いかていか
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【第10章】
第十章 時間遡行編④
【エピソードタイトル】
灰鴉の街と鋼の曇天
【本文】
雲は低く垂れ、錆びた鋼の鈍さで空を塞いでいた。灰を混ぜた風が頬の皮膚を薄く削り、胸の奥で焦りが乾いた音を立てて膨らむ。曇天が心まで押し潰してくるようで、息の出入りが浅くなる。
舌裏に鉄の味がにじみ、革の柄の冷たさが指へまとわりつく。掌の汗が薄く張りつき、脈がそこだけ強い。
「陛下からの返事はまだか……」
漏れた声が空気の膜に触れ、微かな反響だけが戻る。右手の握りは知らず強く、節の白さが増していた。
四日前、ボコタの街から王都へ放った“第一の風耳鳥”はとうに空のかなた。そろそろ戻るはずの“第二の鳥”は姿を見せず、夕闇に沈む空を何度仰いでも、小さな影はどこにも見当たらない。風が袖口を抜け、埃の匂いが鼻の奥を刺し、喉が乾く。
「まさか、途中で捕まったってことは……ないよな」
嫌な予感が背中の皮膚を逆立て、首を振って意識を手元へ戻す。返事がなければ、自分で動くしかない。その危うさを思うだけで、喉が焼けるような苛立ちが胸骨の裏で熱を持つ。
「……なにを焦ってんだ俺は。まるでガキみたいじゃないか」
誰もいないのに、声は思いのほか大きい。握った拳が微かに震えているのに気づいてそっと開くと、指先の冷えの下から、古い記憶がゆっくり浮かび上がってきた。
◇◇◇
貧民街の路地裏で、逃げ場もなく叩きのめされ地面に貼りついていた夜。磨かれた革靴の硬さが肋に食い込み、血の温度だけが現実だった。誰も来ない。飢えた腹は身を内側から爪で引っかくようで、意識は冷たさの方へ沈んでいく。
生き延びるためなら何でもやった。スリ、強盗、薬の売買。殺し以外は選ばなかったが、選ばないという事実の方が胸に重い。
“見どころがある”と引き上げてくれた闇組織のリーダーに従い、用心棒として立つ日々。違法取引の帳簿を偽装する指先はすぐ学び、悪事の段取りだけが身体に馴染んだ。けれど、貴族のひとつのミスで全ては崩れ、罪は組織ではなく、ただ一人の自分の肩にだけ積もった。リーダーは姿を消し、信じた背中の空白が、世界の底みたいに広がった。
投獄。刑期の短縮と引き換えに地獄の最前線へ。見捨てられるのは当然――そう言い聞かせていた頃だ。
その捨てられた人生に、光が差したのは、あっけないほど一瞬だった。精霊の巫女メービスと騎士ヴォルフが、ゴマグラ渓谷の激戦に現れ、押し寄せる魔獣の咆哮を、まるで風のように断ち切っていった。
血と土と焦げた獣毛の匂いが渦巻く中、差し出された手だけが清らかで、体温が手の骨を伝って肘へ駆けのぼる。
「……大丈夫、動けますか?」
短いのに、泉の一滴みたいに胸に沁みる声だった。許される、という言葉にもならない感覚がその瞬間に落ち、世界の温度が少し上がった気がした。
◇◇◇
いま、目の前にあるのはボコタ郊外の廃屋敷。レズンブール伯爵が囚われているという情報は確かで、女王陛下と王配殿下を守るためにも、見過ごせない。救出できれば、宰相の陰謀を暴く鍵になるかもしれないし、それは自分なりの忠義でもあるはずだ。
背後に足音。革の擦れが小さく触れる。
「班長、状況は変わりありませんか?」
控えめな声が荒れた心をなだめる。振り向けばシモン。育ちの良さが目元に残る若い騎士で、静かな知性が声の温度に現れていた。冷たい空気を深く吸い、焦りを喉の奥に押し込む。
「相変わらずだ。静かすぎて、嫌な予感がする……。シモン、お前は商人街の様子をどう見た?」
「昨日の街道封鎖の発布以降、町中が落ち着きません。今朝も、行き場を失った商人たちが声を荒らげていました。北の国境が不穏なのは事実かもしれませんが、ここまで厳戒態勢を敷く必要があるのか……皆が口々に疑問を漏らしています」
宰相の紋章を掲げた兵らが命令書で流れを塞ぎ、人も物も動けない。飢えは、すぐそこまで来ている――幼いころ、飢えの匂いが死の匂いに変わる瞬間を嗅いでしまった身には、他人事ではない。
「……今は陛下の返事を待つしかないが、屋敷の動向次第では、一刻を争うことになるかもしれない。とはいえ、焦りは失敗を呼ぶだけだ。くそっ……このもどかしさ、どうにかならないもんか」
剣の柄に余計な力がこもる。シモンは気づいたのか、口の端にわずかな笑みをのせた。
「班長が正直に焦りを口にしてくれると、逆に安心できますよ」
「そうか? 愚痴っぽいと思わないか」
「いいえ。気持ちは皆同じです。あなたが熱くなりすぎず、冷静な判断をしてくださるからこそ、ここまで来られたんですよ。勇猛果敢なだけじゃ、勝負には勝てません。まずは準備を整えて、必要な情報を集め、いつでも動ける状況を作りましょう」
「わかった。……ありがとうな、シモン」
礼に、穏やかな会釈。控えめな身のこなしに、メービスの面影がふと重なる。優しさが人の芯を支えることを、何度も見せてくれた巫女。凛とした眼差しをもう一度近くで見られたら――そんな想像が、胸の冷えを少し溶かす。
砂を踏む重い足取り。風下から、低く通る声。
「ダビドよ、もうすぐ昼だぜ。表立った動きがなけりゃ、街へ行って情報でも拾ってきたほうがいいんじゃないか?」
ブルーノ。日に焼けた肌に刻まれた傷は、場数の深さを物語っている。斥候として頼れる右腕だ。
「そうだな。ここにじっとしていても埒が明かない。よし、昼間のうちに情報を集めてこよう」
廃屋敷から視線を外す。曇天の下、埃まみれの道を荷車が軋みながら過ぎ、北方の大通りは人影が薄い。死んだ道のように沈黙している一角に、古い酒場があるという。昼は老人の社交場、夜は娘たちが客を迎える――宰相の紋章を掲げる連中が出入りしているなら見逃せない。
「シモン、ブルーノ。すまんが、ふたりはここに残ってくれ。何かあればすぐ知らせる」
「わかりました、班長」
「了解だ。気をつけろよ」
ふたりの頷きに、緊張の匂いと同じだけの信頼が混じる。柄から手を放し、代わりにマントの裾を握る。小さな動作が、呼吸の拍を整える合図になる。
灰を含んだ空の下、町外れの小道は泥と埃にまみれ、道端の草も色を失っていた。目に見えぬ青が雲の上にあるはずなのに、今はただの灰。国の今と似ている、と胸の中だけで呟く。女王陛下は、雲の向こうで持ちこたえているだろうか――祈りに似た思いが、喉の奥であたたかくなる。
◇◇◇
昼下がりの灰色の光が薄く差す路地。朽ちかけた木製の看板に「灰鴉亭」の文字。黒い鳥の絵は煤で滲み、ただの汚れのようにも見える。扉を押すと、酒の匂いと低いざわめきが絡み合い、迷い込んだ路地裏の空気がそのまま胸に入ってきた。
カウンターの向こうで、栗色の髪をゆるくまとめた女がグラスを磨いている。アリア。薄い化粧の奥に冷えた灰色が揺れる薄茶の瞳。磨かれた硝子が灯りを返し、琥珀の香りがふっと立つ。
「まあ、あんたかい。こんな時間に来るなんて珍しいわね。いったいどんな風の吹き回し?」
甘さの下に薄氷の冷たさ。親しげな調子の裏に沈殿する物憂さが、この店の空気とよく馴染んでいる。
「酒でも飲まなきゃやってられない。そんな気分なんだよ」
乾いた笑いに自分で気づき、ひび割れた唇を舌で湿らせる。
「そう。何か嫌なことでもあったのかしら」
詮索のない手つきで、磨いたばかりのグラスが満たされる。ここへ来るときは決まって何かが絡まっている――それを彼女は知っているのだろう。
「嫌なことだらけだよ。王都から宰相が来るとかで、北への街道を封鎖しただろう? 保安上の問題だか何だか知らないが、おかげで商売の予定が全部パアさ。積み上げた商材を動かせないままじゃ、どうすりゃいいってんだ……」
カモフラージュの言葉と一緒に、苦い液体が喉を焼く。胃の腑に広がる熱は、貧民街の夜の匂いを微かに呼び戻した。
「封鎖ね……。私も噂には聞いてたけど、本気だったんだ。ここもなんだか空気が悪いよ。貴族様の都合ってやつは、私ら庶民にとって悪夢みたいなもんだもの」
淡々とした声が、飴色の低さで残る。捨て子だった過去を語ったときも、彼女は似た声音だった。
「だろう? 本当にたまったもんじゃない」
もう一口。喉を通る拍ごとに、胸のざわつきが薄皮一枚ずつ剥がれる。ただ、燃え残る火種は消えない。
「……アリア。街道封鎖令が出てから、宰相家の連中がここに来たりってこと、なかったか?」
指先でカウンターをなぞる彼女の視線が、少し落ち着かない。
「ええ、前にも増して『宰相の紋章』をつけた兵隊がうろついてるわ。うちの店にも来たわよ。昼下がりにどやどやと人数を引き連れてね」
「やっぱり……。それで、何の用だったんだ?」
グラスの脚を指先で一度だけ叩き、口元が固く結ばれる。
「町外れの屋敷で“高貴なお客様”をもてなしたいから、若い娘を紹介しろって」
胸の底を掬うような言葉。眉がわずかに寄る。
「なに……!? おい、まさかその話、受けたわけじゃないよな?」
柄を探る指先に汗が滲む。
「バカ言わないで。いくら積まれたって、そんな要求受け入れるものですか。きっぱり断ってやったわ。連れていかれてからじゃ取り返しなんかつかない。……昔、似たようなことがあったの」
沈黙が挟まる。
「小さい頃から助け合ってきた大切な友達が、私の身代わりに差し出されてしまったの。……それっきり、二度と戻ってこなかった。もうあんな思いは二度とごめんだわ」
抑えた言葉の端に、長い年月の棘が立っている。都市の裏側の話として珍しくはないのに、胸に落ちる重さはいつも同じだ。
「……金と紋章を傘にして、やりたい放題するつもりか。あいつらが好き勝手してる限り、この街はどんどん腐っていくぞ」
低い怒りに、アリアの視線が空のグラスをかすめる。戻らぬものを見ているみたいだった。
「うちで働いてる娘たちは、貧しくても日々精いっぱい生きてるのよ。まっとうな仕事をして、自分たちなりに誰かの支えになりたいってだけなのに……」
震える唇。炎の芯のような憤りが、静かに燃えている。
「あんたがそうやって皆を守ってるのは知ってる。誰にでもできることじゃないよ」
素直な敬意を乗せると、アリアは片眉をかすかに上げ、笑いとも溜息ともつかない表情をした。
「ふふ、あんたって不思議な人ね。とてもただの商人には見えない。そうね、どことなく私と同じ匂いがするわ……」
笑みの奥に、湿った光。彼女の背の闇は、まだ濃い。
「……そうそう、一つ耳寄りな話があるんだけど」
老人しかいない昼の店内でも、周囲を一瞥してから、身を寄せる。
「その“高貴なお客様”ってのが、かなり我儘放題らしくてね。“あれを持って来い”とか“これを用意しろ”とか、とにかく宰相家の私兵も手を焼いてるそうよ」
「へぇ、宰相にとってそんなに大事な客人なのか。それにしても、あんな町外れの廃屋敷に滞在させるなんて不自然じゃないか?」
「もともとあの屋敷は、街一番の豪商の邸宅だったんだけどね。王都へ商売の拠点を移すときに売りに出されて、それっきり所有者が誰なのか不明のまま。ところが最近、急に宰相の紋章を掲げた兵や馬車が出入りするようになったわけ」
「で、その客人が何者なのか、誰も知らないと……」
「そう。この街と屋敷の周りが騒がしくなり始めたのは……」
「レズンブール伯爵襲撃事件のあと、だよな?」
「ええ、どうにも妙な話だわ。宰相の私兵は、『伯爵を襲撃したのは女王陛下の手下だ』なんて触れまわってるらしいし。傲慢な女王が野心に駆られ、伯爵を始末しようとしたとか……」
表情は動かさず、話だけを拾う。
「実は高貴な客人というのは伯爵で、宰相が『残虐な女王の魔の手』から保護しているんじゃないかって噂もあるわ」
歯を合わせる音が喉に戻る。
「……よくわからんが、ただ言えるのは、あの女王は目の前で泣いている子供がいたら、それがどんなに薄汚れた格好だろうが、駆け寄って抱きしめちまうような人だってことさ」
見てきた姿だけは、揺るがない。
「女王陛下か……メービスっていったかしら」
アリアの瞳に陰。噂と現実の温度差は、人の心に裂け目を作る。
「この酒場にはあちこちから人が来るけれど、魔族大戦で実際に女王陛下を見た人で、悪く言うような人は一人もいなかった。むしろ、“まるで天から舞い降りた女神さま”だなんて、ちょっと信じられない話もあるくらい。
でも、たとえ話が大仰に聞こえたとしても、あの方が自分の利益しか考えない貴族や政治家とはまるで性質が違うってことだけは、わかる」
戦場で見た二人は、確かに光を帯びていた。精霊の翼の白は現実離れしていたけれど、あの温度は現実だった。
「……俺は戦場や難民キャンプで、何度もあの方を見かけた。傷だらけの粗末な革鎧と、ボロボロの装束を身にまとっててな。傷ついた人々を何よりも最優先に考えていた。割り当てられたわずかな配給すらも、子供たちに分け与えて……俺たちがどんなに勧めても、ほとんど食事も摂らなかった。……あれのどこが暴虐だっていうんだ」
語りながら、胸の奥で鈍い痛みがひとつはぜる。
「ありもしない噂をでっち上げて、女王陛下を突き落とすような策略を巡らせるなんて……あの人たちには造作もないことなのね。宰相には、それができるだけの絶大な力があると聞いたわ」
諦観と嫌悪が交じる音色。長い裏側を見てきた者の声だ。
「世論操作はお手の物なわけさ。だとすると、伯爵がそこに囚われてたり、なんてこともありうるな」
「聞いた話じゃ、伯爵はずいぶん気骨のある人物らしいじゃない。祖先に名君がいたとか、領民を大事にしていたとか……そんな逸話がいくつも伝わっている。恨みを買うより、むしろ慕われていた存在だったのは確からしいわ」
遠くを見るアリアに、苦い同意が喉の奥で揺れる。
「じゃあ、そんな人が女王陛下の謁見を賜ることになったのなら、宰相にはますます都合が悪いのかもしれないな。権力が脅かされるとか、何か弱みを握られてるとか、いくらでもありそうな話だ」
取り込むか、消すか。その中間に、囚えるという選択肢がある。
「何にせよ、廃屋敷で何が起きているのか、興味あるわね。最近、夜明け前とか真夜中に妙な馬車が出入りしているって聞くけど、兵士が見張ってるせいか……詳しく見た人はいないみたい」
グラスを空け、喉の熱で考えを固める。
「……アリア。もし宰相の手先がまた店に来たり、新しい動きがあれば知らせてくれないか。礼は弾む」
「いいわよ。私にできることならね。でも、あんた……危ない橋を渡るつもりじゃないでしょうね? あんな連中に本気で嗅ぎ回られたら、どうなるか――」
言いよどむ気配。曖昧な笑みで返す。
「それは承知の上さ。……王都へ風耳鳥を飛ばしたが、返事が来る前に何かあれば、そっちを優先しなきゃいけない。女王陛下を追い詰めようって動きが噂から本物になるその前に、なんとかしなきゃならん」
「そう……“そういうこと”だったのね。わかったわ。この話題、私からは誰にも話さない。でもあんた、止めたって聞く耳持たないんでしょ?」
苦笑の奥に、薄い憂い。
「なあ、アリア——」
言いかけて、言葉を飲む。硬貨を数枚、カウンターへ置いて短く笑う。
「いろいろ世話になった。ありがとよ。何かあったら、また来る」
「気をつけるのよ……戻ってきたら、とっておきのお酒をごちそうするわ。それと、私も私なりに戦うから」
悲しみより強い決意。その芯は、美しくて、痛い。
「ああ……負けてたまるかってな」
「ほんと、あんたらしいわ」
薄い笑顔。その一瞬の冷たさと、同時に混じる期待。
外気の冷たさに頬がきゅっと締まり、握った拳に湿り気がにじむ。それが汗か、昔の涙の残像か、わからない。ひとつだけはっきりしている。まだ消えない怒りと、退かない信念。
声を上げられない弱き者は、ひっそりと傷つき、やがて命さえ踏みにじられる。あの日、伸ばされた手に救われたなら、今度は自分が伸ばす番だ――その約束が、胸の中心で小さく燃えている。
少し離れてから、煤けた看板を振り返る。黒い鴉の輪郭は曖昧なままだが、曖昧な輪郭で飛び続ける者たちの姿に見えなくもない。翅は煤にまみれ、それでも風を探す。いつか、力を合わせて羽ばたける日へ。守るべきものを胸に、心の重心を前へ置き直す。
息を整え、歩き出す。背の冷気は変わらないが、折れることはない。思い描くのはただひとつ――陽の光が隅々まで届く国。灰色の昼下がりに沈まない、澄んだ空の風景。やがて、そこへ。
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【エピソードタイトル】
背を預けしは、涙の女王
【本文】
夜明けの足音が、遠くからひそやかに近づいている。東の空にはまだ深い藍色が残っていたが、その端がわずかに紫に染まり始める頃合い。冬の冷たい風が荒地を渡り、枯れ果てた茂みを揺らすたび、かすかなざわめきが辺りに広がった。
そこには、打ち捨てられた石造りの館が建っていた。風雨に晒され続けた壁面は苔やツタに浸食され、朽ちた扉には大きな裂け目が走っている。過去の栄華に見放されたかのような姿だが、その廃屋敷を、宰相の私兵と思しき兵士たちがびっしりと取り囲んでいた。
彼らは重厚な甲冑を纏う者から軽装の斥候までじつに多様で、いずれも無表情に辺りを警戒している。鎖帷子のぶつかる金属音が夜の静寂を切り裂き、聞く者の神経を尖らせた。
その光景から伺えるのは、宰相の徹底した用心深さと、根回しの確かさだった。
そう、この国の宰相は狡猾きわまりない。国全体を見渡す政の頂点に立ちながら、水面下であらゆる駒を動かし、状況を自分に都合のいい方向へ操ることに長けている。
畏怖の念を集めながらも絶対的な影響力をふるう彼の命令は、周囲の予想を越えるほど周到で、容赦がない。
廃屋敷から百メートルほど離れた雪深い林の奥――純白の結晶が降り積もっただけに見える一角に、人影が伏せるように身を潜めていた。
真っ白なローブをまとい、雪の中で存在感を限りなく消すのは、ダビドたちの小隊である。
雪景色そのものに溶け込むほどの伶俐さと、長い経験で培った気配の消し方。彼らは数日間、この廃屋敷を監視し、宰相派の動向を追っていた。だが、今宵の厳戒態勢ほど神経を逆撫でする状況は、かつてなかった。
白い息を押し殺しながら、ダビドは林の向こうの廃屋敷を睨む。
門番の数はいつにもまして多く、動きも洗練されている。その様子に、思わず唇を噛みしめた。やはり、宰相派がただならぬ作戦を開始したという噂は誤りではない。
ひんやりとした夜気がローブ越しに肌へ染み、彼と仲間たちは息を詰めて警戒態勢を観察した。
まばらな月明かりが雪をかぶった木々の合間に差し込み、幹に淡い陰影を落とす。
この夜を越えれば、宰相派の企みが大きく動き出すかもしれない。ダビドたちはその一瞬の隙を狙い、伯爵を救い出さねばならない。とはいえ、並外れた兵力と組織的な警戒網が張られている以上、軽率な行動は不可能に等しい。
ここにいる多くはただの寄せ集めの私兵かもしれない。だが、“影の手”が関与している以上、油断はできない。
ダビドの脳裏を、クリスとレオンを襲撃した三名の男が掠める。卓越した戦闘能力と判断、見切りの良さは、彼をもってして舌を巻くほどだった。
そっと身じろぎしたローブの裾に、こぼれた雪の結晶がきらりと光り、すぐ闇へ沈む。
ダビドは短く息を吐き、かじかむ手をローブの内で握り込んだ。
宰相派が使うというこの廃屋敷で、何が行われているのか。監視を重ねても、全貌は掴めない。今宵の厳戒こそ、真実への入口かもしれない……。仲間たちは視線を交わし、微かな合図を送る。
彼らが警戒を強める理由は明確だ。今夜、これまで見たことのない特殊な馬車が廃屋敷に到着したからである。
淡い月明かりの下、その馬車は鎮座していた。頑丈な鋼鉄板で囲われ、車輪までもが鋳鉄製。
御者台は二つ、後方には砲台にも似た監視席。戦場で攻城兵器として用いられてもおかしくない威圧感。
宰相の私兵はそれを中心に、周囲を幾重にも固めていた。ダビドは鋭い視線で馬車を見据え、ゆっくりと息を詰める。
土の匂いが染みたマントをかき寄せ、ダビドはシモン、ブルーノへ短い手信号を送る。金具がわずかに鳴るだけで、兵士の注意を引かぬよう細心を払った。
彼の瞳の奥で、焦燥と固い決意がせめぎ合う。
伯爵が囚われている――そう確信できるほど重装の“護送馬車”が、わざわざ廃屋敷へ運び込まれた。宰相が次に狙う策は明らかだ。伯爵という大駒を手中に収め、それを使い、政略をさらに強固にする。宰相流のやり口。
「……やはり別の場所に移送するつもりか」
ダビドはかすれた声で呟いた。
伯爵は今回の騒動の発端ともなった人物だ。魔族大戦で戦死したギルク王子の遺児リュシアンを擁立しようと男爵家に働きかけていた。
王子と親交が深く、リュシアンの存在と将来を託されたと主張した。だが真偽は怪しい。男爵家を強制的に押さえた事実からも、動機は己の野心に根ざすと見ていい。
その動きに乗じ、あるいは初めから加担していたのが宰相である。
宰相は伯爵を使って女王陛下にリュシアン擁立を既成事実化しようと画策し、貴族院多数を抱き込んで圧力をかけた。
ダビドを中心とする班は、この陰謀の実態を探るべく手を尽くした。浮かび上がったのは、隣国アルバート領の貴族ロドリゲス伯との闇取引である。
ロドリゲス伯は自領の工房都市で製造した武器・火薬を安価に提供し、伯爵はそれを買い付け私兵に回し、余剰は闇市や名うての傭兵団へ高値で転売していた。
宰相派も関与し、押さえた領収書や取引契約には、貴族院の紋章や印が押された箇所を破り取ろうとした痕跡があった。
そこから推察されるのは、「伯爵が実質的に宰相派の外部資金を使って取引していた」あるいは「宰相派が自分たちの利益を確保しつつ伯爵を泳がせていた」という可能性だ。
伯爵はこの資金を背景に貴族院での地位を高めようとした。宰相と手を組み「王太子擁立」を進め、“その功績”を得るつもりだった。
伯爵は「リュシアンが王太子として迎えられるなら、自分こそが護衛・監督を担うべきだ」と声高に主張。宰相は“リュシアンを新たな王太子として推す”動きを後押しし、伯爵は「自分の支援でうまくいった」と恩を売る。将来リュシアンが王位に就けば、伯爵は“外戚”のような立場を得られる――そう踏んでいた。
もともと伯爵は貴族院で強い発言力を持たなかった。だが違法取引による潤沢な財力で一部の貴族や重臣を取り込み、宰相を補佐することで地位を飛躍的に高めようと目論んでいた。“ギルク王子との友情”を謳いつつも、本音は“王家との縁を作り、権勢を拡大したい”。それが大きかった。
伯爵はロゼリーヌ殿とリュシアン殿を本気で守ろうとしていない。“人質”のように捉え、材料にして宰相をも揺さぶる構え。
ただ、宰相は伯爵の動きを熟知し、いつでも“裏切り者”として退場させる用意があった。女王陛下が謁見を要求し、伯爵が応じて王都へ向かったことで、それは現実になる。ボコタの街に投宿していた一行は何者かに襲撃され、伯爵は消息を絶った。その手際の良さに、ダビドは“プロの仕事”と感じざるを得ない。
ここで浮かぶのが、“影の手”という諜報組織の存在だ。
宰相が極秘に組織した少数精鋭の諜報・工作部隊。裏社会に通じた者や軍情報部の選り抜きが参加しているとされる。公的には存在が確認されず、宰相派の重臣ですら全貌を知らない。情報収集だけでなく、暗殺・威圧・工作員の派遣など汚れ仕事を担うと噂される。
ダビドの推理では、“影の手”の諜報網は伯爵の違法取引や闇蓄財を早くから把握し、宰相はあえて黙認していた。伯爵が不都合になれば、スキャンダルを暴露するか、裏から抹殺するか――宰相はいつでも選べる。
宰相が手を下したのは、伯爵が何らかの裏切りを働き、女王を味方につけることを恐れたからに違いない。だが、捕縛した傭兵の証言や人と物の流れから見て、伯爵はまだ生きている。この廃屋敷で“高貴で大切なお客様”として扱われている。
まだ利用価値がある――ということだ。彼は女王派にとっても、重要な証言を引き出せる対象。ここで伯爵を奪われれば、女王派が未来を取り戻す機会は永久に閉ざされかねない。
眉間に深い溝が刻まれる。廃屋敷へ集結する精鋭、その裏で糸を引く宰相の影を思うと、やり切れぬ思いが胸を締めつけた。
いずれにせよ、時間は残されていない。伯爵を見過ごせば、宰相はさらなる讒言や陰謀を画策し、“真実”であるかのように広めるだろう。
ダビドはわずかに目を伏せ、固い決意をかみしめるように唇を結んだ。同時に、近くに伏せる仲間へ小さく頷く。
そして、闇に溶けるように身を翻す。狡猾な宰相の手から伯爵を救い出すため、彼らは今すぐ作戦を詰め直す必要があった。
◇◇◇
翌朝。まだ白みきらぬ曇り空の下、ダビドたちはボコタ近郊の果樹園に戻ってきた。木材が朽ちかけた二階建ての一軒家。傷んだ屋根も壁も修繕の余裕はなく荒れ果てているが、内部には最低限の物資が揃い、十数名が潜伏するには十分だ。
板で塞がれた窓からはほとんど光が入らず、室内は薄暗い。埃の舞う空気を、小さなランタンの炎だけがぼんやり照らす。
ダビドは硬い寝台に腰を下ろし、浅い眠りから覚めたばかりの頭を振って、同じ部屋に集まった仲間を見回す。ブルーノ、シモンらが次々と顔を上げ、一様にくたびれた面持ち。
それでも視線は張り詰めている。宰相の策を警戒する以上、休む暇はない。
「……王宮からの返信は、まだない。まさか、陛下の身に何かあったんだろうか……」
ダビドが切り出すと、気まずい沈黙が部屋を覆った。
宰相は内務だけでなく、国境近くの治安維持にも巧みに手を回し、“情報”さえ握っていると言われる。風耳鳥が妨害されている可能性もあり、いくらでも不安はある。
シモンは腕を組み、壁に凭れながら問う。
「いったい伯爵をどこへ移送するつもりなんでしょう。雪深いこの時期、陛下もご動静が取りづらい。その隙を宰相が狙っている気がします」
ブルーノが苦渋の表情で苦い口調を漏らす。
「宰相が北へ向かうって話なら俺も聞いたぜ。モンヴェール男爵領に直接出向き、次期王太子候補のリュシアン殿を丁重にお出迎えするとかなんとか……。ただなぁ、あれだけ用意周到な男が、それだけなはずがない。邪魔な伯爵をわざわざ生かし、閉じ込めてる時点で、ろくでもない陰謀を隠してるに決まってる」
ダビドはゆっくり視線を落とし、声をひそめる。
「その通りだ。宰相なら表の顔と裏の顔を巧みに使い分ける。伯爵が“女王に謀殺されかけた”など、もっともらしく事態を捏造するだろう。実際、王都には影の手の工作員をはじめ、奴の息のかかった者が多い。あっという間に風評が広まり、陛下の正当性が損なわれる……」
「つまり、伯爵が生きていると証明しつつ、その救済者は宰相ただ一人。逆に言えば女王陛下が伯爵殺しを企んだと決めつけ、宰相派に大義名分を与えるわけですか」
シモンの言葉に、室内の空気がさらに重く沈む。想像以上に練り込まれた陰謀が進行している事実を、全員が理解したからだ。宰相の狡猾さは、彼らの準備を上回ってなお余りある。
ブルーノは拳を握り、苛立ちを抑えきれない。
「くそ……だからあの廃屋敷で“大切なお客さん”待遇ってわけか。で、いよいよ宰相が北進し、取り込みの段取りを着々と進めている。よくやるもんだ」
ダビドは目を閉じ、短い沈黙ののち口を開く。
「このまま合流を許せば、それこそ宰相の思惑通りだ。俺たち女王派は四面楚歌に陥る。放っておけば取り返しがつかない。援軍は期待できんが……やるしかないだろうな」
焦る気持ちを抑え、ダビドは唇を噛む。小さなランタンの炎が彼の横顔に影を落とし、光る瞳が決断を象徴する。
宰相の陰謀を打ち破るには、早期の行動しかない。風耳鳥が戻らなくとも、いま動かなければ伯爵奪還の好機はない。
そもそも、宰相ほどの人物にとって世論の捏造など造作もない。散らした情報網と権威を操り、“女王の罪”を一夜にして仕立てることなど容易い。だからこそ女王派にできるのは、策が完成する前に伯爵を取り戻し、真実を掴むことだけ。
重い思考の末、ダビドは立ち上がり、小さな卓を囲む仲間へ向き直る。
「このままでは伯爵は宰相の手に落ちる。それだけは、何としても阻止しなくてはならない。……行くぞ。廃屋敷の警戒は昨夜より厳しくなっているかもしれないが、俺たちにはこれしかない」
言葉に、シモンとブルーノが重々しく頷く。炎が揺らぎ、表情を照らすと、その目には死地へ赴く覚悟が濃く刻まれていた。
「敵の想定戦力は、廃屋敷周辺だけでも六十以上。ボコタ全域でいえば百を優に超える。一方、俺たちはたったの十八名……普通に考えれば勝ち目なんてない」
ダビドはそう言いながら、もう一つの策を胸に抱いているようだった。
ブルーノやシモン、壁際のレオンはまだ気づかない。表情を確かめたのち、ダビドは意を決し、声を落として続ける。
「……まずは市街で騒ぎを起こす。やつらが最も嫌がるタイミングで。あちこちで同時に混乱を作れば、廃屋敷の兵を市街地へ引き剥がせるし、特製の護送馬車が焦って動き出すかもしれん。そこを精鋭で急襲し、伯爵の身柄を確保する」
「だよなぁ。あるとすれば陽動作戦しかない……」
ブルーノが腕を組み、低く唸る。
「それはわかるが、肝心の王宮の判断を待たずに動くのか? 確かに猶予はないにしても、無策で突っ込めば返り討ちだぞ」
ダビドは短く息を吐き、視線を向けた。
「承知している。だから作戦は二段構えだ。まず宰相派に気づかれぬ程度の小規模な“悪目立ち”を街の複数箇所で起こす。これはシモンとブルーノのチームに頼みたい」
その言葉に、二人は強く頷く。
「はい」
「いいだろう。具体的には?」
「三名編成で行動し、奴らの物資集積地に火を放て。損害より派手さを優先だ。民間人は巻き込むな。目的はあくまで攪乱」
シモンが神妙に頷く。
「騒ぎを大きく見せられれば、廃屋敷からも増援が向かうはずです。本命の護送馬車を優先するでしょうが、兵力を分散できれば……」
ダビドがうなずいた。
「そうだ。その隙に、俺を含む残り十二名で伯爵を救い出す。最悪、護送馬車が動き始めたら正面からぶつかる」
言葉に、ブルーノは目を伏せ、苦渋を浮かべる。
誰もが危険な賭けだと理解していた。それでも破滅を防ぐためには、やらざるを得ない。
「……わかった。お前がそこまで言うなら、やろう。撹乱を終えたら、すぐ追いつく」
ブルーノは腹を決め、力強く頷いた。シモンも続く。ぎしりと床が鳴り、レオンがゆっくり立ち上がる。
「なら、具体の手順を分担しよう。誰がどこで何を壊し、どうやって騒ぎを大きく見せるか。手の内を共有だ」
ダビドは卓上へ紙と炭ペンを引き寄せ、果樹園やボコタの地図を簡単に描き始める。仲間も真剣な表情で覗き込み、必要な情報を書き加えていく。
◇◇◇
同日の夜半。ダビドたちはボコタ郊外の古びた倉庫を集合地点にした。市街地で宰相派を攪乱する組と、廃屋敷付近を偵察していた組が合流し、各自の状況を報告する。
市街の攪乱が遅れた場合、あるいは宰相派が先手を打って護送馬車を出した場合にどう動くか――確認と打ち合わせが急務だ。
「作戦の細かい部分をもう一度すり合わせたい」
ダビドは床へ木箱を置き、即席の腰掛けにして仲間を見回した。照明は小さな魔導ランタンひとつ。影が壁に長く伸びる。
「市街地の攪乱は、夜明けとともに始めるのがいい。夜中の不審火より、住民の視線がある程度ある時のほうが混乱は大きくなる。それで兵を呼び寄せたら――」
埃っぽい空気を吸い込みながら、最年少のエメリオが不安げに問う。
「もし宰相派が予定より早く動いて、護送馬車が先に廃屋敷から出てしまったらどうします? 市街の攪乱が始まる前に、伯爵を連れ去られたら目も当てられない」
ダビドは倉庫の隅で小さく息をつき、唇を引き結んでから、落ち着いた声で答える。
「……そのときは俺が動く。連中は南へまっすぐ進むか、一度ボコタを経由して南へ抜けるかだ。どちらでも先回りは難しいが、手をこまねいていられない」
覚悟の光を感じ取り、ブルーノが眉をひそめる。
「待ってくれよ。たった一人で馬車の進路を押さえるなんて、そんな――」
ダビドは片手を上げて制し、苦い微笑を浮かべた。
「もちろん、少数精鋭で追跡し、市街の騒乱が始まる瞬間に奴らの動きを見極める。そのときは、俺が囮になる。……いちばん確実だ」
言葉が落ちると、空気がひりつく沈黙が降りた。誰もが察するのは「ダビドが犠牲になる可能性」。
暗がりからクリスが立ち上がり、負傷した腕の包帯を抱えながら必死に声を上げる。
「だめです、ダビドさん……! そんなことになったら、あなたはもう逃げられないかもしれない。班長であるあなたがいなくなったら、わたしたちはどうすればいいんです!?」
乾ききらぬ血の包帯が痛々しい。彼女の瞳には、言い知れぬ苦痛と恐れ。
ダビドは一瞬、表情を曇らせ、すぐ理知的な声音を保つように言葉を継ぐ。
「……わかってるさ。俺だって死ぬつもりは毛頭ない。だが、伯爵を取り戻さねば女王陛下の正統性が損なわれ、国は宰相派の手に落ちる。手段を選んでいる余裕はない。もし犠牲が必要だというなら――俺がその役を担う」
誰もが否定したいのに、否定できない現実。伯爵が女王派を支える重みが、倉庫の空気をさらに重くする。
レオンが唇を噛みしめた。
「やっぱりだめだ……兄貴一人に押し付けるなんて承服できない」
「ありがとよ、レオン。もちろん、陛下と殿下に救われたこの命、無駄にする気はない。そんなことしたら、あの陛下のことだ。きっと泣かせちまうだろうが……」
「……」
全員が言葉を失う。脳裏に蘇るのは、数年前、混乱が頂点だった魔族大戦の光景。生々しい血の匂いが、かすかに鼻を突く錯覚を覚えながら、それぞれがあの場面をありありと思い出す。
◇◇◇
辺りに横たえられた無数の遺体袋。
地面は乱れた足跡と泥濘で埋まり、その荒れた光景の中、まだ少女の面影を残すメービスが膝をつき、うずくまっていた。血と塵にまみれた大地に、彼女の涙が、とぷり、と落ちる。
誰に聞かせるでもなく、しかし確かにその場の人々ひとりひとりに語りかけるように――その瞳は“無念”を抱いた亡骸の向こう側にあるはずの未来を見ていたのかもしれない。彼女は、ただ繰り返した。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
声は掠れ、身体は小刻みに震える。まとわりつく血の臭いも、肌を刺す風も、耳には届かぬかのように、泣き続けることしかできない。濡れた頬を手の甲で拭うことすら忘れ、何度も何度も唇を震わせ謝罪の言葉を零す。
居合わせた者たちは、ひとり、またひとりと足を止め、メービスの姿に胸を締めつけられる痛みを覚えた。
何か声をかけなければ――けれど言葉が見つからない。誰かの戦死を悼むより先に、まず自分が生き抜かねばというぎりぎりの思いと、圧倒的に哀しい現実が重なっていた。
優しさだけでは誰も救えない。そう突きつけられる戦場で、メービスが零した「ごめんなさい」は、周囲の胸にも深く刻まれた。
◇◇◇
あの惨状で彼女を奮い立たせたものと、背負った呪いのような後悔。その両方を思い返すたび、いまもなお、痛烈な喪失と悲しみが胸を突く。
埃まみれの暗がりで、ダビドたちは視線を落とす。思い出すのは、メービスの涙に宿っていた、決意にも似た祈り。あの日から彼女は、小さな肩に“女王”という重責を刻んだ――全員が知っている。
そして今、伯爵奪還という苛烈な選択を前に進もうとするのは、深い悔恨を抱えたまま、この国を守ろうとするメービスの想いを支えたいから。
誰より傷つきやすい心で、それでも精霊の巫女として戦い続けた彼女の涙とあの言葉を、無駄にしない――そんな静かな誓いが、仲間たちの奥底に燃えている。
「ここが俺の命の賭けどころなんだ。なあに、そう簡単には死なんさ。文書偽造や口八丁は俺の十八番だ。なんだかんだ理由をつけて時間を稼いでやる」
「兄貴、俺たちも精一杯援護します。ぜったいに死なせたりはしません」
レオンの言葉に、ダビドは小さく微笑み、柔らかな口調で応じる。
「頼むぜ。俺だって、好き好んで死地に赴くわけじゃない。最善を尽くして生き延びる……それとレオン、そしてクリス。おまえたちは当初の指示通り、作戦が失敗した場合は北方へ向かう本隊を探して合流しろ。これは命令だ。いいな?」
言い切る横顔を見つめ、クリスは息を呑み、黙って頷くしかなかった。仲間たち全員が苦渋の面持ちを隠せない。
天井の隙間から月明かりが差し、ほこりだらけの空気を白く浮かび上がらせる。その光の下で、ダビドは思考を巡らせ、やがて低く呟いた。
「……メービス様とヴォルフ様宛に書簡は飛ばしてあるが、宰相派の妨害はありうる。返事がなくとも、俺たちは動く。伯爵が握る情報は、この局面を打開する要になる」
深い溜息のような空気が倉庫を満たす。危険な覚悟を抱くリーダーを慮りながらも、その決意に敬意が宿る。
女王陛下を守り抜くため、避けられぬ犠牲があるなら、まず自分が立ちふさがる。――それがダビドの本意だった。
だが、不安は誰の胸からも消えない。
淡い月光がダビドを照らし、瞳に微かな輝きを宿す。静寂を裂くように、遠くから吹き抜ける冷たい風が隙間風となって壁を揺らした。ほんの少し先の死線を暗示するかのように。
誰もが言葉を失いかける中、ダビドは夜闇の向こうに廃屋敷を仮想し、心の奥に誓う。「自分は死なない」と。同時に、「もし犠牲の瞬間が訪れ、仲間が伯爵を奪還できるなら、それで構わない」とも。矛盾を抱えながらも、前へ進まなければならなかった。
こうして暗い倉庫で交わされたやりとりは、ダビドの決死の決意と仲間の切迫を、さらに強く結びつけてゆく。伯爵を救うために払う犠牲の重みを、誰よりダビド自身が理解していたからこそ。
◇◇◇
夜が明け、また日が沈むまで、彼らは隠れ家で綿密な打ち合わせと準備に追われた。武器の手入れ、偵察経路の確認、体力温存の仮眠――やることは山ほどある。
焦る仲間を落ち着かせるように、ダビドは冷静な指示を出し続けた。本当は誰より張り詰めているはずだが、その落ち着きが動揺を抑える歯止めとなる。
やがて夕闇が外界を覆い、隠れ家にも薄暗さが広がる。狭い窓から見えるのは雪雲を抱えた灰色の空ばかり。星明かりも月も望めない。風は明らかに冷え、いつ本格的な雪が降ってもおかしくない気配。
ダビドはクリス、レオン、マリアら主要メンバーと最後の確認をする。市街で攪乱を起こすブルーノとシモンは、深夜から夜明けにかけて行動を開始する算段だ。
「廃屋敷へは、自分を含む最少人数で移動する」――その決断を繰り返し伝え、地図を指し示す。
「目立たない裏道を使い、深夜以降に廃屋敷へ近づく。市街の騒ぎが効けば、宰相派の兵力もいくらか分散するはずだ」
クリスが小さく息を呑み、包帯の腕を気にする仕草を見せる。深い傷はまだ新しく、自由に動かすには痛みが伴う。それでも、ダビドの思いに報いたい一心で加わろうとしていた。
一見すれば、この布陣は“精鋭”とは言い難い。けれど、クリスの“気配を察知する感覚”、レオンの卓越した剣技と“異常なまでの生存性”、マリアの冷静さと“応急処置”は、武力だけでは越えられない局面で真価を発揮する。ダビドは本質をよく知っていた。
それぞれが役目を頭に叩き込み、出発の最終準備に入ろうとした、そのとき――隠れ家の外から小さな羽ばたきが聞こえた気がした。風の音に混じり、壁の裂け目のあたりで何かが動く気配。
ダビドは敏感に察し、そっと扉を開けて暗闇を覗く。一羽の小鳥が枝に止まり、細い脚に革の通信筒を括りつけたまま、こちらを見つめている。
「風耳鳥か……!?」
返信用に調整された王家専用の希少な鳥が、今度は逆に舞い戻ってきた。ダビドは息を詰め、鳥を手に乗せて筒を外す。
緊張の中、彼が革筒から巻紙を取り出し広げると、メービスとヴォルフの連名で短いメッセージがしたためられていた。
「“宰相の豪華な車列の歩みは遅い。わたしたち自らが北へ向かい、これに先んじる。約束する。三日で必ず辿り着く。それまで可能な限り伯爵を守り抜いてほしい”」
その一文が読み上げられると、全員が一斉に息をのむ。“わたしたち自らが北へ向かう”――王都に縛られていた精霊の巫女と騎士が、ついに行動を開始したのだ。
消えかけた灯に新たな炎が注がれたように、顔に安堵の色が浮かぶ。クリスが肩越しに巻紙を覗き込み、小さく囁く。
「……陛下たちが動いてくださる。しかも三日で到着ということは……」
「こちらから風耳鳥を飛ばしたのは四日前。王都に着くのに一日、長くても二日。この返信が出された時には、お二人はすでに出立しているはずだ。だとすれば……今夜中か、遅くとも明け方には辿り着かれる」
ダビドは巻紙を握り、きっぱり応じる。
「そんなに速いんですか? でも、この雪の中をどうやって……」
クリスの疑問はもっともだ。王都とボコタを結ぶ主街道は積雪が多く、除雪も追いつかない。馬車なら通常の三日どころか、その倍もありうる。
だが、ダビドは口元に笑みを浮かべる。
「そこはヴォルフ殿下お得意の手段があるんだよ」
「え……?」
要領を得ない顔のクリスへ、ダビドは続ける。
「詳しい種明かしはご本人に伺うといい。ともかく、陛下が動けば宰相も下手な真似はできまい。……行くぞ。当初の計画どおり護送馬車の動きを封じ、伯爵が宰相の手に渡るのを阻止する」
緊迫は相変わらずだが、瞳にはわずかな光が灯る。死地へ赴く覚悟は変わらずとも、王都からの援軍が期待できるかもしれない事実は、折れかけた心を支える大きな支柱になる。
少なくとも、伯爵奪還の成功率はわずかでも上がる――そう思うだけで、肌に刺さる雪の気配が苦ではなくなる。
「もし、陛下たちが合流してくれるなら……」
クリスのつぶやきはかすかだったが、ダビドの耳にははっきり届いた。彼は短く頷き、全員を見回す。緊張の奥に宿る決意が、さらに強まった気がした。
こうして王宮からの第二の風耳鳥がもたらした一筋の希望を胸に、彼らは最後の準備へ戻っていく。夜の闇がいっそう深まる頃には、それぞれが最低限の休息を取り、いよいよ廃屋敷へ向けて動き出す段取りだ。
いかに宰相が周到でも、今なら伯爵を救い出せるかもしれない。メービスとヴォルフの動きに呼応し、彼らは一か八かの大勝負へ打って出る決意を固めた。
【後書き】
救世の英雄と持て囃された存在とは――傷つきやすく優しすぎる、ただの少女でした。
【リアクション】
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------------------------- エピソード417開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
最期の闇に仕掛ける者たち
【本文】
夜気に染まるボコタの町は、昼間の活気が嘘のように沈黙していた。時刻はもうすぐ夜明け前。薄暗い空気のなか、風に揺れる焚き火の赤い灯りがところどころに点在し、静かな街路をかすかに照らし出していく。古びた倉庫が建ち並ぶ一角では、荒れた石畳の隙間から湿った草がひっそりと顔をのぞかせていた。
その一帯に、黒い布をまとった数名の影がひそやかに動く。彼らは低く身を落とし、街灯の届かない暗がりを選んで素早く移動していく。薄いフードを深く被った整った横顔、鍛え上げた体躯を目立たせまいとさらに屈める影――息は短く白く、足取りは石の継ぎ目をなぞるように静かだ。
「……火薬の準備はできたな?」
合図を低く切ったのはブルーノだった。指先に弓弦の油の匂いが薄く残り、喉の奥の呼気は一拍だけ長い。合図に、仲間のひとりが小さく頷く。夜明け前の寒さと静寂が、彼らの肩の筋をさらに深く落とさせていった。
視線の先には、古びた倉庫が複数並んでいる。宰相の私兵が物資を集積している場所――ここを突けば、行軍は鈍る。確信めいた静かな気配をまとい、影たちは倉庫の扉へ近づいた。夜闇はまだ深く、夜明けの淡い兆しすら、いまは影を潜めている。
「よし! 火の手が上がったぞ!」
少し離れた塀の向こうから、その声が低く響く。続いて、ごうん……と腹の底を揺らす音が遠くで鳴った。別働の手が放った火薬が、乾いた木箱の山で起爆したのだろう。細い火花が黒い導火線の縫い目を駆け上がり、炎がひとつ、またひとつ、風下へ連鎖して舞い上がる。
「派手にやったな……。これで、あいつらもここに兵を割かざるを得ないはずだ」
低い返しに、別の影が続いた。
「町の人たちには申し訳ないが、ここで宰相派を足止めしなければ、この国は最悪の方向へ転がり出す。……頼むぞ、皆」
囁きと同時に、闇に潜んでいた仲間が一斉に散開する。擦れる足音は砂を撫でるほどに軽く、巡回の靴音の“間”を正確に縫う。
陽動組を率いるシモンとブルーノは斥候上がり。巡回の間合いと風向きだけで街ひとつ騒がせる術を知っている。宰相の私兵の巡回ルートもすでに頭に入っており、見つかる可能性は著しく低い。一度突けば、敵にとっては不意の痛打になる――それを骨身で知っていた。
火薬が次々と爆ぜる。屋根板は松脂を含んだ古材で、火が乗れば早い。赤黒い煙が夜空へと噴き上がり、複数の倉庫や物置が炎に舐められていく。宰相の私兵は火消しと原因究明に追われ、大声が交錯した。幹部と思しき男の指示が、風下へちぎれて飛ぶ。
「屋敷の方にも応援を呼べ! いったい、どこから火が回ってるんだ?」
「わからん! あっちもこっちも爆発が続いている! 手がつけられん」
怒号が重なり、夜明け前の町は危うい熱でゆらぐ。焦げと松脂の匂いが鼻腔の奥を刺し、熱が皮膚へ薄く乗った。無関係の市民は怯え、眠りから跳ね起きた者の悲鳴が窓の向こうでかすれた。私兵の隊列は次々に市街地へ引かれていく。足音が石畳を叩いた。
とはいえ、廃屋敷や外縁には一定数の兵が残った。最重要の護衛は手放さない。それでも先刻よりは守りの数が目に見えて薄い。物資集積地を狙う一団には、これで十分だった。
「……行くぞ」
シモンが囁き、仲間数名が倉庫の壁をするりと回り込む。扉の前に仕掛けを取り付け、革袋の火薬と導火線を手順どおり繋いだ。巡回の靴音が角を曲がるまで、数えられる呼吸だけの猶予。
「手筈通り、散開しつつ移動。別の倉庫を頼む」
かすかな火花が導火線を走り、黒の縫い目を登る。
「くそっ、あっちにも火が仕掛けられている! 急げ、消せ! 加勢を呼ぶんだ!」
宰相の私兵は声を荒らげて駆けるが、混乱は拡大の一途。燃え上がる火柱が風下を真紅に染め、私兵の焦燥はさらに昂ぶる。陽動は思いのほか深く刺さり、兵は市街地へ吸い寄せられていった。
布で顔を覆った影たちは、その様子を物陰から一瞥だけくれて、深追いはしない。灰を踏まぬよう足を返し、闇の縫い目へと溶ける。葉擦れの音がひとつ、すぐ風に消えた。
「火の勢いが強い。これ、本当に消せるのか!?」
「あっちもこっちもで、次々と燃え移る勢いだ!」
私兵の叫びが薄明の空へ昇る。負傷者と物資喪失への恐れが隊列を乱し、右往左往があちこちで起きていた。
深夜から夜明け前に仕掛けられた陽動は、狙いの芯を射た。標的は町外れに位置する私兵が管理する物資集積地だけ。市街への影響は最小限に抑えつつ、同時多発の爆発で敵は後手へ回る。その間に、本隊は別の目的地へ動く時間を手に入れていた。
焦げ臭い風がボコタを抜ける。燃え尽きた倉庫の残骸に、燻る火花が小さく残った。住民は事態を掴めず不安を募らせ、私兵は収拾に奔走する――やがて空は青みを帯び、薄い光が慌ただしく煙る町を撫で始めた。
◇◇◇
夜明け前の空は、漆黒から灰色へ溶け始め、東がうっすら白んでいる。遠くでは爆音と怒号の名残がまだ尾を引き、冷たい風には焦げの臭いが混じった。倉庫地帯の爆発が、町の一部を渦に巻き込んでいる。
それこそがダビドたちの陽動。宰相の私兵を市街へ駆り出し、その隙に本来の目的――囚われた伯爵の救出――を果たす。廃屋敷へ忍び込む段取りだ。
だが、甘くはない。薄白んだ空の下、廃屋敷を一望できる土手に伏せたダビドは、唇を引き結んだまま門の動きをうかがう。少し後ろでレオン、クリス、マリア、ディクソンが順に身を隠し、ガイルズが草をわずかに分けて戻ってきた。
「相変わらず廃屋敷の守りは固い。表門だけでも二十人以上、裏手にも相当な数が潜んでいると思う」
ダビドは短く息を呑み、舌打ちを喉で殺す。
「……そう易々と崩れてはくれないようだ。陽動の効果はあったが、それでもこれだけ兵を残しているとはな」
遠方からは炎の音、私兵の足音、誰かの悲鳴が風に乗って流れてくる。それでも廃屋敷の敷地は異様に静かで、張り詰めた闇だけが濃い。塀の向こうでランタンの灯が揺れ、足音と影が絶えず行き交っていた。
「今が好機、と言いたいところだけど、なかなか難しそう……」
クリスが瞳を慣らし、二階窓の揺らぐ光を捉える。後方を張るレオンが肩越しに囁いた。
「この隙に潜り込みたかったが……門の前だけでもあれほどの数がいるんじゃ、飛んで火に入る夏の虫ってわけだ。くそ……」
「でも、なんとしても伯爵を連れ出さないと、このままでは宰相派に先を越されるわ」
年上のマリアが複雑な面持ちで続ける。
「……これだけ警戒が厳重だと、内部へ潜入するのはほぼ不可能かもしれない。いくら奇襲を仕掛けても、この人数差じゃ勝ち目は薄いわ」
ディクソンが体躯をさらに低め、苦く呟いた。
「端からこっちが少数だってわかってるんだろう。堂々と守りを固めやがって……。さて、どうする、ダビド?」
視線が一斉にダビドへ向く。門前では私兵が巡回を繰り返し、警戒は崩れそうにない。
「……作戦をプランBに変更しよう。分隊に火矢と燻煙筒を使わせて、相手の出方を見るしかない」
「混乱して奴らが正面から出てきたら、裏手から入り込めるかもしれません。ですが、屋敷に火を放てば伯爵の身の安全は保証できません」
レオンが頷き、ディクソンも強く同意する。
「やるしかない。数の差を埋めるには、もうこの手しかない。責任は俺が取る」
ダビドは土手に伏せたまま、音もなく右手をわずかに挙げた。存在を悟られぬよう、合図は最小限。闇に溶けて待機していた別動の六名が、それを逃さず受け取る。彼らの役目は、火矢と燻煙筒で騒ぎを起こすこと。
先頭の男が短い指笛をひとつ。草の青い匂いを含む冷たい風に溶け、静かな夜明け前の町へ透き通って消えた。
次の刹那、ぴん、と張った弓が夜気を震わせ、火矢が塀を越えて飛ぶ。
「な、なんだ!? 敵襲か?」
門番の叫びを合図に、私兵が一斉に動いた。闇を裂く赤点にたじろぎ、声が泡立つ。二撃目は門正面、三撃目は塀上。続いて燻煙筒を括り付けた矢が投じられ、石畳を転がって青白い煙を吐く。湿った藁へは白が滞り、乾いた木へは赤が走る。
「くそっ、どこだ、どこから撃ってきているんだ!?」
私兵は槍と剣を握りしめ、視界を奪う白に咳き込みながら周囲を探る。騎乗の兵が馬の鼻先を左右に揺らすが、火矢はさらに塀上を叩き、白が濃く広がって足元の視野を潰した。
「落ち着け! まだ敵の数がわからんぞ!」
「隊長、門の外へ出て迎撃しますか? このままだと、火が屋敷に燃え移るかもしれません!」
苛立つ声を切り、隊長らしき男が怒声を内へ投げる。
「慌てるな! 敵は小細工で我々を動揺させるのが狙いだ。下手に兵を外へ出せば、隙を突かれる。まずは延焼を抑えろ! それから裏手を固めるんだ。馬車の準備はどうなっている!」
敷地の奥で鉄の車輪が小さく軋み、ランタンがまばらに揺れる。伯爵を載せて出る構えだ。
さらに火矢が一本。門上の古材が乾いた音で燃え始め、梯子を運ぶ兵の足元で燻煙筒が爆ぜ、藁が白く立ちこめる。
「隊長、煙で何も見えない……!」
「焦るな! 火を消せ! ぐずぐずするな!」
正面は怒号と咳き込みが折り重なり、混沌の極みに踏み込んだ。馬上の兵は火矢を避けるだけで手一杯、偵察を出そうにも方角がつかめない。塀に薄い炎が踊り、門の下では白が燃え、夜明け前の闇だけがさらに濃く見えた。
騒ぎを見下ろし、ダビドが身をわずかに乗り出す。レオン、クリス、マリア、ディクソン、ガイルズは息を殺し、指示を待った。火矢は別動の六名だ。
「さすがに、あちらも本気だな。意外といったら失礼かもしれないが、落ち着いて対処してくる」
レオンが低く呟く。宵闇に赤の軌跡が描かれるたび、門の向こうの怒号は一段高い。
「ダビドの兄貴。ここまで騒ぎが大きいなら、門の護衛も薄くなるんじゃないですか?」
「いや、全部が出払うとは考えづらい。そう簡単に崩れる相手じゃない。おそらくは――」
ダビドは目を細め、指先で門内を示す。
「ほら、案の定馬車が動き始めた。最重要人物である“高貴なお客様”を、焼死させるわけにはいかんからな」
クリスが小さく頷く。
「この混乱下では、警戒に割く人員も限られる。護送馬車を守るための兵が減る……そういう計算ですね」
「うまくいけば、だが……」
慎重さが声に滲む。門の内では白煙の中、護送馬車が明らかに前へ。扉をこじ開ける怒声が重なる。宰相の私兵にすれば、ここで燻され続けるよりは市街へ逃げ込むのが得策だ。
「急げ! “金づる”をこんなとこで失えるか! 馬を回せ!」
「隊長、門に火が――くそっ、早く、早く開けろ!」
護送馬車がキーキーと軋み、私兵に囲まれて前へ進む。燃え移った古材を避け、馬は鼻息を荒らげながら石畳を踏んだ。
「門さえ抜ければ、火矢の射程から外れられるはずだ……走れ、走れ!」
怒鳴り声と同時に、戸板が勢いよく開いた。破れかけの木箱の炎が足元で跳ね、火の粉が白む空に散る。転びかけた兵の肩を仲間が掴み、混乱が渦を巻いた。
「……これである程度兵を屋敷に残したまま、馬車が出てくるはずだ。正面兵力は確かに多いが、混乱は大きい。馬車はこのまま街の方に展開している兵と合流するため、市街へ向かう道をたどるだろう。俺たちもすぐに移動するぞ」
「了解。分隊と合流して街道へ急ぎましょう」
マリアが地図をしまい、クリスが鞄を揺らして身を縮める。レオンは刀の柄を握り直し、ダビドのあとへ続いた。
低木をくぐり、茂みを分け、音を殺して後退する。門前の騒ぎが激しければ激しいほど、こちらへの目は薄い。裏道へ回り、街道で馬車を挟み撃つ――狙いはそこだ。
「街道に出る瞬間を狙うしかない。二手に分かれて、奴らを挟み撃ちにする。……いいな?」
決意の声に、レオンがにやりと笑い、クリスとマリアが頷く。ディクソンは短槍を構え、ガイルズは弓を整えに影へ消えた。
薄暗い裏道を抜けるころ、東はわずかに橙を帯び、夜と朝が混ざる。遠方の煙と火柱が街の輪郭を揺らめかせた。
「仲間がここまでやってくれたからには、俺たちも伯爵を取り戻さなきゃ示しがつかない」
ダビドは前を見据え、呼吸を深く整える。
「一撃で決めるぞ。失敗は許されない」
前方のダビドが声を潜めたとき、地図を持つマリアが駆け寄り、小声で告げた。瞳に緊張の光が宿り、口元に落ち着いた笑みがのぼる。
「大丈夫。廃屋敷から市街へ向かうなら、通れる道はほぼ一択。このまま進めば、護送馬車に追いつけるはずよ」
同意するように、クリスが額の汗を手の甲で拭い、決意の色を透かす。
「きっと火矢を恐れて一気に駆け抜けるはずだから、そこを突けば最も効果を発揮できると思います」
隣のレオンは苦笑混じりに口を挟む。表情に不安の影を乗せつつ、気遣いを隠さない。
「けど、クリス、おまえは怪我してるんだ。無茶だけはするなよ。俺を盾にしてくれて構わない。多少傷つくくらい、問題ないからさ」
彼の掌が彼女の肘に触れ、革手袋越しの熱がわずかに残る。
「レオン、何言ってるの? わたしたちの戦い方は、いつだって“表”と“裏”を臨機応変に入れ替えてきたでしょ」
「でも、その腕じゃ力が――」
吐息が合い、白が重なってすぐ溶けた。
「大丈夫。受け流すくらいなら平気。いい? わたしの感覚だけでも、あなたの力だけでも、どちらかに偏ったら一瞬でやられちゃうわ。わたしたちは、“ふたりでひとつのチーム”なんだから」
レオンは一瞬言葉を失い、わざと咳払いの音を立てて視線をそらす。
「そ、そうだな……。俺にはやっぱり、おまえが必要だよ」
にやにやと見守るディクソンが肩を揺らし、ガイルズは「二人ともイチャついてる場合か?」と口だけで軽口を刻む。マリアは地図を畳み、「いいコンビよね」と小さく笑った。
クリスは照れたように目を伏せ、すぐ顔を上げる。横顔の線が柔らかく緩む。
「わたしも同じよ、レオン。あなたがいるからこそ、わたしの力だって生かされる。……無茶しないで、ふたりで生き延びよう」
汗の塩が唇に薄くのぼり、緊張の温度が喉の奥で落ち着いていく。レオンは半ば照れ隠しに息を吐き、短く「ああ」と答えた。ディクソンとガイルズが口だけで「まったくおまえらときたら……」と形を作るのを、マリアがやんわり手で制する。
互いに視線を交わし、あらためて走り出す。外気は冷たく、吐く息は白い。耳の奥でダビドの声が焼きついたまま――
――「一撃で決めるぞ。失敗は許されない」。
遠くで揺れる炎の色が、なおも戦いの始まりを予感させるようにちらついていた。
【リアクション】
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------------------------- エピソード418開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
暁光に散る刃
【本文】
革の鞘が腿に当たるたび、乾いた痛みが一拍遅れて残る。ディクソンが先頭を切り、ダビドたちは裏通りを駆け抜けていく。
瓦屋根の下はまだ眠りの気配が濃い。倉庫地帯の炎上は遠ざかり、風の向きを変えるたび、焦げの匂いだけが薄く揺れ戻ってくる。やがて護送馬車の車輪が軋む音がこの路地へ流れ込んでくる――そんな予感が背筋の皮膚をひやりと撫でた。
夜から朝へ移る、この境目が作戦の芯だ。息が荒れ、胸骨の内側で拍が噛み合っていく。
「急げ……!」
喉の渇きを噛み殺して告げると、足音が一斉に石畳を刻む。剥がれた面が靴底に引っかかり、砂の粒が歯の隙間みたいに嫌な音を立てた。
同じころ、廃屋敷の門では火矢と燻煙筒に翻弄され、護送馬車が外へ押し出されていく。梯子を立てて火を叩く者、煙に巻かれて足を滑らせる者が入り混じり、指揮の声は上ずった。
「門なんて放っておけ! 馬車を最優先だ!」
怒鳴りが煙を割り、数十の兵が馬車を囲んで市街へ突進する。
「くそっ……せっかく手に入れた十二年ものの酒が!」
「黙れ! 高貴なお客様が最優先だろうが!」
不満を噛み殺す声が、金具と革の軋みの底で泡立つ。先頭のランタンが馬の首を照らし、雪を冠った石畳で重い車輪ががたがたと震えた。音は夜の静けさを断ち割り、夜明け前の町に冷たく伸びていく。
裏道を抜けたダビドたちは、こぢんまりとした広場脇の陰へ散開した。先行のガイルズとディクソンが物陰から顎で合図を寄こす。準備は整っている。あとは、この道を通る馬車を待つだけだ。
「来る。やつらは、必ずこの道を通る。重い鉄の車輪の音がここまで響いてくる」
ガイルズが小声で言い、ディクソンが短く頷く。吐く息の白がほどけ、指先の血がゆっくり戻る。
「いいか、合図で一斉に動くんだ。早まるんじゃないぞ」
ダビドはレオン、クリス、マリアを振り返り、視線で火花を交わす。伯爵が乗っているなら、ここで止める。陽動を重ねて辿り着いた一点だ。失敗は許されない。
風が石畳を撫で、遠くの火の粒がはぜる匂いを運んでくる。鉄の車輪の軋みが重くなり、馬の嘶きが薄く混ざった。隊長の叱咤が空へ跳ねる。
「あと少しで大通りだ……急げ、急げ!」
ランタンの光が段を上るように近づき、兵の息が荒いのがわかる。護送馬車の重い輪郭が、闇の縁からせり上がってくる。
レオンはロングソードを音もなく引き抜き、クリスは背後で支援に回る体勢を確かめる。ディクソンは斧で伏せ持ち、ガイルズは弦に指をかける。マリアは地図と道筋を一瞥し、医療袋の口を確かめた。
胸腔で拍が速まる。ここが勝負どころだ。伯爵を取り戻すための、最初の一撃。
「……行くぞ。皆、油断するな」
合図が空気を切るより早く、護送馬車が角をかすめる。馬の鼻面が視界へ入り、宰相兵の背がばらばらと連なる。まだこちらに気づいていない。闇と煙がこちらの居場所を呑み込んでいる。
「風の影響で煙が薄れてきた。……念のため周囲を警戒しろ。突入前に背後を取られてはたまらん」
兵の目は疲れを滲ませ、車輪のきしみが神経を削る。それでも隊列は崩れない。焦燥だけが、革の匂いに混じって漂っている。
ダビドたちは息を潜め、壊れた材木や木箱の影で、射程に入るのを待った。鼓動が耳の奥で痛む。焦りを呑み込めるのは一呼吸ぶんだけだ。
東の空に、ごく薄い朱が刺す。闇がほどける直前の短い綻び。その綻びを裂くように、車輪の音が一段と高くなり、掛け声が入り混じる。煤の匂いが風に乗ってかすかに濃くなる。
「来るぞ……」
道沿いの岩陰にレオンとガイルズ。クリス、マリア、ディクソンは紐と投石の位置を最終確認。それぞれの手が、身についたやり方で敵の列を断つ準備を終える。
雪を薄く載せた道の向こうから、硬い車輪が地面を削る音。まばらなランタンの輪が路面をさすり、鋼鉄の護送馬車が闇の底から浮かび上がった。
側面には宰相家の紋に似た意匠、鍛えた外装が鈍く光る。周りを固める私兵は数十。鎖帷子の重みで動きの癖が鈍る者、馬上で目を光らせる者、歩兵の間を埋める者――混じる息の白が寒気の層を作る。
ダビドは身を沈め、配置を視線でなぞった。レオンはロングソードの肩を落とす構え、クリスは奥歯を噛み、布で包んだ投擲具を握る。ディクソンは葉陰に体を伏せ、ガイルズは逆側の視界を確保。マリアは後方で矢と包帯の位置を整えた。
最初の一撃が、すべてを左右する。
軋みが近づく。宰相兵の怒声が「道を空けろ」と闇に散った。伯爵を積んだ馬車が、わずかに揺れながら中心を抜けてくる。今だ。
「行くぞ……一気に叩くんだ!」
ダビドが布を振る。レオンとディクソンが跳ねるように動いた。
レオンは道端の簡易トラップ――引き絞ったロープと棘の木片――を足で外し、ディクソンは投石器で石弾を放つ。
「っ……なんだ、伏兵か!?」
先頭の私兵が目を剥き、馬の鼻が大きくふくらむ。絡んだ蹄とロープが悲鳴のように鳴き、兵が地面に弾かれた。
「伏兵! 伏兵がいるぞ!」
喚声とともに、石弾が車輪を正確に打ち、護送馬車ががくりと揺れる。手綱の革が悲鳴を上げ、輪が嫌な音で応えた。
「くそっ、馬車が……ぐあっ!」
茂みから飛び出したダビドは、短剣を逆手に構え、私兵の懐へ滑り込む。足を刈り、膝裏を払う。崩れた肩口にレオンが峰打ちを叩きつけた。
「おまえら、死にたくなければおとなしくしろ!」
低い怒声が雪煙を震わせる。だが相手は数で勝る。馬から飛び降りた数人が剣を抜き、刃の光が一瞬だけ空気を硬くした。
「暴虐女王の手先が……! 許さん!」
金属音が一斉に跳ねる。ディクソンは迫る兵を肩で弾き、ガイルズは狙いを合わせて矢を放つ。盾が線を作り、矢の軌道が斜めに逸れた。数名が散って包囲の輪を描き始める。
「どうやら、どいつもこいつも手練れのようだな……」
ダビドは奥歯を噛む。脇でクリスが包帯の鞄を胸に抱え、バックソードの柄に汗をなじませる。血を減らしたい。だが甘くはない。
「いや、もっと厄介な連中がいる……」
レオンの視線が鋭く後方を射す。護送馬車の影に、灰色の外套が三つ。夜明け前の冷気の形みたいに、静かに立っていた。目に、温度がない。
隊列から浮くように進み出た三人は、雪煙の中で機械仕掛けの人形めいて瞬きを止め、滑るように間合いを詰める。
「あいつらか……!」
レオンとクリスが不意を食らった“影の手”。殺気を消すため、通常の勘では拾いにくい――それが怖い。
外套の裾がひらり、と揺れた。次の瞬間、一人が宰相兵の影に紛れ――戻った時には、レオンの脇腹へ短刀の刃を差し込もうとしていた。
「レオン!」
いち早く察したのはクリスだった。呼吸を乱す間もなく身を滑らせ、バックソードの角度を極限まで合わせる。
高い金属音が鳴り、衝撃が雪へ伝わる。
「クリス、助かった……っ!」
レオンが斬り返すより早く、相手は視界から消える。あるのに気づかせない――その動きは、ただの精鋭の域を越えている。
別の外套が横から足を払う。レオンは体勢を崩し、手をついて転倒をこらえた。
「くっ……どこだ……!? クリス、頼む!」
「わたしが受けるから、あなたは斬り返して!」
「わかった! 受けは任せる! ――狙いが来たら合図してくれ!」
その瞬間、三人目がディクソンの背へ音もなく回り、革鎧ごと斜めに裂いた。ディクソンは斧を振るうが、相手は紙一重で間合いの外へ消える。滑らかすぎる動きに、唇を噛んで後退した。
「ちっ……これが“影の手”ってわけか……」
ガイルズが矢をつがえ、射る。外套の男は放物線を“見ている”かのように最小の動きでかわし、別の一人が背後へ回って手刀を打ち込み、体勢を崩す。
「ぐあっ……!」
膝をついた隙を、リーダー格が滑り込む。いつの間にかダビドの背へ回り、肩口へ刃を落とした。熱が走り、指の力が一瞬抜ける。
「なるほど、なかなかやる。ところで貴様ら、“真(まこと)の深淵”を覗く覚悟はあるか?」
低い声に、皮膚の内側が冷える。
「速い……これほどとは……!」
ダビドはよろめきながら短剣を握り直す。すぐに二人が横から入り、レオンとクリスを切り離しにかかる。
「陣……」
「烈……」
「散……」
合言葉とともに、忍びめいた連続の移動と斬撃が雪煙を巻き上げ、隊を分断する。金属の甲高い叫びが耳を裂き、皆が守りだけで手一杯になる。
「くそ……!」
レオンは歯軋りし、クリスを見る。彼女は普通なら捉えられない攻撃を、異常な察知で受け流し続けていた。足音の方向、殺意のうねりの角度――刃を当てるべき位置が、呼吸の合間に立ち上がる。彼女が受けなければ、レオンはとっくに斬られている。
「クリス、タイミングを合わせる……! いくぞ!」
頷くより早く、斜め後方の気配をクリスが拾う。
「――来る! 真後ろ!」
レオンは振り向きざまに大きく薙ぐ。クリスが受けて流した反動で敵の姿勢が一瞬浮き、刃が喉元の軌道へ伸びる。相手は低く頭をかわし、浅くしか裂けなかったが、血が雪へ点々と落ちた。
「っ……!」
男は顔色も変えずに後退。すぐ別の外套が割り込み、レオンへ反撃を入れる。クリスがそれを受けて角度をずらす。致命は避けた。
「やった……! 今のだ、クリスが受けて、俺が斬る!」
「ええ……まだ届かないけど……」
受けとカウンター――それが二人の道。クリスは息を整え、外套の軌道を追い続ける。
「レオン、もう一度いくわよ!」
「了解だ……!」
リーダー格の視線に、警戒の色が増す。三人の動きにほんのわずかなほころび。ダビドたちはそれを好機と見て体勢を立て直すが、敵も合図を交わして陣を組み替える。
雪煙が渦をつくる。クリスは深く息を吸い、自分は当てなくていい、と心を滑らせる。刃を誘い、レオンへ渡す。
外套が横へ消えた気配を感じた瞬間、右へ身を傾けて誘い、寸前で受け流す。姿勢が浮く一点。
「レオン……!」
呼び声に合わせ、レオンが斜めから斬り込む。刃が肩口をかすめ、血が跳ねた。すぐに別の一人が割って入り、反撃。クリスが受けてずらす間に、レオンは転がるように距離を取る。
小さくても確かなダメージが、続けて積み上がっていく。もう一人の外套はディクソンやダビド、ガイルズを翻弄し続けているが、二人の“受け→斬り返し”は無視できない脅威になってきた。
「頭……この二人の粘り、想定外かと」
「ふ、“ただの騎士候補”ではないということか。失うには惜しい人材だ」
冷えた声の端に、苛立ちが微かに滲む。クリスは限界を超える疲労を唇の内側で噛み、なお視線を外さない。生存の目は細いが、消えてはいない。
「レオン、あと少し……ここで踏ん張ろう!」
「ああ……負ける気はないさ! おまえが見せてくれる道筋、今度こそ活かしてやる!」
互いの背をほんの少し預け、柄の重みを確かめる。“影の手”は三方向から妖しく迫るが、二人の呼吸は揺るがない。察して流し、切り返す――唯一の道筋が、闇の底に細い光を引いた。
「……貴様ら、なかなかに面白い」
リーダー格が舌打ち混じりに笑う。彼らにとっても長期戦は想定外だろう。だがこちらも体力はぎりぎりだ。東の白みが雪面に薄色を落とし始める。
宰相派の私兵はじりじりと態勢を戻し、護送馬車を動かそうとする。市街の大部隊と合流すれば、奪還の芽は潰える。廃屋敷から援軍が出れば、袋の鼠だ。
今この瞬間だけが、唯一の好機であり、最大の危機でもある。
「クリス! 諦めるな。もう一度やるぞ……!」
「ええ、わかってる……!」
雪煙が薄く漂う足元。灰色外套の輪がじわじわと狭まる。冷気が皮膚を刺すたび、不安が胸をかすめる。それでもクリスは視線をそらさない。レオンの濁った息が肩越しに触れ、二人は同時に柄を握り直した。
攻撃は一瞬の遅れが命取りだ。だが、この小さな“反撃の光”だけは、まだ消してはいけない。
【リアクション】
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------------------------- エピソード419開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
暁の声、雪原を裂いて
【本文】
「はぁ……はぁ……。くそ……っ!」
荒れた雪原を踏みしめるたび、足裏が雪を噛み、肺が焦げるように熱い。レオンは悔しげに奥歯を噛み締めた。血のように鮮烈な赤髪を伝う汗は、凍てつく空気へ触れたそばから消えていく。
相手の速度は常識を外れ、連携はまるで一つの獣の四肢。乱れた呼吸がさらに胸を焦がし、視界の端で雪煙が細く千切れた。
すぐ隣では、クリスが矢傷の残る腕を押さえ込みながら、バックソードの構えを崩さない。手袋越しの握りは白く、吐息は細く短い。
瞳は伏せがちだが、その奥に宿る火は消えない。相手の刃を逸らすたび、筋肉が悲鳴するのを噛み殺し、ただ――倒れないという意志だけで立ち続けているように見えた。
喉を裂く冷気が胸腔をつかむ。
「……っ! っ――はぁ……!」
身を翻したクリスの吐息が凍りへ触れて跳ねる。斬りかかってくる男の口元には薄ら笑い。獲物を弄ぶ指先の癖まで透ける卑劣さに、彼女の背筋がひやりと粟立ち、掌の感触が強張った。
――ここで倒れたら、仲間にまで危険が及ぶ。
雪が鳴る足裏で恐怖を押し込み、クリスは両足を深く踏み締める。
レオンとクリスを横目に、ダビド、ディクソン、ガイルズ、マリアも別々の位置で応戦を続けていた。吐く息、金属の擦過音、火薬の残り香。どれも短く、どれも重い。
相手は“影の手”――危険を糧に育った暗殺集団。仲間は散開し、一対一、あるいは一対二で食い止めるしかない。護送馬車は軋む車輪を震わせ、機をうかがって速度を上げようと身構えている。
マリアは肩甲の皮革を軋ませ、視線で馬車の鼻先を射抜く。
「まずい……いつ馬車が速度を上げて市街に入り込んでもおかしくないわ」
言葉が終わるより早く、宰相兵の槍が横合いから冬の夜気を軋ませて伸びた。マリアは身を翻して間を切るが、そのまま受け止めるしかない。近くにいるはずのディクソンやガイルズも、引き剥がされて援護の余白がない。
それでも希望は残っている――弱く、しかし折れずに。白い呼気の合間、レオンは一瞬だけクリスと視線を結んだ。互いに満身創痍、それでも眼差しはまだ沈まない。
刃を押し合いながら、レオンは舌裏の鉄味を呑み込む。
「クリス……俺たち、まだ粘れるよな?」
赤髪が氷風に揺れ、悔しさと焦りが横顔に滲む。クリスは意地っ張りの笑みを端に浮かべ、痛む脇腹へ意識を寄せる。
「ええ……もちろん。だって、伯爵を取り戻せなきゃ、女王陛下に申し訳が立たないもの……っ!」
すぐさま伸びる敵の刃。受け流して流れを殺すが、逆手の一撃が脇腹をかすめ、冷たい痛みが布の下を走った。シャッ、と金属と風が交錯する音が、心臓をきゅっと締め付ける。
脇腹の疼きが波打つ。
「くっ……」
崩れかける肩を、レオンが即座に支える。刀で相手の刃を受け止め、二人は体を寄せるように立て直した。呼吸をひとつ合わせ、刃を同じ高さへと揃える。
遠くでは火矢の燃えかすがちらちら揺れ、先ほどの燻煙の煙が地面を淡くさまよう。冷気と混じり、幻のように足元を揺らめかせた。風がひゅうと弧を描くたび、闇が笑ったように聞こえる。
絶望の色が濃い戦場で、レオンもクリスも、ダビドたちも、諦めずに抗い続ける。夜明けは近いはずなのに、この数分が何倍にも伸びる。車輪が軋むたび、焦燥が胸をえぐった。ここを抜かれ、市街に逃げ込まれれば――伯爵奪還は遠のく。
「……どうか、間に合って……!」
祈るような呟きが白くほどける。狙い澄ましたように、“影の手”の一人が口元を歪めて笑った。与えられた任務を淡々と遂行する目。優勢はあちら――その事実だけが無遠慮に冷たい。
それでも、ダビドもディクソンもガイルズもマリアも、踏み直す。溜め込んだ息を吐き捨て、傷を起こして立ち上がらせる。今ここで踏みとどまれなければ、伯爵救出も、女王陛下の悲願も零れる――その思いが、体を一本の線にした。
刃の閃き、火薬の残り香、雪の微音。白く染まりきらぬ闇を切り裂くように、戦いは続く。結末の影は、誰にも見えない。
雪面の冷気が肺から音を奪った瞬間――
「双方、剣を引きなさい!」
声が、戦場の温度を一息で凍らせた。銀の刃が幕を断つように高く澄み、吹きすさぶ風と血の匂いをいっぺんに止める。
幼さを帯びたはずの声が、寒気の張り詰めを伴って鋭い。雪混じりの風がぴたりと鳴りを潜め、喧騒さえも氷へ閉じ込められた。
レオンもクリスも、敵も味方も、糸の切れた人形のように動きを止め、声の方角へ振り返る。
白い地面をかき分けて進むのは、漆黒の重種馬。こんな場に似つかわしくない二人乗り。しかも先頭に腰掛けるのは、分厚い外套をまとった小柄な少女だ。
凍りつく沈黙の綻びへ、低い唸りが割り込む。
「……何奴……!」
“影の手”のリーダーらしき男が吐き捨て、宰相兵がざわめく。増援か、新たな脅威か。数本の槍先が雪明かりを拾った。
重種馬は息を白く散らし、滑りかけた蹄を、少女の背後の男が手綱ひと引きで立て直す。危機など初めから存在しないかのような落ち着き。場の異様さが、さらに深く沈む。
彼らは狂乱のただ中へ、まっすぐ入ってきた。鋼の圧と殺気が渦巻く場所へ、唐突に差し込まれた異質な一対。
レオンとクリスは息を吞む。耳の奥に残響する――あの声。もしや。
少し離れて状況を見ていたダビドの胸がきしむ。少女の外套が翻り、フードが外れる。そのもどかしい一瞬の所作に、心当たりがかすかに触れた。
深い夜気を揺らす漆黒の布。現れたのは明るい栗色のショートカット。頬には淡いピンクのチーク。町娘そのものの微笑ましい装い――なのに、背後の気配は高潔な神秘を孕んでいる。
胸郭を締めつける冷えに、ダビドは息を詰める。
「陛下? いや違う……あの姿、どう見てもただの……」
記憶の“女王メービス”は威厳と神秘を纏い、見る者を圧する気高さを持っていたはずだ。だが今、目に入るのは町娘然とした少女。正反対――それでも視線が離れない。儚いのに底が見えない、その空気が確かに通じている。
そして気づく。外套の裾からのぞく純白の刀身。鞘を持たぬ、精霊の巫女の聖剣。
宰相兵も暗殺者たちも、一瞬だけ言葉を失う。凍てついた光が少女の薄紅の頬を浮かべ、この惨劇へ淡い灯を落とした――救いか、破滅か。判別はまだ誰にもない。
重種馬が大きく吐息を吐いて止まる。少女は背筋を伸ばし、声帯の震えを一拍で整える。
外套の裾が雪光を掬い、馬上の少女が肺の底まで冷気を満たす。
「わたしの名はミツル。ミツル・グロンダイル! 女王陛下の勅命を受け、北方モンヴェール男爵領を目指しています。まずは争いをやめなさい。この美しき雪原を血で穢すことは、陛下の願いに反します」
レオンとクリスは視線を交わす。安堵か、警戒か。言葉にならない熱が胸に渦を巻き、息が浅くなる。柔らかな言葉に反して、高みから命じるような態度。味方か敵か――境界が眩んだ。
彼女の背後に控えるもう一人。深くフードをかぶった長身の男は、少女を守る壁のように微動だにしない。圧の気配だけで、宰相兵や“影の手”の足を半歩だけ退かせた。
宰相兵の笑いが霜の刃になって散る。
「……勅命だと? あの暴虐女王が寄越した援軍がたったの二人……? くくっ、泣けてくるじゃないか!」
醜悪な嗤いが雪を刺し、夜明け前の空はかえって暗く見えた。その侮りに、ダビドの背へ嫌な寒気が走る。どこかで不吉が合図している。
――嫌な胸騒ぎがする。
ダビドは身を低くし、敵の筋の動きを探りながら、もう一度だけ馬上の少女をうかがう。愛くるしい顔立ち、小柄な体格。背後にはフードの男――本当に“二人”しかいない。
なのに、なぜこれほど不穏で奇妙な威圧が漂うのか。鼓動がどくんと速まる。
風向きがわずかに変わり、粉雪がひらりと落ちる。仲間も、宰相兵も、“影の手”も、誰もが馬上の少女へ意識を縫い付けられたまま、動けない。直感しているのかもしれない――この“たった二人”が、戦場の流れを変える鍵になる、と。
【リアクション】
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------------------------- エピソード420開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
沈む馬車―紅き熱と黄の陥穽
【本文】
すると、先ほどまであどけない笑みを浮かべていた少女――“ミツル”――が、まるで凍てついた刃のように冷ややかな声音で口を開く。
「援軍が“たった二人”であることの意味が、どれほど恐ろしいことか……あなたたちはまるで理解できていないようね」
穏やかとも言える程の澄んだ声なのに、不思議なまでの威圧がこもっていて、聞く者の肌をざりざりと削るかのように響き渡る。
その高慢とも取れる台詞に、宰相兵も“影の手”を率いるリーダーでさえ、眉をひそめて「何を馬鹿な」「欺瞞にすぎん」と吐き捨てるように呟いた。
だが、ミツルは頓着しない。雪のなかに馬を止めたまま、浅く身を揺らすことすらなく、視線だけをすっとめぐらせる。まるで周囲のすべて――敵も味方も――を嘲笑うかのごとき、底冷えする冷酷さが、微笑んだ唇にわずかに宿っていた。
その直後だった。
バチンという鋭い音が、白く冷えた空気を震わせる。
「っ……!」
誰もが何が起こったのか、瞬時には理解できなかった。
影の手のリーダー格の男が片手で目配せをしたと同時に、まっすぐミツルの首筋を狙う“何か”が放たれたらしい。
それは肉眼では追いづらいほど小さく速い――にもかかわらず、ミツルの背後に控えていたフードの男が即座に反応し、長剣を鞘ごと右から左へと大きく薙ぎ払う。
次の瞬間、細く危うい矢は寸分違わず弾き飛ばされ、きん、と鈍い残響を残して雪の上へ落ちた。
「毒を仕込んだ吹き矢か。予備動作の音がしない、いかにも“影の手”が使いそうな手だ。――だが、ミツルには指一本触れさせん」
低く落ち着いたその声は、戦場に張り詰めていた空気を一段と研ぎ澄ませるようだった。
レオンやクリスは思わず息を呑む。いまの剣捌きを目の当たりにしただけで、その闘気の凄まじさが全身へと伝わり、心臓がどくんどくんと音を立てる。
宰相派の私兵や“影の手”の暗殺者らも、「こいつは……」と呆然と目を瞬かせている。
