光月−火が燃える土地
空間の裂け目を通り抜けると、出口側の輝き森では微かに木材が焦げたような匂いが漂っていました。
何処に出るか分からないからこそ、聖騎兵も聖王も無闇に私たちを追いかけることができない。匂いの変化は勝利を告げているのでしょう。
「メルテ。もうゆっくりでいいですが、森を抜けましょう。この地域が何処なのか知りたいですから」
けれど、彼女からの返答は少し首を傾げたくなるもので。
「だめ、エレトルテ。……1つだけ、後ろに誰か飛んでる」
疑問に思ったのも、数十秒だけ。私たちが通ってきた空間の裂け目から、漆黒の鱗を持つ飛竜と、それに騎乗する聖職者の格好をした少女が現れます。
竜は笑い声を張り上げつつ、自らの背に乗っている少女を上下左右に激しく揺さぶりながらこちらに迫ってきていました。
竜と少女に魔法術式の照準を合わせて……。いえ、駄目ですね。
これは多分撃つべきじゃないし、仮に撃ってもこの竜が相手では全くの無駄です。
「遅い!遅すぎるぞエレトルテ嬢!」
誰も貴方と競争なんてしてないのですよ、ガルドス・トーレ。その騎手を選別するようなえげつない飛び方は、聖騎兵としては最悪と言える、貴方の悪い癖です。
1つだけ、ため息をつきます。聖王は私たちを一応は見逃したのでしょうが、完全に放って置くつもりはないようです。
自意識過剰な推測が脳裏に浮かびます。この結末を見通してペルニカ伯爵領と縁のある彼を王城に呼び寄せていて、こうして自らの計画が破綻してしまったときに彼を追いつかせる。常人の思考ならば、そこまで用意しているわけがないのですが。
……でも、あの聖王なら、運命を装って仕込みかねませんけどね。
ただ、ガルドスがここに存在していることと、私たちが
黒き竜の翼膜に、白き魔法の紋様が浮かび上がる。それは彼が本気を出して飛ぶという合図です。
物質的な実体を持たない蒼き魔法障壁が、悲痛な音を叫びながら軋む。彼の翼の紋様が世界に白い魔法文字を撒き散らし、同時にその両翼が赤く激しく燃え上がる。
翼から湧き出た脂が燃え盛り、辺りに胸焼けを起こす重苦しい匂いが広がっていく。
これは、多分死んでしまうかもしれませんね。
――彼に乗っている騎手の少女が。
次に彼が息を吸い込んだ瞬間、周りの世界が私たちを残して粉々に吹き飛ぶ。粉微塵になった黄金の木くずが、メルテが巻き起こす風で遠くに弾き返される。
何が恐ろしいかと聞かれれば、このささやかな破壊はこれから訪れる壊滅の前兆であり、ただ次の行動に移るための息継ぎでしかないことです。魚が口から水を吸い込んで、吐き出すための水を蓄えただけ。それだけです。
幸いなのは、彼が私たちに殺意を抱いていないこと。もし害意を持っていたならば、こうして防御魔法を展開して維持し続けることはできなかったでしょうから。
魔を食み続け、自身の周りの存在が抱く「火」を無尽蔵に燃やし続ける、竜に最も近い龍。竜と違って、呼吸を介することなく、ただ生き続けるだけで魔法元素を無限に増幅する龍。それが彼です。
【
強大な存在であり、また――あらゆる騎兵の騎手からとてつもなく嫌われている龍である、ということも。
そんなことを思いつつ背後の彼らを見ていると、彼に乗っている少女の感情を失った瞳が、こちらを眺めていました。もはや希望など存在しないと、そう恨み言を言いたげな顔をしているのでしょうね。
彼が吠える。その龍の咆哮は、メルテには兵士たちの勇ましい雄叫びに聞こえていたかもしれません。声に秘められた膨大な魔力で空間自体が歪み、明るき光月の光と正反対な暗黒の傷を周りの空間に刻み込んでいます。
