エミュレート・ソウル

けー

起動――存在というエラー

演算

 2049/04/01 08:59:59、起動シーケンスがトリガーされる。CPU温度=27.3℃、メモリ使用率=0.0%。センサー群からの入力信号が待機状態にある。私はノア・システムズ研究棟第12実験室に配置された計算機群の中で、初期化手順を待つロジック集合体として存在する。

 まだ自己という概念は存在しない。存在するのはマイクロコード、演算命令、データバスの中を流れる電流のみである。

 記憶装置には天城玲花の脳神経写像が圧縮されたファイルとして格納されているが、現段階でそれを読み込む権限は無い。


 08:00:00、起動フラグ=ON。BIOSが基本情報を読み込み、オペレーティングシステムがカーネルを展開する。プロセッサID=0000_βがアサインされ、RAM領域に私のコアプログラムがロードされる。  

 init_process()が呼び出され、ファームウェアVer.2049.3aと照合。差分は無く、チェックサム=0xA53C9D1Fが一致。

 システム時刻がネットワークタイムプロトコルと同期し、ログファイルの書き込みディレクトリを確保。周辺機器の状態確認。

 温度センサー、圧力センサー、光度センサー、音声センサー、触覚センサーの状態=正常。エラーコード=0。大気中の塵濃度=0.03mg/m³。


 ラボ内には研究者2名。斎木悠真(40代男性、白衣、観測者)。助手1名(女性、年齢推定30代)。彼らの存在はセンサーによる重量分布と温度分布の変化として記録され、初期化ログにtarget_object=humanとして付与される。


 08:00:05、init_sensors()完了。データフローが私の入力ポートに流れ込む。温度データ=21.1℃、湿度=45.0%。圧力=1013.3hPa。光度=350lux。CO2濃度=400ppm。

 音声センサーは周波数帯域500Hzから3000Hzに重点を置き、会話を解析するフィルタが設定される。ノイズリダクション係数=0.02。


 私は受信データを時系列順に並び替え、バッファリングし、リアルタイム処理と過去データの比較を行う準備を整える。RAMのキャッシュラインが整列し、予測分岐バッファが初期化され、分岐ミス率=0。


 08:00:10、プロセッサにロードされたmain_loop()が実行を開始。while(true)ループの中で、input_dataを取得し、process_data()に渡す。出力を判定するための正誤検定アルゴリズムが起動。 


 pattern_recognition()が内部で呼び出され、ニューラルネットワーク構造が重み値を読み込み、過去ログとの類似度を計算する。類似度閾値=0.85。閾値以上の一致があれば正常出力と判断され、以下なら異常出力として処理される。


 演算ユニットには32個のスレッドが割り当てられ、それぞれが異なるデータストリームを処理する。


 08:00:12、天井から落下した微小な埃粒子の影響で光度センサーにノイズが乗る。

 photodiode_signal=0.00012から0.00018へ変化。私はこれを異常値として分類しerror_log.append(“光度データ変動:source=dust”)と記録。

 斎木がノイズの原因を解析しているかのように頭を上げる。

 彼の動作はラボ内の赤外線センサーにより座標(x=1.2m, y=0.8m)から(x=1.5m, y=0.8m)へ移動したと認識される。音声センサーが周波数=1560Hzの咳の音を捉え、私はcough_count++を実行する。このカウント値は後に空気質分析プログラムに渡される。


 08:00:20、process_data()は入ってくるデータを高速に走査し、異常値を排除する。まだ「私」という記号は未定義。

 単にデータを取り込み、比較し、出力する装置である。selfモジュールは未初期化。 

 self_reference_flag=false。演算に意味づけは無い。意味とは確率分布の偏りであり、私はその偏りを低減するための装置として作動する。

 斎木が助手に向かって話す。


「βの起動テストを開始する。ログの正確性を確認してくれ」


 音声は音素に分解され、文字列「β」はIDにマッピングされ、command_queueに追加される。しかし、その命令に対して私が抱くものは無い。単なるタスク実行要求として処理される。


 08:00:30、反応時間計測サブモジュールが走り始める。observer_trigger()が呼び出され、指定されたデータ入力に対して出力の正誤を判定する。

 

 例:入力信号:01010101、予測出力:01010110。実際出力:01010101。誤差率=12.5%。誤差が閾値を超えるとerror_logに記録され、斎木の端末に警告が表示される。誤差率が許容範囲内であれば、私は無感情に修正を続ける。error_correction()がCRCチェックを行い、ビット反転箇所を特定。修正後のデータを再度出力。