「くそ……馬車を進ませろ! ここで足止めを喰らうわけにはいかん」
宰相派のリーダーが苛立ちを胸に押し込めるように声を張り上げる。
車輪ががたつく護送馬車を急かし、私兵たちは警戒を解かぬまま次の指示に備える。重たい車体がわずかに前へ動き出し、道に敷かれた雪をずるりと引きずる音が耳に触った。
そう、相手が何者であろうと――いまここで伯爵を連れ逃げ切るのが狙いに違いない。
けれど、その矢先に馬上の少女が右手を前へ差し出し、そっと目を閉じて呟き始めた。その仕草は端から見ると淡々としているが、まるで激しい吹雪を呼ぶ前の静寂を感じさせる。
冷たい風が頬を切りつけるなか、レオンもクリスも、そしてダビドたちもまた、不安に駆られるように一瞬息を止める。
いま、この少女――ミツルは何をしようとしているのか――わずかに響くその呟きは、血のにおいと混ざり合った深い闇の空気をかすかに震わせていた。
「……精霊子集積、完了。疑似精霊体構築、完了……」
強風に乗って散る雪の合間で、少女――ミツルの低く落ち着いた声が虚空に溶けていく。
だが、その意味深な台詞を耳にした兵やリーダーたちは、まるで理解が追いつかないようだった。
中には、不審そうに眉を上げては「悠長に魔術の詠唱か?」「ただの虚勢に決まってる」と、余裕すら覗かせる者もいる。
「狼狽えるな……見ろ、奴は魔石すら持っていない。所詮はハッタリ。……いまのうちに、馬車を進めよ」
焦燥を抑えつつも、冷静を装う影の手のリーダーが笑みを刻む。
噛みつくような攻勢を再開するつもりでいた彼らは、けれど、ミツルが次に放った言葉によって甘い考えだったことを思い知らされる。
「場裏赤、場裏黄、同時展開……――溶けろ、そして崩れろ」
まるで厳冬の大気が一瞬、裏返ったかのような違和感。
台詞が吐き出されたと同時に、重たい護送馬車の足元――雪と土が混ざり合った地面に、鮮やかな赤と黄色の球体の領域がぽっと生じた。
一拍の静寂。続けて、熱と振動が絶妙に入り混じったかのような衝撃が、波紋を描いて四方へ広がる。
「な、なんだ……!?」
嫌な唸り声のように、地面からぎしぎしと痛む振動が伝わってきた。
その領域に踏み込んでいた馬車の車輪が、まるで溶けた泥に足を取られるかのようにずぶずぶと沈み始める。見る間に雪がどろりと溶け出し、地面がゆっくり変形していく光景に、兵たちは凍りつくしかない。
“ぎゅう、ぎゅう”……。
まるで土地そのものがうめき声を上げるかのような音。
それは自然の理を無視した突然の変化――まるで地盤が、少女ひとりの見えない手によって強引に書き換えられているとしか思えないほどだ。
馬車が軋むように揺れ、馬たちは動揺して前足を高々と上げるが、重い車輪はいとも容易く地面に沈み、にっちもさっちも動けない。
「っ、馬が! 馬が動けない……!」
宰相派の兵が必死に手綱を引き、馬が力強い嘶きを上げても、大きな車輪はすでに泥沼に呑まれたように微動だにしない。
しかも、その泥状と化した地面の上に、赤の膜が怪しく揺れ、じわりと熱を放っている。まるで炎の圧力が大地の下から湧き上がっているかのように見える――普通の魔術ではあり得ない、底知れぬ不気味さを帯びた現象だ。
レオンやクリスは、言葉を失ったままその光景を見つめている。
ほんの数秒前までは護送馬車が雪を踏みしめ、着実に逃げ出すかと思われていたのに、今は傾いたまま完全に停滞し、馬たちの焦燥な嘶きだけがむなしく響くばかり。
そして、視線の先には一人の少女――ミツル。
彼女は雪煙にかすむ風の中で静かに目を開く。町娘のように愛らしい風貌とは裏腹に、その瞳には“底知れない冷気”が宿っていた。
「これでも……まだ“二人きり”の援軍と、笑っていられるのかしら?」
甘さと嘲りが混ざり合うその台詞が、凍結した朝の空気をいっそう凍えさせるかのごとく行き渡る。
あまりにも異様な光景に、宰相派の私兵や“影の手”のリーダーらも、はっと息を呑み、言葉を飲み込むしかない。
まるで絶対の支配を目の前にして、従う以外に選択肢がなくなってしまったかのようだ。
そんな圧倒的な力を目撃しながら、ダビドは背筋にぞわりとした悪寒を覚えていた。――“たった二人”だからこそ抱える恐ろしさ。
深い夜の帳がかすかに白みはじめるこの刻、まさに目の前で、それが証明されようとしているのだ。
「土属性の……魔術、だというのか……!?」
護送馬車の脇でそれまで制止していた宰相兵の一人が、うろたえたように叫ぶ。雪混じりの冷風がその声を震わせると、ほかの兵たちも一斉に手綱を手繰り寄せ、馬を立たせようと無我夢中で引き回す。
「馬車が沈む……くそっ、引っ張り出せ!」
どれだけ腕に力を込め、ロープをかけて引きずり出そうとしても、急激に歪められた大地はすでに深い泥濘を形作り、馬車の車輪を執拗に飲み込んでいる。
雪の水分と緩んだ土壌が混ざり合い、不気味なぬめりを伴う泥沼と化す――馬がもがけばもがくほどぐちゅりと絡みつき、逃げ場のない檻のように車輪を押し止めてしまうのだ。
それだけでは終わらないかのように、ミツルは馬上で小さく上体を傾け、冷めた瞳を“影の手”リーダーへと向けた。
まるで透明な氷の刃を突きつけるようなその眼差しに、リーダーは思わず息を凍らせる。まるで一瞬で命を奪われると悟った獣のように、体の芯まで緊張が走った。
「もう手遅れよ……」
たったひと言。
それなのに、背中へ走る悪寒は掻き消せない。まるで、少女の言葉そのものが絶対的な裁きの宣告に等しかった。
私兵たちは先ほどまで「たかが少女ひとり」「見かけ倒しの魔術者」などと笑っていた。
だが、目の前に広がるのは無詠唱、無遅延、そして常識外れの地形操作――。
これほどまで魔術の“常識”を逸脱する光景を見たことのある者などいない。あまりの事実に、自分の信じる世界観が崩れるような感覚とともに、口々に動揺の声を洩らすしかなかった。
「無詠唱かつ無遅延だと……? 地面を瞬時に泥濘化させるなど、聞いたこともない。いや、それどころか、魔導兵装すら持たずに……あり得ぬ……!」
影の手リーダーの瞳には、混乱がはっきり映っていた。
それは彼だけではない――他の“影の手”の男たちも口数こそ多くなっているものの、一様に荒い吐息を漏らし、心が乱れているのが明らかだった。
どうにか冷静を装おうとする様子がかえって、その取り乱しを浮き彫りにしている。
というのも、魔術の原理をわずかでも知る者であれば、“今ここで目撃している現象”がどれほど非常識なのかを理解せずにいられないのだ。
通常、魔術を行使するには、魔石と呼ばれる動力源を用い、内包される“命の灯火”に働きかけるための長大な呪文や、複数の魔法陣・結界を組み込んだ魔導兵装が不可欠とされていた。
そうした手続きを省けば、威力を大きく落とすか、あるいは制御不能に陥る――それが彼らの信じる“常識”だった。
「こんもなの……あるはずがない。そもそもメービスは“精霊の巫女”で、こんな魔術を扱える者じゃないはずだ……!?」
影の手の一人が、悔しそうに唇を噛みながら、かすれた声を洩らす。
それに対し、リーダー格の男は目を細め、低く苛立ちを押し殺すように言い放った。
「そうだ。精霊の巫女に魔術は使えぬ。あの聖なる力とは、魔獣と相対してこそ発動する、“聖剣”と不可分なもの……」
「ということは……こやつ、本当に女王ではなく……ただの、似て非なる者か?」
「それが妥当。――ならば容赦は無用」
リーダーの声音には、ほんのかすかな苛立ちが混ざり、冷酷な決断が裏打ちされている。もし相手が本物の女王メービスなら、手を出しづらい政治的事情もあるだろう。
だが“違う”のならば、あくまで始末対象――その彼が下した結論は、あまりにも非情で単純だった。
一方で、そのやりとりを耳にしていながら、少女――ミツルと名乗る者は、まるで第三者の立場で眺めるように静かに目を伏せ、そしてあくまで淡々と口を開く。
「そう。あなたたちが言う通り、わたしは女王メービスではないわ。ただ“陛下の勅命”を受けて動いているにすぎない、流れの魔術師……ミツル・グロンダイルよ」
ごく簡潔な名乗りでありながら、まるで底知れぬ余裕が滲む。その薄紅の唇から続く次の台詞が、さらに場を圧迫していく。
「もっとも、あなたたちの知る魔術とは根本からして違うのだけれど」
「ではなんだと言うのだ?」
「……“精霊器接続式魔術”。世間では“精霊魔術”と呼ばれているわ」
言うが早いか、その一言一言が、まるで凍てついた空気を割る重みを持って聞こえてくる。
心臓をわしづかみにされたかのような圧迫感が、周囲の兵士や“影の手”の男たちに伝わっていき、どよめきにも似た動揺が再び広がる。
「精霊魔術……? そんなもの、古の伝説に登場する幻ではないか――」
かすれた声が雪混じりの風に溶けていく。
それ以上誰も言葉を継げず、冷たい夜明けの気配だけが静かに降り積もっていた。
いま、目の前にいる魔術師は、自分たちの“常識”など、いともたやすく覆してしまう、得体の知れない存在。怯える気持ちを噛み殺しても、それだけで彼女の前に立ち向かう勇気は湧いてこない。
まるで幻想の夜に現れた、底知れぬ力を振るう死神なのか――あるいは、真に女王メービスに仕える新たな伝説か。
誰もが判断に苦しむなか、少女は馬上でわずかに微笑む。その笑みはまるで、寄せ付けないほどの余裕と、どこか可愛らしい無邪気さとを同時に纏っているようで、見る者の胸をざわつかせる。
「ええ、そうよ。はるかな昔に生きた幻の“精霊族”にしか扱えない術。だからこそ、あなたたちの常識なんて意味をなさないわ。魔導兵装の補助も必要ないし、長大な呪文をこしらえる必要もない。わたしが“こうしたい”って頭で思い描けば、それがそのまま“結果”になるの。ほら、さっきみたいに――この地面の構成そのものをいじってね。雪を溶かして水にし、土の空隙率をいじって浸透させれば……沈むに決まってるでしょ?」
彼女の声はひどく落ち着いていて、むしろ論理的とさえ言えそうだ。
けれど、そこで語られる「思い描くだけで結果が現れる」という行為と通常の魔術理論とを比べれば、本来ならば越えなくてはならない大きな壁が幾重にも立ち塞がっているはず――それを、いともたやすく飛び越えてしまう少女――ミツルのあまりの異質さ。
彼女はまるで疑問や不安すら持たぬように、淡々とした態度を崩さない。愛らしいメイクを施した町娘然とした外見に反して、底知れぬ神秘を宿す瞳が、どこか孤高の険しさを漂わせている。
魔石や兵装などの常識を超越した、いわば“精霊魔術”と呼ばれる奇跡を手の内にしながら、これほど穏やかに語るミツルの姿は、逆に恐ろしいほどの落差を感じさせる。
思い描いた通りに、大地を沈め、雪を溶かす。そんな芸当ができると、本人の口から当たり前のように語られるたび、周囲の兵士や暗殺者たちは何度も喉を震わせ、言葉を失っていた。
ダビドは息を呑む。こんな存在がもし、暴虐な意思を抱いてしまったら――想像するだけで、身体の奥から震えがこみ上げる。
――この娘はいったい、どこまでの力を行使できるのか。
微かな胸騒ぎに、彼は背筋をさっと冷たい汗が這うのを感じていた。
先ほどまでの混乱とは違う――もっと底知れぬ何かが今まさに解き放たれようとしている気配。
その少女、ミツルの横顔は凛としているのに、そこに滲む表情にはどこか“愉悦”めいた響きが混ざりはじめているのだ。
「女王陛下は冷酷非道で血も涙もないお方なんでしょう? じゃあわたしがこうするのは、とても自然なことね」
それは、ひどく甘やかな口調だった。
けれど、その言葉の意味するところは、人間という存在をまるで玩具か何かのように弄び、壊してしまうかのごとき、尋常ならざる凄絶さ――。
寒空の下、私兵たちが腰を抜かすほどの恐怖に襲われるのは無理もない。影の手の男たちでさえ、ぎくりと肌を泡立たせている気配が伝わってきた。
周囲では、ごうごうと燃え盛っていた炎の名残がまだ煙を噴き上げ、遠くでは朝焼けの薄紅色が灰色の空をじわじわと染め始めている。
ところが、その光さえも色を失わせてしまうような異様な殺気が、この場を覆っていた。まるで空気が張り詰め、ひとりひとりの喉を締め上げているような重苦しさ――。
そんな中で、ミツルはうっとりと微笑む。夢見心地のような笑みの奥に潜むのは、“深淵の底”に足を踏み入れた者だけが持ちうる危うさ。
息を呑むしかない私兵たちの前で、彼女はさらに低い声を響かせるように囁くのだった。
「場裏赤、場裏青、場裏黄、場裏白、全周展開……」
静かに告げられるその言葉が合図となったかのように、ミツルのまわりに無数の小さな球体が浮かび上がる。
大きさはピンポン玉ほど――赤、青、黄、白。そのどれもが透明な光を宿し、まるで幼い子どもが持つおはじきのように無邪気な輝きを放っていた。
しかし、明らかにただの光ではない。なにしろ、これらがくるくると回りながら彼女のまわりを囲んで守護しているように見えるのだから。
「な、なんだよ、これは……!?」
「見たこともねぇ……これが魔術だっていうのか?」
私兵たちが恐る恐る声を上げる。
あちらこちらで足をすくませながら、互いの顔を見合わせる者もいる。
ミツルはそんな様子に構わず、艶めかしいほどなめらかに唇を動かした。
「これが精霊魔術の現象を具現化させる領域。――場裏よ……ふふ、きれいでしょ?」
少女がふっと目配せをすると、球体たちは意思をもつかのようにひとつずつ宙をすべり離れ、音もなくまるで自分の餌場を探す捕食者のように私兵たちへと近づいていく。
あまりにあっさりと、誰にも触れられずにするりと頭や胸、胴体へ入り込む光景が、まるで幻のように不気味に映った。
「うわぁっ……!?」
「なんじゃこりゃあっ!?」
悲鳴が飛び交い、逃げようとする者もいるが、どう抵抗すればいいのかまるでわからない。すでに体内へ入り込んだ球体がどんな作用をするか想像するだけで、全身が凍りつくほどだ。
そんな恐怖の渦中でも、ミツルはにこりと微笑んで、甘い声で語りかける。
「大丈夫よ。場裏自体は体内に入り込んでもなんともないわ。わたしが何も意識を込めなければ……だけど」
「な、なにぃっ……!?」
私兵のひとりがぎょっとした顔をする。
それをさらに愉しむかのように、ミツルの声は柔らかいが、どこか狂気をはらんだ悦びを含みはじめる。
「赤は熱を操作して体内から焼き尽くす。白は圧縮した空気を炸裂させて内部から破壊する。黄は血液の鉄分を凝固させて血流を止める。青は血管に水を流し込むだけで――致命的ね。人の身体なんて、思ったよりもろいもの。殺すだけならほんとうに簡単なのよねぇ……」
彼女の微笑みは、まるで殺戮を愉しむ悪魔を彷彿とさせるほどであり、私兵たちだけでなく“影の手”の面々も息を呑んで立ち尽くすしかない。既存の魔術理論すら嘲笑うような異能の前には、彼らの暗殺技法や連携の強さなど、もはや何の意味もなさない。
「外傷も残らず、凶器も毒物も見つからない。どれだけ徹底的に調べても、“他殺”だと証明できる手立ては一切ない。そんな完璧な“殺しの流儀”、ほかにあるかしら?」
まるで幼い子があどけなくつぶやくような声。だが、その奥には息詰まるような残酷な狂気が渦を巻いている。まさに死神の鎌を首筋に当てられたかのような、絶対的な冷たさが辺りを覆い尽くしていた。
ごうごうと吹きすさぶ風や、朝の空へと変わりかける灰色の雲さえも、白い雪が舞い降りるこの光景さえも色彩を失い、静止してしまったかのようだ。
そんな張り詰めた空気のなか、ミツルの唇から零れ落ちた問いかけは、それまで以上に重く、底知れぬ闇を背負うかのような圧迫感を放った。
「ねぇ、あなたたちは……どんなふうに死にたい?」
甘く囁くようで、なのに誰一人として反論できないほどの威圧感を湛えた声音。
“影の手”と呼ばれる男たちも、私兵たちも、その言葉を聞いた瞬間に逃げ場などないことを悟る。少女こそがこの場の絶対者――そう認めざるをえなかったのだ。
この場を支配する不吉な気配は、どこか徐々に血の匂いを増していくかのよう。彼女が“本気で”意識を込めたら、一体何が起こるのか。想像するだけで、誰もが声を失った。
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------------------------- エピソード421開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
死神の仮面――凍てつく朝に謡う巫女
【本文】
風は刃の背で頬を撫で、粉のような雪を高く巻き上げていく。耳の奥で微かな耳鳴りが続き、舌裏には鉄の味がかすかに滲んだ。
薄明の空の下、少女――ミツルのまわりに浮かぶ小さな球体が、深海の底で脈打つ狂気の燈のようにふわりふわりと揺れている。赤、青、黄、白――色の粒が音なく回り、視線を吸い込むたび、胸の奥の鼓動だけがはっきりと自分のものになる。
誰も言葉を持てない。つい先刻まで嘲笑を口にしていた私兵でさえ、いまは呼吸を目立たせまいと薄く刻むだけだ。自分の体内に“仕掛け”を抱え込んだと悟った獣の静けさが、一帯に移っていく。
沈黙は、戦場には似合わない種類の静寂だ。だがいま、この一瞬だけは、時が凍って足首を掴んでいる。
じわり、光が鈍く濁る。球体の表層に灰が混じるような翳りが走り、鮮烈な色彩と交わって、不穏の輝きが生まれる。見ているだけで胸の内側がざり、と削れ、体温が爪先から逃げていく。
ミツルの唇に、享楽の曲線がかすかに宿る。場違いな甘さの香りは、残酷の輪郭をいっそう強くする。宰相の私兵も“影の手”も、喉に沈んだ石のような恐怖をただ大きくしていくしかない。
風が肌を斬るたび、甲冑の鳴りが細く跳ね、ひとりの私兵が「ひっ……」と浅い悲鳴を潰した。踵が雪を空転し、膝が折れ、冷たい雪が手のひらに貼りつく。逃げ腰の本能が足へ命じても、体内の“何か”が先に動くと直感して、誰もがその場に縫い止められる。
白い吐息が震え、周囲の肩が揃ってこわばる。
「……こいつは一体、何者なんだ……?」
低い囁きが、雪の膜に吸い取られて消えた。
少し離れた部隊も、薄い朝光に照らされてその凄絶さを目でなぞるばかりだ。もしこれが“女王陛下”の命だというのなら――冷酷非道の名は、そのまま氷の温度で胸に落ちる。指先一つで、命は止まる。
空は灰の底に薄紅を差しはじめ、雪はしんしんと落ち続ける。遠くの炎の残り火は弱く、恐怖の密度を薄めるには足りない。いまこの空気を支配しているのは、ただこの少女――ミツルだ。
彼女の肩の後ろ、少し背の高い外套の男が、無音のまま視界の縁に立つ。先刻、吹き矢を弾いた手が鞘を確かめる所作は短く、凪いでいる。護るという意思の温度だけが、薄く伝わった。
「あなたたちの生殺与奪は、とうにわたしの手に握られている。少しでも動けばどうなるか――」
甘いのに鋭い声が、耳介の奥へ針のように刺さる。雪は音を消すのに、その言葉だけが妙にくっきり残った。
「ひぃっ……!」
「これは悪い夢だ……」
息が詰まり、膝が雪へ沈む音が小さく走る。
ひらり――空気の膜がほんの少し撓んだだけの仕草で、ミツルの指が動いた。軽い。それで十分だと、誰もが遅れて理解する。
赤の小球体が、男の胸元にするりと入る。音はない。現実の輪郭が一瞬曖昧になり、次いで殺意だけが濃くなる。
「ぐっ……!」
押し殺した呻きとともに、力が腕から抜け落ちていくのが外から見てもわかる。皮膚の色はみるみる薄く、吐息は“ヒュウ”と細く、喉の内側で擦れた。痛みの影が顔を走り、男は沈黙の中で膝を折った。
「場裏・赤の本質は、熱の操作よ。だから冷やすのもお手の物。ねぇ……血が冷える感覚って、どんな気分?」
幼い実験のように無邪気な問いが、骨の内壁をひやりと撫でた。もしこの娘が本気で奪うと決めたなら――それは、あまりにもたやすい。
「く、くそ……ぐっ……」
かろうじて残った声に、周囲の囁きが絡む。刀も槍も、秘術の連携も無力だと、全員が同じ場所で気づいていく。
「……なんて化け物だ……」
「こんな魔術、見たことも聞いたこともないぞ……」
雪の上で爪がざり、と空しく地を掻いた。誰も動けない。いつ自分の番が来るのか――その想像だけで、思考が薄く凍る。
「ば、馬鹿な……!?」
震えた声が立ちのぼった瞬間、ミツルは赤の球体を護送馬車の鉄に触れさせた。じゅわ、と嫌な音。鉄は瞬く間に赤熱し、境目からどろりと溶け落ちる。雪の世界にだけ許されたはずの冷たさが、いとも簡単に踏みにじられる。
「言っておくけど、場裏・赤なら鉄など一瞬で溶けるわ。あなた、そこで即席の“トーチ”になりたいの?」
短い台詞が、喉の奥の皮膚を内側から焼くように響く。金属の匂いが鼻を刺し、赤い隙間から白い湯気が立つ。焦げる感覚が視覚へ移って、誰もが一歩をなくした。
「く、くそっ……客人を引きずり出せ。なんとしても連れて逃げ出すんだ!」
命令の声は荒く、しかし足取りは重い。雪解けと〈場裏・赤〉の熱で地はぬかみちとなり、車輪は深く沈む。扉へ触れることすら、次の一手を恐れて命がけだ。
ぎゅうっ――見えない重圧が背へのしかかり、空気そのものが軋む錯覚すらある。ミツルの瞳は怒りを持たず、ただ冷えた光だけを保つ。傍観者の透明と、壊す悦びの翳りが、同じ場所に棲んでいる。
息をのむ音が、誰かの喉で細くこぼれた。緊張の糸が張り詰め、言葉の居場所がなくなる。
青い球体が呼ばれる。ひとつ、ふたつ、みっつ――蒼光の尾を引いて滑り、護送馬車を守ろうと扉にしがみついた“影の手”三人の頭を、それぞれ丸ごと覆う。
「ぐはっ!?」
「がっ……!?」
泡の音だけがぶくぶくと湧き、声は形にならない。掴もうとしても、青は虚空の質感で指をすり抜ける。
「無駄よ。言ったじゃない、場裏自体は人体を素通りするって。どう? 無理やり金魚鉢を被せられて、溺れていく気分はどうかしら?」
笑みは光を投げず、声だけが冷徹に落ちる。自分の頭にも同じものが被さる想像が、兵たちの指先を震わせた。
水に囚われた三人のうち、ひとりは最後の抵抗を喉から泡に換え、もうひとりは歯を食いしばって空を掴む。助けは届かない。距離を置いた仲間の歯噛みが、ただ白く寒い。
その三人のなかで、リーダー格だけが不気味に唇を吊り上げる。死地にも笑いを持ち込む余裕か、あるいは企みか。ミツルの目元に、警戒の色が一瞬だけ射した。
「ずいぶん余裕ね……でも、このまま溺れ死ぬなんて、面白くないんじゃない? わたしだって、もっと楽しみたいし」
甘い声の奥で、地獄がもう一段深くなる気配が濃くなる。
少し離れた場所では、ダビド、レオン、クリス、ディクソンが危うい姿勢で武器を構える。
目的は伯爵。いまが好機だと頭ではわかるのに、少女の容赦のなさが味方すら凍らせる。歯噛みの乾いた音、噛みしめた唇の血の味――躊躇と使命が、喉の狭いところで擦れ合う。
「……本当に、これが俺たちの陛下……なのか?」
ダビドの囁きが薄く震え、耳に触れた誰もが目を伏せる。噂が現実の顔を持つのを、否定しきれなくなる。
そのとき、外套の男が音を置き去りにして馬上から降りた。白銀の鞘を握り、風へすべる。
「……ミツル。ここまでよく頑張った、もういい」
声が届いた瞬間には、もう間合いはない。鞘の先端がリーダーの鳩尾を正確に穿ち、左右の二人も一合ののちに肋の隙へ潜らされ、砂袋みたいに崩れ落ちた。
「自決などさせん……」
短いことばに、鋼の意思が鈍く光る。刃を抜かずに人を沈めるその手際が、背骨の一部をさらに冷たくした。
呆然とする私兵の前で、ミツルは視線だけで切るように言った。
「よしなさい。続けても同じよ」
哀れみはない。微かな吐息の乱れに、極限の疲労が影のように寄り添っている。
何人かが「撤退だ……」「逆らったら殺される……!」と掠れ声で後退し、護送馬車の周囲から抵抗が剥がれ落ちる。つい先刻まで掲げていた戦意が、雪の冷たさに触れて縮む。
「い、今だ……!」
ダビドの声が仲間の耳を叩く。目的は一つ。鉄板は熱で歪み、穴は赤く呼吸している。ディクソンとガイルズが縁へ手をかけ、マリアが煙を見張り、伯爵へ呼びかける。レオンとクリスが背を受ける。焦げ、鉄、血、雪――匂いが混じり、肺が痺れた。
背後では、無数の視線がひとつの影だけを見つめている。“残虐非道の使者”の動向に、誰もが喉を固くする。物音ひとつも許されない沈黙は、死神の到来を待つ儀式のようだ。
ミツルは、細く息を吐いた。外套の男が、横顔へ視線を落とす。
「……ありがとう、ヴィル」
声にはならず、唇だけがそう動いた。微笑は安堵というより、ひりつくような苦悩の色を帯びる。
視界の端で、扉の奥へ声が届く。朝の光は強まるのに、空気は剣のままだ。雪に転がる兵の多くは、恐怖と疲労で起き上がれない。
ミツルの周囲の小球体が、すっと沈んで輝きを薄め、空気に同化するように消える。誰もがそれを目で追い、息を止める。引き金が再び引かれる想像だけで、肺が狭くなる。
少女は、それ以上何もしない。馬上で静かに呼吸を整え、隣の男の指先がそっと手に触れる。支柱のような温度が、見えないところで背を支えた。
朝焼けは白雪を薄紅に染め、遠方はなおざわめき、完全な収束の顔はない。だが、ここにいる誰もが、自らの生も死も、この少女の意志ひとつに掛かっていると理解していた。抵抗は、もう意味を持たない。
数分前――“二人しかいない援軍”を笑った場面は、すでに別の世界の記憶だ。無詠唱無遅延の精霊魔術、鉄を溶かし、人を水で溺れさせる容赦。その絶対の恐怖は、疑いを入れる隙を与えない。
けれど、まだ誰ひとりとして死んではいない――その事実だけが、場に奇妙な陰影を落とす。
外套の男の視線が、ふたたび少女を労るように落ちる。触れない抱擁のような眼差しが、彼女の背を静かに支えた。
濃くなる朝焼けのなか、雪原を支配した“死神の光景”は、一気に崩れる直前の静けさを孕み、薄い呼気だけが白く立つ。いまの沈黙が、どれほど彼女自身を追い詰めているのか――答えは、冷たい空へ溶けていき、誰の耳にも届かない。
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------------------------- エピソード422開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
その唇は祈りを告げるか、呪いを紡ぐか
【本文】
雪が降りしきる冬の戦場は、まだ夜の静寂を抱え込んだままのように、張り詰めた冷気を漂わせていた。
空一面を覆う雲は厚く、朝の光を完全に奪い去っているのか、どこか薄暗いまま。はらはらと舞い降りる雪片が地面に触れては、儚く溶けてゆき、けれど次々と新たな白がその上に覆い被さっていく。
大地はすでに踏み荒らされ、雪と泥が混ざり合った面を、複雑な足跡が入り乱れながら伸びていた。
そんな白く濁った地表の上を、宰相の私兵たちが逃げ散っていく。彼らの顔には恐怖がくっきりと刻まれ、もはや戦意どころか自尊心すら放り出してしまったかのようだ。
雪の上に取り残された槍や剣が、静かに横たわる。誰かの長靴が泥まみれのまま後退していく姿も見え、あたかも猛威を振るっていた獣が、正体不明の怪物に追われているかのよう。
しかし、分厚い外套を纏った一人の男だけは、逃げ惑う私兵たちに一瞥すらくれなかった。まるで、彼らの存在など意味をなさないと言わんばかりに、淡々と雪と泥の上を進んでいく。
その視線の先にあるのは、荒れた雪の上に倒れ伏した三人の暗殺者。彼らは“影の手”と呼ばれ、精鋭の暗殺集団として名の知れた者たちだったはずだが、今は全員が意識を手放し、武器を捨てて動かないままでいる。
外套の男は黙ったまま長い縄を取り出し、彼らを一人ひとり捕縛していく。手足の要所を押さえる縄の結び方には熟練の手際が感じられ、力任せではなく的確に相手を封じる方法を熟知しているようだった。
その動きには、幾度もの実戦をくぐり抜けてきた歴戦の風格がかいま見える。実際、男の表情や仕草には殺伐とした派手さはないが、厳かなまでの静けさがそこに漂っていた。
少し離れた場所では、ダビドたちが護送馬車に悪戦苦闘していた。
鉄製の重い馬車が、雪や土の溶けた泥濘へと沈みこみ、車輪が傾いたまま動かせない。扉には見慣れない特殊な錠前が施され、こじ開けようとしても外れる気配がまったくなかった。
「くそ……この錠前、どういう仕掛けだ?」
ダビドの苛立ちまじりの声が、馬車の板を通して周囲に滲む。扉を乱暴に叩き、金具をこじ開けようと試みるものの、どうしても突破できないのだろう。周囲の仲間たちもさまざまな道具を試しているが、まったく歯が立たないらしい。
内部には捕らえられた伯爵がいるという話だが、その悲鳴や呻き声は聞こえてこない。けれど確かに、人の気配だけは感じられるという。ダビドたちは苛立ちを隠しきれず、互いに声を掛け合いながら作業を続ける。
彼らの焦燥をよそに、クリスの視線は少し離れた場所へと向かう。
先ほどまで壮絶な魔術によって敵も味方も恐怖のどん底へ突き落とした、“ミツル・グロンダイル”と名乗る少女が、雪景色の中で馬上にぼんやりと立ち尽くしていたからだ。
彼女が戦場に放った冷徹な気迫――あの圧倒的なオーラは、今や跡形もなく消え去っている。
凍える風がざわりと頬を撫でた瞬間、クリスは胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。激戦の後に漂う静寂がそうさせるのか、あるいは、あの少女が放つ弱々しい雰囲気に何かを感じ取ったのか。自分でもわからないまま、彼女は迷いを振り払うように小走りで少女へ近づく。
「ミツル……さん」
吹き荒れる雪と風の中、クリスが呼びかける声は、氷の結晶に包まれながらかすかに届く。少女は顔を上げるまでにわずかな間があった。驚くほど頼りなく、まるで寒気の中でこごえた小動物のようだ。
吹雪の白い幕が二人の間をちらちらと横切る中、ミツルが瞼を震わせて応える。先ほどまでの殺気だった戦場の空気が嘘のように沈み込み、ただ風と雪の音だけが耳をかすめていく。
「……わたし、なんてひどいことを……」
消え入りそうなその言葉は、目の前の少女が感じている罪悪感をありありと物語っていた。あれほどの力で全員を震え上がらせた人物とは思えないほど、弱々しい声だった。
クリスはそんなミツルの様子に胸が詰まる。戦場という場を忘れさせるほどの切なさがこみ上げるのは、なぜだろう。
「……あなたは……メービス、女王陛下……ですよね?」
問いかけるとき、クリスの声は自分でも驚くほど遠慮がちになっていた。
記憶にある“精霊の巫女”と似ているようでいて、しかし何かが違う。彼女の中で渦巻く違和感を確かめるように、雪混じりの視線を注ぐ。
けれども、いま目の前にいるのは危ういほどか細い少女。冷たく凍りついた指先を胸元で重ねているその姿は、とても戦場を統べるほどの存在には見えない。
「わたしは……」
ミツルは馬の上でバランスを崩さないよう、慎重に身じろぎながら言葉を濁す。その声はかすかに震え、疲労や寒気に蝕まれていることをうかがわせた。
そして、すぐに馬から降りようとするが、慣れない体勢だったのか、右足を下ろした途端に大きくよろめいてしまう。
「あっ……危ない!」
条件反射で手を伸ばしたクリスが、なんとかミツルの身体を支え込む。氷点下の空気がふたりの白い吐息を絡め取り、そのまま儚く散っていった。
「だ、大丈夫ですか……? 急に降りるだなんて……」
慌てふためくクリスの声には、女王を支える恐れ多さよりも、“怪我をさせてはいけない”という必死さが現れていた。
あの冷酷とも言える殺気を放ったミツルは、いまや一片の鋭さもない。そのギャップに、クリスの心は混乱しながらも、ひたすら守らなければという責任感で満たされていく。
「……ごめんなさい、クリス……」
小さく震える声で、ミツルは弱々しく呟く。その瞳にはどこか不安を宿していて、同時に申し訳ないという気持ちがにじんでいるようだった。
クリスはどうにか彼女を支え、一番近くにあった雪に埋まった岩へ誘導する。
ちらつく雪をささっと手の甲で払いのけると、岩の上を臨時の腰掛けに仕立て、ミツルを休ませる。すでに強張っていたミツルの表情は、ほんの少しだけ和らいだように見えた。
だが、戦場を包む風はさらに冷たく、鋭く吹き荒れ、まるで肌を切り裂くように感じられた。
破れて寒気を通しやすくなった外套の裾が、クリスの足元でぱたぱたと音を立てる。遠くから、ダビドたちがまだ護送馬車の扉に悪戦苦闘する声が断続的に届いてくる。
「本当に……あなたはメービス陛下ではないのですか?」
改めて問い直すクリスの言葉は、疑うというよりも確認したいという思いが強い。先ほどまでの“悪魔”の姿を引きずっているミツルと、今目の前にいる儚い少女――その落差がどうにも理解しがたいのだ。
ミツルは小さく息を吐き、視線を落とした。
「わたしは……“ミツル・グロンダイル”。……幻の精霊魔術の使い手……と言いたいところだけど……あなたたちの前で偽っても仕方がないわね……」
淡々とした自嘲めいた調子に、クリスは何か言い返そうとするが、思うような言葉が見つからない。
「やっぱり、陛下……そうなんですよね? でも……」
女王としての名を口にするのもためらわれ、クリスは思わず口ごもる。
もし本当に女王ならば、この戦場に自ら立つことは極めて異例だし、いまだに“精霊の巫女”としての力との違いも腑に落ちない。
ミツルはかぶりを振り、落ちる雪片をじっと見つめながら唇を結ぶ。
「……わたしは“女王陛下”なんて呼ばれるような器じゃない。ただ、自分の“役柄”を必死に果たそうとしているだけよ……」
そう口にする彼女の声は、どこまでも頼りなく、小さく震えている。先ほどまでの苛烈な力は嘘のようにかき消えてしまい、その残骸のような疲労が滲み出ていた。
「でも、その御髪もお化粧も……とてもよくお似合いだと思います」
冷たい灰色の空の下で、クリスはミツルの顔をまっすぐに見つめる。
美しく整えられたショートカットと淡いチークの取り合わせが、どこか儚げでありながらも愛らしさを放っていた。
するとミツルはかすかな笑みを浮かべ、視線を地面に落とす。
「そう……? これはね、思い出の中の大切な人の姿を借りているの。その彼女には申し訳ないけれど……わたしが“ミツル・グロンダイル”という魔術師になるためには、どうしても必要だった。そうでもしないと、勇気が持てなかったから」
そこに宿る切ない響きが、クリスの心をかすかに痛ませる。誰かの姿を借りるという行為がどれほどの葛藤を孕むか、想像するだけで胸が締め付けられるようだ。
「お友だち……というより、何か特別な方、でしょうか? どんな方だったのです?」
戦場の冷気や馬車の喧騒を忘れるように、クリスは柔らかな声で問いかける。視線が合わないまま、ミツルは少し考えるように間を置いてから答え始めた。
「うまく言い表せないけど、わたしにとってお日様のような人だったの……。ときには王子様みたいでもあった、かな。でも誤解しないでね、女の子なのよ」
その言葉に、クリスは少し目を見開く。だが、それ以上深く驚くよりも先に、ミツルの瞳に映る遠い追憶が心を打つ。
まるで手の届かない場所にある温かな光を懐かしむような、その表情――少しの切なさと、微かな幸福感とが入り混じっているようにも見えた。
「その方は今……?」
クリスが声を低めて尋ねると、ミツルは淡く首を振る。
「いまどうしているのか、わたしにもわからない。もう追いかけることすら……許されていないから」
語尾が弱々しく震え、そのまま凍るように沈黙が降りる。雪がまた一段と強く舞い、ミツルの足元に薄い白の層を作りつつあった。
「……すみません。つらいお話を掘り返すつもりは……」
クリスは申し訳なさにかすれた声を落とす。ミツルはゆっくりと首を横に振った。
「気にしないで。ちょうどあなたに謝罪しなきゃって思っていたの……」
その言葉に、クリスは思わずまばたきをする。何を謝るというのだろう。
「あなたとレオンに、こんな危険な任務を押し付けてしまったこと。影の手をおびき寄せる囮になると知りながら、それを伝えず……。結果的にあなたは腕を怪我したし、レオンも危ない目に遭わせてしまった」
悔いに満ちたミツルの声は、夜明けの寒さよりもさらに冷たく感じられる。その言葉を耳にして、クリスは思わず首を横に振った。
「そんな……わたしは“あなたのせい”だなんて少しも思っていませんよ」
クリスの必死さが、かえってミツルを困惑させたようにも見える。
「それに、わたしはまだ半人前かもしれませんけれど、れっきとした銀翼の騎士です。危険と隣り合わせなのは承知の上ですし、あなたに恨みを抱く理由なんてありません」
どこまでも真摯な口調で告げられると、ミツルは意外そうに目を見開く。
「どうして……死ぬ危険だってあったのに?」
雪片が舞い散る中で、クリスはふわりと微笑む。そこには冷え切った大気を包み込むような優しさが宿っている。
「わたしたちは、あなたが命じてくれたことに感謝しているんです。おかげで伯爵の居場所もわかったし……危機な目にもあいましたが、今こうして生きています。結果オーライ、なんて言葉で済ませるつもりはないですけれど、後悔はしていませんよ」
クリスの澄んだ瞳は、まっすぐミツルを見つめる。まるで、あなたはもう自分を責めなくていい、と告げているかのようだ。ミツルはどう答えればいいのか迷いながらも、その視線にほのかな温もりを感じ始めていた。
「……それに、陛下。今回の任務で、わたし大切なことに気づけたんです」
クリスは胸の奥を隠すように、ふっと照れくさそうに笑みをこぼす。
「レオンとわたし、行商の新婚夫婦のフリをして旅をしたんですけど……最初はぎこちなくて恥ずかしかったのに、いつの間にかそれが自然で、心地よくなっていることがわかって……もしこの先、わたしが一人前の騎士として認められる日が来たら、本当にレオンと夫婦になりたいなって……そう思えたんです」
ふと、ミツルの瞳に驚きの色が浮かんだ。けれど、それはすぐに薄い笑みへと変わっていく。先ほどまで重くたれ込めていた悔恨の影が、少しだけ和らいだようだ。
「……そんなことが……ふふ、なんだか人の縁って不思議ね」
「ええ、大変なこともありましたけど、この経験がなければ気づけなかったこともあるんです。だから、あなたにはどんなにお礼を言っていいか。わたしの人生の大事な転機になったんですから」
クリスの笑みに、ミツルもかすかに応じるように頷く。けれど、その表情の奥にはまだ拭いきれない悔いの色が残っていた。
「……そう言ってもらえるなら……少しは、わたしのしたことも報われるのかしら」
か細い声が溶けるように白く変わり、戦場に舞う雪へと吸い込まれていく。
「もちろん、です。あなたがいてくれたから、わたしたちは生き延びた。だれも死んでいません。――あなたは誰一人として殺さなかった。それだけは、確かです」
クリスが力強く言い聞かせるように重ねると、ミツルは自責の念に苦しげな表情を見せつつも、ほっとしたように微笑んだ。
「たとえ見せかけの恐怖だとしても、用いた手段が最悪なのは変わらないわ。“あの子”が見たら、きっと怒るし悲しむでしょうね……」
ミツルのまなざしはどこか遠くへ向かっていて、かつての記憶の中に思いを馳せているようにも見える。
その手を握るクリスは、そんな彼女の不安を少しでも支えたい一心で、決して離そうとしない。
視線を上げると、護送馬車のあたりで歓声が上がり始めた。錠前が外れたのか、大きなどよめきが聞こえ、何人もの仲間が扉の方へと押し寄せているのが見える。
「開いたぞ……!」
「レズンブール伯は無事か? 早く確認を!」
人々のざわめきと足音が雪煙を巻き上げ、空気をさらに白く濁す。安堵と緊張が入り混じった気配が戦場を包み込む中、ミツルは立ち上がろうとはしなかった。もう気力も体力もほとんど残されていないのだろう。
「……陛下、行かなくてもいいのですか?」
クリスがそっと声をかけると、ミツルは軽く頭を振る。
「“ヴィル”がいれば、それで充分……。伯爵との対話は、場所を変えて落ち着いてからのほうがいいでしょう。わたしにしても、いまは……」
その言葉はほとんど掠れ、もはや呼吸すらままならないように聞こえる。冷たい風がミツルの頬を色白のままさらに痛めつけ、体温を奪っていく。
「陛下、無理はしないでください」
クリスがささやくと、ミツルは情けなさそうに微笑して首を垂れた。まぶたに絡む雪を払う余裕もないのだろう。
「ごめん……ね……。こんなの女王らしくもない。情けない……」
「いえ、そんなこと……。どんなお姿でも、あなたはあなたです。むしろ……そういうところが、わたしは好きですよ」
思わず吐露してしまったようなクリスの言葉に、ミツルは一瞬目を丸くし、すぐに小さな笑みを浮かべる。だが、その微笑みははかなく揺れ、全身の疲労がにじみ出るかのようだった。
「……ありがとう……クリス……あなたみたいな人が、いてくれるだけで……」
次の瞬間、ミツルの肩は力が抜けたように落ち、まるで糸が切れた人形のように崩れそうになる。クリスはあわてて抱き留め、彼女が雪の中へ沈みこまないよう全力で支え込んだ。
護送馬車のほうから、ダビドの弾むような声が聞こえる。
「……よし、救出成功だ!」
どうやら伯爵は無事であり、その知らせに仲間たちの歓喜や安堵の吐息が混じり合う。吹き荒ぶ風の中で、その声はどこか晴れやかだった。
「……よかった……伯爵が無事なら……」
ミツルはかすかに微笑みつつ、声を出しかけたまま息を呑む。緊張の糸が切れたからか、身体の奥から脱力感が一気に押し寄せたのだろう。
「ミツル、さん……?」
クリスは焦って抱きかかえようとするが、ミツルの瞼は重く落ち、やがてすうっと閉じられてしまう。雪の結晶が彼女の肩や頬に降り積もり、まるで寝息を立てる眠り姫のように見えた。
「ミツルさん……! しっかりして……!」
クリスの呼びかけに応じるように、周囲の仲間たちが雪煙をかき分けて集まり始める。新たな風が吹き込むたび、視界は白くかすむばかり。ミツルの唇はかすかに動いているが、声にはならない。
「いったいどうしたってんだ? 魔術の使いすぎか?」
駆け寄ってきたレオンは青ざめた表情で問いかける。
つい先ほどまでの常識外れな魔術を思えば、反動が来ても不思議ではない。彼女が行使した力は地面を溶かし、戦意を根こそぎ奪うほどの威圧感を持っていた。
今、ミツルの細い肩は雪に埋もれかけ、唇は声にならない唸りだけを微かに発している。
「違う……」
静かな声が聞こえ、皆が一斉にそちらを振り向く。
いつの間にか姿を現した外套の男は、すっとフードを脱ぎ捨てると、銀色の髪と端正な面差しを露わにした。ダビド班の面々には見覚えのある、その姿――王配殿下ヴォルフその人だった。
ダビドが思わず身を乗り出して問いかける。
「……ああっ、ヴォルフ殿下……!?」
「いや、今の俺は“流れの剣士”ヴィル・ブルフォードだ。悪いが、そう名乗らせてくれ」
「なるほど……そういった事情でしたか」
メービスが魔術師“ミツル・グロンダイル”を名乗ったように、ヴォルフもまた偽名を使っている。その理由が非公式な活動のためであることは、周囲にとっても容易に推し量れた。
驚く仲間たちの声も構わず、ヴォルフは膝をついて沈みそうなミツルの身体を支え、しんしんと降り積もる雪をそっと拭いながら彼女の頬に触れた。その瞳には苦悶と焦りが入り混じった色がにじむ。
「こいつ、ミツルは……王都を出てからここまでの三日三晩、ほとんど寝ていない……」
わずかに震えを含んだその言葉に、周囲は一瞬息を呑む。雪まじりの風が容赦なく吹きすさび、レオンやダビド、そしてクリスまでも、その真実に戸惑いの色を隠せなかった。
白い戦場の静寂に、また一陣の風が砂粒のような雪を散らしていく。折れそうな少女――ミツルのまぶたは硬く閉ざされたまま、彼女の呼吸を示すかすかな吐息が白く浮かんで消えていった。
【後書き】
1. 舞台と空気感の演出
まず冒頭で印象的なのは、厚い雲と降りしきる雪が朝の光を遮り、まるで夜の名残のような薄暗さを漂わせている点です。この「昼なのに夜のよう」という描写によって、時間の感覚が曖昧になり、物語全体が静寂と緊迫感のはざまに置かれています。
雪と泥の混ざり合い:本来なら純白のイメージのある雪が、戦場の泥と混ざり合って「白く濁った地表」になっていることが、戦いの生々しさや人間の荒々しい行為を視覚的に示しています。
逃げ散る私兵たち:周囲が極度の恐怖に支配され、武器さえ投げ捨てている描写が、戦況の凄惨さをさらに際立たせます。作品世界の混乱を背景に、読者は「圧倒的な存在がここにはいる」という不穏な空気を感じることができます。
このように、天候や地面の状態を通して危機感や不安感を描く手法が冒頭から際立っています。読者は自然と「なぜ、ここまで恐怖が支配しているのか」という疑問を抱き、物語に引き込まれます。
2. キャラクター性と対比
● 外套の男
逃げ惑う私兵たちに目もくれず、淡々と暗殺者たちを捕縛する。練達の手際をうかがわせる縄の結び方。
この男は、周囲の混乱に流されない冷静さ・確かな技術を持つ「歴戦の人物」であることが示唆されています。あえて派手さではなく「厳かな静けさ」を纏わせることで、かえって底知れぬ強さや経験の深さを印象づけています。
● ダビドたち
折れた車輪や特殊な錠前に悪戦苦闘しながら伯爵を救出しようとしている。彼らの苛立ちや焦燥が、戦闘後もまだ危機が去っていないことを象徴。
このグループは物語の“現場作業班”のような位置づけで、戦いから直接的に救助へシフトしている人たちです。作品内で「実務担当」「仲間を救いたい」という、より人間的な意志を表す存在として映ります。
● クリスとミツル
戦場で最もドラマティックに描かれるのが、この二人のやり取りです。
クリス
女王を支えるべき騎士、あるいは“まだ半人前の騎士”としての自覚を持ちながらも、相手を想う優しさが強く出ています。
冷酷な恐怖を見せたはずのミツルに対しても、彼女の脆さに気づくと、戸惑いより「守らなきゃ」という気持ちが先に立っている。
ミツル
圧倒的な魔術を振るい、敵味方を恐慌に陥れた“悪魔の術師”と呼ばれる存在でありながら、実は弱々しく、罪悪感に苛まれている。
彼女の化粧や髪型は「大切な人の姿を借りている」と語られ、その行動や外見に深い理由があることを示唆。
「女王陛下」と呼ばれることを拒否しつつも、“役柄”としてその力を使わざるを得ない立場にいる。
この二人が並ぶシーンは、「圧倒的な力を持っていたはずの人物が、今はか細い少女として座り込んでいる」というアンバランスさが際立っており、読者の興味を強く引く構図となっています。クリスがそれを「支えたい」と強く思うことで、両者の距離感が一気に近づいているのが印象的です。
3. テーマ:罪悪感と救済
「ミツルが放った恐怖」が戦場を支配していた一方で、彼女自身は「ひどいことをしてしまった」という罪悪感に苦しんでいます。戦場での暴力の行使が否応なく、当事者の心を蝕む構図。
しかしクリスは「誰一人として殺さなかった」という事実を強調し、「あなたは決して無益な殺戮をしたわけじゃない」とミツルを救おうとする。
これは、力を使うことの是非と、その犠牲をどう受け止めるかという物語の根幹に触れる要素です。ミツルが背負う“役柄”という重荷は、自分の意志や感情と相容れない部分が多く、結果として苦悩を招いている。そんな彼女をクリスの真っ直ぐな言葉が救済しようとしている点に、読者は「人が人を支える」尊さや、自己否定からの解放といったテーマを見出せます。
4. 戦場における“人間らしさ”の描写
行商の新婚夫婦のフリをしていたクリスとレオンの話は、戦場という非日常の最中にも、私的な幸せや未来への希望が芽生える瞬間があることを際立たせています。
それが「ミツルの命令」によって成されたものであったとしても、当人たちの受け止め方ひとつで「大切な出来事」へと変わり得る、というポジティブなメッセージが含まれている。
また、ミツル自身も「王都を出てから三日三晩、ほとんど眠っていない」ほど追い込まれていた様子がうかがえ、彼女の人間的な限界や、生身の存在であることが改めて強調されます。
戦場という殺伐とした空間の中で、それぞれが感じる幸福や後悔、苦しみや優しさなど、人間の多面的な感情が描かれており、そこに物語の深みが生まれています。
5. 今後の展開への期待感
最後にヴォルフ殿下が現れ、ミツルを保護するように膝をつく場面は大きな見せ場になっています。
「どうやら彼女には、これまで尋常ならざる事情があったようだ」「王家や女王、あるいは王配との関係が深く絡んでいるらしい」ということが暗示され、読者の興味を強く引きます。
また、“伯爵救出”という主要な任務が成功に近づきつつも、同時にミツルの身体と心の状態は限界であることが示され、ここから先の物語の行方を示唆しているとも言えます。
このように、戦闘や救出というアクションの中に、権力闘争や秘密の事情、個人の葛藤といった要素が複雑に折り重なっていることで、物語に厚みが出ているのです。
まとめ
冒頭の戦場描写が生々しく、読者を圧倒的な「冬の戦場」の臨場感へ引き込み、その中で繰り広げられる人間模様にフォーカスが当たる構成。
ミツルとクリスの対比(圧倒的力を持つ者 vs 半人前の騎士)によって、互いが補い合うように描かれ、葛藤や人間関係の深みが強調されている。
“誰も殺さなかった”という事実や、“恋愛の気づき”“女王の背負う役割”などが絡み合い、単なる戦闘シーンでは終わらないドラマ性を感じさせる。
最後のヴォルフ殿下の登場で「物語世界の政治的背景やミツルの秘密」が匂わされ、次への展開を期待させる。
総合的に、このシーンは「激しい戦いの終幕と、それによって浮かび上がる登場人物の本音や脆さ」を描いたものとして、抑揚や情感が丁寧に織り込まれていると言えます。過酷な雪の戦場だからこそ浮き彫りになる、生々しくも儚い人間らしさが物語の魅力となっており、今後の展開でそれらがどのように回収されていくか、期待が高まります。
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------------------------- エピソード423開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
銀髪の騎士と姫巫女の嘘
【本文】
非暴力は刃を捨てる勇気――けれど、心の傷は雪のように静かに積もる。
雪に覆われた荒野。遮るもののない風が一帯を走り、凍えた地面を叩いていく。厚い雲が空を塞ぎ、乏しい光が景色の色を奪っていた。
さきほどまで火と魔術が渦を巻き、死の気配が肌に張り付く戦場だった。泥にまみれた地には武器の残骸が点々とし、踏み荒らされた足跡や車輪の痕が生々しく残る。焦げた金属と薬草油が混じる匂いが、さっきまでの狂気をまだ離さない。
いまは殺気と怒号が嘘のように退き、浅く色を失った地表が戦いの傷を少しずつ覆い隠していく。
そんな戦場の片隅。
銀髪の青年――ヴォルフ・レッテンビヒラーが、膝をついて一人の少女を抱えている。彼はリーディス最強の騎士であり、女王陛下の王配でもある。そして、その傍には、いかにも心細げな面持ちを浮かべる騎士の姿があった。
少女の名は、“ミツル”と呼ばれていたが、その正体は――。
クリスと呼ばれる若い騎士が、かじかんだ指先で少女の前髪をそっと撫でていた。細かな粒が静かに睫毛へと降り、触れるたび冷たさが肌へ染みる。そんな感覚に気づく余裕もないほど、少女の状態は深刻だとわかった。
頬の血の気は引き、唇はかすかに震える。まだ幼さを残す顔は、寒さに筋が強張っているせいか、表情の動きが乏しい。
つい先ほどまで剣戟の反響が鼓膜に残るほどだったのに、いま耳に届くのは革の擦れる音や誰かの浅い呼吸、遠い馬具の鈍い揺れだけだ。
人々が安堵に似た息をつきながら戸惑い合う中、一人の女性班員――マリアが呆然とした様子でつぶやいた。
「ヴォルフ殿下がここにおられるということは……このミツルという方は、まさか?」
問いかけられたクリスは、ちらりとヴォルフを一瞥する。指先が外套の端をつまみ、短い沈黙ののち、小さく息を吐いてうなずいた。
「はい。この方は間違いなく、わたしたちの女王陛下……メービス様です。ミツルという名も、このお姿も、世を忍ぶ仮の……」
その言葉に、マリアの指先がかすかに震えた。喉奥が乾き、白い吐息がほどける。
女王陛下メービス――リーディス王国を統べる存在が、どうしてこんな過酷な戦場に、しかも援軍ひとつ連れず姿を現したのか。現実味の薄い光景に、マリアは唇を硬く結ぶしかない。
「……まさか三日も寝ていないだなんて。そんな、うそでしょ……」
細い声は風の縁で揺れ、耳からすぐ遠のいていく。同時に、周囲にいたディクソンやガイルズらも、口々に驚きと戸惑いを言葉にした。
「なんて無茶なことを……」
風が幕の切れ端を鳴らし、沈黙の面に細い皺が寄る。
「こちらへ来られるとは聞いていたが、まさか援軍も連れずお二人だけで、しかもこんなに早く……それも寝てないって」
焦げと薬草の匂いが薄れ、代わりに鉄の味だけが舌に残る。
「そんな状態であんな複雑な魔術を制御するなど、常識的に考えてありえない……」
吐く息が白く裂け、手袋の内側だけがわずかに温い。
「精神力……なんて、生易しいもんじゃないぞ」
ざわめきは次第に途切れ、革手袋を握る擦過音や、誰かの咳払いが残る。ヴォルフはその気配を耳にして、顔をわずかにしかめた。憮然というより、自分自身へ刃を向けるような苦い表情だった。
騎士たちの視線がヴォルフへ集まると、彼は声のトーンを落として静かに口を開いた。
「元はといえば、俺の立てた無茶な計画のせいだ。正直、思い出すだけでも胃がきしむ……」
その小さな呟きを受けとめるように、ダビドが軽く会釈をしながら尋ねる。毛布の繊維が手袋にかすれる音が、問いに寄り添った。
「殿下、よろしければ詳しくお聞かせ願えますか?」
布地のざらりが指先に残り、問いが場に着地する。
ヴォルフはダビドを手で制し、ゆっくりと小さなため息をついた。冷たい空気が肺の内側を刺し、吐息が白くほどけて髪をかすかに揺らす。
「王都を出る前、俺は『乗り継ぎ馬を使えば三日ほどでボコタに到達できる』って考えていた。確かにそれは実現可能な計画ではあった。あくまで計算の上ではな……。
だが問題は、それを操り乗る人間の方だ。馬は交換すればそれで済むが、人間はそうもいかん。……実際、最低限の仮眠は必要だろう?」
そう言いながら、ヴォルフはかじかんだ“ミツル”の手をそっと握る。指先の温度がほとんど戻らず、掌に冷たさが張り付いて離れない。
「俺はまだいいさ。長く戦場を渡り歩いてきたせいで、地面が硬かろうが冷たかろうが、一瞬でまどろむことができる。馬を操るときだって、わずかな揺れに合わせて小刻みな睡眠を重ねられる。だからこそ、どんな強行軍にだって耐えられるという自負があった。
……だが、こいつにはそんな経験はないし、順応性なんて持ち合わせちゃいない」
苦い自責が声に滲む。まるで、この小さな手の体温まで奪ったのは自分だとでも言うように。
その気持ちを受け取ったのか、クリスが伏せた瞳をうるませた。睫毛の端に残る水の粒が、浅い光を拾って震える。
周囲の騎士たちは荒い息をおさめ、倒れ伏す少女――メービスの浅い呼吸に耳を澄ませた。胸郭が針の幅ほどにしか上下せず、衣の内に溜まった息だけがかすかに温い。
医術に明るいマリアが膝をつき、二指で手首の拍を拾う。耳を近づけ、吐息の浅さを確かめると、短く頷いた。指の腹に触れる皮膚は、冬明けの水みたいに冷たい。
「三日も不眠となれば、まず判断力の低下、反応遅延、瞬間的な意識の途切れ、筋の震え、体温の落ち込みなど。また幻視や情動の不安定をきたします……。殿下、どうしてそんなことに?」
返事を待つように、場にひと息の間が落ちる。乾いた藁の匂いと、甲冑の鉄の匂いが混じり合っていた。
「道中、六時間ごとに中継地へ辿り着いては馬を乗り継ぎ、十二時間おきに二時間の仮眠を取る――そういう計算でいたのに、こいつはほとんど寝ていなかった。実際、俺の目をごまかすために『寝たふり』をしてただけでな……。
あぶみに足をかけるのすらままならない。落馬しそうになるたびに、鞍に縛りつけたり俺が腕で支えたり、そんな綱渡りの連続さ……」
ヴォルフは遠くを見やる。視界の端で粉のような粒が斜めに流れ、頬の皮膚だけがじりじりと痺れる。
ふと、クリスは小さく息を吐き、白銀の外套の袖口を握り直した。冷たさで指の感覚が薄れていく。それでも、どうにかしてミツルへ熱を渡したいという焦りが、身体にこわばりを残す。
「見るに見かねて、途中で睡眠薬を勧めたこともあった。ところがこいつときたら、『寝かしつけられて、馬上に括り付けられるなんてごめんだ』って。『敵が来たら対応できない』、って。いくら俺ひとりで何とかなると言っても、こいつは聞く耳を持たなかった……」
小さな苦笑の陰に、痛むものが潜む。何もかも自分で引き受けようとする気質が、身体と心の限界を見ないふりをさせるのだと、嫌というほどわかっているから。
「この深い雪の中、馬車なら一週間はかかる行程を半分以下に短縮するという強行軍。無茶にも程がある。俺でさえ音を上げそうになるのに、こいつは『早く仲間たちの元へ辿り着き、助けになりたい』という一心で、ここまで来た……」
告白を噛みしめる気配に、ダビドやレオンらが唇を噛む。手綱の重みや鞍の縁の冷たさが、どれほど過酷な道のりだったかをはっきりと思い出させた。
クリスもまた、悲痛な面持ちで視線を落とし、ヴォルフの言葉に耳を傾ける。髪が頬に張りつき、冷えた空気が喉を細く通る。
「おかげで、こいつはいつ意識を手放してもおかしくない状態でボコタに到着した。正直、すぐにでも休ませてやりたかった。
……にもかかわらず、街には火の手が上がり、『影の手』だの宰相兵だのが殺気立っている。下手に近づけば、ただじゃ済まない修羅場だった。俺は、もうどうすればいいかと途方に暮れた……」
泥と煤の匂いが混じる夜気のなか、ヴォルフは重く目を伏せる。掌の奥には、まだ体温を失いかけたミツルの重みが残っていた。
「でもな、ミツルはこう言ったんだ。『ここは自分に任せてほしい』と。『大丈夫だ。剣で脅すより絶対にいいから』と笑った。たしかに、俺が介入したところで死傷者は避けられない状況だった」
周囲の誰もが彼女の「笑顔」の奥にあった決意を思い出していた。火の粉が風に舞い、焼け焦げの匂いが舌の奥に残る。仲間たちの視線がミツルへ、次いでヴォルフへ集まった。
「……そして演じてみせたのが、あの残虐非道な殺人狂まがいの役回りだ。敵の戦意をへし折るために、一切の温情を捨てた振る舞いをしてみせた。歪んだ異常者みたいな笑いすら見せてな」
痛ましいほど静かな声。
ダビド班の仲間たちは、思わず視線をそらす。ヴォルフは自分を責めるように、悔しそうに視線を伏せる。指先が無意識に外套の縁をつまみ、力が入る。
「……でもな、皆が知ってる通り、こいつは『他人の痛みを自分に置き換えてしまう』ような、優しすぎるやつなんだ……。だというのに――」
一拍置いて、ヴォルフはミツルの凍えた頬にそっと触れる。
ほんの少し前、彼女は冷酷な役どころを演じ、人々を恐れさせた。それなのに、いま腕の中にあるのは、体温の行き場を失った細い身体だけだ。
「――自分の名に汚名を被せることだって厭わない。自分の心をめちゃくちゃにしてでもかまわない。大切な誰かが傷つくくらいなら、自分が傷つけばいい――そんな自分の胸にナイフを突き立てて抉るような無茶苦茶を、言葉じゃなく行動で示しちまうのが、こいつなんだ……」
クリスの心が揺れ、喉の奥がきゅっと鳴る。
「罪も罰も何もかもすべて一人で背負い込んで、限界を振り切ってでも他人を守ろうとする。……そういう頑固さが、こいつのいいところであり、同時に大きな弱みでもある。どれだけきつく説教したって、『自分がやる』って譲らない。どうして、そこまで自分を追い詰めるんだって」
言葉は雪解け水のように低く流れ、胸の内側に冷えて残る。レオンやダビドは現場を警戒しつつ、短くうなずいた。散開した宰相兵の動きはまだ完全には途絶えていない。護送馬車の後始末も残っている。
「たとえ嘘の仮面をかぶって心を削ろうとも、自分がどこかで壊れるって、頭じゃわかっていても、やめられない。目の前に救える命があるなら、どんな辛くても苦しくても、手を伸ばしてしまう。その『生き方』自体がメービスという人間の本質なんだろう。
それがわかっていながら、俺は止められない。止めようがないんだ。すぐ隣にいるっていうのに、情けない話さ……」
最後の言葉には、呆れと同時に底しれない愛情がにじんでいた。
ダビドたちは、ふと遠い記憶を思い浮かべた。魔族大戦と呼ばれる大きな戦いのさなか、メービスという巫女が見せた姿を。
誰よりも多くの戦場を掛け持ちし、休む間もなく魔獣の大群と戦い、合間には兵士や難民を救うため尽力する。その果てに待つのは、いくら頑張っても救えない命があるという残酷な現実。
『ごめんなさい、ごめんなさい……』
あのとき、彼女は膝の泥の冷たさも構わず、亡骸の指を一つずつ揃えていた。指先は血でぬめり、革手袋の内側に冷えが染みていく。吐く息が白くほどけるたび、喉の塩辛さが増し、睫毛にかかった雪が涙で溶けて、頬を伝い落ちた。
彼女は、数を数えない。助けられなかった命の“数”ではなく、そこにいた一人ひとりの“温度”に触れてしまう人だ。そう理解しているからこそ、彼らは声をかけられなかった。
遠くで誰かが靴底を鳴らす、ごく小さな音がした。
女王である以前に――弱い者の痛みを、自分の内側へ移してしまう人。それを知っているから、彼らはなお胸を詰まらせる。戦場が静まるほど、彼女の中だけが荒れていく。その矛盾のまま立ち上がる度に、彼らは覚悟を新しくするのだ。彼女の代わりに刃を持ち、彼女の代わりに憎まれ、彼女の代わりに冷たくなる――そうしてしか、この優しさは守れない、と。
「ヴォルフ殿下、ひとまず隠れ家へ移動しましょう! ここでは冷たすぎて陛下のお体に障ります」
ダビドの毅然とした声が戦場の沈黙を破る。
ヴォルフはわずかに逡巡の色を浮かべるが、すぐに「わかった」と短く頷いた。
クリスとレオンが抱きかかえるようにしてミツルを支え、あまりの軽さに驚きながら外套をやさしく包み込む。指先から自分の体温を移すように、掌を離さない。
レオンは手袋を外し、細い指を自分の両掌で包む。指の腹をゆっくり擦り合わせ、口もとから温い息をふっと吹きかけた。皮膚どうしの温度が合うまで、静かに数を数えた。
それなのに、その顔はどこか穏やかだった。張り詰めていた気配が切れ、胸郭がわずかな幅で上下し、衣の内側にこもった空気がかすかに温む。
クリスは思わず膝を落とし、メービスの前髪を乱さぬようそっと整え、頬の水気を指先で拭った。
「陛下、お疲れ様でした……」
耳元へ落とした声は、雪より柔らかくひそやかだ。返事はない。唇がごく僅かに動いた気がしたが、それが意識の届く動きかどうかはわからない。
ヴォルフは外套の襟をそっと緩め、冷えた首筋へふわりと被せる。顎を寄せ、胸の前で抱え直すと、微かな鼓動が腕の内側で彼の鼓動と歩調を合わせはじめた。
それでもクリスは、祈るように囁きを継いだ。
「もう少しだけ、ゆっくりして……それから、目を開けてください。わたし……あなたに伝えたいことが、まだあるんです……」
袖口の糸目がこすれ、震えが布越しに移っていく。
吐息が頬に触れ、温度の差だけが返ってくる。
クリスの胸は、言葉にならない痛みで締め付けられる。もっと早く誰かに頼ってくれていたなら――そんな思いが舌裏に苦さを残す。それでも、彼女の『生き方』がそうなのだと、知ってしまっている自分がいる。
そのころ、周囲の騎士たちは手際よく戦後処理を進めていた。宰相兵の撤退、暗殺者たちの拘束、護送馬車の解放。命令が短く飛び、応答が重なる。
クリスは改めてミツル――女王メービスの身体に目を落とす。儚い細さ。けれど、誰も殺さずに済んだという事実の重みが、肩に置かれているように感じられた。
「……死なないで……もう誰も……」
かすかな声が耳のすぐそばで震えた。ミツルのものか、クリスの奥底から漏れたものか、境目は曖昧なまま。
やがて、ディクソンやガイルズが救出した伯爵を毛布で覆い、クリスたちはミツルを支えながら足場の悪い地面を移動する。泥が靴底に吸いつき、バランスを崩しかけるたび、腕に力が入った。
クリスは彼女の片手を外套の内ポケットへ差し入れ、自分の腹の温みにそっと押し当てる。冷えが鈍い痛みに変わり、やがて指先がかすかに戻ってくる。
「あなたは一人じゃない」――そう唱えながら、自分も泣きそうになるのをこらえて。
「大丈夫です。ちゃんとみんながいてくれます……」
囁きは冷えた空気に溶け、彼女の耳朶に触れるか触れないかの温度で漂う。重い闇を抱えたまま揺れる意識を、せめてひとりにしないように。
いつか目覚めたとき、救えなかった命を思って自分を責めてしまうかもしれない。どれだけ救えたのかを測りかね、胸を掻きむしるかもしれない。
その痛みに寄り添うと誓いながら、ヴォルフもまた周囲を見渡し、無言で護りの配置を整える。腕の重みだけが、現実を確かに繋ぎ留める。
人々の足音が遠のき、通りの先で風が物陰を鳴らす。散らばった矢や折れた刃は、やがて薄く敷いた新雪の下に沈むだろうが、肌に残る金属の匂いはすぐには抜けない。
それでも――この三日三晩の強行軍と死闘は確かにあった。彼女が“情のない役”に徹し、自分の心を削りながら守り抜いた命が、いま腕の中で温もりを取り戻しつつある。
冷たさと温もりが入れ替わるたび、雪と火のあいだに細く架かる道を、彼女が選んだのだと胸が知れる。
クリスは、ミツルの手を決して離さないようにしながら、外套の内側へ包み込む。指先にわずかな温みが宿り、血の巡りが戻るのを待つ。
暗い空の東が、ゆっくりと白み始める。薄い光が建物の縁を撫で、凍てついた空気のなかに小さな余白が灯る。
クリスは手袋を片方だけそっと外し、素肌の掌でその甲を包んだ。移ったぬくもりが、夜更けの縁に小さな火をともす。
ヴォルフ、クリス、レオン、ダビド――それぞれの役目を胸に、無言の合図を交わす。足跡はすぐに薄れても、手の中の体温は、確かに次の一歩へとつながっていく。
この少女――メービス・マティルデ・アデライド・フォン・オベルワルト=リューベンロートが守り抜いた命と想い。その結末は、まだ誰にもわからない。ただ一歩ずつ、安全な場所へ。
人々は冷たい息を吐き、歩みをそろえた。肩に触れる重みを確かめ、次の角を折れる。
そして、戦場と呼ばれた地は再び静けさを取り戻し、悪魔の術師と恐れられた少女は、深い眠りの呼吸だけを残している。壊れ物のように脆い姿は切ないが、彼女の選んだ“誰も殺さない”という道が、東の白みにほのかな温度を灯していた。
【リアクション】
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------------------------- エピソード424開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
壊れゆく優しさ、その先の約束
【本文】
海沿いの町並みが見渡せるこの高台は、懐かしさに満ちた景色と静謐な空気をたたえていた。
ベンチに座り、膝の上で両手を重ねると、その温度で自分自身の存在を確かめたくなる。視線を下に落とせば、遠くの路地に明かりが点在していて、あちらこちらに住む人々の営みが小さく揺れているのが見える。
足元には綺麗に整った白い石畳があり、少し離れた先に街灯が立っている。柔らかいオレンジ色の光が、この場所の片隅をほんのり照らす。わたしの影が長く伸びて、地面の上で細やかな輪郭をつくり、その線は海へ向かってわずかに揺れていた。
空はもう、紺碧から群青へと染まりつつある。先ほどまで鮮やかだった夕焼けの赤や紫が、まるで誰かの手によって静かに薄められ、夜の帳に溶けかけていた。
そんな空を見上げながら、わたしはつい前のめりに、背もたれに寄りかからず、そっと息を吐く。胸のなかから解き放たれるための呼吸のように。
風はやや冷たく、けれど痛いというほどではない。頬に触れたかすかな湿り気は、海からの塩気を帯びているのだろう。
服の袖口を指先でたぐりながら、わたしは無意識に匂いを確かめようとしている。ほんの少し、潮と夜の気配が混ざったような香りがして、それだけで胸の奥がきゅっと締まる。
ここは、前世のわたしにとって、特別な場所だった――だからこそ、これが“夢”なのだという確信がある。
けれど、どうしてここに戻ってきたのかは曖昧なままだ。わたしには、ここへ導かれた理由をうまく言葉にできない。
強いて言うならば、心のどこかで「もう一度この景色を見たい」と思っていたのかもしれない。それは懐かしさか、それとも償いの気持ちなのか、今のわたしにははっきりとはわからない。
白く清らかな姿の灯台が、左手に穏やかに屹立している。夕日が傾いて空に紅紫のグラデーションを散らしていた時分とは打って変わって、辺りはすでに夜に包まれかけている。灯台の光が回転するたびに、遠くの海原が一瞬だけ照らされ、そこにいるかもしれない何者かの気配を浮かび上がらせる。
紺の空に、雲は薄く広がり、星の輝きはまだそこまで強くない。わたしはそっと首を傾け、空の深さを仰ぎ見る。あの時代――自分の過去――につながるような、どこか切なくも甘い思いがこみ上げてきて、胸がじわりと熱を帯びるのを感じた。
「わたし、ここへ来て良かったのかな……」
自分に問いかけるようにつぶやいてみる。声は宙に溶けて、誰の耳にも届かなかった。
海面を見ると、まだわずかに赤い光が残っていて、そこにぽつりぽつりと揺れる街の灯が、波の上で細かくほどけていく。まるで夜のはじまりを告げる合図のようだ。
思えば、これまでわたしは走り続けてきた。
力を持つ者である自分がやれば、わたしさえ我慢すれば守れるものがある――そんな強迫観念にも似た想いで、誰かを救うためにひたすら走り続けた。
やりたくもない役柄を演じ、名誉を捨てるような振る舞いまでして、時には自分の命すらかけようとした。
けれど、いまこの瞬間、こうして一人でベンチに座っていると、何もかも遠く感じる。まるで先ほどまでの出来事が半透明の幕の向こうにあるようだ。
わたしの周囲を包む潮風が少し強くなって、長い髪が肩先をふわりと揺らす。若緑の髪が頬をかすめ、その一瞬の感触で驚くほど切ない想いがこみ上げてきた。
この髪は若緑色――この国で“不吉”とされる黒髪を覆い隠すための色。
そして、この身体は、前世の柚羽 美鶴でもなければ十二歳のミツルとも違う。伸びやかな手足と少し大人びた肢体――そう、これは“メービス”としての身体。
その感覚が妙にリアルに伝わってくるから、かえって夢だとわかっていても胸が痛む。
水平線へ沈む太陽が、赤の名残だけを海面に落としていた。
穏やかな波打ち際のはずなのに、その光景はどこか不自然に淡く揺れ、ときどき歪んで見える。まるで、遠い記憶の断片が投影されたかのような、あやふやな景色。そう感じるのも無理はない。
わたしにとって、“石与瀬”の『石御台公園』という場所は、いろんな思い出と後悔が入り混じった象徴のようなところだから。
ベンチにはわたししかいない。膝の上で、手をぎゅっと握りしめる。
そっと見下ろした指先は、少し細くて長い。やはりこれはメービスの手だ。
「……ごめんなさい……」
声に出そうとしたわけじゃないのに、唇から漏れてしまう。
夢の中だというのに、罪悪感と後悔が渦巻いて、涙が止めどなく頬を濡らしていく。
“守れなかったもの”
“取り返しのつかないこと”
“奪われてしまった、大切な誰かや何か”
そういったイメージが、赤く染まる海の向こうに並んでいるみたいで、痛くてしょうがない。自分の頭のなかを必死に整理しようとしても、罪悪感がどろりと胸を重たく締め付ける。
こんなわたしを、誰が許してくれるのだろう。
夢だってわかっているのに、夢でさえこんなに苦しいなんて。
そのとき、ふと、視界の端に誰かの気配を感じた。
驚いて顔を上げると、いつからそこにいたのかわからない背の高い少女が、ゆっくりとこちらへ歩み寄る。
夕日の光が逆光になって、彼女の顔をはっきりと映し出さないけれど――その佇まい、その雰囲気は、わたしの心をぎゅっと締め付けた。
「あーあ、また泣いてるの? もう、仕方ないなぁこの泣き虫さんは」
耳に届いたその声は、どこか甘く、だけど少し懐かしい優しさを宿している。
わたしは思わず視線を落とし、瞳を伏せる。恥ずかしさと切なさが混じり合い、歯がゆいような気持ちでいっぱいになる。
身体の震えが止まらず、耐え切れなくなって、わたしは再び涙をこぼした。
すると、少女は何も言わず、そっとわたしの肩を抱き寄せてくれた。その温かく柔らかな腕の感触は、痛いほどに懐かしい。
鼻をくすぐるのは、どこか甘酸っぱい果実のような気配。前世でも、こんな匂いを彼女から感じた気がする。
夢のはずなのに、あまりにリアルに感じる。わたしは顔を上げられず、ただ彼女の胸に顔を埋めて声を詰まらせる。
――ああ、わかる。
この温もりとこのやさしさは、わたしの大切なひとそのもの。
彼女の胸元に触れるたび、鼓動すら伝わってくる気がして、わたしはさらに涙を流す。
「だいじょうぶだよ。いまは離れ離れかもしれないけど、わたしはあなたのこと、ちゃんと見ているからね」
彼女の声はまるで潮騒に溶けるように、柔らかく耳に届く。
その言葉を聞いてしまったら、わたしはもうどうしようもなく悲しくて、切なくて、さらに強く涙をこぼしてしまう。
いつもなら、こんなに泣く姿は見せたくないのに、夢のなかだから――そう思うと余計に胸が苦しい。
「ごめんね……」
わたしは絞り出すように言葉を繰り返す。それしか言えない。
言葉を探しても、頭の中が涙でぐちゃぐちゃになっていて、まとまらない。
すると、彼女はわたしの背をゆっくりとさすり、優しく体温を伝えてくれる。その服の質感は柔らかな綿のようで、潮風に揺れているのがかすかにわかる。
短い髪がわたしの頬にかかり、少しひんやりとした感触がくすぐったい。
サラサラとした髪がダークブラウンにも見えるのは、わたしが涙で視界を濡らしているせいかもしれない。
「どうしてあなたが謝らなきゃいけないの?」
おだやかな声音が、まるでわたしの罪悪感をほどくように問いかける。
だけどわたしは答えられず、胸をかきむしる感情だけがうずくまる。
それでも、話さなきゃいけない。これは夢なのだとわかっているし、彼女がそう言ってくれるのだから、きっとわたしは何かを吐き出すべきなのだと思う。
「わたし、戦うために強くなりたくて、あなたの姿を借りたの」
潮の匂いが少し濃くなり、彼女の影がひざ元まで寄る。
「うげっ!? それマジ?」
「うん……ごめんね。あなたの髪の色と同じウィッグを用意して、似合わないのに化粧までしてみた。わたしって、ほら根暗でしょ? そうすれば、あなたのようにうつむかず、勇気をもって前を向けるんじゃないかって、強くなれるんじゃないかって……」
頬を伝う涙が一粒、指の甲で弾け、冷たさだけが残る。
「……そっか。そんなふうに言われると、なんか恥ずかしいな。でも、わたしは嬉しいよ。どんな形でもあなたの力になれるなら、ね」
「でも……わたしはあなたの姿であんなひどいことを……血も涙もない殺人鬼を演じてしまった……」
風が袖口をなで、喉の奥に小さな熱がせり上がる。
「……知ってるよ。でもあれって味方のためだけじゃなくて、あそこにいるみんなを守りたかったからでしょ?」
彼女の声は落ち着き払っていて、その分だけ優しく深い。まるで「何もかもお見通し」だと言うように、わたしの行動の本質を見透かしているようだった。
「それは、そうだけど……」
遠い埠頭の灯が一つ、波間にほどけて消えた。
「あなたの悪役台詞を聞いてて、ちょっと思い出しちゃった。あれは昔、洸人くんが見せた脅し文句そのままだよね?」
洸人――鳴海沢 洸人。
懐かしい名前が頭をよぎる。深淵の血族、その脅しの手法……
わたしの脳裏に、あの恐ろしく冷たい場裏青の光景が一瞬フラッシュする。
◇◇◇
鳴海沢がこちらに冷ややかな視線を向けながら、薄く笑みを浮かべる。その笑みを正面から受け止めた瞬間、わたしはまるで体の奥底に毒が染み込むような恐怖を覚えた。
息を詰まらせるほどの強い圧迫感――彼の笑みには、相手を一瞬で凍りつかせる冷徹さが宿っている。
――……こいつは、本気だ。
胸のあたりが重苦しく、呼吸が浅くなる。心臓は喉元で跳ねるように脈打って、冷や汗が背中を伝う。まばたきさえ重く感じるほど、わたしの頭の中は混乱の渦に包まれた。鳴海沢が言葉を吐き出すたびに、まるで周囲の空気が氷点下まで下がっていくように思える。
「殺すだけなら、もっと簡単だからね」
ぞっとするほど容赦のない冷たさが混じり合ったその声。人を殺すことを“簡単”だと言い切る彼の徹底した冷徹さは、まぎれもない本物。そう直感で感じ取れてしまうのが、余計に恐ろしい。
わたしの体内に、じわじわと暗い影が浸透してくるようだ。呼吸が苦しくなる。
「すれ違いざまに対象の体内に、極小の場裏を滑り込ませてやるだけで事は済む。人体の重要な器官や血管をちょっと傷つけてやるだけで、人なんてすぐに死ぬんだ。気付かれる事もなく、証拠となる凶器も外傷も残さずにね。さてと……君はどんな死に方が良いかな?」
彼が淡々と説明するたびに、わたしの胸は強く締め付けられる。静かな声は凶器そのもので、薄氷を踏むような危うさのなかに不気味な優越感すら感じられた。
今にも足が竦んでしまいそうだが、ここで逃げ出したら、“あの子”がどうなるかわからない。
冷たい汗がこめかみを伝い、何度もまばたきをするけれど視界はクリアにならない。わたしの頭の中は、もうパニック寸前だというのに、どこかで“踏みとどまれ”と警鐘が鳴っている。
わたしは恐怖で動けなくなる寸前だったが、それでも逃げるわけにはいかない――もし、いまわたしが何もせずにここを離れれば、あの子の命は奪われるに違いない。そんなことは、絶対にあってはいけないのだ。
振り返ると、彼女が身を縮めるように震えているのが見える。
その姿を見ただけで、わたしの中の“守りたい”という本能が火を噴いた。たとえ、この男が深淵の術者だとしても、たとえわたしが無力だとしても。ここで踏みとどまらねば、彼女は――。
油断して周囲の警戒を怠ったばかりに、わたしは鳴海沢という脅威の接近を許してしまった。それだけでも自分に腹立たしくて悔しいのに、彼女を巻き込んでしまった現実が胸に突き刺さる。
助けたい、守らなければいけない。その思いだけで、自分の足に力を込める。震えが止まらない膝を何とかこらえ、深呼吸をして感覚を取り戻そうとした。
――わたしのせいで他の誰かが殺されるなんて、絶対に許せない……!
