第4話 善性、悪性
「刺した僕を」
「そう」
女は傷だらけの手を差し伸べた。僕はそれに応えるように、震える手を出した。
女の顔はなんとも言えない顔だった。ただ、自分に情けを与えた顔。その顔は、まるで慈悲を与えたシスターのようだった。
僕はがっちりとその手を掴んだ。
「あなたは正常な人間よ」
僕はがっと体を起こした。
「そういえば、あなたの名前を聞いてなかったわね」
「僕は直哉。志直哉だよ」
「いい名前じゃないの。私の名前は太宰捻。産んでくれた親に感謝しなさい」
捻は何も言わず、行き止まりの道と、そこに立ち止まっている俺を見もせず、背を向けて立ち去った。
僕は迷わず走って捻の後を追った。
「僕の症状を治すって、どうやって?」
捻は横にいる俺を見ず、ただ前を向いてこう言った。
「“治す”ってことが重要よ。治し方は後で決めなさい」
「そうなんだ」
「一つ気になることがあるんだけど」
「何?」
「なんで私を助けたの?」
「そうね。一言で言えば――あなたに興味があるの」
僕はその発言に興味を持った。要するにプロファイリングみたいなことなんだろうか。
「興味?」
「そう。私はあなたに興味があるわ。あなた、“性善説”と“性悪説”って知ってる?」
「いや、知らん」
「歴史や漢文を勉強していたら出てくるのよ。人は生まれながらにして善か悪か、という理論」
歴史か。全然わからない。
「あなたの行動には矛盾があるの。私を殺そうとした“殺意”と、私を助けようとした“善性”。この二つが交じり合っている。
もしあなたがただ通り魔から助けただけの善人か、それとも私を殺そうとした悪人か、そのどちらかだったら、私はあなたに興味を持たなかった。
でも、どちらも混じっている存在――純粋に私はあなた、直哉に興味がある。人間は最初から善なのか、悪なのか」
「俺は悪人だよ、生まれながらにして」
捻は僕と同じ歩幅で歩きながら、俺の方を向いた。
「でも、あなたの私を助けようとした行動は善だった」
僕は捻の発言にどうにも解せない点があった。
僕は最初から悪人だ。しかし、悪人を最後まで貫けるほどの悪意もない。中途半端なのだ、俺は。最後まで。
そうこうしているうちに家に着くと、捻と俺はドアを開けた。
「お兄ちゃん――うわ!昨日の人!」
妹がいた。妹はぎょっとしていた。捻の顔は美人だが、どこか幽霊のように感じたのだ。それも含めて、幽玄的な美しさを醸し出していた。
「いや、昨日はありがとうございました」
捻は深く頭を下げた。ほんとに姿勢の綺麗なお辞儀なので、よりいっそう罪悪感にかられる。
「いや、それよりもめっちゃ綺麗だね」
妹は捻の顔をずっと眺めていた。まるで生きている人間を見ていないように。
「ありがとうございます」
「いや、ほんとに傷は大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ。浅い傷なので」
そうこう話しているうちに親が現れた。父親も母親もびっくりしていた。
「昨日のあの通り魔、大丈夫なの?」
「昨日の件はほんとにありがとうございました」
捻はまたも深くお辞儀をした。僕はその光景にさらに心が締め付けられた。
「いや、ほんとべっぴんさんだねえ」
「ありがとうございます」
「いや、ここは“そんなことないです。お母様には敵いませんよ”とか言うところだよ」
妹がちゃちゃを入れた。
「はっはっは、今日は一緒に食事でもするか」
父親がそう言った。まるで昔の家庭に戻ったように――ただ、僕だけは違った。
そうして僕たちは捻を交えて食事をした。昨日まではずっと外で食事をしていた。というより、妹に迷惑をかけると思ってあまり家で食事をしなかった。
妹は不審がったが、家族は何も言わないので口を挟まなかった。
久しぶりに家族で食事をした。
「直哉さんは普段、どんな生活をしているの?」
捻が声を出した。
「そうだなあ。普通の子だよ」
父親が答えた。
「普通?」
捻は喉に骨が刺さったように言葉を詰まらせた。
「まあ、ちょっと普通じゃないところはあるが、別に悪いところはないよ」
父親は味噌汁で濁しながら言った。
「いやほんとに、あの時助かって良かったねえ」
「直哉さんとご家族のおかげですよ」
「いや、ほんとあの時はどうなるかと思ったよ」
「そういえばさ、包丁見なかった?」
僕と捻は一瞬ぎょっとした。妹が包丁のある場所を見ると、一本消えていた。
「いや、知らないなあ」
「そういえば、あの通り魔は各地で包丁や家の刃物を盗んだ上で刺しているらしいですよ」
捻は僕に疑いをかけられないように嘘をついた。
「えっ?じゃあ盗まれたってこと?」
「そうとは限りませんが、通り魔がいるのに無くなっているのは不自然です」
捻は冷静に、包丁の盗難被害があると口八丁で嘘を並べた。ここまで堂々とした嘘を言われたら、誰でも騙される。
「ええ、こっわ……」
僕は捻の隣に行くと、小声で言った。
「包丁、お前が取ったんじゃないのか?」
捻は首を振って違うという合図をした。
母親と妹はぎょっとした顔をしていた。僕は内心、このまま続けば最悪なことになると理解していた。
そして問題は、包丁が本当に無いということだ。僕も行方は知らない。あの時、誰かが取った?
