第41話
12月31日。早朝。
俺は愛犬、ハルの首輪にリードを着け、朝の冷たい空気の中を散歩していた。吐く息は白く、アスファルトを叩く二人の足音だけが、やけに響く。
『……ご主人。何だか久しぶりね。私とご主人の2人っていうのは』
ハルは静かに言った。マメのようにリードを引っ張って進路を妨害することもなく、葵のようにカメラのことで電話しながら歩くこともない。ハルは常に、雪之丞のペースに完璧に同期していた。
「ああ。そうだな。葵とマメが来てからずっと賑やかだったからな。 偶にはこういった穏やかな時間も良いものだな」
俺は、心からそう感じていた。俺の求めていた「静かで整然とした平凡」が、今、ここに存在している。
『……そうね』
ハルの返事は短く、なぜか途中で言葉を飲み込んだような間があった。
俺は、それを深く追求しなかった。俺は、この「穏やかさ」に酔いしれていた。葵の「愛の業務」という非日常との戦闘状態から完全に解放され、マメの「神憑った騒音」からも遮断されている。
しかし、この穏やかさは、俺が過去に独りで暮らしていた時の「安息」とは、どこか質が違っていた。
以前の穏やかさは、俺自身が「選んだ孤独」であり、「平凡な自己防衛の境界線」の中にあった。だが、今の穏やかさは、「非日常(葵)が強制的にもたらした不在」によって生まれた、異常なほど完璧な静寂だった。
俺が愛する平凡とは、完璧な無音ではなく、低く抑えられた生活音の集合体だったはずだ。テレビのニュース、冷蔵庫のモーター音、ハルの寝息。それら全てが、葵の非日常的な質量という「嵐」によってかき消され、今、嵐が去ったことで、その「低音域の平凡」まで全て吸い取られてしまったかのようだった。
「静かすぎる……」
俺は思わず呟いてしまう。この街は、12月31日の早朝としては、あまりにも静かすぎた。
俺はハルとアパートに戻ると、いつものように最寄りのコンビニへと向かった。
年末年始は俺の会社は休みだが、俺は「平凡な秩序を保つ」ために、普段通りの時間に起きて、普段通りのルーティンをこなすことを義務付けていた。
コンビニの店内も静かだった。俺は、いつものように特売の微糖缶コーヒーの6缶パックを手に取り、レジに向かう。
(ああ、そうだ。今日はマメの分の高級鶏ささみを買う必要はない。葵が朝食に飲むという、あの高そうなフルーツジュースも買う必要はない)
俺は、レジの行列に並びながら、かつての「愛の業務」を振り返った。
日課1: マメの「ご褒美用の高価なジャーキー」を、近所の高級ペットショップまで買いに行く。
日課2: 葵がロケ先で「雪之丞さんの声が聞きたい」と電話してくるタイミングを見計らって、レジで商品のバーコードを読み込ませる瞬間に電話に出る。「俺は今、お前のための業務を遂行中だ」と無言で示すためだ。
日課3: 葵が忘れた「非日常的な高級化粧品」を、急いで宅急便で彼女の事務所に送る手配をする。
これらの「非日常的な愛の業務」こそが、俺の平凡なルーティンの「燃料」であり、俺に「平凡な日常の守護者」としてのアイデンティティを与えていた。
しかし、今は、俺のカゴの中にあるのは、ただの俺のための、平凡なものだけ。コーヒーと、大晦日の夜に食べる予定の、平凡なカップ麺だけだった。
「袋は要りますか」
店員の平坦な声が、俺を現実に戻した。
「ああ、要りません」
全てが速く、整然と終わった。
レジからアパートに戻るまで、誰にも会わず、何も特別なことは起こらない。これほど完璧に平凡な年末は、俺のアパートに葵が来て以来、初めてのことだった。
(完璧すぎて、恐ろしい。まるで、俺の存在そのものが、この街から切り離されたみたいだ)
大晦日の午後。
俺は、リビングで静かに事務作業の残りを行っていた。もう仕事は終わっているが、「やることがある」という状態を自ら作り出すことで、「平凡な秩序」を維持しようとしていた。
ハルは、いつも俺の足元で静かに丸まっている。
テレビは、大晦日にも関わらず、年末特番ではなく、地方局の「地元企業の歴史」という、極めて平凡で、誰も観ないようなドキュメンタリー番組が流れていた。
『ご主人。年越しそばは、どうするの』
ハルが言った。
「ああ。もちろん、カップ麺だよ。インスタントの。あの、葵が『日本伝統の非日常』とか言って、高級料亭から出前を取らせようとした、あの非日常的なそばは無しだ」
俺は、満足げに笑った。
俺は今、葵がいた時に「諦めていた」全ての平凡な行為を、達成している。しかし、その達成感は、すぐに空虚な満足感へと変わってしまった。
その夜、俺は一人、カップ麺を啜りながら、テレビの平凡な画面を眺めていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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今後とも拙作を宜しくお願い致します。
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