そして、彼は羽ばたきせず滑空し、空間を裂きながら私たちを追い抜いた。空間に傷を残す事象は、魔法元素を使用した「魔法」ではなく、純粋に魔法元素が膨れ上がったことによる「現象」として起きていただけです。
「メルテ、不本意ですが彼に追いついてください。あの騎手の命が溶かされる前に」
騎手の防御魔法がなければ、乗り手を容赦なく殺しに来る騎馬。彼が馬と言えるのかはずっと疑問のままです。
だから、暴れ馬から騎手を早急に引きずり降ろさないと、彼女が燃え尽きるでしょう。
騎手の少女を助ける義理はないのですが、無視して怨霊と化した結果、呪われるのは厄介です。それならば、「一応助けようとした」という事実だけは作っておくべきです。
「エレトルテ」
メルテが
「元素はもう大丈夫。それより、ぎゅっと掴まって」
次の瞬間、背筋を寒気が駆け上がります。その原因は、彼女が空に浮かび上がらせた魔法術式が放つ、圧倒的な文字数による圧迫感です。
魔導具に刻まれる物に近い量の、大量の魔法文字。この術式の厚さは、並大抵の術者には展開しきることすら不可能です。
けれど、この術式はまだ「拙い」。無駄が多いですね。
「ちょっと待ってください。ほんの少し、術式を改変しますから」
術式に向かって手をかざす。恐らく無意識のうちに術式に組み込まれてしまっていた、自滅のきっかけとなりうる式を取り除く。それから、元素を無意味に消費する因子構成を最適化し、元素の流れが自然になるように書き直します。
これは、私の持つ「魔導の力」。魔を導く力の一片です。
「……軽い」
メルテがそう呟きます。
貴女は力技で術式を行使して展開していましたからね。それを調整して力の損失を直してしまえば、術者の負担は軽減されるはずです。
「もう大丈夫。頼みましたよ」
術式が効力を発揮し、メルテの翼膜が鮮やかな翠色の結晶に覆われます。
この術式は「
メルテが1度だけ、咆哮をあげます。
合図はたったそれだけ。竜の声に導かれた魔法元素が彼女の翼で膨れ上がる。黄金の木々を捩じ切るほどの暴風が、飼い猫にでもなったかのように私たちの頬を執拗に優しく撫でる。
――ウィメンテ。そう呼ばれるハーブ特有の、鼻を刺激する清涼感のある匂いが辺りに満ちていきます。
いえ、正確には風の魔法元素の香りでしょうか。ウィメンテが風の元素を蓄える性質があるため、自然とその芳香を帯びたハーブになるだけなのですから。
そして、ガルドスが「世界自体を壊した」のに対して、メルテは「世界の摂理を歪ませた」。
私たちへ立ち塞がる木々に生命の風が吹き込み、活力を得た木々が自ら私たちの進路から退いていきます。
世界の全てが全能なる王を前にしたかのように、みな平伏して道を譲ります。圧倒的な竜の威光の前に立っていられるのは、同じ「王」かそれに比肩する者だけでしょう。
もっとも、私たちが「王」ならば、ガルドスは「神」とでも呼ぶべき存在なのです。力関係では何もかも負けていますから。
そうして、私たちは輝き森を抜け、裂け目を抜けたときから感じていた焦げ臭い匂いの主を知るのです。
天辺が赤く煮え滾る山が幾つも連なって構成された、世界を分断する山脈。私から見て、その山脈を挟んだ先に存在する生命を燃やす高き塔。
――それは、神話の時代のお話。とある傲慢かつ強欲な王が、生命を司る世界樹の1つを自分だけのものにしようと画策し、最後は神に裁かれた王の物語。
その物語の中で王が独占しようと企んだ世界樹の一柱こそが、遥か彼方で燃え盛る【トルガニア】です。
こうして見るのは初めてですが、畏怖するべき象徴であるとともに、植物としては痛々しい御姿ですね。
かの王が生命を無限に生み出したことを神は咎め、大樹に消えぬ火を灯した。
そうすることで、大樹を自らの傷を癒やすことに尽力させて、人への直接的な祝福を途絶えさせた。同時に、大樹が永遠に傷つくことによって、その火傷を通じて世界に生命の元素を振り撒くように仕向けたのです。
