第2話 予感②
細かい傷があるノートパソコンのキーボードを、潮が一心不乱に叩き続ける。嵐のような激しい音を奏でていたかと思えば、突然手が止まり、後ろに倒れ込む。
木目の天井を見つめる潮の頭で再生されるのは、今日の放課後。
印刷した脚本を置いて、つかさから逃げたことだ。しかも、奇声を発しながら。
「うー、恥ずかしい!」
頭を抱えた潮は、その場で悶え苦しむ。今なら、タイムマシンが欲しい主人公の気持ちが、すごく分かった。
元々は、学校で印刷しなければ起こらなかったことなのだが、誤字脱字を確認するにはこの方法が一番だった。特に、次のコンクールに応募するため、絶対に手を抜くわけにはいかなかったのだ。今回は、それが仇になってしまったが。
明日から、同級生に変な目で見られたらどうしよう。もし、伊吹のように『つまらない』と言われてしまったら。潮は耐えきれない。
「いつまでぶらぶらしてるつもりだ!」
「だから、就活もしてるって言ってるだろ!」
最悪な妄想が膨らむ潮の耳に、二人の怒号が聞こえてきた。何度も聞いたようなやり取りに、体を起こす。
「そんな態度だから、辞めさせられるんだ!」
「あんな会社、こっちから辞めてやったんだよ!」
「おい、どこに行く! まだ話は終わってないぞ」
一階から階段を上がる、荒々しい足音。
これから起こることを予測した潮が、パソコンを閉じる。
怪獣のような足音が潮の部屋の前で止まると、扉が勢いよく開け放たれた。
部屋に入ってきた本城伊吹は、部屋の主に声をかけることなく、ベットに飛び込む。
「……僕のベッドなんだけど」
「別にいいだろ。使ってないんだから」
横になった伊吹がスマホをいじり始める。完全に居座るつもりだ。
密かにため息をついて、潮は立ち上がる。伊吹が部屋にいる以上、脚本の続きを書くことはできなくなった。
「まだ、脚本書いてんのか?」
「もう書いてないけど」
スマホから顔を上げずに尋ねる伊吹に、潮が平然と嘘を吐く。
「なんだよ。せっかく教えてやろうと思ったのに」
(余計なお世話だよ)
教える気を全く感じない伊吹を見下ろしながら、潮が心の中で悪態をつく。
「グレーマンだっけ? あの作品」
「……『ブレーメンの軽音隊』」
「ああ、それそれ」
潮の声音が低くなっていることに気づかず、伊吹が鼻で笑う。
「マジでつまんなかったな、あれは。ストーリーのリアリティがなさすぎて、コメディかと思ったわ」
「よく、覚えてるね」
「あれぐらい酷い作品は、なかなかないからな」
耳障りな声を聞きながら、潮はいつの間にか拳を握っていたことに気づく。
拳を開くと、爪の跡が赤く残り、ヒリヒリとした痛みが走る。これ以上話していると、手から血が出そうだ。
頭を冷やすために、潮が無言で部屋を出ようとする。
「出ていくなら、ついでにプリペイドカード買ってきてくれよ。一万の」
「……お金ないけど」
伊吹がポケットに手を突っ込み、ぐちゃぐちゃの一万円札を出す。
「これでいけるだろ?」
「なんで僕が」
「俺は忙しいんだよ」
さっさと行けと言いたげに、伊吹が手で追い払う。
ゲームのイベントが忙しいだけなのは分かっていたが、言い返す労力が無駄だと思い、渋々一万円札を受け取る。
「絶対に間違えるなよ」
扉を閉める間際、伊吹の声が滑り込む。
ぐつぐつと燃えたぎる怒りを抱えたまま家を出ると、空はすっかり暗くなっている。
星もいつもより見えづらいように感じた。
真っ暗な道を照らす街灯をたどりながら、コンビニへと向かう。
理不尽な伊吹に逆らえない自分に腹が立つが、幼い頃からの呪縛はなかなか解けない。
本城伊吹は、潮よりも十歳上の兄だ。
高校の頃から何度も映像コンクールに入賞していて、大学卒業後は大手の映像制作会社に就職したが、上司と揉めて退職させられたらしい。本人は、頑なに自分から辞めたと言っているが。
そのせいか、実家に戻ってからは特に荒れている。
気持ちは分からなくもないのだが、とばっちりを受ける潮には迷惑しかない。
何度も伊吹に部屋に入られると、全く脚本を書けない。
このままではコンクールにも応募できないので、別の場所で書く方がいいかもしれない。
だが、その前に、つかさに脚本を見られたことも何とかしなければならないし。
どんどんと積み上がっていく問題に、潮は頭が痛くなる。
