第弐夜「嘘の代償」
オフィスの時計が十時を指した。
蛍光灯が一つ、また一つと沈んでいく。
最後に残った自席だけが、夜の海に浮かぶ小島のように見えた。
「……また、嘘をついた。」
声に出した瞬間、胸の奥で硬いものが軋んだ。
後輩が資料を誤って削除したとき。
上司の眉間が深く寄ったとき。
気づけば、手が上がっていた。
「それ、私の確認ミスです」と。
誰も否定しなかった。
その場の空気だけが、わずかに安堵に染まった。
翌日、後輩は辞表を置いて去った。
理由も、引き留めの言葉も、何もないまま。
――五年前にも、似た夜があった。
理不尽に責められる誰か。
冷たく固まる空気。
沈黙によって形づくられた処刑台。
そのとき私は何も言えなかった。
去り際の彼女は、笑っていた。
その笑顔だけが、今も喉に刺さっている。
今回も同じだった。
「大丈夫だよ」と言えたかもしれない。
「一緒に謝ろう」と言えたはずだった。
なのに私は、嘘で塞いだ。
――彼女の逃げ道を、
嘘で塞いだ。
雨が降り始めた。
街の灯が滲み、どこかで小さな鐘が鳴った。
その音が近づくにつれ、
雨脚がぴたりと止まった。
時計が止まる。
息を呑む。
雨の匂いの奥に、焙煎の香りが忍び込む。
視界の隅に、青い光が揺れた。
知らない路地。
一輪の青薔薇。
濡れた花弁が光を返すと、扉が静かに開いた。
中に入ると、外の音がすべて閉ざされた。
焙煎と古紙の匂いが満ち、
床板が柔らかく鳴った。
「……どなたか、いらっしゃいますか?」
空気が震え、奥の扉が開く。
書斎の中央に灯る蝋燭。
その向こうに、花狼めるが座っていた。
灰銀と群青が溶け合う髪。
胸元の青薔薇。
左右で色の違う瞳。
狼の耳が静かに傾いている。
「……こんな夜に、言葉を探しに来られたのですね。」
めるは本を閉じ、座るよう促した。
「……何も、なかったんです。」
声が震える。
「誰も責めなかった。
誰も傷つかなかった。
だから、何も……」
嘘だった。
自分への嘘。
「私は……怖かっただけなんです。」
言葉が零れた。
「“ありがとう”って言われるのが怖かった。
期待されるのが、怖かった。
だから、先に嘘をついて……
守ったふりをして……
自分だけ逃げたんです。」
胸の膜が破れ、息がかすれた。
「……嘘は、恐れの中で生まれるもの。」
めるが囁く。
「灯となり、周囲を照らしてしまう。
けれど、自分の影だけは長くしてしまう。」
沈黙。
「あなたが守りたかったのは、後輩ではなく……
“責められないあなた自身”ですね。」
彼女の肩が震えた。
「けれど、その痛みを見つめられるようになった今、
その嘘はもう、意味を持ちません。」
蝋燭の炎がやわらかく揺れる。
「……どうか、ご自分を責めすぎませぬよう。
嘘もまた、真実へ辿るためのひとつの道なのです。」
気づけば、雨の音は消えていた。
夜気が澄み、冷たい光が漂っている。
「……外へ。」
扉の向こうに、青薔薇が咲いていた。
雨粒を抱いたまま、朝を待つ光。
胸の奥で、小さな灯が息をした。
「……嘘をつかなくても、生きていけますか。」
自分でも驚くほど、穏やかな声だった。
その背に、
めるの声が静かに届く。
「……あなたの灯は、まだ消えておりません。」
夜がほぐれていく。
足元の石畳に、薄い夜明けが滲んでいた。
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