僕の中に拭えぬ不信感が残った。
そうこうしていると食事が終わり、捻は帰ることになった。
捻は最後に俺に向かって、「明日、広場の前で待ってるわ」と一言言った。怪訝そうな顔で父親は俺たちを見ていた。
「ありがとうございました」
捻はまたも深くお辞儀をした。僕はその光景を見られず、少し目を逸らした。
「いやほんと、お兄ちゃん。いい女の子ゲットしたんじゃない?」
妹は僕の腕を小突き、ニヤニヤと笑った。
「そんなんじゃないよ」
僕の顔はどこか悲しんでいたのだろうか。まあ、どうでもいいか。
俺は風呂の準備をした。昨日から何も洗っていない。服には血がついている。これがすべて、僕が捻を刺した血なら――。
風呂に入ると、所在不明になった包丁や、自分の人生のことが頭をよぎった。
だけど、風呂で思い出すのは嫌な記憶ばかりだった。
「ねえ、直哉」
母親が扉越しに話しかけた。
「私ね、最初、血だらけの女とあなたがいるところを見た時、あなたのことを疑ったのよ。
またあんなことをしたのかって。
でも違ったわ。あの女の子はあなたに本当に感謝していた。
それで私は、疑った自分を責めたいの」
僕は何も言わず、浴槽に浸かりながら壁を見ていた。
「あなたは素晴らしい子よ。あの女の子を助けた、素晴らしい子」
そうやって“素晴らしい”“素晴らしい”だとか、褒め言葉を慇懃無礼にまで言うあたり――実際そうは思っていない人間が言うセリフだ。
「そうなんだ」
「そうよ。あなたはあの子の命を助けた素晴らしい子。だから、あの事件も――あなたのせいじゃないんでしょ?ほんとはあの女があなたに――」
「違うよ。僕のせいだ」
そうだよ。すべて僕のせいだ。なんなら、捻を刺したことも。
「ごめんね」
母親の影が扉越しに消えていった。
僕はあることを考えた。やはり僕がいなければ、みんな幸せだったのか、と。
風呂から出て着替えると、家のすべての部屋が暗くなっていた。
真っ暗なリビングに、父親がソファに座り、ザッと映ったり消えたりするテレビを見ていた。
僕はその姿を見て通り過ぎようとした。
「なあ、直哉。お前さあ、捻さんを助けたっていうが、何か隠してないか?」
父親はテレビを見ながら言った。
「隠してる?何を」
「最初、血まみれの捻さんを見た時、お前がやったように思えたんだよ。だから救急車を呼んだ後、自首しようかと思ったんだ」
父親はコップの水を少し飲み、僕に背を向けたまま続けた。
「でも、家族を考えるとできなかった。それに、捻さんはお前に感謝していた」
「うん、そうだね」
ザアーとテレビが映ったり消えたりした。顔の見えない父親は、何を見ているんだろう。
「なあ直哉。息子としてお前を信じていいんだな。お前は何も嘘をついてないんだな」
「ああ」
僕はその時、嘘をついた。嘘をついたほうが幸せだと思ったからだ。
「安心したよ。まあ、寝たほうがいい」
父親はちらつくテレビを見ながら、無感傷にそう言った。
俺はこの状況、罪悪感だとか、もうどうでもいい気がした。
そういえば国語の教科書で記憶に残っている話がある。夏目漱石の『こころ』の一節だ。
――最初から悪人はいない。段々と悪人になっていく。
じゃあ僕はなんなんだ?最初から悪人なのか?それとも善人なのか?
僕は悪人か?それとも……それ以下か?
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