第38話
「呪怨」のオープニングから流れる、あの不気味な猫の鳴き声と不協和音は、500万円の結界が張られた部屋でも、全く威力を失っていなかった。
リビングの巨大な画面は、漆黒の闇の中、伽椰子の呪いの家を映し出している。
25歳の俺の隣には、22歳のトップ女優、神崎葵がいる。
葵は、強がってマットレスの真ん中に座ったものの、映画が始まって五分もしないうちに、その強固な決意が揺らぎ始めた。
「ね、雪之丞さん……。この家、本当に500万円の結界が張られているのよね?あの……伽椰子とか、この部屋には絶対に来ないわよね?」
葵の声は、すでにひどくか細い。俺の袖を掴む指先に力が入っている。
(来たぞ。これが、俺が求めていた「年相応の反応」だ!)
俺は、できるだけ平凡な安心感を与えるトーンで答えた。
「大丈夫だよ。あの霊媒師の先生は日本最強なんだろ?500万円も払ったんだ。こんな映画の幽霊なんて、この家の結界を破れるわけがない。安心して観ていよう」
俺は、「500万円」と「結界」という言葉を、彼女の不安を打ち消す呪文のように使った。葵は、その言葉を深く呼吸するように吸い込み、再び画面に目を向けた。
だが、恐怖は理屈では防げない。
場面は、あの有名な階段のシーン。静寂を破って、「カッ、カッ、カッ……」という、伽椰子の怨念のこもった特徴的な音が響き渡った、その瞬間だった。
「きゃああああああっ!!!」
葵は、トップ女優らしからぬ、素の、甲高い悲鳴を上げた。
彼女は、反射的に俺の首に腕を巻き付け、顔を俺の胸に強く埋めた。その力は、俺の首の骨が軋むほど強烈だった。
「ひぃっ、こ、来ないで……!雪之丞さん、見ないで!あの音、嫌っ!私、本当に無理なの!」
(成功だ……!この反応こそ、俺が求めていた「年相応の、普通の女の子の怯え」だ!)
俺は、女優の仮面が剥がれ落ちた、ありのままの22歳の葵の姿に、思わず平凡な感動を覚えた。同時に、その異常な腕の力に、俺の息が詰まりそうになった。
「わ、わかった。もうやめる、やめるから、少し……」
俺がリモコンを探そうとした、その時だった。
マメが、「ワン!」と鳴いた。マメは、画面に夢中な俺たちを構ってほしかったのだろう。 しかし葵はマメの鳴き声を猫の鳴き声と勘違いする。
「ひっ!? 猫の鳴き声が聞こえた!?」
必死な葵にとって、その不意打ちのマメの鳴き声(猫の鳴き声と勘違いした)は、伽椰子の息子の俊雄の鳴き声にしか聞こえなかった。
「俊雄!?まさか、結界を破ってこの部屋に来たの!?」
葵は、極度のパニックに陥った。彼女は、500万円の結界など、もはや存在しないかのように、俺の首に巻き付いたまま、マットレスの上で激しく暴れ始めた。
「逃げて!雪之丞さん、私たち、呪われちゃうわ!!」
その狂乱の力は、500万円を支払うトップ女優の非日常的なパワーそのものだった。彼女の小さな体からは想像もできないほどの力が発せられ、俺は、キングサイズマットレスの上で、制御不能なまま引きずり回された。
『ご主人!あの女、結界よりも強い怨念を持っているわよ!平凡な悪意の報いね!』
ハルは、俺たちの異常な暴れっぷりに驚き、布団の影からさらに奥へと隠れていった。マメは、依然として楽しそうに、暴れる葵の足元で遊んでいる。
映画は、まだ前半だ。
平凡な悪意で、非日常的な弱点を突こうとした俺の計画は、葵の狂気にも似た愛情と年相応のパニックという、ハイブリッドな非日常の力によって、肉体的にも精神的にも、最も危険な状況へと陥ってしまったのだった。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
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今後とも拙作を宜しくお願い致します。
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