観察記録 ― 呼吸する土
編纂:京都民俗学研究会 三度哲夫
調査期間:令和六年四月二十日〜二十五日
第1節 現地滞在報告(四月二十日)
宿泊地:江町簡易宿泊所「えま屋」
所在地:鯖田市江町一九−三
宿主:松永トメ(八十二歳)
到着初日、気温は十八度。曇り。
民宿の窓から見える山の斜面に、黒ずんだ土が帯状に露出している。
宿主によると「昔の工房のあったとこや」とのこと。
地元では「江ノ原」と呼ばれ、再開発予定地に指定されているが、実際には何の工事も進んでいない。
夜、宿主が囲炉裏端で語った。
「うちらはもう“肉羅”なんて言葉、使わんのやけどね。
若いもんがあれを“祭り”にしてから、静かな夜が減った。
でも先生、あんたはええ。
昔の人に似とる。耳がある顔や。」
意味を尋ねたが、彼女は笑って首を振った。
囲炉裏の火が弱まると、床下からかすかな音がした。
――まるで土が、熱を吸い上げるような。
第2節 観察ノート(四月二十一〜二十三日)
観察対象:江町神社裏手・旧工房跡
測定項目:土壌温度・音響・匂い・湿度
使用機器:温度計、ICレコーダー、携行地震波測定機
観察結果(抜粋)
日時 地表温度 周辺湿度 備考
4/21 11:00 19.8℃ 82% 通常。落葉層に黒褐色の湿り。
4/22 15:40 22.1℃ 78% 微振動を感知(周期約6秒)。
4/22 21:10 23.4℃ 84% 録音中に“拍動音”を検知。
4/23 06:30 18.9℃ 88% 焚火跡中央の土が呼吸するように膨縮。
※夜間録音の再生時、6Hz前後の低周波。
人の心拍に近似。外部音源なし。
匂い:乾いた漆と血液を混ぜたような酸味。
感覚的には“腐敗”ではなく、“熱をもつ皮膚”。
23日朝、土壌採取を試みたが、シャベルが地中20cmで抵抗に遭う。
硬質物ではなく、弾性を伴う層。
掘削面から熱気が上昇。
温度計は一瞬、27.6℃を指した。
第3節 録音記録抜粋(四月二十二日夜)
【時刻】22:54〜23:02
【場所】旧工房裏手
【録音者】三度哲夫
【内容】環境音+周期的低音+不明発話
[0:00](風音)
[0:18](小さな拍動音、約6Hz)
[0:43](砂の摩擦音)
[1:02] 教授の声:「記録を開始――」
[1:15](低音が強まる)
[1:37] 教授:「……誰かいますか?」
[2:00](沈黙)
[2:10] 不明音声:「……みたのか」
[2:15] 教授:「……誰?」
[2:20] 不明音声:「みた なら すわれ」
[2:25](強いノイズ)
[2:30] 教授:「――主部……」
[2:33](記録終了)
翌朝、レコーダーは作動していた。
電池残量も十分。
再生時、[2:10]〜[2:25]の区間は波形が“呼吸の形”に似た上下動を示す。
音声分析では「声紋ではなく圧力波」。
第4節 教授手記(四月二十三日付)
夜に土が膨らむ。
地中の空気が押し出され、吸い込まれる。
鼓動のように。
私はこれを“呼吸する土”と名づけた。
土が生きている、とは考えない。
だが、文化が生きているとは言える。
主部肉良――この語を記録に残すことを躊躇する。
それは存在を固定する行為であり、
固定された瞬間、文化は死ぬ。
この地では、文化は文字を拒む。
だからこそ、呼吸する。
今日、神社の子供たちが遊んでいた。
焚火跡の周囲で、土を踏むと音がする。
彼らはそれを「お腹の音」と言った。
彼らは笑っていた。
私は笑えなかった。
観察者である私が、いつの間にか“観察される側”になっている。
土が私を見ている。
呼吸の間隔が私の心拍と一致し始めている。
私はこの地を離れるべきか。
しかし、離れればこの記録は空虚になる。
夜に再度録音を試みる。
もし何かが応答したなら――
それが文化の声である。
第5節 編集後注(京都民俗学研究会・記録管理班)
三度哲夫教授による「江町観察記録」は、4月25日を最後に途絶している。
教授は予定された帰路に現れず、携行装備とノートの一部のみが宿に残された。
最後に残されたデータは、4月24日23時台の録音である。
ファイル
波形を模した連続した画像データが格納されていた。
解析の結果、その波形は心電図に酷似していた。
宿主の証言によると、25日未明、宿の床下から
「とくん、とくん」と音がしたという。
翌朝には止み、跡形もなかった。
結語
教授の最後の記録はこう締めくくられている。
「文化は死を恐れない。
なぜなら、死とは記録の一形態にすぎない。
主部肉良――それは、
人が言葉を残すたびに新しく生まれる“肉”である。」
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