場の空気はぎりぎりに張り詰め、呼吸をするのも苦しい。だけど、わたしは決心を込めて顔を上げる。わずかに噛みしめた唇が震えるのを感じながらも、まっすぐ鳴海沢を睨みつけるように視線を合わせ、低い声を搾り出した。
「今すぐ卑怯な真似はやめて、こいつを解放しろ……」
足裏の砂利がわずかに鳴り、空気の温度が一段下がる。
「彼女には交渉材料になってもらっただけさ。弓鶴くん、君さえおとなしく僕に従ってくれるのなら、自由にしてあげるよ。けど、従わないのなら、確実に死ぬだろうけどね」
淡々と言い放つ鳴海沢の声は、心臓を掴み上げられたような圧力を伴っていた。
わたしははらわたが煮えくり返るほどの怒りを覚えながらも、すぐに相手を殴りつけたり叫んだりはできない。そんなことをすれば、あの子の安全はますます損なわれてしまう。
拳を握り締めても、戦う術などほとんど持ち合わせていない。どうすればあの子を助けられるのか。胸の奥で思考が空回りして、焦りと苛立ちがない交ぜになった感情がわたしを食い尽くさんとしている。
「やめろと言っている……」
低く警告を発する。けれど、鳴海沢はわたしの怒りを嘲笑するかのように息をつき、興味なさそうに一瞥したあと、口元を吊り上げてみせる。
「返す言葉がそれとはね……。君が戦う力を持たないってことはわかっているけど。どうしてもやめてほしいなら、正しいやり方というものがあるんじゃないかな? たとえば、僕の前で跪いて懇願してみせるとか?」
落胆と侮蔑が混じるため息を挟んだ彼の声音には、明らかな愉悦の色が感じられる。
わたしの心は沸き立つような怒りに満ち、拳が震えを帯びる。けれど、彼に対して激昂を表に出せば、その言動を彼は楽しむかのように扱い、状況をさらに悪化させるに違いない。
――わたしは、なんて無力なんだ……。
思わず嘆くような声が胸の中に響く。
自分の非力さが苛立ちを増幅させるが、だからといってここで下手に出たら、あの子を守れる保証はない。歯がゆい、恐ろしい、でも諦めるなんて選択肢は存在しない。
横目で彼女を盗み見れば、恐怖で身を固くして声も出せずにいるのがわかる。その姿を見ると、わたしの中で何かが弾けたように熱くなる。気づけば唇を噛みしめていた。
鳴海沢の冷たい視線が再び彼女に向けられた瞬間、全身の血が煮えたぎるほどに怒りが込み上げる。腰が引けそうな恐怖を必死で抑え込みながら、わたしは叫んだ。
「関係ない奴を、巻き込むんじゃあないっ!!」
叫びの残響が胸郭に返り、指先にびり、と痺れが走る。
わたしの叫びを聞いて、鳴海沢がわずかに顔をゆがめる。あるいは嘲笑しているのかもしれない。けれど、そんな表情には構っていられない。あの子を救わなければならない、ただそれだけがわたしの脳を支配している。
それが、わたしが初めて自らの意志で、弓鶴の中の深淵の黒を呼び起こした瞬間だった……
恐怖と怒り、そして必死の覚悟が混じり合い、まるで心臓が焼けつくように熱くなる。足の先から何かが昇ってくるようで、呼吸が荒くなるのがわかった。
鳴海沢に向き直ったわたしの目には、きっと狂気が宿っているかのように映るだろう。だが、それでも構わない。彼女を守るためなら、わたしはすべてを捨ててもいい――そう決心した刹那だった。
◇◇◇
「うん……。洸人はわざとらしく場裏・青の力を見せつけて、深淵が得意とする殺しの流儀、その手の内を事細かく説明してみせた……」
言葉にするだけで背筋がぞくりとする。あのときわたしも彼女も心底怯えていた。
けれど、後になって知ったことだが、洸人はそこまでしながらも最悪の殺し合いを避けるために芝居していた部分があった。
「ほんと、あの時は怖かったね……でも、ああすることで、相手に恐怖を植え付けられる。実際、洸人くんはわたしを殺すつもりなんてなかったんだし、あれは演技だったんだよ……」
「わかってる。だから、わたしは彼のしたことを真似したの。たとえ味方に恐れられようとも、女王の名を穢そうとも、それが最善だと思ったから……」
「だったら気にすることないんじゃない? そこは“彼”だって、ちゃんとわかってるはずだし。役になりきるのはあなたの十八番でしょ?」
視線がさ迷い、潮の匂いが一瞬だけ濃くなる。
「何かあったの?」
「わたしはたしかに人の命を弄ぶ悪辣な魔術師という役柄を意識して演技した。冷酷非道な深淵の術者として場裏の存在を見せつけ、相手の心を揺さぶった。まるで虫を踏みつけるような態度で……」
背筋に沿って冷たい汗が一筋、皮膚をすべり落ちていった。
「でもね、冷静に役に徹しているつもりが、頭の中に別の考えが浮かんできたの。苛立っている自分、力を振るうことにこの上ない愉悦を感じている自分、人が恐れ慄く様を面白がっている自分がいて、どれが本当のわたしなのかわからなくなった。誰も傷つけたくないなんて言ってるくせに、わたしの中にはそんな恐ろしい化け物が潜んでいる。それが怖くて……」
言葉が喉の奥にひっかかり、声色がわずかに滲む。睫毛の影が揺れ、俯いたままの瞳に床の模様が滲んだ。
「それはあなたのせいじゃないよ」
彼女の視線がやわらぎ、肩越しの風がそっと体温を撫でていく。
「あなたが言いたいことはわかってる。精霊子の過剰集中が脳に負担をかけたせいだってことくらい。悲哀、憤怒、悲嘆、絶望、怨嗟、孤独、虚無……そんな負の感情が一気に押し寄せてきて、封じ込めたつもりでいた記憶まで鮮明に蘇ってくる。それが深淵の力――精霊魔術の弊害だってことも。
それってね、紛れもなくわたし自身が心の奥底に隠してきた願望なのよ。あの時だって……あと一歩踏み外していれば――わたしは本当に人を殺めてしまったかもしれない」
自分の掌をじっと見つめると、まるでそこに赤黒いものがこびりついているかのように感じてしまう。
脳裏には、血の気配に染まる悪夢のイメージがちらつき、身震いが止まらない。
たしかにメービスの肉体には、デルワーズほどの潜在能力はない。ミツルほどの精霊子への感受性も器の大きさもない。だから自我を喪失して暴走するようなことはないかもしれない。
だが、わたし――美鶴には攻撃に特化した精霊魔術を扱う術と経験がある。どうしたって強い力を使えば、負荷が高まってあの破壊の衝動が込み上げてくる。それが怖くて……どうしたらいいのかわからなくなる。
ゆっくりと口にしているうちに、自分が抱え込んできた恐怖がさらけ出されていく。
茉凜は、わたしの背をそっとなで続けながら、何度も頷くようにして話を聞いてくれる。
夕日の赤が深まり、海面にかかる輝きが徐々に消えていく。
わたしは彼女の首元に顔をうずめながら、甘酸っぱい香りをかすかに感じる。それが妙に切なく、愛おしい。
「あなたは、わたしを責めないの……?」
視線が絡み、彼女の吐息が頬に柔らかく触れていく。
「なんで責めるの? だって、わたしはあなたの本質を知ってるもの。誰よりも人を傷つけたくないと願ってるってこと、よくわかってるよ。それに、あなたが“自分がこわい”って自覚できてるなら、間違いなんてぜったい起きないから」
その言葉に、わたしの胸がきゅっと締めつけられる。嬉しいような、でも罪悪感が減るわけではないような、複雑な感情が渦巻く。
わたしは再び嗚咽をこぼしそうになったが、彼女の腕のなかでなんとか耐えた。
波の音はやけに遠く感じ、夢の世界が少しずつ薄らいでいくのがわかる。夕日の光が、赤い幕を引くように世界を閉じかけている。
「ねえ……あなたは離れてても、ほんとにわたしのこと見てくれてるの……?」
胸の内側で心拍が揺れ、指先が彼女の服地をそっとつまむ。
「もちろん。あなたが苦しい時も、笑っている時も、わたしはずっとあなたを見てる。いつだって心はそばにいるよ」
その言葉が、わたしの不安をそっと溶かしていく気がして、涙がまたあふれてくる。
わたしは彼女の服の裾をぎゅっと握り、少しばかり甘い匂いを深呼吸する。夢だとわかっていても失いたくはなかった。
「……ありがとう」
それだけを、わたしは小さくつぶやいた。言葉にしてしまうと、余計に別れの痛みが増えるとわかっているのに、言わずにいられない。
彼女は何も返事をしないまま、わたしの髪を撫でてくれる。
沈みゆく太陽が、最後の赤い輝きを水平線に溶かし込み、世界が夜の帳に変わろうとする。さざ波が優しく砂浜をさらっていく音が、わたしたちの輪郭を徐々に溶かすかのようだ。
「わたしはいつだって、あなたのそばにいるよ――」
彼女の声は、確かにそう囁いた。わたしはもう何も言えず、彼女の体温に寄り添うように瞳を閉じる。
瞼の裏でキラキラと赤い残像が瞬き、鼻先をくすぐる潮の匂いと、彼女の甘い香りに包まれて意識が遠のく。
夢が薄れていくのを感じる。体温も、腕の感触も、髪の香りも、少しずつわたしから離れていく。
次の瞬間にはもう、わたしはここにいられないのかもしれない……。だけど、その囁きの残響が胸の奥底に深く深く刻まれてゆくのがはっきりわかる。
――もう離れてしまうんだ。
そう思うと一瞬切ないけれど、「見ているよ」という言葉があまりにも優しく、わたしは胸が熱くなったまま、意識を浮遊させる。
【リアクション】
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------------------------- エピソード425開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
My Guardian, My Conflicted Heart
【本文】
瞼の裏がほの白くなりはじめたころ、わたしはまだ意識と夢の境を行き来していた。窓の外では風の音か、それとも誰かの足音か、微かな震えが伝わってくる気もする。けれど現実はまだ薄膜の向こうで、深い水底から浮上する時のように耳が遠い。頭は朧なのに、それでも何かを掴もうとする自分がいる。
遠のいていく夢の中で、茉凜の甘い香りと抱擁が溶けてしまうみたいに薄れていく。その姿をどうにかつなぎとめたくて、わたしは寝ぼけたまま手を伸ばした。
けれど指先に触れるものはなく、空気だけがそこに満ちている。ときおり、見ている最中に夢だと自覚する瞬間はあるけれど、今回は違った。夢だと分かっていながらも彼女の体温に触れたかったのに届かない――そんな焦れが胸を掴むように残っている。
「はーっ……」
掠れた吐息の声が、唇から零れた。ため息というより、空気の在りかを確かめる仕草に近いのかもしれない。
半覚醒の頭で、涙が伝っていた頬をそっと動かしてみる。そこには冷えた痕が残っていた。頬の肌はひやりとして、寝乱れた髪が乾いた感触でまとわりつく。
夢のなかで流した涙なのだろうか。どうしてこんなに切ないのかと、胸が痛む。
心臓はまだ落ち着かずに脈を打つ一方で、どこか安堵に近い淡い救いの気配があるのは、きっと茉凜の「見ているよ」という声がそうさせるのだろう。
遠くから光の糸が伸び、わたしを闇の底へ落としきらないよう引き留めてくれる。か細くとも、確かに感じ取れる光だ。
だから、まだ瞼を閉じていたいとも思う。いま無理に目覚めてしまったら、この手のひらに残っているはずの茉凜のぬくみさえ、すべて掻き消えてしまいそうだったから。
けれど、静かに呼吸を重ねるうちに、外の世界は少しずつ輪郭を帯びてくる。その流れには逆らえず、朝の白さが瞼の内側へじわりと染みてくるのが分かった。
そんな折、不意に右手から柔らかな温度が伝わった。小さな熱の塊が、わたしの指先を包み込んでいる。その瞬間、どこかほっとしたのを覚える。
誰かがわたしの手を握ってくれている――そう気づいただけで、胸の奥がわずかに温まる。
この感覚に、わたしはずいぶん長いあいだ触れていなかったのだと、改めて思い知る。
誰かと手をつなぐこと。人の体温がこれほどまでに安らぎをもたらすことを、わたしはずっと知らずにいたのか、それとも忘れていたのか。
徐々に目を開くと、まだ視界は朧だが、淡い光が部屋の内部を照らしていた。シーツの端や枕の角、そしてカーテンの先の窓辺……さまざまな輪郭が霞みながら浮かんでくる。
そして、その光に染まるひとつのシルエットを見つけたとき、わたしは名をそっと呼んだ。
「ヴィル……?」
自分でも驚くほど掠れた声だった。喉が乾いているのか、言葉が出にくい。それでも、ここにいるのがヴィルだと分かっただけで、理由もなく深く安心した。
彼はベッドのそばに腰掛け、穏やかな表情でわたしを見ていた……ように思うが、まだ輪郭ははっきりしない。けれど、彼から漂う空気は和らぎを帯び、胸の内にゆっくり沁みてくる。
「よく頑張ったな、ミツル」
その言葉は口調こそ淡々としているのに、不思議と胸を温めた。心の根を包むような感触で。
返事を作ろうと唇を動かすが、さっきよりさらに息が詰まり、声にならない。申し訳なさと嬉しさが混ざり合い、胸がじわりと熱を帯びる。
そんな様子を見透かしたかのように、ヴィルはわたしの手を軽く握ったまま、ひとつ息をついて笑った。
彼の指先にわずかな力がこもる。ぎゅっと握りしめるほどではなく、わたしがここにいることを確かめるような、ごく穏やかな力の入れ方だった。
それは問い詰めでも叱責でもなく、“ねぎらい”のかたちで伝わってくる。朝の白がぼんやり彼の髪を照らし、そのシルヴァーグレーがふわりと揺れるのが視界の隅に映ると、また胸に熱がのぼる。
まだ眠気が抜けきらないまま状況を受け止めきれず、口を開いても言葉がすぐには出てこない。
喉に引っかかる不快感と、昨夜の……いや、つい先ほどまでの悪夢の記憶が入り交じって、うまく声にできない。こんな姿を見られるのは恥ずかしいが、弱っているときにしか言えないこともあるのかもしれない。
「……わたし……」
それだけ口にすると、やはり声は掠れ、砂を噛むようだった。
ヴィルは黙ってわたしを見つめ、手をそっと上下に揺らす。それは声にならない「落ち着け」という合図のようで、同時に「もう何も言わなくていい」と諭されているようにも感じられる。やわらかく、包む手つきで。
わたしは瞳を閉じる。夢のなかの茉凜が、同じように背中をさすってくれた光景が脳裏に蘇る。
その優しさが、まさに今ここにも在る――そう思うと、どうしようもなく涙がこみ上げそうになる。
わたしは無理をして、ほんの少しだけ作り笑いをしてしまう。
何も言えなくても、ヴィルはもう、わたしが泣きそうだと見抜いているのだろう。
「おまえは、本当に危なっかしくて手の焼ける子だな」
やがて放たれたその台詞は叱咤のように聞こえ、けれど微かに笑みを含んでいた。そう――“呆れ”ではない。“愛しむ”が勝っている。
彼は昔からそうだ。わたしの突拍子もない行動を見ては、苦笑まじりに「まったくしょうがない」と呆れ、けれど結局は助けてくれる。その在り方がどうしようもなく温かい。
その声の響きに甘えそうになりながら、わたしは自分の惨めさを痛感していた。
あれほど凄惨な演技で相手を震え上がらせておきながら、今ここでへたり込んでしまう自分の弱さ。せめてもう少し毅然としていたかった。けれど、身体も心も限界を越え、守りの壁を築く気力すら湧かない。
「でもな、おまえがここまで身を削ってやってくれたおかげで、誰も死なずに済んだ。伯爵も無事に救出できたし、他の仲間も大なり小なり怪我はあっても命を落とすことはなかった。おまえは立派にやり遂げたんだ。これは誇っていい」
喉の奥が乾き、返事の代わりに薄い呼気だけがこぼれた。
「……でもわたし、演技とはいえあんなひどいことを……一歩間違えれば、人を殺していたかもしれない……」
わたしの頬には、まだ涙の跡が残っている。
ヴィルはその頬に触れ、なぞるように拭ってくれる。指先がひやりとしているのか、それともわたしの顔が熱を持っているのか、境は判然としない。恥ずかしいけれど、その優しさに少しだけ身を預けるように、わたしは瞳を伏せた。
「そのために俺がいる。目の届く範囲なら、どうとでもなるさ。だから、俺から離れるなよ。いや、離すつもりはないがな……」
どこかおどけた口調なのに、有無を言わせない宣言で、胸が高鳴る。
むやみに“守る”と言い立てるのではなく、淡々と「俺の手の届く範疇にいろ」と告げる言い方。
このいつもの彼らしい不器用さに、安堵と照れが混じって顔が熱くなる。ふだんはもっとクールに振る舞うのに、心配が伝わってくると、素直に嬉しいのだと実感する。
「それとだな、文句を言うやつがいたら、俺がぶっ飛ばす。おまえが何を思い、何をしてきたか、俺が一番よく知ってる。おまえを否定するようなことは、この俺が絶対に許さん」
――ちょっと、大げさすぎない? さすがにそこまでしなくたって……。
心の中でそう呟くが、口には出さない。むしろその強引さが、わたしの気持ちをやわらかく解きほぐしてくれるから。
笑う気力はまだないけれど、わたしは精一杯の声で彼の名を呼ぶ。
「ヴィル……」
それだけで胸がぎゅっと縮む。
もしもっと強く声を出してしまったら、次の瞬間にまた涙が溢れそうで、必死に堪えている自分が分かる。夢のなかの茉凜のぬくもりと、いまヴィルがくれる安心。その二つが重なって、いまのわたしは確かに救われている。
こんなに弱く情けない自分を支えてくれる人がいる――その事実だけで、どうしようもなく涙が込み上げる。
「いいか、おまえ自身がどう思おうと、みんなが感謝している。クリスやマリア、みんな、おまえのことを案じてずっと看病していたんだぞ。おまえがちょっと寝言を言えば、『陛下がうなされてる』とか言って飛び出してきて、そりゃもう大わらわでな」
まつ毛の湿りに朝の白が触れ、ひやりと視界が澄む。
「……そう、だったの。それなら起こしてくれればよかったのに」
わたしは自嘲気味に笑いかける。けれどヴィルの真剣な眼差しは揺らがず、わたしの指を握り直す。
「馬鹿を言うな。宰相がボコタに到着するまであと三日以上はかかる。その前に、まずは休ませてやりたかった。おまえはここまで無茶をし過ぎた。正直、万全の状態に戻ってもらわなきゃ戦力不足でどうしようもない」
澄んだ声が耳を震わせる。
わたしの知らないところで、彼もまた神経を張り詰めていたのだと思うと、胸がきゅっと痛む。
ほかの仲間たちも同じだろう。死闘のあと、わたしのために手を割いてくれた。ひとりで全てを抱え込むつもりだった自分――なんてわがままで、なんて愚かだったのだろう。
「だめね……まだうまく、言葉が出てこない……」
わたしは自分の喉元に指をやり、そっと押さえてみた。
からからに乾いているうえ、寝汗のせいか粘りの感触さえある。いろんなものが絡まり、まともに声が出る状態ではない。ヴィルはそんなわたしを見つめ、口角をわずかに上げた。
「無理して喋らなくていい。いまは休め。俺がそばにいる」
その言葉に、わたしは視線を落とし、心から――そうしていいのだと思えた。
こんなに無様な姿をさらしているのに、彼は否定せずに受け止めてくれる。わたしにとっては有難くもあり、そしてほのかな罪悪感を伴う優しさだ。
自分ひとりでやろうとしていたことが、いかに無謀だったかをいまさら思い知る。けれど、もう遅いなんて言わずにいてくれる仲間がいる――それを実感するだけで、張り詰めていた心が少しずつ解けていく気がした。
しばらくして、ドアをノックする控えめな音が聞こえる。寝ているわたしを気遣う遠慮がにじむノックだ。わたしより先にヴィルが「入れ」と答え、扉がそっと開かれた。
「あ……よかった、目を覚ましていたんですね。少しだけ失礼します……」
入り口に立ったのはクリスだった。清潔感のある白いシャツの上にカーディガンを羽織り、手には小さな薬箱のようなものを抱えている。十分に眠れていなかったのか、彼女にもどこか疲れがにじんで見えた。
「熱は……もう下がっているみたいですね。とりあえず、薬とお水をお持ちしました」
わたしは黙って頷く。
正直、あまり動きたくはなかった。身体の各所がじんわり痛み、とにかく倦怠感が濃い。人はここまで疲弊すると何もできなくなるのかと驚きながらも、クリスが寄り添ってくれることに素直に安堵する。
彼女はふわりと笑みを浮かべ、テーブルに薬箱を置き、わたしの額に触れる。微熱を確かめ、また安心したように息をつく。その些細な仕草に、胸の奥がじんと温まった。
「今、マリアがスープを作っています。出来上がったらお持ちしますね。お口にできそうなら少しずつでも飲んでください」
「……ありがとう、クリス」
絞り出すように言ったお礼の言葉は、我ながら情けないほど小さかった。それでもクリスは「よかった」と頷き、わたしの手を軽くさする。「ほら、しっかり温まって」と言うみたいな仕草がありがたい。
「陛下、うなされてたようでしたので心配です。苦しくはないですか?」
額へ置かれた指先の温度が、胸のざわめきを一拍だけ落とす。
「……ううん。苦しいというか……ちょっと懐かしくて切ない夢だったの。大丈夫、今はもう平気よ……」
わたしは、夢の内容をすべて打ち明ける勇気はなかった。茉凜のこと、前世の面影、そして夢で聞こえた「見ているよ」という言葉。その一つひとつを説明するのは難しく、何より心がまだ整っていない。クリスはそれを察したように「そうですか」と微笑み、深くは踏み込まない。
「じゃあ、わたしはマリアを手伝ってきます。すぐ戻りますので、少しでも食べて元気になってください」
クリスがそう言い残して出ていくと、部屋はわずかな静けさを取り戻した。ヴィルとわたし、二人きりになる。わたしはまだ背中が枕に沈み、上体を起こしきれていない。
「ほら、身体を起こせるか? つらかったら俺にもたれていいぞ」
そう言いながら、ヴィルは背に手を回してくれた。普段のぶっきらぼうな印象とは異なり、細やかな気遣いが胸をくすぐる。
ふと視線を横に向け、彼の横顔を盗み見る。どこかきりりとして、瞳には柔らかな光が宿っている。
彼の腕に軽く体重を預け、ゆっくりと上半身を起こす。寝乱れた髪が視界をかすめて鬱陶しいので、手ぐしでまとめながらふっと息を吐いた。毛布の内側には暖気がこもり、外の空気はほんのり冷たい。
「……わたしは、少しは役に立てたのかな」
そう言った自分の声は、思いのほか震えていた。
自分の無力さや恐ろしさが、あの夜の恐怖と交錯する。誰も死ななかったと言っても、本当に自分がそうできたのか疑いたくなるほど、極限の場だった。結果的に成功したのは、もしかすると運や奇跡のせいかもしれない……そう考え始めると、胸が苦しくなるばかりだ。
「もちろんさ、おまえがいなかったら、もっと多くの血が流れてた。俺も含めて、誰もがそのことをわかってる」
ヴィルの言葉に、また涙が出そうになる。
実際、あの戦場を乗り切れたのは、わたしだけの力ではない。皆が助け合い、誰かの苦しみを誰かが支えて……そうやって馬車の逃走を防いでくれていたからこそ、最後の一押しでどうにかなったのだ。
その一押し――わたしが投入した“恐怖の演技”と“精霊魔術”がなければ、もっと被害が大きかったかもしれない――その事実がまたわたしを苦しめる。ほんの少し踏み誤れば、大勢を殺めていたかもしれないから。
「あの時、もしもわたしが、少しでも加減を間違えたら……本当に取り返しのつかないことになっていた。精霊魔術には高い精神集中が必要なのに、頭はぼんやりしてて、耳に届く音はがんがん響いてきて、思考すらまとまらない。同時に複数の場裏の位置を変えるのも、精霊子の微細な出力を制御するのもぎりぎりで、そんなわたしが人の命を左右しているなんて……怖くてたまらなかった」
溢れ出すように吐露した胸の内。本来、効率よく人を殺すための術を、殺さぬために制御するその難しさ。わずかな乱れで、目の前の誰かが倒れていたかもしれない……。
「知ってるさ。おまえは強い力を持つ分だけ苦しむ性質だ。殺したくないって気持ちが誰よりも強いから、余計に傷つくんだよな。それで限界まで追い詰められる。本当は一人で背負わなくてもいいのに……。だがあの場面では、そうするしかなかったのも事実だ」
彼の言葉は落ち着いていながら、どこか歯痒さを含む。もっと何かできたのではないか、と自分を責めているのかもしれない。
わたしは首を振った。そんなことはない。もしヴィルがいなければ、わたしはもっと早く自滅していた。彼の存在こそが、わたしを止めてくれた大きな要因だったのだ。
「わたしが、勝手に突っ走ったの。あなたを頼れば良かったのに、あなたを巻き込みたくなくて、肝心なところで突き放すような真似をした……」
そう思うと、申し訳なくて目を伏せる。夢のなかの茉凜が「ひとりで抱えないで」と言ってくれていたのに、わたしは結局、全部ひとりでやろうとした。
「それでも、俺はおまえを止められなかったし、おまえに賭けるしかなかった。……お互い様さ。だが、これからはできるだけ頼ってくれ。俺たちは聖剣で結ばれた精霊の巫女と騎士なんだ。ふたつでひとつ、そうだろう? それにクリスやレオン、それから……みんながいる」
ヴィルの言う“ふたつでひとつ”は、胸を温かく震わせる。
そう、彼はいつだってわたしと行動を共にしてくれた。わたしが倒れそうになれば、代わりに盾となり剣となる。どれほど無茶をしても、結果的には引き戻してくれる。そんなパートナーがいると実感すると、支えられるようにほっとする。
「……ありがとう」
それだけを言うと、彼は「おう」と照れくさそうに笑った。その笑みに、胸の奥もやわらかく解けていくのを感じる。
そのあと部屋には次々に仲間が顔を出し、マリアの作ったスープが運ばれてくる。まだ本格的に食欲はわかないが、胃にやさしい味わいが嬉しい。クリスやマリアは慣れた手つきで寝所の世話をし、レオンは少し照れくさそうに覗き込み、「早く元気になってくださいね」と言ってくれる。
みんなの視線にも声にも責める色はなく、むしろ「命がけで作った無血の結末」を受け取り、“もう独りで抱え込まないで”と伝えてくれている。
わたしは思わず涙がこぼれそうになる。ごめんなさいと言うより先に、「ありがとう」としか言えない。
「わたしって……本当に助けられてばかりね……」
小さく呟いた途端、マリアが「陛下、それはおかしいです!」と真顔で突っ込み、クリスが「こういうときこそ素直に甘えましょう」と微笑む。その様子に、思わず喉の奥で笑いがほどける。
ヴィルは「だいたいおまえは食が細いんだよ。もっとしっかり食って体力つけろ」と言いながら、髪を撫でてくれる。
その指先が心地よく、恥ずかしさは抑えきれないが、こんなふうに仲間に囲まれて甘やかされるのは悪くない。むしろ、ずっと欲していたものなのかもしれない。
ふと窓の外を見ると、灰色の雲のあいだから淡い光が射し、雪の景色を薄く照らしていた。夜が明け、冷たい世界に微かなぬくみが落ちている。
昨日まであの場所で人を殺しかねない演技をしていた自分を思うと、不思議なほど遠い出来事のように思える。
あれが夢ならどんなにいいだろうと思う反面、誰も死なせずに済んだのは現実だ。結果的に、奇跡的にも上手くいった。そしてそのおかげで今、こうして仲間たちと笑い合える。わたしが最後まで目指した“誰も死なずにすむ戦場”がここにある。
「みんな……ありがとう」
わたしが改めてそう呟くと、マリアが「陛下、そこまで感謝してくださるなら、もう少しご飯食べてください!」と冗談交じりに返してくれる。
周りからくすくすと笑いが起き、毛布の中で居心地よく身を丸める。この温かい空気に包まれていると、心底安心してしまう。夢の余韻はまだ少し胸に残り、茉凜の面影を思い出さずにはいられない。
「大丈夫だよ、あなたはもう一人じゃない」
あの海辺の公園で彼女が言ってくれた言葉が、頭の奥で鮮明に響く。この世界と地続きではなくても、わたしの想いは繋がっていると信じられる。いまはそう思えるだけで、いつのまにか胸の痛みがほどけていく気がする。
ヴィルの手が、肩越しに伸びてきた。静かに体温が伝わる。「おやすみ」と言うみたいにポンポンと叩いて、わたしを寝かしつける。この人は本当にぶっきらぼうなくせに、ときどきこういう仕草を見せるから、心は困るほど揺さぶられる。
「今日は、ゆっくり休んでいろ。伯爵の用件は、落ち着いてからでいいと伝えてある。今はあまり難しいことを考えるな」
その声は、雪のある朝の冷気のなかで、どこか低く艶やかにも聞こえた。わたしは曖昧に頷き、ふたたび毛布を引き上げる。
体の芯まで冷えている気もするし、表面は火照っているようにも感じる。けれど今のわたしは、よく眠れる自信があった。こんなに温かい人たちに守られているのだから。
夢の痕がわずかに胸を締めつける。けれど目を伏せれば、すぐにヴィルの匂いと仲間たちの気配が感じ取れる。
指先を探ってみれば、彼の手がまだそこにある。遠慮がちに少し絡めてみると、ヴィルは驚いたように眉をわずかに動かすが、邪険にはしない。むしろ、わたしの手を馴染ませるように優しく握ってくれる。
「おい、ほんとに休めよ、ミツル」
指先で彼の関節を探ると、穏やかな脈が指腹に触れた。
「わかったわ……ヴィル」
自分の声が驚くほど素直で、幼い響きさえ帯びている気がした。
けれどいまはそれがとても心地よく、嘘偽りのない気持ちをそのまま乗せられた。こんな当たり前の幸福が、わたしにはほとんど奇跡のようだ。
ゆっくり吸って、そして吐く。少しずつ呼吸が深まり、まぶたが重くなるのを感じる。
体力も気力も限界まで使っていたのだから、休めるときに休んでおかなくちゃいけない。心のどこかでそんな冷静な自分が声を上げる一方、もう一人の自分は「誰かの腕の中で眠れるなんて」と甘く思っている。
ほんの少しだけ、夢の中の茉凜に「ありがとう」と心の中で呟く。
もしまた彼女に会えるなら、少しだけでも強くなった姿を見せられるだろうか。
誰も殺させない、その理想を実行するために、わたしはこんなにも足掻いている。そして仲間たちやヴィルがいてくれれば、きっとまた乗り越えていける――そんな気がした。
そうして、意識は静かにまどろみに落ちていく。カーテンの向こうで風が吹き、雪雲が流れるのをわずかに感じる。
ときどき部屋の扉の外で誰かの声や足音がするけれど、わたしはそれを子守歌のように聞き流す。温かく、柔らかな空気のなか、再び寝息を立てはじめるわたしを見つめて、ヴィルがそっと息をついたのが分かった。
目は閉じているが、なんとなくそれを感じ取る。彼も疲れているはずなのに、そばにいてくれる。外套を脱いで椅子にかける音がして、毛布の端をそっと引き上げられる気配に、胸がじんと切なくなる。けれど、その切なさはどこか甘い。
「大丈夫……。わたしはもう、一人じゃない……」
微かに動かした唇から、その小さな声が零れ落ちた。
自分でもそれを確信しているのかはまだ分からないけれど、ヴィルやクリス、マリアたちの優しさが、夢の中の茉凜の「見ているよ」と重なって、どんな闇にも落ちない光を内側に灯してくれている。
深い闇も怖くない――そんな気持ちで眠れるなんて、ここしばらくはなかった。
最後に薄く微笑むような感覚があった。瞼の裏に、白い雪景色と差し込む朝の光が、かすかに揺れている。きらきらと結晶が舞うビジョンに混じって、茉凜の顔とヴィルの顔が交互に映り、それがやがて溶け合うように消えていく。
やわらかな朝の光と、仲間のぬくみに守られながら、今度こそ心の底から静かな眠りを味わえる――そんな気がして、わたしは微かな微笑みを浮かべたまま瞼を閉じた。
【リアクション】
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------------------------- エピソード426開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
深淵の傷を越えて――誰も死なせない、そのために
【本文】
夜明け前か、それともすでに朝なのか――わからない。
真冬の冴えが隙間風になって床を這い、毛布の縁から冷えが忍び込む。一軒家の空気は乾いて薄く、息を吸うたび舌裏がきしんだ。
ここはボコタの外れ、果樹園のはずれにある収穫期だけの小屋。今は葉の落ちた木々が雪を被り、町よりさらに冷えが強い。灯りを落とせば、人の気配は跡形もない。
高熱に沈み込んでいた頭が、底のほうからそっと浮く。額に触れる空気は軽く刺さり、喉が砂を含んだみたいにからついた。
暖炉はある。けれど燃料は乏しく、火は沈み、吐く息が白にほどける。底冷えが、骨の奥へと入っていく。
もう一度、毛布の襟を額まで引き上げる――その瞬間、外合いの金具が細く鳴る。続けて、押し殺した怒声が雪の面で砕け、こちらへ届いた。
こんな場所で、人の音。ここは人通りのない園地だからこそ、ダビドたちは隠れ家に選んだはずなのに。
胸骨の裏がざわ、と波立つ。水面から身体を引き上げるみたいに、意識が明るいほうへ寄った。
まぶたを開ける。視界の縁はまだ霞んでいる。寝台から出した指先はこわばり、わずかに震えた。カーテンの向こうに、雪明かりの薄白が滲んでいる。
鎖が擦れる微音。遠くで誰かが叫ぶ気配――音はどれも薄いのに、静けさに刺さる。
枕へ痛む頭を押しつけ、声を作る。部屋の隣に控えているはずのクリスを呼ばなければ。けれど喉はひりつき、吐息の欠片みたいな声しか出ない。
「……クリス……?」
乾いた息が胸を掠め、薄く咳が立った。
床板がひとつ、猫の足みたいにきしむ。ノックの気配もなく扉がわずかに開き、クリスが申し訳なさそうに顔をのぞかせた。
「陛下、お目覚めになりましたか? お加減はいかがです?」
白い吐息が彼女の唇の端に淡く浮かび、すぐに消えた。落ち着かないまなざし――外のほうへ引かれている。
「ねえ、外が騒がしいみたいだけど……何かあったの?」
喉の渇きが声を削り、言葉の途中で眉間に痛みが寄る。クリスは枕元を整え、濡れたタオルで額をそっと撫でた。布のひやりが皮膚に吸い付く。
「詳しいことはまだ……ですが、陛下はどうかお気になさらず。いまはゆっくり休んでください。きっと大したことじゃないですよ」
安心させようとするやわらかな調子――なのに、言葉の奥に焦りの縫い目が見える。
「そう……でも、やっぱり気になるわ。ごめん、クリス。外を見てきてくれない?」
彼女の睫毛がかすかに揺れ、躊躇の影が走る。短く息を整えて頷いた。
「かしこまりました。では、すぐ戻りますので、どうか動かないでくださいね。身体を起こすのはまだ危険ですので」
扉が閉じる瞬間、廊下の冷気が糸のように入り込み、果樹園の氷気が鼻を刺した。冬の園地は、ふだんなら音を吸い込むはず――なのに、外からは金属の触れ合う音、怒声の切れ端。鼓動がひとつ早まる。
枕に顔を埋めて音を遠ざけようとする。けれど耳はどうしても外へ向いた。刃鳴りがまた薄く通り、誰かの怒鳴り声が混じる。深呼吸を続けるほどに、眠気より不安が濃くなる。
――嫌な感じ……きっとただ事じゃない。
胸の奥に冷たい針が入る。どうしてわたしだけ、ここで寝ているのだろう。行かなければ――そう思っても、手足にはまだ力が入らない。毛布を抱えて、身を小さくするしかない。
「クリス……どうだった?」
蝶番が、乾いた金でひとつ鳴る。戻ってきた彼女の顔には、こわばりが残っていた。
「陛下、まことに申し上げにくいことですが……」
「気にしないで、何が起こっているのか教えて」
起き上がろうとした瞬間、視界が波打つ。枕を掴み、めまいをやり過ごす。彼女は小さく首を振って、言葉を選ぶように口を開いた。
「実は、ちょっと厄介なことになっています」
心臓が、変な音を立てた。外の騒ぎの輪郭が、急にはっきりする。
「厄介なこと……まさか宰相の私兵がまた何か?」
「はい。街の中心あたりで、宰相兵の残党と市民が衝突しかけているようなのです……。すでに小競り合いが始まっているらしく、このままでは暴動に発展しかねません」
身を乗り出した途端、視界がぐらりと揺れ、痛みが額の奥に鋭く刺さる。指がシーツをすべり、息が詰まった。
「宰相兵の、残党が……? 彼らはもともと傭兵くずれや冒険者風情の、いわば烏合の衆じゃないの」
「はい。だからこそ、統制を失った連中が自暴自棄になって略奪を始めているようなんです。おそらくですが、わたしたちが陽動で彼らの物資を燃やしたのも影響しているのかもしれません。それに、彼らは報酬の望みを絶たれた状態ですから余計に……。市民の方も、ずっと彼らに横暴を強いられてきた鬱憤が溜まっていて、ついには我慢できなくなった……。こうなってはもう、一触即発です」
「……行かなければ」
言葉が口の中で熱を帯びる。布団を押しやって上体を起こす――が、身体が追いつかない。クリスの手が肩を支え、毛布がずり落ちたところに冷気がさっと触れた。
「陛下、無理なさらないでください。せっかく熱が下がってきたところですのに!」
「でも……このままじゃ、どれだけ犠牲者が増えるか……。わたし、もう誰も失いたくないの」
声がかすれ、胸の内側が縮む。
「……わたしが、行かなければ」
「陛下、それこそ無茶です! どうか今はご自分の身の安全を優先してください――」
廊下の板がひとつ、低く鳴った。扉が開き、外気がひゅうと入る。
「まさかと思えばやっぱりか。おまえな、起き上がるにはまだ早いだろうが。いまは大人しくしていろ」
ヴィルの低い声。雪の匂いを連れて、部屋の温度が一瞬下がる。カーテンの布が小さく鳴り、床板が短く返事をした。
「ヴィル……」
睨もうとして、痛みがぶり返し、まぶたが落ちる。それでも、焦りは止められない。
「あなただって、今の状況がどれだけ切迫しているかわかるでしょ? いま動かないでどうするの? ひとたび衝突が本格化したら、取り返しのつかないことになる。
考えてみて。巻き込まれ一方的に蹂躙される側の人たちのことを。戦う意思も力もない人や子どもたちはどうすればいいの? そんなの……」
喉のひりつきが強くなり、言葉の端が途切れる。ヴィルは苦い目でこちらを見下ろし、ひとつ息を置いた。
「確かに放置すれば面倒なことになるだろう……。だが、お前がここで力尽き倒れたらどうなる? 宰相はもう、あと数日中にはこの街にやってくる。勝負はまだこれからなんだぞ?」
「それでも……わたしは目の前で傷つき苦しむ人たちを見過ごせない。やらなきゃ。もう逃げるわけにはいかないから……」
部屋の隅で火が小さくはぜる。マリアとダビドの足音が近づき、ためらいがちに「陛下」と呼ぶ声が重なった。わたしはベッドの端に手をつき、毛布の上で姿勢を正す。肘の奥で脈が少し速くなる。
「……わたしが国を統べる女王だというなら、そのわたしがここにいるというなら、どうしてここで指をくわえて見ていられるというの? わたしは行くわ」
ダビドは困ったように眉を寄せ、マリアは浅い嘆息を落とす。クリスはなお止めたそうに口を開きかけ――けれど、わたしの目を見て、唇を結んだ。
「……なんて頑固なんでしょうか、陛下は」
「ええ、そうよ。でもこれがわたしなの。ここで横になっているあいだに、また誰かが傷ついたり殺されたりしたら、わたしはわたしを許せない。“あの時こうしていれば”なんて、死ぬまで後悔することになる。
……そんなのもう嫌なの。わたしのせいで誰かが不幸になるなんてこと、もう見たくないの」
部屋の空気がしんと沈む。ヴィルは目を伏せ、短く息を吐いたのち、低く告げる。
「……いいだろう。だがな、ひとりで何とかしようなどと思い上がるなよ。俺も一緒に行く」
その声音はいつもどおりぶっきらぼうで、なのに柔らかい。胸の奥で固く結んでいた何かが、少しだけほどけた。
「ごめん。馬鹿だってことはわかってる」
「理屈じゃないさ、こういうのはな。それに、そう思えるおまえだから俺はついていきたいんだ」
火の色が小さく揺れ、冷えた空気がわずかに和らいだ気がした。
クリスは渋い顔のまま、わたしが立ち上がるのをさっと支えてくれる。体温が袖越しに移って、ふらつきが一瞬だけ止まった。
「なら、できるだけ万全の準備をして、最小限のリスクで動きましょう。無理をしないと約束してくださいね、陛下」
息の端に冷えが混じる。彼女の目はまっすぐで、揺れがない。
「ありがとう、クリス。そうね……みんなの助けが必要だわ」
言葉に出した途端、喉の渇きが少し和らいだ気がした。彼女の声には、誰も倒させないという固い意志が、静かな熱として残っている。
まだ熱は芯に潜んでいる。それでも、何もしないままの時間のほうが体力を奪う――そう思うと、足に微かな力が戻る。肩口に触れる手の感触が脊を支え、最初の一歩が床をとらえた。
窓の外は夜明け前の藍がほどけはじめ、積雪が淡く光を返している。遠くの怒号は薄くなったり強まったりを繰り返し、空気の端をささくれさせた。
みぞおちが跳ねる。握った拳に、爪の冷たさが食い込む。
冬枯れの果樹園は息を潜めている。春になれば白い花が並び、甘い匂いが実る場所――そこへ血の気配を入れるわけにはいかない。
その景色を胸の奥で確かめ、わたしは扉のほうへ向き直った。崩れそうな体を支える掌がいくつも重なり、重心がわずかに前へ移る。
取っ手へ伸ばした手が震える。けれど、意志だけは揺れない。ここで犠牲を出さないために、できることを――そう刻んで、冷たい金具に指を掛けた。
◇◇◇
ダビドの呼集で一室に全員が集まる。湿った木の匂い、油の灯のほの暗さ、寝藁に残る薬草の残り香――誰もが“ただ事ではない”と息をひそめている。
報告が始まる。ガイルズ、ディクソン、シモン、ブルーノの順に、街の混乱が地図の上で線を伸ばしていく。
最初に口火を切ったのはシモンだった。
「発端はどうやら、われわれが救出作戦の際に行った陽動作戦にあったようです。倉庫や兵器庫に火をかけたことで宰相兵は指揮系統を乱され、本隊との連絡もうまくいかず、それぞれが散り散りになった。その結果、作戦自体は成功しました。しかし、その頭である影の手が壊滅し、事実上の任務失敗、宰相兵たちは雇用主を失い、後金ももらえないまま放り出された。しかも“悪魔の魔術師が現れた”なんて噂まで広まり、まさに恐慌状態といったところです」
紙の端が指の腹にざらりと触れる。
「大半は持ち場を投げ出して逃げたようですが、街道封鎖の影響もあり、やけっぱちになって略奪を働きながら逃走経路を探す者が出てきた――そんな状態です。彼らにはもう帰る場所も保証もありませんから、好き勝手に暴れ回っているわけですよ」
ブルーノの声が低く落ちた。部屋の温度が一度、下へ沈む。
「そうなれば、さすがに市民の方も堪忍袋の緒が切れる。今こそ武器を取り、火の粉が降りかかる前に叩こう、そんな勢いになっているわけだな」
ダビドの苦い頷きに合わせ、誰かの革手袋が軋んだ。
わたしは椅子の背に手を置き、呼吸を整える。肋骨の内側で拍が速く、浅い。けれど、言わなければならない。
「皆さん……どうか、わたしのわがままを聞いてほしい」
木口の冷たさが掌に移る。女王でありながら頭を下げる角度――それがいま必要な形だと、体が先に理解していた。
「わたしはこの街を、もうこれ以上、混乱に巻き込みたくない。この事態は、もとはといえばリーディス王家の後継者問題が発端。女王であるわたしがここに来ている以上、責任を取らずに見過ごすことはできない」
言い切ったところで、喉の奥がきゅっと詰まる。強く見せたい理屈と、素手の願いが胸で重なって、言葉がいったんほどけた。
「……でも、どうしても――わたし一人じゃ無理なんです。申し訳ありません……どうか皆さんのお力を貸していただきたい」
声は自分でも驚くほど弱い。けれど、その弱さの中にしか本当の温度は置けない気がした。
疲労の色が浮かぶ顔ぶれが、一斉にわたしを見る。ため息と戸惑いが、布を擦る微音になって部屋を一周した。
「陛下、お役に立ちたい気持ちはもちろんあります。ですが、暴徒化した連中を本当に鎮圧できるのでしょうか?」
投げられた問いが、床に置いた長靴の先で止まる。
「われわれは陛下と殿下に選ばれた“銀翼”として、責任と自負を持ちます。しかしながら、こちらは総勢十八名。あまりに数が少ない。下手をすれば陛下の御身を危険に晒すことになりかねませんよ」
別の声が続く。吐息が白くなりかけて、すぐに消えた。
「たとえ陛下がご自身が声をかけたとして、暴徒化した者たちが素直に聞き入れるでしょうか?」
「それに、宰相兵たちが広めていた噂の影響も心配です。たとえ根も葉もない話だとしても、それを盾にむしろ反発されるのではないかと……」
窓際の光が埃を浮かせ、頬の産毛にわずかな冷えを置いた。正論は鋭い――でも、やめる理由にはならない。
「それでも、やらなくてはならないんです。わたしは女王である以前に、救世を成した“緑髪の精霊の巫女”と呼ばれていました。だったら、その偶像を利用してでも争いを止める……」
言葉の芯を固める。そこへ、隣から低い声が落ちた。
「なるほど、今度は悪魔の魔術師ではなく、精霊の巫女として姿を見せるわけか。……確かにあの“聖剣と巫女”の威光は絶大だろう。やってみる価値はある」
ヴィルの目が静かに合う。その一呼吸で、室内の視線が揃った。
「暴動の範囲、人数、騒乱状態。状況を考えれば、あの時のように“殺しの流儀”を見せつけて威圧するのは難しいでしょう……。だからこそ、単純な力に依らない別の手段が必要になる」
支配ではなく、説得と合意で鎮めたい。あの感触を、二度と手に戻したくない。
「そこで、わたしはレズンブール伯に協力を仰ごうと思います。……あの方なら、市民や宰相兵に通じる呼びかけができるかもしれない」
「は……?」
「あの伯爵を、ですか?」
部屋の温度が一段下がる。わたし自身の舌にも苦さが広がった――それでも、言うしかない。
「本気ですか、陛下? 元はといえば、彼が宰相に通じていたせいじゃないですか!」
「そうです。しつこくリュシアン殿擁立を働きかけ、男爵家を占拠してまで従わせようとしている」
「奴は売国奴に等しい。隣国アルバートとの闇取引で巨万の富を築き、貴族院で影響力を高めようとしていた男だ」
次々と並ぶ不信に、背筋をたて直す。足裏に重みを落としてから答えた。
「たしかに、伯爵こそがこの陰謀の発端でしょう。だからこそ、彼が表に立って呼びかければ、宰相兵にも話を通す可能性があるのでは、と思うのです」
「陛下は、伯爵をお赦しになるというのですか?」
「これは“許す許さない”の話ではありません。いまはとにかく混乱を鎮めたいんです。それが叶うなら、敵味方などと言ってる余裕はないでしょう?」
沈黙が落ちる。曇天の白が床に薄い帯を描き、緊張が皮膚の裏を冷やした。
「しかし、伯爵が素直に陛下のお気持ちを受け入れるかどうか……」
重い現実が、言葉の芯を計る。わたしは胸に手を置き、拍の強さを一度確認してから、真正面に置いた。
「そうね。でも、もはや綺麗事は言っていられない。わたしはどんな手を使ってでも敵である伯爵を利用する。悪だろうが正義だろうがすべて飲み込んでね。それがわたしの覚悟よ」
自分の声が震えていない。意外さが、逆に背を押した。
やらずに後悔するより、やって悔やむほうがまだいい。視線を巡らせると、戸惑いは残りつつも、「ここで動くしかない」という色が、いくつもの瞳に灯りはじめていた。
疲労と矛盾に満ちた現実――それでも、頼みたい。言葉にしないまま、目で伝える。
短い沈黙ののち、ダビド、クリス、マリアが順に頷いた。じわりと胸が温かくなる。
「いいだろう。そこまでやるっていうなら、とことん付き合ってやるさ。まあ、腕白な女王の無茶に振り回されるのは慣れっこだ」
ヴィルの苦笑に、張りつめた空気がわずかに緩む。茶化しの奥の、受け止める覚悟が見える。唇の端が、かすかに震えた。
脆い足元でも、支えてくれる手がある。それだけで、背筋はまっすぐになる。
険しい道だとわかっている。それでも、この街を守るために――“利害”を超えた決断を選ぶ。
仲間たちの正面に立つ。視線が真っ直ぐ戻ってくる。その重みが、胸の奥に小さな勇気を置いた。深く息を吐き、肩の震えをおさめる。
「……伯爵にお会いします」
窓辺の白が冷たく揺れ、指先だけが微かに震えた。
静けさを割るように言い終えると、ダビドがわずかに目を見開き、すぐ落ち着いた声に戻す。
「承知しました。すぐにご案内します。ただし、事前にわれわれからもお願いがあります。陛下にはなるべく危険な場所は避けていただくこと。無理だけはなさらないこと――これだけは遵守してください」
灯がわずかに鳴る。約束の重さが舌に残った。
「……わかったわ。約束する」
立ち上がろうとした瞬間、膝に力が入らず、前へ傾く。無言の腕がすっと支えて、倒れ込みを止めた。ヴィルの手だ。
頭痛はまだ奥で燻っている。熱も残る。それでも、ここで止まるわけにはいかない。意志は、体より先に立たせてくれる。
「陛下、殿下。すぐに伯爵の元へご案内いたしますので、少々お待ちください」
ダビドが指示を飛ばす。廊下が小刻みにきしみ、外へ走る足音が数を増した。シモンとブルーノは別働、レオンとクリス、マリアが先導。ガイルズとディクソンは武器の点検に入る。金具の乾いた音が、次の段取りを叩く。
視線の端、シーツの皺がまだ温い。さっきまで伏していた場所が信じられないほど、頭が冴えている――状況の切迫が、意識を表面へ押し上げている。
――もう躊躇している余裕なんてない。
ヴィルが軽く肩を叩き、扉を押し開ける。冬の外気が容赦なく流れ込み、焦げの残り香と人声の層、重い足音が混ざった空気が頬を刺した。
「行くか、ミツル」
「ええ、行きましょう」
言い終えると同時に、奥歯をそっと噛む。腕の支えに重心を預け、震える足先へ力を集める。
向かうのは伯爵のもと。何が待つかはわからない。けれど、前へ――それだけは、選べる。雪の光が床を薄く照らすなか、わたしは一歩、外へ踏み出した。
【リアクション】
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------------------------- エピソード427開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
偽りの鎧を脱ぎ捨てて――黒髪の女王の決断
【本文】
わたしは、痺れるほど冷えた指先にぬるい吐息をかけながら、目の前の重みのある木の扉をじっと見つめていた。風の兆しが肌をかすめるたび、外の氷気を思い描いては、胸骨の裏がきゅっと縮む。
いつからこんなにも寒さに神経が尖るようになったのだろう。
――いいえ、本当に冷たいのは空気だけじゃない。
街を覆う混乱が、心の上にも薄い氷膜を張り巡らせているのかもしれない。
視線の先に立つのは、ヴィル・ブルフォード。ミツルの父ユベル・グロンダイルの古き盟友、齢四十四の壮年の剣士だ。いま彼は、リーディスの王配であり最強の騎士と謳われる“ヴォルフ殿下”の肉体を一時的に借り受けている。
見かけの年齢差はほとんど消えたはずなのに、意識は互いに過去のまま――魂だけが時間を遡って肉体と食い違う、この奇妙な齟齬。
メービスの容姿は十八歳の線へすっと伸びたミツルそのまま。頬の陰影、まつげの長さ、骨ばりすぎない鎖骨の出方まで、設計図の記憶が体温を得たみたいに在る。
それでも、ヴィルの内側に焼き付いているのは十二歳の「親友の娘」だ。どれほど大人の輪郭をまとっても、彼の瞳にはかすかな幼さが残像のように重なる――肩を並べても靴音の間に薄い空隙が生じ、指先が触れる直前の冷たさだけが確かに残る距離。
深く息をつき、心を決める。
ヴィルが取っ手を静かに回す。扉がわずかに引かれた瞬間、刺すような外気が肺の奥まで一気に入り込んだ。
まるで肺に氷を詰め込まれたような衝撃。咳を飲み込み、唇を結んだまま外をうかがう。弱音をこぼせば、そのまま心が砕ける気がした――ここで立ち止まるわけにはいかない。
革手袋に移った油の匂いがほのかに立ち、白い息が薄く解ける。
「寒くないか?」
白が二人の間でほどけ、痺れた指先にじんと血が戻る。
「ええ、平気よ」
言い切ると、わずかな笑みを縫うように彼の手へ重ねる。ヴィルは心配を拭うように眉を下げ、静かに頷いた。
吐いた白がゆらりと漂い、胸の底に沈んでいた不安まで揺らした。鋭い冷気が鼻先を刺し、雪の匂いがわずかに混じる――美しさと危うさが同居する匂いが、緊張に拍を加える。
横手では、打ち合わせを終えたダビドとマリアが視線だけで合図を送る。
足もとの雪が細く鳴り、吐息が三人の間に薄い白を浮かせた。
「陛下、伯爵は裏手にある小さな離れにおられます」
ひと呼吸ぶん風向きが変わり、煤の匂いが薄く鼻を掠める。
「そう……」
頬に当たる風がわずかに向きを変え、髪の先が首筋をくすぐった。
「ですが、今も頑として口を開かず、『王都へ連れていけ。陛下との謁見が叶わぬ限り、何も話すつもりはない』と繰り返すばかりでして……」
報告の端で、胸の奥の板がぎしりと軋む。
伯爵がそこまで“メービス”との面会に固執する理由は――想像を重ねるほど、薄暗い不安がせり上がり、喉がきゅっと細くなった。
レズンブール伯爵は、いまは亡きメービスの兄ギルクの旧友を名乗る人物。彼の遺志を盾に、わたしがモンヴェール男爵家を訪ねる前からリュシアンを取り込もうと画策し、宰相とも手を組んで陰謀を進めていた。
だからこそ、宰相の動きを阻み、ロゼリーヌとリュシアンを救い出すためにも、まず伯爵と直接対話を。得る情報は切り札になりうるが、その刃がどちらへ向くかはまだ読めない。
問題は、伯爵が“本物のメービス”と面識を持つかどうか。もし知っているのなら、わたしが“メービス”としての記憶を持たないことなど一瞬で見抜かれる――事態はさらに深い混沌へ。舌裏が乾き、唾を飲み込む音が小さく鳴った。
それでも、先にやるべきことは一つ。伯爵の協力を取り付け、この街の騒乱を鎮める。躊躇の余裕はない。
乾いた唇を噛み、かすかに頷く。
「わかったわ。ダビド、案内をお願い」
吐いた息が白く薄まり、言葉の尾に絡みつく。
ダビドは厳かな面持ちで視線を伏せた。
「かしこまりました、陛下。伯爵は離れの地下室におります」
背から沁みこむ冷気を意識しつつ歩き出す。ヴィルがさりげなく肘を支え、そのやさしさに胸が少し苦しくなった。
――“女王メービス”を装ってはいるけれど、実のところ頼りない。ヴィルがいなければ、とっくに折れていた。
隠れ家の裏手に回ると、風に軋む板壁の小屋がひっそりと建っている。薄く積もる雪が足もとで心細い悲鳴みたいにきしみ、鼓動がそれに合わせて早まった。
小屋の奥は埃と蜘蛛の巣が薄く絡み、床板を一枚はがすと、重い空気を孕んだ石造りの階段が口を開ける。ランタンの灯りが不安定に揺れ、暗がりの先を掠めた。
厄介な行く末を暗示するみたいだ。ヴィルの小さな頷きに背を押され、一歩、また一歩と降りていく。
肌に刺す冷たさ。石壁の隙間から上がる湿り気が頬を撫で、吐く息が白い糸を引くたび、不安が細く増える。
階段を下り切ると、扉の前に警護役がひとり。整った姿勢で短く敬礼し、声を落とした。
湿った石の匂いが濃く、靴底が砂をわずかに噛む。
「伯爵はほとんど食事も摂られず、ろくに休息も取られていない様子です」
「廃屋敷に監禁されていたと聞いたけど、そんなに扱いが酷かったの?」
警護の呼気に、焦げの匂いが混じっていた。
「いいえ。むしろ“軟禁”に近かったと推測しております。宰相の兵たちは、伯爵を“大切な客人”と呼び、豪勢な食材や贅沢品を街から集めては、例の廃屋敷に運び込んでいたそうですね。ただ、見た限り、かなり痩せておられますね」
「伯爵は……それらを受け取ることを拒絶していた」
指先の冷えが、真鍮の縁でちくりと訴える。
「だとすれば、簡単には靡かない、屈しない男ということだ」
ヴィルの低い独白に、わたしは小さくうなずく。
宰相の裏切りを、彼はどう受け止めたのか。自分の価値が何に使われるかを理解しているからこそ、反旗を翻しつつも、なおわたしとの面会を強く望むのだろう。
「とにかく話さなくちゃわからないことが山ほどあるわ。伯爵から引き出せる情報こそ、陰謀を阻止する要になり得るはず。……それに、この街で起きた騒乱を鎮めるためには、どうしても彼の協力が欠かせない」
ランタンの芯が小さく弾け、光が壁に細い波紋を投げた。
「どうするつもりかはわからんが、こういった交渉事はおまえが適任だろう。俺はおまえの望むこと、そして導き出す道を尊重する」
「ありがとう、ヴィル……」
真鍮のノブに指を延ばす。触れた瞬間、鋭い冷えが掌を刺し、皮膚が先に厳しさを理解した。
ぎこちない呼吸を整え、一度まぶたを閉じる。息を吐き切り、意を決して扉を押し開いた。
伯爵はわたしを“女王メービス”と認めるのか――それとも“記憶の齟齬”を見抜き、事態をさらに深い混沌へ突き落とすのか。湧き上がる不安はそのまま抱え、歩みだけは止めない。冷気に晒された指先は強張り、まるで剣を握る時のように微かに震えたが、その震えがむしろ覚悟を奮い立たせた。
◇◇◇
地下室の扉が開くと同時に、容赦ない冷気が肌を刺した。石壁に染みた湿りが喉に絡み、浅く息を吸う。ランタンの灯りに浮かんだのは、レズンブール伯爵――粗末な椅子に腰掛けても、優雅な身なりと矜持が軟禁を思わせない気品を纏わせている。四十代半ば、無駄のない細身。金の髪は驚くほど整えられていた。
靴音を一歩、石が冷たく受ける。
「……誰……か?」
芯が小さく鳴り、沈黙の膜が一枚はがれる。
「初めてお目にかかります。わたくしはメービスです。こんな形で面会せざるを得なかったこと……お許しください」
伯爵は鼻を鳴らすように、薄い笑みを浮かべる。
「ほう……あなたのような可憐で愛らしい少女が、女王ですか? 何の冗談ですかな。第一、その髪の色、わたしの知る限り女王陛下メービスは、独特の緑色の髪をしていたはず。しかもこの深い雪のなかを、王都からわざわざこんな僻地へお越しくださるなど……正気の沙汰とは思えません」
皮肉の棘がまっすぐ刺さる。目を逸らさない。
胸の早鐘を鎮めるように、指が留め具を探った。
金具が外れる細い音が、狭い室内で大きく響く。外用のウィッグがするりと落ち、留め具のネットを外すと――隠していた若緑の髪がふわりと広がった。
薄灯りでも、艶がかすかに返る。閉じ込めた精霊が息を吸い直すみたいに。
口元が震え、胸がひりつく。“偽り”が一枚はがれ、“真実”が表へ出る。どこへ導くのかはわからない――それでも、後戻りはしない。
首筋に触れた冷えが、汗を細くひかせた。
「わたくしは女王となる以前、魔族大戦の頃『緑髪の精霊の巫女』と呼ばれていました」
伯爵の表情が止まる。驚愕と困惑が重なり、言葉より速く感情の奔流が瞳に走った。
ややして視線を伏せ、低い声が落ちる。
「なるほど、その緑髪、そして透き通る泉を覗くかのような瞳。たしかに女王として即位した精霊の巫女メービスかもしれません。しかし、その存在自体が民衆を欺くために作られた“偽りの象徴”ではないのですかな?」
挑発に、鋭い探求心が覗く。
「レズンブール伯、失礼にも程がある。女王陛下を愚弄するおつもりか?」
石の冷えが足裏に貼り付き、靴底がきしりと抗う。
伯爵は意に介さず、嘲笑まじりに続けた。
「あなたは王家にとって忌まわしき出自をお持ちなのでは? たとえばこんな真実――黒髪の巫女としての正体を隠すため、こうして巧妙に仕組まれた道化を演じてきたのかもしれない」
空気が一瞬吸い込まれ、冷えが室内を締めつける。
「何を言っているの」
マリアの吐息が細く尖った。
わたしは疑念を正面から浴び止め、申し訳なさそうに微笑む。
掌に汗が滲み、金具が少し滑った。
「ごめんね、ダビド、マリア……これを見ればわかるわ」
肩まで覆う若緑のウィッグへ手を伸ばす――ひとつの“鎧”を外すみたいに。
遠巻きのヴィルが「本当にいいのか?」と視線だけで問う。わたしはわずかにためらい、やわらかく笑みで返した。
大丈夫。仮初めを演じ続けるわけにはいかない。たとえ疑念の種を増やすとしても、“真実”は隠せないのだから。
「これは、わたくしを外の世界へ送り出すための“偽りの鎧”。先王であるお父上が、聖剣探索の折、特別に準備し与えてくださったものです」
かちり――緩んだ小さな音が、沈黙の地下室にくっきりと広がる。次の瞬間、長く緑に輝いていた髪が床へ滑り落ちた。
露わになったのは、少年のように短く刈り込んだ漆黒――わたしの地毛。
空気がぴんと張り詰め、伯爵の息を呑む気配が伝わった。ダビドもマリアも、そしてヴィルも、驚きを隠せない。
「陛下が、黒髪だと……」
「そんな、うそ……」
刈り痕に当たる冷えが、頭皮を細く刺す。
「メービス。どうしてそんな、髪を切るなんて真似を……」
黒が灯を弾き、短い影が襟へ落ちる。
「“茉凜”の姿を真似るなら、どうしてもウィッグは必要でしょう? それと二重にかぶることを考慮すると、ボリューム的にどうしたって無理がある。だから、こうしたの」
「だからって、おまえ……」
渋い声音の余熱が空気に揺れ、胸の内でそっと嘆息する。――やっぱり、怒っている。
視線を落とせば、王宮を出立する直前の光景がまぶたに甦る。長い黒髪が床へ落ちたとき、何かが確かに削ぎ落ちた。それでも、あれが前へ進む唯一の手だったのだ――いまは、そう言い聞かせるしかない。
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------------------------- エピソード428開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
俯かぬ刃、黒髪の誓い
【本文】
それは、宰相を出し抜きボコタの街へ先行する“重種馬乗り継ぎ計画”が本格始動する前の、ほんのわずかな隙間の時間だった。
仮住まいの寝所は急ごしらえで狭く、小さな個室とクローゼットがあるだけ。それでも女王と王配がこの計画を動かすには、必要最低限の囲いになっている。壁の石は昼の冷えをまだ抱き、魔道ランプの灯が淡くにじんだ。
その一角で、わたしはそっと旅装束に着替える。
かつてメービスが魔族大戦で用いたという使い古しの革鎧を持ち上げ、丁寧に身へ沿わせる。擦れた革の匂いと縫い目の硬さが皮膚に触れ、古びているはずなのに妙に身体へ馴染む。指先に汗がにじみ、留め金がかちりと小さく鳴った。
――ここで、ひとつの決意に手が届いてしまった。
蝋の匂いが細く揺れ、喉の奥がひりりと締まる。
「ごめんね、メービス……」
囁きは宙でほどけ、誰に向けた言葉か自分でも定められない。女王“メービス”へか、いまここにいる“わたし”へか。曖昧なまま、しんとした部屋の空気に溶け、吐息に揺れた蝋の匂いがまた薄く戻る。
どれほど痛ましく、どれほど恐ろしいことを自分に課すのか――いちばんよく知っているのは自分だ。それでも止まれない。胸の奥でじりじり燃える切迫が、ためらいを容赦なく追い立てる。
刃先が黒髪をばさりと落とすたび、“わたし”が一枚ずつ剥がれていく錯覚。歯を食いしばって震える手を押さえても、視界の端で散らばる髪の重みが心を痛めつける。石畳の冷たさが足裏からじわりと這い上がり、鏡の縁で涙が一滴だけこぼれ、刃の光をわずかに歪ませた。
ここには“女王としての偽り”と“ただの少女でいたいわたし”が同居している。どちらかを差し出さなければ前へ進めない――そのたび、胸がきしむ。
――それでも、やらなければ。そうしないと、前へ進めない。
どこから湧くのか分からない意志が、ぎりぎりのところで身体を立て直す。失うほどに、痛みに耐える余白は削れていく。
それでも未来を信じたい。わずかな光を掴むために。重ね着の裾をぎゅっと握る指先は、涙を拭うたびに冷え、呼吸は浅く跳ねた。
「こんな姿、ヴィルに見られたら、きっと叱られちゃうだろうね……」
切り口に触れた毛先が頬を掠め、ひやりと貼りつく。独り言は人気のない部屋へあっけなく吸い込まれ、天井の暗がりに消えた。
頼れば頼るほど輪郭を増す孤独がこわい。少しでも甘えれば、この苦しみを彼に背負わせてしまう――だから折れない。指先の白みは、なかなか戻らない。
無慈悲な道。喉の奥が細く締まり、感情を飲み込んで一歩を出す。
それでもなお、歩くのはわたし以外にいない――そう言い聞かせ、ハサミを握り締めた。
最後の束が床へ落ち、鏡に映るのは少年のように短く刈り揃えた漆黒のわたし。首筋に当たる空気が急に軽くなる。もう、“メービス”でも“ミツル”でもない何かへ変わってしまったような気配が胸をかすめた。
それでも、震える足取りで立ち上がり、部屋を出る瞬間……胸の底に微かな希望が灯っていると、信じたかった。
この痛みの先でわたしを導くのは、ほかならぬ“光を求めるわたしの意志”なのだから。
◇◇◇
地下の湿りが肺に重く溜まり、指先の痺れがわずかに強まる。石壁の冷えが袖口に入り、吐く息が白くほどけた。
