都会の男に染められていくアニメーター志望の幼馴染。嘘と裏切りの果て、彼女を奪い返すために俺は東京へ向かう。だが、彼女はもう俺の知らない顔をしていた。

ネムノキ

第1話

 夜明け前の七里御浜は、まだ深い藍色に沈んでいた。


 寄せては返す波の音だけが、世界のすべてであるかのように、一定のリズムで鼓膜を揺らす。


 ザァ……という音の合間に、玉砂利が擦れ合うカラカラという乾いた音が混じる。潮の香りを孕んだ風が、森田将司の少し色の抜けた黒髪をそっと撫でていった。


 将司は黙々と、使い慣れた投げ竿の準備を進める。ガイドにラインを通す指先は、十六歳とは思えないほど手慣れていた。


 長年の釣りで日に焼けた肌は精悍で、細身の身体には、毎日のキャスティングで鍛えられたしなやかな筋肉が通っている。


 彼の日常は、いつもこの海から始まるのだ。


 今日の狙いは、夏のキス。夜が白み始めるこの時間帯が、一番の勝負時だ。


「……ん」


 隣から、小さな声がした。


 将司が視線をやると、幼馴染の相生波留が、クーラーボックスに腰掛けたまま大きく伸びをしていた。絵を描くのに邪魔にならないよう、ひとつに束ねられた艶やかな黒髪が、生き物のように揺れる。


