31話 溶ける誤解。



人通りの少ない路地裏。

冬の刺すような寒気の中、少年たちは落ちていた棒をそれぞれ拾い上げた。


 「剣士の真似事か?」


半袖姿の少年が棒を振り回しながら、冷やかすようにブラットを見た。


 「君が最初の相手?

  いいよ、いつでも――」


ブラットは静かに構えを取る。


 「ははっ、指名かよ!

  やってやるっ!」


勢いよく踏み込んだ少年――

次の瞬間、乾いた音が響いた。


ブラットの棒がわずかに揺れたかと思えば、相手の棒はあっさり宙を描いて地面に転がっていた。


 「……え?」


手から棒が消えたことに気づくまで、少年は一拍遅れた。


ブラットは微動だにせず、まだ構えを解かない。


 「僕は剣士じゃなくて、“騎士”だ。

  正確には、これからなる

  予定だけど」


少年たちは目を丸くし、互いの顔を見合わせて青ざめた。


 「そ、そんなの……

  関係あるかよ……」


強がった声は震えていた。

どんぐり頭の少年が、恐る恐る棒を構える。


 「次は君だね」


ブラットが一歩、静かに踏み出す。


再び、乾いた音。

少年の棒は無力に弾かれ、宙で回転して石畳に落ちた。


 「うわっ……!」


尻もちをついた少年の前に、ブラットの影が落ちる。

構えた棒の先端が、少年の顔の前でぴたりと止まった。


 「“ママ”…いや、母さんや僕を

  侮辱したことを――謝れ」


低い声。

怒鳴りではない。

大切なものを守るための、静かな決意に満ちた声音。


 「ご、ごめん……悪かったよ……」


完全な実力差を前に、少年は頭を下げた。

周りの少年たちも、つられるように頭を下げる。


ブラットは、ふっと表情を緩めた。


 「許してやる」


構えを解き、背を向けて歩き出す。


背後で小声のざわめきが起こった。


 「……すげぇ……」

 「騎士って、子どもでもあんなに

  強いのかよ……」


路地を抜けようとしたとき、背後から足音がわらわらとついてくる。


 「なんでついてくるの?」


振り返ると、少年たちがそろって顔を赤くしていた。


 「お、俺たち……感動しちゃって……」

 「その……子分にしてくれ!」

 「さっきの、カッコよすぎ……!」


ブラットは目を瞬いた。


 「……子分は無理だけど……

  友達なら、いいよ!」


一瞬の沈黙。そして――


 「ほんとか!?」

 「やったぁ!」

 「友達……!」


ぱあっと明るくなる少年たち。

ブラットの胸にも、ふわりと温かさが広がった。


こうして――

ブラットに“初めての友達”ができた。


その様子を、路地奥の影から静かに見つめる男がいた。

騎士ライアンだ。


 「……うっ……坊っちゃん……」


鼻の奥がつんとし、慌てて袖でそっと目頭をぬぐう。


 「立派になられて……

  奥様譲りの優しさまで……」


誇らしさの奥で、一点だけ影が落ちる。


 「……しかし相手は平民の子ら。

  旦那様が知れば、きっと

  “身分をわきまえろ”と

  叱られるだろうな……」


胸に不安がよぎる。

 

だが、ブラットと少年たちの笑い声が重なって響くと――

その不安は、ゆっくりほどけていった。


 「……まぁ、奥様がなんとかして

  くださるだろう。

  今の旦那様は奥様に夢中だ……」


ライアンはそっと息をつき、一定の距離を保ちながらブラットのあとを追う。


その背中には、

誇りと、わずかな不安、

そして揺るぎない愛情が寄り添っていた。


――


そのころ――

ブラットが友を得ていた裏で、屋敷は荒れに荒れていた。


 「ロイ、入れ!」


入室する騎士のロイ。


 「医者を手配しろ!

  ノアが……俺の子を身籠ったと

  言い出した!」


 「えええっ!?

  ……はっ、失礼しました!」


 「案ずるな!

