第27話 「言葉の海」後編➖沈む海と囁く影①
海は夜に沈み、夜は海に溶けていた。
月光が海面に一本の道を作り、ユウトたちの小舟はその道をゆっくりと進んでいる。
小舟の先端に立つシフォンは、手にした杖を海へ向けて掲げた。
水面に淡い光が走り、海が一瞬だけ、深い呼吸をしたように揺れた。
「……この下です。言葉を喰う呪物“沈語の核サイレント・コア”があるのは」
ユウトは無意識に喉を鳴らす。
静かな海だ。波も音も小さい。
だがその奥には“聞こえたらいけないもの”が確かに潜んでいる。
『ぷるぅ……ユウト、怖いですぅ……』
「大丈夫だ。離れるんじゃないぞ?」
『絶対くっつくですぅ! 沈んだら浮かぶですぅ!』
「沈む前提で言うな!」
ゴルドはすでに上半身裸になって筋肉を叩いている。
『ふはぁぁ……! 海に潜る前の儀式だ! 筋肉の呼吸だ!』
「潜る気ゼロだろそれ!」
シフォンは深く息を吸い、ユウトに向き直る。
「ユウト様。
海の底では、“声”も“魔力”も乱れます。
ですが――あなたの風だけは、海の中でも生きるはずです」
「理由は?」
「風は“言葉の運び手”だからです。
そしてあなたは“声を拾う勇者”……海があなたを拒むことはありません」
ユウトは拳を握る。
(……怖いけど、やるしかない)
海の底に沈む“言葉の影”。
リュミエルも記憶していない“もう一つの影”。
それを確かめるためにも――進むしかない。
小舟が止まった。
シフォンが杖を海へ向けて突き出す。
「――開け、海よ」
海面が割れた。
本当に、割れた。
水が左右へ大きく押しのけられ、円柱状に海が裂けていく。
『ぷぷぷぷぷるるるる!? 海ぃぃぃ!? 割れてるですぅ!?』
『筋肉が海風にむせ返る!』
「お前はもう何を言ってるのかわからん!」
ユウトは目を疑った。
海が割れるなんて、リュミエルのお茶会バグ以来の衝撃だ。
シフォンが振り返る。
「……ユウト様。
この道は、長くはもちません。
言葉を喰う力に引かれてすぐに閉じるでしょう。
急ぎましょう」
ユウトは頷き、海の割れ目へ足を踏み入れた。
――“海底への道”が広がっていた。
海が割れた隙間の中心部を歩くと、周囲は巨大な水の壁。
魚が壁の中を泳ぎ、クラゲが流れ、小さな魔物たちの影が行き交う。
風の音はないが――
溶けた言葉の“残骸”が脳内で淡くささやく。
(……た……す……け……て……)
(こ……え……が……あ……)
(し……ず……む……)
『ユウト……声、いっぱい聞こえるですぅ……』
「無視しろ。これは“残骸”だ。誰かの声じゃなく、抜け落ちた言葉の層……」
『ぷるぅ……ぅぅ……怖いですぅ……』
ピリィが震える。
海の底へ近づくほど、声は濃くなる。
声でもなく、音でもなく、ただの“意味の亡霊”。
ゴルドが突然立ち止まる。
『おい……今、俺の名前呼ばれた気がしたぞ?』
「それ本物じゃねぇよ! 行け!!」
海底へ向かうたび、頭痛が強くなる。
言葉がねじれる。
音が消える。
海の魔物たちの思考が、ぐしゃぐしゃに混ざりながら押し寄せる。
(なにかが……のぞいてる……)
ユウトの胸に冷たいものが走った。
「……シフォン、なあ」
「はい?」
「お前、この海の異変……本当に“初めて”なのか?」
シフォンは一瞬だけ目を細めた。
「ユウト様……あなたは鋭いですね」
その口調は僅かに温度を失っていた。
「私は“初めて見た”とは言っていません。
――ただ、“忘れていた”と言ったのです」
(忘れていた……?
記憶が抜けている……?)
