第10話 光さんのコーヒーは美味いはず


 今日も曇り空だが汚染地帯に比べれば明るくて綺麗なもんだ。汚染地帯は常に灰色の空で晴れているのか曇っているのかさえも分からない。

 調査報告を作成するため、朝からラグナの簡易住居に集まっていた。

 ラグナの事務所は古いプレハブでドアの建付けは悪く窓のサッシには錆びが多い。綺麗ではないが雨漏りはなく風風塵も吹き込まない。

 ここはそれで充分だろう。住む訳ではなく物置みたいな扱いだからな。妙に新しいデスクの上にラグナが報告書を広げた。

「……つまり、変異型はゾンビの子どもを治療していた……と」

「本気で治そうとしてたみたいだな。ベッドも二台あった」

「ええ。治療のつもりだったのでしょう。ゾンビが寝る必要はありませんから」

 光さんの声は、どこか痛みを含んでいた。

 ラグナはペンを止め、しばらく真剣に考え込む。

 俺はその横で、錆びた椅子に腰を下ろし、軽く揺らした。ギィ……という音が静かな部屋に響く。

「光さん、あいつ……最後まで子どもを気にかけてたな」

「……はい。必死でした。最後まで母親でした」

「皮肉な話だ。人間より、人間らしかった」

 笑って言ったつもりだったが、喉が詰まった。

 あの変異型は、自分の子に“人間の子供”を食わせて治そうとしていた。

 絶望の理ってやつは、本当に壊し方のセンスがいい。


 光さんがポットを持ち上げ、お湯を注ぐ。蒸気が立ち上り、古い事務所にやわらかい香りが満ちた。

「コーヒーが入りました」

 俺はカップを受け取り、鼻を近づける。

「光さんはコーヒーを淹れるのが上手い。香りからしてもう美味い気がする」

「……仁さん、これはただのインスタントですよ」

 光さんが苦笑する。ラグナが淡々と付け足した。

「仁的には“情報”を飲んでるんでしょう。貴女が入れたことに価値があるんですよ」

 その一言に、光は照れたように笑った。


 その笑顔は柔らかくて、あの変異型の母親を思い出す。

……いや、違う。もっと昔の誰かに似ていた。

 血の気のない唇、擦れた声、あの腕の温度――。

 音も、匂いも、時間も、唐突に“そこ”から戻ってきた。


『仁……殺しちゃ駄目よ……生きてるの。……が壊せば、……の世界は終わる……』

 優しい声だった。笑うときのえくぼも、手の温もりも覚えている。


 その手が――俺の喉を掴んだ。

「……なんで……母さん……?」

 視界が滲む。あの優しい手が、俺を殺すのか?

 母は泣きながら、俺の名を呼んでいた。

『……仁……ごめんね……ごめんね……』

 その涙が頬に落ちた。温かいのに、冷たかった。


――俺が悪いのか? 俺は、何をした?

 あぁ、なぜ――。


「仁くん?」

「……ああ、なんでもない」

 笑って誤魔化す。

 光の入れたコーヒーはぬるくなっていたが、香りだけはまだ残っていた。


「ラグナ、報告書はどうする?」

「そうだな。『知性型個体の発見。対象は感情を保持。敵意なし。最終的に暴走後、討伐』となる」

「味気ねぇな」

「報告書とはそういうものです。感情を混ぜると次の判断を誤りますから」

 乾いたペンの音が、まるで時計の音みたいに響いた。

 整然としているのに、どこか空っぽな音だった。


「……ねえ、仁くん」

「あの人は、本当に助けたかったんだと思う。だから壊れた」

「助けたい気持ちが子どもを食わせたんだ。笑えない話だ」

「でも、あの人は最後まで母親だった」

「……そうだな」

 俺は再びカップを見つめる。

 液面に、光の顔がぼんやりと映る。

 あの優しさが、いつか誰かを救うなら――俺も、まだ笑えるだろうか。


 カップを傾ける。味はやっぱり分からない。

 でも、香りは覚えている。

 その香りは、遠い昔の“家の匂い”に少しだけ似ていた。


 

 

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