第11話 踏み躙られた願い

 昼下がりの渋谷。

 歓楽街は、夜ほどの賑わいはまだない。それでも、夜に向けて確実に準備が始まっていた。行き交う配達員、出勤前のホストたち――そんな人々が通り過ぎていく片隅、BAR LUNAの扉には〈closed〉の札が掛かっている。


 中では、開店前の支度をするマスター。

 カウンターには、軽井沢から戻ったばかりの男が座っていた。


 「成果はあったか?」


 マスターの問いに、男は軽く頷く。


 「氷室雅興一家に関する黒い噂は、特には聞けなかった。

 雅興、妻の玲子、息子の玲彌――毎年、軽井沢に避暑に来ていて、地元のレストランにも顔を出しているらしい。

 ただ、一つ気になることがあった」


 「なんだ、気になることって」


 マスターに促され、男は一度口を閉ざしてから静かに続けた。


 「存在は知っていたんだが……氷室雅興の“妹”、美織について聞けた」


 そう言って、男はタブレットを取り出し、マスターに手渡す。

 映し出された写真を見た瞬間、マスターは思わず片眉を上げた。


 「これは……あの娘じゃないか? 氷室雅興の娘の――」

 「違う。それが、雅興の妹の美織だ。……二十年くらい前に亡くなってる」

 「そうか――にしても同じ人間と言っても過言はないくらいだな……違うのは髪の色くらいか……」


 マスターが天を仰ぐ。男はカウンター越しに、マスターの手元にあるタブレットをスワイプする。次に映し出されたのは軽井沢にある霊園――氷室家の墓域だった。


 「雅興は妹を溺愛していたようだが……氷室美織は東京の氷室家本家の墓どころか、軽井沢にあった先祖代々の墓にも入れられず、一人だけ別に葬られていた」


 墓域の一部を拡大する、木立の陰の小さな墓石――マスターも考え込む。


 「嫌な匂いがするな……」

 「ああ、敢えてそこに葬られた理由があるはずなんだ――」

 「氷室玲彌の件について、直接の関係は無いのかもしれないが……引っ掛かるな……」

 「そっちは?何か話は聞けたか?」


 男の言葉に今度はマスターが頷いた。カウンターの下、客席に見えない位置の棚から紙と写真を引っ張り出す。


 「氷室玲彌と、つい最近まで関係があった女について話が聞けた――名前は、木村真彩。都内某私大の二年生だ」


 写真はその女子大生らしい。彼氏らしき若い男と二人で、テーマパークで記念に撮ったもののようだ。波打つ艶やかな黒髪と整った小さな顔、ピースをする細く長い指は、やはりこれまでの女たち、そして氷室美雨の共通点と一致する。


 「情報提供者は、そこに写ってる彼氏――いや、元彼、か。今年の三月まで仲睦まじくて、半同棲までいってたらしい……」

 「というと?」

 「理由は分からんが、四月入ってすぐ、突然木村真彩から別れを切り出されたらしい。“もう連絡してこないで。終わりにしたい”って」

 「随分、一方的だな」


 男の感想に、マスターも苦笑した。


 「やっぱり、そう思うよな。俺らがそう思うくらいなんだから、相手の男にとっては本当に青天の霹靂だったんだろう……

 自分からの連絡はすでにブロックされてて、本人からは何も聞き出せなかった。だから、知り合いを片っ端から当たっていったらしい。そしたら、彼女の友達の一人が教えてくれたそうだ」


 マスターは紙を一枚めくり、こちらに差し出す。

 ――内容は、派遣型コンパニオン事務所の求人だった。

 「都内・ホテル宴会場でのパーティスタッフ募集」「未経験可・日払い」――そんな文字が並んでいる。


 「三月の終わりに、木村真彩は友達と二人でこの事務所に登録したんだと。なんでも、“夏になったら彼氏とハワイ旅行に行きたいって話してたんだけど、親にお金出してとは言いづらいから”って理由を話していたことを、友達は覚えていたそうだ。

 ――で、登録してすぐの四月に、あるパーティーの接客に呼ばれた」


 「そこに、氷室玲彌がいたのか?」


 男の問いに、マスターは深く頷いた。


 「いた。氷室雅興大臣の秘書官として。

 友達の話によると、氷室玲彌は明らかに木村真彩を気に入っていたそうだ。本来なら、派遣事務所から“個人的な連絡先の交換”や“事務所を通さない直接のやり取り”は禁止されている。

 友達も、何人かから声を掛けられたり名刺を渡されたりしていたらしいが、全て一応受け取っておいて、後で事務所に報告するつもりだった。もちろん、真彩も。――だが、実際は違った。