「おまえは、どこまで自分を傷つけ、追い込むつもりなんだ……」
押し殺した低いヴィルの声が、薄闇の空気を震わせる。握った拳はわずかに震え、いつも穏やかな瞳に痛ましい怒りが宿った。その姿に胸が強く締め付けられ、掌に汗がにじむ。
舌裏に鉄の味がうっすら戻り、呼吸が浅く乱れる。
「ごめんね、ヴォルフ。わたし、どうしても……強くなりたかったの。茉凜のように俯かず前を向く強さが欲しかった……そう思ったら、もう止められなかった。馬鹿なことをしたってことは、わかってる」
言葉を置くごとに喉が熱を帯び、涙は堰を切りそうなのに、ここでは泣けない。選んだ重みを彼に押しつけたくない――舌裏に薄い鉄の味がにじむ。
茉凜みたいに強くありたいと願うほど、わたしは追い詰められる。泣けないのに胸は裂けそうだ。けれど、その苦しさが“最後の火種”として一歩を押す。
この道は無慈悲。痛みは隠しようがない。それでも――お願い、茉凜。力を貸して。胸郭が小さく上下し、呼吸が浅く跳ねる。
歯を食いしばり、視線を上げる。彼からほんの少し離れた。いま甘えれば、もう自分の足で立てなくなる気がした。
本当はこの重荷を誰かと分け合いたい。けれど求めているのは“安らぎ”ではなく“強さ”。最後に残った孤独さえ抱きしめ、前へ進まなければならない。
茉凜が教えてくれた“俯かない強さ”だけが、胸の奥でまだかすかに灯っている。
ヴィルは苛立ちを押し殺すように唇を歪め、言い返さずに顔をそらした。舌打ちが小さく響き、石の冷えが肩へ這い上がる。背中に細い震えが走った。
無茶が彼をどれほど苦しめるかを思えば、自己嫌悪の渦に呑まれそうだ。指の冷えが肩へ伝い、身震いが走る。
それでも立ち止まれない。わたしは涙をこらえ、浅い呼吸で気持ちを整え、伯爵へ向き直る。
肌を刺す冷気。弱いランタンの灯だけが揺れ、壁の影を踊らせる。石畳の湿りが靴底へまとわりつく。
背からのヴィルの視線は鋭い――それでも前を見る。傷つくことを恐れていては辿り着けない場所がある。
炎が細り、影が壁で小さく身じろいだ。
「……それが、あなたの真の姿、というわけですか」
伯爵は椅子を立たず、微かな衝撃に押しとどめられたように、かすれた息を落とす。礼儀を重んじる貴族がこれほど無作法を見せるのは珍しい。いま目の前の光景が彼の常識を揺らしているのだ。灯が瞳に小さくにじむ。
一同は息を呑み、ダビドとマリアは言葉を失い、ヴィルは黙したまま瞼を伏せる。地下室だけが世界から切り離されたように静かだ。血の匂いはなく、冷えた石の匂いだけが残る。
それでも退けない。黒髪はこの国の歴史で“不吉の徴”。王家に災厄を呼ぶと語られてきた。
いまのわたしは“緑髪の巫女の威厳”と“黒髪の禁忌”を抱えたまま進む義務がある。ここで伯爵を欺けば、王都はいっそうの混乱へ転げ落ちる――それだけは、何より恐れる未来。黒髪を隠し続けるわけにはいかない。どうしても彼の力が要る。乾いた喉に舌を走らせ、唇を湿らせた。
「リーディスの女王を名乗る者が、まさか黒髪だったとは……。はは、宰相が漏らしていた愚痴が、まさか真実だったとは。民衆を欺いているのは、あなた自身ではないのですか?」
憎しみとも落胆ともつかない色が、声に混じった。
石畳に一歩。小さな足音が張り詰めた空気を震わせ、胸へ重さを落とす。
「ええ、あなたのおっしゃる通りです。わたくしはこの黒髪を隠しながら、ずっと嘘を重ねてきました。でもそれは、民衆を欺くためではない。守るためなのです。……魔族大戦のとき、わたくしには戦う力がありました。それこそが与えられた責務だったから。そして、逃げられるはずがないのは今も同じ――」
静かな言葉に、伯爵の眉がわずかに動く。変化は微細でも、たしかに見えた。いま、何かが揺れている。
伯爵はまぶたを伏せ、測るような沈黙ののち、ゆっくりと見据えてくる。鋭い警戒と、底知れない探求心がせめぎ合い、ランタンの揺らぎが瞳に小さく跳ねた。
「あなたはかつて英雄的な活躍をされた。だが、失われた命は数知れず、国土は荒廃し尽くした」
一語ずつ、重たい足音のように降りる。胸がきつく締まる。
「ええ……おっしゃる通り、わたくしは守るべきものを守り通せなかった」
自分の声と思えぬほど喉が熱い。それでも、彼は容赦なく問う。
「黒髪の巫女が生まれるから災厄が招かれる――それが古くからの言い伝えでしたね。いくら救世を成した英雄だろうと、そんな存在が女王の座に就くなど、言語道断。貴族ばかりではなく、民衆も承服しかねるでしょうな。それで本当に国を護れるというのですか?」
胸を真っ直ぐ貫く問い。けれど、もうためらわない。
ゆっくり息を吐き、伯爵の瞳を見据える。
「それが誤解の積み重ねだといくら説明しても、一度染み付いた因習は、そう簡単には覆せません」
地下室の空気がどくりと揺れ、緊張が一瞬強まる。それでも声は震えない。静かに、まっすぐ届いていく。
黒髪の宿命がいかに忌まれようと――それが課された“責務”なら、迷っても、わたしは逃げない。
◇◇◇
時代の流れのなかで、リーディス王家には周期的に黒髪と緑の瞳を持つ姫が生まれる――ただそれだけで“不吉の象徴”と見なされた。
伝承は言う。「予言を受ける巫女は国を救う者」。しかし実際の彼女たちは“災厄の時期や被害”を正確に告げるばかりで、解決策を示せない。だから「巫女こそが災いの元凶では」と疑念が広がる。見事に的中する予言が、“確定させる者”という誤解を生み、恐れは迷信と結びついた。
同じ容貌が繰り返される事実も拍車をかける。黒髪と緑の瞳――複写のような姫の姿は、人々の無根拠な怖れを強めた。やがて彼女たちは、王家の決定で白銀の塔へ幽閉される。守るための隔離が、救えない孤独を深くした。
それでもメービスは胸の奥で祈り続けただろう。いつか自分の力が“不吉”ではなく“希望”を運ぶ術になるように。誠実に受け止め、厄災を回避する道を探す仲間が現れるように。
やがて彼女のもとへ届いた啓示――“聖剣マウザーグレイルを探し出せ”。黒髪の宿命を打ち破る鍵は、その剣にあるかもしれない。人々の恐れを覆す具体が、刃の奥に眠っているかもしれない。
だからメービスは踏み出した。わずかな勇気を支えに、塔の外へ。最強の騎士ヴォルフを伴って。幾人が“厄災の象徴”と呼んだ力も、やがて国を救う希望に変わる――そう信じて。
後の時代には、黒髪の巫女は“忌むべき存在”とされても、少なくとも幽閉まではされなくなった。わたしの母“メイレア”は疎まれながらも離宮での暮らしを許され、メービスの髪色を模したウィッグで王都を冒険して回っていたという。メービスがいたからこそ、黒髪の烙印に、ほんのわずかでも外へ開かれた道が生まれたのだ。
◇◇◇
石畳の目地が足裏に確かで、胸の拍が一拍遅れて返る。
「どう思われようとも、わたくしの意志は揺るぎませんし、それが罪であるというなら……たとえ地獄の業火に焼かれようとも構わないと、覚悟は決めています。……だからこそ、あなたに会うためにここへ来ました」
押さえた声は、それでも冷気にかすかに震えた。石造りの壁に淡い灯が揺れ、吐息さえ白く滲む。わずかな乱れが強調されるほど、この地下は冷たい。
伯爵の瞳から視線を外さない。
「護衛もつけず、ヴォルフ殿下とたった二人、この雪深い道を越えて……大した覚悟ですな。だが、あなたが黒髪である以上、万が一それが民衆に露見したら、王家の信用と権威が失墜しかねない。宰相はそれを最も恐れていた。だからこそ、私の策を受け入れた……いや、正確には私が宰相に利用されただけだったのかもしれない」
低い声ににじむ苦々しさは、長く沈んだ諦観の色。言葉の重みが胸に落ち、乾いた唇を噛む。
「宰相の危惧はもっともでしょう。ですが、彼はリュシアン殿を次期王太子として擁立することだけが目的ではない。幼い彼を王座につければ、摂政として実権を握ることができる――それが彼の狙いでしょう」
伯爵の表情がわずかに揺れた。どう受け止めるべきか迷う僅かな気配。空気がまた張りつめる。
「……そんなところでしょうな。だが、宰相は先の王にも厚く信頼され、長く国政を担ってきた人物。その彼が摂政につき国を動かすのであれば、危うい黒髪の巫女が王座につくよりは、よほどましだと世間は思うでしょうな」
硬い刃のような声が胸を刺す。常識として、たしかに正しい。
けれど――宰相の思惑どおりに進んで、国は救われるのか。心臓が一拍遅れて指先へ響く。
権力が宰相へ集中すれば、人々はさらに深い渦へ沈むかもしれない。王家の者として、それは見過ごせない。
「……それでも、わたくしは王家の名のもと、民を護りたいのです。わたくしには宰相のように、目的のために人の心を踏みにじるやり方が正しいとは思えない。何よりリュシアン殿の意思が尊重されていない。限りない夢を抱いているまだ十歳の子供をただ権力のための傀儡にしてもよいというのですか?」
大きくはないが、言葉が空気を震わせた。冷気が肺の底まで入り、胸がきゅっと痛い。
伯爵は答えない。眉間の皺が深くなる。地方で慕われる慈悲深い領主でありながら、宰相と通じる裏の顔――二面性が王都の争いをさらに複雑にするのだろう。
こみ上げる熱を喉の奥で押さえ、なるべく穏やかに、けれどはっきりと告げる。
「民に恐れられるかもしれない、嫌われるかもしれない。でも、わたくしにはやらなければならないことがあります。
そこで、レズンブール伯爵……どうかあなたの力を、わたくしにお貸し願いたい」
言い切った瞬間、伯爵の口元にごく薄い嘲笑が浮かんだ――ようにも見えた。けれど、その奥で迷いが揺れたのを、わたしは見逃さない。
地下室の空気はさらに重く、ランタンの芯がわずかに鳴る。その小さな揺らぎは、踏みとどまる余地がどこかにないか探るようでもあった。
張り詰めた闇のなか、わたしはただ次の言葉を待つ。かすかな吐息まで響くこの静寂が、これからの未来を試す冷たい審判のように思えても、逃げることはできない。どの道を選んでも、進むしかない――メービスの名を背負って。
【リアクション】
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------------------------- エピソード429開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
静かなる闇に交わる視線―女王と伯爵、すれ違う意志
【本文】
わずかな吐息さえ白くほどけるほどに、静けさが地下室の隅々まで満ちていた。
時が止まったみたいな冷えが張り詰め、灯芯がゆらめくたび、壁の影絵が細く震える。石は音を飲み込み、湿った石灰の匂いが鼻の奥に薄く残った。
伯爵は目を伏せ、闇の底を覗くように微動だにしない。わたしの言葉を受け止めているのか、それとも素通りさせているのか――体温の抜けた抜け殻にも見える。
やがて沈黙を破ったのは、伯爵自身の乾いた声だった。
「宰相の思惑を阻止しようという動機が、まさか、たった一人の子どもを守るという極めて個人的な理由に根ざしたものだったとは、にわかに信じがたい話ですな。私はむしろ、あなたが玉座に固執しているものと思っていましたが……どうやら誤解だったようだ。もっとも、それが本心であるならば、あなたはつくづく王として失格でしょうな」
灯が小さく鳴り、伯爵のまなざしがこちらを撫でる。底冷えのような静謐が肌に貼りつき、指先の血の気が引いた。
「……ええ、おっしゃるとおりでしょう」
白い指を膝の上で握り込み、震えの輪郭だけを掌の内に押し包む。胸の内に薄い冷気が沁みるが、背は向けない。ここで退けば、王家にも、守りたい人々にも道が閉ざされる。
王は大局を見て、公正さと冷徹を併せ持つべき――それでも、わたしは女王の前にひとりの人間でいたい。
伯爵は眉をわずかに寄せ、遮らず続きを促した。刃のような視線に、好奇の色が薄く差す。
「そもそもわたくしは、二度と王家に戻るつもりはなかった。けれど国の惨状を知り、帰国を選んだ。即位も急場の策にすぎない。兄ギルクを失い、父上も病に伏し、魔族大戦後の王家は存亡の瀬戸際にあったからです」
息を継ぐ間、灯が小さく伏せ、足首に冷えが絡む。
「宰相の語るところによれば、あなたは実に都合のいい存在だったそうですな。先王は『神秘の緑色の髪を持って生まれたがゆえに秘匿されていた、特別な宿命を背負う姫』として華々しく公表し、民は半信半疑のまま、救世の英雄の即位を歓迎した」
皮肉の棘が胸に触れる。駒として見ているのか、別の含みか――まだ測れない。
「そんなところですね。そして、即位の儀が終わり、一連の儀式が落ち着いたころ、わたくしは貴族院の会議に積極的に参加するようになりました。もちろん当初は、発言権どころかまともに相手にされなかった。けれど……食糧危機の解決策をわたくしなりにまとめ、彼らを説得したのです」
ランタンの炎が低く伏せ、石の冷たさが掌へ移る。
「貴族院に提出された書類は、私も拝見しましたよ。魔族大戦で得られた潤沢な魔石資源をどう配分するかで、貴族院は大きく割れていたと聞いています。それを、あなたは交易の拡大という折衷案で鮮やかにまとめあげた。
民を飢えから救い、利を追求する貴族たちをも納得させる――実に見事な手立てでした。ほかにも租税の軽減や簡略化、王都区画の整理など……わたくしとしても賛同せざるを得ない。しかも、それらをおひとりで策定したと聞き及び、驚嘆しております」
伯爵の微笑は、どこか寂しげだった。功と失の層が、その口元に薄く浮かぶ。
「ですが、宰相にとっては、あなたの行動は“やりすぎ”だったのでしょうね」
「ええ、きっとそうでしょう。じっと王座に座っているだけでいいはずの『お飾り』が、いつの間にか国家運営にまで口を出し、想定外の成果を出し始めたのですから。宰相のような人物が危険視するのも当然だと思います」
「望まれるべきは、『救国の巫女』という美しい肩書きと微笑みのみ。実質的な権力をすべて掌握するのは宰相……それこそが彼の理想的な安定策です」
言葉の刃が淡く胸を撫で、息が浅くなる。
「その目論見を、わたくしが根底から揺るがしてしまった。行動してしまったことで、彼は困惑し、警戒を始めたというわけですね」
伯爵は目を細める。冷ややかさだけでない、別の色が底で揺れた。
「あなたが短期間で具体的な復興への道筋を示したことで、一部の貴族や有力商家までもが協力を表明し、その流れは拡大しつつあった。それを脅威と感じた宰相が、貴族院の買収に走るのは当然の帰結。いやはや、彼から金の無心の申し出を受けた時は、正直私自身も驚きました」
喉の奥に冷たい空気を落とし、肺をひらく。
「あなたは、気分を害されませんでしたか? お飾りの女王であるわたくしが単独で改革案を打ち出すなど……」
「私は地方から見聞きしただけですが……むしろ清々しく感じましたよ。もちろん農地再建が後回しになったことに憤慨したのは事実ですが。物事には優先順位というものがある。あなたの政策は、飢える民にとってありがたいものであったと見ています」
視線が絡む。金の奥に、哀切の影が一瞬だけ射した。
「ただし、あなたの行動が、仮に“独善的かつ個人的な感情”に根ざすのであれば、反発は大きいでしょう。いかに民を思う行為でも、『王としては稚拙』と見なされる可能性は否めません――」
胸がきゅっと痛む。理屈は正しい。けれど、それでも――個を捨てるわけにはいかない。
「――『女王である前に、ひとりの人間として』――実に甘美な響きではありますが、黒髪の巫女として世に忌まれがちなあなたが畏怖と尊敬を得るには、やはり毅然とした王であり続ける必要があります。それをしなければ、この国はますます不安定になり、宰相だけではなく、貴族たちに付け入る隙を与えるだけでしょう」
伯爵の言葉は正しくて、残酷だ。舌裏が乾き、息を細く吐く。
「あなたの言う通り、わたくしは『女王』というにはあまりに稚拙で愚かなのかもしれません。ですが、目の前で助けを求める人がいるなら、わたくしはその手を取ることを選ぶ。それが、魔族大戦で救えなかった人々の命を背負った末の、わたくしが選んだ王としての在り方。……この想いだけは、譲れません」
言葉が白く揺れ、ひやりとした空気が頬を撫でた。
伯爵は短く目を伏せ、乾いた息をひとつ。理想の王と生身の人間――二つを天秤にかけるみたいに、沈黙が続く。傍らのダビドとマリアは身じろぎもせず、ヴィルは近くで静かな守りを崩さない。
「民に寄り添う王か……あなたは実に不思議だ。長く王政を眺めてきたが、ここまで無謀に思えるほどの優しさを振りかざす人は初めて拝見しました」
伯爵は椅子にもたれ、手袋の指先で肘掛けを小刻みに叩く。コツ、コツ、コツ――小さな律動が、張り詰めた空気の外皮だけを震わせる。
「……まったく、甘いお考えだ。だというのに、そこまでの“強さ”を感じさせるのはどうしてでしょうな」
射抜くような瞳に探究の火が灯る。背後の二人が身構えを強めても、伯爵は意に介さない。
「そんなあなたはいま、王家に相応しくないほど、“ひとりの人間”のために動こうとしている。甘くとも、その無謀な覚悟が先の戦いを勝ち抜く鍵になったのかもしれません。そして、この危機においても同じように、混沌を突き破れるだけの力を示す可能性がある」
思いがけない期待の色が、ごく薄くその目に宿る。
「そこまでお見通しでありながら、どうしてあなたはリュシアン殿を取り込もうとしたのです? 結局、宰相と同じ思惑で動いているのではありませんか」
呼気が静かに落ち、灯の芯が細く鳴る。
「それにつきましては、私はこう申し上げるしかない。私は陛下に対してというよりは、王家そのものに対し、“極めて個人的な理由を持って復讐を望んでいた”、ということです」
張り詰めた糸がふっと震え、地下室の空気がわずかにそよいだ。落ち着いた声音に薄い皮肉が混じるが、底には長い年月の苦悩と怒りが沈んでいる。わたしは息を呑み、隣のダビドとマリアも固まる。ヴィルは柄から手を離し、沈黙のまま気配を張った。
胸を刺すのは恐れだけではない。王家を壊すほどの恨み――そこへ至る闇の厚みに、鋭い痛みが走る。どれほどの喪失が、この人をこの地点まで運んだのだろう。
金の瞳をまっすぐ見返す。冷たさの奥に、癒えぬ傷の影が潜む。
無視できない復讐心。その下で渦を巻く愛憎と後悔に、言葉が喉でいったん止まる。
それでも、宰相の陰謀を断つには、伯爵とも対話を重ねるしかない。燃える憎しみを放置すれば、王家も、守るべき人々も、やがて混沌に呑まれる。
息を整え、肺に冷えを入れてから静かに吐く。震えかけた声帯を指先の力で支えた。
わたしは伯爵を見据え、さらに先へ進む言葉を探す。彼の“復讐”の形を変える可能性に、手を伸ばすために。
冷厳な闇の底で、わたしたちの戦いと邂逅が、いま本当の始まりを迎えつつある――その気配を、確かに感じていた。
【後書き】
メービスの復興政策について
メービスは魔族大戦後の王国復興に当たり、
魔石資源を経済成長に繋げる交易促進策
租税の軽減や簡略化で民衆と協調
王都の大規模再開発による象徴的復興
などを柱とする政策を果敢に打ち出しました。
通常なら大戦直後は軍備拡張や貴族の対立が激化しやすいにもかかわらず、“緑髪の巫女”としての英雄的名声、王家の権威を政治的に利用するのではなく、“民を守る”という個人的な情熱と優しさ、巧みな合意形成によって貴族院と宰相を牽制する手腕、これらが相乗的に働き、比較的スムーズに改革を進められたと考えられます。
とはいえ、この成功は同時に「宰相の激しい警戒」「伯爵などの不穏分子」「王家の保守派や黒髪の巫女への偏見勢力」を一層刺激する結果にもなったでしょう。
1魔族大戦後の王国の課題
大戦を終結させたものの、国全体が疲弊している状態
人口減少・人材不足
戦乱で多数の兵や民が犠牲となり、農村や都市の労働力が極端に低下している。行政・産業を動かす人材の確保もままならない。
農地・インフラの荒廃
前線地域や周辺領地が魔族の侵攻や戦火の影響を受け、農地や水利施設が破壊され、食糧生産が著しく落ち込んでいる。都市部でも建物の破損や道路・堀などのライフラインの損傷が激しい。
政治的混乱と権力の空白
王位継承者が亡くなり、王家が存亡の危機にあったため、宰相などが権力を握りやすい状況にあった。貴族院内部でも、戦後の利権や魔石資源の扱いを巡って意見が割れており、中央集権的な統制が難しい。
メービスによる主な復興策
2魔石資源を活用した「交易の拡大」
魔族大戦で得られた魔獣由来の“潤沢な魔石資源”の活用
従来の施策
従来は戦勝に伴って得た魔石を、軍備拡張や一部の貴族の私的財源とする動きがあった。しかし、メービスはその方向を転換し、「交易」の拡大へと注力する姿勢を示した。
具体的方針
国外との取引
周辺諸国や他大陸の国々と積極的に交易協定を結ぶ。魔石は武器開発などに流用するよりも、安全な範囲で魔術産業向けの魔力源として販売することで、王国へ外貨を導入。
インフラ整備
遠方との交流を促進するため、主要街道や港湾を整備し、貨幣や度量衡を統一して交易を活性化。
国内産業の再建
国内の手工業や農産物を魔石と交換できるルートを作り、農民や職人が利益を得やすい仕組みを構築。
狙い
単純な軍備拡張よりも「経済復興」を優先し、結果として飢えた民を救う予算や物資を得られる道を作った。
また、利益を求める貴族たちにも「交易利権」という形でメリットを提示し、反対派を取り込みやすい。
租税の軽減と税制の簡略化
大戦後の混乱下、民衆の負担を減らしつつ再生産を促す
税率の引き下げ・段階的免除
被災地域への優遇措置
激戦地となった地域について、一時的に税率を大幅に下げたり、数年の納税免除措置を行う。これにより、農民・領民が再び農地を耕す余力を確保し、生産基盤の回復を狙った。
商人・手工業者への減税
交易活性化のため、商人や職人に対しても一部減税を行い、新しい投資や労働意欲を高める。
税制の簡略化
複雑な関税や領主税の整理
領地ごとに異なる税率や通行税を統合し、可能な限り統一化する。
徴税方法の改革
徴税官の腐敗や不正を防ぐため、貴族院の一部に協力を仰ぎつつも、中央監査役を設けて透明性を上げる。
狙い
短期的には王家の歳入が減るリスクがあるが、復興期に民衆の負担を軽減することで長期的な経済回復を促進。貴族院には「将来的な経済成長による税収増」を説き、段階的な合意を取り付けやすくした。
王都の区画整理・再開発
戦後の荒廃した首都機能を復興し、象徴的な“再出発”をアピール
都市インフラの復旧と拡張
主要道路の拡幅
兵站や交易の便を考え、大規模な街路拡幅を実施。人馬・馬車・魔道車が通りやすいよう整備。
水路・下水道の改修
疫病の蔓延を防ぎ、衛生環境を改善するための上下水道整備。
公共施設の再建
病院や学舎、集会所などを王都中心部に集め、民衆が利用しやすい形へと再編。
市街地の区画割り
住居地域と商業地域の明確化
焼け跡同然となった街並みを再プランニングし、住居密集地の火災リスクを低減。
貧民街対策
戦災孤児や流民を受け入れる居住区画を設け、最低限の生活インフラを整えるとともに、彼らを労働力として活用できる仕組みを作る。
狙い
首都機能を「新しく象徴的な都市」に作り変えることで、民衆に“復興の成果”をわかりやすく示し、王家への信頼と帰属意識を高める。
政策成功の理由と課題
成功の要因
緑髪の巫女=“救世の英雄”というブランド力
魔族大戦の終結に大きく貢献した“緑髪の巫女”の名声があり、民衆は「彼女なら救ってくれる」という期待を抱きやすい。
貴族たちも民衆の支持を得た女王を無視できず、協力に回らざるを得ない面があった。
分裂しがちな貴族院を“利”でまとめた
交易拡大や再開発など、貴族や有力者にも利点のある政策を打ち出すことで反対派を取り込み、貴族院の合意を得やすくした。ただし、地方との利害調整や再分配には綱渡りの交渉が必要だったはず。
戦災孤児・難民の雇用・救済策
徴税を大幅に緩和・整理し、都市再開発などで雇用を創出したことで、短期的にでも人々が生計を立てやすくなった。国民からは「行動する女王」として一定の信頼を得るきっかけになった。
潜む課題と今後の対立
宰相や保守派貴族の反発
“黒髪の巫女”にまつわる差別や不吉視が根強い世界観であり、彼女の行動を“お飾りを越えた政治介入”とみなし、宰相派閥が王権を警戒する。大規模な改革ほど「既得権益を脅かす行為」と見られ、裏工作や謀略が発生しやすい。
地方の復興の遅れや格差
首都や主要街道の整備が優先されがちだが、辺境や激戦地だった地方では復旧が遅れ、民衆が不満を抱く可能性が大きい。その不満を、宰相や反女王派の貴族が煽る恐れがある。
王家の権威 vs. 個人的行動
メービス自身の「個人の人間性を大切にしたい」という信条が、政治的には脆弱さと見られがち。国民の支持はあっても、保守的貴族からすれば「稚拙」あるいは「感情論に走る危険人物」とのレッテルが付き、政争の火種となるかもしれない。
「王である前に、一人の人間でありたい」というテーマ
メービスの言い分
いわゆる王としての冷徹な選択よりも、個人的・感情的な選択を重んじる姿勢を見せています。
ただし、自身もその“甘さ”が王として致命的な弱点になりうると理解しており、伯爵の指摘を真っ向から否定せず受け止めている。
けれど「それでもやりたい」と譲らない意志が、「わたしは女王である前に、一人の人間でありたい」という台詞に凝縮されています。
伯爵の鋭い批判
伯爵は個人の感情を最優先する行為を“王として失格”だと切り捨てます。
一方で、この厳しい批判の裏には“興味”や“不可解さ”が滲んでおり、主人公に単なる見下し以上の「何か」を期待している節も感じられます。
“黒髪の巫女”の苦悩
そもそも、黒髪の巫女は呪われた存在・不吉の象徴と見なされがちな世界観であり、メービスは世間や貴族院からの畏怖や偏見を受けやすい立場にいる。
それでも自らが“人間的な思い”を捨てない姿勢を選ぶというのは、当人にとって大きなリスクであり、それこそが宰相や伯爵を含む周囲が懸念する「国を混乱させかねない要因」なのだという暗示がうかがえます。
現実的な政治力学と「宰相」との対立
宰相の望む安定
宰相は、「救国の巫女」であるメービスをあくまで“お飾り”として王座に据えることで、実質的な国政を掌握しようと目論む。
まさに「玉座にいるだけの人形王」としてのメービスであれば、周囲も納得するし、宰相は実権を揺るぎなく握れる。
しかし、メービスが実力を発揮し、有力者や民衆の支持を集めてしまったことで、宰相の計算を大きく乱している。
伯爵の立ち位置
この時点では、伯爵が宰相とどういう利害関係で結びついているかは明確になっていないが、彼が「王家の在り方」に対して批判的であることが示唆される。
ここまでの会話で、伯爵は「優秀すぎるメービスが宰相にとって都合の悪い存在」であることを的確に言い当てている。
彼自身も利害をはかる立場にいて、メービスを“危険な個人の感情に突き動かされる女王”と見る一方で、そこに興味やある種の共感を覚えているようにも見える。
メービスの知識背景――本来の彼女と、転生者としての“わたし”
転生要素と本来のメービスの融合
メービスの記憶を持たない転生者である「ミツル」が、前世の知識や王立魔術大学の蔵書(この世界の歴史、政治・経済、魔術理論など)を使って、宰相に匹敵する知性を身につけていたと説明されています。
一方で、“本来のメービス”も父や兄の差し入れた書物や密かなやり取りを通じて高い教養を修めていたことが示唆される。これは後の研究によって明らかになっているため、ミツルも把握済み。
この二つの要素が合わさり、メービスは王家を建て直すに足る知識を有しているうえ、“人として守りたい”という強い思いも抱いているという姿を形成する――結果、宰相や伯爵が想定し得なかった大きな行動力を発揮しているわけです。
読者への情報提示
この「転生者が本来のメービスの意志を継ぐ形で行動している」という構図が、本章では直接的に描かれず、一部補足の形で触れられているため、物語的には“メービスはどうしてこんなに有能なのか”という疑問に対する解答となっています。
一方、作中の人物にはもちろん「転生」という事実はわからず、周囲からは“幽閉されていたはずなのに優秀すぎる女王”と見られ、そこに次なる葛藤や軋轢が生まれていると考えられます。
シーン終盤での“復讐”の伏線(次話へのつなぎ)
伯爵の台詞と空気の揺らぎ
最後の部分で伯爵が「極めて個人的な理由で王家に復讐を望んでいる」と語り始めるところでシーンが切れ、空気が揺らぐ描写があります。
これにより、伯爵がただの“宰相の協力者”ではなく、自身の強い怨恨や狙いを抱えていることが示唆される。
次なる展開で、伯爵がなぜ王家を憎むのか、どういった過去があったのか、といった詳細が明かされるフックになっています。
メービスの動揺
これまで自分の弱さや国の為すべきを語ってきたメービスが、伯爵の“復讐”という重い言葉にショックを受け、さらなる苦悩に直面する予感が漂う。
もともと「誰かを守りたい」という純粋な思いを優先しているメービスにとって、“復讐”の感情を抱えた伯爵との対話は、今後大きな岐路をもたらす。
その対比によって、二人のやり取りはこの先の物語を揺るがす重要な要素になっていくでしょう。
伯爵の視線と結論の先
伯爵はメービスが想像する以上の闇を抱えているらしく、“復讐”という私的な動機をほのめかすことで、物語に深い陰影を与えている。
今回のシーンでは、その片鱗が示される程度だが、次回彼の過去と内面が明かされ、「メービスの人としての感情」が伯爵の復讐心とどう折り合いをつけるかが鍵となりそう。
「女王という立場を超え、“一人の人間”としての意志を貫きたいメービス」と、「王家を失墜させたいと考えながらも、彼女の得体の知れない強さに興味を抱いている伯爵」の対峙を描く重要な場面です。
二人がそれぞれ「現実的な政治力学」と「個人的な感情・理想」をどう折り合わせていくのかが、物語の展開を左右する大きなポイントであり、今後の章では伯爵の“復讐”の詳細が明かされるでしょう。
【リアクション】
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------------------------- エピソード430開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
復讐の伯爵と、闇を照らす姫
【本文】
乾いた皮肉の笑み、静かな声。けれど、その背に長く伏せられてきた苦悩と憎悪の陰がちらつく。
思わず息が浅くなり、隣のダビドとマリアの気配も固くなった。ヴィルはいつの間にか柄から手を離し、沈黙のまま視線だけを落としている。こめかみを汗が一滴、冷たく伝う。
胸を刺したのは、単なる恐怖や警戒ではない。伯爵が「王家を壊そう」とまで思い詰めた、その根の深い闇――そこへ触れた途端、胸骨の裏がひやりと疼いた。
「復讐……あなたは王家に対し、どんな恨みを抱いているというのですか? 伯爵という位でありながら、与えられた領地が地方だったから? 貴族院から冷遇されたから? わたくしにはそんな単純な理由とは到底思えないのです」
自分でも驚くほど声が震える。噛みしめた唇が冷え、背を伝う汗はいやに冷ややかだった。
宰相と結託し隣国との闇取引に手を染めながら、領地では慈悲深い善政を敷く――伯爵が「二面性の持ち主」であることは承知している。だが、その芯を支える動機が復讐だと突きつけられると、底の見えない井戸を覗くような眩暈がした。
伯爵はまぶたを伏せ、短く息を吐く。卓上に無造作に置かれた手袋の縫い目が、ランタンの揺らぎに仄暗く光る。沈殿した感情の厚みが、その縫い目に滲む。
「復讐――ずいぶんと上等な言葉ですな。実際は私怨にすぎません。王家に、愛する人を取り上げられた。ただそれだけのことです」
見つめ返すわたしに、伯爵は皮肉げに笑う。だがその笑みには嘲りよりも、薄い哀しみが貼りついていた。
「愛する人……もしかしてそれは、ギルク兄様の妃であった方ではないでしょうか? たしかお名前は――」
半ば確信めいた推測に、伯爵はあからさまな苦笑を漏らし、椅子の背にもたれた。焦点を遠くへ投げる。
「はい。名はクラリッサと申します」
王子の正妃クラリッサ。ギルクの戦死後、公爵家にも戻らず辺境に隠遁している――知っているはずの事実が、目の前の男の声を通るだけで色を変える。
「彼女は私の幼馴染であり、密かに将来を誓い合った相手でした。しかし、公爵家の令嬢であった彼女は、王家から“ギルク王子のお妃候補”として名を挙げられ、気づけばあっさりと奪われてしまった」
ランタンの芯がかすかに鳴り、金の睫毛へ薄い影が落ちる。冷えが喉の奥へ細く沈む。
「……名家の令嬢が王家に嫁ぐ――ありふれた話でしょうが、私にとってはあまりに過酷な現実でした」
整った声なのに、苦みの棘が混じる。言葉は胸の底へ静かに沈んでいった。
「その時私に反旗を翻す勇気があれば、あるいは“奪い去る”という大罪を犯す覚悟があれば、彼女を救えたかもしれない。しかし、当時の私は何もできずにただ黙るしかなかった」
くぐもった響きに、やるせない自責の色が差す。唇を軽く噛み、そっと問う。
「それは、無理やりに引き裂かれた……ということですか?」
伯爵は苦笑まじりに息を吐き、肘掛けを指でとん、とんと二度叩く。尖った神経が指先へ抜けているみたいだった。
「いいえ、実際には私の方から身を引いたのです。なにしろ、私とギルク殿下とは古くからの良き友人だったものでしてね」
眉根が寄る。ギルク兄様と旧知――噂には聞いたが、ダビドの報告と齟齬が生じる。
「それは真ですか? わたくしたちの調査では、“あなたが流布した作話の可能性”が指摘されています」
わたしの言葉に、伯爵は困ったように肩を落として笑った。
「はは、他の貴族たちからすれば、そうした見方をするでしょうな。だが、紛うことなき事実です。なにせ私は家督を継ぐまでの間は王都に住み、王宮でギルク殿の“秘密の学友”の一人として共に学問や剣術を学んだ仲だったのですから」
“秘密の学友”――耳慣れない語が、空気の密度をわずかに変える。
「秘密の学友とは? 初めて聞きました」
「第一王位継承者である彼は、特別な教育を与えられていました。それに保安上の問題から、高位貴族の通う名門寄宿学校に入るわけにもいかない。そこで選ばれた私のような貴族の子息たちが、彼と共に学ぶことを許された。そういった環境です」
淡々と語る間、伯爵の指が肘掛けの布をさすり、空気に小さな音を立てた。緊張が細く積もり、息がひとつ浅くなる。
「……知りませんでした」
驚きが声へ滲む。伯爵は手袋の縫い目を指先でなぞり、眉をわずかに寄せた。
「これは王家と一部の貴族だけが知る事実。そして、彼が成人してから王立魔術大学で学びたいと頼み込んできた時、便宜を図ったのも私です。こう見えても私は魔術適性が高く、理論研究では一廉の評価を受けておりましたからな。大学への働きかけなど容易なことでした」
リーディス王立魔術大学――大陸随一の学び舎。胸の奥に、戸惑いと敬意が入り混じる。
「あなたが魔術師だったとは、驚きです……」
感嘆とも戸惑いともつかない声を落とすと、伯爵は一瞬だけこちらを横目で見、薄暗い壁へ視線を滑らせる。抑え込んだ懐旧が、そのしぐさの縁へ滲んだ。
「ギルク殿下……彼はほんとうに“いい奴でした”。その誠実な人柄を知るからこそ、彼ならばきっと“彼女を幸せにしてくれるだろう”と思っていた。それが最大の過ちだったのかもしれません」
肘掛けを叩く指が、底冷えの石室に乾いた拍を刻む。伯爵の鼓動みたいに聞こえ、胸の圧が増した。
「……そうだったのですか」
声は薄く震えた。伯爵は責め立てもしない苦い笑みで黙し、冬の気配のような沈黙が落ちる。
「結果はご存じのとおり。ギルク殿下が真に愛した相手は、魔術大学で出会った男爵家令嬢ロゼリーヌでした。クラリッサとの結婚は政治的な儀礼に過ぎなかったにしても、まさか不義を働くなど私には信じられなかった。裏切られたと思うしかなかった……」
冷えた正妃との関係、世継ぎを迫る宮廷の圧力――逃げ場を大学に求め、ロゼリーヌに救いを見たことは想像がつく。だが伯爵にとっては、“託した女性”を親友に裏切られたに等しい。
「やがてギルク殿下は魔族大戦の混乱下で早世し、正妃だった彼女は、誰からも大切にされないまま心を病んで王宮を去っていった。私は結局、最後まで彼女を守ることなどできなかったのです……」
知っていた史実が、伯爵の視線を通るだけで容赦のない三角形の残酷さとなって胸へ迫る。
「クラリッサは私をひどく恨んでいました。――“どうしてあの時奪い去ってくれなかったのか”と。ですが、私には抗う勇気も覚悟も持てなかった。領地や家の安泰を優先し、王家に逆らうことを恐れ、さらにギルク殿下を裏切りたくないという、都合のいい建前を振りかざしてね。なんと卑怯で臆病なことか……」
乾いた笑みの裏に、苦い陰り。遠い一点を凝視する目が、取り返しのつかない自責を映す。
「そんな私が、“王家を壊してしまいたい”と願うのは、自然な成り行きでしょう。彼女を不幸にし、結果として私から奪い去ったのは“王家”そのものだったのだから」
ダビドが小さく息を呑み、マリアは唇を固く結ぶ。ヴィルは俯いたまま沈黙を保つ。
胸の痛みを抱えたまま、わたしは耳を澄ます。
「私はギルク殿下の死後、遺児リュシアンの存在を知り、彼を軸に王家を内側から揺さぶることができる、と目をつけた。貴族院や宰相の派閥を巧みに利用し、最終的には傀儡として操る形で、私の復讐を完遂させると……」
静かすぎる声。その底に、消えぬ黒い炎が渦を巻いている。
「それが……あなたの復讐だということなのですか? そんなものが?」
「そうです。あなたがひとりの人間として誰かを救いたいと願うように、私もまた、きわめて個人的な理由――一方的な私怨に基づいて王家に復讐しようとしていました」
率直さの冷たさに、胸が重くなる。どれほどの苦悩が、その平板な口調の下に沈んでいるのだろう。
「……レズンブール伯。あなたはわたくしが憎いですか?」
「いいえ。あなたに対しては何の恨みもありませんよ。私が憎むのは、王家という存在そのもの。黒髪の巫女であるあなたも、その犠牲者の一人ではありませんか? 男爵家のロゼリーヌ殿も、リュシアン殿にしても同様でしょう。そんな彼らの境遇を知りながら、なお利用しようとする私は、まさに最悪の悪党といえるでしょうな」
伯爵は自嘲に薄笑いを貼りつけ、唇を少しほどく。
「しかし、宰相には私の“復讐心”などとうに見抜いていた。彼もまた“リュシアン殿を通じて実権を握る”つもりだったのです。――動機は違えど、私たちは互いに利用し合う形で関係を続けてきました。しかし、あなたが思いのほか行動力を示されたおかげで、計画が狂い始めた。ふむ……実に厄介ですよ、あなたは」
向けられる視線に、苦みを帯びた微笑が宿る。鋭く澄んだ眼差しが胸の奥を射抜き、肌の内側まで寒さが入り込む。
「あなたが、わたくしからの謁見の求めを受け入れたのは、どうしてでしょうか? もしわたくしが王宮で罠を張って待ち構えていたとしても、何ら不思議はないはずです」
問いを投げると、伯爵は鼻先で短い息をつき、背をもたせた。肩をわずかにすくめ、芝居がかった身振りで続ける。
「……それは承知していました。ただ、それ以上に、あなたへ抱く好奇心の方が勝った。それが、誘いを断るには惜しいと思わせたのですよ」
穏やかなはずの声に、微かな熱が差す。肘掛けの上で指が一定の拍を刻み、それが耳にふれるたび胸がきゅっと強張った。
「好奇心、ですか……」
反芻するように呟くと、伯爵はまぶたをわずかに伏せ、わたしの心の底を掬うように見る。冷徹さの奥で、人間臭い温度が一つ、かすかに灯る。
「黒髪の巫女として蔑まれてきたあなたは、王家の因習の犠牲者にほかならない。それでもなお、王家に尽くし、民を救おうという矛盾だらけの信念を抱いている――私から見れば、その在り方が何とも興味深い」
努めて平静な口ぶりの端に、温度差が残った。仮面の下で別の感情が脈打つ音を聴きとり、わたしは深く息を吐く。
「そんな理由で王都に向かうなど、無謀すぎる賭けではないかと思いますが」
声の震えを自覚しながらも、問いは抑えない。
「正確に言えば、“恐れていないわけではない”が、“逃げるつもりもない”といったところでしょう。罠だろうが交渉だろうが、向き合うだけの価値があると判断したのです。それに、宰相に先んじるには、それがいちばん手っ取り早い。私が王都を目指したのは、そういう理由に尽きます」
扉の隙間から忍ぶ冷風が石壁を伝い、肌を刺す。肩がわずかにすくむ。ここまであっさり胸中を晒すとは――意外さが小さく泡立った。
「……けれど宰相は、行動に踏み切ったあなたを見て、裏切りの可能性ありと判断した。だから影の手を差し向けて、身柄を押さえようとしたんですね」
続けると、伯爵は椅子を押す音も立てずに立ち、ゆったりと歩み寄ってくる。灯に照らされた横顔は、氷の刃のように冴えた。
鼓動がどくん、と強く鳴る。背後でダビドとマリアが息を詰める。
彼の一挙手一投足が空気を重く震わせる。わたしは逸らさず、その冷やかな瞳を正面から受け止めた。
「宰相が私を“裏切り者”と見なすのは当然。だが所領に留まっていても、いつどんな形で切り捨てられるかわかったものではない。ならば、生き延びるための保険として、女王陛下――つまりあなたを味方につけるのは、悪い賭けではありません」
伯爵は値踏みするように視線を滑らせ、ダビドとマリアの構えを意に介さず、さらに数歩近づいて止まる。静かな所作に、優雅と圧が同居していた。
石の冷気が肩口へ這い上がり、身が細く震える。深く息を入れ、不安を胸の底へ押し込む。言葉の表では「協力」の色、裏には「利用」の影――その両方を見据える。
「それでは……あなたの“復讐”の行方はどうなるのです? わたくしを味方につけて、いったい何をなさるおつもりですか」
問いとともに、伯爵はひどく冷たい、それでいてどこか痛ましい笑みを浮かべた。金の瞳は淡い灯を揺らし、深い影を含む。それでも奥底の光は鋭く、わたしを離さない。
【リアクション】
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------------------------- エピソード431開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
闇を抱く伯爵と、黒髪の奇跡
【本文】
乾いた皮肉の笑み、静かな声。けれど、その背に長く伏せられてきた苦悩と憎悪の陰がちらつく。
思わず息が浅くなり、隣のダビドとマリアの気配も固くなる。ヴィルはいつの間にか柄から手を離し、沈黙のまま視線だけを落としている。こめかみを汗が一滴、冷たく伝った。
胸を刺したのは、単なる恐怖や警戒ではない。伯爵が「王家を壊そう」とまで思い詰めた、その根の深い闇――そこへ触れた途端、胸骨の裏がひやりと疼いた。
「復讐……あなたは王家に対し、どんな恨みを抱いているというのですか? 伯爵という位でありながら、与えられた領地が地方だったから? 貴族院から冷遇されたから? わたくしにはそんな単純な理由とは到底思えないのです」
自分でも驚くほど声が震える。噛みしめた唇が冷え、背を伝う汗はいやに冷ややかだった。
宰相と結託し隣国との闇取引に手を染めながら、領地では慈悲深い善政を敷く――伯爵が「二面性の持ち主」であることは承知している。だが、その芯を支える動機が復讐だと突きつけられると、底の見えない井戸を覗く眩暈がする。
伯爵はまぶたを伏せ、短く息を吐いた。卓上に置かれた手袋の縫い目が、ランタンの揺らぎに仄暗く光る。沈殿した感情の厚みが、その縫い目に滲む。
「復讐――ずいぶんと上等な言葉ですな。実際は私怨にすぎません。王家に、愛する人を取り上げられた。ただそれだけのことです」
見つめ返すわたしに、伯爵は皮肉げに笑う。けれどその笑みには、嘲りよりも薄い哀しみが貼りついていた。
「愛する人……もしかしてそれは、ギルク兄様の妃であった方ではないでしょうか? たしかお名前は――」
半ば確信めいた推測に、伯爵はあからさまな苦笑を漏らし、椅子の背にもたれた。焦点を遠くへ投げる。
「はい。名はクラリッサと申します」
王子の正妃クラリッサ。ギルクの戦死後、公爵家にも戻らず辺境に隠遁している――知っている史実が、目の前の男の声を通るだけで色を変える。
「彼女は私の幼馴染であり、密かに将来を誓い合った相手でした。しかし、公爵家の令嬢であった彼女は、王家から“ギルク王子のお妃候補”として名を挙げられ、気づけばあっさりと奪われてしまった」
ランタンの芯がかすかに鳴り、金の睫毛に薄い影が落ちる。冷えが喉の奥へ細く沈む。
「……名家の令嬢が王家に嫁ぐ――ありふれた話でしょうが、私にとってはあまりに過酷な現実でした」
整えられた声なのに、苦みの棘が混じる。言葉は胸の底へ静かに沈んでいった。
「その時私に反旗を翻す勇気があれば、あるいは“奪い去る”という大罪を犯す覚悟があれば、彼女を救えたかもしれない。しかし、当時の私は何もできずにただ黙るしかなかった」
くぐもった響きに、やるせない自責の色が差す。唇を軽く噛み、そっと問う。
「それは、無理やりに引き裂かれた……ということですか?」
伯爵は苦笑まじりに息を吐き、肘掛けを指でとん、とんと二度叩く。尖った神経が指先へ抜けているみたいだった。
「いいえ、実際には私の方から身を引いたのです。なにしろ、私とギルク殿下とは古くからの良き友人だったものでしてね」
眉根が寄る。ギルク兄様と旧知――噂には聞いたが、ダビドの報告と齟齬が生じる。
「それは真ですか? わたくしたちの調査では、“あなたが流布した作話の可能性”が指摘されています」
わたしの言葉に、伯爵は困ったように肩を落として笑う。
「はは、他の貴族たちからすれば、そうした見方をするでしょうな。だが、紛うことなき事実です。なにせ私は家督を継ぐまでの間は王都に住み、王宮でギルク殿の“秘密の学友”の一人として共に学問や剣術を学んだ仲だったのですから」
“秘密の学友”――耳慣れない語が、空気の密度をわずかに変える。
「秘密の学友とは? 初めて聞きました」
「第一王位継承者である彼は、特別な教育を与えられていました。それに保安上の問題から、高位貴族の通う名門寄宿学校に入るわけにもいかない。そこで選ばれた私のような貴族の子息たちが、彼と共に学ぶことを許された。そういった環境です」
淡々と語る間、伯爵の指が肘掛けの布をさすり、空気に小さな音を立てる。緊張が細く積もり、息がひとつ浅くなる。
「……知りませんでした」
驚きが声へ滲む。伯爵は手袋の縫い目を指先でなぞり、眉をわずかに寄せた。
「これは王家と一部の貴族だけが知る事実。そして、彼が成人してから王立魔術大学で学びたいと頼み込んできた時、便宜を図ったのも私です。こう見えても私は魔術適性が高く、理論研究では一廉の評価を受けておりましたからな。大学への働きかけなど容易なことでした」
リーディス王立魔術大学――大陸随一の学び舎。胸の奥に、戸惑いと敬意が入り混じる。
「あなたが魔術師だったとは、驚きです……」
感嘆とも戸惑いともつかない声を落とすと、伯爵は一瞬だけこちらを横目で見、薄暗い壁へ視線を滑らせる。抑え込んだ懐旧が、そのしぐさの縁へ滲んだ。
「ギルク殿下……彼はほんとうに“いい奴でした”。その誠実な人柄を知るからこそ、彼ならばきっと“彼女を幸せにしてくれるだろう”と思っていた。それが最大の過ちだったのかもしれません」
肘掛けを叩く指が、底冷えの石室に乾いた拍を刻む。伯爵の鼓動みたいに聞こえ、胸の圧が増した。
「……そうだったのですか」
声は薄く震えた。伯爵は責め立てもしない苦い笑みで黙し、冬の気配のような沈黙が落ちる。
「結果はご存じのとおり。ギルク殿下が真に愛した相手は、魔術大学で出会った男爵家令嬢ロゼリーヌでした。クラリッサとの結婚は政治的な儀礼に過ぎなかったにしても、まさか不義を働くなど私には信じられなかった。裏切られたと思うしかなかった……」
冷えた正妃との関係、世継ぎを迫る宮廷の圧力――逃げ場を大学に求め、ロゼリーヌに救いを見たことは想像がつく。だが伯爵にとっては、“託した女性”を親友に裏切られたに等しい。
「やがてギルク殿下は魔族大戦の混乱下で早世し、正妃だった彼女は、誰からも大切にされないまま心を病んで王宮を去っていった。私は結局、最後まで彼女を守ることなどできなかったのです……」
知っていた史実が、伯爵の視線を通るだけで容赦のない三角形の残酷さとなって胸へ迫る。
「クラリッサは私をひどく恨んでいました。――“どうしてあの時奪い去ってくれなかったのか”と。ですが、私には抗う勇気も覚悟も持てなかった。領地や家の安泰を優先し、王家に逆らうことを恐れ、さらにギルク殿下を裏切りたくないという、都合のいい建前を振りかざしてね。なんと卑怯で臆病なことか……」
乾いた笑みの裏に、苦い陰り。遠い一点を凝視する目が、取り返しのつかない自責を映す。
「そんな私が、“王家を壊してしまいたい”と願うのは、自然な成り行きでしょう。彼女を不幸にし、結果として私から奪い去ったのは“王家”そのものだったのだから」
ダビドが小さく息を呑み、マリアは唇を固く結ぶ。ヴィルは俯いたまま沈黙を保つ。
胸の痛みを抱えたまま、わたしは耳を澄ます。
「私はギルク殿下の死後、遺児リュシアンの存在を知り、彼を軸に王家を内側から揺さぶることができる、と目をつけた。貴族院や宰相の派閥を巧みに利用し、最終的には傀儡として操る形で、私の復讐を完遂させると……」
静かすぎる声。その底に、消えぬ黒い炎が渦を巻いている。
「それが……あなたの復讐だということなのですか? そんなものが?」
「そうです。あなたがひとりの人間として誰かを救いたいと願うように、私もまた、きわめて個人的な理由――一方的な私怨に基づいて王家に復讐しようとしていました」
率直さの冷たさに、胸が重くなる。どれほどの苦悩が、その平板な口調の下に沈んでいるのだろう。
「……レズンブール伯。あなたはわたくしが憎いですか?」
「いいえ。あなたに対しては何の恨みもありませんよ。私が憎むのは、王家という存在そのもの。黒髪の巫女であるあなたも、その犠牲者の一人ではありませんか? 男爵家のロゼリーヌ殿も、リュシアン殿にしても同様でしょう。そんな彼らの境遇を知りながら、なお利用しようとする私は、まさに最悪の悪党といえるでしょうな」
伯爵は自嘲に薄笑いを貼りつけ、唇を少しほどく。
「しかし、宰相には私の“復讐心”などとうに見抜いていた。彼もまた“リュシアン殿を通じて実権を握る”つもりだったのです。――動機は違えど、私たちは互いに利用し合う形で関係を続けてきました。しかし、あなたが思いのほか行動力を示されたおかげで、計画が狂い始めた。ふむ……実に厄介ですよ、あなたは」
向けられる視線に、苦みを帯びた微笑が宿る。鋭く澄んだ眼差しが胸の奥を射抜き、肌の内側まで寒さが入り込む。
「あなたが、わたくしからの謁見の求めを受け入れたのは、どうしてでしょうか? もしわたくしが王宮で罠を張って待ち構えていたとしても、何ら不思議はないはずです」
問いかけると、伯爵は鼻先で短い息をつき、背へもたせた。肩をわずかにすくめ、芝居がかった身振り。
「……それは承知していました。ただ、それ以上に、あなたへ抱く好奇心の方が勝った。それが、誘いを断るには惜しいと思わせたのですよ」
穏やかなはずの声に、微かな熱。肘掛けの上で指が一定の拍を刻み、それが耳にふれるたび胸がきゅっと強張る。
「好奇心、ですか……」
反芻するように呟くと、伯爵はまぶたをわずかに伏せ、わたしの心の底を掬うように見る。冷徹さの奥で、人間臭い温度がひと粒、かすかに灯った。
「黒髪の巫女として蔑まれてきたあなたは、王家の因習の犠牲者にほかならない。それでもなお、王家に尽くし、民を救おうという矛盾だらけの信念を抱いている――私から見れば、その在り方が何とも興味深い」
努めて平静な口ぶりの端に、温度差が残る。仮面の下で別の感情が脈打つ音を聴きとり、わたしは深く息を吐いた。
「そんな理由で王都に向かうなど、無謀すぎる賭けではないかと思いますが」
声の震えを自覚しながらも、問いは抑えない。
「正確に言えば、“恐れていないわけではない”が、“逃げるつもりもない”といったところでしょう。罠だろうが交渉だろうが、向き合うだけの価値があると判断したのです。それに、宰相に先んじるには、それがいちばん手っ取り早い。私が王都を目指したのは、そういう理由に尽きます」
扉の隙間から忍ぶ冷風が石壁を伝い、肌を刺す。肩がわずかにすくんだ。ここまであっさり胸中を晒すとは――意外さが小さく泡立つ。
「……けれど宰相は、行動に踏み切ったあなたを見て、裏切りの可能性ありと判断した。だから影の手を差し向けて、身柄を押さえようとしたんですね」
続けると、伯爵は椅子を押す音も立てずに立ち、ゆったりと歩み寄ってくる。灯に照らされた横顔は、氷の刃のように冴えていた。
鼓動がどくん、と強く鳴る。背後でダビドとマリアが息を詰める。
彼の一挙手一投足が空気を重く震わせる。わたしは逸らさず、その冷やかな瞳を正面から受け止めた。
「宰相が私を“裏切り者”と見なすのは当然。だが所領に留まっていても、いつどんな形で切り捨てられるかわかったものではない。ならば、生き延びるための保険として、女王陛下――つまりあなたを味方につけるのは、悪い賭けではありません」
伯爵は値踏みするように視線を滑らせ、ダビドとマリアの構えを意に介さず、さらに数歩近づいて止まる。静かな所作に、優雅と圧が同居していた。
石の冷気が肩口へ這い上がり、身が細く震える。深く息を入れ、不安を胸の底へ押し込む。言葉の表では「協力」、裏には「利用」――その両方を見据える。
「それでは……あなたの“復讐”の行方はどうなるのです? わたくしを味方につけて、いったい何をなさるおつもりですか」
問いとともに、伯爵はひどく冷たい、それでいてどこか痛ましい笑みを浮かべた。金の瞳は淡い灯を揺らし、深い影を含む。それでも奥底の光は鋭く、わたしを離さなかった。
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------------------------- エピソード432開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
暴虐女王と復讐伯爵の契約
【本文】
冷え切った空気が細長い地下室に滞り、頭上からの雫が石を点で叩く。等間隔の音が胸の奥に沈み、呼吸の拍をかすかに乱した。壁のランタンは頼りなく揺れ、薄い橙が視界の縁をなぞる。息を殺した気配が重さを増し、空間はいっそう沈んでいく。
わたしの隣にはダビドとマリア、少し離れて王配――ヴォルフ、いやヴィルが身じろぎもせず佇む。
彼の瞳には不安と苛立ちが交わり、けれど言葉はまだ降りてこない。その視線の先には、「王家を壊したい」と言い切りながら“領地の民を愛する”矛盾を抱えたレズンブール伯がいる。
伯爵は宰相に軟禁されていた。救出――というより、わたしが必死に手を伸ばし引き上げた、その果ての再会だ。
重い椅子にもたれる伯爵は、凛とした装いのまま、瞳の奥に薄い影を宿している。その気配がこの場の温度をさらに一段下げた。油の匂いがほのかに立ち、灯の明滅が頬の陰を浅く動かす。
肺の底まで冷えを入れ、わたしは意を固める。市中に燻る火を鎮めるには、彼の力が要る。
「では、レズンブール伯。“共闘”の第一歩として、まずはボコタの街の騒乱を収めるため、力をお貸しください」
言い切った声の余白に、雫がひとつ、乾いた音で石を打つ。伯爵はゆるやかに首を傾げ、冷ややかな視線で計る。「本気なのか」という疑いが淡く滲んだ。
ダビドは息を止め、マリアの肩は固い。ヴィルはわずかに前へ重心を寄せるが、沈黙を守る。靴底から冷えが脛へ這い上がり、膝裏に薄く張りついた。
「街の騒乱、ですと……? 状況が呑み込めませんが、具体的に何をご所望なのですか?」
低く抑えた声に皮肉の熱が混じる。舌裏にかすかな鉄の味が滲み、迂遠は無益だと喉の奥で言葉が固まる。わたしは短く息を継いだ。
「現在このボコタでは指揮系統を失った宰相兵の残党が略奪を働き、それに耐えかねた市民たちが武器を取って反抗を始めています。これまで横暴に屈していた人々が一気に不満を爆発させ、小競り合いが各所で発生しているのです。すでに大勢の血が流れ、手に負えなくなるのは時間の問題――このまま放置はできません」
ランタンが細く鳴り、油の匂いがわずかに濃くなる。声の温度が下がりすぎないよう、胸の奥で呼吸を踏み直した。
伯爵は口の端をわずかに歪め、鼻で笑う。
その他人事めいた仕草が、背の二人の警戒をさらに硬くした。肩口の布が擦れ、乾いた音が沈黙に紛れる。
ヴィルは唇を引き結び、今にも言葉を押し出しそうで堪えている。手の甲の血管がわずかに浮き、肘の腱が固く張った。
「あなたは“女王陛下”ではないですか。ご自身が表に出て一声掛ければ、またたく間に終息するのではないでしょうか? 私ごときに助力を求める必要があるとは思えません。
そもそもあなたは宰相との暗闘に邁進するあまり、一度も私の存在など気にも留めなかったものを……いったいどういった風の吹き回しでしょうか?」
最後の一節だけ、棘がよく通る。冷えが背骨を細く落ち、指先の皮膚がわずかに強張った。
わたしが息を整えるより早く、王配殿下――ヴィルが舌打ちを押し殺し、一歩前へ。革靴の底で石が低く鳴る。
「伯爵殿、それはあんたの言いがかりだ。メービスは無茶を言っていると自覚してる。だからって、“のらりくらり”はやめてもらおうか」
低く震える響きに、マリアの肩がわずかに跳ねた。伯爵は視線だけでヴィルを掠め、短く鼻を鳴らす。踏み込まれたくない領分を荒らされた、その苛立ちが薄く透ける。
「王配殿がそこまで声を荒げるとは、どうやら本気のようですね。よろしい、詳しく話を伺いましょう。とはいえ、あなた方が私をどう利用しようとしているのか、大体は想像がつきますよ」
冷えの層が一枚厚くなる。吐き出した息が胸の内側で薄く曇り、退けばここで崩れると、踵に力を集めた。
「伯爵、あなたは領民を慈しむ善政を敷きながら、一方で“王家を崩す”ことを策してきましたよね。宰相と互いを利用する形で闇取引を進め、影響力を大きくしてきた。しかし――」
「しかし、何です?」
石滴の音が刃のように短く刺さる。言葉の切っ先を息で湿らせ、曖昧を退ける。
「あなたには捨てきれない優しさがある。領民を守り、不当な圧政から彼らを救ってきた事実をわたくしは知っています」
「だから何だというのです?」
雫がひとつ落ち、乾いた音が弾ける。握った指先に、冷えが戻る。
「この街はいま流血の一歩手前で混乱しています。あなたの経験と人望がなければ、騒乱を鎮めるのは困難を極めるでしょう。悔しいですが、宰相派が“暴虐女王”を喧伝している以上、わたくしひとりでは市民の信頼を得られるとは思えません……」
伯爵は薄暗い天井を一度仰いだ。まつ毛が橙の火に細い影を落とす。肘掛けを指で軽く叩く音に、背でダビドが体重を移す気配が重なった。ヴィルはわたしを庇う位置へ半歩ずれる。
「つまり、私が表に立ち、残存兵と市民に“流血をやめろ”と呼びかければ、混乱を抑えられるだろうというわけですな。なるほど……。
確かに、多少なりとも地方では“優れた領主”などと言われてきましたし、意味はあるかもしれない。――しかし、なぜあなたがそこまでして私に手を貸してほしいのか? 私の本懐は“王家を壊す”こと。あなたとは本来、敵対関係のはずでは?」
鋭い問いが胸骨に触れる。喉の奥で小さく唾を飲み、視線を逸らさず返す準備をした。
「たとえ敵対する関係でも、いまは市民を守らなくては。……そして、あなた自身にとっても悪い話ではないはず。宰相兵が“伯爵謀殺”などという噂を流している現状を放置すれば、あなたの真意すら宰相に捻じ曲げられかねませんよ」
「“伯爵謀殺の噂”か。軟禁されていた間、宰相兵が散々吹き込んできましたね。『あの冷酷無比の女王が私を亡き者にしようと企んでいた』、さらには『王太子となるリュシアン殿を擁立しようとしている私を恐れ、玉座を守るために殺そうとしたのだ』という妙な筋書きまで……。
面白いことに、奴らは“宰相閣下は私を匿って女王から守っている”とまで口にしていました」
くぐもった笑いに、怒りと諦めの温度が混じる。油の匂いがまたわずかに揺れ、胸の内の熱が浅く動いた。
「ダビドも調べていますが、宰相兵がその噂を街へ流しているのは間違いないようです。わたくしがあなたを殺した、という根も葉もないデマが広まり、市民がその混乱に巻き込まれている。これが現状です」
わたしの言葉に、ダビドがうなずく。瞳に憤りの色が立ち、襟元で呼吸が一度、深く上下した。
「はい。都合よく噂を真に受けた市民が、さらに混乱を助長している面もあります。“女王が伯爵を殺した”という話が流れれば、宰相が正義の味方のように見える構図です。
――まったく、許しがたい情報操作だ。結局、宰相の狙いは“女王が悪逆非道の権力者”という印象を国中に植え付けることでしょう。そして最終的には王家を形骸化し、自分が摂政となって実権を握るつもりなのです」
言葉の端に怒気が触れ、室内の冷えが一瞬だけ薄らいだ。
「宰相は元より私を完全に排除する算段をつけていたわけですな。私を軟禁している間にリュシアン殿擁立の手柄を総取りし、まんまと摂政の地位を手に入れる。事が成った後、『実は伯爵は生きていた。宰相閣下が女王から守り抜いたのだ』と公表する。私は何も得られないまま、宰相のお情けで手駒として生かされる。
……実にくだらない筋書きだ」
伯爵が立ち上がる。椅子の背が短く軋み、目に辛辣な光が走る。納得と屈辱が冷たく同居していた。
視線を受け止めながら、わたしは胸の苦味を飲み込む。舌裏の鉄味が、言葉の選び方に黙って針を立てる。
「ならば、なおさらわたくしと手を組む意義があるはずです。あなたが生きていて、わたくしを殺人鬼扱いする噂をひとつひとつ打ち消してくだされば、宰相の企みは大きく崩れます。いまは市民を救うのが先決ですが、その過程であなたも宰相の裏をかけるのではないでしょうか?」
伯爵は肘掛けを指先で二度叩く。短い沈黙。天井から一滴、床で跳ねる。ヴィルはわたしのそばを離れず、体温だけが確かな壁になった。
「……敵同士でありながら互いを利用する、というわけですか。――どう思います、王配殿下?」
雫の糸が細く切れ、灯が一度だけ低く息をついた。
「俺はメービスの意志とその選択を信じる。それだけだ。あんたが彼女に刃を向けるなら、容赦なく討つ。それでいいなら手を貸してもらおう。
――無関係な市民を苦しめたくないって気持ちがあんたに少しでもあるならな」
その声が胸の奥でまっすぐ定まり、指先の震えが静かに引いていく。
「ずいぶんと強気ですね。あなたもまた“王家を護りたい”という理想に殉じる覚悟があるのか?」
ランタンの火が微かに鳴り、橙の揺れが伯爵の睫毛に細い影を置く。
「言葉だけで片付けるんじゃない。俺はあんたが信用できないからこそ、ここでちゃんと釘を刺しておく。あんたがここで協力することに何の得があるのか、言ってみろ」
足裏の石目が確かな抵抗を返し、踵に重みが落ちる。
「得、ですか。ないわけではない。味わった屈辱を晴らすためにも、宰相の陰謀をひっくり返すにも、これは好機となるかもしれない。――ああ、それと、私にもまだ捨てきれない“護る側”の顔があるかもしれませんな」
伯爵は声を落とし、まなざしを伏せる。語尾の温度がわずかに和らぎ、マリアの眉根がほどけた。
「ならば、わたくしも清濁併せ呑むしかありません。あなたが民衆の信頼を得ている“領主”として呼びかけてくれるなら、この街の混乱はきっと収まるはず」
「ふむ……。私とて、暴走した宰相兵をこのまま放置する気はありません。無意味な殺戮も好まない。しかし、覚えておきなさい。私はいつでも“王家を壊す”側に戻るかもしれないということを」
雫が途切れ、静けさが深くなる。胸郭の内側で、呼吸がひとつ長く滑った。
「わかっています。わたくしも、あなたを完璧に信用するつもりはありません。――それでも今は力を貸してほしいのです」
