20話 嵐は愛を狂わせる。
雲ひとつない空。
それなのに、湿った風が鼻をくすぐる。
土と草の匂いに混じって、雨の気配がする――
空は静かだというのに、心だけがざわついていた。
ダニエルの直感は正しかった。
上空の風が速まり、ぱらつく雨粒はやがて本降りになった。
「ダ、ダニエル様、どちらへ……?
もうじき大雨です!」
「妻を迎えに行く!
お前達は帰れ、嵐になる!」
冷たい風が一吹き――
胸を締め付ける嵐の予感。
馬に跨がり、駆け出す。
雨と風が全身を打つ。
止められない。
「橋が通れなくなったら、
帰れない……!」
伯爵家とカイロを繋ぐ大きな橋。
荒れれば川に沈む。
「イネスが危険に晒される……!」
手綱を握る指先に雷鳴の光が走った。
万が一、
君に何かあったら……
行かずにはいられなかった。
無事でいてほしい。
ただ、それだけだった。
――
この日、少し早めに帰宅しようとすると、あんなに晴れていたいたのに、突然小雨が降り出した。
言われた通り、馬車で来ていたら、そのまま帰っていたかもしれない。
でもマルセル兄さん――
彼との会話が楽しすぎて、雨が止むまでと、待ってしまった。
――そのほんの少しの気の緩み。
「ダニエルが怒るわ……」
頭の中で、彼の声が自分を責める。
「やっぱり、帰らないと……」
「ダメだ、イニー。
外は本当に危ない」
あっという間に、空は黒く染まり、大粒の雨が叩きつける。
川は氾濫し、橋はぬかるみ通行禁止。
馬車どころか、馬でも帰れない。
工房で働く人々は二人を残して急ぎ帰り、ざわめきも消え、雨音だけが響く静寂が広がった。
「……迷惑かけてごめんなさい」
「俺は嬉しいよ。
一緒にいられる」
濡れた髪から滴る雫が光る。
外を確認しに少し出ただけなのに、彼はずぶ濡れ。
シャツは肌に貼りつき、透けた肌が見える。
夫以外の男に触れられたことも、触れたこともない。
イネスの視線は逃げ場を失ったように揺れていた。
薄暗い部屋で感じる、彼からの視線。
小さな波が胸を打ち、息が詰まる。
「イニー、幸いここには
なんでもある」
「泊まっていくように。」
――トクンッ……。
今夜、マルセル兄さんと、二人きり……。
「行こう、食事だ」
脈打つ鼓動。
戸惑いつつも、彼の背を静かに追った。
案内されたここは、工房隅にある小部屋。
マルセルの、素朴で小さな調理場。
干し肉を炙る香ばしい匂いが広がる。
灯るランプに、整えられた食器。
雨音が、優雅な演奏に思えるのだから
不思議だ――。
時折、目を合わせようと、彼は淡い光を宿した瞳を覗かせる。
それが愛らしくもある。
いつのまにか、彼から目は離せなくなり――
気づけば、雨音さえ胸の鼓動を隠してくれていた。
引き寄せられるように、心は疼いた。
……っ……いけない!!
わたしは一体、何を考えるの?
――でも……。
長い指に、捲った袖から伸びる逞しい腕。
ダニエルよりも、少し色の濃い肌の色。
心が静かに疼き、理性が警鐘を鳴らした。
っ駄目よ……!
マルセル兄さんを前に、何を……
思わず、彼に抱かれたら――。
そんな考えが頭をよぎった。
初恋――マルセルは、イネスにたいしては、
とことん甘く接してくれた。
「イニー」
初めて呼ばれたその愛称は、甘く可愛らしく、少女の胸に小さなときめきを残した。
まるで口に入れたキャンディー。
変わってない……
姿は変わっても、今も昔も、
優しいのは一緒。
雨に濡れた空気が、夏の終わりを冷やした。
暖炉に薪。
早めの冬の気配。
――部屋がじんわり暖まる。
料理の香りがふんわりさせる頃。
やっと、騒がしかったイネスの心も、落ち着きを取り戻した。
――外が嵐だから、
こんな気持ちになったのかも……。
イネスがぼうっとしていると、マルセルが視界に入り込む。
思わず胸は、小さく跳ねた。
「イニー、
俺はちょっと着替えてくる!
