風の旅路 ― リュシアン・ヴェイル クロニクル ―
@-SHINO
第1話 ナスカ ― 無風の港 ―
「風は、名を忘れた記憶を探している」
風が吹いていた。けれど、それは“形だけの風”だった。
リュカは港の欄干に手をかけ、深く息を吸った。
深く吸い込んだ空気に――何も、匂わない。
潮の香りも、魚の匂いも、人の気配も、全部消えている。
「嘘だろ。海があるのに無臭って……ありえない」
呟いた声が、やけに響いた。街は静まり返っていて、笑い声さえない。
すれ違う人々の顔は、ぼんやりして焦点が合っていなかった。
「……なんだよ、これ」
リュカは眉をひそめ、周囲を見回した。
どこもかしこも、まるで“息を止めたまま”時間が止まっているようだ。
リュカの世界は、昔から匂いでできていた。名よりも顔よりも、記憶に残るのは香りだった。
(まるで、世界が呼吸するのを忘れたみたいだ)
そのとき――背後から声がした。
「君、旅の人かね?」
振り向くと、白衣の裾を風に揺らす男が立っていた。
銀髪に灰色の瞳。目が合った瞬間、胸の奥がざわつく。
この人だけ、ちゃんと“生きた匂い”がする。鉄と薬草の、湿った匂い。
「あなた、医者ですか?」
「似たようなものだ。――世界の呼吸を診ている」
「呼吸を……診る?」
「観測者だ」
「観測者――世界の呼吸を診る者は、各地に散っている。だが、ほとんどが沈黙した」
「えーと……変わってますね」
「よく言われる」
淡々とした返答に、リュカは思わず苦笑した。
「で、観測してどうするんです? この街、人の気配まで消えてますけど」
「それを調べている。風が止まった理由をな」
「止まったって、風は吹いてるじゃないですか」
「吹いているように見えるだけだ。これは“模倣風”だ。物理的な流れはあっても、世界が自分の存在を感じていない」
「――匂いがないだろう?」
リュカはハッとした。この人、本気でわかってる。
「……あなた、名前は?」
「オルウェン・リス」
「俺はリュカ・ヴェイル。鼻が利くただの旅人です」
「“ただの”ではなさそうだ」
「観測者さん、取引しません?」
リュカはにやりと笑った。
「案内はしますけど、報酬は“生きてる風”一本で」
オルウェンの眉がぴくりと動いた。
「抽象的な報酬だな」
「でしょ? でも、そういう風が一番価値あります」
ふと、灰色の瞳にわずかな光が宿った。
「……悪くない契約だ」
リュカは片目をつむって笑った。
「じゃ、契約成立ですね。世界の呼吸を診るお医者さん」
「観測者だ」
「はいはい、観測者さん」
二人は無言で歩き出した。
死んだ風の中を、まだ“生きている匂い”を探すように。
***
市場は死んだように静かだった。
魚も花も干からび、空気に重さだけが残っている。
腐ることさえなく、ただ“時間が通り過ぎていない”ようだった。
リュカは足を止め、ふと鼻をすんと鳴らした。
「……今、一瞬、パンの匂いがした」
「匂い?」
「焦げたパンの匂い。……いや、もう消えた」
リュカは眉をひそめる。
(残り香が一瞬で……まるで“記憶”みたいだ)
オルウェンは器具の針を見ながら呟いた。
「空気そのものが記憶を失っている」
言葉の意味が、ゆっくり胸に沈んだ。
「記憶を……? そんなの、あり得るんですか」
「“感覚層”が消されている。誰かが意図的に、な」
「この街では“無痛政策”が進んでいる。感情を削れば、争いも痛みも消える――そう信じた者たちがいた」
リュカは思わず声を荒げた。
「そんなことして何になるんですか!」
「感情を消せば、争いも痛みも消える」
風のない空気が、皮膚にまとわりついた。
「それで街が“生きてる”って言えるんですか?」
オルウェンは答えず、ただ静かに歩き出した。
「ついてこい。風の行き止まりを調べる」
「……命令口調ですね」
「観測者だからな」
「俺、観測対象ですか!」
「そうだ」
リュカは思わず吹き出した。
(なんだこの人……)
だが、その奇妙なやりとりの中で、リュカは自分の中に芽生えた“焦り”の正体を理解していた。
感じない世界が、怖い。
***
倉庫の奥。並んだ壺の群れを見て、リュカは息を呑んだ。
「なんですか……これ」
「記憶を封じた容器だ」オルウェンの声が低く響く。
「古い形式だ。かつて“風封じ”と呼ばれた技術――暴走する感情を封じるための装置だ」
「人の感情を、匂いごと抜き取って保存している」
「そんな……冗談でしょ」
「冗談でこんな数は並べない」
リュカは拳を握った。
「誰が……誰がこんなことを!」
「わからない。だが――触るな」
「言われると、触りたくなるんですよね!」
「リュカ!」
遅かった。風が爆ぜた。
潮の香。涙の塩気。焦げたパン、笑い声。
無数の匂いと記憶が――彼の中へ一気に流れ込んでくる。
「ぐっ……ああっ!」
視界が白く染まり、胸の奥が熱を帯びた。
人々の想いが、洪水のように彼の心を満たしていく。
(これが……この街の記憶……?)
リュカは膝をついた。
しかし同時に、どこか懐かしい香りを感じた。
優しくて、悲しい――母の匂い。
遠い記憶の中で、母はいつも風の匂いと一緒にいた。
「リュカ!」
オルウェンが彼の肩を掴む。
「風を制御しろ!」
「無理です……でも、わかる!
この街はまだ生きてる、呼吸してるんだ!」
オルウェンの目が見開かれた。
風が一気に広がり、壺が次々と割れた。
光があふれ、街全体が潮の匂いで満たされていく。
人々が顔を上げ、名前を思い出すように微笑んだ。
***
夜明けの港。リュカは桟橋に座り、潮風を吸い込んだ。
「……生き返った気分です」
オルウェンが隣に立ち、静かに答えた。
「風は戻った。だが、まだ歪みは残る」
「じゃあ、まだ直す余地がありますね」
「……君は本当に、感情で動くタイプだな」
「行動派って言ってください」
オルウェンの口元が、わずかに緩んだ。
その変化に気づいたリュカは、にやりと笑った。
「今、笑いました?」
「気のせいだ」
「いや絶対笑いました」
軽口の合間に、潮の匂いが吹き抜けた。世界が、また息をしている。
リュカは空を見上げた。
「他の街も……同じなんですか?」
「可能性は高い」
「じゃあ、行ってみたいです」
オルウェンが目を細める。
「“行ってみたい”?」
「風がどうなってるか、自分の鼻で確かめたいんですよ」
沈黙。それから、オルウェンが短く息を吐いた。
「君の鼻と勘は扱いが難しい」
「褒めてます?」
「……忠告だ。だが、止めはしない」
その声は少しだけ柔らかかった。
「いいだろう。――同行を許可する」
「え、今の本気ですか?」
「旅は仕事だ。準備を怠るな」
リュカは笑った。潮風が頬を撫で、港の光が新しく揺れる。
(世界は、ちゃんと息をしている)
風が吹いた。匂いがあった。
それだけで、生きていると思えた。
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