黒鬼に捧ぐ恋歌 ~虐げられた歌姫は漆黒の鬼の寵愛を得る~

海山 紺

第1話 不遇の歌姫

 その瞳は澄んだ碧海の如く美しかった。

 艶やかな漆黒の髪に尖った両耳。人ならざる浮世離れした容姿はいつ見ても美しく、未だに己の心臓は早鐘のように忙しなく脈打つ。


「詩音」


 穏やかな波音を思わせる耳心地の良い低声が耳朶に響くとともに、大きな手が自身の頬に添えられた。その手から感じる甘美な熱に酔いしれ、詩音はその手に頬を摺り寄せる。

 すると、今度は自身の唇にも熱が生じた。いつの間にか目の前にいる美しい男性から口づけをされていた。

 唇が離れ、熱の余韻に頬を朱に染めて、詩音はわずかに驚愕の色を浮かべて開口した。


れん様っ……!」

「あまり俺を煽るな」



 これ以上は歯止めが利かなくなる。



 艶美な囁きと面様が心を鷲掴みにして離さない。

 全身が火照って、詩音は思わず俯いた。すると、こちらを真っ直ぐにとらえた碧瞳が映る。漣が自分を膝枕にして横たわったのだ。


「えっ」

「歌ってくれないか。詩音」


 柔らかな微笑とともに乞われる。


「君の歌声が聞きたい」


 言って、漣はそっと瞳を閉じた。詩音の歌声を待ち望むかのように。

 詩音は目を細め、口元を綻ばせた。


 ああ、なんて幸せなんだろう。恋い慕う人に自身の歌声を欲され、必要とされることなど、あの時の自分なら思いもしなかった。ましてや、これから彼に捧げる歌が恋歌だといつ想像できただろう。


 ――生きていて、本当に良かった。


 辛く、苦しい十八年間だった。けれど、少なくとも今は幸福に満ちたひと時を過ごせている。

 これからの人生がそうあり続けることを願いながら、詩音は朗々と恋に満ちた歌声を響かせた。




    *****




 五つの島から成る極東の島国、五暁国ごぎょうこく

 古来より妖と人――二つの種族が共存していたが、二百年前に領土の支配権をめぐって戦争が勃発し、妖の勝利で幕を閉じた。以来、妖の頂点に君臨する鬼が五つの島をそれぞれ統治している。


 詩音の生家である歌川家は黒鬼が領主を務める北島にあった。東側に位置する海辺の街、蒼洲そうしゅう。ここは人の居住地であり、五暁国では妖と人がそれぞれ住み分けられていた。


「ちょっと、早くしてよ」

「も、申し訳ありません」


 じりじりと照りつける炎天下のなか、詩音は両腕いっぱいに荷物を抱えて一つ下の異母妹、明音あかねの後を必死に追っていた。


「服と靴を持つぐらいで息が上がるなんて、ほんと詩音は体力がないわね。だから術式もまともに使えないのよ」


 大陸風の瀟洒しょうしゃな意匠が光る日傘を差したまま、明音は呆れと軽侮の眼差しで詩音を見据えた。

 射干玉の長髪に黒曜石の如き黒瞳。彼女がまとう衣服もまた大陸風のもので、現地の言葉でいうリボン付きブラウスとロングスカートが彼女を名家の令嬢たらしめている。


 それに比べて詩音は艶のない薄茶の髪と目で、使用人同然の粗末な着物しか与えられていなかった。日傘なんてもってのほかで、長時間荷物持ちをさせられているせいで全身汗まみれだった。


「満足に術が使えない以上、警視局に入るなんて土台無理な話なんだから、せめて使用人の仕事くらいちゃんとできるようにしてほしいものだわ」

「……はい」


 明音のいう術式とは、一部の人間が扱うことができる異能のことだ。

 妖が水、木、火、金、土の五行の異能を司るのに対し、人はそれ以外の力を操ることができる。歌川家の場合、代々〈歌〉に関する術式を継承しており、他にも〈色〉や〈精神〉、〈言霊〉などの実体を持たない事象を術式としている家系もある。


