第15話 虚無と虚構
言葉にできない違和感が、
音のない波みたいに広がっていった。
営業中、グラスの氷が鳴るたびに、
その音が胸の奥に響く。
何かが歪み始めている。
それが俺自身なのか、
この街なのか、もう分からなかった。
「カイン、今日も呼ばれてるぞ」
真田さんがVIP席を顎でしゃくる。
視線を向けると、
店の奥のVIP席──麗也がいた。
その向かいに沙耶。
(ナンバーワンがヘルプか…面倒だな)
嫌な予感しかしなかった。
彼女は相変わらず柔らかく笑っていたが、
その笑みの奥に何かが潜んでいた。
“懐かしさ”と“警告”の中間のような何か。
「おい、どうした?」
隣の優斗が肩を叩く。
「いや、ちょっと酔っただけ」
冗談めかして笑ったけど、
自分でも酔っているのかわからなかった。
⸻
麗也と目が合った。
その瞬間、空気が少し冷たくなった気がした。
麗也はVIP席を出て近づいてくる。
「調子いいじゃないか、カイン。
席はあっためておいたからな」
「わざわざありがとうございます」
「どうだ?今月は?」
「いや、俺は…いつも通りです。
安定して売れれば十分なんで」
「安定、ね…」
麗也はゆっくりと煙草に火をつけた。
その動作ひとつひとつが
計算の塊みたいだった。
「この世界で安定なんて言葉、
一番似合わないと思わないか?」
「…そうかもしれませんね」
「ま、せいぜいしっかり泳げよ。
この街は、いつ誰が沈むか分からないからな」
言葉の端が、鋭くそして冷たかった。
⸻
閉店後。
裏口で煙草を吸っていると、
スタッフが小声で話しているのが聞こえた。
「麗也さん、また沙耶さんと話してたな」
「え…ナンバーワンが爆弾とかやばくね?」
「それにあの客、カインさんの
元カノって噂らしいじゃん」
「でも麗也さんとは随分長いらしいよ」
爆弾とは禁止事項全般を指すが、
主に指名客を他のホストが
横取りする行為をそう呼ぶ事が多い。
(そういうことか…)
その瞬間、全ての断片が繋がった気がした。
沙耶が来店した理由。
麗也の意味深な態度。
──面倒なことをしてくれる。
俺が“夜を抜け出そうとした瞬間”、
この街が牙をむいた。
⸻
店の明かりが完全に消えた頃、
俺は店を出た。
階段の下に人影が見える。
その人影はゆっくりと近づいてきた。
「飲み、行かない?たまにはいいでしょ?」
店の階段の下に沙耶がいた。
月明かりに照らされた横顔が、
まるで“過去の幻”みたいに見えた。
「今日は一人でいたくないの。ねえ、付き合ってよ」
「沙耶…一つ聞いていいか?」
「何?」
「…麗也さんだろ?
俺とまだ一緒に住んでた時の指名のホスト」
その言葉を聞いて沙耶ははっとした。
そして力が抜けたようにふっと笑った。
「…気付いちゃったか。そうよ。
まさかあなたと同じ店だとは思わなかったけど」
「何でわざわざ俺を指名した?
昔からの中なら麗也さんを指名すりゃいい」
沙耶は小さく笑った。
その笑い方が、昔と同じで痛かった。
「最初にここに来た時にさ、
麗也に泣きつかれて頼まれたの」
「あの麗也さんが…泣きつく?」
「このままじゃナンバーワンでいられない、
助けてほしい…ってね」
意外だった。あの麗也が女に泣きつくなんて。
「彼が恐れているのが
あなただということはすぐにわかった。
その瞬間、ゾクゾクしちゃったの。
わたしに捨てられて泣いてたあなたが
こんなにもいい男になって
またわたしの前に現れたことに、ね」
俺はこの女の腐った性根に
体温が引いていく錯覚をおぼえた。
「意味がわからない…」
「ナンバーワンを脅かすホストのくせに…
わかってないのね、ホス狂いの女の気持ち」
一瞬、沙耶は目を伏せた。
「…どういう意味だよ?」
「私は自分だけのものにならない男を
自分だけのものにしたいの」
「今の俺はもうお前のものにはならない」
「だからよ。だからあなたを指名したの」
「…意味がわからない」
「ムカつくんだもん。
美穂に心許していくあなたを見てるのがさ」
一瞬、言葉を失った。
彼女の目が、静かに濡れていた。
「でも、もう終わり。麗也もあなたも」
そう言って、沙耶は踵を返した。
その背中が遠ざかるほどに、
俺の中で“信じる”という言葉が
ひどく脆さを含んで見えた。
──虚構の夜。
信じない方が、楽だった。
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