妹ルート
◇ 分岐点
「せまいのよおあ”あ”あ”あ”あ”っんもおおお!!」
がしがしと頭を掻きむしり、
「これだけ!?あたしの範囲、ここから! ……ここまでだけなの!?」
「うるせえな……」
コーヒーを零されないよう、テーブルのマグを手で押さえる。
「うるさくない! いいわよね
吊り上がったまなじりでキッと睨まれた。手を出したら噛み付かれそうな勢いだ。
「なんか欲しいものあんなら取ってくるぞ」
「あっ! そう!? ならさあ! お風呂持ってきてよ!?」
「あ、いや……そういうことか、それはさすがに……」
「鷹平は毎日お風呂に入ってさあ! 気持ちいいねっ!?」
「……可哀想に」
聞こえないようにぼそりと言う。
そろそろトリミングの時期か。
ぼさぼさの美虎の髪を見て、そう思った。
猫の性か女子の性か知らないが、毛がベタつき始めると、美虎はこのようにイライラし始める。
いつもならトリミングに連れていくところだが──いや、でも早いだろ。こんなペースでシャンプーに通っていたら、俺の資金も早々に底を着く。
バイトはしているが、シフトは長期休暇を中心に入れていた。大学の冬休みは、まだもう少し先。美虎が部屋に来てから、一方的に貯金が減っている。
マグを手元に引き寄せつつ、ため息をこぼす。
とそのとき、今度は階下で怒鳴り声が上がった。
「鷹平! その猫を黙らせなさい!!」
間髪入れずに美虎が叫ぶ。
「黙れ黙れ黙れ黙れえええええ猫じゃなあああい!!!」
「鷹平っ聞こえてるの!!?」 と、母さん。
「はいはい! ……っはあぁ〜〜……」
よろりと立ち上がり、軽く頭痛がしてこめかみを押さえる。我が家の女性陣は、なぜこうもヒスりやすいのか……。
ぐるる……とドアの前で唸る妹。
その両肩を押して、電車ごっこよろしくベッドのほうまで歩かせる。
「『はいはい』ってなに!? なに説得されちゃってるわけ!? 鷹平はあの人の肩を持つんだっ!?」
「別にそういうのじゃないよ……」
肩に重みを乗せると、美虎は思いのほか素直にベッドの端に座った。
「じゃあどういうわけ!?」
「だから、上手いこと2人の間をとってだな……」
美虎をなだめながら、折衝案を出した。
「そのうち”あの人”、出掛けるだろうから。そしたらお前、下の風呂入れ」
角が立たないよう、美虎の真似をして母親を三人称呼び。
それが効いたのかは分からないが、美虎の声がすこし冷静になった。
「……いつ出掛けるの?」
「そのうちだ、多分」
「ほんとね? 入っていいのね?」
「ああ」
チャレンジしたことはないが。
はたから見ればこいつは猫なわけで、俺には見えない体毛が風呂場に散乱するとか、そういうファンタジーな事件が起こらないことを祈ろう。
「……まぁ、なんとかなるだろ」
「絶対よ?」
「分かった分かった」
「2回言わないで、ムカつくから」
「分かった」
「毎日入っていい?」
「……それは無理」
「週一くらい?」
「……どうかな。約束はできねえけど」
なんとかするよ。
そんな意味合いを言外に込めて、俺は頷いた。
美虎もそれを察知したらしく、ようやく尻尾を膨らますのをやめた。
「ならいいけど」
美虎が、ふいっと顔を背ける。
俺はそれを見て、ひと仕事終えたような心地になる。
時計に目をやり、母が買い物にでかけそうな時間を予想していると、ぽつりと美虎が言った。
「……鷹平はどっちの味方なの」
「ん? どっちって?」
「あの人か、あたしか」
美虎が、静かに俺を睨んでくる。
それは──言わなきゃ分からないのだろうか。
ペットアレルギーの母さんを説得して、こいつを家に連れ戻した経緯を見れば明らかだと思うのだが。
「……そりゃ、お前だよ」
すこし気恥ずかしかったが、きちんと言葉にする。
美虎は尖らした唇をむずがゆそうに動かし、
「あっそ」
まるで破顔してしまうのを誤魔化すかのように、ぷくりと頬を膨らませた。
不思議なことに、妹の呟いた『あっそ』という言葉が、俺には『ありがと』と言っているように聞こえた。
ふいに訪れた経験したことのない感覚に、俺は少し戸惑った。
◇