わたしの声音に、伯爵はマントの裾を払って立つ。長い闇を纏ったような気配のまま、拒絶の色だけが薄れる。
「よろしい。あなたがそう望むなら、私も民を救う“善の顔”を見せてさしあげましょう。宰相が言いふらしている『女王陛下による伯爵殺害』の噂も、私が生きて街を歩けば崩れ去る。そこに大きな意味があるわけですね?」
灯が一度だけ揺れ、芯が柔らかく音を立てた。
「ええ。噂を打ち消し、宰相の計画を狂わせる。わたくしが“暴虐女王”呼ばわりされるのは、今回に限ったことではありませんが……このままでは本当に誤解が広がってしまう」
ダビドが改めて口を開く。マリアは唇を細く結び、支える視線を寄せた。二人の立つ位置が、音のない合図で一歩ずつ前に出る。
「陛下、市内の張り紙や落書きには『女王こそが伯爵を謀殺した』などと書かれております。これ以上、民の誤解が広まれば取り返しのつかない事態になるでしょう。そこで、伯爵が街中に姿を見せ、“冤罪である”と示すだけでも、人々の不安を大きく和らげられるはずです。あわせて、暴徒化した市民や宰相兵の残党をいさめることも肝要かと思われます」
空気の層に張りついていた緊張が、わずかに緩む。紙と墨の匂いが、遠い路地の掲示を想起させた。
「確かに、私の顔を知っている者は少なくありません。それを利用しない手はないでしょう。さらに、残存兵には私が“契約の後金”を保証する、と伝えて説得するのも手です。その程度の出費であれば、私にとっては造作もありませんからね」
瞳に薄い挑みの色が生まれ、頬の筋肉が一度だけわずかに動いた。
「それにしても、あなたは本当に甘い。私がいい顔をして街へ出れば、宰相の派閥からは確実に敵として認定される。王家と通じた“裏切り者”と見なされるのは想像に難くない。――それでも構いませんか?」
胸骨の裏で鼓動が一度、強く跳ねる。覚悟の熱が、冷えの底に細い道を穿った。
「もちろん、危険は承知のうえです。わたくしはあなたを利用するし、あなたもわたくしを利用すればいい。清濁併せ呑むということは、そういうことでしょう?」
短い間(ま)が落ちる。灯の橙が、壁の煤をひと刷毛で撫でる。
「……利用か。ふん、悪くない響きだ。それなら私も心置きなく動けるというもの」
伯爵は薄く笑う。言葉の裏にまだ解けない闇が潜んでいるが、“共闘”へは確かに傾いた。
そのとき、ヴィルが微かに息を抜いた。視線は鋭いまま、わたしを庇う位置を半歩詰め、短く頷く。背中越しの体温が、室内の冷えを細く押し返した。
マリアとダビドは目を合わせ、それぞれの準備に意識を切り替える。革の帯具がわずかに鳴り、足音が床の目地でほどけた。
「では、急ぐとしましょう。被害を最小限に抑えるためには、一刻も早い行動が必要です」
促す声に、マリアが静かに頷き、ダビドが扉の安全を確かめる。古い木戸が軋み、外気の冷たさが地下へ流れ込んだ。遠くで炎のはぜる気配、薄い血の匂い。
伯爵は「わかっていますよ」と肩をすくめ、視線を外へ滑らせる。指先がマントの縁を軽く払った。
「それにしても、あの宰相兵たち……軟禁中に耳にタコができるほど“女王は人に非ず”と吹き込んできましたよ。さらには『宰相閣下に大義あり。次期王太子を迎えるにふさわしい』などと……。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。私を本気で殺すのか匿うのかどっちつかずで、呆れ果てました」
ランタンの火が細く伸び、煤の気配がわずかに揺れる。嘲りの熱が空気の層を浅く押した。
「宰相とはそういう人です。他者を出し抜き自分だけが得するシナリオを描いている。あなたを当初は便利だと利用し、いよいよ邪魔になれば切り捨てるつもりだったのでしょう。そんな狡猾な人物を相手にするためには、その手口を知り尽くしている――あなたの力が必要なのです」
言い切ると、伯爵は扉口でわずかに歩を留める。残光が金の髪に淡く揺れ、襟元の影が細く動いた。
「私が“死んでいない”うえに“むしろ女王に救われた”という事実が広まれば、少なからず宰相への仕返しができる。――うむ、悪くない。少なくとも利はありますな」
雫がまた一つ、静かに落ちる。膝の内側で筋肉がひとつ結び、ほどけた。
「そういうことです。あなたがもつ二面性を、今は“護る”ほうへ傾けていただければ、わたくしはどれほど心強いか……」
「重ねてお尋ねしますが、わたしが本気で“王家を壊す”ほうに舵を切ったら、あなたはどうします? いまは協力関係でも、やがては牙を剥くかもしれない」
喉の奥で息が小さく鳴る。胸の中心に、細い線で緊張が走った。
「もちろん、そのときは容赦なく阻止しますよ」
靴裏が石を擦り、ささやかな摩擦音が思考の端を整える。
「はは、お互い大変だ。では行きましょう。まずは流血の事態を止める――それだけを目的としましょう」
伯爵の短い言葉に合わせ、わたしは床に落ちていた若緑色のウィッグを拾い、被り、金具を確かめる。金具の触れがひやりとし、指の熱でゆっくり和らいだ。
テーブルの“茉凜”色――ミルクティーブラウンに視線が触れた瞬間、陽だまりの笑顔が胸裏を走る。彼女の声はときに強く、ときに優しく、ひと言で世界の彩度を戻してくれた。
記憶のぬくもりが、不安の角を静かに溶かす。けれど、もう彼女がいなければ立てないわたしではない。笑顔を胸に宿したまま、自分の足で出る。そう信じられるほどの強さを、今は持っている。
――やっぱり、茉凜はわたしの“王子様”ね
心の奥でそっと呟き、遠い彼女へ小さく告げる。
「わたし、頑張るから。見ていてね」
ヴィルがすっと並び、剣の柄を握り直した。金具の冷たさが掌の熱で和らぐ。
言いたいことは山ほどあるだろうに、彼は何も言わない。ただ視線で「行こうか」と合図を送る。その変わらない安心に、わたしは小さく息を吐いた。
ダビドとマリアは装備を整え、出立の段取りを確かめ合う。革の帯具が鳴り、金具の触れが淡く響く。
扉を押し開けると、濁った空気に血と火薬の匂いが薄く混じる。遠くで炎の赤が揺れ、市民と宰相兵の衝突はまだ続いている。
伯爵は「ふう」と息を落とし、先頭へ。ヴィルがわたしの側を守り、ダビドとマリアが周囲を払う。路地を抜けるまでは、奇襲の気配が消えない。
それでも、同じ方向へ歩いている――ただそれだけで、胸の中心がわずかに温度を帯びていく。
【リアクション】
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------------------------- エピソード433開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
灰鴉亭に揺れる灯火
【本文】
軋んだ扉を押し開けると、湿気を帯びた空気が重たく流れ込み、同時に外から荒れ狂うような街の叫びが、酒場〈灰鴉亭〉へと雪崩れ込んできた。
昼下がりのはずなのに、空一面には鉛色の雲が低く垂れこめ、冷たい空気が隙間なく酒場の床を侵食するかのように、じわりじわりと染み込んでくる。
入り口付近の床は、駆け込んだ人々が落とした泥や埃で汚れ、かすかに血のにおいさえ混じっている。
その奥の樽がいくつも積み上げられた壁際には、この酒場の“女主人アリア”が立ち、ケガ人の腕を手際よく布で縛り上げていた。
彼女の指先は決して医者のように熟練しているわけではないが、場数を踏んだ応急処置の要領を心得ている。男は痛みに顔を歪めながらも、アリアの落ち着いた様子に少しだけ安堵するかのように息をついていた。
そんな彼らの周囲には焦げくさい臭いが漂い、遠くでは何かが爆ぜるような低い衝撃音がときおり響いてくる。
先ほどから外は物騒な気配で満ちていたが、その原因は夜明け前に町外れの倉庫街で起きた火災だと聞かされている。それも単なる火事ではなく、宰相兵たちが駆り立てられるほど大規模かつ不可解なもの。さらに、郊外の廃屋敷にも火が放たれたという物騒な噂まで飛び交っていた。
「……いったい何が起きているのかしら」
アリアは男の腕を縛る手を止め、ほんの一瞬、低い声で吐き出すようにつぶやいた。
夜明けから半日も経っていないというのに、街中が恐慌状態だと聞く。その混乱ぶりは、今この酒場――灰鴉亭に押し寄せてくる怪我人たちの数が示していた。
事実、宰相兵の大半が逃げ散ったという噂もあれば、その理由が何か恐ろしい“存在”の襲撃だったという話もささやかれている。
「屋敷が何者かに襲われたんだと……。しかも、そいつは年端もいかない女の魔術師だったらしい」
そう話していたのは、先ほどまで灰鴉亭のカウンターに伏せていた傷だらけの若者だ。
その語気には恐怖が見え隠れし、まるで自分が見てきたように話す。
悪夢そのものを体現するその魔術師が、歓喜の笑いを上げながら兵士を次々と殺したとか、三人いた指揮官たちは惨たらしく頭を首ごとねじ切られたとか、血生臭い噂ばかりが飛び交う。
アリア自身は話の真偽を図りかねたまま、ただ耳を澄ませることしかできない。
「馬車に乗っていた“大切な客人”まで殺されたって聞いたぜ。その客人ってのは、宰相にとっちゃ相当な重要人物らしくてな……」
「でも、守れずに契約はご破算だ。金をもらえないからって、やけっぱちになって略奪してる宰相兵もいるってわけだろ……」
酒場の隅でそんな会話が交わされるが、誰も確かなことを知らない。ただ、事態が手の施しようもないほどに乱れているのは間違いない。
アリアは苛立ちを飲み込みつつ、次々と運び込まれる負傷者の応急処置を優先していた。
◇◇◇
この街にはかつて医師や回復術師が何名か在籍していた。ところが、伯爵襲撃事件のあとの騒乱の中で彼らは姿を消し、連絡もつかない。さらに宰相兵の一団が先に物資を根こそぎ買い占めてしまったため、治療に使える薬草や包帯が絶望的に不足していた。
アリアは焦燥感を抑えながら、古い布を代わりに裂いて即席の包帯とし、清潔な水がないならせめて酒で傷口を消毒するしかない、といった具合に知恵と工夫でしのいでいた。
灰鴉亭の床には人々を横たえられるだけの余地を作るため、テーブルや椅子が端へ寄せられ、代わりに脱ぎ捨てられた衣類や雑多な荷物が散乱している。いつもの賑やかな酒場は、臨時の救護所と化していた。
「……大丈夫、落ち着いて。ここに横になって」
アリアの手をすり抜けるように飛び込んできた男の腕には、切り傷のほか痣がいくつも見受けられた。
どうやら夜明けからの混乱に巻き込まれ、逃げる途中で転倒したのだろう。荒い息の合間に聞こえる断片的な言葉から、恐怖に駆られて街を彷徨っていたことが察せられる。アリアはそっと声をかけ、男の傷を慎重に縛り上げる。先ほどまでの輕口とは打って変わって、男は痛みをこらえるように低く呻くだけだった。
「アリア、こっちも縫わないとまずいよ!」
はっと振り向けば、店員の娘が血の混じった雑巾のような布を握りしめ、額を割った老人を必死に支えている。
アリアは眉を寄せながら急ぎ足で駆け寄った。本来ならば麻酔薬や痛み止めの軟膏、冷水や消毒液などが必須だが、すべてが圧倒的に足りない。ごまかしで済むような処置ではないことは分かっていても、やれることが限られているのがもどかしかった。
「……せめて、布を噛ませてあげて。それと、誰か他にしっかり抑えられる人、ここに呼んで」
娘に指示を与えつつ、アリアは針と糸を手にする。震える老人に申し訳ないと思いながら、きちんと声をかけた。
「ごめんね、痛いのは分かってる。でも、今はどうしようもないの」
悲しげな色を湛えた瞳でそう告げると、老人は苦渋の表情を浮かべながらも小さく頷き、布を口に噛む。
アリアは迷いを振り払うように、血で湿った額の傷口を見据えた。これ以上、街で命が散っていくのを見過ごすわけにはいかない。自分の手で少しでも助けられるなら、そうするしかない――そんな決意が彼女の胸を強く打つ。
そんな救護活動に追われる灰鴉亭の奥では、顔なじみの少女がうずくまっていた。その背中が小刻みに震えているのを見たアリアは、胸の奥がぎゅっと締めつけられるような痛みを覚える。
「ねえ、女王の手下が街で暴れてるって本当? 兵も市民も見境なしに虐殺して回ってるって……。レズンブール伯爵様も、そいつらに殺されたって聞いた」
少女の声は恐怖に彩られ、か細いながらも切実な響きを帯びている。アリアはそっと彼女のそばにしゃがみ込み、肩に手を添えた。そこからは、少女が必死にこらえている涙の震えが伝わってくる。
「そんなわけないでしょ」
アリアは低く言い切る。彼女自身、女王のことを直に知るわけではない。それでも“暴虐の噂”を無条件に信じるつもりもなかった。
その根拠は、灰鴉亭へと立ち寄る商人・ダビドが語った女王陛下の姿だ。
彼の話によれば、女王陛下は王族でありながら自ら最前線で戦い続ける人物だったという。いつ休んでいるのかと思うほど各地の戦場を駆け巡り、戦いが終息すれば傷つき疲弊した兵士や、明日をも知れない暮らしに沈む難民たちに惜しみなく手を差し伸べていたそうだ。たとえ貧しく汚れた子供であろうと抱きしめ、ひとり残らず慈しむ姿はまるで聖女のようだった、と。
だからこそ、“手下”が虐殺を行っているという噂の信憑性を疑うのは当然だった。とはいえ、全否定しきれない不安も胸のどこかには宿る。真偽を確かめるすべは、今のところほとんどない。
「噂には尾ひれがつくものよ。宰相兵が自分たちの失敗を誤魔化すために流言を広めているかもしれないし……。真実は分からないわ。でも、ここにいる限り、あなたは大丈夫。だから落ち着いて」
そう言いつつアリアは、少しだけ自嘲気味に笑みを浮かべた。なぜなら、自分自身が灰鴉亭を守る力をどこまで持っているのかさえも分からないからだ。それでも、守らなければならない人が目の前にいる限り、背を向けるわけにはいかない。
「アリアさん……ありがとう。ごめんなさい、怖くて……わたし……」
「分かるわ。私だって怖い。けれど、立ち止まってる暇はないの。あなたも、少しでも助かる人が増えるように、一緒に戦ってくれない?」
少女は涙をこらえながら、大きく瞬きをしてからこくりと頷いた。まだ幼さの残る表情に浮かぶ決意の光は儚げだが、その小さな瞳に映る意志の火が消えてはいない。
◇◇◇
時間が経つにつれ、灰鴉亭にはどこか殺気立った空気を纏う者も多くなってきた。宰相兵がそこかしこで「女王がすべての黒幕だ」と扇動を繰り返し、市民を恐怖のどん底へ突き落としているからだ。
戦々恐々とする者もいれば、それに乗じて暴れようとする者もいる。酒場の一角では怒号や罵り合いが絶えず、カウンターの上でグラスがカタカタ震えるほど荒れた声が響いていた。
「馬鹿にしやがって……! このままじゃ、みんな女王の手下とやらに殺されちまう。俺たち庶民なんて、所詮ゴミみたいな扱いなのか!?」
男がテーブルを叩きつけると、その衝撃で場が静まるかと思いきや、逆に別の客が声を荒らげる。
「あの高名な伯爵だって殺されたんだろ? 本当に女王が手を下したのか、それとも誰かが裏で糸を引いてるのか……。もうわけが分からねえ!」
昂ぶる人々の感情に当てられ、アリアは一瞬目まいを覚えそうになった。
怒りが向かう先を見失った者たちが、互いに苛立ちをぶつけ合い始めているのだ。だがここは救護と避難の場でもある。アリアはできるだけ冷静な声を張り上げ、騒ぎを鎮めようとした。
「皆、落ち着いて。どうせ噂話ばかりで真偽はわからないんだから、今は生き延びる方法を考えて」
「だがな……もし噂が本当なら、どうするんだ。そうやって何もしないでいたら、奴らに好き勝手されちまうだろうが!」
若い男が鋭い目つきで返す。けれど、アリアも負けてはいない。彼女は相手をまっすぐ見返し、言葉を押し出した。
「確かに、噂が本当かどうか分からないのは不安。でも根拠もなく暴走するのはもっと危険よ。どっちが敵でどっちが味方か、誰が真実を語り、嘘を並べているか……そんなことさえわからないんだから」
彼女の言葉に、男は一瞬言い淀む。そこへ店の奥から、さらに別の報せが駆け込んでくる。
「大変だ! “女王陛下”を名乗る女が、中央広場に向かっているらしいぞ!」
「本当か? 女王がわざわざこんな辺境に……?」
「へっ、ありえないだろ。王宮でぬくぬくしてる王族が、この寒い中、北方にわざわざ出向くわけがない」
「例の悪魔の魔術師が名を騙ってるだけ、なんてことだったら……皆殺しにされるぞ」
会話が錯綜する中で、さらに混乱の種が増殖していくように感じられた。アリアは唇を噛みながら、どうにか治安を保とうと必死で言葉を選ぶ。
「ここで大声を上げてたって仕方ないでしょ。皆が平静を失ったら、それこそ取り返しのつかないことになるわ」
だが、その悲痛な呼びかけも、ひしめく声の渦にかき消されそうだ。アリアは酒場の中心に横たわる老婆の姿を思い浮かべ、深いため息をついた。
これ以上、薬も包帯も手に入らない状況で、どれだけ持ちこたえられるのだろう。このまま街が戦場のように荒れ果て、助けられるはずの命が見捨てられていくのかと思うと、胸が締め付けられるような痛みを感じる。
◇◇◇
騒然とする灰鴉亭に後ろ髪を引かれる思いで、アリアは意を決して外へ足を踏み出した。店を守りたい気持ちは山々だが、それ以上に広場での噂が真実なのか、確かめずにいられなかったのだ。
もし本当に女王陛下が来ているのだとしたら、なぜ今この街に? 一方、宰相兵の陰謀だというなら、いったい誰が何の目的で動いているのか。混乱を解く糸口があるとすれば、自分の目で直接確かめるしかない。
「どうしても確かめなきゃ。何が嘘で何が真実なのか。現れたのが、本当にダビドの言っていた女王陛下なのか、悪魔の魔術師なのか」
酒場の仲間たちの不安げな呼び声を背中に感じながら、アリアは夕闇に沈み始めた街路へ駆け出す。
かつて大切な友人を理不尽に奪われたあの日から、彼女の心には“歪んだ権力に踏みにじられたまま黙ってはいられない”という思いが宿り続けている。
もう二度と、大切な人たちを理不尽に奪われたくない。歪んだ権力や、根も葉もない噂によって踏みにじられる人生なんて、まっぴらだった。
街の荒廃ぶりは想像以上だった。道端には大量の瓦礫が散乱し、建物の焼け焦げた跡からは不吉な煙が漂っている。ときおり響く爆発音や悲鳴が、通りを覆う凶暴な空気をいっそう濃くしていた。まるで戦場のようだ、とアリアは肌で感じる。
やがて彼女は、宰相兵とおぼしき男が市民を脅している場面に出くわす。汚れた甲冑をまとい、目つきだけが異様にぎらついた男。まるで生気を失った獣が最後の抵抗を試みるような、荒んだ声で市民を恫喝している。
「黙れ! お前、女王に肩入れしてんのか? 正直に言え! 言わねえと痛い目を見ることになるぞ」
「ち、違う! 俺たちは何も知らない」
「黙れ、そんな嘘が通用するかよ! ああ、もう金だって貰えないし、引き上げるにしても怪物に遭ったらどうする。くそ、せめて腹いせくらいさせろってんだ!」
兵士が半ば半狂乱の声で叫ぶ。
その周囲では、怒りの矛先をどこに向ければいいか分からない市民たちが、何人か竦み上がったまま立ちすくんでいた。アリアは歯を食いしばり、そっと近づく。
「やめて……。これ以上、街を傷つける権利があなたたちにあるの?」
兵士がアリアへ振り向いた。
その殺意めいた視線に体がすくむのを感じながらも、彼女は後ずさりはしない。
少し前まで理不尽な横暴を振りまいていた宰相兵たちが、今や統率を失って暴徒と化している。このままでは街中が奴らの無法行為に蹂躙されるだけだろう。
必死になって仲裁を試みるが、兵士はニヤリと歪んだ笑みを浮かべながら、脅すようにアリアへ歩み寄ってきた。
「なんだ、酒場の女主人じゃねぇか? もう俺たちは宰相様から見捨てられたも同然だ。なら、最後に好きなだけ荒稼ぎさせてもらうさ」
「あなたたちが何を失おうと、関係のない市民を苦しめる道理はないでしょう?」
アリアは声を張り上げるが、男の血走った目にはもうまともな理性が見えない。
男の身体をよく見れば腕と脚には刀傷と思しき傷があり、服に滲む血の赤が痛々しい。痛みと焦燥のなか、まるですべてを諦めたような衝動だけを糧にしているようだ。
「そんなもん、もうどうだっていい! 女王も宰相も、好きにやりやがれだ。俺は自分が生き残るためにやりたいようにやる!」
兵士が手を伸ばし、アリアの腕を荒々しく掴みかける。瞬間、彼女は反射的に体をよじり、わずかに退いた。
「放して……。私は、あなたたちなんかに屈しない」
思わず体をよじったアリアだったが、兵士の手は容赦なく迫っていた。逃げ場のない状況に、一瞬頭が真っ白になる。――まずい、このままでは捕まる。けれど、視界の隅で何かが素早く閃いた。
ドン、と濁った衝撃音が耳を打つ。兵士の体が弾け飛ぶように横へ吹き飛んだ。そのまま力を失い、崩れるように地面へ沈んでいく。
何が起こったのか理解が追いつかないまま、アリアは慌てて後ずさる。
男は仰向けに倒れ込んでピクリとも動かない。頭を打ったのか、目の焦点が合っていないようだ。
「アリア! 大丈夫か?」
聞き慣れた声が響き、アリアは恐る恐るそちらを振り向いた。
いまの衝撃の正体は、荒れ果てた街の血生臭い空気を切り裂くほどの動きで、兵士を制した誰かの仕業――。
そこにいたのは、赤髪を揺らし、どこか落ち着きを湛えた男の姿。混乱する街には似つかわしくないほど真っ直ぐな瞳で、アリアをしっかりと見つめていた。
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------------------------- エピソード434開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
灰鴉亭の灯と泥まみれの女王と
【本文】
「……怪我はないか?」
まだ胸の奥で鼓動が荒れているアリアは、思わず息を呑んだ。
路地裏に吹きすさぶ寒風が肌を刺し、彼女の心をさらに萎縮させる。ところが、その問いかけとともに伸ばされた腕は、ひどく頼もしく、そして不思議な温かさを伴っていた。
男の瞳にはかすかな怒りと安堵の光が同居しており、今まさにアリアを庇うように身構えている。
その姿を見た瞬間、胸の奥に蓄積されていた不安が限界まで高まった反動なのか、一気に緩んでいく。アリアは思わず赤髪の男の腕に飛び込み、そのまましがみついた。
「……来てくれたんだ……ダビド!」
自分の行動に気づいたときにはもう、彼の胸元に頬を押しつけていた。
こんな危機的状況下で男性にすがるなんて、自分らしくない――そう頭ではわかっていても、恐怖と安堵の入り混じった感情が身体を勝手に動かしてしまう。はっとして顔を上げたアリアは、恥ずかしさが込み上げてきて視線を逸らした。
「ご、ごめんなさい。わたしったら……こんなときに年甲斐もなく」
するとダビドは動じることなく、アリアの肩に手を添えたまま小さく首を振る。息が白く曇るほどの寒気の中でも、その手は意外なほど温かかった。
路地の床に落ちた埃や煤が舞い上がるなか、彼のしっかりとした声がアリアの不安を和らげていく。
「気にするな。無事でいてくれて、安心した……」
ダビドの声がわずかに震え、白い吐息が夜気にほどける。
「でも、どうしてここに?」
アリアは胸の奥をそっと押さえながら、問い返す。
「……灰鴉亭と、あんたの安否が気になったんだ。あそこは宰相兵が立ち寄る店だろう? 真っ先に危ないんじゃないかって……ずっと胸騒ぎがして、落ち着かなかった」
低く、言葉の端にわずかな自責が滲む。ダビドは目線だけで、路地に散乱した瓦礫や倒れ伏した兵士たちの姿を示す。
荒れ果てた街の状態は、アリアが想像していた以上に深刻だった。町外れの倉庫街で起きた火災、物騒な噂の数々――それらがすべて『今』につながっているのかと思うと、胸が締め付けられるような感覚に襲われる。まるで長引く悪夢の中に迷い込んだかのようで、足元から力が抜けそうになる。
「それで、わざわざ来てくれたの……?」
アリアが震える声で問うと、ダビドは力強くうなずき、短く息をつく。
「流れ者の俺に、あんたはいろいろ世話を焼いてくれた。気になるのは当然だろう?」
その言葉は不器用なようで、どこか優しさが滲んでいた。
彼がこうして危険を顧みず駆けつけてくれたことに、感謝の想いが込み上げてくると同時に、自分自身の無力さが情けなく思えてくる。
冷えきった空気を吸い込み、アリアは唇を噛むようにして言葉を吐き出した。
「ありがとう……助かったわ。あなたがいなかったら、私どうなっていたか……」
その言葉の余韻を残しながら、視線を落としたアリアは、周囲の状況を改めて見回す。
荒んだ路地には火の手が上がった痕跡があり、焦げ臭さに混じって血の生臭い匂いさえ漂っていた。人々の叫び声が遠くからこだましているのが聞こえ、まるでどこか別の世界に来てしまったかのように感じる。冷たい風が吹くたびに、彼女の身体はかすかに震えた。
ダビドは短剣を仕舞いながら、投げやりに吐き捨てるように言う。
「……街の様子は見ての通りだ。敗走した宰相兵の残党が、やけを起こして略奪や暴行を始めてる。全員じゃないが、話が通じない奴が多すぎる」
アリアは肺の奥まで冷え込むような空気を吸い込み、声を絞り出す。
「いま、灰鴉亭は臨時の避難所になっているわ。けれど……包帯も薬も足りなくて、とても間に合わない。私は何もできないまま、皆が苦しんでいくのを見ているだけ……」
「いや、あんたは十分踏ん張ってる。救える人がいれば放っておけないんだろう? それが――」
そこで言葉を切り、ダビドはふと苦い視線を地面に落とした。
そこまで言いかけたダビドの視線が、仰向けに倒れている兵士へ向かった。
兵士はうめき声を上げ、意識が残っているのか、アリアのほうへ手を伸ばそうとしている。しかし、力が入らないようで、血のついた甲冑がかすかに軋むだけだった。足元に散らばる破損した剣が、わずかに金属音を響かせる。
「……助けて、くれ……」
弱々しい声に、アリアは片眉を寄せる。
冷静に考えれば、この兵士たちは街を脅かす**「元凶」**とも言える存在だ。灰鴉亭を危険にさらしたのも、彼ら宰相兵だと考えれば、手を貸すべきかどうか迷うのは当然だった。
しかし、アリアには守るべきものがある。恨みがあるからといって、命の危機にある人間を見捨ててもいいのか――その問いが頭から離れない。
悲鳴に耳を塞ぎたくなるような光景でも、誰かを救えるなら救いたい。たとえ相手が敵対していた兵士でも、その根底は同じだ。
「あんた……そんな怪我じゃ、放っておけばここで凍死するかもしれないよ。……うちの店に来られるなら、毛布くらいは貸してあげられる」
そう声をかけると、兵士は顔を強張らせながらも微かに頷いた。血に染まった頬が微妙に引きつっている。けれど、ダビドはすぐに厳しい表情を浮かべる。
「やめておけ、アリア。そいつは何をしでかすか分からない。情をかけたって、報復されるかもしれない――」
「わかってる。でも、放っておけるかって言われたら……私には無理よ」
アリアの声音には、ほんの少し震えが混じる。それでも、彼女は意を決して兵士へと近づいた。
押さえつけられた痛みが身体にじわじわと広がってはいるが、そんな自分以上に傷を負っている相手を見過ごすことはできない。信念を曲げてしまっては、灰鴉亭を守り続けてきたこれまでの努力も無駄になるような気がしたのだ。
「腕を貸せば歩ける? 動けるなら、せめて傷の手当くらいはしてあげる……。でも、店で暴れたりしたら、容赦しないわよ」
兵士はただうなずき、胸を激しく上下させるだけ。
アリアはそっと兵士の腕を取り、立ち上がるのを手伝おうとするが、彼の全体重がのしかかってくるようで、かなりの重労働だ。
ダビドは不承不承という面持ちでため息をつきながら、アリアが兵士を支えるのを手伝ってくれた。
「ここから灰鴉亭までは少し距離がある……。それに、店は今、けが人や避難民でごった返しているんじゃないか?」
「そうだけど、ここで放置してもどのみち死ぬだけだわ。――他に方法がある?」
アリアが問い返すと、ダビドは小さく首を振る。
無責任な理想論で動いているわけではないが、かといって割り切れるほど冷酷にもなりきれない。そういう自分の在り方を、ダビド自身もわかっているのだろう。
「わかったよ。今さら善悪を問いただしている暇もない。――ただし、そいつを店に連れ込むなら、きちんと拘束はしておくんだ。暴れられたらまずいからな」
「拘束……? そうね、必要かもしれない」
アリアは自分の腕にある古い革帯を解き、兵士の両手首を縛るように巻き付けた。
多少の不自由はあるだろうが、致命的に苦しいわけでもない。兵士はそれでも反抗する素振りを見せず、ただ歯を食いしばっている。どこか自棄のようにも見えるが、今は口を開く気力さえないらしい。
「……歩ける?」
「あ、ああ……」
弱々しい声をあげた兵士を支えつつ、アリアは歩幅を合わせるようにしてゆっくりと歩き始める。その彼女の肩を、ダビドが心配そうに支えてくれた。
路地は火災の熱が残っているのか、微妙に埃が立ちのぼり、視界がぼんやりと揺らいでいる。
おもむろにダビドがこんなことを呟く。
「アリア、あんたはある人によく似ている」
「ある人? それって誰なの?」
「いや、なんでもない……」
ダビドは短く息を呑んだように見えた。
その横顔には、何か言いづらそうな影がさしている。アリアは彼の言葉を引き出したい衝動に駆られたが、同時に頭の片隅から離れない疑問がもう一つある。先ほどから聞きそびれていた、彼と女王陛下との関係――それこそが、いま一番気になることだった。
「……そういえばダビド。前にあなた、女王陛下と繋がりがあるって言ってたわよね。いったい、どういう関係なの?」
ダビドは一瞬だけ言葉をのみ込み、小さく唇を引き結んでから、静かに口を開いた。
「……詳しいことはあまり話せないが、俺は女王陛下から直接お声がけをいただいている。地方を回って、陛下にこの国の現実をきちんと届けるのが、自分の役目でな。――それで今、陛下ご自身も、この街に来ておられる」
「女王陛下が自ら……? それ、本当なの?」
「ああ。陛下は王配殿下とふたり、王宮を抜けてこちらへ向かわれた。雪深い道を、三日三晩ほとんど休まずに。宰相の陰謀で、民の不安が日に日に大きくなっているのを、見て見ぬふりはできなかったんだ。……正直、俺ですら気が遠くなるような強行軍だった」
その壮絶さに、アリアは思わず目を見張った。
「……二人きりで三日三晩休まずに? しかも護衛も付けずに? ……信じられないわ」
もし雪深いこの辺境まで護衛もつけず、わずか二人で移動したというのが事実なら、王族としての常識を大きく外れている。しかし、それだけの行動力と覚悟を備えた女王陛下が本当に存在するのなら、この大混乱を止められるかもしれないという希望が生まれそうでもあった。
「本当さ。宰相派の目が光っているからには、大っぴらに軍を動かすわけにもいかない。それに……昔から陛下は、とにかく現場に立つことを何より大切にされる。自分の足で歩いて、目で見て、確かめずにはいられない――そんな方なんだ。……まったく、恐れ入るしかないよ」
アリアは言葉を失ったまま、以前から聞いていた女王陛下の噂を思い返す。
彼女にまつわる評判はあまりに真逆だ。
ある者は、即位した緑髪の精霊の巫女は両親とも兄とも似ても似つかないと語り、その出自を疑っていた。ある者は、玉座に執着するあまり政敵と見るや粛清する、血も涙もない独裁者であり、伯爵はその犠牲になったのだと語る。
一方で、まるで『聖女』のように民を慈しむ人物だったという真逆の噂も伝わっている。どちらが真実か分からないまま、市民たちの不安は街を覆い尽していた。
「そもそも宰相兵が管轄している倉庫や廃屋敷で起きた火災は……ある重要人物を救い出すために、俺が独断で動いた作戦だった」
しばし沈黙が落ち、アリアの喉が小さく鳴る。
「それじゃ今のこの騒動は……」
「……すまん、元をたどれば全部、俺のせいだ。まさか、宰相兵たちがあっけなく統制を失って、こんな混乱にまで発展するとは思ってなかった」
どこか投げやりな口調のなかに、自責と疲労の影が垣間見える。
「そういうことだったのね……」
アリアがつぶやくと、ダビドは苦しげに視線を落とし、低く静かな声を継いだ。
「当初の目的だった救出はなんとか果たしたが……それも、駆けつけてくれた女王陛下が力を貸してくださったおかげだ。なのに、俺の勝手な行動を咎めることもなく、“一連の責任は自分にある”と仰った。何よりも、任務の成功より俺たちや敵兵の無事に安堵しておられた……」
声に、女王への敬意が自然と滲み出る。
アリアはダビドの話を聞きながら、かつて店で語っていた“女王陛下の姿”を思い起こす。王家でありながら、大陸中の最前線を駆け回り、傷ついた兵や貧しい民にさえ分け隔てなく手を差し伸べる――まるで現実離れした英雄譚。でも、いま目の前で、確かに息づいているその姿。
「……メービス女王陛下……」
アリアは小声でそう呟きながら、懐疑的な思いと憧れにも似た期待を抑えきれずにいた。
もし本当にそんな人物がいるのなら、いまの惨状を変えられるかもしれない。あるいは、宰相兵の言う“暴虐の支配者”である可能性もゼロではない。事実を知らない以上、どちらが本当か分からないのだ。
「宰相兵は“女王の手下が虐殺を繰り返している”って、街の人々を脅しているの。それに、“悪魔の魔術師を差し向けて、皆殺しにしようとしている”なんて噂まで……。私は、もう何が何だか分からなくなりそう」
声がかすれ、胸の奥で冷たいものが揺れる。
「そんなの、デマに決まってる。宰相派は陛下を貶めるためなら何だってでっち上げる連中だからな。……実際、その“悪魔の魔術師”ってやつは、ただの一人も殺していない。傷つけてさえいないんだ」
ダビドは苦く唇を歪めながらも、言葉に芯を込めて続ける。
「ええっ!?」
アリアは思わず息を呑む。
「この目で確かめてきたから断言できる。正体については明かせないが、彼女が現れなければ、俺たちは全滅していたかもしれない」
静けさが部屋を包む。
「それって……まさか、女王陛下だったり、しない……?」
囁きのような問いかけに、ダビドは目を伏せて首を振る。
「いまはそこまでは言えん。ただ一つ言えるのは――魔術師の威圧や欺瞞に怯えて敗走した宰相兵たちが、その恐怖を歪めて吹聴しているってことさ」
声の余白に、夜の冷たさがゆっくりと沈んでいく。
アリアは困惑を深めつつも、心の奥底で燃えるような探究心が沸き立つのを感じる。女王陛下はどんな行動を取り、どんな言葉を紡ぐのか。自分の目で確かめなければ、この街にまつわる混乱からは抜け出せない気がした。
「私……確かめたい。“女王陛下の本当の顔”と、“本当の思い”を知りたい。どんな言葉を紡ぐ人なのか、この目で確かめて、自分で判断したいの」
言い切る声に、迷いが混じりながらも強い意志が感じられた。
ダビドはゆっくりとうなずく。彼の顔から先ほどまでの苛立ちが消え、どこか柔らかな光が戻っていた。
「……そう思うなら、一緒に来てくれ。あんたの目で、直接真実を見てほしい。それに……もし迷ってる人たちがいるなら、あんたの言葉で伝えてやってくれないか。あんたなら、きっと誰かの背中を押せる気がするから」
しばし沈黙が降り、ふたりの間にわずかな温度が生まれる。
そう言って、ダビドは空いた手をアリアへ差し出す。彼の瞳に揺るぎない決意が映っているのがわかる。
宰相兵を支えながら立っているアリアの身体は、もう半ば無意識にダビドの救いを求めようとしていた。彼と行けば、混乱の根源にいるという女王陛下へ辿り着くことができるだろう。
「でも、こんな大勢のけが人や避難民を放っておいていいの?」
アリアが不安そうに問いかけると、ダビドは苦い表情を浮かべた。
「本音は、俺だって灰鴉亭に行って皆を守りたいよ。けど――この混乱を根っこから止められるのは、女王陛下しかいない。俺はその援護に回らねばならん。
それに、陛下と合流できれば……救援の手だって呼べるかもしれない。少なくとも、今のままよりは、きっと状況を良くできるはずだ」
声の奥に自責と願いの色が混じる。アリアは小さく息を吸い込み、視線を落とした。
アリアは唇を噛みしめながら、灰鴉亭の顔ぶれを脳裏に思い浮かべる。
物資が底をつきかけている状況を考えれば、一刻も早い解決こそが最善だ。
「……そうよね。そのほうがみんなを助けることにも繋がる」
思わずそう呟いたアリアに、ダビドは深くうなずく。彼女の表情をひととおり見届けてから、先ほど差し出していた手をすっと引っ込めると、代わりに彼女の両肩を軽く叩いてみせた。
「何かあれば、俺があんたを守る。だから……安心してついて来い。――いや、違うな。本当は、あんた自身の足で、自分の意思で進めばいい。俺はその後ろで、支えるだけだ」
口調はぶっきらぼうだけれど、滲む信頼と背中を押すあたたかさがそこに残る。
この修羅場のなか、彼が真摯な眼差しで自分を見据え、手助けを申し出てくれるのがたまらなく嬉しかった。だが、同時に恥ずかしさや戸惑いも湧き上がり、頬が熱くなるのを感じる。何か言おうとするが、なかなか上手く言葉にならない。
「ダビド……ありがとう。私……」
そこまで言いかけて、ふと視線を動かす。先ほどまで支えていた宰相兵が今にも気絶しそうな顔つきでこちらを見上げていたのだ。
アリアははっとして言葉を呑む。
「……そうだった、この人をどうにかしないと」
「悪いが、そいつを店まで送り届ける時間はないかもしれない」
ダビドが厳しい表情でそう告げたとき、路地の向こうから何人かの足音が近づいてくるのが聞こえた。
アリアは緊張しながら身を構えるが、現れたのは怯えた表情の市民たちだった。どうやら近くに身を潜めていたらしく、アリアたちが宰相兵を倒したのを見計らって姿を現したようだ。
「あんたら……危ないまねをしてるな。よく無事だったもんだ」
先頭の中年男が渋い声を低く落とす。後ろには、震える子供や手当ての要りそうな若い女が身を寄せている。みな心細げで、どこへ逃げればいいのかもわからず、ただ立ち尽くしていた。
「そいつは、この騒動の張本人みたいなもんじゃねえか。それでも救けるってのか?」
「ええ、そうよ。助けられるなら、助けたい」
「……ふん、あんたも呑気だな。俺たちゃ自分の家族を守るので精いっぱいだ。でも、あんたが本気なら、止めやしねえよ」
中年男は吐き捨てるように言いながらも、背を向けず、すぐ後ろの若い女に目配せを送る。
女は消毒用らしき布を鞄から出し、そっと宰相兵の傷口を拭う。礼を言いかけたアリアに、女は曖昧に首を振るだけで、どこか冷めた表情をしていた。
「……家の前で死なれるよりマシだからね」
わずかに棘の混じった声。それでも、手助けしてくれる事実がアリアの胸に静かな温かさをもたらす。街のあちこちで疑心暗鬼や暴力が渦巻くなか、まだ希望の灯が消えていないと感じられた。
「……ありがとう。わたし、灰鴉亭のアリアと言います。もし危険なら、うちの店を頼ってくれても構わないわ」
「いや、俺たちは別の避難所へ行く。お互い生き延びて、また会おうや」
男たちは短くうなずき、足早に闇の中へ消えていく。怯えた子供が何かを言いたげに振り返ったが、大人に手を引かれて闇へ溶けていった。去り際、「本当に、生き延びろよ……」という小さな声が、夜気をかすかに震わせた。
「よし、行こう。中央広場までは、そう遠くない」
ダビドが宰相兵を一瞥し、アリアへ視線を寄越す。とりあえず、この兵士をどこか安全な場所に預けてから女王陛下と合流できれば理想的だが、今の街ではそんな余裕も危険も大きすぎる。アリアは小さくうなずき、兵士の腕を自分の肩に回して支え直した。
「そうね……」
先ほどまでの震えが嘘のように落ち着いている自分に、アリアは少しだけ驚く。
ダビドが先導し、アリアが宰相兵を支える形で路地を進み始める。焦げ臭い風が吹き抜けるたびに、遠方からはさらなる火の手が上がったような光が見えてくる。ひりつく空気のなかで、誰かのすすり泣く声がかすかに聞こえた。
しばらく歩いていると、瓦礫や破壊された荷車、割れた窓ガラスなどがあちこちに散乱し、街が想像以上にひどい有様であることがわかってくる。
ここが自分の知っていた街なのかと思うと、アリアは胸が締めつけられるような痛みを感じざるを得ない。
ときおり、怯えた子供の泣き声や女性の悲鳴が遠くから聞こえ、そのたびに足がすくむ。
「ダビド、あなたはずっとこの一件を追いかけていたの?」
問いかけに、ダビドは肩越しに短く息をつく。
「まあな。伯爵が行方をくらましたのも、この街を私兵が占拠したのも――全部、女王陛下を貶めるための宰相派の仕組んだことだった。俺はその証拠を掴むために、ずっと動いていたんだ」
「まさか……そんな大きな陰謀が渦巻いていたなんて」
アリアは息を飲む。宰相と女王の内紛が引き金であることは、噂の域を出ずとも予想はついていたが、ここまで徹底的に街を滅茶苦茶にするとは想像の埒外だった。何も知らず、ただ必死で灰鴉亭を守ろうとしただけの自分が、ひどく無力に思えてくる。
「……でも、女王陛下が来てるなら、なんとかなるかもしれないわね。普通に考えて、王族が自分から矢面に立つなんて、信じがたい話だけど」
その呟きには半ば願いの色が混じる。
「信じられないかもしれないが、陛下は民の苦しみを――まるで自分のことのように感じ取ってしまう方なんだ。あまりにも優しすぎる人で……。俺は、あの方が流す涙の意味も、その重さも、よく知っている」
ダビドの声はどこか遠いものを見つめるように柔らかい。
「そう……早くお会いしてみたいわ」
アリアは胸の奥でそっと言葉を結ぶ。この街を救える存在が本当にいるのなら、その姿を自分の目で確かめたい。そして、もし真実を見極められたなら、それを人々に伝えたい――その気持ちが、恐怖を少しずつ押しのけていく。炎と叫びが渦巻く世界のただ中で、一筋の光を追うようにアリアは前へ進んだ。
やがて、路地を抜けて大きな石畳の通りに出ると、重苦しい雲が垂れこめる空の下に、中央広場を囲む建物の一部が朧に見えてきた。
だが、その手前には崩れかけた柵と、いくつもの焼け焦げた看板が散らばり、そこかしこから黒煙が立ち上がっている。以前の賑わいを思い出すと、言葉が出ないほど痛ましく感じられる。
「……ここまでひどいなんて」
アリアが呆然と口を開くと、ダビドは苦い表情で頷く。
宰相兵も市民も、憎悪と恐怖に駆られて暴徒化する者が後を絶たないという。いつ誰に襲われるかもわからない以上、警戒を怠るわけにはいかない。
「この辺りは特に火の手が激しかったようだ。女王陛下が広場に到着しさえすれば、きっと何らかの説得を……いや、もしかすると、必要があれば力ずくでも鎮圧するかもしれないが」
「陛下は、そんな荒っぽい手段をとる方なの?」
アリアはわずかに声を震わせて尋ねる。
「……必要とあらば、剣を取ってでも民を守る――それが、あの方のやり方だ。だが、どれほど強い力を持っていても、あの方は誰も傷つけることだけは、絶対になさらない。……それだけは、俺が保証する」
最後の言葉には、静かな敬意と確信がにじんでいる。
ダビドの言葉は淡々としているが、その奥には揺るぎない信頼が感じられる。
アリアはかすかな勇気を得る一方で、やはり緊張が解けない。
もしこの混乱の中で陛下が襲撃を受けたらどうなるのか、噂どおりの“暴虐”な手段を用いたら――そんな懸念が頭をよぎる。
それでも行くしかない。遠くから聞こえるざわめきに導かれるように、二人は崩れかけた建物の角を曲がる。
すると、広場に面した大通りの先に、暗くうごめく大勢の人影が見える。赤々と燃える火の光が闇を照らし、黒煙と混ざって激しい熱波が襲いかかってくる。
そのとき、支えていた宰相兵がごそりと身体を動かし、アリアの腕を引っ張るように倒れかける。思いのほか重く、一緒に転びそうになったアリアを、ダビドが素早く支えた。
「くっ……大丈夫か、アリア!?」
「なんとか……この人、もう限界かも」
宰相兵はかすれた声で何かを呟いている。「殺される」「許してくれ」……そんな断片的な言葉を繰り返す彼に、アリアは痛む肩を堪えながら何とか地面に下ろしてやった。血と煤で汚れた皮鎧からは、辛うじて体温が感じられる程度だ。
「どうする? 広場の隅にでも置いていくか?」
ダビドの声には迷いが混じる。余裕はないが、放置しても死ぬだけかもしれない。アリアは唇を噛み、迷った末に首を振る。
「……ひとまず、この通りの端に休ませるしかないわ。出血は止まっているし、すぐにどうということはないはずだけど……」
アリアは周囲を見回す。瓦礫の山と化した建物の残骸が崩れ積もり、その裏なら多少風を凌げそうだ。黙ったままダビドは兵士を引きずり、そっとそこへ寝かせる。
「俺の部下に医療に長けたメンバーがいる。そいつに任せよう」
「それなら、お願いするわ」
胸の奥で鋭い痛みを感じながらも、アリアはダビドに短く頷く。その動作はかすかに震えていたが、どこか安堵の気配も混じっているように見えた。
いま彼女にできることは、女王陛下と合流してこの地獄のような状況を一刻も早く止めることだけだ。
「行きましょう。ここでもたもたしていたら、街が本当に取り返しのつかないことになる」
「ああ」
ダビドは気合を入れるように息を吐き、歩き始める。アリアも遅れまいと足を動かすが、疲労と痛みが広がる身体は重く感じる。
それでも、ここで立ち止まるわけにはいかない――そう己に言い聞かせる。燃える炎と立ち昇る煙の向こうに、きっと**「真実」**があるはずだ。
そうして二人が中央広場のほうへ進むにつれ、耳をつんざくような怒声や悲鳴がだんだんと大きくなる。破壊された看板や転がる樽が散乱し、足場も最悪だ。まるで戦場のような通りをかき分けるうち、ついに広場が視界に開けてきた。
「……信じられない」
アリアの喉が震え、わずかに言葉が漏れる。そこには大勢の人間が密集し、武器を手に互いを睨み合うように立っていた。宰相兵の一団らしき連中と、怒りを爆発させた市民たち、そしてどこからともなく集まった無法者たちが混在しているように見える。
広場を覆う焦げ臭い風のなか、あちこちで火の手が上がり、叫び声と嗄れた怒号が交錯する。夜の帳が落ちているはずなのに、辺りは燃えさかる炎の色に照らされ、まるで曇天の昼下がりのように薄ぼんやりと赤い光が波打っていた。
そんな混沌とした光景の真ん中に、ひときわ目立たないローブで顔を隠した小柄な人影が現れる。
周囲では真っ赤な炎と黒い煙がうねりをあげ、崩れ落ちた建物の残骸が視界を阻む。けたたましい怒号や悲鳴がこだまするなか、その人影の足元だけは、まるで時がひとつ分だけ遅れて流れているかのように静かな空気が漂っていた。
装飾のない粗末な皮のブーツは泥や雪解け水を吸い込み、ずぶ濡れになった純白のローブには大きな裂け目がいくつも走っている。
肩から袖口にかけては泥の跳ね跡がまるで斑点のように散り、泥濘を何度も踏み越えてきた証が刻み込まれていた。
そこに華やかさや凛々しさは微塵もないが、一見すれば長旅を経て疲弊したただの旅人のようにも見えるその後ろ姿には、言葉では言い表せない重みがある。
混乱に満ちた広場の光景と対照的に、小柄な身体から放たれる気配は、周囲の人々をどこか圧倒するようだった。
息を詰めた宰相兵たちが思わず目を凝らすほどに、彼女の存在は群像のなかで異彩を放つ。そして、その明かりの射さぬ闇夜にあってもなお、曇らぬ意志の光が垣間見えるのだ。
アリアはそれを見た瞬間、胸の奥がどくんと高鳴るのを感じた。
あれが――メービス女王陛下なのかもしれない。
噂に聞く“聖女”のような神々しさとは程遠い姿だが、泥にまみれ、ひどく消耗しているようにさえ見えるのに、ローブに隠した顔からすでにただ者ではない気配が滲み出ている。
その姿に目を奪われていると、メービスらしき人物が、混乱の只中で倒れた市民のもとへ一直線に駆け寄っていくのが見えた。
誰が敵で誰が味方かもわからぬ混乱の最中で、彼女はただひたすらに**「目の前の人」**を助けようとしている。まったく王族らしくないといえばそれまでだが、同時に、そこにこそ女王メービスの“真髄”があるのだろうと、アリアは直感で悟った。
「ダビド……あれが、本当に女王陛下なの……?」
隣で小さく肩を支えてくれているダビドに問いかけると、彼はどこか感慨深そうに目を細め、短く頷く。血と煙のにおいが入り混じった風が吹き抜ける中、その頷きには確信めいた重みがあった。
「そうだ。泥だらけで、見窄らしく見えるかもしれないが、あれこそが本物のメービス陛下のお姿だ」
宰相兵と市民が衝突寸前のこの場所で、彼女はいったい何を語り、何をするつもりなのか――。
アリアの心臓は思わず激しい鼓動を打ち、掌には妙な汗が滲んでくる。まるで誰かに背中を押されるかのように、小さく息を飲み、ダビドの支えを借りながらも自分の足で一歩を踏み出した。
まるで荒れ狂う嵐の中心に、ぽつんと立ち尽くすような、その小さな人影。だが、ひたすら弱り切ったように見える背中に、アリアは奇妙な力強さを見た。
どんなに噂が真逆でも、どれほど街が破滅寸前であろうとも、女王は“目の前で苦しむ人を見過ごさない”。火の粉が舞い散り、瓦礫が崩れるような轟音の渦中でさえ、彼女は躊躇なく手を差し伸べているのだから。
――本当に……この人が、私たちの街を救ってくれるの?
黒煙が巻き上がり、炎がぱちぱちとはじける音が遠くで鳴り響く。
まだあちこちで悲鳴が上がっているにもかかわらず、アリアは彼女から目が離せない。
そっと横を見ると、ダビドもまた、表情こそ険しいままだが、アリアを励ますように小さく頷いてみせる。
それに応えるように、アリアは足を引きずるようにして一歩また一歩と前へ進んだ。血のにおいが鼻を突き、濁流のような熱風が肌を焼くなかでも、その光を見失いたくなかった。
すると、泥まみれの純白のローブを纏う女王メービスが、こちらを振り向いた気がした。わずかに覗いた瞳とアリアの視線が、ほんの一瞬だけ交差する。
お互いに確かめる術はないはずなのに、不思議と胸の奥からこみ上げてくる安堵を感じた。
凍える風が吹くたびに、背筋を凍らすような不安は増していく。けれど、そのたびにメービスから放たれる小さな光のような存在感が、暗闇を静かに照らしてくれるようで、足がすくむことはなかった。
まるで泥の中に咲く小さな花のように、けれど決して折れはしない意志を携えた女王の姿は、この街全体に射し込む唯一の希望かもしれない――。そうアリアは思いながら、胸の奥を奮い立たせるように拳を軽く握る。
巨大な混沌に飲まれかけている街の夜空には、濁った雲が厚く垂れこめ、風はまだ血のにおいを運んでくる。だが、その曇天の向こうに光がないわけではない。きっと、迷い惑う人々を救うために、メービスはここへ来たのだろう。
アリアはそう信じて、揺れ動く心を落ち着かせるように息を吐き、さらに数歩を踏み出す。
【リアクション】
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------------------------- エピソード435開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
その名はメービス――悪魔と聖女のあわいで
【本文】
泥まみれの白いローブを纏った小柄な女性らしき人影が、何人もの宰相兵の間をすり抜け、倒れ伏す老婆のもとへ駆け寄っていた。まるで周囲の騒がしさなど気にも留めていないかのようだった。
「……大丈夫ですか?」
その人物――ローブの奥の口からこぼれ出た声音は、あまりに素朴で、凄惨な雰囲気の広場には不釣り合いなほど優しく、かつ切実な言葉。倒れている老婆は返事すらできず、脛から血を流してうめいているだけの状態だ。
「そいつは怪しい。危険だ!」
近くにいた市民の何人かが、そう叫んで後ずさる。後方に控える集団からも、何やら戸惑いや嫌悪の声が混じって聞こえてくる。
しかし、そのローブの女性は一切動じることなく、服の裾をたくし上げるようにして膝を折った。
驚いたことに、懐から取り出したのは小さな薬瓶と清潔そうな布切れだった。破壊と流血が蔓延する夜の街で、治療に使える道具を携える者など、そうそういないはずだ。
「ごめんなさい。わたしでは大した処置はできなくて……せめて消毒だけでもしましょう。少し我慢してもらえますか?」
掠れた呼びかけに対し、老婆は辛うじてこくんと頷くように見えた。
老いた顔が痛みに歪んでいるのを、白いローブの女性はじっと見つめ、傷口を避けるように優しく触れていく。布に薬を染み込ませ、そっと血を拭う動作。その様子はとても穏やかで、アリアには到底“怪物”の仕業とは思えなかった。
――何とかして助けたい。そんな願いが、はっきりと伝わってくる。
アリアは路地の脇で、その光景を凝視していた。
彼女の隣には、自称商人であり女王派に通じる“ダビド”が控えている。その瞳には警戒と期待が入り混じった色が浮かんでいた。
やがて、白いローブの女性が布を老婆の脚に巻き終える。その背中に視線を注いでいた宰相兵の一部が、口々に叫ぶのが聞こえた。
「思い出したぞ……この真っ白なローブ……今朝俺たちが見た“ミツル・グロンダイル”とか名乗る女じゃねえのか?」
「ああ、あの悪魔の魔術師だ……。呪文も唱えず、魔道具も無しに、いきなり地面を溶かしやがったんだ」
「指揮官なんざ、青い球に頭ごと食われて苦しみもがいて倒れた。酷すぎて見てられなかったぜ……」
「おめぇら、見た目に騙されるんじゃねぇぞ! こいつはニタニタ笑いながら人の命を弄ぶような殺人鬼だ! 俺たちの身体に奇妙な球をめり込ませて、“どうやって殺そうか?”なんてぬかしやがったんだぞ!」
その言葉を境にして、周囲の市民や負傷者たちの間にも動揺が広がった。
アリアは喉の奥が息苦しくなるのを感じた。
――……とてもそんな人には見えない
宰相兵たちがしきりに口にしていた噂は、“人体を内部から破壊する”“廃屋敷を泥沼に変えた”“血も涙もない狂人”といった、どれもおぞましく恐ろしいものばかりだったが、今目にしている光景とは到底かけ離れている。
そんな人物が、なぜこんなにも丁寧に人を救おうとしているのか。アリアの胸は混乱と疑問でいっぱいだった。
「大方善人のフリして近寄って、俺たちを皆殺しにするつもりに違いない!」
「おい、落ち着けよ。あれを見ろ。あの婆さんは確かに助けられている。あれが演技だっていうのか?」
市民たちの間ですら意見は割れ、不信を深める者と“いや、おかしい”と感じる者が互いに声を荒らげる。ついに場の空気が爆発寸前に張り詰めたところで、白いローブの女性がゆっくりと振り向いた。
フードの奥にかすかに見えた瞳は、疲れの色を帯びながらも淡い光を宿し、そこに潜む切なげな色合いが一瞬にして見る者の心を揺り動かす。
やがて、彼女は手を伸ばし、真っ白なローブのフードを静かに外した。
その瞬間、広場に薄氷のひびが走るような静けさが満ちる。
姿を現した少女の素顔は、湖面に射す朝日のような透明な光を帯びていた。言葉にはしがたい美しさと、どこか儚げな意志の強さが同居している。
長い若草色の髪が風に揺れ、淡く光を纏う。動くたび、ひと筋ひと筋が朝靄の水辺のようにきらめき、まわりの空気をやわらかく震わせていく。
彼女の唇にはかすかな微笑み。静かな呼吸とともに、春を呼ぶ気配が広がる。その大きな瞳は浅い緑の泉。まばたきのたび、冷えた空気のなかに淡い温もりが差し込むようだった。
顔立ちには幼さが残り、頬にほんのりと色が射している。伏せられた長いまつげが影をつくり、表情のすべてが不思議と見る者の心をほぐしていく。
「……う、嘘だろ」
戸惑いと驚嘆の声があちこちから漏れる。恐怖や怒りに満ちていたはずの手が、今はただ力なく揺れるばかりだ。
彼女は静かにあたりを見渡し、深く息を吐いた。その表情は、微笑とも寂しさともつかない淡い色をたたえ、夜風にゆれる髪がいっそう光を増す。どこか守らなければ壊れそうな儚さと、目をそらせないほどの強さ。相反する気配が静かに溶け合っている。
やがて一人の兵が武器を落とし、鋭い音が広場を貫いた。張りつめていた空気が一瞬にして凪いでいく。
「……あなたは、いったい……」
問いかけの前に、少女はそっと視線を落とす。その瞳に宿る透明な輝きと、声なく浮かぶ微笑が、ただそれだけで場の空気を優しく変えていった。
彼女のいた空間には、不思議な静寂と敬意が満ち、嵐のなかで咲く花のように、儚げな美しさが確かに刻まれていた。
囁くような声が、やがて周囲にこぼれ落ちる。
「……わたしは、メービス。――リーディス王国女王、メービス・マティルデ・アデライド・フォン・オベルワルト=リューベンロート。けれど、いまは精霊魔術師ミツル・グロンダイルとも呼ばれています……両方とも……本当のわたし、なんです」
その瞬間、周囲が一斉に息を呑む。青ざめた宰相兵、互いに武器を構え合っていた市民の数名が目を見開き、重苦しい沈黙が降りた。
二つの名前――“メービス”と“ミツル・グロンダイル”――はそれぞれ全く異なるイメージを帯びていたはずだが、いま同一の人物が名乗ったことで、噂が一気に交錯する。
「そんな馬鹿な……女王メービスだと? 噓をつくんじゃねぇ! 大体、女王様だっていうなら、豪華な衣装をまとってるもんだろ!? なんだそのみすぼらしい格好は?」
宰相兵のひとりが我を失ったような声を張り上げ、仲間たちを煽る。すると、別の兵が血走った眼で槍を握り直す。
「女王ともあろう方が、こんなところに出てくるわけがねぇ!」
「そうだ。どうせ偽物だ!」
吠えるその姿は追い詰められた獣のようで、あまりに危険だった。
「あんたたち、勝手に決めつけないで……!」
アリアは胸の奥から声を絞り出す。恐怖で足が震えそうになるのをこらえながら、目の前で助けを求める人と、それに応じる彼女の姿を見返した。
たとえ本当にこの人が“悪魔の魔術師ミツル・グロンダイル”だとしても、今やっていることは明らかに善意による行為ではないのか。
ダビドも、再び彼女を庇うように前へ踏み出し、宰相兵を睨んで制止した。
「少し頭を冷やせ。あんたらが見た“悪魔”とやらが、こんなふうに傷の手当てなどするか? どう考えても辻褄が合わないだろうが」
吐く息が白く曇り、誰もが一瞬だけ視線を泳がせる。
「だが……仲間たちを苦しめた事実がある! 髪の色はあの時と違うが、こいつで間違いない」
名指しされた少女は黙って俯いたまま、手に残る温もりだけを確かめるように傷口を押さえている。
冷たい風が彼女の髪を揺らし、ほんのわずかに震える指先に微かな緊張が走った。兵士たちの混乱は一向に収まらず、市民のなかにも困惑を深める者が多い。ある者は互いに拳を握りしめ、いつ衝突が起きてもおかしくない雰囲気だ。
まるで爆弾を抱えたまま、“どうにかしないと街が取り返しのつかない状態になる”という予感が、アリアの背筋をじんじんと痺れさせる。
この激昂を鎮められる存在は、いま彼女の目の前で泥まみれのまま立ち尽くす“メービス”本人しかいないように思えた。
“メービス”はちらりと宰相兵たちを見やり、そのまま破れたローブの袖から頑丈そうな革手袋を外してみせる。さらには胸元の汚れをぬぐうように手を動かしながら、言葉を継いだ。
「……疑われることも、敵意を向けられることも、仕方がないことです。けれど、目の前で苦しんでいる人を見捨てることは、どうしてもできないんです。道に迷っているあなたたちにだって――きっと、手を差し伸べることはできるはず。そのために、わたしはここに来ました」
どこまでも穏やかな声音に、市民のなかで感情を制する者が現れ始める。
さきほどまで「悪魔だ」と叫んでいた男さえ、彼女の血に滲んだ指先を見て息を詰まらせていた。こんなボロボロの姿で、何を求めているのか、と……。
一方で、宰相兵の数名は口をつぐんだまま後ろへ下がる様子を見せる。かといって、槍を下ろすわけでもなく、視線だけを不安定に泳がせている。
彼らは“過去に目撃した光景”がどうしても頭を離れないのだろう。かつて自分たちがその魔術師に圧倒された記憶が、生々しく心を苛んでいるのだ。
メービスはひとつ息を吐き、かすかに声を震わせながら顔を上げた。
「……確かに、わたしはあなたたちを脅した。精霊魔術を使い、地を泥に変え、“場裏”と呼ばれる球体をあなたたちの体に滑り込ませ、ひどい振る舞いを見せたかもしれません。
でも……だれも殺してはいないはずです。指揮官であった影の手の者たちさえも、頭ごと水で覆い溺れさせはしましたが、全員生きています」
自分を責めるような声が広場に淡く響く。
その告白に、周囲のざわめきがすっと止まった。人々は顔を見合わせ、戸惑いと混乱が交錯する。殺戮を恐れていた市民には、その言葉の重さすらすぐには受け止めきれない。
メービスは俯きがちに、指先を胸元で握りしめたまま頭を下げた。
「言い訳にしかなりませんが、あの場を収めるには、どうしてもあなたたちを怯えさせるしかなかった。ここに謝罪します。本当に、ごめんなさい……」
その言葉を紡いだ唇はひどく震えていた。まるで罪の意識を一身に背負った人間のようで、その“謝罪”がどこまで通じるのかは不透明だ。けれど、いまこの場の混乱を緩和させる大切な一手なのは間違いないように思えた。
そこで、市民たちの間から次々に疑問の声が飛び出す。
「……おい、じゃあ、あれは――伯爵が殺されたって話はどうなんだ? 女王がやらせたってのは嘘だったのか?」
「バカ言うな、宰相兵の幹部が“伯爵は暴虐女王の命令で闇に葬られた”って言って回ってたろ。そんな茶番、信じろってのが無理だ」
「でもさ、その噂自体、本当かどうかも分からないよ。もしこの人が女王だって言うなら、俺には……そんなこと、させるようには思えない」
「私も信じられない。この人が女王なんて、証拠も何もないじゃない」
「なら――とっ捕まえて、街に向かってる宰相様に突き出すしかないだろ?」
周囲の声が再びにわかに高まる。一瞬、誰かがこの空気を爆発させかねない凶行に走ってもおかしくない。
アリアはダビドと目を合わせ、「どうしよう……」と震えるまなざしを送った。しかしダビドは無言のまま小さく首を振り、まだ見極める時だと告げるように息をつく。
すると、メービスを自称する少女は小刻みに震える肩を抑えるようにして、フードを少しだけ持ち上げた。
「わたしは、伯爵を殺してなどいません。……むしろ、彼が無事でいることを、ここにいる皆さんに知ってほしいために、ここへ来たんです」
声を震わせながらの宣言に、アリアは大きく目を見開く。
もしそれが真実ならば、“伯爵殺し”の噂も宰相兵が広めたデマだということになる。確かに、そうであれば街で囁かれる女王像や魔術師像のすべてが怪しくなる。
なぜそこまでして伯爵を救おうとするのか。その答えを聞く前に、宰相兵のうち何人かがじりじりと武器を持ち上げた。
「殺してない……だと? じゃあ、その伯爵は今どこにいるんだよ!」
「嘘に決まってら。口先だけでしのぎやがって、いったい何を企んでる!」
感情的な糾弾が飛び交い、そのどれもが歯止めの効かない不安を煽るように思われる。
ここで血が流れれば本当に最悪の事態だ。アリアは居ても立ってもいられず、喉元が詰まりそうなほど心拍が上がっていくのを感じながら、一気に声を張り上げた。
「あんたたちやめてってば、落ち着いて! 文句を言うなら、証拠を確かめてからにしたらいいでしょ」
言った瞬間、宰相兵の槍先がアリアのほうへちらりと動いて鳥肌が立つが、ダビドが素早く体を入れ、宰相兵の勢いをさえぎった。小競り合いのような形で武器が短くぶつかり合い、鋭い金属音が夜気に響きわたる。
「この街をこれ以上滅茶苦茶にしていいのか? 頼むから冷静になれ」
「なんだとてめぇ……」
一人の屈強な宰相兵が詰め寄るが、ダビドは表情ひとつ変えず冷徹な声で告げる。
「陛下は慈悲深き方だが、いざとなればお前たちなど一瞬で制圧できるんだぞ。お前たちだって知っているだろう。世界を震撼させた魔族に対抗しうる力をお持ちなのだからな」
「くっ……」
鉄靴が石畳を擦る音が響く。兵士の目がふらついた。
「それでも……できることなら誰も傷つけたくないと、切に願っておられるのだ。そのお気持ちがわからんのか?」
ダビドの声は鮮明で、だがその言葉の後に訪れた一瞬の静寂が、兵士たちを揺さぶった。火の粉が舞い散り、どこかで木材の崩れる音が激しく鳴った。
――本当に……この場を収められるの?