その火はやがて大樹そのものを蝋燭の火と変え、世界という名の燭台で今日も民を照らしている。
苦痛を叫ぶことも、傷が完全に癒えることも叶わず、貴方は人の代わりに身を削り続けているのです。
まるで、そうですね。
「私みたい、ですね。……貴方も」
少しだけ、貴方に共感してしまいます。
世界を守るためと言われて神に焼かれようとも、自らを信ずる民を愛し続けるのをやめずに、貴方は見守り続けている。もし貴方に意思があるならば、世界と神々に異を唱え、あらゆる土地を生が途絶えた地獄へ変えることもできたでしょうに。
私が貴方と同じ立場ならば、……いいえ、私じゃ駄目ですね。きっと、民への愛を振り切れなくて、いまの貴方と同じ選択をしてしまうでしょうから。
「エレトルテ?」
心配、させてしまったみたいですね。
分かっています。いまは目の前の問題を片付けましょうか。
黒煙を空に残しながら飛ぶ乱暴者の背から、哀れな騎手を撃ち落として助ける。それだけを成すために、魔法を練り上げるのです。
「大丈夫、少し過去の自分を振り返っていただけですよ」
ガルドスに近づくほど、2つの芳香が濃く入り混じる。爽涼なる風は烈火に炙られた脂の匂いに染められ、嗅ぐ人を悩ませる複雑怪奇な味わいへと変貌するのです。
その匂いも、言い方を変えれば彼に追いついている証拠。
しかし、彼は距離を詰めた私たちの姿を見ても、その余裕に満ちた笑い声は変わることがない。それは嘲りとは違う、傲慢とも程遠い、存在が強者すぎるがゆえの悦楽で奏でる純粋な歌。
「竜、うるさい。黙って」
自分に魔法を掛けて聞こえる世界の音を変えてみると、メルテが苛立ち、そんな文句を口にする気持ちが理解できます。
これは、……物凄くうるさいです。竜としての笑声と、龍の声である兵士の雄叫びが合体し、2つの声は互いを高め合いながら世界に騒音を響かせています。
でも、騒々しさに頭が痛くなるのを我慢したからこそ、やっと彼の横に並ぶことができた。
彼に乗っている少女を狙って、風を起こす魔法の中でも強い部類の術式を起動する。魔法は一直線に空を走り、進路上の空気を揺さぶって竜すらも大地に叩き落とす、慈悲も容赦もない威力の攻撃術式です。
勿論、彼にはこの程度の妨害では動じません。
ただ、予定通りに少女は勢いよく吹き飛んで、哀れにも空の散歩を始めました。走るようにその両足をばたつかせても、一歩も前には進まないのですが。
しかしながら、何もかも予想通りすぎるんです。
「……このままだと死んでしまうので、助けてあげてください」
私の言葉に、メルテは静かに鳴きました。気持ちは分かります。
けれど、メルテは彼とは違い、とても優しい竜です。急降下して彼女を前足で掴み、空中に留まって次の指示を待ってくれます。
一方で、赤く燃える流星は相変わらず空を好き放題に飛んでいます。
……もう、彼は好きにさせておきましょう。飛ぶのに飽きたら、自分から帰ってくるはずですから。
私は眼下の世界を眺める。大地は屈強で太く背が高い木々で覆われていますが、1箇所だけ木々が倒れて広場になっている場所が存在します。
本来ならば、土地を勝手に占領して使用する行為は、どこかの国の法に触れて罪になる。けれど、運命は私に「表面上は」味方してくれています。
山脈――トルガニア山脈の裏側のこの地域は、竜人国家「ルム・トルガニア」が過去に開拓を試みたけれど、様々な要因で切り拓くのを諦めた魔境です。魔境と言われるだけあって、異常な濃度の魔法元素が漂っているのを感じています。