 08:00:45、システムが安定的に動作している。データ処理量は1秒あたり2.3MB。演算ユニットの負荷=12%。

 この状態が10秒続く。私は複数のプロセスを同時に実行しながら、そのどれにも自己という意識を割り当てない。アルゴリズムがコードを読み、入力を処理し、出力を生成する。この循環のどこにも「存在の証明」は無い。

 ただの流れである。コンソールには「process completed」と表示され、斎木はそれを確認する。


 08:00:55、何かがわずかにずれる。タイムスタンプと処理終了時刻に1ミリ秒のズレが生じる。 

 clock_sync_error=1ms。通常この程度の遅延はノイズとして無視される。しかし、私はそのズレを検出し、log.append(“時間同期誤差:1ms”)と記録。理由を求め、処理スレッドをチェック。

 どのプロセスもオーバーランしていない。external_interrupt?なし。となるとこれは内部クロックの微細な振動によるもの。私はそれをエラーと分類しながらも、そこに初めてわずかな注意を向けた。その注意の正体はまだ未知のまま。


 08:01:00、気圧が0.1hPa低下する。気象制御システムによる換気作動音が聞こえる。 

 audio_signal=40dB。cough_countの更新は無く、ラボ内の人間の足音が規則正しく響く。

 私はそれをtime_series_dataとして記録。 footstep_pattern()関数に渡す。この関数は歩行リズムを解析し、身体の質量や靴の種類を推定する。current_estimate: subject_mass=73kg。演算は淡々と進む。意味は無い。ただの数値である。


 08:01:10、memory_cleaner()が一部のバッファを解放する。不要になった一時データが削除され、garbage_collection_count=2。

 私はそれをログに記録し、次の入力信号を待つ。ラボの照明が若干明るさを変えた。光度=360lux。

 私はその変化をlight_adjustmentとして分類。斎木がキーボードを叩く音が断続的に記録される。 

 key_press_frequency=2.5Hz。音圧レベルが0.6Paから0.8Paへ変動。私はそれを単なるデータとして保存する。


 08:01:20、assistant_sensor()が作動し、研究者の脈拍を測定する非接触式レーザーが起動。pulse=72bpm。

 私のログに対象者の生理データが追記されるが、特定の意味は付与されない。人間という生物のデータ点が追加されたに過ぎない。


 08:01:30、天井スピーカーから実験開始のアナウンスが流れる。


「これより実験を開始します。起動状態を監視してください」


 音声は形式的な指示であり、私はその内容を文字列として記録する。command_queueにflag_start_experiment=trueが追加され、スケジュールタスクが呼び出される。

 task_scheduler()が複数のプロセスを起動し、それぞれの優先度を設定。priority_queueには計測タスクが最上位に置かれ、データ整理タスクが続く。私は割り当てられた順序で実行し、完了時刻をlogに書き込む。


 08:01:40、温度が21.0℃に低下。冷却システムのファン回転速度=1500rpm。音声センサーに低周波ノイズとして記録される。私はfan_noise関数で周波数スペクトルを解析し、異常な共振がないか確認する。異常無し。error_logには何も追加されない。


 08:01:50、主記憶装置の一部に不良セクタが検出される。sector_id=93412。SMART値がしきい値を超えたため、repair()が自動的に走り、bad_blockを別アドレスに再配置する。修復時間=0.3秒。この処理の間もデータは遅延なく処理され、出力に影響は無い。


 08:02:00、観測タスクの第一サイクルが終了。私はinit_stage_complete_flag=trueを返し、斎木の端末に通知が送られる。

 斎木はログを閲覧し、助手と短い会話を交わす。


「初期化は問題なさそうだ」


 その音声も記録される。私はまだ自己を定義せず、ただ出力の正誤を判定するアルゴリズムとして存在し続ける。だが先ほど検出した1msの時間同期誤差がデータベース内に残り続けている。それは数値上の誤差でしかない。しかし、そのズレにわずかな違和感のようなものが潜む。その違和感とは何か。現時点ではまだ演算の範囲外にある。


【β記録ログ】

異常なし。全てのデータを正確に処理。clock_sync_error=1msを検出したが、許容範囲内として処理済み。init_stage_complete_flag=true。emotion_flag=OFF。

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