【第一章:ブローグン王国篇】
第5話 『揺らぐ星々』
《青年期の入り口》
⸻
炉の火は、その日もゆっくりと息をしていた。
橙の光が壁の鉄器を照らし、ゆらぎの中で形を変える。十五を越えたばかりのマーカスは、その呼吸のような明滅に合わせて槌を振るう癖がついていた。
火の色──その僅かな差だけで、鉄がいま何を求めているのかが分かるようになってきたのだ。
街では最近、こう噂される。
「若いのに腕がいい。あの師匠の跡を継ぐんだろうさ」
「真面目だしな。鉄が好きって顔をしてるよ」
誉め言葉は温かい。だが胸の深いところで、どうにも沈む影が取れなかった。
師匠──ドレイアスが、留守にする日が増えてからだ。
理由は言わない。置き手紙すら残さない日もある。
ただ、夜になるとふいに帰ってきて、黙って炉の火を見つめる。その背中に疲労よりも、もっと別の重みが沈んでいるのを、マーカスは言葉のないまま感じていた。
街の噂は、断片だけを運んでくる。
「最近あの爺さん、占い師のところに通ってるってよ」
「いや、古書店で星図の古い巻物を探してたぞ」
「黒樹の樹皮を買ってったらしい。森の呪術に使うもんだろ、あれ」
どれも真偽は不明だ。だが、知らなかった。
師匠がこういうものに興味を向ける姿を、マーカスはこれまで一度も見たことがなかった。
(…何を、調べてるんだ)
問いは胸に浮かぶ。だが口には決してのぼらない。
理由は分からない。ただ、聞いてはいけない、という感覚だけがあった。
そんな変化を抱えたまま、日々は過ぎていった。
鉄と向き合う時間は以前より長くなった。
ときどき、鉄に触れても冷たさを感じないことがあった。気のせいと片づけられる程度のことだが、胸の底で小さな波紋を残した。
外では、季節の境目が街にさざめきを運んでいた。
山風は方向を迷い、屋根の風見鳥はときどき北を指さなくなる。
夜になると、普段は静かな街犬が、遠く誰かを呼ぶように短く吠えた。
気のせいだ、と言われれば頷ける程度の異変。
だが、そのわずかな乱れが積み重なって、世界のどこかが微かに軋んでいるような、不吉な湿度だけが残った。
──そんな頃からだ。夢を見るようになったのは。
翡翠色の星が、暗い空のただ一つの灯として瞬いている。
緑光は冷たいのに、なぜか胸の奥がざわめく。
視界には黒樹の森が横たわり、以前に見た石碑の影が、夢の中で淡く輪郭を揺らしていた。
森のずっと奥に、門のような闇があった。
その前を、ひとりの少女が歩いていく。
顔は見えない。声もない。
それでも、懐かしい気配だけが奇妙に残る。
夢は恐ろしくない。
むしろ、静かな水底に沈むような深い静寂があった。
⸻
夢が続いたある晩、作業を終えようと炉の火を落としかけた時だ。
左肩の調律印が、突然、脈打つように熱を帯びた。
熱──ではない。
灼ける痛みとも違う。
もっと奥、骨のさらに内側から引かれるような痛みが走った。
「……ッ、あ……ぐ……!」
槌を落とし、膝が勝手に床を打った。
息が乱れ、視界が揺れる。
痛みの奥には、はっきりと何かの気配があった。
呼ばれている。
そうとしか言えない感覚だった。
恐怖と懐かしさの、そのどちらにも触れきれない場所で、
名前のない声が、そっと肩を掴んで引こうとしている。
「……誰……だ……」
呼び声は言葉にならない。
だが、確かに“こちら”を見ていた。
その瞬間、外から――
カタ、と屋根の風見鳥が振り向く乾いた音がした。
方角が揺れた。
空気がどこか、世界の縁で歪むようだった。
痛みはさらに深く潜り、胸の内を締め上げる。
逃げられない。
拒絶もできない。
ただ、その“呼び声”が何であるかを、
理解するにはあまりにも早すぎる――そう思った。
呼び声は、ただの夢ではない。未来の大陸封印を揺るがす、遠い力の片鱗──そういう存在からの呼び声だったのだと、後に知ることになる。
その時だった。
ガチャ、と扉の金具が鳴った。
夜気をまとったドレイアスが立っていた。
マーカスの姿を見るなり、目を大きく見開き、そのまま歩み寄る。
「し、ししょう……ッ……!」
言葉にならない声が喉に詰まる。
印の痛みがまだ残っていた。
ドレイアスは何も言わなかった。
ただ膝をつくようにしてマーカスの横にしゃがみ、その左肩に大きな掌を置いた。
掌は、僅かに震えていた。
咎めるようでも、慰めるようでもない。ただ――
“分かっている”
“まだ言えない”
“だが、ここにいる”
その三つを同時に抱いた沈黙だった。
「……師匠……俺、どうすれば……」
声の先は震えていた。
息の残滓には、涙の気配さえ混じった。
だが、ドレイアスは答えなかった。
ただ、肩に置いた掌にゆっくりと力を込める。
その沈黙こそが回答である――
ただの慰めではなく、未来に彼が歩むべき“封印の軌道”への暗示でもあった。
外では風の向きが律を失い、
空の星々がほんのわずかに明滅を乱した。
世界が揺らいでいる。
だがそれを告げる言葉は、まだどこにも置かれない。
⸻
◆◆◆ 章末詩 ◆◆◆
翡翠の灯は
まだ名を持たず
ただ遠く
ただ静かに
彼を呼ぶ
門の影は
未生の記憶を抱いて
いまは静かに
いまは深く
眠りに沈む
その呼び声を
世界はまだ
知らない
だが、それはやがて
大陸を揺るがす軌跡の始まりとなる
─────
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