第9話
とりあえず俺はお茶を淹れる為に台所に行き、急須に茶葉を入れてお湯を(T-falで沸かしたお湯)急須に注ぐ。 そして湯呑み(2人分)に蒸らしたお茶を注ぎ、湯呑みをお盆に置き、お盆を持ってリビングへ戻った。 お茶と言えばコーヒーか紅茶だと思っただろ? 違うんだな。俺はお茶と言えば緑茶なのだ。 異論は認めん。
俺がお茶を淹れている間、葵はリビングにあるテーブルに設置してある椅子に座っていた。ちょっとだけ落ち着かない様子だ。 やはり、庶民の部屋は落ち着かないのだろう。
「粗茶だけど、良かったらどうぞ」
俺はお茶が入った湯呑みをテーブルの上に置く。
「ありがとうございます。遠慮なく戴きます」
葵は湯呑みを手に持ちそっと口を着けた。
「……美味しい。久しぶりに緑茶を戴きました。やっぱり緑茶は美味しいですね」
「口に合ったみたいで何よりです」
トップ女優だから庶民の飲むお茶は口に合わないと思ってたから少しだけホッとした。
俺も葵の対面に設置してある椅子に座る。 そして湯飲みのお茶を1口。
やっぱり旨いな。 俺ってもしかしてお茶淹れるの上手かも♪ と自画自賛する。
リビングは2人がお茶を啜る音だけが響き、後は沈黙が流れる。 き、気まずい。何か話題は無いものか。
すると葵が
「……もう無理です」
「え?」
「もう限界です。 雪之丞さん、私、素を出して良いですか?」
「へ? 素…ですか?」
葵は何を言っているのだろうか? そう疑問に思った瞬間
「疲れた~! やっぱり堅苦しく威圧的な喋り方は無~理~! 雪之丞さんに大人の女性アピールしたくてそんな喋り方してたけど、やっぱり無~理~!」
へ? あの喋り方は演技だった!? う、嘘だろ!?
俺が硬直していると、葵は両手で顔を覆い、椅子に深く沈み込んだ。
「あーもう、疲れた! 普段、仕事で威厳のあるキャラを演じているから、プライベートくらいは解放されたいのに、雪之丞さんの前で変な女だと思われたくなくて、つい頑張りすぎちゃったぁ!」
その声は、テレビで見る神崎葵の「クールな女王様」というイメージとはかけ離れた、ごく普通の、少し甘えん坊な、二十代前半の女性の声だった。
「か、神崎さん……その……」
「あ! 名字呼びはやだ! 素の時は『葵』って呼び捨てが良い! っていうか、呼んで! ねぇ、雪之丞さん!」
葵は、両手をパッと広げ、まるで幼馴染のように屈託なく笑った。その姿は、俺の会社にマネージャーを送りつけ、体質まで調べ上げた恐怖のストーカーとは、同一人物だとは到底思えなかった。
(……って、ちょっと待て!)
俺はマメとハルに視線を向けた。
『あ~あ。ママの素が出ちゃったよ』マメは呆れた感じで、葵を見ている。 ハルのご機嫌を取りながら。
ハルはテーブルの縁に前足をかけ、『あの威圧感が演技だと!? まさか、あの女は私よりも格上、本当の演技派だと!?』と、顔を青ざめさせていた。ハルの警戒心が、「恐怖」から「混乱」、そして「警戒すべき演技力」へと変わったのが分かった。
「いやいや葵さん! 演技だったとしても、やったことは演技じゃないだろ!? 会社に問い合わせたり、俺の病歴調べたり、家の前に黒塗りの車つけたり! それ全部、本気で俺を追い詰めていたじゃないか!」
俺が思わず立ち上がって抗議すると、葵は上目遣いで俺を見つめた。
「え~? だって、雪之丞さん、警戒心が強すぎるんだもん! 普通に『連絡先教えてください』って言っても、絶対逃げちゃうと思ったし、それに雪之丞さんの生活、見てて、ちょっと危なっかしいんだもん」
「危なっかしいって!?」
「だって! 昨日の夜も、胃が痛いのにドラッグストアで適当に薬買おうとしてたんでしょ? しかも、『タンニン酸アルブミン』が入ってるか、いちいち成分表とにらめっこして! 疲れるじゃない! 私が全部管理したほうが、雪之丞さんの健康にも、絶対いいって!」
葵の言葉は、恐ろしいほどに理路整然としていた。彼女の中では、俺のプライバシー侵害=愛情表現であり、俺の生活管理=最高のサービスなのだ。
