第20話 闇、蠢く(第一章・終)
それから数週間。
朝も昼も、黒い影は現れた。
路地裏の排水口から、港の水面から、校舎裏の用水から――。
光を避けることなく、まるで世界の境界が薄くなったかのように。
「右、二歩!」
「うん――!」
風の刃が影の進路を逸らし、青い偃月刀が弧を描く。
澪と琥太郎の動きは、もう迷いがなかった。
斬らない。壊さない。
ただ、力を返す。
影は自分の重みで崩れ、黒い水に変わって地へ吸い込まれた。
息を整える。
潮の匂いと、街の生活音が混ざり合う。
戦いの跡は誰にも知られないまま、ただ海風だけがその場を通り過ぎていく。
港の防波堤に腰を下ろすと、亀王がスポーツドリンクを差し出してくれた。
キリンは飴玉を配り、少し照れたように笑った。
「ありがとう」
「助かった」
澪と琥太郎が声を揃える。
少しの沈黙のあと、澪がぽつりと呟いた。
「……増えてるよね、回数」
「うん。しかも昼間が多い」
琥太郎は海面を見やった。
《誰かが呼んでいる。線の外から、理を乱して》
胸の奥で、ビャコの声が響く。
澪の中にも、セイの声が重なった。
《流れの歪みが続く限り、潮は形を変えて寄ってくる。》
ふたりは視線を合わせる。
互いに何を聞いたのか、言葉にせずとも分かる。
「……神話の話、思い出す」
澪が言った。
「“黄泉の怒り”って、たしか――」
「『おまえの国の人間を、日に千人殺す』」
琥太郎が静かに続けた。
風が一度だけ強く吹き抜け、港の旗を鳴らす。
《呪いではない。理が動くたび、死もまた形を取る。》
セイの声が、内側でさざ波のように響いた。
《それは、遠い昔に始まった約束。今も破られていない。》
遠くで汽笛が鳴った。
四人はしばらく黙って海を見ていた。
――そのころ、深いところ。
光の届かない底で、黒い粒が集まっていた。
砕けた影の欠片、沈んだ声、冷たい水の記憶。
それらがひとつの渦になり、ゆっくりと形を得る。
「白き風。青き龍。……理が息を吹き返すか」
水の幕を裂いて、仮面のような影が現れた。
目の位置は空洞。声だけが濁流のように響く。
「ならば、こちらも“国”を作ろう。
千の命を糧に、闇の国を――」
海底にひびが走り、泡のような黒い球体が無数に生まれる。
球は水を押しのけ、ゆらゆらと浮上していく。
それは、まだ“名を持たない存在たち”。
――再び、防波堤。
雲の切れ間から光が差し、水面が銀の鱗に変わる。
澪は短い髪に触れ、角度で青がちらりと揺れた。
琥太郎は立ち上がり、潮風の流れを読む。
《来る。次は人の多い場所》
セイの声が内側で囁く。
《油断するな、返す力を忘れるな》
ビャコが琥太郎の心に重ねるように言った。
「止める」
澪が頷く。
風と潮が、静かに交差した。
ふと、澪が言う。
「……イザナミは千人を奪うって言った。――でも、イザナギは」
「『ならば、日に千五百の産屋を建てよう』」
琥太郎が続けた。
《生は負けていない》
《そうだ。理はまだ終わっていない》
風が頬を撫で、海面がわずかに逆流する。
その小さな変化を、誰も気づかないまま。
ふたりは歩き出した。
朝と昼のあいだ、日常と異変のあいだ――
その細い境目を、確かに踏みしめながら。
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