第19話 逃避行

 白いタイルの床が、天井の淡い光を静かに反射している。

 その静寂の中、ロックを解除する音は、小さいながらもよく響いた。男が慎重にドアを開けると、外の空気がわずかに流れ込む。後ろへと視線を向ける。――そこには、一人の少女――氷室美雨が立っていた。泣き腫らした目元は赤く、まだ僅かにしゃくり上げている。身に纏う薄く白い絹のナイトウェアが、彼女を儚く、頼りなく見せていた。よく見ると、襟元から肩口にかけて生地が裂け、左の鎖骨から肩にかけて薄く赤い傷が走っている。

ナイトウェアの襟には、その血がわずかに滲んでいた。


 「行けるか」


 男が短く問うと、美雨はゆっくりと頷いた。目元は潤み、表情は硬い――けれど、その顔に迷いはなかった。


 「そのままじゃ目立つな」


 男は自分の着ていた黒いジャケットを、美雨の肩にかけた。

本当は着替えさせた方がいいのかもしれない。だが、そこまでの時間の猶予はない――そう判断した。

 ドアを閉める前に、部屋の防犯カメラとセキュリティの作動状況を確認する。いずれのカメラも、ダミー映像を流し続けていた。セキュリティアラームの反応もない。男は美雨の手を取り、部屋の外へと連れ出す。ゆっくりと閉まっていく玄関の隙間から、冷たいリビングの白い照明がのぞいていた。カチャリ、と音を立てて鍵が施錠される。――何事もなかったかのように。

 マンションの内廊下を、二人は無言のまま進む。角を曲がると、業者用エレベーターが見えた。男がシミュレーション通りにスマートフォンをセンサーへかざすと、ドアは滑らかに開き、二人を迎え入れる。箱はどの階層にも止まらず、そのまま一階へと勢いよく降下した。美雨の様子を気にかけながら、男はスマートフォンで偽装中のカメラ映像を確認する。どの映像にも異常はない。監視カメラが元に戻るまで、あと十分。

 このままいけば、映像が切り替わる前にマンションの外へ出られる――。

 

 (もう少しだ)


 男は胸の奥で呟く。焦ることはない、落ち着いていればいい。――だが、目的の階に着くまでのわずか一分が、異様に長かった。一階。ポーン、という電子音とともにドアが開く。


 「ここからは、人目につけばおしまいだ。――注意して進む」

 「……はい」


 美雨が緊張した面持ちで頷く。男はその手を、先ほどより強く握り直した。二人は足早に業者用の通用口へ向かう。自動ドアが音もなく開き、数秒後、ゆっくりと閉じていく。

 男は確認もせずに歩き出した。速い歩調――けれど、美雨の歩幅に合わせていた。

 美雨は引かれる手の温もりを感じながら、久しぶりの外気を吸い込む。生ぬるい夜の匂い。アスファルトと雨の残り香、街の雑多な気配。いくつもの匂いが混ざり合い――“生きた街”の匂いがした。建物の合間を抜ける風が、髪を揺らす。左の鎖骨のあたりがピリ、とひりついた。

 刃がかすめてできた浅い傷が一本。黒いジャケットの隙間から、赤い線がまだ乾かずに残っていた。

 歩きながら、男が静かに口を開く。


 「この近くに車を停めている。――そこまで行く」

 「はい」

 「……停めた場所が場所だが、君に何かするつもりはない。それだけは先に言っておく」


 男の声は妙に歯切れが悪かった。美雨は進む先に視線を向ける。――華やかで色とりどりなのに、どこか艶めかしさを感じるネオン。おそらく足は、ラブホテルの方へ向かっている。けれども、美雨は怖いとは思わなかった。