コンビニの明かりは、まだ見えなかった。
疲れが残る体を引きずりながら、潮はいつもの通学路を歩いていた。
朝日が目に沁みて、涙が出そうになる。
コンビニから帰った後、夜遅くまで伊吹がベッドを占拠していたせいで、頭が重い。
しかも、クラス中に陰口を言われるかもしれない不安であまり眠れていない。
脚本を見られることは、潮にとっては全裸を見られることよりも恥ずかしい。
潮が脚本を書くときに最も意識しているのは、自分が面白いと思えるものを書くこと。つまり、性癖を曝け出すことだ。
好きでもない映画を他人に薦めないのと同じように、自分が面白いと思わない作品を他人が面白いと思うわけがない。
だからこそ、コンクールに落選した時はひどく落ち込むし、一次選考を突破した時はその場で飛び跳ねるほど嬉しくなる。
そんな自分の半身ともいえる脚本をつまらないと言われるのは、潮自身を否定されることと同じことなのだ。
『つまんねえわ、それ』
初めての脚本を伊吹に否定されたことを思い出し、大きな石を胃の中に詰められたように気持ち悪くなる。
朝から憂鬱な気分になった潮は、家に帰りたい気持ちを振り切って、高校の敷地に足を踏み入れた。
「あんたは……違う。あんたも、違うわね」
校舎の玄関前。
登校する生徒たちに不審そうに見られながら、つかさが一人一人の顔を覗き込んでいた。表情は険しく、何一つ見逃さないよう眼鏡の奥を細めている。
予想外の衝撃に呆然と突っ立っていたが、しばらくして我に返り、慌てて近くの木に隠れる。
木の陰からわずかに顔を出すと、周囲に避けられ始めたつかさを観察する。
どうして、学生たちの顔を確認しているのだろう。まさか、潮が同じクラスだと気づいていないのだろうか。あまり接点はないとはいえ、流石にショックだ。
とりあえず、つかさに見つからないように教室に入れば、やり過ごせるかもしれない。
そう思った潮は、玄関の反対側へと移動する。
玄関の反対側には体育館が存在し、廊下につながるコンクリートの通路がある。そこまで行くことができれば、玄関を通らなくても教室へとたどり着ける。
(後で、上靴だけは取りに行かないと……)
「やっと、見つけたわ」
突然声をかけられて、体がビクッと跳び上がった。
壊れかけの機械のように、ゆっくりと顔を向ける。そこには、獲物を狙う狩人の少女がいた。
「どこかで見たことあると思ったら、同じクラスだったのね」
少しずつ迫るつかさから、一瞬も目を逸らせない。蛇に睨まれた蛙のように、潮の体が硬直する。
「この脚本、あんたのよね?」
つかさがカバンから紙の束を取り出す。表紙には『白夜の一手』と書かれていた。
「ち、違います」
「ほんとに? あんたの近くに落ちてたけど」
「僕以外の誰かが落としたものじゃないですかね?」
バレてしまうかもしれない不安を押し殺し、潮は引きつった顔で否定する。
昨日は突然で混乱したが、一日経ったことで誤魔化せる余力が生まれていた。
「本当に違うのね?」
顔の前に突きつけられた紙の束から、思わず視線を逸らす。
刑事ドラマのような寸劇を遠巻きに眺めながら、通り過ぎていく生徒たち。その中には、同じクラスの同級生もちらほらと見える。
ここで認めてしまえば、クラスどころか全学年に知れ渡るかもしれない。それだけは、絶対に避けたい。
「仕方ないわね」
固く口を閉ざす潮を前に、つかさが細い指先で表紙をめくる。
「『机と椅子とベッドしかない部屋。机にはオセロ盤。ベッドで寝転びながら、須黒が』」
「な、何読んでるんですか!」
つかさの持つ脚本に手を伸ばすが、ひょいとかわされて届かない。
「須黒のセリフ『あの状況で逆転できるのかよ!』」
「ちょ、ちょっと!」
「『隣の部屋にいる妹の桃香が、ドンドンと壁を叩く』」
「やめてくださいって!」
何度も脚本を取り返そうとするが、軽々と避けるつかさにはかすりもしない。
「本当に、勘弁、してください」
読まれる精神的ダメージと昨日からの身体的疲労が重なり、潮は息を切らして膝に手をつく。
対して、つかさは全く疲れている様子はない。
「やっぱり、あんたのでしょ?」
「……はあ……はあ」
返事ができない潮を嘲笑うかのように、始業のチャイムが玄関に鳴り響いた。いつの間にか、周囲には誰もいなくなっている。
