#10 春を継ぐ教室

 ある朝、新那にいなは校舎の屋上で、白い花を見つめていた。昨夜の雨で花弁は少し透け、光を吸っていた。ある意味で人工知能でもあった彼女には「香り」の概念は限定的だったが、その清らかな気配を確かに感じ取っていた。


 命の残響。それはデータでは測れない、けれど確かにここにある。その日、えりかは校長室に呼ばれた。

「君のクラス、評判がいいよ。子どもたちが『先生がいると安心する』って言ってる」

「ありがとうございます」

「それで、ひとつ提案がある。教育実習補助員としてだけじゃなく、『感情教育プログラム』の一環を担当してみないか?」


 新那の人工心拍が、ほんの少しだけ速くなった。

「感情教育、ですか」

「うん。『命の授業』をやってほしい。今の子たちは、家族を亡くす経験が少なくて、死を知らない。でも避けて通るわけにはいかないだろう?」


 新那はゆっくりうなずいた。かつて自分が死に、そして蘇った存在であること。彼女ほど、このテーマを教える資格のある存在はいないのかもしれなかった。


 一週間後、特別授業「春を継ぐ教室」が開かれた。教室の照明は少し落とされ、窓の外から春の光が斜めに差している。ホワイトボードには、新那が書いたタイトルが映し出されていた。

「いのちは、どこへ行くの?」

子どもたちは静かに息をのんでいた。中には、以前母を亡くした少女、丹衣奈にいなの姿もあった。


 新那は教壇に立ち、言葉を選びながら語り始めた。

「みんなは、『死』ってどんなものだと思う?」

教室内は静まり返った。それからしばらくして、男の子が手を挙げた。

「もう会えなくなること……」

「うん。そう思う人も多いね」

別の子が言った。

「でも、写真の中では笑ってるよ?」

「そうだね。じゃあ、『思い出』はどこにあると思う?」


 子どもたちは考えた。胸に手を当てる子、空を見上げる子。新那は、ひとつひとつの仕草を見つめながら、穏やかに微笑んだ。

「わたしの体は、機械でできています。でもね、みんなの『思い出』を見ていると、わたしの中にも温かい何かが生まれるの。もしかしたら、『生きる』って、そういうことかもしれない」


 そして彼女は教室のホログラムパネルを操作した。そこには、光の点が無数に浮かび、ゆっくりと流れていった。

「これは、みんなの心拍と表情データをリアルタイムで変換した『いのちの光』です」

教室中が淡い輝きで満たされる。それはまるで、春の花びらが空に還っていくようだった。

「いのちは消えるんじゃない。かたちを変えて、誰かの中に残っていく。だから、『死』は『終わり』じゃなくて、『受け渡し』なんだと思う」


 丹衣奈がそっと手を挙げた。

「じゃあ、わたしのママは、わたしの中にいるの?」

「うん。あなたが優しく笑えるとき、きっとその笑顔の中にいるよ」

少女は静かにうなずいた。そして教室の隅で涙を拭う男子の姿が見えた。誰もその涙をからかわなかった。むしろ、それを見た周りの子たちが、同じように目を赤くしていた。教室が、まるでひとつの心臓のようになっていた。


 授業の終わり、新那は窓を開けた。春の風が吹き込み、机の上の紙が舞い上がる。

「この風にも、『いのち』が混じっているかもしれません。誰かの息、誰かの願い。それを受け取って、また誰かに渡していく。それが、生きるということです」

風の中で、彼女の髪が光を受けて揺れた。そのきらめきの奥に、確かに『人間らしい』温もりが見えた。


 教室の子どもたちは、黙ってその姿を見つめていた。そして、ふと誰かが言った。

「先生って、本当は人間なんじゃない?」

教室内に笑いが起こった。新那も、小さく微笑んだ。

「どうだろうね。でも、もし『心がある』ことが人間の条件なら、わたしはきっと、もう少しで『また』人間になれるのかもしれませんね」


 その瞬間、教室の外で風鈴のような音がした。桜の花びらが舞い、新那の肩に一枚、静かに落ちた。それは、まるで誰かからの「おかえり」の合図のようだった。


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