  仮に妊娠が事実でも、

  断じて俺の子ではない!」


怒声が室内を震わせた。


――“俺の子ではない”。

イネスの心が、ふっと軽くなる。

その様子からして、ノアの妊娠を知らされてもいなかった。

おそらく――彼女の嘘。


張り詰めていた心の糸がほどけ、涙が出そうだった。


イネスは席を立ち、水を汲んでひと口飲んだ。

目の端でイネスを追いながら、ダニエルは続ける。


 「身重の女をいきなり

  追い出すわけにはいかない……。

  だが、妊娠が嘘なら――

  即座に追放しろ」


ロイが深く礼をして出ようとした、その時。


 「待て。諜報員も雇え。

  屋敷を出た後の動向も探らせろ」


扉が閉まり、ダニエルとイネスだけが残された。


ダニエルは背を向けるイネスの手を引き、そっと振り向かせた。


 「イネス、信じてくれ……

  夜、彼女が俺の部屋へ来ていた

  理由は、子供たちの報告を聞くため

  だった……」


ダニエルはイネスを一心に見つめる。

その瞳には、お互いの姿しか映っていない。


 「……彼女は、一晩あなたの部屋で

  過ごしていたと言っていたわ……」


 「……はぁ……それならきっと、

  あの時だ……

  酔って寝て……気づいたら朝、

  彼女がまだ部屋にいたんだ……」


完全には信じられない。

けれど、嘘をついているようにも見えない。


 「あと、動向を探らせるって……

  どういうことなの?」


問いに、ダニエルは苦しげに息を吐く。


 「……言い訳がましく聞こえるかも

  しれないが……

  彼女はおかしい……不気味だ……」


ノアの赤黒い手の痣が脳裏に浮かぶ。


 「“俺が彼女を好きだった”なんて、

  本来あり得ないんだ……」


怒りとも羞恥ともつかない表情。


 「兄妹みたいに育った。

  でも、彼女を一度も女として

  見たことはなかった……」

 「彼女が結婚したときも、笑顔で

  見送った……」


声が震える。


 「それがある日突然、

  彼女が屋敷部屋って来て……

  以来、頭がおかしくなったんだ……

  あれは……

  どう考えても“洗脳”に近い」


視線が揺れ、怯えたように声がかすれる。


 「心も頭も狂っていた……

  君を嫌いになったのも、彼女を

  求めたのも、全部仕向けられたと

  しか思えない。」

 

 「……だから、調べさせる」


ダニエルはイネスを強く抱きしめ、崩れ落ちた。


 「……俺が愛しているのは、

  “君”だ。イネス……」


跪き、見上げて告げるその姿は痛ましいほどだった。


胸が苦しい。

イネスは目をぎゅっと閉じる。


  「……ダニエル……っ……あのね……」


イネスはネックレスに触れる。

――“エンリケ”。

この石が引き起こした異変。

彼の混乱はすべてそのせいだろう。

回帰前の彼は、彼女を愛していた…

 

  全部話さなきゃ……ちゃんと。


イネスが覚悟を決め、口を開いた、そのとき。


 「イネス……」

ダニエルが先に言った。


 「――俺だって、君と同じように……

  時をさかの――」


 タッタッタッ……


小さな足音が、ふたりの言葉を断ち切った。


 「ただいま!!

  あーっ、すっごく楽しかったぁ!」


ブラットが帰ってきた。


 「…………あれ?

  父さん、なんか悪いことしたの……」


母の前に跪く父。

ブラットの目には、父が“怒られている”ようにしかみえなかった。


 「う、ううん……違うのよ……

  そうじゃなくて……」


イネスは慌ててダニエルの手を取り、彼を立たせる。


 「……僕は……喧嘩してほしくない」


 「け、喧嘩なんてしてないわよ……

   ね?……ねっ、てば……」


ダニエルは黙ったまま。

暗い影を落としたまなざし。


イネスが苦笑しながらブラットに向き直る。


 「……大丈夫よ、ブラット。

  わたし達は仲良しよ!ね?

   ほら……」


言いながら――

イネスは勢いよくダニエルを抱き締めた。

ダニエルの背をそっと擦る。

ブラットに取り繕うためでもあり……

イネス自身が、そうせずにはいられなかった。


 「きゃっ! ま、待って……」


力のなかったダニエルの体が、堪えていた何かが切れたかのように、突然ぐっとイネスの腰へ腕をまわし、強く引き寄せた

 

  「命あるかぎり、君を守ると誓う……

   これからの人生、すべてを

   掛ける」


頬を伝う涙。

赤く充血した瞳には、一点の曇りもない。


  「……イネス……君は、俺の妻……

   愛してる。心の底から………」


いつもは空みたいに澄んだその瞳が、今は嵐の海のように揺れている。


その奥には――不安げなイネス自身の姿が映っていた。


イネスは鼻をすんと鳴らし、何も言わずに頷く。


  ――もう、やめよう。

  あれこれ考えるのは……


イネスは微笑む。

彼の瞳に、笑った自分を映していたい――そう思った。


  わたしも、あなたを愛してる

  いつか、伝えられる日がきたら……


イネスは、頬に伝うダニエルの涙を指の背でそっと払った。




 ――次話予告

診察拒否――暴かれるノアの素行。

ジャネットからの牽制。

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