軽く食べてて。」
ボタンを外すと、上着をサッと脱ぐ。
「ひゃ……っ」
イネスから声が漏れる。
「可愛いな……。」
マルセルはふと笑い、部屋を出ていった。
今夜、彼女と二人で過ごせる。
マルセルの顔もほころぶ。
――しかし、彼女のことで謎が生まれた。
ふとイネスの手掛けた衣を思い出した。
「あれは見事だった……。」
彼女の手掛けているという、子供服。
洗練されたデザインに、センス……。
一流だ……。
余計にイニーが欲しくなった。
「――でも、どこであれを
身につけてたんだろう。」
イネスの縫製の腕は見張るものがあった。
――そして、何かに、追い込まれているようでもある。
多くを語らない彼女。
ただ、息子の服を作りたいわけ
ではないのだろう……。
「とりあえず、今日は長い……
じっくり聞きだすとするか。」
嵐が、俺に彼女を試させるのだと――そう思った。
彼は、その気になれば、隣国へイネスを拐う気でいた。
「夜はこれからだ――。」
「イニー。」
まるで、獲物を狙う目。
マルセルは、機嫌よく細い通路を抜けていった。
すると――緊張が走った。
……ドンッドンッ……ドンッ……!!
――扉を強く叩く音。
「……誰だ?」
マルセルは、小窓から誰がきたのか確認した。
すると、そこにはイネスの夫――ダニエル。
「はっ……!」
「こんな嵐の中、正気じゃない……。」
マルセルは挑発的な笑みを浮かべた。
そして――扉を、迷うことなく開けた。
「ようこそ、伯爵。」
衣をまとわず、肌を晒したままのマルセル。
ダニエルの視線は、その肌に釘づけになった。
雨音が、まるで心のざわめきのように強まっていく。
瞬間に――頭に血が上る。
「貴様っ……何をしている……!」
普段は隙なく整えられた髪も、嵐で乱れ、額に張りついている。
泥に汚れた靴が床を濡らし、肩からは雨水が滴り落ちた。
それでも――その瞳は、怒りと愛に燃えていた。
「ダ、ダニエル……っ!?」
そこにイネスも駆けつける。
「……無事でよかった。
イネス……。」
ダニエルは安堵し、息を漏らした。
「あの小屋に、うちの馬が
繋げてあったから、きっと君は
大丈夫だろうと思っていたが……」
「心配したんだぞ。
さあ、行こう――」
外は冷たい風に、雨――そして稲光。
「……どこへ行くの??」
イネスは一歩後ろへ下がった。
こんな雨の中、迎えに来きた…!?
木に登り、リンゴ一つ。
葉をつけ笑ったあのときの笑顔を、その胸の高鳴りと、たしかな愛情をダニエルから感じ取った。
――けれど、
ダニエルが差し出した手をとることを、イネスはたらった。
これも"エンリケの力"。
――その一歩を踏み出せない。
マルセルが、驚いたように口を挟む。
「伯爵、外は嵐です!」
「彼女を危険には晒せません」
そして振り返り、イネスの様子を伺った。
イネスの瞳は、酷く揺れていた。
明らかに躊躇っている。
君を――行かせない。
マルセルは拳を握ると、イネスを体で隠した。
「君は、奥で食事の続きを……」
――冷たい風が、部屋の中に荒ぶ。
「待ってくれ、イネス……!」
震える声で呼び止める。
ダニエルは伸ばした手を下げはしない。
「すぐ近くに、屋敷がある。
そこへ行こう。」
「危険です。
彼女はか弱い女性です。」
丁寧な口調に、滲む怒り。
マルセルは、髪を掻き上げ大きく溜め息をもらした。
ダニエルは、マルセルを睨むと、引かずに足を一歩前へ出した。
「貴様の方が危険だ!」
なぜ、この男が裸なのか……。
そんなことは、この際どうでもいい。
イネスを――手放せない。
――ドンッ……!!
「伯爵っ!!
冷静になってください。」
マルセルは、拳を扉に叩きつけ、憤りをあらわにした。
ふざけやがって!
――完全に理性を失ってる。
マルセルは大きく息を漏らした。
「……それなら、
伯爵様もここへ泊まってください。」
マルセルの口振りや態度が、ダニエルの癇に障った。
「こんな所になど、
妻も俺もいられない。」
ここまで死ぬ気でやってきた。
一歩間違えれば、
命を落としていたかもしれない。
ダニエルは、イネスを不安にさせまいと、姿勢を正した。
「大丈夫だ、すぐそこだ。
俺が君を抱えて連れていく。」
男らしくありたいのに、涙がこぼれる。
幸い、頬に降る雨がそれをそっと隠してくれた。
「イネス、頼む。
一緒に来てくれ……。」
イネスの瞳に映るのは、愛を繋ぎ止めようと必死な一人の男――
そして、荒々しく嫉妬を宿した瞳。
「ダニエル、よく聞いて……」
胸にくすぶる背徳の香り。
ほんのわずか、自分も同じ胸の痛みを彼に味わわせたい――
イネスの思いには、密やかな意地と、心の揺れ混ざっていた。
――次話予告
心を乱す嵐の夜。
揺れる想い、抑えきれぬ感情。
暖かな腕の中――。
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