◇ 雪解け
俺たちが通っていた小学校の、校舎裏。
うさぎとインコ──二つ並んだ生き物小屋の狭い隙間に、
厚手のフードを深く被り、膝を抱えて、これ以上ないほど小さく丸まっている。
「美虎……よかった……見つけたぞ」
「お……おにぃ……?」
フードが軽く上がり、影の落ちる目元で俺を見る。
「なんでここが分かったの──って顔をしてるな」
「……」
小1の妹を、俺は度々同級生の遊びに交ぜてやっていた。
当時ブームだった『隠れ鬼』でのこと、
「お前が隠れる場所って、校庭にあるドームかここかのどっちかだっただろ」
「……それも覚えてるんだ」
薄く開いた美虎の唇が、ぽつりとつぶやく。
どこかに魂を忘れてきたような、虚ろな顔をしていた。
「覚えてるよ。隠れ鬼で遊んだことも、美虎が雪を食って腹を壊したことも、ぜんぶ。お前と一緒に通ってたのは一年間だけだったけど……覚えてる」
「……」
美虎は目を逸らさず、暗い瞳で俺を見続けた。
まるで俺の中に、何かを探そうとしているように見えた。
「中学に入ってからも、しばらくは迎えに来たりしてたよな」
「覚えてるのに……変わっちゃったんだ」
──そう。
俺たちが仲の良い兄妹でいたのは、その時期までだ。
「そう言われると辛いものがあるな……」
「……」
美虎は瞼を伏せ、静かに俯いた。
俺はその沈黙を抱えきれず、そっと空を仰いだ。降りてくる雪が、音もなく視界を埋めていく。
「とりあえず出てこないか? そこじゃ息苦しいだろ」
「……帰って」
美虎は頼りない声で、そう言った。
「そっか……」
俺は傘を開き、その場にしゃがむ。
美虎のいる場所は庇で覆われていた。
降雪の心配はないが、薄着なのが心配だ。
生憎、貸せるコートもない。
この寒空の下、俺も長袖一枚なのである。
「……インスタは?」
ぽつりと美虎が言う。
「
「ある、よ」
「ねぇって」
「あるのっ!!」
ぴしゃりと遮られ、俺はことばを失くす。
美虎は、自分の声に驚いたのか、すこし気まずげに顔を背けた。
「……だって……今日、マンションに入っていくのを見たもん……」
「今日?」
どういうことだ?
「って、もしかして……後をつけたのか?」
美虎は表情を変えずに言った。
「この前はマンションには入ってないって言ったくせに……嘘つき」
「いや、この前は本当に……うぉ」
土を、蹴飛ばされた。
「嘘つきっ。さいってー」
「う、嘘じゃねぇよ……。この前は本当に、マンションの前で別れたんだ。それに今日は──」
「──もういいよ……っ!」
鋭く言い放ち、美虎はローファーの踵を地面にぶつけた。
「……聞いてくれ、美虎。それは誤解なんだ。俺は今日、あの人に会いに行ったわけじゃない。ただ、部屋を見せてもらいに行っただけなんだよ」
「何がちがうのよっ」
きっ、と睨まれた。
「いや、マジで違うんだ。実は……俺、あのマンションで一人暮らしをしようと思うんだ。今日は、その下見に行ってたんだよ」
「え……」
ふっと美虎の顔が強張った。
「それで、その……あそこは、実はペットも同居できるマンションらしくてさ……」
「……」
「建前上は一人暮らしになるけど……俺は、美虎も一緒に──もちろん、お前が良かったらの話だけど……一緒に、住んで欲しいと思ってる」
そこまで言い、ようやく美虎ははっと息を漏らした。
「え、じゃぁ……あたしのために……?」
そういって美虎は、膝を崩した。
「お前だけじゃなくて……俺のためにも、美虎にいて欲しいんだ」
「お……俺のため、ってそれ……え? どういうこと……?」
すこし腰を浮かせたまま、美虎は瞳を揺らす。
「最初はさ、昔みたいな関係を取り戻せたらいいな、って思ってた」
「さいしょ……」
「お前と暮らし始めた日だ。でも、中々噛み合わなかったよな。美虎をそんなふうに変えた神様を呪ったりもしたよ」
俺はそう言って、彼女の被るフードに目を向けた。
「でも過ごしていくうちに、窮屈さもなくなっていった。それどころか、俺は一度は呪った神様に感謝までしてたんだ。お前との関係を取り戻すきっかけを作ってくれてありがとうって」
