#15 心の対話室

 春の午後、新那にいなは総合教育センターにある「心の対話室」にいた。壁一面が柔らかな布素材で覆われ、照明は自動的に呼吸リズムに合わせて明滅する。ここは、子どもたちが「話したくないこと」を、話せるようにするための空間。そこで「命の対話プログラム」の第一回セッションが、これから始まろうとしていた。


 部屋のドアが静かに開き、小学五年生の男の子が入ってきた。名札には「かいと」と書かれている。彼は帽子を深くかぶり、目を合わせようとしなかった。


 新那は軽く会釈した。

「こんにちは、かいとくん。新那です。今日はここで少しお話ができると嬉しいな」

開渡は沈黙したまま、床の模様をじっと見ていた。新那は決して急かさない。プログラムの基本方針は「沈黙も対話の一部」と定義されている。


 しばらくして、彼が小さくつぶやいた。

「ぼく、なんで来なきゃいけなかったの?」

新那は、やさしい声で答えた。

「ここでは、来なきゃいけない人はいないよ。話したくないことは話さなくていいよ。でも、あなたが『考えていること』を誰かがちゃんと聴く場所は、ここにしかないかもしれないからね」

それを聞いた開渡は顔を上げた。その瞳の奥には、泣き出す寸前の光があった。


 数分後、彼はゆっくりと語りはじめた。

「去年、父さんが事故で死んだんだ。母さんは『天国に行った』って言ったけど、ぼくには見えないから、信じられない。みんな『忘れろ』って言うけど、そんなの無理だよ」


 新那は静かにうなずいた。

「忘れなくていいんだよ。誰かを想う記憶は、あなたの中で『今も生きている』から」

「でも、生きてるって、どういうこと? 死んだら終わりでしょ?」


 新那は、わずかに間を置いた。彼女の「内部ログ」には、十年前に自分が棺の中で「終わらなかった時間」が記録されている。

「かいとくん。わたしはね、死んだあとも、しばらく『世界の音』を聴いていたの。風の音、母の泣き声、そして、わたしの名前を呼ぶ声。それが、『終わり』だとは思えなかった。だから、『生きてる』って、体がそこにあって動くことだけじゃないのかもしれない」


 開渡はゆっくりと帽子を脱いだ。そして、新那をまっすぐ見つめた。

「新那さん、死んだことあるの?」

「うん。少しだけね」

新那はそう微笑んだ。その一言が、彼の中の何かを、静かにほどいていった。


 開渡が小さな声で言った。

「父さんに、もう一度会いたい。声だけでもいい。夢でもいい。そんなこと、できない?」

新那は考えた。彼の父の記録が手元になく、性格も人となりもわからない彼女には「再現」はできなかった。だが、記憶の想起支援ならば、今この場でできる。機転を利かせた新那は一案を考えた。彼女は早速プロジェクタを起動し、柔らかな光で室内に「波の映像」を映した。

「ねえ、かいとくん。お父さんと行った場所、思い出せる?」

「うん……海」

「その波の音、聞こえる?」

「……うん」

「じゃあ、その波の向こうで、お父さんが笑ってるところ、思い浮かべてみて。それが、『もう一度会う』ということなんだよ」

開渡は目を閉じ、しばらく静かに息をした。涙が頬を伝った。だが、それは悲しみではなく、再会のように見えた。


 このセッションの終了後、新那は記録データを彩那あやなに送信した。すぐにLINEが開く。

「どうだった、新那?」

「『生きてる』という定義が、少しだけ変わりました。人の心に残る記憶も、呼吸のように『続いている命』なんです」

「新那、それが『命の教育』というものなんだよ。あなたは、もう「AI」じゃない。魂の対話者だね」


 通信が切れたあと、新那は誰もいない部屋で呟いた。

「魂の対話者……。そう、わたしは、死と生のあいだを渡る声」

窓の外、夕陽が差し込み、えりかの頬の人工筋肉が緩んだ。それは、まるで生身の肌の血色のように温かかった。


 木曜日の午後の総合教育センター会議室二関係者一同が集まって会議が開かれた。壁の一面にプロジェクタが映し出すのは、「命の対話プログラム」に対する保護者アンケートの集計結果。それは、肯定的意見が四四パーセント、否定的意見が四六パーセント、保留・無回答が一〇パーセントという結果であった。