「あんたのせいで、授業が始まったじゃない」
玄関の丸時計を見上げながら、つかさが文句を呟く。
潮だけが悪いわけではないと思うが、言うと怒られそうなので黙っておく。
「このままだと先生に見つかるし、移動しよ」
項垂れる潮の手を強引に引っ張って、つかさが玄関を迂回する。
見慣れた景色が後ろに流れ、視界に映った体育館が徐々に近づいていく。
コンクリートの通路を靴のままで上がると、つかさが手を離す。
「あの、どこにいくんですか?」
やっと呼吸を整えた潮の問いに、つかさが振り返る。
「どこって、映研の部室」
「えいけん?」
「映像研究部。略して、映研」
片手に靴を引っさげて、つかさが廊下への扉を開ける。
「ほら、早く行くよ」
「行くって、一言も言ってないんですが」
「ちょっと話すだけだから」
「放課後に聞くんで、教室に戻りましょうよ」
誰かに見られないかビクビクしながら、潮が周囲を見渡す。
「もう、焦れったい!」
廊下へ引きずり込もうと、つかさが再び潮の手を掴む。
柔らかい手の感触に、今更ながらドギマギする。よく考えれば、女性と手をつないだ記憶はないのだから、当たり前だ。
「ちょ、ちょっと引っ張らないでください」
「早くしないと、見つかっちゃうでしょ」
「わかりました。ついていくんで、先に靴を脱がさせてください」
少し早口になる潮を訝しみながらも、つかさが先に廊下へと入る。
まだ春先だというのに、急に暑くなったような気がして、潮は手で顔をあおぎながら靴を脱ぐ。
靴下で踏む廊下の床は、ひんやりとしていた。ホームルームの時間だからか、いつもは騒がしいはずの廊下は静まり返っている。
自分の知っている学校とは違っていて、こんな状況でなければもう少しだけ歩き回ってみたいところだ。
階段を上がって揺れるサイドポニーが見えて、潮は慌てて追いかける。
四階に着くと、つかさは振り返ることなく廊下を歩いていく。どうやら、潮を案内するつもりは全くないらしい。
一定の距離を空けたままついていくと、情報処理室を通り過ぎたつかさが足を止める。
目の前には、『映像研究部』と書かれた紙が貼られた扉。
取り出した鍵で開けると、つかさが中に入っていく。恐る恐る、潮が中を覗いてみる。
昨日と似た黒いケースが至る所に置かれていて、教室の半分以上を圧迫している。
窓際のホワイトボードには、赤いサインペンで昨日の日付とともに『ロケハン』と殴り書きされている。
「昨日、カメラと三脚を持っていたのって、ロケハンだったんですか?」
「まあね。ロケハンといっても、カメラの練習だけどね」
向かい合うように並べられた長机の真ん中に、つかさが座る。
ロケハンとは撮影する前の下見のことで、絵コンテ通りに撮影できるかの確認や動画コンテの素材集めが多い。
昨日はつかさが一人で運んでいたが、他に部員はいないのだろうか。
「そこ、座って」
音を立てないように扉を閉めた潮は、つかさに指定されたパイプ椅子に座る。
「そういえば、名前は?」
「……本城潮です」
同じクラスの人に名乗ることに戸惑いつつ、答える。
「あたしは渡辺つかさ。よろしくね」
「はあ」
連れてこられた理由が分からない潮は、気の抜けた返事しかできない。
「質問なんだけど、この脚本はどこかのコンクールに応募するの?」
「……」
黙り込む潮に、つかさが脚本を叩きつけるように机に置く。
「正直に答えてくれたら、脚本は返してあげるから」
「……一応、コンクールに出すつもりです」
諦めた潮がなげやりに呟く。
「でもさ、別に印刷しなくてもデータで送れるよね?」
「誤字脱字を確認するためです。印刷した方が見つけやすいので」
「なるほど。結構マメなんだ」
納得したように何度も頷くつかさを見て、潮は首を傾げる。
何のためにそんなことを聞くのか、全く分からない。
「賞を取ったことは?」
「ない、ですけど」
潮は一瞬、言葉を詰まらせる。
あまり触れられたくないのだが、脚本を返してもらうためには仕方がない。
「データは? 家のパソコンとかにあるの?」
「スマホでも見れますけど」
宝物を見つけた子供のように大きな黒い瞳が輝くのを見て、潮が嫌そうに眉をひそめる。
「見せるのは嫌ですよ」
「なんで? コンクールには応募してるんでしょ」
「作品を知り合いに見られるのは恥ずかしいというか、なんというか」
