第22話

11月23日、金曜日。


​今日は、トップ女優・神崎葵の誕生日だ。

そして、俺の平凡な愛の逆襲を決行する日だ。


​朝、葵は地方ロケへ向かうため、早朝に家を出た。マネージャーの葛城さんと運転手の柊さんが連れ立って迎えに来ていた。


葵は出発前、俺にいつもの熱烈な抱擁と、漢方茶の飲用業務命令を残していった。


​「雪之丞さん、夜には帰るからね。今日の業務は、『私がいなくても、寂しさに耐え、胃を痛めないこと』よ。いいわね」


​(寂しさに耐える業務!? なんじゃそりゃ!?)


葵の業務命令を背中に受けながら、俺はリビングに戻った。古いソファが運び出され、新しいソファが運び込まれるという極秘任務は、ハルの「マメ封じの甘い罠作戦」によって完璧に成功した。


​リビング中央には、ベージュ色の、何の変哲もない、本当に平凡な二人掛けの新しいソファが鎮座している。


価格は9万8千円。


葵が日頃目にするものの中では、最低ランクの安価なものだろう。


​俺は、その平凡なソファを眺めながら、満足のため息をついた。これこそが、葵さんの非日常的な愛に対する、俺の「平凡な日常の共有」という回答だ。


あとは、サプライズの仕上げだ。


​俺は、ソファの前に置いた小さなコーヒーテーブルに、ささやかなものを置いた。


​一つは、「皆が大好き銀色のパッケージのビール」の缶。

これは、葵さんが「週二回まで」と制限している恵比寿様のビールではない、本当にどこにでも売っている、安い方のビールだ。横には、俺の胃薬といつものグラスを並べる。


​もう一つは、手書きのメッセージカード。


​『葵へ。いつもありがとう。愛してる。このソファで、これからも平凡な夜を過ごそう。雪之丞より』


……愛してるは流石に恥ずかしいかな。でも良いか。


そして、最後に、俺が会社から持ち帰った平凡な文房具と、書きかけの企画書をソファの座面に無造作に置いた。


​(よし。完璧だ)


​高級なプレゼントや豪華なディナーを用意するのではなく、「葵が、俺の平凡な生活の中に、強制ではなく、自ら入ってきてもらう場所」を演出する。それが、俺のサプライズだ。




午後9時。


​仕事から帰ってきた葵を、玄関で迎えた。ロケで疲れているはずなのに、葵の顔は驚くほど輝いていた。


​「ただいま、雪之丞さん! あなたの匂いがする! 今日の業務はちゃんとこなした?」


​「ああ。ちゃんと、胃薬を飲んで、寂しさに耐えた業務を遂行したよ」


​葵は満足そうに微笑み、すぐにリビングへと向かった。


そして、リビングの扉を開けた瞬間、時が止まった。


​葵の視線は、まずリビング中央の新しいベージュのソファに釘付けになった。

それから、テーブルに置かれた銀色のビールと胃薬、そしてソファに置かれた手書きのメッセージカードと、平凡な企画書へと移った。


​彼女の顔から、トップ女優のプロの笑顔が消えた。代わりに浮かんだのは、驚き、そして困惑、そして……微かな緊張だった。


​「雪之丞さん……これ……」


俺は、ドキドキしながらも、平静を装って言った。


​「誕生日、おめでとう、葵さん。大したものじゃないけど、気に入ってくれると嬉しい」


​葵さんは、何も言わずにソファに近づき、メッセージカードを手に取った。ゆっくりと、文字を追う。


​『葵へ。いつもありがとう。愛してる。このソファで、これからも平凡な夜を過ごそう。雪之丞より』


​そして、カードをそっとテーブルに戻し、ソファの座面に手を置いた。


「このソファ……前のものより、座り心地が良さそうね」


​「ああ。ハルから聞いたよ。『膝枕のクオリティが向上しない』って不満を言っていたって」


​葵の頬が、ほんのり赤くなった。「ハルが余計なことを!」と焦る表情は、トップ女優・神崎葵ではなく、普通の女性・葵のものだった。


ハルは ” してやったり! ” の顔をしている。


​「それで……この銀色のパッケージのビールと、胃薬は?」


​葵は、テーブルを指差した。声が少し震えている。


「あれは、俺の平凡な日常の象徴だ。いつも、葵さんは俺の健康を管理して、豪華な手料理を作ってくれる。それは嬉しいけど、今日は、葵さんに、俺の普通の日常を味わってほしかった」


​俺は、意を決して、葵さんの前で、その銀色のビールの缶を開けた。


​「葵さん。今日は、『俺が選んだ平凡な業務』を遂行してほしい」


俺は、最高の笑顔で言った。


​「最高のソファの上で、俺の膝を枕にして、どこにでもあるビールを飲みながら、俺の愚痴を聞いてくれるという『平凡な業務』だ。 どうだ? トップ女優・神崎葵さん」


​葵さんは、その言葉を聞いて、目を大きく見開いた。そして、次の瞬間、トップ女優の仮面は完全に崩れ落ちた。


​彼女の大きな瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


「雪之丞さん……」


​葵は、ゆっくりと、新しいソファに腰を下ろした。


そして、俺の手から、開けたばかりの銀色のビールの缶を受け取った。


​「……こんなの、私の想像した最高の誕生日より、ずっとずっと、特別よ」


​葵さんは、ビールを一口飲むと、俺の足にそっと頭を乗せた。


​「わかったわ。平凡な業務、ね。その業務、喜んで遂行するわ。今日は、あなたの『膝枕のクオリティ向上担当』として、朝まであなたの愚痴を聞いてあげる。それも、私からの愛の業務命令よ」


俺は、膝の上に横たわる、世界で最も有名な女優の頭を、優しく撫でた。


彼女の髪は、ロケの後の少し汗ばんだ匂いがした。


​(平凡な愛の逆襲、成功だ……!)


​俺の胃は、ビールを飲んだのに、なぜか全く痛まなかった。


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