サイバーティーチャー新那

数金都夢(Hugo)Kirara3500

#1 継承

 ポートアイランドの一角、シミュレーション・クラスターにある橘樹たちばなテクノロジーズの研究所内の実験棟の照明は、夜明けの色に溶けていた。その中の誰もいない廊下を、チーフ研究員の岩井いわい彩那あやなは静かに歩いていた。これから病気で失った彼女の妹と一緒に暮らしていくためのプロジェクトが大詰めに差し掛かっていた。


 彼女は記憶の整理を終えた後、顔を前に向けると研究室の奥の写真立てに目がとまった。今のプロジェクトマネージャー、高柳たかやなぎ詩葉うたはの父、初期義体化研究の責任者だった清永きよなが理恩りおん博士が、写真の中で穏やかに笑っていた。その隣には、あのとき、彼が詩葉の姉、紫音しおんを信号無視による交通事故で失い、その後「義体」を作って蘇らせたときに記した言葉が記されたプレートがあった。

「娘がもっと生きたいといくら願ったとしても、もう命は戻ってこない。でも、刑務所の中とはいえあの運転手は娘の数倍もの時間を生きることが許されている。それはどうなのか? 納得できるものではないと思いました」

そこにはそう刻まれていました。


 彩那は立ち止まり、その言葉を指でなぞった。文字が刻まれた冷たい金属が、掌の温度を跳ね返してくる。

「やっぱり、あの人も『父』だったんだね……」

彼女は誰にともなくつぶやいた。


 「父」という存在としての彼は、与えたかったのだ。「与えられた時間の不公平」に、せめてひとつの形、できることで抗うために。愛の届かない距離にある死へ、技術で橋を架けようとした人。そして、今その橋の上を歩いているのは、彩那自身だった。


 新那にいなが淹れてくれた紅茶の味を、彩那は覚えていない。でも、あの湯気の揺らぎを思い出すと、胸の中に小さな熱が灯る。彼女を「お姉ちゃん」と呼んでくれた日の、やわらかな笑い声。


 彼女はカバンからノートパソコンを出し、モニタに指先を触れると、起動音が響いた。そこに保存されている義体化技術の次世代プロトタイプ設計データを開いた。それには「設計者:岩井彩那、監修:高柳詩葉(義体設計主任)」というクレジットがあった。そう、それは彼女が妹の体を作るためのものでもあった。


 外の空が淡く明るくなっていく。夜の闇が消えていくたび、光は、再び新しい命の輪郭を描き始めていた。

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