原初世界の未語の断章

羅翕

日本語版

旧時の花

それは――遥か、遥か昔の物語。


時流に忘れられ、時の記録に埋もれし、幾多の物語が一つである。



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暁の光が昇り、遠くから初鐘の音が響く。


小さな村の農夫たちはその音に目を覚まし、それぞれ鍬や鋤を担いで畑へと向かう。陽が田畑を照らしはじめるころ、金色に染まる麦穂と、風に浮かぶ草帽の影が長く伸びていった。


白衣の神官たちが田の脇を通る街道を進んでいく。


その姿を見つけた農夫たちは慌てて腰を伸ばし、声を張り上げて挨拶した。


「ロトさま!」


「ロトさま、おはようございます!」


幾人かの村の女たちは、自家の卵や漬け肉を籠に詰めて差し出す。


先頭のロト神官はそれを軽く手振りで受け流し、部下に受け取らせて後で倉にまとめて収めるよう命じた。


農人たちの敬意を存分に味わったのち、ロトは他の下級神官や信徒を率いて神殿へと向かう。


それはこの小村には不釣り合いなほど精緻に造られた、美しく荘厳な建物であった。


聖池には真白な聖花が群れ咲き、風にそよいで香気を放つ。ロト神官の導きのもと、人々はロトゥス神の像に祈りを捧げ、神より授かった力と祝福を仰いだ。


ロトは中位神官のひとりを指名し、衣を脱ぐよう命じる。


選ばれた神官は誇らしげに胸を張り、ロトは剣を手に取り、容赦なくその身に振り下ろした。神官は眉をしかめたが、肌にはかすり傷ひとつ残らない。


奇跡を目の当たりにした神官や信徒たちは歓声を上げ、ロトは満足げに微笑んだ。



ロトはもとはロトゥス本教に仕える一介の神官であった。しかし幾つかの事情から本殿を離れ、自らの教団を興すことを決意する。


その途上、偶然にもロトゥス神と交信を果たしたという。こうして彼はこの村に至り、自らの教団を築き、信徒を集めた。


この地では、彼はすべてを為す者――神の下に唯一立つ王であった。


己は選ばれし者であり、いずれ名を歴史に刻む偉業を成すと、信じて疑わなかった。



……もしも賢者がこの光景を見れば、きっと苦笑を漏らしたであろう。


だが、生涯を凡俗として終える人々にとって、異界の理に触れることなどない彼らにとって――


それは確かに、目の前に現れた本物の「神の奇跡」だった。


信仰は人の心より生まれる。


ゆえに、人は神を創り出す。


たとえその「神」と呼ばれるものが――真に神と呼ぶに値する存在でなかったとしても。



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ヤーシエ大陸に栄えたプセレン帝国は、かつては強大を誇った帝国であった。だが、その往日の輝きはすでに薄れつつあった。


女帝アメニヤカが政権を握ったころ、帝国はすでに衰退の途にあった。彼女はかつての繁栄を取り戻そうと、さまざまな策を講じたものの、その多くは一時しのぎに過ぎず、狭量な視野はむしろ事態を長期的な混乱へと導く結果となった。


外交においてもそれは顕著だった。弱き者には発言権がない。


国力の衰えたプセレン帝国は、エライエンス邦国との新たな条約交渉において、もはや有利な条件を引き出すことなど叶わなかった。さらに悪いことに、エライエンス邦国内部からも異なる声が上がりはじめる。


「この広大で豊かな大地を、老いた女帝に委ねておくのは非効率だ。我らが顧問を派遣し、新たな帝を擁立すれば、より革新的な政治と技術によって帝国を導き、両国の交流を加速できるだろう」――そう主張する一派が現れたのだ。


主流派の意見ではなかったが、その噂はやがて女帝の耳にも届いた。


内政干渉を思わせるその提案に、アメニヤカ女帝は激怒し、エライエンス邦国との関係は急速に悪化する。両国のあいだに衝突が増え始めたちょうどその頃、ロトゥス教という新興の宗教が頭角を現した。



はじめは、都の片隅で囁かれる程度の噂にすぎなかった。だが、ロトゥス教とエライエンス邦国の衝突が激しくなるにつれ、「反乱分子に関する報告書」が女帝の御前に届けられる。


報告を読み終えた女帝は、そこに記された「神秘の力」に強い興味を抱いた。そして彼女は、即座に討伐を命じる代わりに、その教団の指導者ロトらを都に召し寄せるよう命じたのだった。


女帝からの召見――それを聞いたロトたちは有頂天になった。もしこの機会に女帝の信任を得られれば、自らの信仰を「正義」として掲げ、堂々とエライエンスの民を討つことができるのだ。


この重大な機会に、ロトは一切の手加減をしなかった。「真なる神威」を証明するため、使用する武器も、試し斬りの者も、その手順すらすべて女帝と大臣らに選ばせた。彼らが為すべきことは、ただ「祝福を受けた不壊の身」を示すことのみ。


王室親衛隊の兵が、精鋭の鋼刀で何度も何度も斬りつけた。だが、ロトたちの身には傷一つつかない。列席していた大臣たちは騒然とし、女帝の軽挙を批判していた者でさえ、目の前の光景を前に言葉を失った。


