第17話
CMがテレビで流れ始めてから数週間。俺の会社、サンライズ・ビバレッジは文字通りお祭り騒ぎに包まれていた。
「神崎葵」というネームバリューの付いた新製品は、飛ぶように売れた。
営業部からは感謝状の嵐だ。朝礼では社長が「神崎様のおかげだ! 彼女は当社の福の神だ!」と、興奮しすぎて社員の前で小躍りしていた。
俺はといえば、広報としてCM撮影に立ち会ったというだけで、社内での扱いが以前とは全く変わってしまった。
社内メールには「佐倉くん、今度神崎さんの秘話を聞かせてくれ」「トップ女優の膝枕はどうだった?」といった、半分冗談、半分嫉妬のメッセージが殺到している。
そして、そのCM大成功の記念として、普段は絶対に行われない金曜の夜の慰労会が決定した。
場所は、部長が予約した少し高級な居酒屋だという。
木曜の夜。
俺はアパートの玄関を開けた瞬間、心地よい出汁の香りと、トントンという小気味いい包丁の音を聞いた。
『ご主人! お帰りなさい! 今日は警戒警報ゼロ! 良い事だわ!』
ハルが尻尾を振って出迎え、マメはいつものように台所の隅で丸くなっている。
リビングに入ると、ピンクのエプロン姿の葵が、楽しそうに鼻歌を歌いながら、魚を捌いていた。
「雪之丞さん、お帰りなさい♡ 今日はサンマの塩焼きよ! DHAとEPAが豊富だから、雪之丞さんの疲れた脳に最高なの!」
俺はいつものように手を洗いながら、ふと疑問に思っていたことを口にした。
「なぁ、葵さん。いつも思うんだけどさ……」
俺は躊躇しながら尋ねた。
「君、本当に大丈夫なのか? トップ女優なんだろ? 仕事のスケジュールはパンパンなんじゃないのか? なのに、毎日毎日、こうして俺の家に通い妻みたいに来て、朝晩ご飯を作って、って……」
葵はサンマをグリルに入れ、手を拭きながら俺の方に向き直った。その笑顔は、CMで見るような完璧な笑顔ではなく、俺の前だけで見せる、無防備で柔らかい笑顔だった。
「ふふ、雪之丞さんは優しいのね」
葵は俺の顔に手を伸ばし、頬を優しく包んだ。
「大丈夫よ。むしろ、今はこれが私の仕事のエネルギー源なの」
彼女の声は、どこか寂しさを帯びていた。
「考えてみて。私は毎日、カメラの前で誰かが作り上げた『神崎葵』を演じているのよ。完璧で、クールで、何でもできて、孤独な女王様。でも、それは私じゃない」
葵は、俺の肩にそっと頭を乗せてきた。
「このアパートに来て、雪之丞さんに『おかえり』って言って、料理を作って、『おいしい』って食べてもらう時間だけが、『雪之丞さんの大切な人』という、本当の私に戻れる時間なの」
「……葵」
「それにね、マネージャーの葛城さんがね、言ったのよ。『葵様。佐倉様との生活は、葵様にとって最高のデトックスになっているようです。肌の艶も、表情も、以前よりずっと自然で、人間味が増しました。この生活を続けることが、女優・神崎葵のクオリティを維持する最良の業務だと判断しました』って」
葵は得意げに胸を張った。
「ほらね? だからこれは、『私の女優としてのクオリティを維持するための業務命令』なのよ。誰にも文句は言わせないわ」
結局、彼女の行動のすべては、「愛の支配」か「業務命令」という、二つの絶対的な論理で構成されているのだ。だが、その根底にあるのが、「孤独なトップ女優が、平凡な日常に居場所を求めている」という切実な理由だと知ると、俺は強く拒否することができなくなっていた。
「……そっか。まぁ、葵さんが疲れてないならいいけど」
「全然疲れてないわ! それより、明日よ、明日!」
葵は顔を上げ、目を輝かせた。
「明日って?」
「CMの慰労会でしょ? 私、その話、葛城さんから聞いてるわよ」
俺は驚いた。
「え、もう知ってるのか? 広報の俺より情報が早いな」
「当たり前でしょ。サンライズ・ビバレッジのCM主演で、雪之丞さんの会社の慰労会なんだもの。私はもちろん、参加するわ!」
「はあぁぁ!?」
俺は思わず叫んだ。流石に、社長や部長だけの、ただの会社の慰労会に、トップ女優が来るわけがない。
「いや、ちょっと待て。あれは、部長や専務たち役員と、CMに携わった社員だけの、ただの居酒屋での集まりだぞ。葵さんが出るような場所じゃないだろ!」
「何を言ってるの、雪之丞さん」
葵は、今度はトップ女優の顔に戻っていた。
「新製品の成功は、主演女優である私の功績よ。その慰労会に、主演女優が出席しないなんて、失礼極まりないわ。社長たち役員の方々だって、私に直接、感謝の言葉を述べる機会を求めているはずよ」
「いや、そうだけど、そうだけど……」
頭の中で、居酒屋の狭い個室で、青と白の衣装のまま輝く葵さんの隣に座らされ、役員たちから「佐倉くん、神崎さんによくしてあげろよ!」と冷や汗をかきながらビールを注がされる自分の姿が鮮明に浮かび、再び胃がキリキリと痛み出した。
「大丈夫よ、雪之丞さん」
葵は、俺の腹のあたりを優しく撫でた。
「これは、あなたの会社への、トップ女優としての義理立て。そして、何より、あなたが他の女性社員と飲んでヘラヘラするのを阻止するという、私自身の重要な業務よ」
(結局、それかよ!)
俺は心の中で叫んだ。
「いい? 明日の慰労会は、公開イチャイチャの場となるわ。雪之丞さんは、誰にも目をくれず、ただ私の隣で静かにデミグラスソースの煮込みハンバーグ……じゃなかった、居酒屋のつまみを食べるの。それが、私からの業務命令よ」
俺は、逃げられないことを悟った。明日の夜は、CM撮影の比ではない、地獄の戦場になる。
俺は、食卓に並べられた美味しそうなサンマの塩焼きを見つめた。
「あの……葵さん。明日の慰労会、俺の胃が持つように、今日の夕食は消化にいいものを追加してもらってもいいだろうか……?」
葵さんは、ふふっと笑い、「仕方ないわね。特別に大根おろしを追加してあげる」と、微笑んだ。
(これで、明日の居酒屋メニューと、役員たちの熱視線に耐えられるのだろうか……)
俺の平凡な胃袋と、トップ女優の愛の業務命令との戦いは、明日、居酒屋の個室でクライマックスを迎えるのだった。
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