第3話 月光煌めく夜の海で
その日の夜。詩音は布団に横たわって目を閉じたが、一向に眠れなかった。
折檻の痛みが引かず、明日もまた理不尽な叱責や暴力を受けるのではないかと不安が押し寄せ、自身の心を蝕んだ。
たまらず詩音は起き上がり、湿り気の含んだ真夏の空気を吸い込み、静かに吐き出した。だが、深呼吸をしても明日への不安や恐怖は消えない。
「……もう、いや」
両手で顔を覆い、零れ落ちる涙を受け止める。
「耐えられない……!」
詩音は布団から抜け出して、寝間着姿のままおぼつかない足取りで部屋を出た。そのまま屋敷の者たちに気づかれないまま、あてもなく夜道を
どれくらい歩いたのかはわからない。気づけば屋敷から少し離れたところにある海辺に来ていた。まだ母の百合が存命だった時、一度、幼い自分をここに連れてきてくれたことがあった。
『いい? 詩音』
穏やかな月光が降り注ぐ夜半の海。静謐なさざ波の音に紛れて母の声が響く。
『辛くて苦しい時があったら、歌うの。想いを声に乗せて歌えば、心も明るくなれる』
母の教えの通り、想いが溢れそうになった時は精一杯歌った。しかし、父から娘ではないと背を向けられ、唯一の救いだった母さえいなくなってしまってからは、思うように歌えなくなった。歌おうとしても声が掠れて、終いには息をすることさえ苦しくなってしまう。
大きく息を吸い、宵闇の水平線に向けて哀歌を紡ごうとした。だが、孤独と絶望の波が押し寄せてその歌声は呑まれてしまう。
「あっ……う!」
うまく息ができなくなって、詩音はその場に頽れた。
歌いたいのに、歌えない。歌えるだけの力が、自分には残されていない。
「登喜子さん。ごめんなさい」
心優しい彼女は惨めで情けない自分に手を差し伸べてくれた。登喜子の善意と優しさを踏みにじってしまうことが申し訳ない。けれど、これ以上彼女に余計な心配をかけたくなかった。
「お母さま……」
悲涙を流すその双眼に、もはや光はない。
「もう、そちらへ行ってもいいですか」
お母さまに……会いに行ってもいいですか。
早く楽になりたい。大好きな母とまた一緒になりたい。
そんな渇望が詩音を死の淵へと誘う。
暗夜の海へ身を投げようとしたその時――
「たすけ、て……」
辛うじて聞こえるほどの薄弱とした声音が、詩音の足を止めた。
「誰……?」
自分より少し幼い少女の声だった。
あたりを見渡していると、少し離れたところに傷だらけになった少女が打ち上げられているのが見えた。
詩音は瞠目し、すぐに少女に駆け寄った。
「大丈夫――あっ!」
よく見ると、少女の下半身は魚だった。月光の反射を受けて青緑色の鱗が宝石のようにきらきらと輝いている。
「人魚……?」
人魚は五行のなかでは水の異能をもつ妖。だが、その数自体が非常に少なく、滅多に人前では姿を現さないとされていた。
――どうして人魚が海辺に……。
だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
頬や二の腕に裂傷があり、顔色も悪い。
「早く手当しないと……」
屋敷に戻れば救急箱がある。しかし往復するには時間がかかるうえに少女を一人にするわけにもいかない。
「どうしよう……」
「何をしている」
ふと、背後から威厳ある低声がした。
思わず肩を震わせて振り返ると、そこには見目麗しい男性が佇んでいた。
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