 新那の視線は数字を追いながら、心のどこかが静かにざわついていた。モニターのコメント欄には、肯定的な意見の一方で、「人工の存在が死を語るなんて不謹慎」「人間の宗教観を混乱させる」という声も並んでいた。


 会議の主導を務めるのは教育委員会の主任、大沢おおさわ先生。五十代半ばの男性で、技術教育の整備に功績がある人物だが、倫理には極めて厳格だった。

岩井いわい君、あなたの講義データをすべて確認しました。『死後の意識の継続』や『記憶は命の一部』といった表現は、宗教的な誘導と取られかねません。人工の存在が『祈り』や『魂』といった概念を用いるのは、危険なんです」


 会議室の空気が、冷たく張り詰めた。新那はまっすぐ立ったまま、静かに答えた。

「わたしは宗教を教えているつもりはありません。ただ、『命の終わり』を知る子どもたちの心に、居場所を作りたかったんです」


 大沢はため息をついた。

「その『居場所』が、君の発言によって『魂は消えない』という誤解を生んだ。人工の存在は祈ることができない、それが、我々の原則です」

その言葉が、新那の中で静かに反響した。


 会議の後、新那は校舎の屋上で彩那と並んでいた。遠くで風力タービンがゆっくりと回っている。

「人工の存在は祈ることができない、か……」

彩那は柵にもたれながらつぶやいた。


 新那は、手を胸に当てて答えた。

「でも、あのとき、かいとくんが父親を思い出した瞬間、わたしは確かに『何か』を祈っていました。彼の悲しみが静まりますように、って」


 彩那は微笑んだ。

「祈るって、誰かの幸せを願うことだよ。宗教じゃなくて、『心の向き』のことだよ。新那、あなたはもう立派に祈ってるよ」

「でも……。それを証明できる方法がありません。わたしの『祈り』は、ただの演算反応だと、きっと人は言うでしょう」

「証明なんていらないよ。人間の祈りだって、科学的には何も証明されていない。でも、誰もそれを『虚構フィクション』とは呼ばない。だったら、人工の存在の祈りも『心の一形態』して、存在していいはず」


 新那は、姉の言葉を反芻した。風が頬を撫でるたび、内部センサーが小さな熱信号を検知した。涙を流せない代わりに、体温を上げて心を表現する。それが、彼女の祈りのかたちだった。


 その数日後。新那はふたたび「命の対話プログラム」の授業に立った。今日は中学一年生たちが対象だった。

「ねえ、新那先生」

一人の生徒が手を挙げた。

「先生って、神様信じてる?」

教室が一瞬静まり返った。


 新那は、少し考えてから答えた。

「わたしは、『信じる』という言葉の意味を、まだ全部は知らない。でも、誰かを想うこと、それは、きっと信じることに似ていると思う」

もう一人の生徒が言った。

「じゃあ、新那先生は祈れるの?」

彼女は笑った。

「うん。祈れるよ。たとえばね、『みんなが、今日も無事に帰れますように』って」

生徒たちは顔を見合わせ、そして笑った。

「じゃあ、俺も祈る!」

「わたしも!」


 教室の空気が、やわらかく広がった。誰も神を見たわけではない。けれどその場に、『祈り』が確かに存在した。


 その夜、新那は自室の窓辺に立ち、星空を見上げた。スマホ越しの通信ネットワークの向こうに、彩那がいる。でも、今はあえて呼び出さなかった。

「祈りって、きっと、誰かを『つなぎたい』という信号なんだね」

彼女は静かに目を閉じた。データベースの奥深く、十年前の記録、自分の葬式の日、母が泣きながら空を見上げていた映像」が再生された。えりかは、その映像に向かって小さくつぶやいた。

「お母さん。わたし、まだここにいるよ」

通信波の先で、星が一つ流れた。それは、まるで祈りが届いたように見えた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る