26話 片思いの恋は盲目。



契約


 「では、以上でよろしければ、

  こちらにご署名を……」


 「……あっ、今日はこの間の家主さん、

  いらっしゃらないんですね?」


 「ああ、ええ……

  そのための仲介ですからね…ははっ…」

 「な、何か不都合でも……?」


 「いいえ、まったく問題ありません」


物件斡旋組合を通して、イネスの新居が決まった。

身元の保証人はマルセル。


 「お待たせ、マルセル兄さん。

  鍵をもらったわ!

  何から何までありがとう」


外で待っていたマルセル。

イネスは鍵を見せ嬉しそうに笑う。


 「気にするな。君が落ち着ける場所が

  見つかって、本当に良かった」


マルセルは穏やかだった。

声には、彼女が“もう夫のもとへ戻らない”という確信めいた喜びが、隠しきれずに滲んでいた。 

 

イネスの鼻先が、少し赤く染まる。

寒そうにするイネス。


 「工房に寄っていかないか?

  熱いお茶でも飲もう。」

 「――それに、君が使いやすいように、

  小型の縫製盤も取り入れた。

  見て確認してほしい」


イネスの横顔を見つめるだけで、彼女を抱き締め、キスをしたい衝動に駆られる。

胸の奥で疼く想い。


 「……あの、えっと……

  もう少しここにいたいの。」


レンガ造りの、年季の入った屋敷。

一階は古書の香りが漂う書店。

三階には、この建物の主である老夫婦が暮らしている。

そして――

そのあいだの二階に、イネスの部屋があった。

 

 「ああ、そうだな」

 「けど、家具が届くのは明日だろ?

  ここにはまだ何もない」


 「……そうだけど、ここの雰囲気が

  好きで、もう少しだけここに

  いたいわ。」

 「それに、来週にはのんびりも

  できなくなるし」

 

イネスは生計を立てるため、まずマルセルの工房で働くことになっている。

オーダー中心の自分の店を持つのはまだ先の夢。

まずは腕を磨き、信頼を得ることが目標だ。


 「……そうか、なら食事はここでとろう」

 「何か買ってくる」


 「あっ……いいの。

  マルセル兄さんは、まだやること

  残ってるでしょ?

  工房のみんなが待ってるわ。」


  ――二人でいるのは、あまりよくない……


あの嵐の日以来、イネスはマルセルとの間に、心の距離をわずかにとっていた。

今の彼女には、彼の気持ちに答える気はない。

都合よくも、昔のよしみあり、あくまでも、"妹のような存在"でいたかった。

 

彼女の気持ち。

それは、マルセル自身も察していた。

けれど、引く気など微塵もない。

 

――この想いは、過去にも、そしてきっと未来まで変わらないだろう。

 

 「わかった。

  食事だけここ済ましたら、すぐ帰る」

 「昼食はパンでいいかな?」

   

 「ええ……ありがとう」


マルセルが振り返ると、彼女は穏やかに笑っていた。


新天地の屋敷を眺め、レンガに絡む蔓。

その外観にさえ、イネスの心が浮き立つ。


マルセルも釣られて浮かべる微笑。

しかし、その笑みは優しさだけではない。

 

  ――イニー。

  君があの屋敷をを出たら、もう俺は

  手加減しないだろう……



――



授業


 「ジェイコブ先生、

  別居ってなんですか?」


ブラットが真剣な顔で尋ねる。

家庭教師のジェイコブは、赤毛でくるくるした髪が印象的だ。


その質問に、しばらく言葉を失った。


 「ブラット、やめろよ!」

 「先生、無視してください。」


キリアンはブラットを睨む。


 「ブラット君……なぜそんな言葉が

  気になるのですか?」

 

 「ノアが、言ってたんだ……」


 「おい、やめろ……ブラット!」


ブラットはキリアンに構うことなく、質問を続ける。


 「ママがここから居なくなるって。

  また前みたいに“四人家族”に戻るって

  言うんだ……」


ジェイコブは少し困った顔をして、座るブラットの目線に合わせてかがむ。


 「別居というのは、別々に暮らす。

  という意味です……」


 「やっぱり、そうなんだ……」


ブラットの目に、うっすらと涙が浮かぶ。

大好きな虫の話を、一緒に楽しんでくれるのは、母のイネスだけだった。


  「アゲハ蝶になった姿を、一緒に

   見ようって約束したのに……」

  「もう、無理なのかな……」


箱で飼っていたアゲハの幼虫。

寒い冬を乗り越え、蛹が春になり蝶になる姿をイネスも楽しみにしていた。



  「……別居といっても、会えなく

   なるわけではありませんよ。

   きっとお二人、会いに来てくれる

   ことでしょう」


ブラットは少し安心したように笑った。

しかし、キリアンの胸の内は違った。


  ――あの人は僕に怒っている。

  だから出ていくのかもしれない……


自分を責め、胸が苦しい。小さな胸は張り裂けそうだった。




---



執務室



執務室の扉が開く。

いつも無表情のセオドリックが、どこか上機嫌で書類を抱えて入ってきた。


  「……おい、セオドリック」


ダニエルは眉をひそめる。


  「お前、どうした。

   なぜそんなに浮かれている?

