なこと言ってられないよ。警察に突き出そう」

「警察は……動けるだろうか。詳しくなくてすまん。ここまでされてたら児童相談所も動くだろうし、そっちが先のほうがいいかもしれないな。ともかく、勇気を出して逃げ出したお前は偉いし、岬を見つけて行動した橘も偉い。よくやった。もういいんだ。もういいんだよ、岬」

 俺は、汚いのに。母さんを救えなかったのに。優しくされる権利なんてないのに。

「冬哉、お前は悪くない。君が言ってくれた言葉だろ」

 視界が揺らいで鼻の奥がツンとする。母さんは俺を許してくれるかな。

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