「そんな理由で、人のプライバシーを……!」
「プライバシーって言うけど、雪之丞さんが私を助けてくれた時点で、私たち、運命共同体になっちゃったんだよ? だから、私にとっては雪之丞さんの情報は全部、自分の健康情報と同じくらい大事なの!」
葵はそう言うと、持っていた湯呑みをテーブルに置き、急に真面目な顔になった。
「あ、でも、雪之丞さんが私のことを『友達』としてでも警戒するのは嫌だから……提案があるの」
俺は身構えた。どうせまた、どこかへ連れ去るための新たな企みに違いない。
「私、雪之丞さんのアパートに『通う』ことにするね」
「通う?」
「うん! 私、これから毎日、雪之丞さんのアパートに来て、雪之丞さんの生活をサポートする! 具体的にはね――」
葵は、指を折って数え始めた。
「まず、朝ごはん! 雪之丞さんはいつもコンビニで済ませてるでしょ? だから私が毎朝、雪之丞さんが出社する前に来て、栄養満点の朝ごはんを作る!」
「はぁ!?」
「それから、お弁当! 昼休みも栄養は大事だから、朝作ったお弁当を雪之丞さんに持たせる! そして、晩ごはん! 雪之丞さんが帰ってくるまでに、私がご飯を作って、一緒に食べる!」
「ちょっと待ってください! それはまるで……」
「そして、一番大事なのが、ハルちゃんのお散歩! 雪之丞さんが会社に行っている間に、私がハルちゃんとマメを連れて、広い公園に連れて行ってあげる! ハルちゃん、きっと喜んでくれるよ!」
『喜ぶわけないでしょうが! あんな駄犬と一緒になんか!……ていうか、本当に毎日来る気!?』ハルは、驚愕と絶望に満ちた声を上げた。
「……それは、まるで通い妻じゃないですか!」俺は絞り出すように言った。
葵は、「通い妻」という言葉に頬を染め、嬉しそうに微笑んだ。
「えへへ、そうかな? でも、そう呼ばれてもいい! 私、雪之丞さんの専属マネージャー兼、専属シェフ兼、専属ドッグウォーカーになる! そしていずれは……えへへへ//////」
「そんなこと、あなたの仕事に差し支えるでしょう!?」
「大丈夫! 私は今、長期休暇に入っているから! スケジュールは空いているから、丸々一週間、雪之丞さんに尽くせるよ!」
再び、完全に脅迫だった。毎日朝から晩までトップ女優がアパートに通い、全ての生活を管理する。拒否すれば、「素」の葵ではなく、あの「威圧的な女王様」が、毎日アパートの前で待ち構えることになるだろう。
俺は頭を抱えた。同棲は免れたかもしれないが、これは同棲以上の「四六時中の生活支配」ではないか。
「……わかりました。一週間だけ、試してみます。ただし、俺の仕事と、ハルの生活リズムだけは乱さないでください」
俺が観念してそう告げると、葵は歓喜の声を上げて椅子から立ち上がった。
「やったー! 決まりだね、雪之丞さん! 一週間じゃなくて、一生、頑張るね!」
葵の笑顔は、太陽のように輝いていた。だが、その言葉には、一切の妥協を許さない強固な決意が込められているのを感じた。
「じゃあ、私、もう帰るね! 明日の朝ごはんに備えて、これから最高の食材を買いに行かなくちゃ! マメ、行くよ!」
『ママー! もう帰るのかよ~! 』マメは不満そうに葵に訴える。
葵はマメの頭を撫で、「明日また来るから大丈夫よ」と優しく言った。
『……ハル、じゃなくて、姐さん!また明日遊んで下さい!』マメは、ハルに向かって、怯えと尊敬の混じった視線を送りながらそう言った。
『あんたなんか、一秒たりとも歓迎しないわ!』ハルは低い唸り声で返したが、マメには聞こえない。
俺は、自分のアパートに、葵とマメがタクシーで帰宅していくのを見送るという、超非日常的な光景を目の当たりにした。
(ああ、俺の人生……通い妻なんて生易しいもんじゃない。これはもう、トップ女優による生活密着型監禁だ……)
俺とハルは、誰もいない部屋で、静かに顔を見合わせた。
そして1人と1匹は深い溜め息を点いた。
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