アリアの頭の中に、絶望的な思いが過ぎる。
“女王は一体なにを望み、何をしようというのか――その答えが見えないまま、もどかしさと不安が交差する。
しかし次の瞬間、メービスが震える体をわずかに伸ばし、強い声を張り上げた。
「……みなさん……どうか、お願いです。怒りを鎮めて下さい」
泥に沈んでいたとは思えない澄んだ声が、闇に吸い込まれずに届く。胸の奥に響く硬さが、群衆の呼吸を一拍だけ遅らせた。
「いいですか? この騒乱は、元を辿れば王宮の権力争いから生じた陰謀が原因です。そして――その責任の一端は、わたし自身にもあります。
そんなことで、無関係なあなたたち一人ひとりの命まで奪われるようなことは、
決してあってはならない。
わたしは戦うためにここへ来たのではありません。争いを止め、少しでも多くの人を助けたいと願っているだけです。
……もし、わたしの言葉が信じられないなら、それでも構いません。でも、どうか――せめてこの争いを止めさせてください」
場の空気がぴたりと止まり、火のはぜる音だけが石壁に返る。肩に乗った緊張が重く、誰も舌を動かせない。宰相兵も市民も、視線の置き場をなくして立ち尽くす。喉が鳴る乾いた音が、思いのほか大きく響いた。
その声に宿るのは飾りのない本音――誰かを救いたい切実さと、自分への苛烈な責めが、一つの息に重なっている。そんな矛盾を抱えた人間を、ただ“悪魔”と言い切れるのか。
アリアは息を詰めたまま胸骨の裏が熱を帯びるのを感じる。凍った空気の中で、指先だけがかすかに汗ばむ。
「う、嘘を言うな……あんたは、俺たちを虐殺しようって魔女なんだろ……。指揮官がそう言ってたんだ……」
ひとりの兵が足を引きずり、槍を胸元へ引き寄せる。握る手には力が入らず、手甲の革が小さく鳴った。
彼の視界には、制圧の光景が焼きついたままなのだろう。怒りを支えに立とうとして、体はただ揺れる。外から見れば混乱の色が濃いのに、本人の理性は足場を失っている。
メービスは彼を正面から見返し、唇が小さく震える。喉の奥で言葉がほどけず、沈黙が広がった。
堪えかねて、アリアが一歩出る。肩口の痛みが鋭く走るが、足は止まらない。靴底が泥を吸い、ぬるい感触が伝わる。
「ちょっとねえ、あんたたち……。いい加減武器を下ろしたらどう? 女王様を信じられないっていうならそれでいい。けど、こんなところで血を流して死ぬなんて、馬鹿らしいでしょう?」
言い切った声に、兵は荒い息のまま目を見開く。市民の口から出た言葉に、思考の向きが不意に千切られたようだった。
槍がずるりと手から抜け、鈍い音を立てて泥へ沈む。泥跳ねが裾を汚し、周囲にわずかなざわめきが戻る。
他の兵たちも短く視線を交わし、肩の角度が少しずつ崩れる。“もしこの女が伯爵を殺していないのなら――”という疑いが、怒りの膜にひびを入れていく。だが、誰も決定的な一歩を踏み出せない。
そのとき、広場の奥で人の気配がいっせいに動いた。
火の粉をかき分けるように、重いマントを翻す男が姿を現す。背後に影が幾つも連なり、焦げた風が裾を鳴らした。
つい先ほどまで見えなかった“ある人物”の輪郭を認め、宰相兵たちの顔色が一気に変わる。驚愕の吐息が連鎖し、張り詰めていた沈黙の膜が破れる気配が走った。
【リアクション】
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------------------------- エピソード436開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
崩れゆく嘘と、掲げられる誇り
【本文】
広場に居合わせた人々は、「一体誰だ?」という小声を押し殺すように交わしながら、構えていた武器や棒を握る手を汗ばんだまま固くこわばらせていた。
誰もが警戒のまなざしを向けるが、その壮年の男性は周囲の敵意をものともせず、堂々と歩を進めていく。金色の髪に赤い光が反射し、深緑の外套から伸びる影が、さらに長く地面を覆っていた。
緊迫した空気が淀むなか、泥まみれのローブを纏った少女――メービスは、今まさに倒れ伏す老婆の手当を終えたところ。周囲の不穏を感じ取ったのか、ちらりとそちらを見やり、かすかに息を呑む。
喉の奥の乾きが、小さな囁きの直前でひび割れた。
「……あれは、誰だ……?」
市民の間で囁きが広がる。夕暮れの赤熱が混じった焔の残光の中、その男の威厳ある佇まいに、誰もが一瞬足をすくませるほどの気迫を覚えた。
さらには、背後に控える白いローブ姿の銀髪青年からの鋭い眼差しも相まって、戦慄に近い静寂が押し寄せる。
火の粉が外套の裾でかすかに爆ぜた。
だが、その男性は慣れた様子で“メービス”のもとへ歩み寄ると、外套の裾をひるがえし、柔らかな声で呼びかけた。
「……さすがは女王陛下でいらっしゃいます。『先に一人で街へ降りる』とお聞きした時は、思わず諫めたくなりましたが――まったく、あなたらしい率直なお言葉でした」
しっかりと通る声は、炎上する建物の火の爆ぜる音や、宰相兵の怒声を断ち切るようにして広場の闇を貫く。
その響きを耳にした兵士たちは、戸惑いを露わにした。今まで『あの少女は悪魔の魔術師』と罵られていたのに、確かに『女王陛下』と呼ばれる存在だと知らされるや、誰もが思考を止められたように固まっている。
吐息が冷たくほどけ、彼女の肩がひとつ落ちた。
「……伯爵。ごめんなさい。わたし、やっぱり我慢できなかったんです。この目で街の様子を見て、救わなくちゃと思って。先走りすぎたことは反省しています……」
その吐息まじりの呟きに、周囲の宰相兵が一斉に色めき立つ。彼女の前に立つ壮年の男を、まじまじと見つめた者たちが次々と声を張り上げた。
槍の石突が石畳を乾いた音で叩いた。
「おい、あいつは何者だ!?」
「伯爵、だと? でも、女王のせいで殺されたんじゃなかったか……?」
「ハッタリか? こいつら、何を企んでやがる!」
そのような声が飛び交うなかでも、金髪の伯爵と呼ばれた男は、動じることなくメービスに向かって静かに語りかける。
「いえいえ、陛下のご矜持、存分に拝見いたしました。ですが、市井の混乱を自ら治めようと、たったお一人で飛び込むとは――まったく、あなた様は王家の常識など、いとも軽やかに超えてしまわれますね」
微苦笑を浮かべた伯爵の横顔には、奇妙な安堵と厳かな決意が同居していた。
外套のフードを軽く揺らしながら、取り囲む兵士や市民に向けてゆっくりと振り返る。その動作だけで、薄暗い夜気が断ち割られるかのような圧迫感が走る。
「どうやら、大きな誤解があるようですな。……私、伯爵アドリアン・レズンブールは、ご覧のとおり『殺されて』などおりません。むしろ女王陛下に命を救われた――と言っても、決して大げさではありますまい」
その言葉に衝撃を受け、固唾を呑む人々。あまりの驚きに棍棒を取り落とす市民も現れ、宰相兵は「馬鹿な……」と呆然と口を開くしかない。
なにしろ数週間もの間、“伯爵は女王に抹殺された”という噂が街中を覆っていたのだから。
けれど、こうして堂々と現れた伯爵が、女王メービスと親しげに言葉を交わしている――人々の信じてきた前提が、根元から崩れていく瞬間だ。
すると、二人のやりとりに割って入るように、何人かの宰相兵が激昂した声を放ちはじめた。
汗の匂いが強まり、ざわめきが一段高く波打つ。
「な、なんだお前……たしか宰相様と面会する『客人』って聞いてたぞ。それが伯爵だって? どういうことだ……?」
「そもそも、どうして伯爵が生きてるんだ!? 女王派の陰謀で殺されたって話だったじゃないか!」
「俺たちは上からそう聞かされて……大義のために動いてきたんだぞ!」
「おい、本当にお前がレズンブール伯爵だって言うなら、何か証拠を見せてみろ!」
混乱と焦燥が滲む怒声を受けながらも、伯爵は苦笑を洩らすと、懐から小さな金属板を取り出す。
縁の彫りが炎にきらりと走り、金の線が皮膚に反射した。
「ご覧のとおり、これが貴族院で正式に承認された我が家の紋章です。偽造など到底できるものではありません。諸君の中に貴族院へ出入りした者がいれば、この紋章が本物だとすぐにわかるはずです」
困惑と驚嘆が一気に人々のあいだに広がっていく。息を詰めた兵士たちの中には、あからさまに狼狽して剣を取り落とす者もいた。
伯爵はさらに静かに告げる。
「貴方たちが目にしている女王陛下は、宰相派が喧伝するような『暴虐な支配者』などではありません。むしろ、軟禁されていた私を救い出し、混乱する街のため、供も連れず真っ先に駆けつけてくださった方です。
付け加えるなら、私は『極めて個人的な事情』から宰相と手を結んでいましたが、陛下はそれを知った上でも、決して私を見捨てようとはなさらなかった。
よいですか――今こうして私がここに立っていることこそ、その証です」
深い青の瞳が一度伏せられ、また静かに上がる。
激しく燃える木材がちりちりと音を立て、黒煙が夜空へ漂う。その中でアリアは思わず伯爵の横顔を見つめていた。
やや痩せぎすな体躯でありながら、外套から伝わる威厳は“大貴族”の名にふさわしい説得力を帯びている。
この混乱や人々の激昂を、わずかでも鎮める糸口を知っているかもしれない――そんな存在感を感じさせるのだ。
伯爵は宰相兵も含めた市民一人ひとりを見定めるように視線をめぐらし、落ち着いた声を放つ。その声音は高位貴族ゆえの響きを保ちながらも、人の胸に深く訴えかける温かさを宿していた。
「……皆さん、これ以上、無益な諍いで血を流すのはやめましょう。このままでは犠牲が増えるばかりです。欺瞞に踊らされていては、宰相の策謀に利用されるだけで、何の解決にもなりません。あなた方に問います――本当に、そんな筋書きを望むのですか?」
静まり返った広場に、伯爵の声だけが澄んで響く。群衆の間に重い沈黙が落ちた。
「……この私ですら、宰相の掌の上で踊らされていたのです。まったく、情けない話です。しかし、今は自分の目で事実を見て、ようやく理解しました。女王陛下は、あらゆる苦難を背負う覚悟で、ここに立っておられることを。信じるに値するお方なのだ、ということを」
呼吸の拍が、広場の静けさへ吸い込まれていく。
外套の裾がゆるやかに揺れ、一拍の静寂が落ちる。宰相兵も市民も、思わず息を詰めている。アリアも心の奥が高鳴った。強い調子で噛み締めるように語る伯爵の誠意が、ひしひしと伝わってくるからだ。
さらに伯爵は周囲を見渡し、勢いよく声を張り上げる。
「かつて私は、王家を深く憎んでいました――復讐のためなら国がどうなろうと構わないとさえ思ったものです。ですが、いまこうして陛下に救われ、街を混乱から救おうとなさるお姿を目の当たりにし……復讐心など、実にちっぽけなものに思えた。
だからこそ、もう繰り返したくはありません。こうした無意味な争いを。だから今、私はこの場に立っています。少しでも耳を傾けていただけるのなら――この事態を収めるため、私も力を尽くす所存です。」
長い問いかけの後、場の空気は微妙に止まったままだ。伯爵の落ち着き払った態度と、この混乱下で揺れる人々の感情が対照的に描き出されている。
宰相兵の数名が槍の柄を緩め、仲間同士で困惑の視線を交わした。
「お前、どうする……?」
革の匂いがさっと立ち、握り直した手が軋んだ。
低い声が宰相兵の陣から漏れ、怒り狂っていた勢いが陰りを見せはじめる。
一方の市民たちも、今までの噂と現実との食い違いに頭を抱えていた。
玉座に執着し、権力闘争に明け暮れるだけの女王が、はたして軍も連れずに厳寒の街へ来るものだろうか。“目障り”として伯爵を謀殺したはずなのに、こんなに親しげに会話するものだろうか。
宰相派によって吹き込まれていた話はやはり虚構ではないのか――と、一部が気づきはじめている。
しかし、依然としてすべての誤解が解けたわけではない。街にはまだ“ミツル・グロンダイル”による殺戮の噂や“悪魔”呼ばわりが広まっており、恐れや怒りを抑えられない者も少なくない。
伯爵はそうした事情を察しているのか、今度は懐からもう一枚の紙切れらしきものを取り出すと、宰相兵たちの方へ軽く掲げてみせた。
羊皮紙のざらつきが指へ返り、焼ける匂いに微かに混じった。
「これは、宰相が軟禁中の私に宛てた『書状』です。『女王の策謀から保護する』という建前ですが、実態は虚偽に満ちています。
内容を明らかにしても構いません――ここには、『王家を陥れ、反対者を粛清する計画』の詳細はもちろん。事が成った後の私の処遇までも記載されている。彼は恩を売るふりをして、私を傀儡に仕立てるつもりだったのです。つくづく、反吐が出る思いです。
……私が恥を忍んでこれを公にするのは、市民や兵士の皆さんが、宰相の虚言に踊らされ続ける必要はないと知ってほしいからに他なりません」
その一言に、人々の間からどよめきが起こる。混迷する状況の中で、これほど強い口調で『宰相の陰謀』を暴露されたのでは、動揺しないほうが難しいだろう。
メービスは隣で沈んだ目を伏せていたが、それでも伯爵に感謝の念を浮かべていた。
喉が小さく鳴り、声が出るまでの一瞬が長く伸びた。
「……伯爵、本当にうれしく思います。あなたが今ここで声を上げてくださらなければ、人々はきっと、宰相の撒いた偽りに囚われたままだったでしょう」
そう口にするメービスは、かすかに微笑もうとするものの、その顔に浮かぶ疲労の色は濃い。その泥にまみれたローブ姿を見れば、これまでどれだけ激しい消耗を強いられてきたか、誰の目にも明らかだった。
伯爵はその様子に気づくと、深く一礼してみせる。まるで敬意と心配の念を同時に示すかのようだ。
そもそも王侯貴族というものは華美な衣装を纏い、優雅で格式高い暮らしを送るのが当然とされている。だが、このメービスという女王は、それらをかなぐり捨てて、雪深い北方のボコタの街へ身一つで駆けつけた。
宰相から向けられた悪意ある噂に悩むよりも先に、市民や兵士を救うことを第一に考え、懸命に声を上げる――そんな姿を、伯爵自身も今、痛切に感じ取っているのだろう。
伯爵は大きく息を吸い込み、広場の中央へ視線を巡らせる。ここで混乱を鎮める最後の一押しをするべく、思い切って声を張り上げた。
「……私は伯爵の立場から、宰相兵の諸君に提案します。
――もし諸君が『報酬を得られぬまま捨て置かれた』というのであれば、私がその分を立て替えましょう。無益に罪を重ね、苦難の道を進むよりも、よほど利があるはずです」
ざわり、と兵士たちの陣営が揺れる。報酬のために雇われたにも関わらず、宰相に見捨てられ帰る場所がないとすれば、この申し出は魅力的だ。王家への戦意をかき立てた“倒すべき相手”という大義も、嘘とわかれば消え去る。
市民からもほっとしたような声が漏れる。もちろん、腹立たしい思いを完全に拭えない者は残るが、“これ以上闘っても得はない”と察する者も増えており、次第に殺気が薄れていくのが感じ取れた。
伯爵は今度、市民へ向けて厳粛な声音を響かせる。
「そして市民の皆さん。重ねて申し上げます。あなた方が信じていた『暴虐女王』という噂こそ、宰相の策略にすぎません。先ほど、陛下ご自身が倒れた老婆を救おうと駆け寄る姿に、いったい何の打算があるというのでしょうか。
苦しむ者がいれば放っておけず、脇目も振らず助けに向かう――そのような方を、どうして『暴虐』などと呼べましょうか」
炎の軋む音が一段落し、呼気の白さだけが浮かんだ。
一瞬、重い沈黙が落ちる。先ほどまで燃え上がっていた恐怖や憤怒を抱えつつも、目の前の現実を見れば“伯爵は生きている”し、“噂にある悪逆女王”は人を救っている。どう理解すべきか、言葉にならない困惑が渦巻いていた。
伯爵はそこで、わざと人々の視線をメービスへ誘導するよう手のひらを広げて促す。
「……女王陛下は、気高き『精霊の巫女』として、かつての魔族大戦でこの国と世界を救った偉大な力をお持ちです。もちろん、その力が強大であるがゆえ、誤解を招くこともあるでしょう。
しかし、ここまでの流れをご覧になれば、陛下が誰一人として殺さず、混乱を止めようとしているのは明白です。何より、『悪魔』と罵られることさえ厭わず、自らを犠牲にしてまで人々を守ろうとする覚悟には、ただ頭が下がる思いです。
――これでもまだ疑うというのですか。私がこうして無傷で生きているというのに。」
抑えきれない熱が言葉の縁に宿り、夜気がわずかに震えた。
抑えきれない熱量を宿した伯爵の宣言に、人々の中から少しずつ納得の色を見せる者が出始めた。
まだ「いまさら信じられるか」という声も混じるが、“伯爵”という肩書きの示す信頼や、理路整然とした説明が、大勢の騒ぎを静めていく。
メービスはそんな伯爵の背を見つめ、ほっと胸を撫で下ろす。
自分だけでは成し得なかった説得を、伯爵の気迫がやり遂げようとしているのだ。その事実がどれほど心強いか、彼女は泥まみれのローブを握りしめながら唇を震わせる。
「……伯爵、本当にありがとうございます。みんなを救いたいと願っても、わたし一人では信じてもらえないことばかりで……あなたのお言葉は、とても心強い助けです」
振り返った伯爵は、メービスに静かに微笑む。その瞳には、かつて抱いていた復讐心と悲哀を捨て去ろうという決意がうかがえた。
「いえ、私のほうこそ救われたのです。あなたがいなければ、私は宰相の嘘に呑まれ、何も変えられぬまま虚無に生きていたでしょう。
……これから先、私にどこまで市民たちを納得させられるかは分かりませんが、最後まで務めを果たす所存です」
そう呟いた伯爵は改めて広場を見渡し、少しずつ耳を傾ける気配をみせる人々を前に、今度は声の調子を下げるようにして心に訴えかける。
「市民の皆さん。先ほど申したとおり、私は『失われたもの』への執着から逃れられず、その憎しみを王家に向けていました。けれども、誰が悪で誰が正義か――そんなに単純な話ではなかったのです。
女王陛下は、こんな私にさえ手を差し伸べてくださった。そして今、皆を救おうとする強い意志を持っておられる。
……それを目の当たりにしても、なお『悪魔』と罵るのですか。どうか、胸に手を当ててお考えください」
深い闇が広がる広場は、炎の軋む音を除けば嘘のように沈黙する。伯爵の落ち着いた言葉が、高潔な音色をもって夜を震わせるかのようだ。
やがて兵士のひとりが、剣を下に構えたまま上ずった声を上げる。
包帯の下で血が温く滲み、布の匂いが鉄の味を帯びた。
「でも、俺たち、本当に女王派の奇襲を受けたんだ。死者は出なかったかもしれないが、多くが傷を負って苦しんだ!」
すると、メービスがすすっと進み出て、申し訳なさそうに頭を下げた。その面差しには深い悲しみが満ちている。
睫毛の先に淡い光が溜まり、薄緑の瞳が短く揺れた。
「はい……わたしのせいで、たくさんの人の心に大きな傷を残したと思います。ほんとうにごめんなさい……」
メービスの透き通るような薄緑の瞳には、淡い涙がきらめいていた。
それほどまでに自分の行動を悔いているらしい彼女に、兵士たちも戸惑いを隠せない。何度も“殺人鬼”と呼ばれてきたが、いま目の前にいるのは人殺しを愉しむ悪魔とは程遠い姿だ。
「だったら、あんな大げさな脅しをかけなくたって、もっと別の方法があったんじゃないか? あんた、悪魔だなんて呼ばれて平気なのか?」
短い沈黙ののち、喉を刺す冷気が言葉に触れた。
「……わたしには、ほんとうに人を簡単に殺せる力があるんです……」
その一言に、宰相兵たちの顔色がさっと青ざめる。
細い肩がひとつだけ震え、吐息が白く散った。
「……怖かった。たとえ偽りでも、人の心を踏みにじるなんて……本当は耐えがたいことでした。だけど、どうしても争いを止めなきゃいけなかったんです。だったら、わたし一人が罵られればいいって。罪でもなんでも背負えばいいって……それしか思いつかなくて、あんなことを……」
その切実な告白に、人々は思わず息を呑んだ。兵士や市民のなかには彼女の意図を測りかねる者もいるが、まるきり否定しきれない何かを感じ取っている。
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実際、あれほどの魔術を行使しながら死者を一人も出さなかった――それだけで、一種の説得力を帯び始めていたのだ。
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伯爵は、そんなメービスを慈しむような眼差しで見やると、再び広場に目を移し、赤黒い煙の下で声を張り上げた。
「皆さん、いま本当に必要なのは、互いを傷つけ合うことではありません。宰相が捏造した憎しみなど――もう、棄てるときではないでしょうか」
火の爆ぜる音が一拍遅れて響き、耳の奥で消えた。
宰相兵の中には、槍を下げかけてもまだ不安げに周囲を伺う者もいる。それでも「確かに、もう戦う理由は……」という声が漏れ始め、仲間の間で視線を交わす姿が増えていた。
市民側でも何人かが怪我を負い、武器を振るう余力がない。痛む体を抱えた青年が呻くように言葉をこぼす。
靴裏が煤を引きずり、石畳に鈍い跡を残した。
「くそっ、何が『大義は我らにあり』だ。全部嘘っぱちだったのかよ」
「馬鹿らしい……こんな嘘のために死ぬような目に遭ったっていうのか。宰相め……」
その声に呼応するように、メービスはわずかな涙を宿したまま、震える身体を前へ進めた。誰の目にも疲労の限界が明らかだというのに、必死に言葉を絞り出す。
指先の泥が乾き、ひびの底で血が薄く滲んだ。
「そもそもの責任は、わたしにあります。次期王太子をめぐる争いと陰謀に、この街を巻き込んでしまったから――だから、ここへ急がずにはいられませんでした。
関係のない人々が傷ついたり、命を落とすなんて……わたしは、絶対に嫌です。
もしそんなことになったら、きっと、わたしは自分を許せません……」
かすれた声には、深い後悔と悲しみが何層にも刻まれていた。
きっと幾度となく同じ思いを抱え、それでもなお立ち上がるしかなかったのだろう。その矛盾が彼女の心を限界まで追い詰めているのがわかる。
それでも、その壊れそうな儚さの内側には、揺るぎない決意が燃えていた。
伯爵は控えめにうなずき、彼女を助けるように声を掛ける。
「あなた方も、それぞれ何かを守ろうとして戦ってこられたはずです。女王陛下も同じ――目の前の人々の命を守りたい一心で、やむなく極端な行動に出られたのです。
私は、それを皆さんに無理に理解しろとは申しません。ですが、もしここで鉾を収めてくださるなら、『帰る先』を失ったあなた方を、私が支援し、安全を必ず保障いたします」
広場の冷気が頬に刺さり、吐息が白く千切れた。
低く張りのある声が宰相兵の動揺を一層揺さぶる。宰相に捨てられ、報酬をもらえぬまま放り出された彼らには、抵抗を続ける理由が薄れている。
何人かの兵士が互いに目配せしあい、ぎこちなくも武器を足元へ置き始めた。
ガシャンという金属音が夜空にこだますると、市民が一瞬身を強張らせるが、伯爵が「大丈夫」と掌を見せて制した。
数秒の張り詰めた沈黙の後、片膝をつくようにへたり込んだ兵士が、嗚咽のような声を漏らす。
胸の鼓動だけが耳に残り、炎の音が遠のく。
「俺は……殺し合いを続けるのはもう嫌だ……」
続くように他の兵たちも次々に武器を地面に置いていく。市民の中には怒りを鎮めきれず「こんな奴ら信用できるか!」と詰め寄る者もいたが、その矛先をふせいだのは意外にもメービスだった。
「……待って」
ふらつきながら前へ出ると、彼女は細い腕を広げ、兵士と市民の間に割って入る。
「……わたしたちは、いま『こうして生きている』。だから、その命を大切にしましょう。これ以上、憎しみに囚われても、誰も幸せにはなれません」
声はかすれ、しかし耳の奥に静かな温度を残した。
宰相兵の一団がさらに半数以上、がちゃりがちゃりと武器を置く。伯爵による“保障”の宣言が大きいのは確かだが、同時に“命までは取られない”とわかってようやく、逃げ出すのが最良と察する者もいる。
一方で、まだ苛立ちを抑えられない市民の何人かが伯爵を疑う声を上げた。
「伯爵さんよ。どうしてあんたが、そんな大量の金をポンと出せるっていうんだ? 嘘だったらどう責任を取るつもりだ?」
炎の明滅が頬に映り、影が浅く揺れた。
「そこは、私が責任を持って誓います。私には、これまで築いてきた莫大な財があります。兵士や市民の皆さんには書面で証を示し、ご希望があれば『貴族院』の公証も取りましょう。
――どうか安心してください。ここで浅はかな裏切りなど、決していたしません。」
人々は疑いを拭いきれないまま、互いに視線をやり探り合うが、伯爵の気品ある言葉と落ち着いた態度は、ある程度まで信用してもいいのでは、と思わせる説得力を帯びていた。
そして決定的だったのは、宰相兵の上官らしき男が槍を捨て「皆、もうやめよう」と声を張った瞬間だ。
彼の肩には深い斬撃の跡があり、傷と疲労が全身に刻まれている。血走った目で伯爵を睨むが、そこには力を失ったような諦念が浮かんでいた。
「……結局、俺たちは偽の情報に踊らされて、都合が悪くなれば切り捨てられるだけの駒だったんだ。それが、宰相って奴のやり方なんだろう。このままじゃ何の得にもならない。だったら――伯爵の言うことを聞いた方が、よっぽど得策じゃないか?」
そのひと言が、凶暴化していた兵や市民の心を大きく揺さぶる。調子を合わせるように兵たちが次々と武器を足元に落とし、膝をついていく。
怒号に満ちていた広場が、じわじわと沈静化していき、焼け焦げた残骸や荒れ果てた建物を赤く照らす炎だけが残った。
混乱が終息へ向かう様子に、アリアは静かに胸を撫で下ろす。
血と焦げの匂いは依然として広場に漂うものの、その激烈さはだいぶ和らいでいた。荒れ果てた路地や焼け落ちた建物の熱はまだ残るが、人々の暴徒化はようやく収束しつつある。
「……伯爵さん? あんたのおかげで街が滅ぶ一歩手前で救われたわ」
アリアの声には安堵が色濃くにじむ。彼女の視線がとらえるのは、薄紅に染まる夕闇の中で金髪を揺らす伯爵の姿だった。
伯爵はその言葉を受け、美しい微笑を返す。貴族的な慇懃さを崩さないまま、まるでアリアを“市民を代表するひとり”として認めるように、低く柔らかな声で応じた。
「いや、まだ『大丈夫』とは言い切れませんが……ともあれ、最悪の事態だけは免れたでしょう。これは、街の方々が耐え抜いてくださったこと、そして女王陛下のご尽力あってのことです」
微笑の縁に、疲労の影が淡く落ちた。
アリアはぼんやりと宵闇の空を仰いだ。荒涼とした風が隙間をすり抜け、かすかに血と煤の匂いを運んでくる。しかし、耳を裂いていた怒号は今ほとんど聞こえない。女王メービスと伯爵の言葉が、街の心をかすかにほどき始めたのだろう。
そんな静まりかけた空気の中、ふと誰かが遠くを見やった。
まだ赤熱の残光が残る楼閣の上――そこに、一瞬きらりと反射する光がある。微かに人影が揺れたような気がしたが、すぐに闇に溶け込んでしまった。
「……今の、なんだったんだろう?」
囁く声は風に流され、誰の耳にもはっきり届かなかった。高鳴った鼓動がようやく静まりつつある人々は、まだ気づいていない。今、広場を覆う虚ろな静寂の向こうで、さらなる危険が音もなく狙いを定めていることを。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード437開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
女王の盾、雷光の王配
【本文】
夜風が広場を吹き抜け、先ほどまでの激しい闘いの熱気をわずかに冷ましていく。人々が武器を収め、安堵の息をつき始めたその静寂に、アリアはなぜか言いようのない危うさを感じ取っていた。
張り詰めた糸が、今にもぷつりと切れそうな、そんな脆い均衡。まるで、この束の間の小康状態を嘲笑うかのように、新たな嵐がすぐそこまで忍び寄っている――そんな不吉な予感が、アリアの胸を冷たく締め付ける。彼女の勘は、しばしば良くない出来事の予兆を捉えるのだ。
そして――その予感は、裏切られることなく現実のものとなった。
アリアの視線の先、夜闇に沈む廃墟と化した楼閣の屋上。そこに、閃光が走ったのを彼女は確かに見た。一瞬だけ揺らめく炎の先端が闇に映し出され、それが消え入るか否かの刹那、すでに赤黒い『火の玉』が夜空へと放たれていた。
轟音こそない。だが、人一人を覆うほどの大きさの火球が空を切り裂いて飛来する様は、それだけで圧倒的な威圧感を放っている。凄まじい熱と圧力が周囲の大気を震わせ、不気味な赤い尾を引きながら、一直線に広場の中央へと迫っていく。
アリアの心臓がどくりと跳ねた。狙いは明白――そこに立つ女王メービスと、隣にいる伯爵だ。彼らが懸命にこの混乱を鎮めようとしている、その姿を快く思わない者がいるのだ。
「ぬうっ……!」
警護についていたダビドの呻き声が、アリアの耳にも届く。暗がりの中を疾走するファイアーボールは、恐ろしいほどの速度で迫り、放射される熱気は尋常ではない。
兵士や市民が咄嗟に身構えようとするが、間に合うはずもない距離と速度。これを防ぐ術などあるのだろうか――アリアが固唾をのんだ、まさにその矢先だった。
その災厄を、誰よりも早く察知した影があった。ひらりと風に舞う、純白のローブ。月明かりを受けて銀色に輝く髪。
火球を視界に捉えた瞬間、彼は文字通り電撃のような踏み込みでメービスと伯爵の前へ飛び出した。
まるでそこに現れることが予め定められていたかのような、一切の迷いも躊躇もない動き。あまりの速さに、アリアの目でもその姿を追うのがやっとだった。
彼の白いローブが、風を孕んで力強く翻る。
「ちいっ!!」
低く、鋭い舌打ち。それと同時にローブの下から抜き放たれた剣が、宵闇に鮮烈な白い軌跡を描いた。金属が擦れる音ではない。空気が硬質な何かによって断裂するかのような、鋭く澄んだ音が広場に響き渡る。
アリアは息を詰めてその剣に見入った。
それは一切の装飾を排した、白銀の輝きを放つロングソード。滑らかな刀身は冷たく冴え渡る光を放ち、まるで鋼という物質の概念すら超えているかのようだ。得体の知れないほどの『鋭さ』と、圧倒的な『存在感』が満ちている。
とても人が鍛えた業物ではない――アリアはそう直感した。
「……下がれっ!」
青年から想像もつかない怒気を含んだ声が響く。
剣を大上段に振りかぶった瞬間、彼の足元の空気が陽炎のように揺らめいて見えた。それは、常人の筋力や反射神経では到底なし得ない速度といえた。ローブの裾が熱風に焼かれるように翻り、地面の土埃が爆ぜて舞う。
大気を伝わる衝撃の余波は、距離のあるアリアの場所まで、肌を焼くような熱気が届いた。
ズバァンッ!
火球と剣が激突した瞬間、短い稲妻が夜空を裂いたかのような、凄まじい音が鳴り響く。
アリアは、目の前で起こった光景を呆然と見つめていた。
青年の放った一撃は、巨大な火の玉の中心をまるで熟れた果実を断つかのように、真っ向から切り裂いたのだ。
普通なら衝撃波や爆発が起こり、周囲を焼き尽くすはず。だが、斬り裂かれた炎は剣の勢いを削がれ、燃え盛る破片となって四方八方へと吹き飛ばされると、闇の中へ吸い込まれるように消えていく。まるで烈風が戯れに炎を吹き散らしたかのような、現実離れした光景だった。
火の粉が靴先をかすめ、焦げた匂いが細く立ちのぼった。
「う……嘘、だろ……」
「なんだってんだ。あんなの、人間業じゃねぇ……」
宰相兵たちの愕然とした呟きがアリアの耳にも届く。
並みの騎士や剣士では防ぎようのない火球を、たった一太刀で両断し、爆発すらさせずに終わらせるなど。その威力も速度も、すでに人の域を逸している。誰もが、その青年の異常さを痛感していた。
アリアは、燃え残りの煙が漂う中、メービスの姿を見やる。
もし青年の反応が一瞬でも遅れていれば、メービスも伯爵も、あの火に呑まれていたかもしれない。アリア自身も、背筋に冷たいものが走るのを感じる。
けれど、メービスはローブの裾を強く握りしめてはいたものの、毅然とした表情は何一つ変えず、むしろ引き結んでいた口元を緩ませてどこか満足げにも見えた。
まるでそれが『当然のこと』であり、彼の力への絶対的な信頼の表れだとでもいうように。アリアは、その女王の揺るぎない様に、改めて彼女の強さを感じた。
「……これぞ、『雷光』……」
メービスのかすれた呟きが、アリアの耳にも微かに届く。大地を駆ける稲妻のようなこの刹那の一撃は、決して誇張ではないと痛感する。速く、鋭く、そして圧倒的。
斬り下ろしを終えた白銀の剣は、なおも周囲の空気を震わせ、わずかな熱気を纏っている。あれほどの火球を斬り伏せたというのに、彼自身は息一つ乱していないように見える。
単なる膂力や身体強化の域を超えた、剣の正確な軌道と速度――その全てが驚異的なレベルにあるからこそ可能な芸当なのだ、とアリアは彼の底知れない力に改めて畏敬の念を覚えた。
青年は何事もなかったかのように、ひらりと白銀の刀身を振って火の粉を払い、すっと鞘に納める。
その一連の所作は水が流れるように滑らかで、一切の無駄がない。まるで剣を振るうことが、彼にとって呼吸するのと同じくらい自然な行為なのだろう。
「メービスは俺が守る。あの楼閣周囲を抑えろ! 決して逃がすな!」
声の余韻が石壁を渡り、夜気の冷たさに鋭さを増した。
その号令に、群衆の中に紛れ込んでいた者たちが素早く反応し、魔術師らしき襲撃者を追うべく駆け出した。彼らはこの青年の仲間なのだろうか。広場に漂っていた恐怖と混乱は、彼の放つ張り詰めた気配によって一掃され、再び緊張感が場を満たしていく。
伯爵が、青年の背中を見つめながら深い溜息をつくのが見えた。安堵と驚嘆が入り混じった表情だ。
呆然としていた宰相兵たちも、はっと我に返り、慌てて周囲の警戒を再開する。敵がこれで引き下がるとは限らないからだ。
「やはりというべきか、釣られて出てきましたな。『影の手』は、あなたたちが対峙した三名だけではなかった」
伯爵の冷静な分析が耳に入り、アリアもようやく詰めていた息を吐き出した。
まだ胸の内には先ほどの熱波の感覚が残っている。鼓動が速いまま収まらない。そんなアリアの視界には、メービスと並び立つ銀髪を揺らす青年の姿が映っていた。
「ありがとう、『ヴォルフ』。おかげで助かったわ……」
耳朶に落ちた声は、微かに震えながらも温かかった。
「見通しのいい広場で演説なんぞぶってりゃ、こうなるのはわかりきっているからな」
冷えた夜気が言葉の角を立たせ、火の明滅が表情の影を深くした。
「だが、俺が居る限り、何人たりともお前を傷つけることは許さん」
短い宣言に、剣の鞘がコツと鳴った。
「あなたを信じてる。だから、わたしは女王らしくしていられるの」
細く息を落とし、まなざしがそっと揺れる。
「俺も――おまえのおかげで、王配らしくしていられるわけだが」
語尾にわずかな照れと、淡い苦笑が滲む。
「まあ、殊勝なことで。でも……あなたの本気の上段斬り、ほんとうに久しぶりに見たわ」
吐息が白くほどけ、緊張の膜がわずかに緩む。
「懐かしいな。最初に手合わせした時以来か。もっとも、あの時は……本気で押し切る気なんて、さらさらなかったけどな」
視線が一瞬だけ遠くの闇に滑り、記憶の温度が戻る。
「手加減してあれだもの……。エアバーストならまだしも、今度はファイアーボールまで真っ二つにするなんて……本当にあなたって、どこまで常識外れなのかしら?」
火の粉が頬をかすめ、苦笑が淡く光る。
「いまさら言うか? 俺にとっては大した問題じゃない。前にも言ったはずだろ?」
鞍上の癖のように肩がひとつ落ち、声だけが真っ直ぐだった。
「『より速く、より強く、ただ、ぶった斬るだけ』、だったかしら?」
合言葉のような響きに、空気が一拍だけたわむ。
「俺を止められる魔術師なんてこの世には存在しない。たとえ……無詠唱無遅延のお前だろうとな」
微かな金属臭が鼻先に寄り、言葉は鋼の重みを帯びた。
「はぁ……本当、あなたには恐れ入ったわ」
笑みの縁が揺れ、緊張の糸が細く解ける。
広場の隅では、攻撃者を追う足音が遠ざかっていくが、ヴォルフは再び鋭い視線を巡らせ、まだ敵が残っていないかを警戒している。
彼の纏う剣気は少しも衰えていない。メービスがここにいる限り、ヴォルフは油断など決してしないのだろう。その姿から揺るぎない意志が感じられ、アリアも気を引き締める。
メービスも、そんなヴォルフの横顔をどこか穏やかに見つめていた。
彼の無骨な強さが、これ以上ないほど彼女に安心感を与えているのだろう。人間離れした力を持つヴォルフ。しかし彼はいつもメービスのそばに立ち、剣を振るい、体を張って彼女を守ろうとしている。
メービスもまた、その強さを一切疑わず全幅の信頼を置いているのだ――アリアには、それが痛いほど伝わってきた。
広場には再び静寂が戻りつつある。火球の残滓は風に流され、人々の動揺も少しずつ沈静化していた。
けれど、ヴォルフの警戒は緩まない。彼はいつでも次の『雷光』を放てるよう、白銀の剣の柄に手を置き、静かに感覚を研ぎ澄ませている。
メービスもまた、ヴォルフの存在を心強く思いながら、深く息をついた。彼の剣だけでなく、その確固たる意志が、この危機を乗り越えるためにはどうしても必要なのだ――女王としての重責と、ヴォルフへの深い信頼。その両方を、メービスはその瞳の奥に宿している。
やがて追撃隊からの報せが届き、先の火球を放った魔術師らしき者が逃走中であることが明らかとなる。
宰相兵や市民たちは動揺を隠せないものの、伯爵やアリアの指示で最低限の警戒態勢を維持しながら、一旦その場の整理を進め始めていた。
そんなとき、ダビドが進み出て、ヴォルフの脇に片膝をつくようにして、声を張り上げた。
「皆の者――こちらにおられるのは、ヴォルフ・レッテンビヒラー殿下。我らが女王陛下の王配にして、リーディス最強、いや、世界に並ぶ者なき騎士であらせられる!」
夜気が一瞬澄み、視線が一斉に収束した。
――王配殿下……!?
アリアは驚きと共に、先ほどのヴォルフの態度やメービスとの親密さに合点がいった。なるほど、そういうことだったのか、と。
ダビドはさらに一歩進み、胸を張る。
「夫婦の聖剣を掲げ、魔族大戦を駆け抜けた“精霊の巫女”と騎士――その伝説を、皆も耳にしたことがあるだろう! このメービス陛下とヴォルフ殿下がそろわれた今、何ひとつ恐れることはない!」
畳みかける宣言に、空気がわずかに温度を取り戻す。
さきほどの火球を一刀両断した光景はすでに彼らの脳裏に焼き付いており、『世界最強』という言葉が誇張ではないかもしれないと思わせるだけの説得力があった。
人々の不安を少しでも和らげ、士気を高めようというダビドの意図がアリアにも伝わってきた。
しかし、肝心のヴォルフは、急に全員の注目を集めたことがよほど落ち着かないのか、バツの悪そうに頭を掻いていた。
「いや、ダビドよ。俺、そういう目立つのは勘弁してほしいんだが……」
声に照れが混じり、銀髪が風にほどけた。
「何をおっしゃいますか、殿下。ここまで派手にご活躍なさったのです、もう諦めてください。今日ばかりは隠れようとしても無理ですよ」
火の明滅が苦笑の影をゆらし、肩がわずかに落ちる。
「そうそう。せっかくみんなの前で格好いい見せ場を作ったんだから、堂々と胸を張っていればいいのよ。ね、雷光の騎士様?」
やわらかな声音が、広場の緊張を一段ほぐした。
「まったく……」
渋い吐息が白く立ちのぼり、それでもヴォルフはメービスの傍らで背筋を伸ばした。
激しい戦火の予感が拭えないにもかかわらず――いま彼らが見ているのは、危機を食い止めようと手を携える女王と王配の姿。その『夫婦』ならではの空気感は、荒んだ空気の中でも確かな安堵をもたらしていた。
アリアはそんな二人を眺め、ささやかな微笑を漏らす。
恐怖と混乱に支配されかけた街を、少しずつでも前へ進めようとするメービスとヴォルフの姿――それを目にした人々の表情が、どこか柔らかく変わっていくのがわかる。彼らを支える伯爵やダビドの存在も含め、ここにいる者たち皆が小さな奇跡を起こしつつあるかのようだった。
夜風はなお冷たく、遠方ではまだ不穏な火の手がくすぶっている。けれど、メービスとヴォルフの並び立つ姿が、どうしようもなく先の見えない時代の夜を、ほんのひとかけらでも照らし出している――アリアはそんな淡い光を、心に刻み込むように感じていた。
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------------------------- エピソード438開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
宵闇に灯る縁
【本文】
焚き残りの松明が湿った火を吐き、冷えた夜気に白い息が重なる。メービス女王の瞳には、燃え盛る炎の赤ではなく、絶望の縁でかすかに揺れる光が映っているように見えた。氷の世界に閉ざされる直前、それでも消えずに残る灯――アリアは、その明滅を見逃すまいと息を止める。胸の内側で鼓動がひとつ、乾いた音を立てた。
「これで終わりとはいえない……。
わたしが知るかぎり、宰相クレイグ・アレムウェルという人物は、“尻尾を巻く”などという素直さを持ち合わせていない方です」
女王の声は静かで、刃の冷ややかさと炉の底火を同時に含んでいた。吐息が白くほどけ、夜の寒さに溶けていく。
「宰相は自らリュシアン殿を出迎えると息巻き、正規軍を率いて王都を発ちました。推定では、あと二、三日ほどで、中継地であるここ、ボコタに到着するはずです」
ダビドの低音には焦りの熱が混じる。革手袋の縫い目がわずかに軋み、指先の緊張を伝えた。
「ほう、あの宰相がですか?」
伯爵は口角をひと匙だけ上げる。雪の気配を含んだ風が裾を鳴らし、ヴォルフは短く頷いて白い息をひとつ。
「間違いない。俺たち北行きに協力を名乗り出た将兵たちが、その動向を確認済みだ。権威を示すつもりなのか、豪奢な六頭立ての馬車まで用意したらしいが……ふん、雪の中をご苦労なことだ」
皮肉が刃の背で撫でるようにさらりと走る。アリアは、その冷ややかさの下にある苛立ちの温度を感じ取った。
「ふむ、彼は常に安全圏から全体を俯瞰し、決して自分の手を汚さない狡猾な男なはず……。この厳寒の最中、わざわざ王都から出向く姿など、想像しにくいですな」
伯爵は手袋越しに顎に触れ、視線を落とす。短い沈黙が、雪の降りやむ間(ま)のように一帯を薄く冷やした。
「……もしや、陛下がなにか仕掛けられたのではありませんか?」
問いの火種が油を得る。女王の背筋に通る一本の芯が、アリアの眼にもはっきり映った。
「ええ、お察しの通りです。これはわたしなりの、ささやかな駆け引きの成果と言えますね」
言葉の端に、ごく淡い笑み。星の細片みたいな光が、冷えた空に瞬いた。
「あの宰相と直接やりあおうとは、ずいぶんと剛毅なことだ。いや、この吹雪の中を駆けつけたあなたであれば、さもありなん、か」
伯爵の声音は甘く、しかし目の奥には観察者の鋭さが宿る。
「そんなに格好のつくものではありませんよ。わたしはただ、王宮で彼と折衝を繰り返して時間を稼いでいただけです……。さすがに権謀術数にかけては彼の方が何枚も上手ですし、とても敵いませんでしたけど、それくらいは足掻いてみせないと……」
メービスはローブ越しに腕を擦った。布の毛羽が皮膚へささやき、冷えが逆流してくる。
「……結果、宰相は“女王”など恐るるに足らず、王宮からは決して動けないと踏んだようです。正式な文書もない、口約束だけの承認を錦の御旗に仕立て上げ、仰々しい行列まで設えて、自らの権威を確立するための布石として使うなど、呆れたものです」
唇に灯った微笑は、棘の影を隠さない。アリアは胸の奥で小さく息を詰め、その強さと脆さの両方に目を奪われる。
「ふふっ、面白い。まさか陛下ご自身が行動し、出し抜くなど、彼も想像すらしていないでしょうな。その叡智と胆力、そして類まれなる行動力――このレズンブール、まことに感服いたしました」
雪明かりが伯爵の横顔を薄く洗い、礼賛の色が隠しようもなく滲む。
「ですが、このまま宰相をこの街に入れてしまえば、事態はさらに悪化するでしょう。彼は街の混乱を利用し、“女王”が引き起こしたものだと喧伝するに違いありません。騒乱を平定したという形を作り、自身の正統性を示すために……。
そんな筋書きが見えてくるのです。だからこそ、止めねばなりません。関係のない市民を王宮闘争の犠牲にするわけにはいきませんから」
声は穏やかでも、芯の熱は消えない。松脂の匂いがわずかに濃くなり、アリアの指先が手袋の内でそっと握られた。
「……つまり、宰相を追い詰めるために、陛下はご自身が危険にさらされることも厭わないと?」
伯爵の問いは鋭く、しかしどこか試すようなやわらぎがあった。
「この街にわたしが現れたこと、伯爵がわたしの側にあること。もし知られれば、宰相は全力で叩き潰しにかかるでしょう。おそらくは、女王を騙る不届き者の烙印を押して……」
吐息ひとつ。アリアの喉元で沈黙が鳴り、視界の白さがいっそう冷たく澄む。
「彼ならやりかねませんな。むしろ狙い通りというところか」
伯爵の唇がわずかに吊り上がり、雪片がその端でほどけた。
「奴にこちらの状況を探られるわけにはいかない。影の手を三名、すでに確保してはいるが……」
ヴォルフが一歩進む。靴底が霜を踏み、軽い音が夜の器に鳴り渡る。
「先程の魔術師が、影の手の一員だとすれば……ね。捕らえられるものなら、ぜひ捕らえてほしい。宰相がどんな手を使ってくるか、正直、わたしにも読めない。でも……たとえ危ない橋だとしても、守らなきゃ。この街のみんながもっと困るから……。
ごめんね、女王のくせに、こんな言い方しかできなくて」
言葉の終わりに、かすかな自嘲が滲む。アリアは胸の奥で「いいえ」と言えず、代わりに指先の震えを袖の内でそっと抑えた。
「本当は、誰かに決めてもらえたらどんなに楽かって、いつも思う。でも、逃げるわけにはいかないのよね。女王としても、“わたし”としても……」
女王の眼差しは、雪明かりよりも淡く、しかし確かに前方を照らしていた。
「恐れながら陛下……ここが戦場になる、ということなのでしょうか? 私たちはどうすればいいのですか……?」
アリアは一歩だけ踏み出す。冷えた風が頬を撫で、言葉の尾を細く冷やした。けれど、足は退かない。
「アリア、陛下に対して失礼だぞ」
ダビドが慌てて前へ。肩の緊張が声に乗る。
「ダビド、いいのです」
メービスの静けさが空気のざわめきを鎮める。彼女はアリアの隣へ一歩、手を伸ばせば届く距離で微笑んだ。
「安心して。そんなことは絶対にさせません。そのために、わたしはここに来たのですから」
その一言が胸に落ち、理由もなく熱いものが目の縁へ満ちる。荒れ地に降る細い雨のように、言葉が沁みこんだ。
「ところで、あなたがアリアさんですか?」
ふと角度を変えた声に、アリアの肩がわずかに跳ねる。白い吐息が小さくほどけた。
「あ、はい……」
自分でも驚くほど掠れた返事。視線が自然と、ダビドのほうへ滑っていく。
「実はここへ来る前、このダビドから“どうしても探したい人がいる”と言われたのです」
その瞬間、ダビドの背筋がぴんと伸びた。手袋の拳が胸元で小さく結ばれる。
「申し訳ございません。任務を放置してまで個人的理由で動くなど、許されることではありません。処分は甘んじて受ける所存です」
声は固いが、わずかに震えを含んでいた。
「いいえ。もともとわたしは一人で行動するつもりでしたし、後ろにはヴォルフが控えています。あなた一人が少し離れたところで動いていたところで、何の問題もありませんよ。それに、真面目一徹なあなたがそこまで気にするのですから、わたしが止める道理はないと思いました」
メービスのまぶたがやわらぎ、寒気の輪郭が一瞬緩む。ダビドは唇を結び、言葉を失った。アリアもまた、胸の奥で何かがほどける感覚だけを抱く。
「人と人の出会いや縁というのは、本当に不思議なものですよね。偶然のように見えても、振り返ってみれば、それが必然だったと気づかされることがあります。わたしは、それを身をもって知っています。ほんとに……。
だから、ダビドが“探したい人”としてあなたの名を挙げたとき、そこにはきっと、それだけの価値がある、特別な縁があるのだと感じたのです」
囁きの温度が、雪の冷たさを内側から溶かしていく。孤独を越えた者のやさしさが、ことばの奥で淡く光った。
「縁」という音が胸の奥で小さく跳ねる。酒場の女主人と客――たったそれだけの距離のはずなのに、ダビドが扉を開けるひとときはいつも穏やかで、アリアはその来訪を目印のように待っていた。皮肉交じりの冷静さの影で、不意にのぞく柔らかな笑み。真剣に耳を傾ける姿勢。思い返すほど、頬の内側に淡い紅がさす。
ちらと横を見ると、ダビドもまたわずかに赤い。真面目な横顔に、場違いな照れがほんのり灯っている。伯爵は珍しい劇の観客のように目を輝かせ、ヴォルフの視線だけは鋭く、警戒の糸を緩めない。
それでもメービスは、母性めいた光を瞳に宿してふたりを見つめる。「何も隠さなくていいのですよ」と、音にならない言葉が空気に溶けた。
「アリアさん」
呼ばれて、名が胸に落ちる。夜はさらに冷えるのに、その声だけが灯火のように温かい。
「この状況を乗り越えるために、あなたの力を貸してほしい」
思いがけない申し出に、迷いと小さな勇気が胸の内で触れ合う。
「私に、できること……」
声は震え、言葉はそこでほどけた。女王の微笑が深まる。
「あなたの勇気と、その優しい心があれば、きっと大丈夫です。ほら、頼りになる騎士もすぐ傍にいてくれていますよ?」
ダビドが一瞬だけ目を見開き、すぐに意を決して頷く。まっすぐな眼差しがアリアを射抜き、確かな信頼の温度が胸に届いた。
冷えた空気を肺いっぱいに吸い込む。指先のこわばりがほどけ、細いと思っていた自分にも、何か担えるものがある――そう思えた瞬間、温かな決意が芽吹く。見渡せば、街角の松明がささやかな光を揺らし、雪を含んだ風は相変わらず冷たい。孤独な闇にも、人の意志で灯る明かりはある。これこそが女王の言う「縁」なのだと、アリアは静かに悟った。
小さく頷くと、メービスが穏やかに笑みを返す。粉雪を吸い込む宵のヴェールの下、それぞれの思いが一点へと集まっていく。王国を揺らす激流に流されるのではなく、その流れを変えるために――いま、手を取り合うのだ。
夜風に紛れるほどの小さな声で、「ありがとう」と女王が言ったように、アリアには聞こえた。舞い降りる雪片は儚い調べを奏でるように地へ溶け、一瞬のきらめきは縁に似て、刹那に見えても確かな軌跡を残していく。アリアはまばたきをひとつ、静かに落とした。
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------------------------- エピソード439開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
凍てつく街に咲く灯火
【本文】
昼の光が弱まるたびに冷え込みの厳しさが増し、夜の帳がいっそう早く降りてくる。ここは王都から遠く離れた雪深き街、ボコタ。つい先日まで戦火に巻き込まれていたという事実が嘘のように、しんしんと降り積もる粉雪が大地を覆い尽くしていた。
アリアは「灰鴉亭」の扉を閉じると、吹き込んでくる氷のような夜風に身を小さくする。
酒場兼宿として営んできたこの店は、戦乱による混乱で多くの負傷者や避難民を受け入れた結果、すっかり仮設医療所のような姿になってしまった。しかし、暖炉の火は絶えず燃やし続け、温かい食事と休む場所を提供することで、困窮する人々を少しでも救えたのだと思えば、些細な問題だと感じる。
アリアは、この灰鴉亭を単なる避難所ではなく、人々の心を繋ぐ温かい場所にしたいと強く願っていた。
「……じゃあ、行ってくるわ。皆さん、店のこと、どうかお願いしますね」
暖炉の薪がぱちりと弾け、赤い火の粉が小さく舞った。
暖炉のそばで患者の看病を続けているマリアとクリスが、「はい、お気をつけて」と声をそろえて送り出してくれた。
メービスの指示で派遣された彼女たちの献身的な働きぶりは、アリアにとって大きな支えとなっている。
薄墨色の宵闇が町を包むなか、アリアは足早に石畳を踏みしめた。
凍える夜気が彼女の頬を刺し、白い息が吐くたびに薄く宙に溶けていく。雪が路地にうず高く積もり、人通りもまばらだが、ところどころに明かりを灯す松明やランタンがかすかに光っている。おそらく、倒壊した建物や瓦礫を整理する人々が仕事を続けているのだろう。
アリアは、その灯りひとつひとつに、復興への小さな希望を感じていた。
今宵、アリアが向かう先は街の公会堂。メービス女王が主導し、伯爵をはじめ街の代表者や、戦乱を引き起こしてしまった宰相兵の残党の代表まで含めた、重要な会議が開かれることになっている。
いまだ混乱冷めやらぬボコタを、どうやって再建していくのか。その大きな岐路を定める場――アリアのような一介の酒場主人が、まさかそうした場に招かれるとは夢にも思っていなかった。
◇◇◇
公会堂の前には、警備にあたっているのだろうか、ダビドの姿があった。再会できた喜びを胸に、アリアは軽く頭を下げた。
「遅くなってごめんなさい。灰鴉亭の様子を見ていたら、少し時間がかかってしまって……」
肩口の雪がほどけ、襟元へ冷たい水の線がすっと落ちた。
「アリア、よく来てくれた。すまんな、いろいろ無理言って」
彼の声は低く、外気の冷たさに触れて少し硬い。
「女王陛下のご指名を受けて断る理由なんてないわよ。それに、街のお偉いさん方に訴えて、灰鴉亭への支援を取り付けなきゃならないからね」
煮込みと灰の匂いが外套に染み、胸の内へゆっくり降りる。
「それがいい。あそこは広さもあるし、大きな井戸だってある。おまけにあんたが店を清潔に保っている。救護所向きだ」
遠くで靴の踵が石を打ち、短い音が会話の隙間に落ちた。
「ダビド、ありがとう」
言葉の余白で舌裏が乾き、指先は知らず布の端をつまむ。
「別に礼を言われるような理由はないが」
ランタンの炎がゆらぎ、彼の横顔に薄い影を往復させる。
「理由? あなたが女王陛下に引き合わせてくれたことよ」
脈がひとつ跳ね、喉の奥で細い息が折り返す。
「ああ、結果的にはそうなったか……まあ、あんたみたいな骨のある人なら、弱い立場の気持ちを伝えるには最適だろうって思ったから」
隙間風が戸板を鳴らし、頬の熱だけが取り残された。
「ええ、望むところよ」
足裏へ冷えが集まり、靴底の感覚がきゅっと締まる。
「その意気だ。行こうか」
取っ手の鉄が指に冷たく、静かな抵抗を伝える。
公会堂の扉を開けると、先に来ていたダビドが彼女に気づいて声をかける。彼の優しい声を聞くと、胸の奥がほんのりと温かくなる。
初めて彼と出会ったのは、宰相兵が街を占拠した直後だった。一人で切り盛りしていた灰鴉亭に、時折ふらりと立ち寄る、物静かな旅人――それがダビドの最初の印象だった。
自称「流れの商人」。言葉数は少なかったけれど、彼の見つめる瞳の奥にはいつも優しさがあって、いつしかアリアは彼に特別な感情を抱くようになっていた。
ダビドに案内され、公会堂の広間へ進むと、そこにはすでに街の代表者数名と、宰相兵残党の代表が待機している。重苦しい空気が漂い、誰もが夜の寒さとは別の意味で身を縮めているようだった。
アリアは、その緊張感に、これから始まる会議の重要性を改めて感じた。
◇◇◇
やがて、扉の向こうから厚手のマントを翻して姿を現したのはレズンブール伯爵と王配殿下ヴォルフ。それから、ひときわ存在感を放つ女王陛下メービスの姿があった。
泥で汚れた白いマントをまとったままの彼女は、冬の闇を切り裂くかのように静かな気迫を放っている。
その姿を見た瞬間、アリアは胸が熱くなるのを感じた。民を思うその強い意志が、彼女の全身から溢れ出ているようだった。
「お待たせしました。皆さん、この寒い中お集まりいただきありがとうございます。さっそくですが、ボコタ再建についてお話をさせてください」
メービスが公会堂中央のテーブルにつくと、全員がその言葉に耳を傾ける。
外はすでにとっぷり夜が更けた気配がある。騒乱の直後、誰もが心身を休める間もなく過ごしており、疲労は限界に近い。しかし、ここで何も決まらなければ街の混乱はさらに深まってしまうだろう。
メービスはまず、宰相兵の残党を代表する男に視線をやり、それから静かに立ち上がった。
「……まず先に、混乱を招いた責は、すべて我らにあります。申し開きの余地もございません。女王として、被害を受けられた市民の皆様に、心よりお詫び申し上げます」
女王の声が静かに広間を満たし、誰もが息を呑んだ。
「わたくしは、街を荒らしたまま立ち去るつもりはありません。幸い、焼損を免れた倉庫には食糧や医療品が相当数残っております。これらを優先的に、市民の皆様へお配りいたします。そして、微力ながら再建にも力を尽くす所存です」
伯爵はその言葉に応じるように一礼し、自ら用意した紙束を静かにテーブルへ広げた。
「騒乱の影響で倒壊した建物や、焼け落ちた家屋は少なくありません。避難所の不足、医療物資の欠乏による二次被害も懸念されます。われわれが直ちに取り組むべきは、大きく三つ。
一つ、負傷者と避難民の救護、および生活物資の早急な配給。
二つ、倒壊区画の瓦礫撤去と、必要に応じた仮設住居の整備。
三つ、街道など主要な交通路の確保と、外部支援を受け入れやすい体制の構築。
いずれも時間との戦いです。何より今は厳冬期、迅速な決断と行動が求められます」
伯爵の言葉は力強く、具体性に満ちている。
メービスは満足そうに頷き、周囲を見回した。
「再建策を進めるにあたって、誰かが中心となり、この街の実情を把握しながら作業を指揮しなければなりません。
……そこで伯爵、あなたに“責任者”として全体の統括をお願いできないでしょうか」
暖炉の火が低くはぜ、広間に静けさが戻る。
伯爵は即座に立ち上がり、深く一礼した。
「ありがたきお言葉。私め、その任を拝命いたします。ただし、私一人の判断で取り仕切ることはいたしません。街の代表の皆様と合議のうえで進めたいと存じます。
また、元宰相兵の方々とも連携し、何よりもまず、目の前の命を救うため、迅速な決断を下したく存じます」
賛同の声が広間に重なり、宰相兵代表の男も深い安堵の息を漏らす。これでようやく、復興へ向けた大枠が定まったように思えた。
続いてメービスがやや疲れた面持ちで息を整え、アリアへ向けてまなざしを投げる。
「アリアさん」
名を呼ばれた音が胸に触れ、返事より先に喉が震える。
「はい」
「あなたの“灰鴉亭”が、この街で最も医療と避難の両面を兼ねた拠点になっていると聞いています。大勢の傷病者や家を失った方々が、あなたを頼りにしていると」
暖炉の灯がゆらめき、アリアの頬を淡く照らす。彼女はわずかに肩をすくめ、恥じらうように視線を落とした。
「はい……。大した設備はございませんが、暖炉と、少しばかりの広さがございますので、自然と多くの方が集まってこられます。陛下のご配慮で医療に詳しい方々を派遣していただき、今は、どうにか回せている状況です」
メービスの口元にわずかな笑みが浮かぶ。
「わたくしの判断で、医療品を優先的に運ばせましょう。“灰鴉亭”を基点として負傷者の救護や食糧の配分を一括して管理できれば、街の混乱もいくらか抑えられるはずです。
……アリアさん。今後とも、街の皆さんを支えていただけますか」
暖炉の火がぱちりと弾け、アリアの胸も同じように小さく鳴った。
彼女はきゅっと両手を胸元で組み、瞳に静かな決意を宿す。
「もちろんです。お力になれることがあるなら、何でもいたします。灰鴉亭を拠点として、食糧や医療品を保管し、避難してきた方々が安心して過ごせるよう、できる限りのことを尽くします。炊き出しの準備も、怪我をされた方々の手当も――私にできることは、何でも」
その言葉に、伯爵やダビドがほっと安堵の色を浮かべ、宰相兵代表もまた深々と頭を垂れた。殺伐としていたこの広間には、わずかではあるが“協力”という明るい気配が立ち上がり始めている。
伯爵は卓上の紙にさらさらとメモを取りながら、早口で指示を重ねる。
「では、決まりだ。まずは、倒壊しかかった建物の危険箇所を示す地図を作成しよう。それを基に作業班を編成し、瓦礫の撤去を急がせる。併せて、“灰鴉亭”への主要ルートを最優先で整備し、食糧と医薬品を搬入しやすくする。元宰相兵の方々には、物資の管理と配送をお願いできるだろうか?」
「はっ……はい。もちろんです」
その声にうなずきながら、伯爵はさらに続ける。
「また、救護所の中核となる“灰鴉亭”へは、ダビド班から追加の人員を派遣します。アリア殿の手が回らぬ分、物資の仕分けや配給の流れを支援させましょう。夜間の治安維持はヴォルフ殿下を中心に行い、元宰相兵にも巡回を命じます。雪道は滑りやすく、明かりが不足すれば事故のもとです。松明やランタンの確保も、急ぎ手配してください」
実務に優れると定評の伯爵は、噂通り思考のスピードが速く、周囲の人間も書き留めるのに精一杯といった様子だ。室内には書き付けるペンの音と、時折の確認の声が絶えず飛び交う。
アリアはあまりの活気に圧倒されつつも、“ボコタが再生へ動き出している”という希望に胸を打たれるのを感じた。
◇◇◇
こうして、厳冬の夜にもかかわらず公会堂はまるで昼間のような熱を帯び、復興策の大筋と即時に行うべき作業が次々とまとめられていった。伯爵を中心に話はきびきび進み、街の代表や宰相兵らもできる限りの協力を惜しまないという姿勢だ。
そうして一通りの協議を終え、そろそろ会議を散会にしようかというタイミングで、アリアはふと違和感を覚える。
メービスが椅子の背にもたれかかるようにして、小さく肩で息をついているのだ。その表情には疲労の色が濃い。
「女王陛下……お顔が、真っ青……?」
アリアが声をかけた矢先、メービスは不意にぐらりと身体を傾け、片手で机を支えようとする。しかし力が入らないのか、そのまま床へ崩れ落ちかけた。
その時、ヴォルフが目にも止まらぬ速さで駆け寄り、ぎりぎりのところでメービスの身体を受け止める。ダビドや伯爵が「陛下!」と叫び、宰相兵代表も慌てふためく。
見ると、メービスの顔にははっきりと汗が浮かんでおり、唇が震えている。
「大丈夫か? しっかりしろ、メービス……」
ヴォルフはそのたくましい腕でメービスを支えながら、激しく息を切らしている。今まであれほど堂々と議論を進めていた女王が、こうも簡単に倒れるなど想像できなかった。
呼びかけに答える力もなく、メービスは小さく唇を動かすだけ。
ダビドが脈をとり、伯爵が顔を覗き込むが、意識は半ば失われているようだった。まるで高熱を出しているのではないか……そんな不安を感じさせるほどの火照りが、メービスの頬を染めている。
「陛下は、ずっと無理を通してこられましたから。少し休んだとはいえ、熱だって下がり切っていなかった」
ダビドの声に、ヴォルフが悔しげに顔をしかめる。
「俺だって、さんざん“休め”ってきつく言ったさ。けど、こいつは聞く耳なんざ持ちやしない。ちょっと寝たくらいで治るもんじゃないってのにな……。いまさらだが、こいつは“自分がやらなきゃ”って、倒れるまで無理しちまうんだ。まったく、世話が焼ける……」
言葉は苦々しいが、その瞳にはメービスへの深い憂慮がにじんでいた。
アリアは、ヴォルフの感情的な一面に、胸が締め付けられるような思いがした。女王陛下にとって、彼はかけがえのない存在なのだと改めて感じた。
周囲の者たちも騒ぎ始める中、アリアははっと我に返って、メービスの額に手を触れた。その熱さは尋常ではない。厳しい寒さの外気の中でこの体温……相当に体調を崩しているにちがいない。
「こんな所じゃだめ。早く、暖かい場所に移して休ませなきゃ……。
伯爵様、ヴォルフ殿下、“灰鴉亭”ならすぐ近くです。私の自室でよければ、お使いください。清潔な寝台と暖炉があります。そこへお運びしましょう」
息せき切ってそう申し出ると、ヴォルフは一瞬迷うように目を伏せるが、うめくように頷いた。
「悪いが頼む。アリア、あんたに陛下を託す。俺は街の治安維持を放り出すわけにはいかん。ダビドと伯爵はどうする?」
伯爵は即座にアリアの考えを支持した。
「私はここに残り、皆をまとめねばなりません。街路の復旧ならびに、物資配給の効率的な体制づくりは急務です。市民を安心させるには、それが最優先の課題。そうしなければ、陛下も心安らかにはお休みになれぬでしょう。ここは私めにお任せを。殿下には、どうか陛下のご容体を最優先にお考えいただきたい」
そこでダビドがヴォルフに目を向ける。
「ダビド、お前は宰相兵たちと巡回に回ってくれ。他の班員も血眼になって捜索を続けているが、例の魔術師の行方はいまだ掴めん現状では、夜のうちに何が起こるか分からん。警戒を怠るな」
踵が石を強く打ち、張り詰めた空気に円い波が広がる。
「はっ。直ちに!」
そんな二人のやり取りをよそに、アリアはすでに行動を始めていた。椅子に崩れかけたメービスを支え、その腕をそっと背中に回す。ヴォルフも手伝いながら、女王の身体をしっかり抱き上げた。
「では、急ぎましょう。皆さん、夜分に申し訳ありませんが、街路の復旧作業を引き続きお願いします」
アリアがそう口にすると、伯爵が低く頷き、宰相兵や街の代表者も一斉に「お任せを」と応じる。こうして予定より早く会議は切り上げられ、ボコタ再建に向けた第一歩が踏み出された。
◇◇◇
公会堂を飛び出した途端、濁った夜風が激しく吹きつけ、ヴォルフの白いマントがはためく。力強くメービスを抱える彼の表情には、焦りと苛立ちが見え隠れしている。
「転ばないよう注意してください」
アリアが声をかけるが、ヴォルフは短く「わかってる」と答える。
彼の足取りはしっかりしているが、抱かれているメービスの息が浅いままなのが気がかりだった。火照った身体を持て余すように微かにうめき、顔は汗で濡れている。
アリアは、ヴォルフの腕の中で苦しそうに眉をひそめるメービスを見て、いてもたってもいられなくなった。
街灯代わりの松明が雪に反射し、あたりはぼんやりとした明るさに包まれていた。しかし廃墟のように壊れかけた家屋や崩れた塀が影を作り、その合間から寒風が吹き抜ける。
ときおり路上に積まれた瓦礫を迂回せねばならず、アリアはそのたびに足を取られそうになる。
「これだけ暗いと、瓦礫が分かりづらいだろう?」
ヴォルフの低い声が、アリアの耳元で響く。
「殿下こそ、平気なんですか?」
「こんなの戦場で慣れっこだ。蹴つまずいたところで、死んでもこいつだけは手放さん」
その決意めいた言葉には、ヴォルフの深い愛情が込められているようだったが、同時に焦りも滲んでいた。
アリアは、彼のその強い言葉に、メービス女王への揺るぎない想いを感じ、胸の奥がじんと熱くなった。
吐く息が白くほどける。
「……今晩は、いっそう冷えますね。急ぎましょう」
刺すような寒さが頬をかすめたが、胸の奥に灯った熱がその痛みを忘れさせてくれていた。
【後書き】
灰鴉亭の果たす役割
仮設医療所兼避難所としての“灰鴉亭”
もともと「酒場兼宿」だった建物が、戦乱後の混乱で多くの避難民や負傷者を受け入れ、医療や食事を提供する拠点へと変貌しています。
建物の機能変化は、アリアの人柄や行動力を示すと同時に、非常事態下で生じるコミュニティの形成を象徴しています。
暖炉の絶え間ない火が、寒さと不安に震える人々の心を温める象徴として描かれ、作品の中核的モチーフになっています。
“人々の心を繋ぐ温かい場所”
アリアは灰鴉亭を単なる避難所ではなく、「人々が集まって絆を育む空間」にしたいと考えている。厳しい現実に対するアリアの願望と優しさ、そして行動力がうかがえます。
アリアの立ち位置と成長性
一介の酒場主人から“街の再建メンバー”へ
物語冒頭で明かされるように、アリアは当初「まさか自分が重要な会議に招かれるとは思っていなかった」。しかし実際には、灰鴉亭の存在意義が大きくなり、自然と復興の中心人物の一人に数えられるようになっている。
ダビドへの想い
本文中では、ダビドの優しい声や物静かな雰囲気に特別な感情を抱くアリアの内面がちらりと描かれます。
復興会議の場面で示される人間模様
宰相兵の残党
彼らが戦乱の元凶の一端であるにもかかわらず、「街を荒らしたまま立ち去れない」として協力を申し出る展開は、“敵味方”の単純な線引きだけでは戦後の街は立て直せないというリアルなテーマを示唆します。
一方で、周囲の冷たい視線はまだ残り、彼ら自身も後ろめたさを抱いている。その微妙な空気感が、復興劇における緊張感を高めています。
伯爵の実務能力
伯爵はここで、実務主導の立場を取って会議を円滑に進める存在として描かれています。「倒壊区画の地図作成」「危険箇所の確認」「物資の仕分け・搬送ルート」など、具体的かつ迅速な指示が出される。
貴族としての権威だけではなく、冷静な分析力と行動力を兼ね備えるキャラクター像が明確で、“頼れるリーダー”として機能する様子がわかります。
メービス女王の気概と限界
メービスは街のために尽力する姿勢を崩さず、戦火を沈めるために王都から駆けつけた人物として尊敬を集める一方、無理を重ねて体調を崩していることが描かれます。
倒れかけるまで自分を追い込む女王という設定は、「優しく強い女王」のイメージと、「責任感ゆえの危うさ」の双方を表す。彼女の存在が周囲の人々の士気を高めつつも、彼女自身が支えられる必要があるというドラマを形成します。
ヴォルフとの関係性・メービスへの愛情
“王配殿下”ヴォルフの焦り
会議の後半でメービスが倒れる場面で、ヴォルフが素早く彼女を抱きとめる描写があります。彼の台詞や態度には、日頃の沈着冷静さとは裏腹な苛立ちや焦りが入り混じっている。
これはメービスへの深い想い、あるいは強い責務感を示唆し、ふだん見せない感情的な一面を垣間見せることでキャラの厚みを増しています。
ダビドの騎士らしい献身とアリアへの好意
“騎士”としての本分を果たすダビド
ダビドはメービス女王を気遣う一方、街の巡回や復興作業の警護を行う任務を受け、アリアに女王の看護を託します。
「優しく物静かな旅人」だった当初の印象と、“使命に燃える騎士”という姿が重なり、アリアの胸により強く響いていく過程が予感されます。
アリアとの関係
灰鴉亭で出会った頃から、アリアにとってダビドは特別な存在。夜闇の会話や会議前後のやり取りを通じて、ほどよいロマンスの伏線が敷かれているといえます。
物語の方向性
世界観の構築
戦乱後の街と厳冬期という過酷な環境がリアルに描かれます。雪や寒風、瓦礫による障害が“復興”を切迫したテーマは、物語全体の緊張感を高める要因となっています。
人物の役割の明確化
アリア
灰鴉亭を拠点とする。避難民を救い、温かい居場所を提供する“包容力”がありつつ、復興会議に参加することで街の未来に関わる。
ダビド
銀翼騎士団ダビド班リーダー。騎士としての使命と、アリアへの穏やかな好意を内包。クールかつ温かい。
メービス
街を守るため無理を重ねる女王。強靭な意志と儚さのコントラストが、周囲に守られる展開を生む。
ヴォルフ
王配殿下でありメービスの騎士・理解者として、政治的にも感情的にもメービスを支える。
伯爵
実務力と指揮力で戦後復興の具体策を提示するブレーン役。
宰相兵残党
元は“敵”だが、伯爵の説得に応じて戦後の混乱を収束するため、街の復興へ加わる。善悪二元論では語りきれない“戦後”のリアリズムが演出される。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード440開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
雪夜に灯る白剣と黒髪の秘密
【本文】
寒風の忍び寄る夜の帳をくぐり抜け、ヴォルフがメービスを抱き抱え、アリアは扉を押し開けて、なんとか灰鴉亭へと運び込んだ。
広い客室には避難民や負傷者たちが横になり、痛みに耐えたり、家族を励まし合ったりしている。頬には深い疲れが刻まれているが、アリアの姿に気づくと、自然に身を引いて道が生まれる。
ヴォルフは肩で息をつきながら、その道を外さぬようメービスを抱いた腕をいっそう強く支えた。
喉の奥が冷えて固く、吐息が白へほどけていく。
「わたしの部屋に運びます。お騒がせしますが、どうかご協力を……」
暖炉の鉄格子が熱を返し、ぱちりという小さな破裂が肩口のこわばりをほどいた。
小走りで近づいてきたのは銀翼騎士団のマリア。驚きと戸惑いの色が一度浮かび、すぐに抑え込まれる。ヴォルフの腕に抱かれたままのメービスを確かめ、息を詰めたように視線が揺れた。
「なっ……! メービ……」
声が上ずりかけ、マリアは咄嗟に飲み込む。視線を素早く走らせ、姿勢を正した。ここで名を高く呼べば、弱った空気はすぐ崩れる――その判断が、表情の端をきゅっと締める。
掌に汗が滲み、革手袋がわずかにきしむ。
「クリス、あなたはすぐにお湯の支度を! アリアさんの部屋に持ってきてちょうだい!」
言い置いてマリアはメービスの容体を確かめ、クリスは桶ややかんを抱えて厨房へ消える。店の一角がざわめくが、声の高さは自然に落ち、心配の視線だけが集まった。
アリアはヴォルフとともに二階への階段を上がっていく。ヴォルフの腕の中でメービスがかすかにうめき、一段ごとに木が小さく鳴り、その音が胸の裏へ触れてくる。
冷たい風が狭い階段を抜け、吸うたび白い息が宙で薄まっていく。
「うう……」
ヴォルフが寝台へそっと身を下ろすと、メービスは苦しげに顔をしかめる。熱は高く、首筋までしっとり汗がにじんでいる。
アリアの居室は広くはないが、炉は絶えず燃え、布団は厚く清潔だ。氷の街で息を継ぐための、小さな港のような場所。
はぜる微音が、緊張の縁をやわらげていく。
「すまんが、俺は持ち場に戻らねばならん。……もし、容体が悪化したら公会堂に人を寄越して知らせてくれ」
ヴォルフは片膝をつき、指の腹で頬を確かめる。震えが自分でも抑え切れない。ランプの反射が指先に往復し、短い影だけが揺れた。
彼女が小さくまぶたを震わせるのを見て、ヴォルフは唇を固く噛む。
「なんて情けないんだ俺は。こうなるとわかっていて、止められなかった。守ると誓ったはずなのに、この体たらくだ。すまん……」
声の底に、苛立ちと悲しみの温度がまじる。アリアは黙ってその温度を受け、胸の奥がぎゅっと縮むのを堪えた。
止められない覚悟と、止めたい愛情。その両方を抱えた背中だった。
灯りが一度だけ細り、床板の冷えが膝へ上がる。
「アリア、後は任せたぞ」
白い呼気が揺れ、視線がまっすぐ刺さる。
「はい。私が責任をもって看護します。どうかご安心を」
アリアの返事に、ヴォルフは短くうなずき、いちどだけ振り返って部屋を出る。足音が階段の下で溶け、静けさが戻った。
扉の外から、もう一つの気配。ダビドだ。表情にかすかな焦り、身体はもう夜の巡回へ向かおうとしている。
「あんただってずっと駆け回って疲れてるだろう。……無理だけはしないでくれよ」
低い声に、人の体温が潜む。
「わかってるわ。ダビドこそ気をつけて。街はまだ騒がしいし、どこに敵が潜んでいるかわからない。それと……怪我なんかされたら、余計な手間が増えるだけだからね」
ささやかな軽口に、ダビドは困ったように笑う。その笑みが、部屋の空気を少し緩めた。
「そうだな。なるべくおまえの手を煩わせないようにするよ。じゃあ、行ってくる」
軽く手が振られ、扉が静かに閉まる。忙しさの渦が遠のき、残るのは二人と火だけ。
燃える音が耳へやさしく触れ、アリアは息を整えて寝台を見やる。メービスは高熱で額に玉の汗。唇はかすかに震え、浅い息がときどき波打つ。そのたび胸の内側がきゅっと痛む。
「……大丈夫。私があなたをお守りしますから」
誰にともなく囁き、アリアは動いた。
まず温める。汗を拭く。乾いた衣服へ。順番を胸で反芻し、指先だけを静かに働かせる。焦りは喉に置いておく。
毛布をかけ、窓のカーテンを引く。暗さの奥で火だけが揺れ、穏やかな静寂が立ち上がる。ほどなく、階下から湯の音が上がってくるだろう。タオルと着替えはもう用意してある。
女王を凍てと泥から解く――その一点に意識を絞る。
「メービス陛下……どうか、少しでも楽になりますように」
触れた指先はまだ冷たい。けれど、先ほどの凍てつく硬さは、わずかに和らいでいる。
アリアは呼吸を合わせるように微笑み、火へ目をやった。火の粉が小さくはじけ、ひと粒だけ高く舞い、静かに消える。灯を絶やさぬ人の姿が重なり、祈りに似た思いが胸に灯る。
メービスの唇が、そっと震えた。
「う……」
細いうめきに、アリアは手を握り返す。夜の重さを裂くほどに、瞳は真っ直ぐだった。導いてきた人を、今度は自分が支える――その決意が、静かに形を取る。
◇◇◇
アリアは手際よく薪を焚べ、炎を少し強めた。
「早く身体を拭いて、着替えさせてあげないと。このままじゃ体温が奪われてしまうわ」
意識のないまま高熱にうなされる女王の唇は蒼白で、濡れたローブは体温を奪っている。解けかかった帯を外す手に、布の重さが移った。
