第33話

「あの……すみません」


​俺がドアを開けると、店内には、蛍光灯の眩しい光と、カウンターの向こうに座る、いかにも「平凡」を絵に描いたような男性が一人。


彼は三十代半ばくらいで、眼鏡をかけ、ネイビーのジャケットを着ている。壁には、「地域密着」「親切丁寧」といった、安心感のある文字が貼られていた。


​この店なら、大丈夫かもしれない。そう直感した。


「いらっしゃいませ!本日はどういったご用件で?」


​店員は 安藤(あんどう)と名乗った。彼の声は穏やかで、俺の胃がこれ以上痛まないだろうと、妙な安心感があった。


「あの、実は、引っ越しを考えているんです。すぐにでも」


​「すぐに、ですか。はい、承知いたしました!差し支えなければ、今のお住まいの状況と、ご希望の条件をお聞かせいただけますか?」


​俺はカウンターの椅子に座り、ハルを足元に座らせた。


ハルは、周りの「平凡な空気」を警戒しているのか、微動だにしない。


​「ええと、今の部屋は1Kで、居室が6畳、ダイニングが2畳くらいです。築年数は……まあ、そこそこいってます」


​安藤さんはメモを取りながら、ニッコリと笑った。


「なるほど。一人暮らしの方ですね。今は手狭になったので、少し広めの1LDKあたりをお探しですか?」

​「……はい、そうです。1LDKか2Kくらいがいいです。ただ……」


​俺は言葉を選んだ。問題は、この「ただ」の後に続く、あまりにも非日常的な事情を、いかに平凡な言葉で伝えるかだ。


​「ただ、いくつか特殊な事情がありまして。それを、誰にも、絶対に、知られたくないんです。特に、今の同居人には」


​安藤さんは手を止めた。表情はまだ穏やかだが、眼鏡の奥の目が、少しだけ探るような色を帯びた。


​「同居人様、ですか。奥様やご婚約者様にサプライズで、という方もいらっしゃいますが……」


​「違います。サプライズじゃありません。あの、単刀直入に言います」


この人なら信頼出来る。俺の直感がそう告げている。 俺は前のめりになった。胃の痛みを無視して、できるだけ真剣な目つきで安藤さんを見た。


​「俺の同居人は、神崎葵なんです」


​安藤さんは一瞬、メモを取るためのペンをカチッと鳴らした。

その動作は、まるでテレビの音量を一瞬下げたかのように静かだった。


​「……あの、失礼ですが、『トップ女優の神崎葵』さん、でよろしいでしょうか?」


​「はい。その神崎葵です。葵は俺の恋人なんです。 彼女は、俺と離れたくないから、俺のアパートに居座っています。そして、彼女が持ち込んだ巨大な私物のせいで、俺の部屋が機能不全に陥っています」


俺は早口で、この数ヶ月の非日常な惨状を、要点を絞って説明した。


巨大テレビ、キングサイズベッド、業務用空気清浄機、そして毎晩の「密着業務」へのプレッシャー。


​「だから、俺は、彼女にバレずに、彼女の非日常を受け入れつつ、俺の平凡を確保できる、隔離スペース付きの物件を探したいんです。もし、この引っ越しが葵にバレたら、彼女は必ず『愛の業務』という名目で、タワーマンション最上階か、セキュリティ最強の高級物件を探して、俺を連れて行こうとするでしょう。そうなったら、俺の人生は終わりだ!」


俺は、我ながら「虚言癖のある狂った客」にしか聞こえない熱弁を振るってしまった。


​安藤さんは、カチカチとペンの音を鳴らしながら、数秒間、沈黙した。ハルは静かに、その会話を聞いている。


​『ご主人、どうやらあなたは、この男の平凡な理性を試しているようね。面白いわ』


ハルは心の中で冷徹に観察していた。


​やがて安藤さんは、ゆっくりと眼鏡を押し上げた。そして、真面目な顔で言った。


​「なるほど……わかりました。これは『トップシークレットな業務』ですね。私は、佐倉様の『平凡な日常防衛業務』を、全力でサポートさせていただきます」


​彼の目が、プロの不動産屋のそれに戻っていた。


「まず、物件の条件ですが、神崎様の非日常的な私物と、佐倉様の平凡な生活を分離するためには、最低でも2LDKは必要かと存じます。そして、最も重要な『トップシークレットな業務遂行』のためには、いくつか条件がございます」


​安藤さんは、ペンを走らせた。


​「絶対的セキュリティ」:オートロックや防犯カメラはもちろん必須ですが、それ以上に『藤村様(執事)の監視の目』から逃れるための、裏口や複数のアクセスルートが確保できる物件。


​「非日常からの隠蔽」:閑静な住宅街であること。高級タワーマンションなどの目立つ物件は絶対に避け、普通のマンションの角部屋など、「平凡」に紛れる物件。


「用途の分離」:広めのウォークインクローゼットやトランクルームなど、神崎様の「巨大な備品」を隠蔽し、佐倉様の「平凡な私物」を置くスペースを確保できる物件。 家賃については、佐倉様の予算内で、最優先で探します。ただ、この『トップシークレットなセキュリティとスペース確保』の条件を満たすとなると、競争率が高い物件になります。ただ一つだけ、今朝入ったばかりの極秘物件がございますが……」


安藤さんはそこまで言って、口を噤んでしまう。


「何か問題があるんですか?」


「……はい。 今朝入ったばかりの極秘物件なんですが……事故物件なんです」


「……事故物件ですか……」


「……はい、事故物件です」


まぁ俺には霊感は無い。0だ。 今までそう言った類の物は感じた事も無いし見た事も無い。


だから


「そこの間取り図を見せて貰えませんか?」


安藤さんは、一枚の図面をカウンターの上に出した。


​「築40年の、少し古めのマンションの最上階。3LDK、家賃は佐倉様の予算内です。エレベーターが片側にしかなく、非常階段からのアクセスが容易。そして、壁が厚いため、隣室への『密着業務の物音』も、気にしなくて済むかと思います」


​「3LDK……」俺は、思わず息を飲んだ。 


​「はい。キングサイズベッドを寝室に、巨大テレビをリビングに配置しても、佐倉様の『平凡な書斎』を確保できるスペースです。ただし、築年数が古いし、事故物件ですので、神崎様が嫌がる可能性が高い。これこそ、『非日常の愛』から逃れるための、最高の『平凡な隠れ家』ではないでしょうか……事故物件がネックですが」


​安藤さんは、本当に良いの? みたいな顔をした。その表情は、俺の事をとても心配している表情だった。


​俺は、深く頷いた。


​「お願いします。その物件を、すぐに内見させてください。葵のスケジュールが空いていない明日午前中に」


​俺は、自分の平凡な生活と、葵への切ない思いを背負い、「秘密の引っ越し業務」という、人生最大のミッションに踏み出したのだった。




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