 パーティーの後、真彩はある封筒を氷室玲彌から受け取っていた。

 “連絡先だ”と、中身を確認した真彩は言っていたようだが――

 現金が入っていたんじゃないか、っていうのが友達の言葉だ」


 男の眉間に皺が寄る。

 マスターはその表情を見て、苦笑した。


 「そんな顔すんな。珍しいことじゃないのは、お前も知ってるだろ――」


 マスターの言葉に、男が目を逸らした。

 「そんなナリしてても、相変わらず潔癖なとこがあるよなぁ、お前は……」と茶化すマスターを、男は鋭く睨みつけて黙らせた。


 「話を戻すぞ。……パーティーの後、真彩は“彼氏に呼ばれたから、家に行く”って友達を残して、一人で帰ったらしい。

 で、次の日、真彩は友達に――“やっぱりコンパニオンの仕事は自分に向かないから、やめる”と言って、派遣会社の登録を削除したそうだ」

 「登録をやめたのは――そこで稼ぐ必要がなくなったからか……」


 男の呟きを拾い、マスターが「そうだ」と短く同意する。


 「元彼の話だと、その日、彼女を呼び出したことも、会う約束をしていたこともないそうだ。半同棲って言っても、お互いの下宿先を頻繁に行き来する関係だったらしくてな。むしろ“今日は自分の家に戻る”ってLINEが入っていたそうだ。これは、LINEの記録にしっかり残ってた――そして、コンパニオン登録をやめる、と言った次の日が、彼女に別れを切り出された日だったそうだ」


 出来すぎている、と思った――。


 「木村真彩は、その日本当はどこに行ったんだ……?」


 男の問いに、マスターがまた一枚、紙をめくり、差し出してくる。


 「パーティーが行われたホテルの裏、防犯カメラがあってな。

 そこの映像だ――ドレスの上にコートを羽織った女が、白いレクサスに乗り込んでいる様子が残っていた。

 ナンバーまでは映っていなかったが……白いレクサスは、氷室玲彌の車だ」


 マスターが差し出したのは、防犯カメラの映像をプリントした紙。

 画像は粗く、レクサスに乗り込む女の後ろ姿しか分からない。

 ――ただ、黒髪をアップにした華奢なシルエットは、最初の写真の木村真彩とよく似ていた。


 「レクサスがその後どこを走って、どこに向かったかは特定できなかった。

 ただ、元彼は“別れを切り出された時の彼女の姿が今でも目に浮かぶ”と言ってたな。目元は赤く腫れていて、何度も擦った跡があった。声は風邪を引いたみたいに枯れていて、今にも倒れ込みそうな様子でふらついていたらしい。

 彼氏が思わず支えようとすると、ひどく怯えた様子で激しく拒絶された、と――」


 聞きながら、男は知らずに奥歯を噛み締めていた。

 おそらく氷室玲彌は、前日の夜、木村真彩を――


「怒るな。冷静になれ――誰もその場面は見てない。確証は無いぞ」


 マスターの言葉に、詰めていた息を男は吐き出す。


 「わかってる……胸糞悪い……」

 「だよな。俺もだ――」


 マスターが冷えた水をグラスに注ぎ、差し出す。

 男は黙ってそれを受け取り、一気に飲み干した。


 「そこから、木村真彩は大学もサボりがちになったらしい。姿を見かけることも稀だったが、渋谷付近で何度か目撃情報があった。

 元彼もそれを聞きつけて、しばらく渋谷周辺を一人で探していたらしいが――なかなか出会えず、諦めかけていたそうだ。

 ……ところが、別れ話からちょうど三ヶ月後の六月の終わり、渋谷近くの高級マンションに入っていこうとする木村真彩を偶然見かけた。思わず追いかけて、話しかけたらしい。彼女はびっくりした様子だった。

 元々華奢だった身体がさらに痩せていて、服装は清楚系のものに変わっていたという。でも、シャツから覗く首や手首には――赤い、何かで締められたような痕があったらしい。

 絶句していると、彼女は泣きそうに微笑んだそうだ。

 “もう終わりにしたい、って言ったのに……なんで会っちゃったんだろ……でも、本当にこれで最後。さようなら――私のことは忘れてね。幸せになって”