 だが、術式の家系に生まれた者が全員その才を発現させるとは限らない。詩音は生まれつき術式の掌握能力が乏しく、妖一匹倒せない。反対に明音は歴代術者のなかでも傑出した才能を発揮し、強力な妖を難なく倒せるほどの高度な術式を会得している。


 歌川家は警視局の幹部を輩出してきた名家。それゆえ両親は明音に大きな期待を寄せているが、詩音に対しては冷遇し実の娘としての愛情を注いでいなかった。


「ほら、ちんたらしてないで早く行くわよ。お稽古の時間に遅れちゃう」


 涼しい顔をしたまま明音は先に進んでいく。

 何せこちらは酷暑のなかもう一時間以上荷物を持ち歩いているのだ。水分もとっていないため喉が渇き、足元もおぼつかなくなる。

 それでも詩音は妹を見失わないよう、己を叱咤して彼女の背を必死に追った。




    *****




 大陸風の外観をした家屋が見え、詩音はやっと着いたと秘かに安堵の息をつく。

 歌川家の邸宅は五暁国の伝統建築とは異なり、大陸風の意匠を取り入れている。先代当主、つまり詩音たちの祖父が一時期外遊していたこともあり、木造から石造りの建築様式に変わったのだ。


「ただいま」

「おかえりなさいませ。明音お嬢様」


 若い女中が出迎えて、明音に深々と叩頭する。


「お父様は?」

「書斎にいらっしゃいます。お嬢様がお戻りになり次第、お稽古を始めると」

「そう。すぐに着替えるから服を用意してちょうだい」

「かしこまりました」

「詩音、部屋まで運んでおいて」

「……は、はい」


 言われた通り、荷物を抱えて明音の自室まで向かおうとすると視界が明滅した。突然の眩暈めまいに詩音はふらつき、倒れこむ。高価な箱や袋も散乱して中身が飛び出してしまった。


「何してるのよ!」

「も、申し訳――」


 謝罪の言葉を待たずして、明音は詩音の頬を強く打擲ちょうちゃくした。


「詩音お嬢様!」


 女中の悲鳴とともに詩音は床板に叩きつけられる。


「わたしの大事な服と靴が汚れるじゃない! 罰として今日の夕餉ゆうげは抜きよ」

「明音お嬢様っ」

「登喜子。もし詩音に情けをかけたりでもしたら、あんたもただじゃ済まさないから。それと、その人はお嬢様なんかじゃないわよ」


 ただの愚鈍な使用人なんだから。


 明音の睥睨へいげいに詩音はびくりと肩を震わせる。登喜子もまた明音の残忍な仕打ちと言葉に何も言い返せず、うつむくことしかできなかった。


「愚図の代わりにそれを部屋まで運んでおいてちょうだい」

「……かしこまりました」


 明音が去っていくのを見届けた後、「お嬢様……!」と登喜子は詩音を案じた。


「わたしは大丈夫です。ごめんなさい。わたしのせいで面倒をかけてしまって……」

「そんな、お嬢様が謝る必要はございませんから」

「登喜子さん、わたしに敬称は不要です。お心遣いはすごく嬉しいのですが、わたしに優しくしていたら明音様たちからひどい仕打ちを受けてしまいます」

「お嬢様……」

「だから、わたしのことは気にせず行ってください」


 本当に大丈夫ですから。


 これ以上、登喜子を心配させるわけにはいかない。詩音は気丈に笑んで散らばった服や靴を入れ直した。

 だが、登喜子はそっと詩音の手を掴んだ。


「ここは私に任せて、お嬢様はお休みになってください。炎天下のなか、ずっと明音お嬢様のお荷物を持ち歩いておられたのですから、体調を崩されても仕方がありません」

「でも……」

「顔色がとても悪うございます。せめて水分くらいちゃんと摂らないと」


 両親でさえ、慈愛の笑みを向けてくれたことはなかった。だからこそ、彼女の優しさが渇いた心を潤してくれる。


「……ありがとうございます」


 登喜子の善意に甘え、詩音は家屋の裏手にある井戸へと向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る