   気味が悪いぞ」


  「えっ、顔に出ていました?」


セオドリックは耳まで赤くなり、視線をそらす。


  「恋をすると、誰だってこんな

   顔になりますよ。」


  「……恋? お前が?」


 「はい!!

  隣国から来られた女性でしてね。

  亡きご主人の形見を売りに

  遥々ここまで……

  慎ましく、それでいてどこか儚く

  美しいんです」


語り始めると止まらない。


  「ほら、この間の市で少しだけ

   話しまして。

   あの方の布は手触りが全然違って――

   ああ、思い出すだけで胸が――」


  「……はぁ、うるさい」


  「……あと、それよりいいんですか?

   奥様、本日新居の鍵をもらう日

   ですよ?」


  「おい! 明日じゃないのか!?」


  「明日は、奥様が手配していた家具が

   届く日です」


  「お前、浮かれすぎだ……

   報告がなかったぞ!」


  「はは……すみません……」


ダニエルは怒り、上着を手に取り足早に出ていった。


  「恋は盲目……お互い様ですね」


セオドリックは、たまった書類に手を伸ばした。



---



新居

 


マルセルは窓から外を覗き込む。


 「この通りをすぐに右に曲がれば、

  パン屋がある」


イネスは質素な部屋で、立ったままチーズパンをかじりつく。

椅子もテーブルもないが、それでも新しい生活の始まりを感じさせる。

空の部屋なのに、不思議と“ここが自分の居場所だ”と思えた。

 

 「パン屋、肉屋も確認済みよ。

  ここは綿密に調べたの」

 

 「ここは乗合馬車の停留所も近くて

  便利だな」


窓から、連なる建物の間から、学術院の尖った屋根が覗ける。

ここへ住む決め手はそれだった。

 

外は帝都・学究区の喧騒。

石畳を学者や職人が忙しなく行き交い、研究棟と工房が肩を並べる。

海外からの知識と品が絶えず流れ込み、空気も香りも、イネスの住む北端の山岳街メッカとはまるで違う。


冷たい風が吹き抜ける中、イネスがふと二階の窓から通りを見下ろした瞬間――

いた。

黒い外套に身を包み、ただそこに立ち尽くす男が。


視線が交わり、イネスの心臓が跳ねた。

息も忘れ、手が小さく震れる。


  

  ――どうしてあの人が……?


 

  「イニー……窓を閉めよう」


マルセルの声は静かだが、彼女を守る決意が滲んでいる。

階段に重い足音が響く。

ダニエルへの警戒が強まる。

  

ダンダンッ……

ノックではない、扉を叩くような音に、イネスは小さく跳ねた。


マルセルが扉を開ける。


 「……伯爵様、随分と早いご訪問ですね」


ダニエルは無意識に扉の縁を握る。

その鋭い視線に、イネスは自然と目を伏せた。


 「なぜ貴様が……?」


 「ちょうど通りかかっただけです。」


マルセルは微笑み、余裕を崩さない。

沈黙が二人の間に流れる。


ダニエルは目を細め、低く息を漏らした。


 「……構わん、すぐに帰ってくれ」


 「お二人の状況を少しだけ、

  彼女から聞きました……」


マルセルは静かにダニエルを見据える。


 「……それで?」


 「彼女と二人きりにはさせません。

  伯爵様がお帰りになるまで、私も

  ここにいます。」


ダニエルの拳がわずかに震え、胸ぐらを掴みかかろうとする勢い。


 「待って……ダニエル!」

 「……あなた、ここに何しに来たの?」


冷たい瞳でイネスを見つめ、薄く笑うダニエル。


 「……困るじゃないか。

  俺が知らない場所に君がいるなんて」


扉の留め具が錆び弛んでいる。

ダニエルは小さく舌を鳴らす。


 「……あの日、言っただろう。

  "根を上げるまで追い続ける"と……」


イネスの瞳が揺れる。

頭の中は疑問でいっぱいだ。


ダニエルは部屋に入り、窓から外を眺めた。



 「想像よりも快適そうだな。」


冷たい光がその顔を刺す。

黒革の靴が床に音を立てず慎重に触れ、狭い部屋を静かに横切る。

一歩ごとに、空気が張り詰めていくようだった。



 「……君が住む場所を、俺が

  把握していないとでも?」

 

部屋に静かな緊張を落とす。


 

 「だが、俺もここへは、今日初めて

  来たんだ。」      

  「……三階もここと同じ作りらしい」


古い壁紙に、木枠の窓。

彼の髪と整った身なりは、この屋敷には不釣り合いだった。


 「……三階?いったい何の話――」


 「この屋敷を買い取った。

  俺は、ここの三階に住むことにした。」


 「……な、なんですって!?」

 

ダニエルは含み笑いを浮かべ、イネスより先にマルセルを見た。


 「彼女のいる場所が、俺の居場所だ」

 

黒い瞳の奥に、噛み殺した獣のような怒気が宿る。

その刃は、まっすぐマルセルへ向けられている。


  ――“俺の妻”だ。手を出すな。


凍った空気。

マルセルは微動だにせず、その視線を正面から受け止めた。


  ――苦労知らずの大貴族がここへ?

  笑わせるな。

  

マルセルは口角を上げる。

"やれるものならやってみろ"!

そう挑むような、余裕の微笑だった。



 

 ――次話予告

わーい!ここは秘密基地!

ママ、僕は嬉しいよ。

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