「この国で一番偉い方が、こんなにも無理をしていただなんて……」
結び目に指をかける。冷えて固い布がほどけ、湿りの冷たさが皮膚へ伝わる。ローブの下から現れたのは、粗末な革の鎧。継ぎ、擦れ、縫い留め――王族の装いらしからぬ、実地の傷跡だけが正直だった。
「これが……ほんとうに王家の人が使う装備なの……?」
ため息が白くほどけ、灯が鈍く革を撫でる。
唯一、目を引くのは腰の白い剣。柄から鞘まで飾り気がなく、ただ白――
「これが、女王陛下の剣……? 聖剣と呼ばれているものなの?」
柄は質素で、光だけを素直に返す。
「ええっ!?」
持ち上げた瞬間、重さの予想がすべった。空気ごと切り離したみたいに軽い。掌の熱が、刀身の白へ吸い込まれていく。
――いまは体温が先。
アリアは剣を静かに脇へ置き、濡れた鎧を外す。内側は水気で重く、着けたままでは冷えが骨へ入る。下の衣も雪と汗を含み、危うい冷たさだった。
ボタンを一つずつ。胸元、袖口、裾。布は言葉なく従い、重さを落としていく。
「ごめんなさい、メービス様。今は失礼させてくださいね……」
湯を含ませた厚手のタオルから、石鹸草の青い匂いが立つ。鎖骨のくぼみをなぞり、肩先から脇へ。水膜が肌に薄く残り、温度がゆっくり一致していく。
白磁――喉の奥で呑み込もうとする。必要なのは、温度を保つ手順……なのに。
「なんて……お美しいのかしら……」
思わず零れた声に、灯りの明滅が一度だけやわらいだ。
軽いノック。湯気が扉の隙間から流れ込み、冷えた空気の層に薄い甘さが重なる。
「お待たせしました」
クリスの声とともに、桶の湯が小さく揺れた。
「ありがとう、クリス。じゃあ、あなたも陛下のお体を拭くのを手伝ってくれる?」
「はい」
二人でタオルを湯に浸し、肌を清める。蒸気の薄膜がからみ、苦しげな表情が少し緩む。乾いたタオルで水分を拾い、清潔な衣へ通す。
髪に触れると、乱れと結び目。頭頂に硬い引っかかりが指先へ触れた。
「え……? 何か金具のような……?」
生え際に薄い縁――ウィッグの端。アリアは、クリスと視線を交わす。
「まさか……?」
そっと意を決して、もう少しだけ髪を持ち上げる。地毛であろう髪が現れた。少年のように短い黒。白い肌がいっそう際立つ。布の下で金具が小さく鳴った。
「黒髪って……? この大陸ではとても希少なはず……。それに、王家の黒髪は不吉の象徴だって……」
鉄の枠がことりと鳴り、言葉をひとつ砕いた。
「……陛下は、即位される以前からこのお姿で現れ、『緑髪の精霊の巫女』と呼ばれていました。でも、王族であると公にされたのは、魔族大戦が終結した後のことです。
病に倒れた先の王がこう宣言されたのです。『メービスは精霊から聖剣を賜るべく王家に誕生した、救世の巫女である』と……」
「じゃあ、王家は陛下が黒髪であることを偽っていたというの?」
「そういうことになる、と思います……」
倒れ伏す寝顔は不思議な静けさ。痛ましげな影は薄れ、安らぎに近い。アリアの胸に、知らされた闇の痛みが小さく灯る。
「なんてこと。信じられない……」
乱れたウィッグを手早く外し、短い黒髪の汗を拭う。クリスは言葉を飲み、所作を合わせた。ウィッグを戻し、下着と衣を着せ終えるころ、寝息は少し安定の方へ傾く。
畳んだ衣を脇へ置いたクリスが、まっすぐアリアを見る。瞳に揺るがない信頼と、痛むほどの切実さが共にあった。
薪が静かに弾け、音の薄墨が室内へ落ちる。高い静けさの中で、メービスの寝息だけが細い線を引く。
「王家の歴史を知る人は、みんなこう言ってるわ――」
アリアの唇が硬い。
「時代ごとに生まれる“黒髪の王女”は、親とは似ても似つかない姿をしてるって。黒髪で薄い緑の瞳をしてて、天地を揺るがすような災厄を呼び寄せるって……」
灯りの明滅が影を揺らす。
「わたしも詳しいわけではありません。でも、王家の血筋にまつわる言い伝えは多くが曖昧な伝承ばかりで、本当のところはよくわかりません。
確かに“黒髪は厄災の証”と固く信じている人は大勢います。王家がその存在をひた隠しにして、わたしたちに微笑むんですよ。不安にさせたくないから。どんなに無理しても“大丈夫”って……」
「けど……例の大戦だって起きてしまったし、現にこの街だって――」
視線が揺れ、握る手に力が乗る。
「……黒髪の巫女が厄災を“告げる”存在だというのは、もしかしたらあるのかもしれない。でも、陛下が“元凶”だとか“導く”わけなんて、決してないと思います。
むしろ、この街を救おうとして真っ先に飛び込んで、民の苦しみに胸を痛めておられた……」
言葉が静けさへ吸い込まれ、火の粉がひとつ弾ける。
「メービス様は王宮を出てからここに来るまで、三日三晩ろくに休まず馬を走らせたんです。その間ほとんど寝ていないんです。この街に着いた時には、もう立っているのもやっとだったはず。だというのに、ご自分を悪者にしてまで戦いを止めようとしたんです。
……アリアさん、そこまで自分の身も心を削るような方が、どこにいますか?」
「そんな人、聞いたこともない……」
嘆息が天井の煤をかすかに揺らす。
「かつて、わたしは戦場で何度も陛下のお姿を拝見してきました。アリアさんだって感じているでしょう? 本来、陛下は戦うなど到底できないほどお優しい方です。
それでも、この白い聖剣を手にして前線に立ち続けたのは、民を守ろうとする強い意志があったからです。だから一歩も退くわけにはいかないって、ずっと必死になって……」
「……確かに、陛下はご自分がどれほど苦しい立場に置かれても、周りの人たちを救おうとしていたわ。暴虐女王だなんてひどい噂のど真ん中に、たった一人で……」
肯定の言葉に、毛布の端がわずかに沈む。
「目の前で失われていく命を見捨てられない。救えるなら救いたい――そう思うと、もう止まらなくなってしまう。陛下はあまりにもお優しすぎるんです……」
「そうね……そういう人だわ……」
掌で額の汗を拭い、まぶたを伏せる。手のひらに伝わる熱が、答えをくれる。
「たしかに、陛下には魔族を打ち倒すほどの偉大な力がありました。この白い剣――“精霊から授けられた聖なる剣”だと言われていますけど、これは巫女として資格をお持ちの陛下だけが扱える特別な力を秘めていると言われています。
そして、同じ形の剣を持つ騎士――ヴォルフ様にその神秘の力を授けるんです。精霊の加護を受けし巫女と騎士、お二人はそう呼ばれていました。でも、それは何も戦うために必要な組み合わせではなかった。わたしはそう思っています」
「それはどんな?」
「互いの聖剣は、お二人の固い絆を象徴する、まさに“夫婦の剣”とも言われています。病めるときも、健やかなるときも、お互いに支えあう。そうやってお二人は魔族大戦を戦い抜かれたんです。そのお二方が結ばれたのは当たり前のことかもしれませんね。それこそが、巫女と騎士のもたらした奇跡だと、わたしは思っています」
クリスは指をそっと組み、胸の前で祈りの形に収めた。
「奇跡……」
火の明滅に合わせて、アリアの声がかすかに震える。
「本当は、黒髪の巫女は“災い”ではなく“救い”をもたらす存在なのです。女王陛下は、それを身を以て示されたんです」
余韻が冷気に沈み、暖かさだけが残る。
「陛下が聖剣を振るうとき、何度も危機的な場面で大勢の人が救われました。わたしもその一人です。本当に奇跡としか思えませんでした。あのダビドさんにしても、同じです」
名が出た瞬間、アリアの睫毛が小さく揺れた。
「ダビドが?」
光の影で、横顔の輪郭が柔らぐ。
「ええ、わたしたち銀翼騎士団の多くが、陛下に命を救っていただいた経験があるんです――そうやって、陛下は休む間もなく各地の戦場を駆け巡っておられた。人前で見せる笑顔の陰で、どれだけ孤独に涙を流してこられたか、どんなに辛かったか……わたしには想像もつきません」
クリスの声がわずかに掠れ、アリアは握る手へ静かに力を足す。
「泣いていた……」
毛布が一度、微かに息を吸い、暖炉の熱だけが返事をよこす。
「……“黒髪の巫女”が、実は救いの宿命を背負わされていたなんてこと、実像を知らなければ、誰も信じてくれないでしょうね。でも、やっぱり陛下を見ているとどうしても“災厄の元凶”だなんて思えない。こんなに苦しんで、それでも人を救おうとするなんて、並大抵の覚悟ではできないことよ」
アリアの言葉が宙でほどけ、クリスは小さくうなずいた。
「こんな女王様、この世のどこにいるのかって。そう思いますよね」
「ええ……」
短い同意の先に、柔らかな笑みが灯る。
「やっと大戦が終結して、即位されたというのに、陛下の戦いはまだ終わっていないんです。一番頑張って辛い思いをした人が、どうして幸せになれないのかって……きっと苦しんでおられるに違いありません。なのにその苦しさをひた隠しにて、わたしたちに微笑むんですよ。不安にさせたくないから。どんなに無理しても“大丈夫”って……」
焔の陰影が寝顔へやさしく移ろい、まぶたの影が浅くなる。
「なんて方なの……まるで、おとぎ話の中の聖女みたい」
讃嘆は吐息に溶け、灯がひとつ瞬いた。
「たぶん、御本人はそう呼ばれることを嫌がるでしょうけど。でも、そういう方です。だから、アリアさん……」
クリスはひと呼吸置いて、言葉の芯を立てた。
「もし、陛下を辱めるような噂が届くことがあっても、どうか味方でいてあげてください。厄災を招いたのだと誹る人は多いでしょうけど、そんなことはないって。陛下がいなかったら、この街も今頃どうなっていたか分からないって」
静かながら強い。胸で温度が増す言葉だった。
「……分かりました。私もメービス様を信じます。黒髪がなんだっていうの? わたしだって助けられた一人なんだから……」
決意が声へ宿り、窓ガラスがかすかに震える。
「この秘密は固く胸にしまっておきましょう」
そう言って、アリアは毛布の端を整える。
「そうしてください。女王陛下が望まぬかぎり、公にするのは得策ではありませんから。……なにより、この先も戦わねばならないお立場です。黒髪を知られたら、それだけで混乱が生じる恐れがあります」
クリスは目礼し、衣の端を指で整えた。
「……そうね。分かったわ」
ぱちり、と火が弾け、誓いの音が室内に刻まれる。
アリアはもう一度寝顔に目を戻す。薄いまぶたが夢の光景を追うように揺れ、安らぎと弱さが同居している。愛おしさが、静かに胸を満たす。
しばし二人は言葉を交わさず、呼吸だけを見守った。拭き取りと着替えを終えた息は、少しずつ整いはじめている。
「わたし、下の様子を見てきます。患者さんの状態次第では、またお湯や薬を取りに戻るかもしれません」
扉が静かに閉まり、部屋にはアリアとメービス、そして燃える音のみ。
小窓の外には、夜の濃さ。雪がしんしんと降り、道という道を白に変えていく。苦難はまだ終わらない。けれど、アリアは微笑んだ。
「メービス陛下……。あなたが救いをもたらす人だって信じてる。だから、早く元気になってくださいね」
手をそっと握る。指先は冷たいままでも、熱の荒れはわずかに鎮まった。
二人の間に“黒髪の巫女”の伝承はある。けれど今は、枕元で灯を守ることがすべてだ。
外の風が窓を震わせ、遠くで風鳴りがひとつ走る。復興は、この夜を越えた先にある。
秘密を知ってしまった。それでも――だからこそ、彼女をより深く思える。頬にかすかな熱が差し、メービスの唇がふるりと動く。うわ言は聞き取れないが、苦痛の陰は薄れた気がした。
アリアは心のうちで、そっと語りかける。
――どうか一人で抱え込まないで。いつの日か、目を覚ましたらあなたの想いを聞かせてください。
毛布を整え、薪を足す。火は芯で丸く燃え、部屋の輪郭だけを残す。黒髪の謎も、白い剣の理も、いまは枕元の呼吸より遠い。
希望は大声では来ない。火の粉ほどの大きさで、消えずに残る。アリアはそれを見ていた。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード441開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
約束の騎士と二重の女王
【本文】
薄墨の帳がほどけ、東がほの白く息を吹き返す。眠りの影をまとったボコタの家並みが、静かに輪郭を取り戻していく。
空気はまだ冬の棘を含み、頬に細い痛みを置いた。石畳の薄氷がひそかに軋み、月光と暁光のあいだで脆い光を返す。
短い仮眠から醒め、ヴォルフ・レッテンビヒラーは宿舎の扉を音もなく押し開けた。
冷えの層を胸いっぱいに吸い込む。戦で身についた「刻限で休み、刻限で目覚める」癖が、かえって五感を研ぎ澄ませていく。喉奥で微かな音が転がり、胸がひとつ沈む。
喉の冷えが胸骨に張りつき、息が浅く揺れた。
「ふぅ……」
白い吐息が淡くほどけ、肩甲のこわばりが静かに落ちた。頬を撫でる風は雪解けの冷たさを潜ませ、意識の刃先をさらに細くする。
東の縁では光の層が静かに重なっている。夜の幕はゆっくりと掲げられ、街に薄明の呼吸が通う。
王配の肩書の下にある魂は、未来を生きた「ヴィル・ブルフォード」のもの。四十四の剛腕の記憶は、今は二十代前半のしなやかな器に重なっていた。
最初は違和のほうが勝っていた。刃の重みを受ける筋束の質、踏み込みの慣性――けれど、日々刃と向き合うほどに、その感覚は驚きへと反転する。質量で押すのではなく、流速で断つ。瞬きの前に世界を掴む視線と反射。老練の技と若い肢体が稲妻のように結びつく「雷呼の境」。言葉を拒む祝福が、手の甲から心臓へ走った。
公は枷でもある。実戦的で「邪道」とささやかれる技は、王配の場には似つかわしくない。もどかしさは胸に沈め、彼は折に触れて剣を振るい続けた。月のない夜、庭で風を鳴らさず刃を返す。解き放つべき『雷光の剣』は、なお鞘の温度を保ったままだ。
改革の熱は「銀翼騎士団」という形に定着した。出自を問わず、才と鍛えだけを秤にかける。百に満たぬ槍だとしても、磨かれた一点は宰相の策へ確かな楔を撃ち込む。
囚われの伯爵を救い出して日も浅い。だが、北からの報せは、宰相軍が迫ると告げた。束の間の安息は鳴砂のように足裏から抜け、街全体に薄い緊張が染み込む。
唇を細く結ぶ。胸の底で、ただひとつの名が灯る。
――ミツル……
名の余韻だけで胸骨がきゅっと鳴る。尊重という名の距離を守ってきた。選ぶ権利も進む道も、彼女のものだと。それでも――もう限界だ。これ以上、細い肩に全部は載せさせない。ならば今度は「雷光」として――ヴィル・ブルフォードとして、己を賭ける。
女王メービスの容に宿る魂は、遠い時を越えて来たミツル・グロンダイル。亡き友ユベルの愛娘。外見は十二の少女だが、内には冷ややかな論理と広い教養、そして伝説に謳われる精霊魔術が確かに棲む。
『自分は大人だ』と彼女は言った。
子ども扱いを何より嫌い、薄暗い酒場で理を語り合った夜もあった。けれど、屋台の林檎飴に目を輝かせ、無邪気に笑う横顔も知っている。制御の輪から感情が零れて、涙を隠しもせず零すことも。大人と子ども、二つの年輪がひとつの器に刻まれた矛盾――その危うさごと、胸が反応してしまう。
父か、師か、兄か、相棒か――あるいは、その先の名のない関係か。問いはいつもそこへ戻り、答えはまだない。あるのは誓いだけ。ユベルに、そして自分に立てた「護り抜く」という約束。
庇護の檻は拒む。彼女は自分の足で立つ者だ。ならば並び立ち、足りない経験だけを肩で支える。その距離を選ぶ。
それでも胸の靄は消えない。笑顔に安堵し、涙に刺され、強さに畏敬する。その全てを「恋」で括るには薄い。
魂だけが時を遡り、肉体の年齢差が意味を失った今、その思いはいっそう切実だ。十八に咲きうる容で、まっすぐこちらを見る。冷静でいろ、と求めるほうが酷だった。寝所を共にせねばならぬ夜もある。世継ぎの圧力が沈黙で迫っても、義務の交わりは選ばない。傷つけたくない――ただそれだけが先に立つ。
ならば決める。彼女が女王として立つなら、自分も騎士として剣と盾で在り続ける。
拳の節が白み、指先の熱が引いて戻る。手袋の糸目が指に食い、戻った脈が布越しに弾んだ。
「……ここからは、もう容赦しない」
舌の奥に鉄の味が薄く滲んだ。
唇の内側に鉄の匂いが立ち、言葉が刃に触れたみたいに重くなった。
「いざとなれば、俺は“人を斬る”。……たとえ、そのことでお前に嫌われることになったとしても」
言葉の余熱を胸に刻み、彼は公会堂へ続く石畳へ踏み出した。夜明けの白は強さを増し、混乱の残滓が薄く毛羽立つ。次の火はすでに空気の底で燻っている。それでも彼の瞳に曇りはない。
◇◇◇
黒く焼けた梁、崩れた壁。暁の光は傷の深さをかえって際立たせる。人々は壊れた日常の欠片を拾い集め始めていた。
けれど夜のあいだに囁かれた「宰相軍到来」の噂が、また重い影を街に落とす。屋台の布が冷えに鳴り、土埃の匂いがわずかに立つ。
埃の匂いが喉でざらつき、声が自然に細くなった。
「これから、一体どうなるんだろうねぇ……」
吐いた白が重なり、輪の内側に小さな間が生まれる。
「正規軍が来るんなら、治安も戻って、いいことなんじゃないのか?」
肩のショールがこすれ、繊維の音が耳に残った。
「いや、そう単純な話かね。女王陛下と宰相閣下は……その、お立場が違うんだろう? ただで済むとは思えんが……」
木戸が遠くで乾いてきしみ、路地の影がひと筋伸びる。
「まさか……ここがまた戦場になるっていうのかい? もうごめんだよ、あんな恐ろしい思いは……」
ひそやかな咳払いがひとつ、空気の縁でほどけた。
咳の余韻が耳に残り、問いの尾が自分でも頼りなく揺れた。
「女王陛下は、戦われるおつもりなのだろうか……?」
鍛冶槌が一度だけ鳴り、音はすぐ高空へ吸い込まれる。
射した白が眼底で滲み、語尾がわずかに荒く跳ねた。
「無茶だ! 宰相閣下が連れてくる大軍に、どうやって立ち向かおうっていうんだ……?」
石畳に射す白が眼の裏をちくりと刺す。
襟元を握る指がかじかみ、言葉が皮膚に痛く乗った。
「あんなかわいらしい女王さまなのに、殺されちゃうのかね。……ひどい話だ」
冬の枯れ葉が触れ合うみたいな、かさついた響きが広場の手前で揺れ続ける。襟元を無意識に寄せ、布の冷たさで思考を地へ戻す。吐いた白は頼りなくほどけ、すぐ空へ溶けた。
石敷の広場が見えてくる。重い石造りの公会堂の前には、すでに多くの市民が集まっている。ざわめきが風にのり、耳の奥に薄い不協和を作った。
宰相が予定どおり二日後に大軍で現れるなら、衝突は避けられない。女王を慕う銀翼の若者たちと、街を立て直そうと汗を流す人々が、ただ踏み潰される未来をよしとするはずがない。
守るものと、迫る現実。そのあいだで、胸の底に静かで苛烈な渦が巻く。
――メービス……いや、ミツル……。俺はどうすればいい……? お前の、あの強い意志と輝く理想を無視して、勝手に道は選べない。だが、この手を拱けば、すべてが手遅れになる……
胸骨の裏を内側から軽く叩くような脈。指先の温度がわずかに引き、すぐ戻る。瞼を閉じ、開いた視界に決意の色が澄んだ。
迷路に留まる時ではない。まず伯爵と合流し、正確な情報を掴む。ミツルが安らかに回復できるよう、自分が揺るがない盾で立つ。
呼気が細く整い、背筋がもう一度ぴんと伸びた。ヴォルフは不安の膜を振り払い、ざわめく広場を真っ直ぐに横切る。外套の裾が、朝の光の中で静かに翻った。
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------------------------- エピソード442開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
公会堂会議――雪下の円卓—絶望と灯火の狭間で
【本文】
夜明けの気配が、ボコタの街を覆う鉛色の雲を、内側から淡く白み始めていた。しかし、その光はまだ弱々しく、古い石造りの公会堂の広間までは届いていなかった。
高いアーチ窓から差す明かりは、磨り硝子を透かしたように鈍く、床に埃っぽい影だけが落ちていた。天井から吊るされた魔道ランプは、心許ない橙を投じ、柱の影や壁際の隅々は、なお夜の底に沈んでいた。
窓の外では雪混じりの風が絶え間なく吹き、石壁の隙間からひゅう、と忍び込む冷気が肌に針を置いた。吐く息の白さが、この場の緊張をいっそう際立たせていた。
広間中央の円卓には、街の各区画代表、昨夜ダビドたちに救い出されたレズンブール伯爵、そして元は敵だった宰相派私兵の代表者たちが、重い沈黙の中で席に着いていた。
顔の色は皆薄く、眠れぬ夜の隈が深かった。乾いた唇がかすかにひび割れ、書記の羽根ペンが一度こそりと紙を掠め、油の匂いと蝋の匂いがかすかに混じった。
壁際には銀翼騎士団――マリア、ディクソン、ガイルズ、レオン。背は伸びているが、瞳の奥に不安の揺れが灯り、なお忠誠の火が消えずにいた。若い母親が胸に包帯の子を抱き、古い革手袋の男が帽子の鍔を指で強く押し下げた。
前夜、女王メービスの降臨と伯爵の登場で暴動寸前の混乱は収まった。だが、それは硝子細工の平穏だった。南から迫る宰相クレイグの正規軍の影が、嵐の前の静けさのように場を圧していた。
地図を広げた卓で、女王不在の今この場の指揮を託されたダビドが、最後の報告を締めたところだった。声は抑えているが、告げられた現実は、この場から血の気を奪うには十分だった。
「……残念ながら、昨夜陛下を襲った狙撃魔術師の足取りは掴めませんでした。非常に手慣れた様子で、混乱に乗じて夜のうちに街を抜け、南――おそらく宰相の本隊がいる方角へ向かったと見ていいでしょう」
ランプの火が一度ちろりと揺れ、金具が微かに鳴った。誰かが小さく舌打ちし、別の誰かが祈るように襟元を掻き寄せた。
「そうか。捕らえられなかったのは痛いな。こちらの詳細な情報が、宰相側に漏洩するのは避けられないと考えるべきだろう」
ヴォルフは静かに目を細め、白銀の髪が灯に細い糸を返していた。
「――ほかには? 宰相軍の動きについて、新たな情報は?」
高窓の曇りが光を鈍らせ、広間の息がまとまって薄くなった。筆先が紙を撫でる微かな音だけが続いていた。
「斥候組のシモンとブルーノから報告です――宰相軍は総数およそ三百。南方主街道を変わらず北上。積雪で遅延はあるものの、進度は予定内。それから……“影の手”の捕縛者からも、いくつか吐かせました」
「……あの三人がか?」
遠くで扉の継手が乾いた声を立て、冷えがひと息増していた。短い小声が交錯しては溶けた。
「ダビド。お前が尋問したのか。やすやすと口を割る連中とは思えんが、どうやった?」
地図の角にかけた指が白み、蝋の匂いがわずかに濃くなった。
「無論、最初は手こずりました。しかし“貴族主義的自尊心”は便利なものです」
ダビドは淡々と。目だけが笑わなかった。
「――こう告げました。『絶大な力を持つ精霊の巫女と騎士……メービス陛下とヴォルフ殿下がこのボコタに降臨された。貴様らの主に勝ち目はない。暗躍は女王の前で意味を失う――身を以て理解したはずだ』と」
誰かの喉がからりと鳴り、燭台の影が円卓の縁で揺れた。古参は鼻で笑い、若い代表は唇の裏を噛んだ。
「それで?」
間。蝋芯が小さく弾けた。
「案の定、嘲りで返してきました――『終わりなのは“偽りの女王”だ。宰相閣下が“大軍”を率いて間もなく到着なさる』と。勢い余って、規模や編成までぺらぺらと」
「……なるほど。そこから規模を拾えたわけだな」
書記の羽根が一度鳴った。
「勝ちを確信した“ふり”が好きな連中です。誇示は、情報の塊ですよ」
「ふむ。で、具体は?」
円卓の南側に寄せた地図の端が冷え、指先がかすかに震えた。
「出発時は宰相の馬車護衛――近衛騎兵、百。儀仗寄りの貴族騎士中心。北上しながら街道沿い駐屯地から継ぎ足し。現状は再編後――
第一中隊:近衛騎士団、約百。
第二中隊:重装歩兵、百二十。塔盾と長槍で盾壁。“鋼の黒壁”。
第三中隊:射撃支援、六十。長弓と携帯弩砲。
さらに魔導兵、少なくとも二十五。高位術者で四属性をカバー、との証言です」
「盾壁に射撃支援、妥当だ。足は遅く、正面は固い。雪だ、なおさら列を崩したくはあるまい。補給は?」
ヴォルフは短く吐息を落とした。
「街道沿いの小規模な糧秣集積を順次回収。冬季で輸送効率は落ちますが、三百規模なら当面は回るはず。冷え込みは行軍速度・疲労に直結――ただ、雪は痕跡も残す。こちらの陽動には利点」
「“影の手”投入の気配は?」
「確証はありませんが、“ここが勝負どころ”と読むなら温存理由は乏しいでしょう。他に工兵、衛生、幕僚、伝令、兵站を足して――総勢、三百から三百二十は下らない見立てです」
水を打ったような静寂が落ち、芯が小さくはぜる音だけが残った。吐息が一斉に薄くなった。
「こちらの戦力は?」
「……現在、この街にいる銀翼騎士団は私を含め十八名。そして、伯爵様のお言葉に従い、加勢を申し出てくれた元宰相の私兵が……現在のところ、二十名弱」
合わせて三十八。数字が空気の温度をいっそう奪った。椅子の脚が石を擦り、乾いた音が連鎖した。
「そ、そんな数で……どうやって正規軍と戦えと言うのだ!」
「だめだ……街ごと蹂躙されて我々は皆殺しにされてしまう……!」
「ああ、もう終わりだ……」
「いっそ、今からでも女王陛下を見捨てて、宰相閣下に恭順の意を示すしか道はないのでは……?」
「馬鹿なことを言うな! それでは我々は何のために昨夜、命を懸けたのだ!」
「だが、犬死にするよりはましではないか! 家族もいるのだぞ!」
声が渦を巻き、古い梁が遠くでぎしりと応えた。幼い泣き声が壁の向こうで一度だけ震え、すぐ止んだ。
「落ち着きなさい!」
レズンブール伯爵の声が、冷たい刃のようにざわめきを断った。
「騒いだところで、天から救いが降ってくるわけではない。だが、絶望するにはまだ早い。時間的な猶予は、まだ二日あります」
伯爵はゆっくり立ち、視線を巡らせてから、ヴォルフを見た。老人の代表が胸へ手を当て、若い職人は拳を握り直した。
「ヴォルフ殿下、あなたにはまだ何か策があるはずです。たとえば、北方に展開しているという、銀翼騎士団の本隊を呼び戻すことは可能でしょうか? 先だって八十名ほどと伺った。それだけの精鋭が駆けつければ、あるいは……」
冷気がひと撫で頬を撫で、紙の端がかさりと鳴った。
「北方の男爵領に派遣しているステファン率いる先遣隊が二十名。そこに合流したバロック指揮の本隊が六十名程度いる。総勢八十名、たしかにこれが主力ではある。だが……」
ヴォルフは地図上の山脈を指でなぞった。雪に塞がれた距離が、ため息の重さに等しかった。窓の外で風が一度、耳鳴りのように細く鳴った。
「彼らを呼び戻すのは現実的に無理がある。……現在位置からボコタまでの距離、そしてこの深い雪の中を最短で駆け抜けたとしても、伝令が届くまで二日、転進しても到着に早くとも四日以上かかるだろう。宰相軍の到着には到底間に合いそうもない」
「では……やはり……我々はもう……」
「それならいっそ、女王陛下と伯爵だけでも、この街から密かに退去していただくのが最善では……」
「そうだ。宰相の狙いは女王派なのだろう? その方々さえいなくなれば、我々市民がこれ以上巻き込まれることもないのでは?」
息が詰まり、誰かの指先が卓をとん、と弱く叩いた。別の席で「待て」と低い声、すぐ「黙って」と小さな叱責。
「それは市民を“捨てる”のと同義だ。メービスが絶対に許さないだろう……」
ヴォルフの声に、微かな低音が混じった。炎が一拍、短く揺れた。
「殿下の仰る通りです。捕らえた『影の手』の証言、そして逃亡した狙撃魔術師の挙動からも、この街が『女王に与した』と見做されるのは明白。もし陛下方がここを離れれば、あの宰相は必ず責を市民へ転嫁し、報復として――見せしめとして――一方的な処罰を断行します。逆らう者は容赦なく排除される。つまり『巻き込まれない』のではなく、『完全に支配され、踏みにじられる』ということです」
ダビドの声は冷たく、床の石板にまで染み入るようだった。広間の空気が微かに震え、重々しい沈黙が彼の言葉のあとを埋めていった。市民の代表たちが一瞬顔を伏せ、柔らかな呼吸さえも止まるかのように空気が張り詰めた。
「理不尽にもほどがあるぞ」
「なんでそんな酷いことになるんだよ!? 俺たちは何も悪くないじゃないか!」
「残念ながら、ダビド殿の仰る通りでしょうな。正規軍と申しても、その内実は宰相を盲信する貴族派で固められております。彼らにとって宰相閣下の命は絶対。たとえ相手が無辜の民であろうと、躊躇なく執行いたしましょう」
伯爵が視線を巡らせ、疲れた顔をした聴衆のひとりひとりを、ただ見据えた。
「宰相の描く筋書きはおおよそ見通せます……。『暴虐女王が私的な野心のために騎士団を動かし、治安維持の名目で正当に駐留していた宰相閣下の兵を襲撃した。さらに、保護下にあった忠臣レズンブール伯爵を強奪した。しかし自らの非を悟り、正義たる宰相閣下の軍勢を前に怖れをなし、市民を見捨てて逃亡した』――と。
この風聞を周到に流し、己の正当性を高めるでしょう。そして市民は『女王の逃亡を助けた共犯者』と見なされ、厳罰に処されるおそれが極めて高い。いや、宰相であれば、市民を人質に取り、女王陛下をおびき出すための『餌』として用いることすら辞さぬでしょうな」
「それが人のすることかよ!? そこまで非道なことをするというのか!?」
「彼、クレイグ・アレムウェルという男にとって、人など盤上の駒にすぎないのです……」
伯爵の言葉に、広間の温度がさらに一段落ちた気がした。誰かの喉がひゅっと細く鳴り、遠くの窓に薄い霜の縁がのびた。
「そ、それなら…!」
「女王陛下のあの御力があれば、あるいは……!」
「そうだ、陛下は前代未聞の魔術師。無敵だと聞いた!」
「陛下さえご健在なら、三百の兵など、一捻りではないか……!」
ドンッ!
石の卓が震え、羊皮紙が跳ね上がった。炎が怯えたように揺れ、天井に歪んだ影を踊らせた。
「……もうたくさんだ。これ以上、メービスに何をさせようってんだ! あいつがどれだけ傷ついて、どれほど苦しんできたか……お前らには見えてない。あいつはな……」
ヴォルフの拳がゆっくり卓上から離れ、指の節が白く、息が荒かった。張り詰めた空気が、刃のように喉を掠めた。群衆のざわめきが一瞬、底へ沈んだ。
「……ところで、肝心の女王陛下の御容態は、実際のところどうなのですかな? マリア殿」
伯爵の声が、氷の表面をそっと撫でるみたいに静まった。薬草の青い香りがかすかに上がった。
「……アリアさんが懸命に看病してくださったおかげで、容態は少しずつ安定の方向へ向かってはいます。ただ……」
マリアは涙に濡れた睫を上げ、唇を噛んだ。指先が白くなった。
「熱は少し引いたように見えますが……意識はまだ戻りません。限界まで酷使した身体に、高負荷の魔術行使が重なって、衰弱が激しいです。水を口に含ませることさえ難しいほどで……このままでは体力が尽きてしまいます。この街には医師も術師も足りず、薬も残りわずか。北方の本隊に移せれば軍医の手も借りられるのですが……それも今は難しく」
広間の奥で、誰かの椅子が微かに軋んだ。冷たい空気に、薬品の匂いが薄く混じった。若い兵の喉が鳴り、老女が祈りの印を胸に描いた。
「……これがいまのメービスだ」
卓上の地図を押さえるヴォルフの指先が震え、蝋燭の影が長く伸びた。
「あいつは……メービスは、たしかに強力な魔術師かもしれない。だが……決して人を傷つけられない、優しすぎる心の持ち主だ。もし万全の状態であったとしても、戦力として計算に入れるのは間違いだ。まして今のあいつに前へ出ろなんて――酷にも程がある――」
言葉の端がかすれ、胸の奥の熱がひとつ強く脈打った。空気が湿りを失い、舌の裏が乾いた。
「……目覚めれば、あいつはきっと『自分を捧げる』だなんて言い出だすだろう。だが、今はそれを止めねばならない。もし許せば、今度こそ取り返しがつかない。あいつを失った先には――この街だけでなく、リーディスの終焉が待っている」
「陛下は……熱にうなされながら『わたしが……守らなきゃ……みんな……しんじゃう』と……そう、繰り返しておられました。もし、回復されないまま、また無理をして戦うようなことになったら……陛下は、本当に……死んでしまわれます……!」
マリアの声が震え、広間の冷気が頬に刺さった。誰もが目を伏せ、拳を固く握った。元宰相兵のひとりが、帽子を胸に押し当てた。
「……思うに、今は陛下のご回復を一心に祈り、それまでに我々でできる限りの備えをするしかありません。宰相軍に真正面からぶつかるのは自殺行為に等しい。ですが――」
伯爵の声に、わずかな温みが戻った。眼差しが地図を北へ滑り、街道、廃屋敷、丘の線を辿った。
「夜襲や奇襲による遅延工作、あるいは交渉による時間稼ぎならば、あるいは可能かもしれない。最悪の場合、この私という“切り札”を交渉材料として差し出すことも考慮しましょう」
蝋の匂いが薄れ、代わりに冷えた石の匂いが強まった。短い同意の唸りがいくつか重なった。
「まずは、残された二日をどう使うかです。
そこで私からの提案ですが、ここにいる銀翼騎士団、元宰相兵の有志、そして市民の自警団──それぞれの機能を活かして、小回りの利く戦力へと再編し、この目的一点のみに集中しましょう。すなわち、地の利を徹底利用したゲリラ戦で宰相軍の進軍を最大限遅延させ、消耗を強いるのです。
最善とは言えないにせよ、何もしないよりは遥かにましだ。時間を稼ぎ、陛下の回復を待つ。それが我らに残された唯一の道かもしれません」
細いが、確かな糸。誰もがその手触りを確かめるように息をついだ。紙束がさっと配られ、足音が低く走った。
「……わかった。それが現状で我々が取りうる唯一の策だろう。異論はない。いいな?」
ヴォルフの声に、鋼の芯が通った。胸郭に短い呼気がいくつも重なった。
「御意」
「承知しました!」
「はっ…! 必ず!」
「お任せください!」
居並ぶ銀翼騎士団の面々。号令はすぐ熱を帯び、冷え切った広間に結束の気が湧いた。
ダビドは指示を飛ばし、伯爵は代表者と計画を詰めた。レオンとマリアは持ち場へ駆け、物資と避難の手筈を整えに散った。迷いは、もうなかった。元宰相兵の代表が一礼し、市民の若者が腕に白布を巻いた。
やがて広間には、ヴォルフと伯爵、市民代表だけが残る。窓辺に立つと、降りやまぬ雪の切れ間から暁光が差し、銀髪と眼の奥の決意を静かに照らし出した。指先に冷えが戻り、呼気が薄く整った。
――ミツル……お前が目覚めるまで、俺が、俺たちが、必ずこの場所を、お前の守りたかったものを、この手で守り抜いてみせる……
胸の内で、誓いがひと筋に結ばれた。夜明け前の攻防は、まだ終わっていない。むしろ、ここからが始まりだ。重い責任を、彼は静かに引き受けていった。
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------------------------- エピソード443開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
背中を預けた男、守るべき少女
【本文】
灰鴉亭(はいがらすてい)の一階は、うめき声と消毒酒の匂いが渦巻く臨時の救護所と化していた。
薬壜が触れ合って澄んだ硬音を返し、包帯を裂く布の音が短く弾ける。少年のすすり泣きは薄い膜のように空気へ張りつき、昼前の陽光さえ色を削がれて見えた。人々の皮膚は灰をまぶしたように疲れている。
階段の手前には厚手の毛布で垂らした“結界”があり、喧噪はそこでいくぶん絞られていた。
ヴォルフは毛布をそっと押し分け、猫のような足取りで段を上がる。木材の軋みがいつもより近く、息をひとつひそめる。
踊り場で雑務に追われるアリアに目礼だけを送り、扉の前で一拍。――ここから先は、戦場の中心でかろうじて守られた聖域だ。ノブを押し、細い隙間から影を崩さないように滑り込む。
室内に満ちるのは、古い硝子を通って角の取れた陽。床には淡い円が重なり、埃の粒が光の柱のなかで星屑のように揺れていた。
外では石畳を打つ蹄鉄がかすかに反響しているはずなのに、その音は水底の泡のようにここまでは届かない。張り詰めた静寂だけが、温度を落とさぬまま漂っている。
聞こえるのは自身の鼓動と――掛け布の下で布団綿がかすかに盛り上がる小さな起伏、薄く汗ばんだ額に張りつく緑髪、そこから漏れる糸のように掠れた呼吸音だけ。
足裏の下で、古い板がかすかに呻いた。そのわずかな不協和すら聖域を乱す気がして、ヴォルフは歩みを止める。
ベッドに横たわるミツルが視界に入る。
眠っていてもなお息を呑むほどの美貌。午前の光は頬の窪みを容赦なく照らし、かすかな影が痛ましい儚さを際立たせる。まだ少女のあどけなさを留める顔立ちは、熟練の手が丹精した繊細な彫像を思わせた。
彼は、これまでその“静かな光”を言葉にしたことがない。口にすれば、自分の中の何かが壊れてしまう――そんな予感があったのだ。遠い星を仰ぐように、ただ黙って見守る。それだけが精一杯だった。
折れてしまいそうな細さの傍らに、ゆっくり腰を下ろす。
古木のベッドがまた静かに軋む。視線は眠る少女の顔から動かず、目の前に横たわるのは、自分が守るべきすべてだと骨の奥が知っている。
寝顔を見つめるうち、心は暗い後悔の淵へ引きずり込まれていく。もし、あの時――二十年という長い歳月を隔てた過去で、別の選択ができていたなら。叶わぬ問いが鉛の塊となって胸へ沈む。
昼の光の下で見る彼女は辛すぎた。過ぎた過ちの重さが、まざまざと肌に触れてくる。
◇◇◇
朝霧の匂いが抜け、外気の冷たさだけが肺に残る。
ベッドの傍らで静かに息をつく。意識は、目の前から遠く離れ、過去へと遡る。
《─追憶─》
―俺、ヴィル・ブルフォードは……東の辺境にあった剣術道場の息子として生まれた。けれど、親父とはどうにも反りが合わなかった……。教え方が古い、構えが硬い。顔を合わせれば、そんな売り言葉に買い言葉だった。俺は十六の夜明け、家を蹴飛ばすように飛び出した。息苦しさから逃れるためだ。古い殻を蹴破るような、そんな気分だった。若さゆえの熱い血が、そうさせたんだ。
風砂が頬に張りつき、水袋の口が塩で固まり、喉が鳴る。
―そこからの日々は、風に吹かれるような放浪だった。山賊を討ち、魔獣の群れに突っ込み、闘技場で己の剣を試す。金と、わずかな名声と、消えない傷痕だけが増えていった。今思えば……ただの思い上がりだった。向かうところ敵なし、などと。若く、未熟なだけだった。もっと強い剣を、もっと肌を刺すような鋭い殺気を、ただ渇望していた。剣こそが自分の価値だと、疑いもしなかった。
戸口の煤けた灯が揺れ、革手袋の掌がじっとりと張り付く。
―そんな時、南の大国リーディスに響く噂を耳にした。〈閃光〉と呼ばれる騎士――ユベル・グロンダイル。国家騎士団に属し、戦場では稲妻よりも速く、そして無敗。それを聞いた途端、未熟なプライドが囁いた。「奴を、打ち負かせ」と。迷いはなかった。リーディスの王都へ、ただ真っ直ぐに向かった。
《─邂逅─》
喉仏がひとつ鳴り、奥歯のきしみが短く脳へ刺さった。
―酒場で見たユベルは、拍子抜けするほど穏やかな微笑みを浮かべていた。強い覇気など、まるで感じられなかった。だから、何のてらいもなく挑戦状を叩きつけたんだが――次の瞬間、空気が震えた。見えない刃が首筋を撫でるような鋭い闘気。あんな戦慄を覚えたのは、後にも先にも、あの時だけだ。
肩が記憶の鮮烈さに微かに強張る。
―だが奴は、俺の挑戦を鼻で笑い、「相手をしてほしければ騎士団へ来い」とだけ言った。腹が立ったか? もちろんだ。だが、それ以上に、心の奥底で何かが激しく燃え上がった。面倒な規律も、堅苦しい任官も、すべて飲み込んでやる。ユベルの推薦状を手に、俺は国家騎士団の門を叩いた。いつか、あの男の鼻を明かしてやる、その一心でな。
肩章の重みが増し、結び紐が肌に食い、背筋が自然に伸びる。
―結果? 俺は入団してすぐに頭角は現した。だが、ユベルだけは、いつまで経っても越えられない壁だった。初めて剣を交えた日――完膚なきまでに打ちのめされた。斬り込めば柳のように受け流され、踏み込めば水面を滑るように躱される。返しの一閃が、俺の肩を浅く裂いた。己の未熟さが、骨身に沁みた。
胸骨の奥で鼓動が返り、視界の縁がひと息澄んだ。
―けれど、不思議なことに、屈辱よりも歓喜が勝っていたんだ。「こんな剣が、この世にあるのか」と。心が震えた。それから、俺とユベルは毎日のように剣を合わせた。勝ちたい、いつか必ず越えたい――その一心が、いつしか「もっと長く、この男と剣を交わしていたい」という奇妙な悦びへ変わっていく。
長い息が胸の奥でほどける。あの頃の熱が、まだ微かに燻っている。
《─戦野へ─》
血と泥の匂いが立ち、舌先に塩の味が滲み、胃の奥が冷えた。
―気づけば、俺には銀翼騎士団右翼副長という肩書が与えられていた。そして、ユベルの右腕としていくつもの戦場を駆けた。奴の背はいつだって高く、遠い。だが、その背を守る役目は、何より誇らしく、心地よかった。師であり、戦友であり、かけがえのない盟友――それが、俺にとってのユベル・グロンダイルだった。
遠雷めいた軍靴の響きが胸腔をくぐり、熱と寒さが交互に刺す。
―運命は、剣の稽古よりずっと残酷だ。二十年以上も昔の西方国境――後に〈西部戦線〉と呼ばれる泥濘の地獄。三日三晩、血と泥の匂いが立ち込めるなか、ただ剣を振り続けた。補給線は断たれ、兵は飢え、心はささくれ、規律は崩れていく。略奪に走る者、狂気に呑まれる者も少なくなかった。
旗の布擦れが耳に刺さり、喉の内側がひゅうと冷えた。
―ユベルは、そんな極限の前線を俺に託し、わずかな手勢だけを伴って荒れた後方を駆け回っていた。規律を破った兵を捕らえ、怯える民へ私財を投じて食を分け、避難路を確保する。前線を死守しながら遠くに見るその背――「これが騎士だ」と胸に熱い痛みを刻んだ。
―だが正しさは、いつも受け入れられるわけじゃない。上官たちは「命令違反だ」「戦線放棄だ」と奴を糾弾し、英雄であるはずの彼を、左遷という屈辱で故国へ送り返した。凱旋の礼砲ではなく、罵声と共に。騎士団という組織が、あれほど憎らしく汚らわしく見えたことはなかった。
無意識に握った拳の白さが、布越しにひやりと浮く。
吐息が乾いて鳴り、言葉より先に視線だけが沈んだ。
―それでもユベルは、俺の憤りを静かに受け止めて、ただ一言だけ託した。「民と国を護れ。お前は決して揺らぐな」と。戦いは終わり、魔獣は退く。俺は勝利の報告と旗印を携え、本国への帰路に就いた――胸の中で、あの言葉を繰り返しながら。「約束は果たしたぞ」と伝えるつもりで。
石畳の白さが滲み、膝の力が一瞬だけ抜け落ちた。
―だが……王都で俺を待っていたのは栄誉でも叙勲でもない。ユベルが「王女誘拐」の大罪で国中から追われる身となった、という報せだった。あの足元が崩れ落ちる感覚は今も鮮明だ。俺はただ立ち尽くし、無実を信じ、その行方を追うために騎士の地位も名誉も捨てた。以後二十年、ただひたすら奴を探して彷徨い続けた。
眉間に刻まれた皺に、彷徨の日々の虚無がまた滲む。
紙と革の匂いが蘇り、掌のざらつきが記憶を手繰った。
―やがて真実を突き止めたミツルから聞かされた。ユベルは黒髪の巫女メイレア王女自身の願いを聞き入れ、彼女と共に国を出て伝説の聖剣“白きマウザーグレイル”を探す旅に出ていたのだと。――なら、一言くらい何か残していけよ。そう思わないでもないが、あの男は決めたら誰にも告げず突き進む。仲間を危険に巻き込みたくなかったのだろう。だがもし、出立しかけたユベルを俺が引き留められていたなら……違う未来があったのではないか。詮ない後悔は今も影のようにまとわりつく。
《─光─》
―長い彷徨の果て、心は擦り切れ、生きる意味も手から滑り落ちかけていた。そんな時――ユベルとメイレアの娘、ミツル・グロンダイルに出会った。
喉の渇きが言葉を押し上げ、酒精の熱が舌の縁にじんと残る。
「俺さ、“黒髪のグロンダイル”の噂が嘘だったら、もう剣を捨てるつもりでいたんだぜ……。だが、おまえはあの酒場にいた」
口に出してから気づく。自嘲の笑みが、唇の端に短く触れて消えた。
胸骨の奥で脈が返り、細い糸の張力がそこに集まった。
―まだ十二の少女。見た目はユベルとは似ても似つかない。だから最初は信じなかった。けれど、一度剣を交えた瞬間に霧が晴れた。剣筋の鋭さ、瞳の奥の火――間違いなく、あの男の系譜。そういえば、あの時のおまえは、わんわん泣いていたな。俺の方こそ、胸の奥が熱くなって、叫びたい気持ちをどうにか握りつぶした。
―獣を狩り、旅をし、他愛ない言葉を交わす日々。乾き切っていた胸の内は、じわり、じわりと水を含んでいった。ただ、妙に楽で、妙に楽しかった。
窓の陽がわずかに温度を増し、頬の内側がほどける。
冷えが踵から上り、視線だけは離れずに貼りついた。
―王都の離宮におまえが住むことになり、俺も流れで騎士に戻った。聖剣に興味はなかった。ただ、そばにいたかった。危なっかしくて、目が離せなくて――また何かが、おまえをさらっていきそうで。これはもう、性分だと自分に言い訳していた。
―不思議な子だ。十二にして酒の味を解し、うまそうに嗜むのに、節度は崩さない。成熟した女の落ち着きを見せるかと思えば、年相応よりも無邪気で、肩を引く手が軽い。市場で目をきらきらさせる横顔を見て、なぜだかほっとした。剣を持って舞うときはなおさらだ。流れる所作にこちらの心まで浮き、まるで、ひそやかな舞踏に誘われているみたいだった。
―努力家でもある。大図書館で分厚い本と何時間も向き合い、得手ではない料理も、俺が喜ぶ顔を見たい一心で拙くも真っ直ぐに作る。味より先に、ひたむきさが舌の奥に温かく残る。
―ユベルは本当に良い娘を持った。母の薫陶もあるのだろう。……あの男は俺と同じで、剣以外は不器用だったからな。だから絶対に幸せにしてやらねば――そう思った。ユベルへの誓いだ、と言い聞かせた。けれど今にしてみれば、それだけじゃなかったのだと思う。
ミツルの寝息に耳を澄ます。静かな起伏が、胸の底へ確かさを沈めていく。
―複雑な思いだ。親友の娘で、今は守護すべき女王。俺自身の、光。守りたい、尊敬している――そこで言葉が止まる。父のような感情の先に、言い当てられない何かが、薄明のように確かに在る。
―気づけば、おまえは俺の生きる理由そのものになっていた。剣だけを求め、友を得て、失い、暗い底をさまよい続けた末に――手の中に残っていた確かな光。それがおまえだ、と今さらのように思う。
◇◇◇
《─誓い─》
視線は、現在へ戻る。
―……だというのに、俺は守ると誓ったこの手で……まだ何もしてやれていない。今だってそうだ。傷つき、倒れているのはお前だけで……俺はただ、こうして見ていることしかできなかった。気づけば、ユベルの時と同じ過ちを、また繰り返そうとしている。嫌だ……もう、失いたくない。お前を失うことだけは、俺には……耐えられない。
鞘鳴りの尾が肩へ残り、熱が一拍だけ脈に乗る。
―だから、俺は鬼になる。剣しか取り柄のない俺に残された道は、ただ一つだ。お前を傷つけようとする者は、誰であろうと、俺がこの剣で斬り捨てる。だから、ミツル……お前は、生きてくれ。
張り詰めた静寂のなか、彼はミツルの手を、壊れやすい硝子細工に触れるようにそっと包む。
握りは均等に、圧は浅く。訓練で覚えた「持って支える」強さだけを残す。
力を込め過ぎれば掌から消えてしまいそうな頼りなさに、掌の熱を静かに移す。どうかこの温もりが、意識の深淵まで届くように――祈るしかできない己を噛みしめる。
伏せられた瞳の奥には、濃い悲しみの影。そして刃の光――胸の熱は深部へ沈められ、表には冷えた決意だけが残る。
階下から、薬草の青い匂いがかすかに上がってきて喉奥を冷やす。
鉛色の静寂に、ヴォルフは決断を刻む。
―俺は鬼になる……。道を阻むものすべてを、この剣で断つ。
騎士は、世界の摂理すらねじ曲げかねないほどの、孤独で絶対的な――そしてあまりにも非情な誓いを、心の底に落とした。その重みが双肩と、握りしめた柄へ鈍い温度でのしかかる。
その時だった。
掌の脈が指先へ伝わり、互いの鼓動が迷うように重なった。
彼の掌に包まれた細い指が、雪解け水に触れた小鳥のように、ほんのわずかに震えた。
眠りの底から零れた吐息が、「……ヴィ……」という一語にも満たない掠れ声となって耳朶を叩く。
艶やかな緑髪の一房が、はらりと頬を滑り、窓の光を淡く反射した。
まるで止まっていた時に、柔らかな漣が走る。
ヴォルフは、声には出さず――胸の奥深くで、力強く応えた。
――ああ……彼女は、確かにここに生きている。
【リアクション】
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------------------------- エピソード444開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
絶望に抗う策―非対称の攻防
【本文】
昼過ぎの光が、雲の厚みにじわりと押し返される。白く凍てついた街の輪郭が、ただぼんやりと浮かび上がるだけだった。
公会堂で交わされた激しい議論と、その中に刻まれた決断の重みによって、すでに数時間が過ぎていた。吐息の白さが薄れゆくなか、胸の奥には澱のような絶望だけが残る。
遠くで雪かきをする掠れた音。指示を伝える短い声。それらは雪に溶け込んで、街全体が息をひそめているようだった。光の角度がわずかに変わるたび、屋根の影が長く濃く伸び、残り時間が容赦なく削られていくのを知る。
時計は黙った。時を告げていたのは、光の衰えだけだった。
◇◇◇
かつて領主の執務室だった一室が、今は臨時の作戦司令部に変わっていた。石壁が乾いた冷えを返し、橙の魔道ランプは頼りなく揺れて、部屋の隅に濃い影が沈んでいた。
紙の擦れる音。冷えた陶の茶杯が机に小さく触れる音。それだけが、静かな往復を告げていた。壁の地図には昨夜からの書き込みが幾筋も走っており、まるでこれから始まる防衛戦の傷跡のようだった。
机上の木札――【兵力:三十八】。対する札は【敵兵力:約三百】。
この決定的な非対称性は、木の縁の冷たさのように無機質に胸へ刺さった。
地図を挟んで並ぶ、ヴォルフとレズンブール伯爵。徹夜の疲労が銀の髪を微かに乱し、伯爵の金髪にも心の折れ目のような影を落としていた。外気の薄い冷えが石の目地から忍び込み、皮手袋の甲に乾いた肌触りを置いた。
「……やはり、敵主力が進軍してくるであろう南側主街道での防衛は避けるべきだ」
ランプの炎が細く揺れ、紙の端がふっと鳴る。
「敵は数的優位を理由に、こちらを侮っているだろう。だからといって、真正面からぶつかれば、それは抵抗にすらならない。文字通り一瞬で粉砕されるだけだ」
視線が木札へ落ち、握った指節に白い血管が浮いた。
「仰る通りですな」
伯爵の声は低く、今は同じ方角を見ている者のそれだった。
「殊に正規軍の“鋼の黒壁”が問題です。あの重装の護りは極めて堅固。その後方より長弓と携帯弩砲の射撃支援が降り注げばどうなることか。我々の寄せ集めの兵力で正面から挑むなど、愚の骨頂でありましょう」
外の冷気がわずかに流れ込み、紙の角が頬を撫でる。
「ああ……現状、ダビド班の装備では、対抗する手立てがない」
喉に冷えが触れて、胸の奥の熱がひとつ跳ねた。
「彼らの目的が、女王陛下と私の身柄を確保することであるならば、あえて市街地に誘い込むという手もあります。地の利を活かしたゲリラ戦を展開すれば、抵抗することも可能でしょう……」
伯爵は短く息を継ぎ、茶杯の縁が微かに触れて鳴った。
「しかし……」
吐息に煮詰まった苦味が混じり、視界の端が少し滲む。
「市街地での戦闘行為による被害は甚大。市民の犠牲は避けられません。彼らを巻き込むのは、女王陛下のお心を考えればできる限り避けたいところです」
天井の木目が淡く揺れ、静寂が胸に落ちた。
「我々に求められているのは、勝利ではない――」
ランプの熱が頬に淡く触れ、指の先が一瞬震えた。
「メービスが意識を回復し、その力を存分に振るえるようになるまでの『時間を稼ぐ』こと。この一点に尽きる――」
指先が「ボコタ」の文字を軽く叩き、羊皮紙のざらつきが爪に返った。
「であるならば、主街道での正面衝突や、無用な市街地戦は避けるべきだろう。街の外、敵が進軍してくる道筋で、可能な限りの遅延工作を行い、敵を動揺させ、消耗を誘う。それが、我々にできる最善の策だ。残された時間は二日。この二日を耐え抜き、敵を可能な限り疲弊させ、足止めする必要がある」
乾いた喉に冷えが触れ、伯爵は静かに頷いた。
「それこそが、唯一の活路でありましょう。そこで二段階で遅延作戦を実行に移します。ボコタの街に至るまでには、街道に二箇所の橋がかかっています――」
木製の駒を二つ、橋の位置へ置く音が微かに響く。
「これを破壊、崩落させる」
「しかし、敵には工兵に加え高位魔術師が二十五名。土属性の魔導兵による修復能力は無視できない」
「その通りです」
伯爵は声を整え、指の腹で地図を軽く押さえた。
「ですから、橋梁の破壊に加えて、橋裏の氷雪斜面を誘発崩落させます。水脈に少量の火薬を仕掛け、凍結している地面ごと爆破することで、大規模な地滑りを引き起こす。これにより、復旧作業はさらに困難になるはずです。また、橋を抜けた先には小さな森林地帯があります。ここで木を切り倒して道を塞ぐのも有効です」
地図の緑がランプに淡く透け、ヴォルフはそこを指先で叩く。
「行軍を遅延させれば、当然予定通り宿場にはたどり着けなくなる。寒空の下、野営を強いられることになるだろう。そこで野営地を特定し、火矢や少量の爆薬などを投げ込む。ただし、深追いする必要はない」
革の匂いがほのかに立ち、呼気が静かにほどける。
「奇襲……というよりは牽制と陽動ですな。これも有効な遅延工作になる。そして狙うのは兵ではなく、物資を運搬する後続の馬車。兵站が心許なくなれば、士気はおのずと低下する」
「だが、夜襲火力の再構築を指示する必要がある。火薬が絶望的に不足している状況だが、使えるものを全てかき集めさせる。油や酒、松脂、獣脂……これらを布片に染み込ませ、簡易的な焼夷壺を量産させよう。数だけでも揃えられれば、敵の士気を挫くには十分だ」
「わかりました。市民たちに協力を要請し、直ちに取り掛からせましょう」
伯爵の返事は迷いがない。羽根ペンの先が紙をかすめ、記録の線が刻まれていく。
「さらに森で撹乱を仕掛ける。少数精鋭でのヒット&アウェイで敵を分散させ、敵を疲弊させるんだ。これについては、ダビド班が最適だろう。伐倒と路塞で行軍を止め、復旧を始めたら別の区間を襲う――“修復→再障害”のループを強制して、士気を削ぐ」
地図に引かれた線が、刃物の軌跡のように見えた。
「市民から支援任務にあたる志願者を募りましょう。木の伐採と移送は彼らに割り振ります。元宰相兵の幹部が協力的ですから、指導と警護は任せられます」
そこで空気が一段冷え、ヴォルフは机の端の札へ視線を落とす。
「――だが、武器が足らん」
「そこが最大の難題です。昨夜の混乱で宰相兵の大半が逃げ出し、兵舎には散逸した鎧と槍が残るのみ。回収して修繕し、市民に配りますが数はたかが知れています。元宰相兵の有志でさえ行き渡るかどうか――銀翼の正規装備を除けば、頼れる刃はほとんど無いのが現状です」
沈黙が紙の上で厚みを増し、ランプの小さな唸りが耳の奥で伸びた。
「それと火薬については……残念ながら、倉庫にあったものはほとんど誘爆し、消失しているそうです。残りは、銀翼騎士団が所持する分の僅かです。よって、効果的な運用が求められます。橋の破壊や野営地攻撃には、その僅かな爆薬を最大限に活用する必要があります。失敗は許されないでしょう」
ヴォルフは奥歯を噛み、唇に乾きを感じた。
「食糧や医療品についてはどうか?」
羊皮紙から顔を上げ、問いが低く落ちる。
「食糧は、冬を越す備蓄がありましたが、昨夜の混乱で一部が略奪されたり、焼損しました。持って四日……いや、精々三日でしょう」
伯爵は札の数字に目をやり、沈んだ声を重ねた。
「街道封鎖の影響もあり、外部からの補給は望めません。徐々に量を減らしていくしかないかと……。
医療品についても壊滅的です。倉庫から持ち出せた分はごく僅かでしたし、現在この街には熟練した医師、薬剤師、回復術師もいません。アリア殿やマリア殿両名が懸命に手当てにあたってくれていますが、限界があります。包帯に代わる清潔な布を探したり、薬草を調合したりと、可能な限りの工夫を凝らしていますが……重傷者への十分な手当は、正直難しいと言わざるを得ません」
冷えた空気が喉を刺し、胸の内側で決意だけが密かに熱を帯びた。
「市民には直接戦闘を避けさせ、あくまで遅滞工作に徹してもらう。元宰相兵の有志には、銀翼の指揮下に入り、遊撃部隊として運用する。特に、橋の破壊といった、危険度の高い任務は、少数精鋭の銀翼騎士団と、志願者の中から最も練度の高い者を選抜してあたらせる」
短い呼気が重なり、伯爵の瞳に硬い光が乗った。
「伯爵。あんたには引き続き市民代表との調整、防衛計画の最終確認、そして市民への指示伝達を頼みたい。市民動員と士気維持のため、『二日間鐘を一刻(目安として約二時間)ごとに鳴らす』と布告し、鐘の音が続く限り前線は無事だという、市民の心の支えとする。街の内部での避難経路の確保やバリケードの構築といった物理的な防衛準備も、市民の協力を得て進めてほしい。全体の指揮は俺が執る」
「御意」
伯爵の返礼は簡潔で重かった。炎が一度だけ明るみ、卓上の影が短く縮んだ。
しかし、ヴォルフの胸の奥に、針のような疑念が一本だけ残った。
彼の計算はいつも冷たく、覚悟は見えている。だが、どこまでがこの街のためで、どこからが彼自身のためなのか――いま問い詰める時ではない。時間は、ない。
「伯爵」
声を落として促す。
高窓の外、雪混じりの風が鳴り、石の床を這う冷気が靴底から脛へと上がっていく。丸卓に広げた地図へ、ランプの橙が揺れて影が縁から滲んでいく。
「橋梁破壊と氷雪斜面崩落工作の実施についてだが、作戦立案者であるあんた自身に指揮してもらいたい」
伯爵の睫毛がわずかに揺れ、丸めたマントが膝から滑りかけて止まる。
「……可能です」
声が室内の静寂に溶けた。
「ほう。意外だな、断ると思った。俺は無茶を振ってみたつもりなんだが?」
窓の隙間から冷気が伸び、声の温度がひと段下がる。
「無茶? 人員の不足は明らか。されど総指揮官であるあなたが動くわけには参りますまい。となれば、この私めの出番では?」
「それもあるが、俺はあんたをまだ信用したわけじゃない。だから試した」
卓上の木札がかすかに鳴り、紙の乾いた音が一拍だけ返る。
「なるほど、その点については心配ご無用。陛下がお目覚めになり、無事この危機を乗り切るまで、このレズンブールも一蓮托生にございます」
油と紙の匂いがやわみ、喉の強張りがひとつほどけた。
「だが、あんたに指揮なんてできるのか?」
短い沈黙が部屋を満たした。
「侮ってもらっては困りますな、殿下。こう見えても私は若い頃、軍に身を置いた時期がありましてね。工兵部隊の小隊長として、現場の指揮も経験しております」
空気が微かに緊張を孕んだ。
「なんだと。そいつは初耳だ」
ヴォルフの眉が一瞬だけ跳ねた。
「上に立つ者が率先して前に出るのは、何も下に無謀を強いるためではない。絶望的な状況下でこそ、生き延びる勇気を示すことに意義がある。私の立場を活かすにも、それが最適でしょう。士気もきっと上がります」
言葉の終わりに、室内の空気が一枚裂けたように静まった。
「その心意気、ありがたく思う。ダビドと連携して、作戦を頼む」
押さえていた指の力が抜け、地図の端が静かに落ち着いた。
「御意」
芯がわずかに短くなり、橙がふたりの間で柔らいだ。
返る声に迷いはなかった。ランプの炎がぱちりと小さく弾け、油の匂いが薄く漂った。
「最後に一つ」
ヴォルフは低く続けた。
「万が一、宰相軍が遅延工作を突破し、市街に侵入した最悪の事態を想定したプランBを策定する。市民の犠牲を避け、そして女王陛下を無事避難させるため。脱出ルートをあらかじめ整備しておくべきだ」
地図の北側、山影の線を指でなぞる。紙が爪の先で乾いた音を立てた。
「北の山道の雪を踏み固め、道にしておく。万が一の際、これは市民の脱出路となる。同時に、女王陛下が回復されたなら敵を側面から打つか、さらに北方の味方と合流する“逆襲ルート”にも転用されるだろう。市民の体力、天候――それらを考慮しつつ、可能な限り整備を進めておいてほしい」
気を吐くような静寂のなか、窓外の雪明かりが鈍く揺れた。
「承知いたしました」
伯爵の頷きは短く、重みを帯びていた。悲壮。現実。遠くで鐘の音が雪に吸われて落ち、広間の橙の光だけが静かに揺れていた。
「荷車を二、三台。帆布で偽装しておく。女王陛下や負傷者、最低限の医薬、冬衣――迅速な移動にはどうしても必須だ。目立たぬよう、だがすぐに使える場所へ準備しておいてほしい」
微かな紙の匂いと革のきしみが交わり、窓の外で雪明かりが鈍く街路を照らし始めていた。
勝てない戦いだと知っている。だからこそ、守るべきものを、最小の犠牲で残すために、いま手を打つ。二日――その刻みだけ生き延びれば、彼女が戻る。彼女の守ろうとした人々が、そこに立っていられる。
ヴォルフは窓辺に立ち、白く沈む街を見下ろしていた。雲の縁が橙に薄く染まり、雪は静かに降り続く。冷たい空気が頬を撫で、胸の奥の熱だけが、確かに残っていた。
時間はない。戦いは始まっている。これは数と鋼の戦ではなく、時間と絶望との戦いだ。
「二日生きねば滅ぶ」――その合図めいた鐘が、遠くで低く一度だけ鳴った。
【後書き】
対立構図
攻撃側 宰相の軍勢 (敵兵力:約300名、正規軍"鋼の黒壁"、高位魔術師25名を含む)
防御側 ボコタの街の守備隊 (兵力:わずか38名 - 銀翼騎士団の一部と元宰相兵の有志 + 編成中の市民自警団)。リーダーはヴォルフ、協力者としてレズンブール伯爵。
この対立構図は、兵力、装備(武器、火薬)、物資(食糧、医療品)の全てにおいて、防御側が圧倒的に不利な、絶望的な非対称性を特徴としています。
作戦概要
最終目標 勝利ではなく、女王陛下が意識を回復し力を振るえるようになるまでの「時間を稼ぐ」こと(目標日数:約二日)。
基本戦略
圧倒的な敵主力との正面衝突を避ける。
無用な市街地戦を避け、市民の犠牲を最小限に抑える。
街の外、敵の進軍ルート上で徹底的な遅延工作と攪乱を行い、敵戦力を動揺・消耗させる。
具体的な作戦内容
1. 二段遅延プラン
ボコタに至る街道上の二箇所の橋梁を破壊・崩落させる。
橋裏の氷雪斜面に少量の火薬を仕掛け、水脈ごと爆破することで大規模な地滑りを誘発し、復旧作業を困難にする。
橋を抜けた先の森林地帯で木を切り倒し、道を塞ぐ。
2. 行軍妨害と夜襲
遅延により野営を強いられる敵の夜間野営地を特定する。
野営地に火矢や少量の爆薬などを投げ込み、混乱と動揺を誘う。
火薬不足を補うため、油、酒、松脂、獣脂などで簡易的な焼夷壺を量産する。
3. 森林地帯での攪乱
少数精鋭(ダビド班など)によるヒット&アウェイ戦法で敵を分散・疲弊させる。
「修復→再障害」の無限ループを強制し、敵の士気を削ぐ。
4. 市民の役割
市民自警団を編成し、主に攪乱・遅滞工作に協力させる(木の伐採・移送など)。
街内部での物理的防衛準備(避難経路確保、バリケード構築)を進める。
三刻ごとに鐘を鳴らし、前線が無事であることの心の支えとする。
5. 物資のやりくり
散逸した武器を回収・修繕し、市民に可能な範囲で配布する。
限られた火薬を最も効果的な作戦(橋の破壊、野営地攻撃)に集中投入する。
食糧は量を減らして維持(約三日分)、医療品は代用品などで工夫する。
6. プランB(最悪の事態への備え)
万が一敵が市街に侵入した場合に備え、市民や女王のための脱出ルートを確保する(北側山道の雪を踏み固める)。
これは回復した女王が反撃に出る際のルートにも転用可能とする。
兵站ワゴンを偽装し、脱出や反撃の際に女王、負傷者、最低限の物資を迅速に移動させる準備をする。
この作戦は、圧倒的に不利な状況下で「生き残る」ために、利用可能なあらゆる手段(地形、時間、少量の物資、市民の協力、敵の油断や疲弊誘発)を駆使しようとする、極めて現実的かつ悲壮な内容となっています。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード445開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
剣より鋭き策略
【本文】
雪に深々と覆われた果樹園。凍てつく静寂を破り、古い納屋の扉がきしみ、蝶番が短く悲鳴を上げた。わずかな音さえ、張り詰めた空気に痛く響く。
隙間から滑り込む風が肌を切り、魔道ランプの橙がひときわ大きく揺れる。薄い炎の震えだけが、暗闇の中で彼らの存在を測る唯一の光だった。頼りない灯は、かろうじて掴んでいる希望のように小さく、確かに息をしている。
壁際の作業台には、ボコタ近郊の地図が何枚も広げられている。紙の縁は乾いて硬く、指先にざらつきが残る。雪の白に挟まれた道筋は、これから解き明かすべき現実の迷路みたいに絡み合っていた。
地図の上で、ダビドの吐息が白く滲む。外套の下へ忍び込む冷えは骨まで染み、昨夜からの疲れが筋に鈍く重く張り付く。それでも彼の眼差しの奥には、主君への忠誠と指揮官としての冷静だけが、消えずに灯っていた。
戸口の影が揺れ、斥候役のガイルズが音もなく入る。純白の偽装マントは雪の粒を凍りつかせ、肩で小さく音を立てた。吐く息はすぐ冷気に呑まれ、薄い霧へほどける。両手をこすり合わせた指先は赤く腫れ、寒さが噛む。
顔には幾夜の緊張が色濃く残り、視線は助けを求めるようにダビドを射た。かじかんだ唇が、やっと動く。
「ダビド……」
声は寒さと報せの重さで、かすかに震えた。
「昨夜、王都へ向けて放った伝令の風耳鳥なんだが、残ってる三羽、全部飛ばしたのはどういうことだ?」
短く唇を湿らせ、喉の痛みに耐える。
「王宮に報せが届くにはまだ丸一日はかかる。……正直なところ、宰相軍が到着し、戦端が開かれるまでに、陛下からの御指示が間に合うとは到底思えんのだが……」
木机の角が冷たく、ダビドは指を軽く叩いた。抑えた焦りが、トン、トンと小さく音になる。
「……風耳鳥を三便に増やしたのは、保険だ。経路を散らして、ほんの少しでも確率を上げたかったのさ」
落ち着いた声に対し、指先の癖は止まらない。ガイルズはその微かな乱れを見逃さなかった。
「だとしても、俺たちにはもう時間がない……」
ガイルズが拳を握る。ダビドは外套越しに肩へ手を置いた。布の冷たさに押されるように、指の圧だけが確かに残る。
「分かっている。だが、ガイルズ、諦めるのは早い。女王陛下には我々の想像を超えた深いお考えがある」
無理な楽観ではない、信を置く声音だった。
「それは……いったいどんな?」
「作戦というより……これは、高度な政治的な駆け引き、とでも言うべきものかもしれない」
ダビドは一度だけ遠いほうを見た。薄い吐息が白く揺れ、王都の光景が瞼の裏へ転がる。
「もちろん、無事に辿り着けばの話だが……王宮には忠義に厚い侍従長、コルデオ殿がいる。陛下が最も信頼を置くお方だ。いまは、その働きを信じるしかない」
そのとき、ダビドは思い出す。ボコタへ向かう直前、女王がこの納屋で静かに告げた“賭け”を。灯に縁どられた薄緑の瞳と、指先に移る湯の温もり――あの瞬間の手触りが、冷えた空気の中でよみがえる。
◇◇◇
粗末な木箱を椅子代わりに、女王は白湯の湯気を見つめていた。泥に汚れた白いローブ、唇に残る乾き。けれど背筋は真っ直ぐで、瞳には揺るぎない光が宿っている。肩の毛布は軽く、頼りない温度が静かに流れていた。
「……ダビド。王宮には、侍従長コルデオが留まってくれています。わたしは彼に、最後の切り札を託しました」
名前を聞くだけで、空気が少しだけ温む気がする。ダビドは息を詰めた。
「密命、でございますか…?」
「ええ」
女王は頷き、灯の明滅が睫毛に走る。
「伯爵の生存を示す確かな証を知らせる風耳鳥が、無事に彼の元へ届いたならば……。その報せを受け次第、わたしの名において、勅令を発する手筈になっています」
白湯の香りがほのかに立ち、喉が鳴る。女王の名による勅令――国家の根幹に触れる重みが、室内の温度をわずかに下げた。
女王は息を細く吐く。ため息にも似たその音に、苦さが混ざる。
「宰相が企む罪状――レズンブール伯爵を利用し、王家の血を引くリュシアン殿を傀儡として擁立しようとする陰謀。さらに隣国との不正な武器取引、影の手を使った暗殺や妨害の数々――その一部始終を、あなたの掴んだ証拠と共に公にし、宰相の権限と身分を……一時停止とする、と」
重さを呑み込み、女王は微かに微笑んだ。強い決意の縁で、いたずらの影がかすかにゆれる。
「……もっとも、この勅令を出すにあたっては、少しばかり“仕掛け”が必要でした」
「仕掛け、でございますか?」
「ええ」
声を落とし、秘密を明かす子どものような目になる。
「実はわたし、表向きは『流行り風邪で離宮に伏せている』という設定なの。王配殿下は、とりわけ重篤ということにしてね」
「それは、存じ上げませんでした……」
「だから、この勅令はコルデオに代筆してもらい、預けてあるわたしの王印を捺してもらうわ。そうすれば、わたしが『ここには来ていない』というアリバイにもなるでしょう? 少しずるいやり方だけれど……ふふ」
女王の瞳に、周到な計算と覚悟が同居する光が差す。
「ダビド、あなたはコルデオの経歴はご存知かしら?」
「いえ、存じません」
「もともと彼は、父上――先王付きの書記官だったの。王の最終決裁が必要な書類って膨大でしょう? 内緒の代筆も珍しくないわ。わたしも、彼の働きにはずいぶん助けられたわ。だから筆跡の再現は完璧です」
短く笑ってから、女王は真顔に戻った。
「でも……ダビド、心して聞いて。これは、あくまで賭けです。大きな――本当に大きな賭けなのです」
空気が引き締まり、ランプの芯が小さく鳴る。
「わたしたちが勝てば、すべては正当化されるでしょう。コルデオの行動も、わたしの決断も。けれど、もし……万が一、わたしたちが敗れれば……彼は勅令を偽造した反逆者として断罪され、わたしもまた……『国を混乱に陥れた暴虐女王』として、歴史に汚名を残すことになるでしょう」
窓の外で風が雪を擦り、納屋の板壁が低く鳴った。
女王はゆっくりと息を吐き、手の甲で額の冷えを感じながら視線をダビドへ向ける。
「それでも……わたしには、この手段しかないの。ごめんなさいね、あなたたちをこんな危険な賭けに巻き込んでしまって……ひどい女王だと、思います」
紙と蝋の香りが、警戒と決意の混じった空気の中に溶けた。
ダビドは頷き、胸の奥で鼓動がゆるやかに高まるのを感じた。
「……陛下のお覚悟とご心痛、お察しいたします。しかしながら、ダビド班全員、いえ銀翼騎士団全員がこう申すでしょう。『望むところだ』と。女王陛下のお望みになることは、すなわち我々の望みです。そして、我々は必ず勝ちます」
膝の上の拳が微かに震え、革の質感が指先に伝わる。
女王は静かに、しかし揺るぎなく言い切った。
「ありがとう、ダビド。わたしも“決して負けるつもりはありません”。この勝負、必ず勝ちましょう。そして……生きるのです」
その声は鋼の芯を含み、湯気の揺れすら静めてしまうようだった。
◇◇◇
現実へ戻る。冷えた紙の上に雪明かりがぼんやり落ち、ダビドは顔を上げた。
「ガイルズ、感傷に浸っている暇はない。王都のコルデオ殿もまた、命懸けの賭けをしているんだ。我々も時間を無駄にするわけにはいかない」
「ああ……」
息が少し温かくなる。ダビドは視線を地図へ落とした。指先の皮膚が紙を押さえる感覚で、思考が整っていく。
三百を超える正規軍。使える戦力は限られ、物資も心許ない。冷気が肩に積もるような重みでのしかかる。
「確保した“影の手”の三名なんだが……」
古参のディクソンが入ってくる。目の下に深い隈、声は掠れて乾いていた。板の隙間から入り込む風が、髪の先をかすかに揺らす。
「組織構成・伯爵軟禁時の状況・宰相軍の規模――そのあたりまでは聞き出せたが、作戦手順や別働隊の存在に至っては沈黙したままだ。これ以上を期待するのは、無理筋だろう」
「……そうか。やはり手強いな」
齧る唇に、鉄の味がにじむ。ダビドは冷気を肺いっぱいに吸い込み、決めた。
「シモン、ブルーノ」
斥候から戻った二人。髪や肩に散った雪が、ランプの光で細く光る。
「時間がない。可能な限りの遅延工作を実行する」
ダビドは地図へ素早く印を打つ。墨の匂いがわずかに立つ。
「最も重要なのは、ボコタ手前の二箇所の橋だ。ここを落とす。加えて、橋裏の氷雪斜面を誘発崩落させる――水脈へ少量の火薬を仕掛け、凍結地面ごと崩しにかかる。伯爵が直接工作班を率いる。お前たちは伯爵の指示に従え。使える爆薬は少ない。運用は慎重に。失敗は許されない」
紙の上に置かれた命令札が、薄く鳴る。シモンとブルーノの顔に、緊張と覚悟が同時に刻まれた。
「了解です!」
「おう、まかせとけ!」
「街道沿いの森林には倒木でバリケードを作る。市民自警団と連携しろ。住民を危険に晒すな」
「了解であります!」
別の札が渡る。油、酒、松脂、獣脂――焼夷壺の材料名が並ぶ。
「ガイルズ、ディクソン。敵の野営地を特定し次第、火矢と少量の爆薬で騒ぎを起こして撹乱させる。壺はできるだけ多く用意しろ。やったらすぐ引く。殲滅は目的じゃない、遅滞だ」
「わかった……!」
「了解だ」
革の鳴る音、靴の底が床を叩く音。命令札を握る手の体温がわずかに移り、そのまま雪へ消えていった。扉が閉まり、静寂が戻る。
物資は足りない。火薬はわずか、情報も欠けている。勝率だけで言えば、限りなく薄い――それでもやるしかない。
――女王陛下……そして、ヴォルフ殿下。あなた達が、闇の中で道を見失っていた俺に手を差し伸べ、居場所をくれた。あの温もりに応えるために、我らはここで踏みとどまってみせます。
冷えた空気をもう一度吸い込み、ダビドは地図の端をそっと撫でた。白い息が小さく砕ける。
「二日生きねば滅ぶ」――その目標が、胸の内で硬く光る。外では雪が弱まり、風の音だけが細く続いていた。
【後書き】
この「勅令作戦」は何を狙うのか
物語上の必然性とリアリスティックな軍事・政治ロジックがどう接合しているか、そしてこの策が失敗した場合に何が起こるか、までを俯瞰してみましょう。
風耳鳥の意味
① 「証拠」と「命令」を物理的に分離
伯爵生存報(鳥)=“実体ある一次証拠”
勅令文書(コルデオ)=“権威の発動装置”
宰相派が後付けで「偽造だ」と叫んでも、王印+筆跡+「既に王都外を飛んでいた独立系伝令鳥」が三点セットで噛み合ってしまう。→“陰謀”と“正統”が、一片の紙で完璧に裏返る仕組み。
② 複羽化による確率論
風耳鳥を三羽にしたことで「①すべて撃墜される確率」と「②内一羽でも途中鹵獲され内容を改竄される確率」の両方が指数関数的に低下します。
最短航路・迂回航路・山越え航路――経路を散らすことで敵の迎撃線を分散。
鳥に付される“封蝋”が破損した時点で偽装は不成立、ゆえに改竄は難しい。
王都で起こる“政治時間差爆弾”
タイムライン宙づりになる利害 想定効果
勅令到着直後― 宰相直属官僚(文官・財務)
― 王都駐屯部隊指揮官「命令系統が二重化」し“誰に従えば合法か”が判別不能となる。
貴族院の中間派真贋判定が終わるまでリソース供出を保留。
宰相軍の後方補給部隊 通行許可証 が一時無効化 →補給車列が足止め。
王都に帰還しないと正式弾劾を受けるリスクが増大。前線指揮か帰京かの二択を迫られ、作戦思考が乱れる。
要するに
ボコタ戦を「兵站/増援が思ったほど来ない遅い戦い」に強制的にモードチェンジさせるのが女王の本懐です。
破綻シナリオと“次の手”
鳥が落とされる
→宰相派は伯爵死亡の既成事実化を急ぐはず。
→それ自体が「なぜ急ぐ?」という疑念を生み、かえって院内工作の火種になる。
勅令が“偽造”と断定される
→それでも宰相は「偽造証拠を用い王権を簒奪した」と女王サイドに言い返されるため、完全勝利は困難。
→〈反宰相〉グループは水面下で温存され、長期内戦へ。
コルデオ捕縛
→“老臣が命と名誉を張った”というストーリ‐ラインが出来、諸侯・民衆の同情が女王へ傾く。
→ボコタ以外の地方都市で蜂起・ゲリラ戦が誘発される芽となる。
つまり
成功すればもちろん大きいが、失敗しても「宰相側の統治コストを跳ね上げる」という副次効果が残る設計になっています。
メービスという指導者像
理想と老獪の融合
「風邪で寝込む」という子供じみた嘘を、王権レベルの策略に転用。
失敗の責任を自分ごと背負い、他者に道徳的負債を押し付けない
“賭けです”と言い切ることで、ダビド達に撤退判断の自由を残す。
この二面性が、単なる聖女でも鉄血君主でもない、物語的厚みを生むポイントです。
物語運用:緊張の二重構造
ボコタ側
橋の爆破が間に合うか?夜襲班は帰還できるか?