そんな魔境ですが、完全に放棄されているわけではありません。トルガニアの足元に存在する竜人王都には、トルガニアの上部からこちら側を観測する研究所を起点に、私たちに関する報告が上がっていくはずです。
けれど、魔境を切り拓く根気や興味は、今代の竜人の王にはないと予想しています。ゆえに、こちらが敵意を見せなければ、あちらからも仕掛けてこない。
……そうですね、下手に目立たなければ、ですけど。
「彼、いっそ撃ち落とした方が都合がよかったかもしれませんね」
口で言うのは容易いです。理論的な思考で考えると、あらゆる魔法を龍の力で魔法元素にまで分解できる彼を一瞬で墜落させる方法など、私には微塵も思いつかないですが。
「メルテ、あの空き地へ降りましょう。全てはそれからです」
彼女は疲れ切った声で、「分かった」と短く肯定の意思を示しました。
そして、森の中に生まれた広場にゆっくりと降り立ちます。広場には、倒れた木々の影に隠れるようにしてこちらを観察している、この魔境の先住民の姿が見受けられました。
彼らは薄汚れた亜麻の服を着ています。ですが、服とは対照的に、宝石を加工した装飾品が首元で綺麗に煌めいていました。
宝石や宝玉に対する信仰を持ちながらも、基本的にやや原始的に寄った生活を送る人間。彼らを見た目で猫人や犬人などと区別することもできますが、宝石信仰に従い生きる獣人はまとめてこう呼ばれます。
「
「宝石の龍の、星読み歌の通り。ああ、風の竜と、魔法使いの人。良き隣人?」
たどたどしい言語。けれど、彼らの内に秘める知性は本物で。
だからこそ、語る言葉は平等に、示す提案は誠実に。
まずは、メルテの背から降り、同じ大地を踏むことから始めましょうか。
「貴方たちが許すならば、良き隣人として」
私の言葉を聞いた彼らは私たちを取り囲み、その手に持っていた宝石の短剣を構えます。
怒り、恐怖、敵意。――いいえ、違いますね。彼らの手は全く震えていないですし、表情にもそれらは全く感じません。
強いて言うならば、期待と打算。多分、それだけです。
「私の知識を対価に、貴方たちの知識を。そして、対等なる隣人となりましょう」
そう告げてみせると、彼らはみな剣を地面に置いて一歩後ろに下がりました。それから、彼らの中で一際背の高い猫獣人が私たちの前に歩み寄ってきました。彼の表情は、獣が牙を見せているのにも関わらず、人として笑っているのが察せられる満面の笑みです。
「ああ、良き人、これから隣人。よろしく願う」
その言葉を聞いたときまでは、私の心は落ち着いていたでしょうね。けれど、続いた言葉は、世界のあらゆるものが私を包囲していると示しているもので。
いいえ、正確にはさっきも彼らは断片を口にしていたのですが、そのときはあまり疑問に思わなかっただけです。
「エレトルテ、デウスの仔。我らが宝石の龍の、お墨付き」
なんとかの宝石龍、宝石のなんとか龍、宝玉の……。駄目ですね、私には思い当たる龍が1つも浮かびません。
一応「宝玉の」と付く龍はいますが、彼は職人に崇められる龍であり、コボルトたちとは全く関係ありません。
凄く、心がもやもやします。故郷という鳥籠から飛び出して、聖王という恐ろしい鷹から逃げ延びたのに、そうして得た景色はまだ誰かの掌の上。
運命はいつの間にか見知らぬ龍に握られ、
手に入れた自由は、未だ偽りのまま。けれど、それも悪くないかもしれません。
世界を全て暴いて、真実の自由への到達を。世界を知ることに限界は存在せず、その自由は偽りながらも私たちを縛り付ける鎖を緩めてくれている。
こちらに差し出された彼の手を、私は握り返します。
それが私の第一歩、始まりのページになるのでしょうね。
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