「……うん」
美虎は言葉を噛み締めるように、ゆっくりと頷いた。
「ある時、夢を見たんだ」
「夢?」
「あぁ。俺はチャリを漕いでるんだけど……後ろにさ、お前を乗せてたんだ」
そう言うと、美虎の口元が微かに綻んだ。
「いつ、その夢を見たの?」
「お前にドライヤーで殴られた、あの晩だよ」
忘れもしない。
俺はあの夜、初めて美虎を異性として意識した。
「夢の中で、美虎は中学生だった。それなのに、昔みたいに無邪気に甘えてくんだ。俺は、朝起きてパニクったよ」
「そう……なんだ……」
美虎はそっと俯く。
「その辺から、分かんなくなったんだ。何が正解で、何を失くしたくないのか。……今でも全部は整理できてねぇよ。でも、お前がいないのは嫌だってことだけは、はっきりしてる」
「……いやなの?」
背中を丸めた美虎が、いじらしげに問う。
なに正座してんだこいつは。
膝の上でぎゅっと握った拳。窺うような上目遣い──まさに、それなんだよ。
こいつのそういう仕草が、途中から女らしく見えるようになったんだ。
「……俺はお前を、失いたくねぇ」
「…………………………言うじゃん」
ふいっと俺から顔を背ける。
美虎の横顔を見ながら、俺はことばを続けた。
「そんで今日、お前がいなくなって、俺はビビった。自分の女々しさに。家ん中ぐるぐる回って、お前の姿が見えなくて、息をすんのも忘れて……コートも忘れて玄関でずっこけて、家を飛び出した。傘も差さずに走り回ることしかできなかったんだ」
「ふははっ」
真剣に話しているつもりだったのだが、美虎は堪えきれずに噴き出した。
「情けない男だろ。今思うと、ほんとに笑える」
「見たかったなぁ」
そう言って美虎は、そっと視線を上げた。
俺は一度、呼吸を整えた。
「……これを言ったら、俺は終わりだとずっと思ってた──でも、」
お前がいなくなるくらいなら……
独り言のようにそう言って、俺は美虎の目を見た。
「美虎、正直に言うから、真面目に聞いてほしい」
そう告げると、空気がわずかに張った。
美虎は小さく肩を震わせ、背筋を伸ばした。
「……はい」
「俺は、今のお前が──好きだ」
美虎の怯えたような眼差しが、
「……っ」
その瞬間、じわりと潤んだ。
「振り回されたり、殴られたり……ぶっちゃけ、うぜぇと思うこともある。……けど、それ以上に、お前と一緒にいると安心する。お前も、そう言ってくれたよな。俺の隣は居心地が良い、ずっとここにいたいって」
俺は一度言葉を切り、美虎の反応を待った。
美虎はこくりと小さく頷き、その瞬間大粒の涙がぼろりと頬に流れた。
「詰んでなんかいねぇよ。俺にとって、もうお前は『ただの妹』なんかじゃねぇんだ……。俺のことを好きだって言ってくれんなら、一緒にいよう。新しい場所で、一緒に飯を作ったり、配信したり、クソくだらねぇことで笑い合ったり……兄とか妹とか、そういうのは取っ払ってさ。まずは俺たちの気持ちを、確かめに行かないか?」
「ン……」
美虎は小さく嗚咽を漏らし、俯いて洟を啜った。
「でも……あたし……猫だよ……?」
声が震えている。
「俺なんて……カバだぞ。お前のその『猫』は治るかもしれねえけど、俺は……」
いや、やめよう。
「俺はお前と──鈴代美虎と、この先ずっと一緒にいたい。……もし、応えてくれんなら、そこから出てきてほしい」
そうして俺はもう一度、美虎に手のひらを向けた。
美虎はびくりと身体を揺らし、のけぞるように背を伸ばす。
「連れ戻そうとしてるんじゃない。俺は──俺たちの居場所を、作りに行きたいんだ」
固く目を瞑りながら、言葉にしていく。
反発して、すれ違って、ようやくここに辿り着けた。
神様が本当にいるのなら──今度こそ、間違いのない”想い”を美虎に届けて欲しい。
そのとき。
「……ばかじゃないの。カバのくせに、かっこつけすぎ」
寒さにかじかむ俺の右手が、ぱしり、と弾かれた。
振られたのか、と落胆したのも束の間。今度は、手の甲をぱしりと弾かれた。
ぱし、ぱし……小さな音が、何度も繰り返される。
なんだ?