「寒くないか、波留」


「へーき。ちょっと眠いだけ」


 そう言って、波留は膝の上のスケッチブックに視線を戻した。


 大きな瞳が、夜と朝の境界線にある空の、名状しがたいグラデーションを捉えている。


 彼女の指先は、いつも通り鉛筆の芯や絵の具で少し汚れていた。その汚れは、彼女が夢中で生きてきた証のように、将司の目には映っていた。


 ザァァ……。


 ただ、波の音だけが響く。


 二人の間には、言葉がなくとも通じ合う、穏やかな空気が満ちていた。


 物心ついた頃から、ずっと隣にいるのが当たり前だった。将司が海を見て、波留がそんな将司のいる風景を描く。それが、二人の世界のすべてだった。


 将司は、ゴカイを針につけると、しなやかなモーションで竿を振りかぶった。


 ヒュッ、と空気を切り裂く音と共に、仕掛けが闇の中へと吸い込まれていく。着水音は、波音にかき消された。


 竿先を浜に立てかけた三脚に置き、アタリを待つ。


 その間も、波留の鉛筆が紙の上を走る音だけは、途切れなかった。


 彼女は、この熊野の壮大な自然を、一枚の紙の中に閉じ込める魔法使いだ。将司はそう、本気で思っている。


「見て、将司」


 不意に波留がスケッチブックをこちらに向けた。


「この雲の形、新しいキャラクターの翼にできそうじゃない?」


 描かれていたのは、水平線の向こうで紫色に染まり始めた雲。それは確かに、巨大な鳥が翼を広げたようにも見えた。


「……ああ。かっこいいな」


「でしょ?」


 波留は悪戯っぽく笑う。


「ちょっと禍々しい感じの、堕天使みたいなキャラクター。背中から、こんな翼が生えてるの」


 情熱的に語る波留の瞳は、いつも夢で輝いている。

 だが、その輝きの中に、今日は何か違う光が混じっている気がした。


 「禍々しい」という言葉の響きが、将司の胸に小さな棘のように引っかかる。それは、この穏やかな朝の海には似つかわしくない、ざらついた感触だった。


 将司には、この『新しい感情』は分からないだろうな――。


 彼女の瞳の奥が、そう囁いているようだった。まるで、自分だけの秘密の扉を開けて、その向こう側を覗き見ているかのような、微かな高揚感。

 将司の知らない世界に、彼女はもう片足を突っ込んでいる。


 その事実が、言いようのない不穏な嫉妬を呼び覚ました。


 アニメーターになる。それが彼女のたったひとつの、絶対的な目標だった。将司はその夢を、誰よりも応援しているつもりだった。

 ――つもり、だった。


 その時、コン、コン、と竿先が小刻みに揺れた。


「来た」


 将司は素早く竿を手に取り、軽く合わせる。確かな手応え。生命の感触が、ラインを通して腕に伝わってくる。


 リールを巻くと、波打ち際でキラリと何かが光った。


 引き寄せたのは、二十センチほどの美しいキスだった。透き通るような銀色の身体が、昇り始めた朝日で眩しく輝いている。


「わぁ……綺麗……」


 波留が感嘆の声を漏らし、クーラーボックスから飛び降りて駆け寄ってきた。

 彼女の声には、先ほどの翳りはもうない。いつもの波留だ。将司は少しだけ安堵する。


 そして、地面に置かれたキスの隣にしゃがみ込むと、慌てたようにスケッチブックの新しいページを開く。


 サラサラと、鉛筆が走る。


 彼女は、命が尽きる前の、その一瞬の輝きさえも見逃すまいと、瞳を凝らしていた。


 将司は、そんな彼女の横顔を黙って見つめていた。陽の光を浴びて輝く黒髪。真剣な眼差し。少し開かれた唇。


 そのすべてが愛おしくて、この時間が永遠に続けばいいと、心の底から願った。


 この熊野の海と、波留。それさえあれば、他に何もいらない。

 本当に、そう思っていた。


 しばらくして、波留がふぅ、と息を吐いて顔を上げた。


「描けた。……ありがとう、キスさん」


 そう言って、魚に小さく頭を下げる。そういう、純粋なところが将司は好きだった。


 将司はキスをクーラーボックスに仕舞うと、再び餌を付けて仕掛けを投げ込んだ。朝マズメの時間は短い。あと数匹は釣っておきたい。


 水平線が、燃えるようなオレンジ色に染まり始める。荘厳な七里御浜の朝焼けだ。


 空と海が一体となり、世界が生まれる瞬間に立ち会っているかのような、神々しい光景が広がっていく。


 波留はスケッチの手を止め、ただうっとりとその光景に見入っていた。


「……すごいね。毎日見てるのに、毎日違う顔してる」


「ああ」


「こんな景色、世界中のどこを探しても、きっとここにしかないんだろうな」


「そうかもな」


 穏やかな時間が流れる。このまま、今日という一日が、昨日と同じように過ぎていく。将司はそれを疑っていなかった。

 その、瞬間までは。


 しかし、波留はふと、遠い目をして呟いた。


「……私の絵、この町から出たことないんだよね」


 その声は、朝の喧騒に溶けてしまいそうなほど、小さく、そして渇いていた。


 将司は、リールを巻く手を一瞬だけ止めた。心臓が、冷たい手で掴まれたような感覚に襲われる。


 彼女の横顔には、先ほどまでの輝きはなく、焦燥と諦念が混じった深い影が差しているように見えた。それは、将司の知らない表情だった。

 この場所が、この穏やかすぎる日常が、いつか波留を自分から奪っていくのではないか。

 そんな具体的な恐怖が、背筋を駆け上がった。


「……いつか、たくさんの人に見てもらえるさ。波留の絵は、すごいんだから」


 精一杯絞り出した言葉は、あまりに陳腐で、空虚に響いた。何の慰めにもなっていないことを、将司自身が一番よく分かっていた。

 こんな言葉で、彼女の渇きを癒せるはずがない。何もできない自分への、強烈な無力感が押し寄せる。


 波留は、力なく笑った。


「うん……そうだよね」


 その笑顔が、ナイフのように将司の胸を抉った。

 (もう、俺の手には届かない場所にいるのか?)

 そんな、決定的な喪失の予感がした。


 二人の間に、それまでにはなかった、冷たくて鋭い隙間風が吹いた。


 ◇


「ただいまー」


 将司が自宅の勝手口を開けると、味噌汁のいい匂いが鼻をくすぐった。


「お、釣れたか、将司」


 台所では、母の佳代が朝食の準備をしていた。


「まあまあ。キスが十匹くらい」


「上出来じゃない。早く捌いちゃいなさい。波留ちゃんも待ってるんだから」


「分かってる」


 リビングのテーブルでは、波留がテレビのニュースをぼんやりと眺めていた。


 相生家と森田家は隣同士で、家族ぐるみの付き合いだ。特に波留の両親は共働きで朝が早いため、彼女が森田家で朝食を食べるのは、いつものことだった。


「波留、塩焼きと天ぷら、どっちがいい?」


 将司は、クーラーボックスからキスを取り出しながら尋ねた。


「んー……じゃあ、天ぷら!」


 さっきまでの憂いを帯びた表情は消え、波留は屈託なく笑った。

 その切り替わりの早さに、将司は安堵しながらも、どこか言い知れぬ違和感を覚えていた。


 将司はそれに努めて気づかないふりをし、慣れた手つきでキスの鱗を落とし、頭を切り落としていく。

 この日常が、まだ壊れていないことを確かめるように。


 ピン、ポン。


 その時、静かな朝の空気を破るように、軽やかな電子音が響いた。

 日常に亀裂を入れる、異質な音だった。


 音の出所は、テーブルの上に置かれた波留のスマートフォンだった。


「あ、ごめん」


 波留はスマホを手に取ると、画面を覗き込んだ。


 将司は、魚を捌く手を止め、何気なく彼女のほうを見た。

 ふとした角度で、彼女が持つスマホの画面が、一瞬だけ視界の端に映り込む。


 画面の上部に表示された、見慣れないアイコン。

 漆黒の翼を広げたような、鋭く、禍々しいロゴマーク。

 その隣には『Project: Genesis』という文字が、将司の知らない世界からの招待状のように、冷たく光っていた。


 次の瞬間、波留の動きが、ぴたりと止まった。


 画面を食い入るように見つめるその瞳が、驚きに見開かれていく。

 そして、それはみるみるうちに、緊張と、抑えきれない興奮の色へと変わっていった。

 息を呑む音さえ、将司の耳にはっきりと聞こえた。


 それは、将司が今まで一度も見たことのない彼女の表情だった。

 まるで、禁断の果実を前にしたかのような。

 その瞳は、将司との穏やかな日常では決して得られない、背徳的な輝きを放っていた。


「波留……?」


 声をかけたが、届いていない。

 いや、聞こえているはずなのに、無視されている。


 彼女の世界は今、手のひらの上にある小さな四角い画面の中に完全に飲み込まれている。

 その心は、すでに画面の向こうの見知らぬ誰かに、完全に奪われているようだった。


 将司は、キッチンのシンクで、銀色に輝くキスを握りしめたまま、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

 捌かれる前の魚の冷たさが、まるで自分の心臓の温度のように感じられる。


 目の前で別の世界に飲み込まれていく波留を、ただ無力に、漁師の道具を握りしめたまま見つめる。

 その手は、波留を捕らえるにはあまりに脆弱だと、本能的に理解していた。


 窓の外では、熊野の夏の太陽が、力強く昇り始めていた。

 これから始まる長い一日が、そして二人の未来が、この穏やかな朝と同じようには続かないことを告げるかのように。


 それは、将司の全てを侵食し尽くす、嵐の、予兆だった。

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