 ――それが、彼女の最後の言葉だったそうだ」


 「六月の終わり――?」


 男が思わず復唱した。

 まだ、一ヶ月どころか二週間も経っていないのではないか。

 ――まだ、救えるのではないか。


 「そのマンションは? つい最近の目撃情報なら、まだ――」


 男の言葉に、マスターは静かに首を振った。


 「もう遅い……五日ほど前か。これは、俺が調べた話だ。

 そのマンションから“大きな荷物”が運び出されていた。

 別の階の住民が目撃して、思わず“何を運んでいるのか”と聞いたところ、こう答えたそうだ。

 “上の階の住人が飼っていた大型犬が、今朝突然死したから、今からペットの葬儀会社に運ぶところだ”と……」


 「だが……まだ、彼女が、そうと、決まったわけでは――」

 「いや、彼女はもうそこにいないんだ……」


 マスターは、再び首を振った。


 「氷室玲彌が借りているマンションと、木村真彩が入ろうとしていたマンションは同じだった。

 ――そして、今そのマンションには……氷室美雨がいるようだ。

 兄の部屋に妹がいるのは何ら不思議ではない。

 だが……なら、木村真彩はどこへ――」


 男は息を呑んだ。


 「――誰でもいい。その日から、木村真彩を見た者は……?」


 男の声に、マスターが静かに口を開く。


 「いない。

 在籍していた大学に問い合わせても、“個人情報に関わるので申し上げられません”の一点張りだった。

 話を聞かせてくれた友達をはじめ、木村真彩に関わっていた関係者たちは、その後話を聞きに行っても“そんな人は知らない”と口を揃えて言う。

 ――彼女、出身は宮城らしい。元彼の話だけが、唯一の手掛かりだ。親や家族はいるはずだが……まだ、そこまでは辿り着けていない。……すまん……」


 一人の人間の痕跡が、まるで初めから存在しなかったかのように消されていた。もし氷室家が関与しているなら、戸籍も、家族への根回しも、すでに終わっているかもしれない。

 救えたはずの少女と、救いたかった男が並んで写る写真を見る。

 ――恋人と二人で海外旅行に行きたい。

 誰もが憧れる、そんなささやかな夢だった。

 壊され、踏みにじられた彼らの想いは、いったいどこへ行くのか。

 壊した者は、今、何をしている――?


 「氷室美雨、が危ない――」


 男が立ちあがろうとするのを、マスターは視線だけで制する。

 

 「だから落ち着け。ったく、見た目と反して熱いよな本当に……まず、氷室美雨は妹だぞ、それに監禁されているか?危害を加えられているか?――まだ、だ」

 「だからといって、待っていたら間に合わなくなる――」


 マスターは深い溜息を吐いた。――分かっている、自分も。目の前の男も。次に玲彌の毒牙にかかるのは――おそらく氷室美雨だ。


 「……ひとつだけ、気になることがある。お前は軽井沢に行っててまだ探れていないかもしれんが――“氷室美雨”で昨日検索をかけたら、こんなものがヒットした」


 そうして、今度は自分のポケットからスマートフォンを取り出すと、スクリーンショットで記録した画像を見せる。


 ――J大学、氷室美雨ちゃんについて語るスレ――


 「なんだ、これは……」


 男はスクショ画像から内容を確認する。

 ――氷室雅興大臣の娘、氷室美雨は大学に行かず、渋谷の歓楽街で遊び呆けている。

 その容姿を利用し、男漁りやパパ活を繰り返している――。

 あるホテルに入っていった後、別の男と別のホテルに入っていくのを見た――。

 目も当てられない内容だ。

 そこには黒髪だった美雨を隠し撮りした画像が添えられ、卑猥で下卑たコメントが、美雨という人格を踏みにじっていた。


 「こんなものが……」


 思わず絶句する男の手から、マスターはスマートフォンを取り上げる。


 「氷室家だったら、見つけ次第すぐに消す内容だ。だから、俺も見つけた瞬間に、その時点までの流れを保存しておいた。――だが、このスレッドは、まだ残っている」


 マスターの言葉に、男は息を吐き出した。


 「氷室家は……いや、氷室玲彌は、敢えてこれを消さずに……?」


 「それどころか、噂の出所も本人かもしれないぞ。氷室美雨が渋谷の歓楽街に来たのは、この前を含めても本当に数回だ。

 ピンポイントでその姿を見つけ、名前まで正確に知っている人間が、即座にこんな情報を上げられると思うか?」


 男は唇を噛み締めた。静かな怒りの表情――マスターもまた、複雑な面持ちを浮かべた。

 焚き付けたのは自分だが、あくまでバーのマスターであり情報屋の自分は、表立っては動けない。

 ――氷室美雨を救い出せるのは、きっと目の前の男だ。

 それが分かっているからこそ、あえてこの情報を提供した。

 ただ、それでも、言わずにはいられなかった。


 「何度も言うが、氷室家は危険だ。――絶対に尻尾を掴ませるな」


 マスターの言葉に、男は黙って頷いた。

 渋谷の街はまだ明るい。

 ――ただ、確実に、不穏な影が忍び寄っていた。


 

 

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