第12話 風の精霊と沈黙の森

女神と筋肉の騒動から数日後。

 ユウトたちは、風の流れる南方の丘を越えていた。


「……いや、穏やかだな。こういう普通の風景が恋しかったよ。」

『平和ってのも筋肉痛の回復には大事だからな。』

『ぷる♡ 風が気持ちいいですぅ〜♡』


 その瞬間だった。


 ――風が止んだ。


 音が消え、葉の揺れる音も、鳥の声もなくなった。

 空気そのものが“凍った”ように。


『ぷる……風、止まりました……』

「……本当だ。まるで時間が止まったみたいだ。」

『なんか、森が息してねぇ感じだな。』


 ユウトの胸の奥で、微かな違和感が広がる。

 静寂――それは、ただの無音ではなく、“不自然な沈黙”だった。



 森を抜けた先、小さな人間の集落があった。

 木造の家々は閉ざされ、窓から覗く人々の目には怯えが宿っていた。


「すみません。何かあったんですか?」

 ユウトの声に、年老いた男がゆっくり顔を上げた。


「……三日前から、風が完全に止まったんだ。」

「三日前?」


「ああ。けどな、この森じゃ昔から“風が消える夜”が時々あるんだ。

 木々が黙り、人が息を潜める夜さ。

 祖父の代から言われてる――“あの影がまた目を覚ました”って。」


「……影?」


「ああ、“言葉を奪う影”。

 風も声も、音もすべてを呑み込むって言い伝えがある。

 誰も正体を見たことはないが……

 昔から、この森の風はあいつに怯えてるんだ。」


 ユウトは拳を握った。

「やっぱり……あいつか。」


 脳裏に浮かぶのは、スライムの里の長老――スルンの言葉。

 “言葉を奪う者は、古の時代からこの大地に根を張っておる”

 “声を喰らい、心を凍らせる。やがて世界のすべてを黙らせる”


 ――その存在が、再び動き出している。


『ぷる……お母さんが言ってましたぁ……“風が止まったら、心も閉じちゃう”って……』

「……ルリィさんは、本当に見抜いてたんだな。」

 ユウトは静かに息を吐く。


「放っておけない。行こう、風の祠へ。」

『おう。筋肉の代わりに今度は風を鍛える番だな。』

『ぷる♡ 風の元気、取り戻しましょう♡』



 森の奥へ進むほど、空気はどんどん重くなっていった。

 葉は揺れず、虫の声ひとつしない。

 息をするのも苦しくなるほどの静寂。


『……ユウト、これ……音が吸い込まれてる感じがしねぇか?』

「ああ、たぶん“風の気配”が消えてるんだ。音も運ばれない。」


 そのとき、前方の茂みが揺れた。

 ユウトが身構えると、そこから現れたのは――狼のような魔物。

 目は怯え、牙は震えていた。


「……大丈夫、襲うつもりはない。」

 ユウトが一歩近づくと、スキルが反応した。


『……こわい……風がいない……風がないと……声が聞こえない……』


「やっぱり、怯えてる。」

『ぷる……この子、風がいなくて怖いんですぅ……』


 ユウトはしゃがみ込み、そっと手を差し出した。

「大丈夫。風を取り戻してやる。」


 その瞬間、魔物の目が穏やかに光り、ふっと姿を消した。


『……安らいだように消えたな。』

「ああ。きっと、“風が戻る”ってわかってくれたんだ。」



 森の最深部。

 そこに、苔むした古い石の祠があった。

 風化した柱の中央に、透明な結晶が静かに輝いている。


「……これが、“風の祠”か。」

『ぷる……静かすぎますぅ……』


 ユウトが近づいた瞬間――

 胸の奥に、かすかな声が届いた。


『……だれか……きいて……』


「!」

 ユウトは結晶に手を置いた。


『……とじこめられて……ながいあいだ……

……こえが……とどかない……』


「お前が……風の精霊か?」


『……わたしは……シルヴァ……この森の風……』

『ぷる♡ ほんとに精霊さん……! ぷるぷるしてますぅ♡』


『……黒い影が……わたしの声を……けした……

……“言葉を奪う者”が……また……』


「やっぱり……そうか。」

 ユウトの脳裏に、黒い霧が森を覆う幻が流れた。

 風を裂き、光を喰らう黒い“眼”。


『……声が届かないのが……いちばんこわい……』


「……俺が聞いてる。ちゃんと聞こえてるよ。」


『……ほんとうに……?』

「俺は、“心を読む勇者”だ。沈黙の中でも、心は聞こえる。」


 結晶が淡く輝き、微かな風が祠の中を通り抜けた。


『……あなたの心が……風を呼んだ……』



 ――風が戻った。


 葉が揺れ、木々がざわめく。

 鳥の声が響き、森が息を吹き返した。


『ぷる♡ 風さんが戻りましたぁ♡』

『おお……森が生き返ってやがる!』


 ユウトの頬を風が撫でた。

 その中に、柔らかな声が混ざる。


『……ありがとう……あなたの声が、わたしを思い出させてくれた……』


「こちらこそ。……お前の心を聞かせてくれて、ありがとう。」



 村に戻ると、人々は歓声を上げた。

「風が戻ったぞ!」

「木々が動いてる!」

 洗濯物が揺れ、子どもたちの笑い声が響く。


 老人が涙ぐみながら呟いた。

「本当に……風が戻るなんて……。

 やっぱり、“風を聞く勇者”は存在したんだな。」


 ユウトは首を振る。

「ただ聞いただけですよ。風の心をね。」



 夜。

 焚き火の音がぱちぱちと鳴る。

 風がそっと炎を揺らしていた。


『ぷる♡ 今日の風は優しいです♡』

『ああ。まるで森全体が笑ってるみたいだ。』

「……お母さんが言ってた。“風は心と同じ。止まっても、また流れる”って。」

『お母さん……かっこいいですぅ♡』


「……“心は、沈黙の中でも語り合える”。

 それが今日、シルヴァが教えてくれたことだ。」


 風がユウトの髪を揺らす。

 その中に、遠い声が混じった。


『……心で話す者よ……また一歩、近づいたな……』


 竜王の声だった。

 闇の向こうで、確かに響いていた。


「……見てるんだな、俺たちの旅を。」

 ユウトは静かに笑った。


『次はどこに行くんですかぁ♡』

『風の先に、何かあるだろ。』

「……ああ。まだ、聞いてない声がたくさんあるからな。」


 柔らかな夜風が三人を包み、

 それはまるで“ありがとう”という言葉のように優しく吹き抜けていった。

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