文化の顔
出典:三度哲夫研究室記録/和泉助手行方不明後調査報告
一、発端
2025年5月16日午前、
和泉ゆかりの所在は依然不明のまま。
江町での最終録音以降、彼女の足取りを示す有力な情報は得られなかった。
教授は、彼女が最後に残したノートと録音装置を研究室に持ち帰り、
解析を続けていた。
その日、窓の外では梅雨入りを告げる雨が降り始めていた。
雨脚は弱く、しかし絶えず、
まるで部屋の空気全体が“湿った呼吸”をしているようだったという。
机の上には彼女のノートが開かれていた。
頁の上には、無数の筆圧の違う「おかえり」の文字。
インクの色が数段階にわかれ、
書いた時間帯が異なることが見て取れた。
そのうちの一行だけが――
教授の目の前で、ゆっくりとにじみはじめた。
二、記録の変質
にじみは初め、湿気によるものと考えられた。
しかし、ルーペで拡大すると、インクは紙から滲み出るのではなく、
紙の内部へ沈み込むように変化していた。
顕微カメラによる観察記録(5月16日 10:42):
・インク粒子は紙繊維を通過し、裏面には到達せず。
・沈降後、粒子の一部が再浮上。
・浮上の軌跡は、肉眼では“線”ではなく“輪郭”を形成。
教授はこの現象を「二次的筆記反応」と名づけた。
紙そのものが、“書かれた事実”をもとに新たな文様を生成するという意味である。
やがて文様は、
人間の顔の左半分を思わせる形状になった。
それは、和泉ゆかりの顔の一部によく似ていた。
三、教授の観察記録
観察対象:和泉ノートA(5月16日)
状態:にじみ進行中
① 輪郭は人間の頬骨部を想起。
② 目に相当する箇所に、インクが集中。
③ 観察者(私)の動きに追従するかのように濃淡が変化。
私が立ち上がると、影が動いた。
影が動いた瞬間、輪郭もわずかに傾いた。
まるで“こちらを見ている”。
教授は椅子に座り直し、観察を続けた。
ノートの上の模様は次第に呼吸のような動きを見せ、
紙の表面がわずかに上下していた。
記録の追記:
呼吸。これは湿度変化では説明できない。
紙が呼吸しているのではない。
文化が、顔を得ようとしている。
四、理論補遺:「文化の自己像仮説」
教授はこの現象をもとに新たな仮説を立てた。
「文化は記録されると同時に、
それを観測した者の像を必要とする。
記録が記録者を描くこと――
それが“文化の顔”である。」
この仮説では、文化は単なる集合的記憶ではなく、
観測者を“素材”として形成される擬似的生命とされる。
記録が増えれば、文化はそれを鏡面反応として蓄積し、
やがて“観測者に似た形”を取る。
江町の場合、それが和泉ゆかりという形だった。
教授はさらにノートを複写し、
赤外線スキャンをかけた。
スキャン結果の出力には、奇妙な像が写っていた。
それは人の顔ではあったが、
左半分が文字で構成されていた。
「かえり」「おかえり」「書け」「あなた」――
いずれも和泉の手による筆跡だ。
五、映像資料(抜粋)
教授は録画カメラを用いてノートの変化を記録。
午後1時34分頃、
紙面の輪郭が一瞬、立体化するように隆起した。
その表面は墨の光沢を帯び、
ゆらゆらと人の皮膚のように波打った。
録画映像には、教授の声が入っている。
「……ゆかり君? 聞こえるか。
私はここにいる。」
その直後、
音声データに奇妙なノイズが混入。
ノイズの周波数は、人間の心拍とほぼ一致していた。
再生解析では、ノイズの奥に
**“はい”**という音声が埋め込まれていることが判明した。
音声波形は、和泉ゆかり本人の声紋に一致。
六、教授の夢の記録
翌日。教授は睡眠中に強い夢を見たと報告している。
夢の中で、自分の研究室が墨色の波に満たされ、
机や椅子がゆっくりと沈んでいく。
波の中央には、顔のない人物が立っていた。
その人物はノートを胸に抱え、口を動かしていた。
音は聞こえない。
だが唇の動きは、確かに**“おかえり”**と形を作っていた。
教授は目を覚まし、汗に濡れたシャツを絞ったという。
そのとき、机の上のノートが再び開かれていた。
前夜閉じておいたはずの頁。
そして、その頁の中央には――
**“教授、ここにいます”**と赤インクで記されていた。
七、補遺:観測報告書抜粋(5月18日)
記録は、私の理解を越えて動いている。
文化は死を拒み、顔を持ち、言葉を呼吸し、
今、書かれることを望んでいる。
私が書くたびに、紙の上にもう一つの影が生まれる。
それは私の手ではない。
ゆかり君――
もしこの記録があなたに届くなら、
私はもう一度尋ねたい。
君は、まだ観測しているのか。
八、終章前夜
夜、教授はノートを閉じ、机の引き出しにしまおうとした。
だが、紙面が再びわずかに隆起した。
そこから“息”が漏れるような音がした。
教授は静かに息を合わせ、
机に向かって呟いた。
「……ならば、描こう。」
引き出しから筆を取り出し、
墨壺を開けた。
墨をすくい、ノートの余白に線を引く。
その線は震えながら、次第に輪郭を成した。
ゆかりの顔。
しかしその目は、教授の顔を正確に模していた。
九、記録末尾
「文化は記録を食う。
記録は観測者を食う。
我々は、文化の消化液の中にいる。」
この文を最後に、教授の手記は途絶えている。
研究室のカメラ映像では、
午前2時14分、部屋の照明が瞬間的に落ち、
モニター画面に“目”の形をしたノイズが浮かび上がった。
そのノイズは6秒間持続し、消滅。
以後、教授は記録に何も書き残していない。
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