目を開くと──美虎が俺の手のひらで、ぱし、ぱし、とボレーをしていた。
まるで、猫じゃらしで遊ぶみたいに。
「でも、あたしも相当ばかだよね……こんな男を好きになっちゃうんだもん」
しばらく遊ばれたあと、最後にパシリと手を掴まれる。
「美虎……」
「……連れてってください。そのマンション。あたしも……
瞬間、つんと鼻の奥に痛みが走る。
「……もちろんだ」
滲んだ視界に美虎の姿を見失いながらも、その手の先に繋がる確かな存在を、俺は優しく引き寄せる。
二度と離さねぇ……。
傘の下。
氷のように冷えた美虎の手を握りしめながら、俺は寒空に誓った。
◇
片手でスカートについた土を払う美虎に、俺は唐突な違和感を覚える。
「……あれ? お前……しっぽはどうした……?」
「え?」
手を繋ぎながら身体を捻り、自分のお尻を確認する美虎。
そのスカートの下に、いつもぶら下げていたしっぽが見当たらない。
「あれ……なくなってる……」
俺は頭にかぶった分厚いフードを見下ろす。
「それ、取ってみていいか……?」
「ま……待ってっ! なんか……こわい」
美虎は片手でフードをつまみ、じりっと傘の外へ後ずさる。
「わ、解るけど……。でも……一生知らんぷりもできねぇだろ……?」
「そうだけど……」
挙動不審に転がる視線。
「い……いきなりガバッ! とかは、ナシだからねっ」
美虎は躊躇いがちにフードから手を下ろす。
俺は彼女に代わって、そっとフードを脱がせた。
「…………」
「な、何? あるの……ないの? だまんないでよっ」
「……ない」
その一言で、美虎は弾かれたように頭を触る。
艶のある真っ直ぐな黒髪──彼女の小さな頭は、綺麗な円を描いていた。
「……なくなってるっ」
美虎は何度も自分の頭を撫でながら、ふと思い出したように言う。
「やっぱり、あたしの言ってたことが合ってたのかな」
「うん? 何がだ?」
「言ったでしょ。『願いが成就したら人間に戻る』って。だからよ」
そう言う美虎は、すこし浮かれていた。
──もう人間をやめたい、心が安らぐ場所が欲しい。猫になっちゃいたい……あなたに愛される猫になりたいです──
それが美虎の願いだった。
「だって、タイミングは完璧だもの。鷹平があたしに想いを伝えた途端に、ぱっ! て」
「途端、なのかなぁ」
実際、気づいたら消えていたわけで、それがいつかは分からないのだ。
「でもそれなら夢があるわよね」
それはそうか。
美虎の笑顔を見ていると、俺もそう信じたくなった。
「……ホントなんだ」
美虎がくすりと笑う。
「へー? 妹なのに愛しちゃったんだー?」
「ぐっ……」
急激に恥ずかしくなり、苦し紛れの言葉が出た。
「わかんねぇぞ。家族愛だって、立派な愛なんだから」
「やーんそんなこと言ったらまた猫耳はえちゃう」
手を繋いでいるほうの腕に、美虎が抱きついてくる。
「お、脅しじゃねえか……」
「でも本当かもしれないじゃん。ずっと……──ずっと愛しててくれなきゃ、やだよ」
ぐい、と俺の腕を引っぱるように抱きしめる美虎。
大きなアーモンド型の瞳が、まっすぐこちらを射抜いてくる。
「……おう」
「へへ……♡」
肌は雪みたいにすべすべで、頬はうっすら赤く染まっていた。
幼さの名残があるのに、鼻筋だけは綺麗に通っていて──そのアンバランスさが、かえって俺の目を奪う。
今のこの姿で、あの頃みたいに懐かれたら……正直、参る。
いつか見た夢が、こうして現実になってしまったわけだが──
あの頃と決定的に違うのは、もうこの感情を怖がらなくていいってことだ。
「でも、『愛される猫になりたい』ってんなら、美虎の努力の問題なんじゃないか?」
「んー……そうかもだけど、そもそも鷹平が愛してくれてないと成り立たないでしょ」
「まぁ……そうか」
けっきょくハッキリとしない。なんとなく尻の座りが悪い。
「お前が曖昧な願い方をするのが悪い」
「悪いの?」
じろりと睥睨される。
「いや……」
「ま。魔法が解けたって保証はどこにもないの。浮気したらすぐ分かるんだから」
といって、すこし名残惜しそうに、ごしごしと自分の頭を撫でる美虎。
そこは以前、猫耳が立っていた場所である。
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