 「――だって、“するわけない”んでしょう? 私に」


 その言葉に、男は歩きながら一瞬だけ目を細めた。初めて出会った夜の翌朝――泣き疲れて眠り込んだ美雨が目を覚まし、不安そうに尋ねたことを思い出す。


 『……私に、何かしましたか?』

 『するわけないだろ』


 あのときと同じ言葉。けれど今の美雨の声には、怯えではなく確かな信頼が宿っていた。男は歩きながら、そんな彼女を困ったように見た。


 「……そんなことを、言ったこともあったな」

 「……迷惑ばかりかけて、すみません……」


 美雨が小さく謝ると、男は静かに首を振った。


 「俺が、自分の意思でやっていることだ。――だから、君が気に病む必要はない」

 「――それでも、私は助けられました」


 美雨は、小さいがしっかりとした声で言った。


 「助けてくれて、ありがとうございます」

 「――まだ、安心はできない……」

 「けれど――生きて、出られましたから」

 「……そう、だな」


 男はそれ以上、何も言わなかった。――美雨も黙ったまま、ただ後をついていく。目的地の駐車場は、建物の一階部分にあった。――一番奥に、黒い軽自動車が停まっている。男がドアを開けると、籠もっていた暖かい空気がふわりと漏れ出した。日陰とはいえ、日中からずっと停めてあったのだろう。その熱は、普通なら不快に感じるはずだ。

 けれども、美雨にとっては違った。白く整えられた空間で、人工的な温度に閉じ込められていた彼女にとって――七月という季節を、ようやく“肌で感じられた”瞬間だった。それが、嬉しかった。

 美雨が乗り込むのを見届けてから、男は運転席へと回り込む。エンジンの音が、夜の静寂を裂いた。バックミラーに映るのは、先ほどまで閉じ込められていた高層マンション。怪しく光るそれは、まだ眠らない怪物の目のようだった。美雨は、思わず目を逸らした。

 助手席の窓の外では、街の灯が飛ぶように流れていく。その光を目で追いながら、美雨は小さく呟いた。


 「これから、どうしたらいいんでしょうか――」


 美雨には分かっていた。――まだ、何も解決していない。氷室家には帰れない。兄はもう、安心できる存在ではない。大学にも行けるか分からない。そして、自分の失踪を知った玲彌がどう動くのか。見つかったら、どうなってしまうのか――。美雨は膝の上で手を握りしめた。小さく震えているが、止められなかった。

 男は答えをすぐには返さなかった。信号が赤に変わり、ブレーキランプが夜道を染める。その赤の光の中で、ようやく低く言った。


 「……とりあえず、うちに来い」

 「え……?」


 美雨が聞き返す。男はそう言いながらも、どこか迷いがあるようだった。


 「ビジネスホテルやネットカフェに泊まっていたら――おそらくすぐに居場所が割れる。氷室玲彌は……そういうところにも顔が効く男だ。だから、できるだけ目の届かない場所がいいと思った。だが、知らない男の家だ。嫌なら、別の案を考える」


 美雨は、運転する男の横顔を見た。――その横顔は、綺麗だった。造作ではなく、男の心の在り方そのものが表情に滲み出ていて――それに、惹かれた。


 「嫌じゃ、ないです――」

 「無理は……してないか?」


 男が確認するようにゆっくりと問う。だが、美雨は小さく首を振った。


 「あなたのそばが――一番、安心できます」


 美雨の言葉に、男はわずかに驚いたような表情を浮かべた。だが、その言葉を否定せず――

 

 「……そうか」

 

 と、静かに呟いた。

 夜の街は流れる。高層ビルのガラスが街灯を反射し、光の粒が車窓をすべっていく。美雨は膝の上で指を重ね直した。まだ震えは残っている。――それでも、心は落ち着いていた。


 (生きている。あの部屋から出られた)


 それだけで、今は十分だった。――十分な、はずだった。兄の声が、まだ脳裏の奥に焼き付いている。その一点を、除いて


 『俺とお前は――いや、父さんも母さんも含めて、お前とは血が繋がっていない。兄妹じゃないんだよ』


 あのとき感じたのは、衝撃だけだった。信じたくもなかった。それでも、美雨は思ってしまう。――兄の言葉は、本当なのかもしれない、と。

 厳しすぎる父。無関心な母。愛だと口にして束縛する兄。そして、家族の誰にも似ていない自分――。車の窓に映る自分の顔は、泣き疲れてやつれていた。もし本当に父と母の子でないのなら、自分は一体、誰の子なのだろう。その人と自分は、少しでも似ているのだろうか。

 美雨の思いを乗せて、車は静かに走り続ける。

 夏の夜――隠されていた何かが、静かに芽吹こうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る