江町報告Ⅰ ― 生ける記録
出典:文化庁民俗資料保存局提出/三度研究室現地調査資料(2025年4月記録)
【現地報告書抜粋】
調査担当:三度哲夫(京都民俗学研究会)
同行助手:和泉ゆかり
一、調査概要
福井県鯖田市江町。
市街地から車で四十分、山間部の集落に入ると、異様な静けさに包まれる。
木々は多くが杉だが、枝の角度が妙に均一で、
地元住民曰く「昔はみんな違う方向を向いとったが、いまはそろっと南を向く」とのこと。
外見上は平凡な山村だが、統計的には突出した特徴をもつ。
人口は約六百五十人、そのうち大学卒業者の比率が全国平均の三倍以上。
行政記録では、出生率と出世率の両方が異常に高いとされる。
この現象は昭和三十年代以降に顕著となり、
「江町出世説」として地方新聞にも何度か取り上げられてきた。
和泉助手の提案により、今回はこの現象を
「文化的自己記録(cultural autoscript)」の視点から検証する。
二、現地観察
午前九時三十分、江町公民館にて聞き取り開始。
応対したのは自治会長・林治男(七十五歳)。
細身で柔和な口調。質問に対しては終始穏やかだが、
“出世”という語を出した瞬間、わずかに眉を動かした。
林「出世ゆうてもな、別にええことばかりちゃうんや」
三度「どういう意味でしょう」
林「出世したら、町に戻れんようになる。
みんな東京か大阪でえらいさんになるけど、
誰も墓を建てに戻らん。うちの墓地は増えんのに、線香の匂いだけが増えるんや」
和泉助手はこの発言を聞き、
「記録が残るのに、身体が消える」と手帳に書き込んだ。
その筆跡は細かく、まるで記録自体が自動で伸びていくようだった。
三、土地構造と痕跡
午後一時、旧江神社跡地を訪問。
鳥居は倒壊し、祠の跡に土嚢が積まれている。
現地測量によれば、祠の下部構造には不自然な空洞が存在。
昭和二十年代に“防空壕跡”として封鎖された記録が残っているが、
地層分析ではさらに古い人工的改変の痕跡が確認された。
和泉助手が地面に耳を当てると、
「なにかが喋ってる気がする」と言った。
彼女の声を録音したが、
再生すると、かすかに別の声が被っていた。
地面の下から「オカエリ」という低い音が混じっている。
その音は、風ではなく、
どこか湿った喉音のように聞こえた。
四、住民証言(抜粋)
「うちは代々、祠の世話をしてきた家ですけどな。
あれが崩れたのは昭和二十二年の春や。
戦争が終わって、村がまた田植えの支度をしとったとき、
地面が動いたんです。
中から、なにか白いもんが出てきた。
人かと思たけど、顔がなかった。
でも、ぬくかった。
……あれは死んでへん、寝てたんやと思います」
――聞き取り:女性(当時十歳)
教授は沈黙し、ただ筆を走らせた。
和泉助手は静かに頷き、祠の下に紙片を差し込んだ。
そこには、手書きで一文が記されていた。
「文化は眠らない。夢を記録しているだけだ。」
五、地元資料「江町郷土誌」(1978年版)より抜粋
「江町には“シブニクラ”と呼ばれる言い伝えがある。
人の中に宿る肉の神で、祭を欠くと家を出るという。
出た家は代々繁栄するが、墓は絶える。」
この記述に教授は印を付け、
「主部肉良と同源の言語かもしれない」とメモした。
和泉助手はノートの余白に、
“出世と絶家の両立”という語を走り書きしたあと、
しばらくペンを止めた。
六、夜間観察記録(4月13日)
午後九時過ぎ、宿舎近くの田の端にて、
低周波のような振動を検知。
計測器の針は一定の周期で動き、
その間隔は心拍に酷似している。
和泉助手が録音機を設置すると、
田の水面がわずかに揺れ、
泥の中から泡が一つ、二つと浮かんだ。
音声記録を解析すると、
泡の破裂音の直前に、
わずかに人の呼吸に似た吸気音が混入している。
教授は黙って装置の電源を切り、
「これは文化の呼吸かもしれん」と呟いた。
七、調査所感
江町の異常は、
“経済的成功”や“教育水準の高さ”といった表層の指標では測れない。
むしろその背後で、
文化が自らを記録し続けているように見える。
墓が増えず、家が栄える――
それは生命の連鎖ではなく、記録の連鎖だ。
村全体が「自分を書いている」。
その過程で、住民は単なる筆記具になっているのかもしれない。
八、和泉助手の補記(未提出)
教授。
この土地は、書かれているように見えます。
道も、家も、人も、文字のように整っている。
まるで“読むために作られた村”みたいです。
私たちがいなくても、
きっとこの村は自分の報告書を綴るでしょう。
誰かがそれを読む日まで、
言葉はこの地に棲み続けると思います。
― ゆかり
この補記は教授の目に触れることなく、
報告書末尾に挟まれたまま保存されている。
紙面には、彼女の筆跡が途中で細くなり、
最後の行だけが水でにじんでいた。
その跡は、まるで紙が呼吸していたようだった。
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