夕方。
母がようやく出て行ったので、美虎を風呂場に連れてきてやった。
「──〜〜♪」
シャワーに混じって鼻歌が聞こえてくる。
さっきまで喧しかったくせに、こういうときだけやけに機嫌がいい。
俺は脱衣所のドアにもたれながら、玄関を見張っていた。といっても、母は買い物に出ると2時間は帰ってこない。まぁ何事もなく終わるだろう、とだいぶ気を抜いている。
そんな調子で俺は、先ほどの美虎の態度を思い返していた。
美虎は分かりやすく“ツンデレ”だ。
だが、昔からそうだったわけじゃない。むしろ真逆だった。
小学生時代──まだピカピカの一年生だった頃の美虎は、俺が引け目を感じるほど、素直で、可愛い奴だった。
『わ、ありがとうお兄♡』
学童では、美虎の分のおやつまで毎日俺が取りに行っていた。周りへの体裁もあったが、なんだかんだ、美虎の嬉しそうな顔を見るのが好きだったのだ。
俺が中学に上がり、学校が別になってからも、時間が合えばチャリで迎えに行ったりした。
『お兄だ〜〜〜いすき♡』
後ろから抱きついてきて、照れもせずそんなことを口にしていたのは……小学校の中学年くらいまでだったか。
あいつの好意を素直に受け止められなくなったのは、俺の方だった。
高校受験のストレスで余裕がなくなり、俺は段々と美虎を遠ざけるようになった。
ある日『宿題を見てほしい』と言われたときに、解き方ではなく答えだけを教えて、突っ返したことがあった。
そんな俺を、美虎がどんなふうに見ていたのかは分からない。
ただ、いつの間にか呼び方が「お兄」から「鷹平」になったことを思えば、兄として頼る対象ではなくなったんだろうな、とは思う。
やがて美虎に思春期が訪れると、俺たちはまったくと言っていいほど口を利かなくなった。
家の中を、コミュニケーションを取れない異星人が歩いている。そんな感覚で、俺は日々妹とすれ違っていた。
だから──、
ある意味ではこいつを猫にしてくれた神様に、感謝しなきゃならないのかもしれない。
ツンデレだろうと何だろうと、俺たちの間に”会話”を取り戻してくれたのだから。
◇
30分ほど経ち、脱衣所から声が上がる。
「鷹平でたー」
「入るぞ」
確認をとってから脱衣所に入ると。
「これ貸して?」
美虎は畳んであった俺のパーカーを勝手に着ていた。
「それ俺が今日着る予定だったんだけど」
「いいでしょ、あんたはいっぱい服持ってるんだし」
「別にいいけどぶかぶかじゃねえか。てかズボンも履けよ。生足じゃねえか」
「履いてるわよ、これ」
そういってパーカーを手繰し上げると、ぴらっとプリーツスカートの裾が覗いた。
「ズボンを履けっつってんだよ。冷えるぞ」
「まだ暑いし。ゴワゴワするし。しっぽ濡れてるし」
わしゃわしゃとバスタオルで髪の水分を拭き取りながら、美虎は脱衣所から出て行った。
「垂れてる垂れてる、水滴が」
尻尾を引きずって歩くから、美虎のうしろに水の線が続いた。
「ちっ……拭くとこ増えんじゃねえか」
後始末は俺の役目なのだ。
とりあえず浴室に問題がないか確認する。
がらりと開いた蛇腹のガラス戸の向こう側。窓は開けておいてくれたようだが、ムッと湿った空気が顔にまとわりつく。
「……別に毛は落ちてねえな」
浴室の床は、綺麗なもんだった。
それよりも、ほのかに残る”女子の香り”がやたらと俺をどぎまぎさせた。
「変態」
「──なっ!?」
いつの間に戻ってきたらしい美虎が、ドアのところでくすくすと肩を揺らしていた。
「……なんか忘れもんか?」
バスマットで足を拭きながら美虎に尋ねる。
「べつに。ママのヘアゴム、一個なくなっててもバレないよね」
「いいんじゃね」
「やっぱいいや」
「何だよ」
ふっと美虎が笑う。
「なんでもない。いこ」
そういって美虎が体をぶつけてきた。
「ってえな、何だよ」
「なんでも」
何だかまぁ、機嫌は良さそうで。
足元の水気を拭き取りながら、ちょっと面倒だが風呂に入れてやって良かったかなと思った。
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