アメニヤカ女帝は満足げに微笑み、彼らに褒賞を与えると、皇室の庇護を明言して下賜の品とともに送り返した。興奮の面持ちで都を去るロトらの背を見送りながら、女帝はしばし沈黙する。



――ロトゥス教は使える。


信仰は過激で制御しがたいが、「敵の敵」はまたとない駒でもある。

エライエンスを討てばよし、エライエンスが彼らを滅ぼしてもよし。

双方が消耗すれば、それが最も望ましい結末。


女帝はその狂信の炎を、あえて放置することを選んだ。


やがて災厄は、エライエンス邦民が往来する幾つもの交易都市へと――静かに、確実に広がっていった。



権力者の黙認を得たロトゥス教は、もはや抑えを失っていた。


相手が平民であろうと関係なく、ただエライエンス邦民の血を引き、その面差しを持つというだけで、彼らの襲撃対象となった。


「外敵を駆逐する聖なる使命」――その名の下に、殺戮や追放が繰り返され、奪い取った財貨は「神への捧げもの」として教団に積み上げられた。その狂気は瞬く間にエライエンス邦民のあいだに恐怖を広げ、誰もが次に狙われるのは自分かもしれぬと怯えるようになった。


エライエンス邦国はただちにアメニヤカ女帝へ抗議と非難の文を送りつけたが、女帝は終始、曖昧な言葉で取り繕うばかりだった。その態度に、エライエンスの上層部は激しい怒りを募らせる。


そして――帝国内の外交庁舎が襲撃され、外交官が殺害された。


その瞬間、すべての我慢が崩れ去った。



越えてはならぬ一線が踏みにじられ、エライエンス邦国はついに軍を動かす。


目的は二つ。


ロトゥス教の神官たちが率いる暴動を鎮めること、そして戦乱の地に取り残された自国民を保護すること。


だが、これまで順風満帆だったロトゥス教は、その進軍をまったく意に介さなかった。彼らは信徒の先鋒隊を差し向け、敵軍の殲滅を命じる。


先頭に立つのは、ロトが深く信頼する副官――高位神官のひとりであった。士気を鼓舞するため、彼は上半身を裸にし、剣を高く掲げて最前列を駆ける。


そのとき、敵の指揮官が静かに命じた。


「撃て。」


次の瞬間、近距離から放たれた火銃の弾丸が、無防備な胸を貫いた。


後方の信徒たちはまだ気づかない。


「神官さまが先陣を切られる!」と歓声を上げたその刹那、彼の顔に浮かぶ笑みが凍りつき、巨躯が土煙を巻き上げて地に崩れ落ちた。


舞い上がる砂塵が、信徒たちの顔に浮かんでいた狂熱と興奮を覆い隠す。


一瞬の沈黙――そして、次々と飛び散る温かい血潮が、燃えかけた信仰の炎を容赦なく打ち消した。


先鋒部隊の壊滅は、ほんの短い時間の出来事だった。



五人の古き魔術師たちが、遥かなる雲上に姿を現した。


彼らは天を往く風に身を委ねながら、燃え立つ都の全景を静かに見下ろす。


その多くは冷然としたまなざしを崩さず、ただ無言で事の成り行きを見届けていた。

だが――そのうち、紅蓮の業火を司る一人だけは、火の加護が霧散し、信じがたい表情のまま崩れ落ちたロトゥス神官の姿を見て、わずかに眉をひそめ、静かに首を振った。


彼らの旅路は、あまりにも長い。


神々の時代が興り、そして衰え、人の世が隆盛を迎えた今に至るまで――千年を超える歩みの果てに、彼らは数多の地を巡り、数多の縁を得てきた。


各地に伝わる術理を交わし、修め、派閥を築き、後進へとその系譜を継がせた。ただひとつの願いは、「善をなす者に力を与え、その志が絶えぬように」というものだった。


その長き系譜の中に、紅蓮の炎を受け継ぐ火の系がある。


炎を呼び起こし、穢れを祓い、敵を退ける者。


または炎を己が身に宿し、力と防を高めて戦う者。


ロトが信奉した「神」とは、その偉大な系譜の末端に連なる、若き魔術師のひとりに過ぎなかった。彼は継承の恩寵にすがり、紅蓮の本源からわずかばかりの神力を借り受け、それを自らの神官たちへと分け与えた。



強大とは言えぬが、見せるには十分な加護――刃も矢も通さぬ「神蹟」として信徒たちに示すには、まさに都合の良い力であった。こうして信仰と富が潮のようにロトゥス聖教へと流れ込み、積み重ねた信仰は、その魔術師自身の力をも高めていった。


だが、成功は傲慢を孕む。彼とその追随者たちは、己の出自を忘れた。


それは自らの力ではない。力の正しい用途も代償も知らぬまま、他者の加護を弄んだ報いとして、返還の刻には当然ながら反動が訪れる。


この世界においてすら、古き魔術師たちの干渉は大いなる魔力の流れに制限される。


ましてや、肉を裂いた弾丸には燃え立つ火相の気が宿っていた――ゆえに、火の加護がそれを遮ることなど、ありはしない。


ましてロトが授けた粗雑な加護は、真なるものと比べれば、薄紙にも等しい。


――刀槍不入? 不壊の身?