海底へ近づくほど、シフォンの言葉が妙に曖昧になる。
ユウトは、海底の地面が光っているのに気づいた。
青い光が、円を描いてゆっくりと渦巻いている。
巨大な海底の祭壇。
その中心に――
“黒い球体”
が浮かんでいた。
それは水の抵抗も受けず、重力すら無視しているように見えた。
まるで、世界の概念だけがその周囲から抜き取られているような存在。
『ぷるぅ……あれ……やばいですぅ……』
「間違いなく“沈語の核”だ……!」
球体から発される黒い揺らぎが、ユウトの耳に、思考に、心に、直接ぶつかってくる。
(こ……え……
かえ……せ……
こ……え……を……
しず……ま……せ……)
言葉の途切れ。
音の滲み。
意味だけの残骸。
まるで“黒い言葉の海”。
ユウトが近づくと、球体が反応した。
黒い波紋が海底全体に広がる。
「来るぞ!!」
海底の水壁が揺れ、そこから影の塊が飛び出してきた。
人の形をしているようで、していない。
人の声をしているようで、していない。
“失われた言葉の影”
――沈語の従属体ロストスピーチ。
『ぷるぅぅぅ!? あれ人ですぅ!?』
「あれは“人の言葉の残骸”だ!」
影が一斉に飛びかかってきた。
ユウトは風で弾こうとする。
だが――通じない。
風が影をすり抜ける。
「くそっ! 効かねぇ!」
シフォンが叫ぶ。
「彼らは“意味”だけの存在!
実体がありません! 風では触れられない!」
「じゃあどうしろってんだよ!」
「“言葉”を返すのです!」
その瞬間、ユウトの頭に海の魔物たちの声が一気に流れ込んだ。
(声……)(言葉……)(かえ……)(せ……)
ユウトは叫ぶ。
「お前らの言葉、返すぞ!!」
風が渦巻く。
海底に押し込められた声の欠片が風に吸い上げられ、影にぶつかる。
影は悲鳴をあげた。
音のない悲鳴。
言葉を思い出したように震えながら、ひとつまたひとつと消えていく。
『ユウト! いけるですぅ!』
「ああ、わかった!!」
だが――その時だった。
海底の中心が揺れた。
黒い球体が脈打つ。
(……ゆ……と……)
「ッ!? 今の声……!!」
聞き覚えがあった。
(ゆ……と……
たす……け……)
まぎれもなく――
“リュミエルの声”だった。
『ぷるぅ!? リュミエルさん!?』
黒い球体から、金色の光が一瞬漏れた。
まるで“誰かの記憶”が閉じ込められているように。
シフォンが動きを止めた。
静かに、口を開く。
「ユウト様。
――海の底に閉じ込められているのは、“言葉の影”だけではありません」
その目は、月光よりも冷たかった。
「ここには、女神様の“忘れ去った記憶”が封じられています」
ユウトの心臓が止まりかける。
「忘れ去った……記憶……?」
「はい。
“影”として分離する前の、女神の最初の断片。
沈黙の影とは違う、“言葉を喰う影”」
空気が凍りついた。
リュミエルの影はひとつだけではなかった。
沈黙とは別に――
“言葉を奪う影”という第二の影が存在していた。
しかも――
「ユウト様。
この影は……あなたを知っているようです」
(……ゆう……と……
ゆ……と……
こえ……か……え……)
黒い球体から漏れる声が、ユウトの名を呼ぶ。
出来るはずがない。
ユウトは異世界から来た男。
リュミエルがユウトを召喚したのは最近だ。
なのに――なぜ。
『ユウト……影、ユウトの名前知ってるですぅ……』
「おかしい……なんで……?」
シフォンはゆっくりと言った。
「ユウト様。
――女神リュミエルはあなたを召喚する前、
“夢”の中であなたを見ていたのです」
風が止まった。
海が止まった。
言葉が――沈んだ。
ユウトは青ざめた。
「……夢で……俺を……?」
「はい。
女神様はあなたに出会う前、何度も“夢の中であなたを見ていた”。
あなたを救いたいと願っていた。
あなたがこの世界に来る以前から――
すでに“あなたの名前”を知っていた。」
黒い球体が激しく揺れた。
(ゆうと……
ゆうと……
ゆうと……!!)
海底が崩れる。
水の壁がうねり、影の残響が渦巻き、
ユウトを飲み込まんとする。
ユウトは叫んだ。
「リュミエル……!!
お前……何を忘れてるんだッ!!」
海が砕けた。
影が叫んだ。
風が――沈んだ。
そして、海の底で、誰かが泣いていた。
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