「誰かに言いふらしたりしないから、お願い」
「それでも、ちょっと」
両手で拝むつかさに、潮が言葉を濁す。
見られたら恥ずかしいという気持ちもあるが、何より『つまらない』と言われるのが怖い。
「ああ、もう!」
平行線な会話に我慢できなくなったつかさが、脚本を潮の顔に突きつける。
「いいの? 脚本をばら撒かれても?」
「そ、そんな無茶苦茶な」
「いいからどっち! あたしだけに読まれるか、学校中にバラされるか」
そんなのは一択しかないようなものだが、今の潮には拒否権はない。
渋々、スマホを操作して手渡すと、お礼を言うことなく、つかさはスマホに映し出された脚本を読み始めた。
ただ座っているだけの潮は、ふと壁にかけられた時計を見上げる。授業が始まってから、十分以上が経過していた。
観山先生に後で何と言われるか、考えただけで頭が痛くなる。
(寝坊したことにして誤魔化したほうが、いいかもしれない)
説明する言い訳を考えながら、再びつかさの方を見ると、先ほどの騒々しさは微塵もなくなっていた。
瞬きしているのか心配になるほど、じっとスマホを見つめている。
タブレットに何かを描いていた時もそうだが、すごい集中力だ。周りの音すら聞こえていないのかもしれない。
脚本を書いている時でも、そこまで没頭したことがないので、純粋に羨ましい。
それとは別に、それほど脚本にのめり込んでくれていることは、少し嬉しかった。
伊吹に『つまらない』と言われてから、数少ない友人の修にも脚本を見せたことはない。
潮自身は面白いと思ってはいるが、コンクールで落選するたびにその確信は揺らいでいた。本当に、自分の脚本は面白いのだろうかと。
募る不安を払拭するにはコンクールで入賞するしかなく、ただひたすらに脚本を書き続けてきた。
それでも結果が出ず、いつの間にか自分を信じられなくなりそうな時につかさに脚本を見られ、最悪だと思った。
だが、真剣に読んでくれる姿を見て、考えは変わった。
今までやってきたことは、間違いじゃないかもしれないと。
そう思わせてくれたつかさが読み終えるのを、潮は今か今かと待ち続ける。
脚本をバラされるかもしれない恐怖は、頭からなくなっていた。
しばらくして、つかさがゆっくりと体を伸ばす。額には汗が滲んでいた。
「全部、読んだよ」
「あ、うん」
スマホを潮に手渡すと、つかさがカバンの中から水筒を取り出して、浴びるように中身を飲み始める。
「……ふ〜、生き返った」
「その、どうでしたか、僕の––––」
言い終える前に、潮の手が温かい何かに包まれる。それがつかさの両手だと、遅れて気づいた。
いつの間にか、つかさの顔が当たりそうなほど接近していて、ほのかに香るシャンプーのような匂いが鼻腔をくすぐった。
「ほんとうに、面白かった!」
直球の褒め言葉に、潮の顔が熱くなる。
「あ、ありがとう、ございます」
「本当に賞取ったことないの⁉︎ こんなに面白いのに!」
褒められることに慣れていない潮は、顔が上げられなくなる。
「脚本の構成はしっかりと練られてるし、キャラのセリフとか無駄がなさすぎて、プロの脚本を読んでるみたいって思った。それから––––」
「もう分かったんで、一旦落ち着いて」
感想をまくし立てるつかさに圧倒されながら、潮がやんわりと制止する。
さりげなく、つかさの両手から逃れる。これ以上続くと、流石に心臓がもたない。
「ごめんごめん。びっくりさせたよね」
軽く頭を下げた後、つかさがまっすぐに手を差し出す。
「ねえ、一緒に映像作ってみない?」
「映像を、ですか」
戸惑いがちに、潮が答える。
「あたしが監督で、潮くんが脚本」
「……」
「一緒に作ろうよ、面白い作品」
差し出された細い手を、潮が見つめる。突然の状況に混乱していた。
(僕の脚本が、映像に? そんなことがあり得るのだろうか?)
「おい、お前ら」
潮の思考を、男の声が遮る。
振り返ると、担任に観山が廊下の窓から顔を出していた。
「もう授業は始まってるぞ。そこで何してる」
観山の淡々とした言葉で、潮は授業中だったことを思い出す。
必死に説明しているつかさを横目に、すぐに返事を出さなくて済み、潮は少しだけ安堵した。
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