それはただ、無知なる人々を惑わし、信徒を釣るための、巧妙な虚言に過ぎなかった。



遠方の城壁の一角が、轟音とともに崩れ落ちた。


エライエンス同盟国の軍勢がその裂け目から突入し、部隊指揮官たちは城内各所に拠点を築いて布陣し、進撃を開始する。火縄銃を装備した精鋭兵たちがじりじりと前へと迫るなか、ロトゥス教徒の士気はまだ完全には潰えていなかった。ロトゥス神を篤く信じ、自らの信仰を守ろうとする信徒や神官たちは、布衣をまとい、剣を手に正面から突撃していく。


──結果は、必然だった。


大通りも、路地裏も、血の花が咲き乱れ、戦場のあちこちで悲鳴が響き渡る。


大通りで、路地で、家の中で、瓦礫の下で──信徒、戦士、そして市民たちの絶望の声が、魔術師たちの感覚に届く。


神に見捨てられた嘆き、神に欺かれた憤怒、失われた命への悲しみ……惨烈ながらも見慣れた戦場の光景は、古の魔術師たちの心を一片も揺るがすことはなかった。


無辜の者を除けば、彼らは同情しない。


たとえアメニヤカ女帝の黙認があったとしても、ロトゥス教がこの戦を起こしたのは己の私欲ゆえだ。彼らは、プセレーン帝国にまだ残る最後の栄光を手中に収めようとし、エライエンス同盟国に連なる外来者や知識を追放し、言葉と権力を掌握しようとしたのだ。



知識は進歩をもたらし、民の無知を払う。


たとえエライエンスを好まなくとも、そこに益があることは否めない。だが、それこそが、無知によって信徒を支配してきたロトゥス教にとっては致命の毒であった。


ロトゥス神──いや、彼らの視点からすれば、あれは神と呼ぶべき存在ではない。

たまたま「器」として条件を満たしていただけの存在にすぎなかった。


硝煙と血の臭いが漂う中、「戦争」とも呼べぬ戦場は静かに幕を下ろした。


そして、始めから終わりまで傍観者であり続けた古の魔術師たちは、来たときと同じように、音もなくその場を去っていった。



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「天の理は、漏らすべからず。」


今の世の人々は、それをまやかしの神官や詐欺師が使う方便とみなしている。だが、命を知る者たちは、そこにまったく異なる意味を見ている。


ときに、それは──真実を知っても、何の益もないから。


ときに、それは──命を暴く者が、時の奔流の中で、変えようとした代償を支払わねばならぬから。


ゆえに、命を知る者は、軽々しく「命」を語らない。


では、大声で「運命」を語る者たちは、果たしてどれほど天の理を覗いたというのか?



遠くから、暁を告げる鐘の音が響き渡り、農夫たちを畑へと誘う。


だが、かつてロトたちが身を寄せたあの村には、もはやその鐘に応える勤勉な民の姿はない。人影の絶えた掘っ立て小屋と、崩れかけた神殿が、昇り始めた太陽に長く影を伸ばしている。


聖花を植えていた聖池には、今や濁った水がわずかに残るのみ。


池の縁の石畳は裂けて散り、そこから濃い緑の草茎が逞しく伸びる。蔓草の間に潜む虫の声が、広がる静寂をかろうじて埋めていた。かつて神官と信徒たちが聖地と称えた場所は、今や見る影もない廃墟である。


──だが、それは育ち損ねた「腐敗の根」の一本にすぎなかった。


それは分派ではなく、本教そのものが各地に撒き散らした聖花の種、根、茎──それらはすでに大地の奥深くへと潜り、網のように張り巡らされ、静かに広がり続けている。


名を変え、姿を変えようとも、これからも新たな信徒が群れ集うだろう。


世の理をよく知る本教直系の神官たちは、権力を奪うような粗暴な真似はしない。彼らは人の心を耕し、時間をかけて勢力を育てていく。


やがて再び、栄華の景が訪れる。


そのときには、幾多の新たな神殿が建ち、殿内の聖池には、清廉高潔を装うロトゥスの聖花が、再び咲き誇るだろう。


──風来りて枝葉は自ずと揺らぎ、咲くは初年の旧時の花のごとし。


だが、各地の神殿で祈りを捧げられている「ロトゥス神」は、果たして、かつてと同じ存在なのだろうか?



人は神を創り出す。


人の心に「欲」があり、「恐れ」があるかぎり、それに応じる存在が、供物の座へと引き寄せられる。


……その座に就くものが、人が定義し、望む「神」であるかどうかは、誰にも分からない。


人の手の及ばぬ領域にて──時を超えて在り続ける者たちは、ただ静かに世の移ろいを見つめ、記録し続ける。


時代は常に、時流れに洗われては、古き色を失い、新しき色を帯びる。


そしてまた、巡り、繰り返すのだ。

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