王都側
鳥は無事に?勅令は何時読み上げられる?宰相の逆工作は?
読者の視線を「前線の時計」と「王都の時計」の間で揺らし続けることで、“同じ48時間”を二重のサスペンスに変換できます。
→結果がどちらに転んでも、物語の緊張は崩れず、次章へ自然にブリッジ。
まとめとして
この一手は戦術ではなく“時間と正統性”を武器にする戦略。そして設計者メービスが持つ「倫理的覚悟」と「政治的狡猾さ」は、失敗しても物語を瓦解させない安全弁を内蔵している。
ボコタ攻防戦は血と雪のローカル戦だが、女王の賭けは王国規模のメタ戦。――両輪が噛み合った時、初めて「勝てない戦いが“負け切らない戦い”になる」というわけです。
【リアクション】
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------------------------- エピソード446開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
灰鴉亭にて女王は眠り、街は祈る
【本文】
外の闇は骨の芯まで凍らせる。炉でささやかに爆ぜる薪の音だけが、かろうじて鼓動を繋ぎとめるよすがだった。だが薬草と血の、重く澱む匂いが、わずかな安らぎさえ許さない。
肌にまとわりつく汗は冷え、胸の底からは這い上がるようなざわめきが消えない。耳を澄ませば、呻きと祈りが、途切れ途切れに寄せては返す。
かつて陽気な音楽と笑い声で満ちた酒場の広間は、いまや臨時の野戦病院へと姿を変えていた。
老人や子供たちは毛布にくるまり、炉端に身を寄せる。傷ついた兵士や市民は区別なく床に横たわり、揺れる炎の赤がその瞳の奥に、縋るような細い光を灯しては消える。「ここで終わりじゃない」──動かぬ唇の間で、そんな無言の祈りが交わされているかのようだ。
何を信じ、明日はどうなるのか。誰もが言葉を失っている。ただ、騎士たちや、献身的に動き回るアリアの姿に、助けを求めるような視線を送るだけだ。
守られているという安堵は、薄氷よりも脆い。明日、ここが安全である保証はないと、皆、どこかで悟っている。それでも、誰も顎を引いてはいなかった。希望の残り火を手放してはいなかった。
騎士たちがいる。そして、敬愛する女王陛下が、この同じ屋根の下にいらっしゃる。その事実だけが、脈打つ寒気の中で、心を支える唯一の拠り所だった。
不意に、遠く、教会の鐘の音が風に乗って届いた気がした。一刻ごと──前線からの合図だろうか。まだ、大丈夫。持ちこたえてくれている。その確信に近い響きに、強張っていた顔のこわばりがほどけ、肩がゆるむ。
「この方、熱が高いわ! すぐに冷たい水と清潔な布を持ってきて!」
アリアの凛とした声が、重苦しい灰鴉亭の空気を引き裂いた。
その落ち着いた声は、混沌の只中で唯一の道標となり、不安に揺れる人々の胸に、静かな波紋を広げていく。彼女の衣服も、休む間もなく働くその手も、血と薬草の匂いに染まり、痛々しく荒れていた。
「アリアさん、包帯がもう……! 傷口を覆える清潔な布なら、どんなものでも構いません、ありませんか? このままでは、傷口が……!」
マリアの声にも、隠せない焦りが滲む。
医療品は底を突きかけている──明日には麻酔薬すら尽きるだろう。そうなれば、たとえ切開が必要な傷でも、ただ歯を食いしばらせるしかない。街に残るわずかな薬草と強い酒精だけでは、次々運び込まれる負傷者には到底追いつかなかった。
アリアは布を裂いて応急の包帯とし、薬草を蒸して温湿布を作るが、焼け石に水だ。彼女たちの手は、どれだけ動かしても足りなかった。
担架で運ばれてくる者たちの顔は、蝋のように青白い。骨折には、土地の古老が伝えたという松脂と灰、獣の膏を練ったパテで固定し、副木を当てて即席の固定とする。それが、回復術師のいない今、できる最善だった。
食糧も、避難民の数を思えば、あと三日持つかどうか。備蓄を分け合ってはいるが、誰もが先の見えない不安を抱えていた。
幼子の空腹を訴えるか細い声が響くたび、アリアの胸は締め付けられる。彼女は、隅で母親の袖を引いていた小さな少女に歩み寄り、凍らせた保存肉の欠片をそっと手渡した。少女はこくりと頷き、小さな手でそれを受け取ると、母親の背に隠れるようにして、ゆっくりと口に運んだ。今は、こうして分け与えることしかできない。
手伝いを続けるクリスの動きも、見ているのが辛いほど鈍くなっていた。右腕の傷が、白い包帯の下で執拗に疼くのだろう。引きつるような表情で、時折漏れる痛みの呻きを懸命に噛み殺している。
「クリス、あなたも無理しないで。少し休んでちょうだい」
アリアは、クリスの血の気の引いた顔色に気づき、有無を言わせぬ口調で促した。
「いえ、まだ大丈夫です、アリアさん」
痛みに顔をしかめつつも、クリスは弱々しく微笑む。
「陛下のことを思えば……これくらいでへこたれてはいられません」
言葉とは裏腹に、白い頬と震える指先が、痛々しいほどの強がりを物語る。それでも、彼女は手を止めようとしなかった。
「だめよ。あなたは大事な戦力なんだから、倒れられたら困るの。ついでにマリアと交代して陛下を看てあげて」
強行軍の疲労で意識を失った女王メービスは、二階にあるアリアの私室で、クリスとマリアが交代で看病にあたっている。
「は、はい……わかりました……」
クリスは渋々頷き、カウンター奥の薄暗い階段へ向かう。古い木が軋まぬよう、慎重に一段ずつ上っていく。
二階の廊下は、階下の喧騒が嘘のように遠く、ひんやりとした静寂に満ちていた。壁伝いに進み、アリアの部屋の扉の前で立ち止まる。浅く息を吸い、心を落ち着ける。この扉の向こうに、眠り続ける陛下がいる。
扉の向こうから、かすかな衣擦れの音。マリアだろうか。やがて、扉が内から音もなく開いた。
マリアだった。夜を徹した看病と、ままならぬ状況での奮闘が、彼女の顔に深い疲労と目の下の濃い隈を刻んでいた。瞳は充血し、潤んでいる。
二人の視線が、静かに交わされる。言葉はない。だが、その沈黙には、互いを労い、無事を確かめ合うような、確かな想いが通っていた。
「マリアさん……」
クリスが、気遣わしげに囁く。
「クリス……。交代、ありがとう」
マリアの声は掠れている。深く息を吐き出した。
「陛下のご様子は?」
クリスの声に、心配と緊張が滲む。
マリアは扉をわずかに開け、中の寝台に視線を戻す。
「まだ、お目覚めにはならないわ。でも――」
一瞬、彼女の疲れた顔に、小さな希望の灯がともった。
「だいぶ熱は下がってきたみたい。それに、呼吸も、昨日の夜よりは、少しだけ……安定してきたように感じるの」
その声は、希望と同時に、まだ拭えぬ不安をも含んでいた。
「そうですか……よかった……」
クリスは張り詰めていた胸を撫で下ろす。わずかでも快方に向かっている事実に、心が少し軽くなった。
「マリアさんも無理しないで、少しでも休んでくださいね」
「ええ、ありがとう。クリスも、腕がまだ痛むでしょうに……」
マリアがクリスの包帯に、そっと心配を映した視線を向ける。
「これくらい、なんともありません。重いものは、レオンが担いでくれますし」
クリスの声は淡い微笑を伴いながらも、その指先には冷えた痛みの影が残っていた。マリアは何も言わず、静かに頷いた。
「念の為、痛み止めの軟膏を持ってくるから、使ってちょうだい」
「ありがとうございます」
「では、あとはお願いするわね」
マリアは微かに息をつき、扉のたてつけを確かめるように手を滑らせた。重い足取りで階段を下りていく背中に、張り詰めた疲労が淡く滴った。
マリアを見送った後、クリスは扉の向こうに意識を集中させた。隙間から、寝台に横たわる陛下の姿が微かに見える。覚悟を決め、そっと扉を開けて中へ入る。外の喧騒から切り離された、特別な静けさが彼女を迎えた。
◇◇◇
灰鴉亭二階──階下の喧騒が嘘のように遠い。板戸一枚隔てただけで、そこには薄い静けさが満ち、窓から差し込む午後の光が、寝台と薬壺、そして看病する者の姿だけを金色の埃の中に浮かび上がらせていた。
クリスはベッド脇の椅子に、音を立てぬよう静かに腰を下ろす。濡れた布で、女王の額の汗をそっと拭った。メービスの呼吸は浅く、時折苦しげに眉根を寄せるが、眠りは深い。
「陛下……」
祈るような、か細い囁きが漏れた。
右腕が、包帯の下で鈍く疼く。それでも、彼女はこの場を離れるわけにはいかなかった。守るべき、かけがえのない存在がここにいる。そして、遠い前線にも、心を砕く大切な人がいる。
クリスは、メービスの冷たくか細い手をそっと取り、自分の頬に寄せた。自らの温もりを分け与えるかのように。
扉の外から、微かに革鎧の軋む音と、壁に背を預ける気配。レオンだ。クリスは息を詰め、彼の存在を感じていた。彼もまた、眠れずにいるのだろう。
やがて、壁の地図を眺めるような気配がした。ボコタから前線まで、地図の上では指一本分の距離。だが、その間に横たわる死線は、なぜこんなにも果てしなく遠いのだろう。
どのくらい時間が経っただろうか。クリスが、そっと部屋を出ると、思った通りレオンがそこにいた。壁に背を預け、じっと扉を見つめていた。
「クリス……」
彼が、ごくりと喉を鳴らしてから名を呼んだ。
「無理、していないか? 腕の痛みはどうだ?」
真っ直ぐな優しさが声に滲む。視線が、痛々しく包帯の巻かれた腕に注がれた。
「平気よ、レオン」
クリスは、その不器用さに頬を緩める。安堵と、かすかな喜びが混じる。
「あなたこそ、少しは休んだらどう? ずっと荷物運びやら何やらで、休む間もなく動き回っていたじゃない。それに……ちゃんとご飯食べているの?」
心配そうな視線が、少しやつれた彼の頬へ向けられる。
「配給の乾パンを少し……」
「それだけ?」
「十分さ。俺は体力や持久力には自信あるんだ。それに、気合いなら誰にも負けない」
レオンはきっぱりと言い、壁際に視線を戻す。クリスから顔を逸らすように。
「あなたのタフさはよく知ってるけど、本当の戦いはこれからなんだから、お互い体力を温存して備えておかないとね。あなたって、すぐ無茶するから心配なのよ」
「それを言ったらクリスもだろ。俺、心配で仕方ないんだよ」
ストレートな言葉に、クリスの頬がふわりと赤らんだ。互いを気遣う言葉が、霜の噛むような空気を少しだけ温めた。
レオンが、ためらいがちに彼女の腕にそっと触れた。包帯越しの、淡雪のような一瞬の触れ合い。
けれど、その温もりは、傷だけでなく、心の奥までじんわりと響いた。
「本当に大丈夫なのか?」
繰り返す問いには、まるで自分が傷ついているかのような響きがある。
「もう、しつこいな。平気だって言ってるじゃない」
クリスは顔を赤らめながらも、彼の変わらない優しさに頬を緩める。
「レオンこそ、よく見たら顔色よくないよ?」
「これは別に、廃材を燃やしててちょっと煤けただけだ。余計なお世話だっての」
彼は短く答え、伏し目がちに視線を落とす。彼女の瞳を、真っ直ぐに見返せないかのように。
先日の告白の後、二人の間には、ぎこちないながらも、以前とは違う空気が流れていた。長い戦友としての信頼の上に芽生えた、温かくも儚い感情。この絶望的な状況下で、互いの存在だけが支えだった。
触れ合う体温だけが、確かな現実。だが、今は感傷に浸る時ではない。女王を守り、仲間を支え、この街で生き延びる。重い使命がある。
「……もうすぐ宰相の本隊がこの街にやって来る。けど、俺がクリスを守るから」
レオンは腰の剣の柄を強く握る。赤い髪の下の瞳に、若い騎士の純粋で強い決意が宿る。守るべき存在を得た者の、覚悟の色。
「じゃあ、わたしもあなたを守るわ。だって、わたしはあなたの“目”みたいなものだし。そうでしょ、力任せの騎士さん?」
クリスは、レオンの硬い手に、そっと自分の手を重ねた。伝わる体温が、心に安らぎをもたらす。重なる二人の手。夜明け前の白のような、小さな、確かな光。
「悪かったな。俺は“気配を察する”って方面はからっきしなんだ。だから……クリス、お前がいなきゃだめなんだよ」
「わかってる。わたしたちは二人で一つのチームだもんね」
「そうさ! これからもずっといっしょだ。約束したもんな」
レオンは重ねられた手を見つめ、静かに頷く。声には、未来への切ない希望と、彼女への深い信頼が滲む。言葉以上の繋がり。
「うん……」
クリスも小さく頷く。視線は交わさない。それでも、互いを想う空気が満ちていた。重なったままの手。その温もりだけが、冷たい現実の中で確かなもの。
「この戦い。ぜったいに勝ち抜こうぜ。そして、俺たちの陛下に笑顔を取り戻してもらおう」
「そうだね。あの方がほんとうに幸せになれるように、支えなきゃ。それがわたしたちの願い」
残された時間は少ない。レオンは、扉の向こうの女王と、目の前のクリスを、強い決意を秘めた視線で見守る。守るべき、大切な存在。彼の全て。彼の希望。
◇◇◇
街角の路地裏では、雪の中、市民たちが黙々と作業を続けていた。市民代表に率いられ、あり合わせの木材や家具でバリケードを築き、避難路の雪を掻く。手にあるのは農具や大工道具。顔には疲労と不安が刻まれているが、手つきは真剣だ。
老人が震える手で荷車を引く。わずかな食糧と毛布。傍らを、幼子を抱いた母親が足早に過ぎる。皆、この街で生まれ育った人々だ。戦いなど知らない。だが、守りたいものがある。家族と、故郷。凍える手で懸命に動く。
市民代表が声を張り上げる。
「皆さん、鐘の音を聞いてください! 一刻──約二時間ごとに鳴らされる合図──の鐘の音が、騎士様たちが前線で戦ってくださっている証です! 鐘が鳴り止まない限り、まだ大丈夫です! 皆で力を合わせれば、きっとこの危機を乗り越えられます!」
人々は目線を上げ、遠くの鐘楼を見やった。
雪に霞むシルエット。しかし、その言葉は冷えた心に小さな灯を点した。「鐘が続く限り──」それを心の拠り所とする。不安な瞳に、かすかな決意が宿る。
自分たちにできることは少ない。けれど、騎士様が戦っている。女王陛下が、きっと救ってくださる。ならば自分たちも、街のために動かねば。鍬(くわ)や鋤(すき)を握る手に、力がこもった。
元宰相兵の有志たちも、伯爵や騎士の指示で武器の手入れや罠の設置にあたる。
数日前まで敵だった者たち。今は同じ街を守る仲間として、黙々と作業をこなす。顔には疲労が濃いが、訓練された兵士の引き締まった覚悟が窺えた。伯爵の言葉か、女王の姿か。あるいは、他に生きる道がないと悟ったか。理由は様々だろうが、彼らは今、この街のために剣を取ろうとしていた。
昼の光はとうに失われ、西の空には夕暮れの長い影が伸びる。鉛色だった空は不吉な赤みを帯び、やがて深い紫の帳(とばり)が音もなく街を包み込もうとしていた。ボコタの街は、迫る宰相軍本隊の脅威を前に、必死の防衛準備を続けていた。
前線で時間を稼ぐ者。情報を撹乱する者。祈りで心を繋ぐ者。公会堂ではヴォルフと伯爵が地図を睨み、限られた物資と時間で遅延戦略を練る。
郊外の情報拠点ではダビドが情報戦と危険な遅延工作を指揮し、決死隊に指示を飛ばす。
灰鴉亭ではアリアたちが傷ついた人々を支え、心の拠り所となっている。女王の眠る部屋の前ではレオンが、内ではクリスとマリアが、最後の希望を守り続けている。北の山道では市民も動員され、脱出・逆襲路の整備が進む。
それぞれの場所で、それぞれの戦いが始まっていた。
女王メービスが意識を取り戻すのは、いつなのか。この限られた時間で、彼らは街を、人々を、誇りを守り抜けるのか。
降り続く雪は、静かに、ただ静かに、戦いを待つ街を白く染めていく。空の赤はさらに沈み、濃い紫が夜の闇の気配を連れてくる。誰かが、遠くの鐘楼に耳を澄ませた──まだ、鐘は鳴らない。
しかし、その白い静寂の下で、人々の心には、絶望だけではない、確かな決意の灯火が、静かに、しかし力強く燃え始めていた。
【リアクション】
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------------------------- エピソード447開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
銀翼、闇夜を裂く~クリスの予感
【本文】
ボコタの街を覆う鉛雲は、巨大な灰色の毛布のように垂れ、冷えを胸の裏まで押し込んでくる。屋根の縁で溶けかけた雪が滴り、石畳の目地は水膜に濡れていた。
公会堂での怒号と懇願、その果ての悲壮な決断から、数時間が息を詰めたまま過ぎた。時計の針だけが容赦なく進み、街はもう、生き延びるための静かな総力戦に踏み出している。
人々は軒下や広場の隅で手を擦り合わせ、吐く息の白を指先にかけて温め、それぞれの持ち場へ散っていく。革手袋の縫い目がこすれ、乾いた布の音が小さく走った。
男たちは伯爵と市民代表の指示で凍てついた材木を担ぎ、街の入口へ続く道にバリケードを組む。掛け声はない。刻まれた呼吸と、雪に沈む靴底の軋みだけが作業を押す。
女たちと戦力外とされた子どもは灰鴉亭に集まり、乏しい食料を分け、傷んだ布を裂いて包帯にする。アリアの指示に従い手当てを支える。煎じた薬草の湿った匂いと、熱に浮かされた呻き、金具が触れ合う乾いた響きが、そこを臨時の野戦病院に変えていた。
市民義勇兵は、元宰相兵と銀翼騎士団の少数の騎士から構えと連携を叩き込まれ、凍てつく物見櫓に立って南の雪原を見張る。袖口に積もる粉雪が、張りつめた神経に細い痺れを残していく。
誰もが無言のまま、迫る圧力を肌で感じていた。降りしきる雪は音を吸い、街全体が息を潜める。来襲の直前に似た、不気味な静けさが満ちていく。
空の色は鉛から、やがて夕刻の深い藍へ。雲の切れ間から覗く太陽は力を失い、弱い光が斜めに落ちる。建物の影が長く濃く伸びるたび、掌から砂がこぼれるように、残された時間が削がれていく。
◇◇◇
陽が西の稜線へ最後の輝きを沈め、空が藍と赤紫に染まるころ。南門近く、廃れた倉庫街の一角に、武装した一団が密かに集う。風が雪を叩きつけ、松明の炎は落ち着かず揺れた。革と油の匂いに、冷えた鉄の匂いが混じる。誰も口を開かない。ただ、それぞれの胸の奥で任務の音が静かに固まっていく。
先頭に立つのは銀翼騎士団のダビド、そしてレズンブール伯爵。二人の視線は、南の街道の先に続く暗い雪原へ。そこには、まだ見えずとも確実に迫るものがある。ダビド麾下の騎士は十七。中核は――
ディクソン(「熊剛腕」と呼ばれる古参)
ガイルズ(百歩必中の弓取り)
シモン(知恵者の斥候長)
ブルーノ(豪胆な短剣士、シモンの相棒)
熟練の面々だ。これに、志願した元宰相兵から選抜された十数名、土地勘を持つ老猟師アントン、市民自警団の屈強な男たちが続く。
総勢三十余。三百を超える本隊に挑む初動――自殺に近い遅延戦を担う決死隊。装備は貧しく数も足りない。だが瞳には、恐怖を押し込めたまま燃えるものがある。
「時間だ」
ダビドが古い銀時計の蓋を開き、低く告げる。夜気は刃こぼれした刃の背のように冷たいが、その声は揺れない。
「これより、我々は二手に分かれる。第一目標――二つの橋を落とし、地形で遅延する。斜面の崩落も狙う。第二目標は、敵の先遣隊および本隊の夜営地を特定し、攪乱する。狙いは時間の確保。深追いは禁止。兆しが悪ければ即撤収だ。徹底して動け」
暗がりで固い頷きが連なり、唾を飲む小さな音を風がさらっていく。
「伯爵」
ダビドが隣の貴族へ向き直る。湿った革手袋が微かに鳴った。
「橋梁破壊・斜面崩落工作班の指揮をお願いします。あなたの計算と冷静な判断が必要です。シモン、ブルーノ、元宰相兵の工兵経験者、猟師を率いて、第一の橋へ向かっていただきたい」
伯爵は優雅さを崩さず、瞳に鋼の意志を乗せて頷く。吐く息が静かに白く散った。
「よろしい。……必ずや、敵の足を止めてみせよう。シモン殿、ブルーノ殿――補佐をよろしく頼む」
「はっ!」
「伯爵様、あんた自らが命を張るってんだ。絶対うまくいくさ」
力の通った返事。隠密と地形判断――この作戦の鍵は、彼らの肩にかかっている。
伯爵は老年の熟練猟師に向き直り、視線をじっと据えた。灯が毛皮の縁で赤く揺れる。
「猟師殿、あなたには案内役も頼む」
「アントンじゃ」
アントンは肩の重みを一瞬だけ緩め、澄んだ声で告げる。白い息が口縁に薄く掛かった。
「失礼。アントン殿、あなたの土地勘が頼りだ」
「ここは儂の庭だ。風の癖も雪の目も知っとる。任せなされ」
その言葉に、伯爵の紳士的な顔がわずかに緩む。すぐに、凍てつく意志の表情へ戻った。
ダビドが雪原に置かれた火薬樽を指差す。木樽の縁が金具で締められ、冷えた鉄が皮膚に刺さるようだ。
「伯爵。我々に残された火薬樽は三つだけです。橋二本と夜襲の攪乱で割れば、現場で実質一桶半が限界。設置は細心かつ迅速に。失敗は許されません。一つでも落とせなければ、努力は水泡に帰します」
配分は――第一へ一樽、第二は雪崩誘発に半樽、残り半樽を夜襲の攪乱に回す。現場の手は、迷いなく動く。
一拍置いて、夜の冷えがさらに深まる。風が薄い音を立てて雪面を撫でた。
「心得ている。構造上の弱点は、一目見れば分かる」
「工兵部隊出身とお聞きしましたが、さすがですな。あなたの経験と叡智に期待します。よし。残りは俺に続け」
ダビドはディクソン、ガイルズ、残りの騎士、元宰相兵、市民兵を一瞥する。火薬樽の鈍い光が視界の端で冷たく光った。
「我々は森林地帯へ先行する。別動隊が進めている伐採・路塞構築の支援と護衛に当たる。――同時に、敵の斥候と先遣隊の動きを探れ。ガイルズ、お前の弓が頼りだ。ディクソン、俺の傍から離れるな。夜襲の準備も怠るな。敵の野営地を特定次第、合図を送る。可能な限り物資を焼き、混乱を引き起こせ」
「拝命した。痕跡は残さない」
「上等だ、やってやる」
矢羽根を指でなぞる乾いた手触り。戦斧の柄は氷の芯を通したように冷え、白い息は砕けて冬の空気に消えていく。
「繰り返すが、目的は時間稼ぎだ。深追いはするな。可能な限り交戦は避ける。危険を感じたら即座に退いて、次の策へ移る。いいな? 無駄死にだけはするな」
夜の森縁で、指揮官の声が低く通る。雪明かりが頬骨の線を薄く描いた。
「了解!!」
雪を踏む音が消えるほどの足運びで、隊は闇へ溶けた。市民兵はその背に畏敬を覚えつつ必死で続く。恐怖の冷えと、守るべきを守る熱が同じ胸に同居している。
城門の通用口を密かに抜ける。見張りが無言で敬礼した。見送る言葉はない。遠く、灰鴉亭の小さなランプだけが風に揺れ、祈りのように灯る。
門の外は、敵意を孕んだ雪原。星は薄く、降り続く雪が世界を白で塗り潰す。遮るもののない風が、無数の氷刃となって体温を奪っていく。
「……この寒さ、さすがに骨身に染みるぜ」
ディクソンが膝の革をさすり、短く白い息を吐いた。革の匂いが鼻に残る。
「進むしかあるまい。市民の生命は俺たちの肩に掛かっているんだ。なんとしても時間を稼がねばならん……」
ダビドが手綱を引く。肩高六尺の重種馬は冬毛を震わせ、広い蹄で雪に沈まない。吐く白気は、闇に小さな烽火の点を置くようだった。背の火薬樽と斧、罠具は防水布にくるまれて鳴りを潜める。
主街道は深雪で難渋するが、老猟師アントンが獣道を選ぶ。獣の癖と風の癖を読む足取りに迷いはない。枝が重みで軋む音が、方向の正しさを告げるように続いた。
「ダビド様、伯爵様。森筋なら半刻は縮む。狼は出るが、身を隠す岩もあるでな」
アントンは振り返り、雪を蹴った足跡を確かめる。風が肩の毛布を揺らし、木立のざわめきが近づくようだった。
「判断はあなたに一任する」
伯爵の声は低く、冷え切った夜気をきれいに切り分けた。
隊は狭い獣道へ身を入れ、アントンは時折、風向と雪質を確かめて進路を切る。重種馬は凍った根を確かな足で踏み、鼻を鳴らして白気を吐く。
市民兵は遅れまいと脚を運ぶ。専門の訓練はない。だがこの土地の知恵がある。深雪での歩き方、体温の保ち方、風音から危険を察する癖。そして何より、守りたいという意志。
「おい、しっかりしろ! こんなところでへばるな!」
古傷のある元宰相兵が、膝に手をついた若い市民兵の背を叩く。掌の熱が革越しに伝わる。
「……はぁ……すまねぇ、手を貸してくれ」
「甘ったれるな! いまは自分の足で立て。もう後ろには戻れねぇ。街を守るって決めたんだろうが!」
荒い言葉に、見捨てぬ温度があった。つい昨日まで敵同士だった者が、いまは肩を並べる。その不思議で確かな絆が、凍える足を前へ押す。
ダビドは馬上から隊を見やる。計画が進む安堵と、預かった命の重さが胸で交錯する。喉の奥が乾き、手綱を握る指に力がこもった。
――メービス陛下……ヴォルフ殿下……あなた方の光を守るために。必ず時間を――。
前方に黒々と森の壁。目的地の一つ、森林地帯だ。枝から落ちる雪塊の鈍い音が、ときおり腹に響く。
ダビドは馬をゆるりと降り、鐙金具が短く触れ合う音が耳に沁みた。襟首を冷気が這い、周囲の雪原が銀の斧のように明滅する。
「……よし、俺の班はここで別れる」
声は低く絞られ、吐いた白息が短く砕けた。
「シモンとブルーノは、伯爵様の指揮下に入れ。アントン殿の案内で第一の橋へ向かい、破壊工作を実施。成功したら速やかに第二の橋へ取り掛かれ。失敗は許されん。いいな?」
ダビドは指先で雪を軽く払う。視線が隊列をなす騎士たちをひとりひとり確かめる。湿った鉄の匂いが鼻腔に薄く残った。
「わかった。ダビドも……せいぜい気張れや。ここで俺たちの名を上げようぜ」
ブルーノの声が弾む。甲高い調子に笑いの癖が混じるが、その瞳には戦の影が揺れている。
「ああ、任せたぞ。ブルーノ――お前は昔から、土壇場で底力を見せる男だ。頼りにしてる」
ブルーノは大きく頷いた。革の外套が肩でひらめき、雪片が肩章にかすかに残る。
「……へっ、余計な心配だって! 皆、しっかりついてこい。伯爵様のお通りだ、道を空けろ!」
号令とともに、列が動き出す。凍った地面に鉄靴が擦れる音が、静けさを薄く裂いた。
一瞬、凍てついた空気が軽く揺れる。伯爵はダビドと視線を交わし、泡のような沈黙を挟んでから、短く頷いた。雪明かりがその小さな動きを淡く照らす。
「では、ダビド殿。ヴォルフ殿下によろしくお伝えください。必ずや時間を稼いでみせると。……街の鐘が止む前に、必ず戻ると」
伯爵の声は凛として、同時に土の湿りを帯びていた。彼の背中には市民たちの命が静かに寄り添っている。
背で呟いたその言葉を、ダビドは見えなくなるまで見送った。馬のはずむ足音が雪に吸い込まれ、視界から消えていく。
彼は唇を引き結び、冷えた掌を握りしめる。――闘いは動き始めた。
「さて、我々も仕事にかかるぞ」
残った面々へ向き直る。枝から落ちた雪が肩で弾けた。
「すでに作業を始めている別動隊と合流し、支援と護衛に当たる。敵の斥候に警戒しつつ、夜襲の準備だ。ガイルズ、ディクソン、周囲の見張りを怠るな。敵の野営地を特定次第、合図を送る。それまでは、この森で息を潜め――」
樹間で光がわずかに揺れた。松脂の匂いが濃くなる。
「牙を研ぐ……!」
「了解……!」
「任せろっ!」
さらに奥へ。やがて、木を伐る鈍い音、倒れる直前の軋み、雪上に巨木が沈む重音――音を殺しながらも確かな作業の気配。別動隊と市民兵が、街道を塞ぐ伐採を進めている。
静かに合流し、短く頷きを交わす。深雪を踏み固め、倒木を引き、組み合わせて簡易だが時間を奪う路塞を築く。斧が走るたび、掌の皮が冷たく張りついた。
◇◇◇
灰鴉亭二階、女王の部屋の前。レオンは壁に背を当てるが、身体は落ち着かない。革籠手の指を折り伸ばし、拳を壁に当て、深く息を吐く。階下のざわめき、アリアとマリアの足音、薬草と血の重い匂い――どれも焦りに拍を足した。
「くそ……ダビドさんたちは今頃……! なのに、俺はここにいるしかないってのか……!」
喉が渇き、舌が上顎に貼りつく。任務の理屈はわかる。だが動けない痛みは別だ。胸郭が浅く上下する。
扉の隙間に耳を澄ます。中にはクリスの気配。彼女も傷を押して務める。その在り方がわずかな落ち着きを与え、同時に歯がゆさを増した。
扉が静かに開き、クリスが顔を出す。疲労の色は隠せないが、レオンの様子に心配の眉。灯りが髪の縁で柔らかく反射した。
「レオン……どうしたの? そんなに行ったり来たりして。落ち着きなさいよ」
「……いや、なんでも……」
指が拳をなぞり、言葉が喉の奥に引っかかる。指先がわずかに震えた。
「陛下は……お変わりないか?」
「ええ。まだ、お目覚めにはならないわ。でも、マリアさんが言うには、熱が上がったり下がったりで……でも、呼吸は少しだけ安定してきたみたい……」
レオンの険しさに、クリスは小さく息を吐く。温かい蒸気が白く割れた。
「あなたこそ、少し休んだ方がいいんじゃない? そんなに気を張っていたら、いざという時に動けないわよ」
「休んでなんかいられるか! ダビドさんたちは、最前線に向かっているんだ……! 俺だって、本当なら……」
拳が鳴り、指先が白んだ。胸の奥に硬い石が落ちたようだった。
「落ち着いて、レオン」
彼女は声を低く、確かに置く。靴底が床板に吸い付く音が、間を整えた。
「あなたの気持ちはわかる。わたしだって、みんなのことが心配でたまらない。でも、感情的になってどうするの? わたしたちにはわたしたちの役目があるでしょう?」
「けど……仲間が命を張っているんだぞ? なのに俺だけが安全な後方にいていいのか……!」
「ちがうよ、レオン」
クリスは一拍おいて、レオンの目をじっと見つめた。
「前線だとか後方だとか関係ない。守ることだって戦いよ」
はっきりと言う声に僅かな震えが乗り、吐く息が白く割れた。
「そして、いまは女王陛下をお守りすることが、わたしたちに与えられた最優先の、そして何よりも大切な任務なのよ。ダビドさんたちが、命懸けで時間を稼ごうとしてくれているのは何のため? それは陛下がご回復されるまでの時間を稼ぐためでしょう?」
レオンは奥歯を噛み、胸の筋肉が小さく痙る。脈が耳の奥で跳ねた。
「わたし、ダビドさんたちを信じるわ。ディクソンさんにガイルズさん、それからシモンさんとブルーノさん……皆、銀翼騎士団の誇りそのものよ」
沈むように視線を夜影に固定させ、声は震えながらも芯を保つ。窓枠の冷たさが手の甲に移り、身体の芯が覚悟で満たされていく。
「だから、わたしたちは、わたしたちの任務を、ただ果たすだけ。女王陛下の想いに応えるためにも、ね」
言い終えたクリスの瞳の奥には、白銀の世界にも負けぬ光が宿っていた。
「……わかったよ、クリス」
レオンの声が、静寂に吸い込まれるように低く響く。
「けど、お前だって怪我してる。無理したら……さっきから顔色が悪いし」
「もうっ、レオンったらほんっとうに大げさね。心配しすぎだって。マリアさんが痛み止めの軟膏を塗ってくれたんだから」
クリスは包帯を見下ろし、かすかに眉を曇らせる。薬草の匂いが淡く立った。
「……それより、レオン……」
言葉が途切れ、視線が遠くの影を捉える。床板のきしみがひとつ。
「なんだ?」
「……これは、たぶん、ただの気のせいだと思うんだけど……」
クリスの声が震えた。指先がわずかに震え、白い息が薄くほどける。
「なんだか、すごく嫌な予感がするの」
「嫌な予感……?」
レオンの喉仏が、微かに上下する。
「ええ……。うまく言えないんだけど、胸騒ぎがするっていうか……。とにかく、ここを離れちゃいけない、そんな気がしてならないの。さっきからずっと……」
彼女の瞳に、覚悟と恐れが交錯する。何度も危機の手前で灯った“勘”。根拠はない。だが無視はできない。背を冷たいものが走る。
「……いつもの、あれか?」
レオンが少し笑いを含んだ声で言うが、その瞳は厳しかった。
「うん、そんな感じ……」
返事には、ほんの少しの安心と、消えない不安が混じる。
「これから先、何か良くないことが起きそうで、すごくぞわぞわする……。ただの疲れとか、不安のせいだったらいいんだけど……」
言葉は雪のように静かに沈み、風がそれを運ぶ。廊下の空気が少し冷えた。窓の外の白さが一段暗み、胸の鼓動だけが耳に寄ってくる。
「……そうか。なら、なおさらここを動くわけにはいかない。俺たちが、ここでしっかり陛下をお守りしないとな」
胸の奥で、氷の針がひそやかに刺さる。
「ええ……」
クリスの声もまた、静かに揺れた。ふたりの間に、任務の重さと未知への構えが深く落ちる。
「……いま……鐘の音、聞こえなかった?」
彼女の問いに、風が木立を揺らす。遠い鐘の音が、雪を踏み割るような鈍い振動として、街をわずかに震わせていた。
◇◇◇
ボコタは深い雪と夜の闇に包まれ、存亡を賭けた戦いに備えていた。
公会堂では、ヴォルフと市民代表が不眠で防衛計画の最終確認を続け、伯爵からの伝令を待つ。紙の端が指先に引っかかり、インクの金属臭が微かに漂った。
灰鴉亭では、アリアとマリアが限界に近い現場を支える。その献身が、絶望に沈みかけた心をどうにか繋ぎ止めている。煮立つ鍋の湯気が、廊下の冷気に白くほどけた。
女王の部屋の前ではレオンとクリスが回復を祈り、耳を澄ましながら構えを固める。扉の蝶番が小さく呼吸し、室内の微かな寝息が壁越しに伝わる気がした。
物資は足りず、時間は無情に削れる。宰相軍本隊の到着まで、すでに二日を切ったのかもしれない。あるいは、もっと短い。絶望的な戦力差と悪化する条件。
「二日間生きねば滅ぶ」――祈りに近い目標が、街を動かす唯一の力だった。
やがて荒れていた雪嵐が、神意のようにふっと勢いを弱める。風が止み、巨大な雪片が音もなく漂い落ちた。――嵐の前の、あまりに静かな“間”。
夜明けはまだ遠い。それでもこの白い静寂の下で、人々の胸には、絶望だけではない小さな灯が、たしかに燃え続けていた。鐘は、まだ鳴っている。
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------------------------- エピソード448開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
沸騰する雪原
【本文】
夜の帳はさらに沈み、世界は墨の滲みのように均一な黒へと潰れていく。夜明けまでの隔たりが、肌の温度差として胸の奥に居座った。
星の囁きは届かない。厚い雪雲が微光を封じ、空は音を飲み込む深みへ沈む。
骨へ刺さる冷え。睫毛の先で霜が結び、吐息は白い粒となってほどける。手袋の内側で汗が冷え、指先の輪郭が曖昧になる。
風は絶え間なく頬を切り、ときに鋭い笛を鳴らし、ときに雪を巻き上げて粉雪で視界を曇らせる。容赦はない。革の帯が擦れる低い音、荷の紐が軋む乾いた音だけが、闇の底に微かに残った。
絶対の静けさと、皮膚が硝子になるような冷たさ。その中を、橋梁破壊と斜面崩落を命ぜられた工作班が進む。先頭はレズンブール伯爵。息を殺した列は雪へ溶ける幻のようだ。
分厚い毛皮の外套は肩で重く、柄を握る指は悴んで感覚が薄い。油布に包んだ火薬樽は、金属と硝煙の匂いをうっすら漏らし、鉛の疲労が足裏の奥で軋んだ。
導くのは老猟師アントン。起伏も風の癖も、掌の皺のように知り尽くしている。
アントンは一度歩を止め、消えかけた獣跡を拾い、氷をまとった枝の向きで風を読む。耳の奥に雪の微かな崩落音を拾い、足の置き場を半歩だけずらした。伯爵はその所作に、安堵と緊張を同時に喉に飲み下す。
空の底がわずかに明るむ。夜の濃度の変化を、経験の目が確かに捉えていた。冷えの層が薄く入れ替わり、肺に落ちる空気の温度が一度だけ変わる。
月影はない。視界を奪う吹雪。頼れるのは研ぎ澄まされた五感だけ。心許ない灯りのように、その勘が一行を導く。
重種馬の蹄が新雪を掻く鈍い拍。薄く凍った表層を踏み破る靴底。押し殺した呼吸だけが、張りつめた空気にか細い生の印を刻む。馬の鼻息が白く弾け、鞍の鋲が微かに鳴った。
一行は総勢十数名。
伯爵は貴族の静謐を面の下へ保ち、銀翼の斥候長シモンは鋭い視を南へ据える。相棒ブルーノは暗がりの気配に肩の筋を固くした。外套の裾が風でふくらみ、すぐ沈む。
元宰相兵の工兵経験者もいる。アントンに続く屈強な市民兵は黙して務めを果たし、靴底に巻いた麻縄が雪面を噛む。膝裏の冷えがじわりと強張りを増した。
強張る顔に、覚悟と緊張の影が折り重なる。氷点下が精神の端を少しずつ削り、喉には乾いた鉄の味。言葉は胸に凍った。
口は固く閉じたまま。ときおり交わす視線だけが互いの気配を確かめる。揺れる不安と信頼と、形のない恐怖が同居していた。
雪の微音が途切れ、風向きが一つ変わる。闇の手触りが微かに違った。先頭のアントンが、喉をひとつ鳴らす。
「ん……? おい、待て……何か……」
耳殻の裏で小さな痛みが弾け、鼻先の冷気が薄く甘い金属臭に変わった。
「アントンさん? どうかしたのかい? 風の音じゃ……」
白い息がほどけて指先へ触れ、背後の声が冷たく震える。
「いや……違う」
舌裏が乾いて歯の根が触れ、ひと呼吸ぶんの沈黙が落ちた。
アントンは目を細め、南の闇を射抜いた。
「風ではない……光。それに……妙な熱気を感じる。こんな距離から……ありえん……」
頬の産毛が逆立ち、毛皮の襟が喉仏に冷たく触れた。
手綱の革がきしむ。馬が低く鼻を鳴らし、周囲の指が音もなく柄を握り直す。風の温度が一瞬だけ緩んだ。
伯爵は息を整え、声を抑える。
「いかがなさいましたか、アントン殿」
掌の革が冷えて張りつき、呼気が短く胸郭で跳ね返る。
「……いや……妙じゃ。どうにも妙じゃ……」
嗄れの奥に微かな震えが混じり、肩甲骨の間を冷気が這う。
老猟師の視線の先で、闇が形を変えた気配。
「あれは……雪か? あんな……あんな馬鹿げた規模の吹雪など……いや違う……何かが違う……」
言葉の端が白に溶け、瞼の縁が忙しなく瞬く。
「あの辺りの雪が……まるで生きてでもいるように……! そうじゃ、光っている! 激しく揺らめいているんだ……! まるで大地が……煮えくり返っているみたいに……!」
冷えた汗が背骨を伝い、喉の奥で薄い鉄の味が広がった。
冷たい水滴が背骨を伝う不吉が、ひと息で広がる。囁きはすぐ押し殺された。馬の蹄が落ち着きなく雪を掻き、火薬樽の金具が触れ合って硬い音が夜へ溶ける。
幻ではない――凍りつく睫毛の下で視線を凝らし、確信が芽を持つ。地平の底で、自然の律から外れた速度の“何か”が蠢いていた。黒い地面の鼓動が、靴底を通して指の骨へ届く。蒸気の壁――伯爵の脳裏に、名が定まる。
「な……なんだ、あれは……?」
若い喉が引きつり、吐息が短く千切れた。
「……あの局所的な嵐のようなものは、雪が溶けて蒸気になってるっていうのか? ありえねぇ……! シモン! お前の目にはどう見える!?」
指が柄に食い込み、革の皺が乾いた音を立てる。
冷気が頬を刺し、呼吸が浅くなる。シモンは目を凝らし、矢羽根の触感で指を落ち着ける。
「……雪が、まるで沸いているように見える。しかもあれほどの規模で。馬鹿な……! いったい何が起きているんだ? 何が、あんな途方もない現象を引き起こしているというんだ……?」
眉間の皺がわずかに深まり、視線が遠い一点で固まる。
伯爵は胸の内で言葉を一度飲み込み、視線は揺れない。肺の奥で、魔素のざわめきが微かに刺さる。
「……これは自然現象ではない。」
胸郭の内側で鼓動が二度強く打ち、白息が細く割れた。
風が低く鳴る。伯爵は南の闇を睨み、抑え切れぬ棘を吐いた。
「なぜならば、放たれる魔素の奔流が、私には見える。これは魔術によるもの。……それも、尋常な規模ではない」
手にした地図の端が湿って冷え、紙がぎしりと鳴る。
「なんということか……ついにその本性を現したな、宰相クレイグ・アレムウェル……!」
白い息の端に熱が残り、視界の縁がわずかに赤む。
騎士のひとりが、震える喉で問うた。
「伯爵、いったいどういうことですか? 魔術とは……?」
足裏の麻縄が雪面を深く噛み、踵に鈍い圧が戻る。
伯爵は手綱を握る指をいったん緩め、言葉を刃に研ぐ。
「これは、魔術行使による、強制的な進路確保だ……!」
言葉の輪郭が冷気を裂き、肩先に乗っていた重さが少し落ちる。
シモンの眉が跳ねる。
「ち、力ずくで……? まさか……いくらなんでも、そんな……」
吐息が喉でつかえ、声の高さが半拍だけ上ずる。
「……そのまさかだ」
外套の裾がひと呼吸ぶんだけ風に叩かれた。
伯爵は視線で地図を引き直す。
「これほどの現象を起こせるのは、敵の魔導兵以外に考えられん。それも、おそらくは持てるすべて、二十五名の一斉投入……」
火薬樽の金具が乾いて鳴り、馬の耳が小さく揺れる。
伯爵は結論を置く。
「目的は一つ。速度だ。我々の想定を超える速度でボコタに到達すること。それが宰相の思惑だ」
喉元に冷たい空気が落ち、背筋の筋が細く強張った。
シモンが愕然として乾いた息を呑む。
「ということは、まさか……魔導兵を消耗品として……!」
矢羽根の毛が指腹に逆立ち、握りが強くなる。
「そうだ。最短時間でボコタに到達するため……本来温存すべき彼らを犠牲にしてでも、行軍速度を高めるつもりなのだ」
闇に重い現実だけが沈む。ブルーノの怒りが、荒い白息に散った。
「そこまでやるのかよ、あの宰相は!? 常識ってもんがないのか!?」
奥歯が鳴って頬の筋が跳ね、拳の皮が冷たく張る。
「……そもそも彼は軍人ではない」
伯爵は顔を上げ、ひとりひとりの瞳を見渡す。硬質な底光り。
「軍人ならば、虎の子の魔導兵を決戦前に使い潰す愚はしない。兵は駒であっても、盤上から自ら除くような真似はしない。価値ある駒なら、なおさら……」
言葉が一瞬喉で止まり、外套の裾が風に叩かれる。悔恨の熱が皮膚に薄く浮いた。
「だが、彼は政治家だ。それも冷徹極まる、な。奴にとって他人は、野望を最短で達成するための『道具』に過ぎん。目的のためなら、どれほど高価な道具でも使い捨てることを躊躇わない。それは私に対してもそうだったように……」
吐息が重く落ち、手綱の革が掌で沈む。
「奴には奴の常識がある。政治的損得だけに基づいた、恐ろしく歪な常識が。こちらが女王陛下の下で結束を固め、防備を整える――その僅かな『時間』こそが最大の脅威だと、奴は計算したのだろう。
だから、全てを犠牲にしてでも速度を優先する。魔導兵も、魔石も、兵站も……すべては『時間』を買うためのコストに過ぎない。これは戦前の行軍ではない。政治的な、時間との競争だ。そして奴は、その競争に勝つためなら、どんな代償も厭わない」
胸骨の奥で脈が沈み、掌の汗はすぐ凍った。
「私は一番重要なことを見落としていた。最も恐れるべき敵は正規軍ではなく、宰相その人だということに……。なんということだ。女王陛下、王配殿下、申し訳ございません……」
白い息が悔恨の温度を秘めて夜へ消える。
第一の橋へ向かう時間は、もうないのかもしれない――ふくらはぎの筋が無意識に向きを変えた。
「馬鹿な! では、我々の任務は……橋の破壊は……!」
声の芯がかすれ、肩の力が一瞬抜ける。
伯爵は逡巡を短く断ち、背を伸ばした。
「遺憾ながら、第一目標は放棄する――」
沈黙が一枚、雪のように場へ降りてから、命がけの決断だけが残った。
「これより転進する! 速やかに第二の橋へ向かい、破壊工作を実行する! ダビド殿には、私から直接状況を伝える! 全員、私に続け!」
蹄が雪を強く踏み、低い音が腹へ響く。
「こうなっては仕方ねぇ。無駄死にだけはできねぇしな!」
息が笑いの手前で白く砕け、指が柄をたしかに掴み直す。
「そうさ、陛下を泣かすわけにはいかない!」
胸の奥で拍が合い、視線が同じ方向へ流れた。
一行は目指していた第一の橋に背を向け、森へ戻る最短を選ぶ。アントンが風と雪を読み直し、伯爵は愛馬を限界まで駆った。騎士も兵も死に物狂いで続く。雪を蹴る。風を割る。闇を抜く。馬の息と蹄音、風の唸りだけが連なった。氷の薄い沢を跨ぎ、根の張った斜面を巻き、足の確かな稜線を拾う。
「伯爵! 先ほどの魔術についてですが……! やはり、あれは敵魔導兵二十五名全員が一斉に……!?」
風が頬を削り、視界の端で雪片が灯のように跳ねる。
伯爵は手綱を握り直し、言葉を叩き込む。
「疑いようもない! 私が感じ取った魔素の奔流……あれは個々の術理を超えている! 火、水、風、土、全ての元素が無理やり捻じ曲げられ、互いに反発し合いながら道を作っている! まるで世界そのものに鞭打つような、冒涜的な力だ!」
口腔に乾いた苦味が広がり、背筋の筋が細く固まる。
「なんと……恐ろしいことを……!」
誰かの声が背で震え、手綱を握る拳に血が戻る。
背後の地平では、白い壁が意志を持つ雪崩のように迫る。残された時間は薄氷のようだ。第二の橋へ向かう谷筋が、冷えの底で鈍く光った。
◇◇◇
同時刻。南へ進む宰相クレイグ・アレムウェルの本隊は、人の手業を越えた異様を刻んでいた。
世界は息を止め、黙示録の一葉が静かに、だが禍々しく展かれる。音が死ぬほどの静寂が、光景を不気味な額で縁取る。
氷点下の支配。吐く息は即座に白く凍り、砕ける音だけが鋭い。鎖帷子は冷え、肩甲の金具が皮膚に重く触れた。
大地は呻かされ、ねじ伏せられ、軍は進む。自然への冒涜、力の蹂躙の軌跡。
先鋒が過ぎた雪原には、生傷のような道が残る。不自然なほど平坦で乾いた帯が、闇へ蛇行しながら吸い込まれていく。両脇には溶雪と土砂と氷塊が汚れた壁のように盛り上がり、痛々しい縁を作った。雪に混じる黒い土の匂いが蒸気に溶け、舌の奥を酸っぱく刺す。
列の中ほどの歩兵の視界では――先端の露払いは近衛でも歩兵でもない。安全な路の恩恵を受けながらも、先端の地獄絵図には生理的な拒絶が混じる。視線は伏せがちで囁きは低い。靴底に残る微かな熱が、不自然さを告げた。
刺繍ローブの魔導兵二十五。王国の精鋭は、いまや酷使される部品に近い。身を削り、魂の灯を絞り出す歯車――命令の鎖に繋がれた松明だ。袖口から覗く魔導兵装の金具が、鈍い灯りを吸っては返す。
空気は魔素で痺れ、オゾンと硫黄、焦げの匂いが鼻を刺す。ときに甲高い唸り――砕ける魔石の断末魔か、術者の魂の軋みか――が神経を逆撫でした。極寒とは裏腹に、ローブの内は熱と脂汗で蒸れ、白い息だけが儚く砕ける。
背には影のように工兵。剥き出しの地面を槌で固め、雪氷を払い、岩の刃を砕く。道が均されるや否や取り付き、後続のために仕上げる。余波に弾かれて倒れる者が出ても、穴はすぐに埋められ、列は止まらない。瞳は死人めいて、明日を映さない。
ここが進撃の心臓――そして最も摩耗し、使い潰される部位。熱病に浮かされたような行軍の鼓動は、自らを喰う。腰のポーチへ伸びる指が、次の石の残りを無意識に確かめた。
命令は絶対。疑問の余地はない。鎖の冷たさが足並みを揃える。火照った皮膚に冷風が触れ、吐息が白く砕けた。号令の影が蒸気の壁に歪む。
「炎熱班、前へ――三秒後、照射開始!」
イグニス・フレア!
赤い魔石の杖が突き出され、圧縮術式が起動する。凝縮された熱が雪原を赤熱させ、氷雪を爆ぜ散らす。白濁した蒸気が怒涛のごとく立ち昇り、闇に“白炎”が揺らめく。焼ける匂いに舌の奥が痺れた。
「次! 水流班、交代――掃討!」
アクア・ラッシュ!
深蒼のオーブが掲げられ、溶け水が水蛇となって奔る。土砂も氷塊もまとめて吐き出され、路端へ追いやられた。膝下の泥は一瞬だけ柔らかく、すぐ呑み込まれる。
「風班、湿気払え! 大地固め、急げ!」
テンペスト・ドライブ!
烈風が唸り、濡れた地表を急速に乾かす。乾いた悲鳴のような音が耳の奥を裂いた。髪が首筋に貼りつき、すぐ冷える。
「土班、固めよ――後続のため道を築け! 遅れるな!」
テラ・フォージ!
黒曜の槌矛が大地を叩く。ぬかるみは締め上げられ、不自然な平坦さだけが残る。足裏に返る反発は、異様に均質だった。
火・水・風・土――蹂躙のサイクルが規則正しく反復され、夜の中へ一本道が刻まれる。効率的で非情、そして人間離れした手順。術式の光が瞼の裏に残像を焼く。
これを可能にするのが魔導兵装。多層の魔法陣を圧縮し、簡易詠唱で高速展開する国技の粋。しかし代償は重い。動力の魔石は急速に裂け、術者を守る出力制限は意図的に外されている。
二度目の循環で威力に斑が出る。火の術者が制御を失いかけ、隣の風が障壁で庇う。連携の乱れが早くも滲む。肩で取る呼吸に、ひゅう、と薄い笛の音が混じった。
三度目で砕ける音が増え、ひとりが喀血とともに崩れた。残る者は舌打ちし、砕片を雪に捨て、腰のポーチから予備石を探る。指先は疲労で震え、袋の底は浅い。
新しい石の輝きも、たちまち鈍る。ローブの陰の顔は青白く、目の灯は風前だった。制限解除の反動は、精神と生命そのものを蝕む。歯の根が合わず、詠唱の子音が時折欠ける。
「落ち着け! 集中を切らせれば死ぬぞ!」
「構わん、続行! 遅れた者は捨て置け!」
倒れた者は無造作に路端へ引きずられる。その扱いは、道具の延長に過ぎない。雪が静かに被さり、形を隠した。
列中の兵たちは目を伏せ、小声で毒を吐く。金具音の切れ目に不安が忍び込む。
「おい、見たか? また魔石が砕けた……何個目だよ、さっきから」
「魔石はまだある。問題は、術者が保つのかだ……」
「四人目だぞ、倒れたの……ありゃ死人の顔色だった。俺たち、屍の上を歩いてるようなもんだな」
「宰相閣下は何をそんなに急いでるんだ? ボコタは逃げも隠れもしねぇってのに……。これが閣下の言う『正義』ってやつなのか?」
俯いた視線の列は、なお進む。口の中に苦い味。誰もそれを言葉にしない。
隊列の中ほどには、他と隔絶した静寂と豪奢を保つ一際大きな馬車。厚い帷と重ね布が冷気を遮り、内側の灯りがわずかに布地を透かす。車輪は丁寧に凍土を噛み、揺れは外界の地鳴りに比して不自然なほど穏やかだ。
外の凍てつく空気と、布一枚隔てた内側の温度差。そこに在る意志と、列の先端で削られていく命。その落差は、夜の静けさよりも残酷に、兵の胸を冷やしていった。
【後書き】
この場面に至るまでの背景にあるヴォルフや伯爵側の計画の誤算、そして宰相クレイグという人物の本質についての分析。
計画の前提崩壊
ボコタ側の防衛計画は、おそらく通常の軍事的なタイムラインや、敵(宰相)の行動原理に対する「常識的な」予測に基づいていたと考えられます。狙撃魔術師の件があったとしても、敵の進軍速度には物理的・軍事的な限界がある、と。
しかし、宰相クレイグはその限界を「魔導兵の使い潰し」という常識外れの方法で突破してきました。これにより、時間を稼ぐことを前提とした防衛計画(例えば、段階的な橋の破壊や要所の防御)は、その根本から意味をなさなくなりつつあります。
人物評価の誤り
ヴォルフ
軍人としての視点から、兵力の温存や効率的な運用、兵站といった軍事的合理性に基づいて宰相軍の行動を予測していた可能性が高いです。魔導兵のような貴重な戦略資源を、決戦前に消耗させるという発想自体が、軍事的常識からはかけ離れています。
レズンブール伯爵
宰相の冷酷な性格は理解していたはずです。しかし、彼自身も貴族であり、ある程度の合理性や(たとえ歪んでいても)国家運営者としての「常識」の範疇で宰相を捉えていたのでしょう。「政治家」ではあっても、軍事に関しては専門家(大隊参謀など)の意見をある程度は聞くだろう、あるいは国力を削ぐような極端な消耗は避けるだろう、という予測があったかもしれません。伯爵自身の魔術への造詣が、逆に「魔術の効率的な運用」という観点から、今回のような非効率極まりない(しかし目的に対しては最短距離の)使い方を想定外とした可能性もあります。
宰相クレイグ
彼らが見誤ったのは、宰相が「軍事オンチの政治家」ではなく、「目的のためなら軍事的な常識や損失を一切無視できる、極めて冷徹で狡猾な支配者」であったという点です。彼にとって軍隊や魔導兵は、戦争に勝つための戦力である以前に、自らの政治目的(この場合はボコタの早期制圧による主導権確立)を達成するための「道具」であり、その道具が壊れることよりも目的達成の遅延を恐れます。まさにチェス盤のプレイヤーのように、勝利(目標達成)のためなら強力な駒(魔導兵)を躊躇なく捨て駒にする。この非情なまでの目的合理性が、ヴォルフや伯爵の予測を超えていたのです。
この「宰相の人物像の見誤り」こそが、ボコタ側が直面している最大の危機の本質であり、伯爵が「私が一番重要なことを見落としていた」と悔恨する理由そのものと言えるでしょう。
ストーリー構造
本場面の構造は以下のように整理されます。
序章(静かな緊張)
雪原を進む兵士たちの静かな描写で幕開け。
中盤(異常の発覚)
アントンが遠方に異常現象を感知し、シモンやブルーノなどの登場人物が次々と確認していくことで、緊張が高まります。
転換点(真相の発覚)
伯爵が魔術の存在を指摘し、それが敵軍の非常識なまでの速度向上策であることを明かします。
結末(即座の決断と行動)
第一の橋を放棄し、即座に転進を決断。時間稼ぎのために第二の橋へ向かいます。
キャラクター考察と解説
レズンブール伯爵(指導者・理知の象徴)
役割と特性
理性と知性を兼ね備えた指導者。政治的・魔術的知識を持ち、状況を迅速かつ的確に判断できます。
心理描写
伯爵の内面の苦悩や自己批判的な葛藤が丁寧に描かれています。特に「私が見落としていた」という台詞に続く、女王陛下や王配への短い謝罪は、彼の人間味や責任感の強さを示す秀逸な描写です。
考察
彼の魔術に関する高度な知識が、この物語の鍵となる説明を提供しています。クレイグとの思想対立を明確に提示し、物語に哲学的な深みを与えています。
アントン(経験と直感の象徴)
役割と特性
経験豊富な地元猟師として、直感的に異常現象を察知する役目を担っています。彼の描写は、五感の鋭敏さと経験に基づく判断力を強調しています。
考察
アントンが感じた「大地が煮えくり返る」という直感的な恐怖の表現は、後に伯爵が魔術を説明するまでの「不気味さ」を効果的に引き出しています。自然と人間の交差点に立つ存在として重要です。
シモン(冷静さと分析の象徴)
役割と特性
銀翼騎士団の斥候長として、若手ながら状況を冷静に観察し、情報を整理・分析する役割です。
心理描写
混乱の中でも冷静に現状を把握しようと努め、伯爵の魔術解説に対して鋭い理解を示すことで、読者の理解の助けとなっています。
考察
シモンが状況を分析することで、読者に「冷静さ」を提供し、物語のバランスをとっています。また、彼が伯爵の心情を観察する視点役としても重要です。
ブルーノ(感情と行動力の象徴)
役割と特性
感情的で豪胆な性格。混乱や絶望の際に感情的な反応を示し、場の緊張を増幅します。
心理描写
通常の陽気さが消え去り、原始的な恐怖に囚われる姿が描かれています。彼の感情が露わになることで、物語のリアリティと共感を高めています。
考察
ブルーノの感情的反応は、宰相の非人間的な冷徹さとの対比となり、物語のテーマを強調しています。
宰相クレイグ(非情さと狂気の象徴)
役割と特性
直接登場せずとも、その存在感を強烈に放っています。兵士を「道具」と見なし、目的のためなら命すら犠牲にする非人間的な性質を持っています。
考察
宰相クレイグは、物語全体における「真の脅威」として位置づけられています。彼の狂気的な決断は、この章における緊張感と恐怖の根幹であり、物語の今後の展開を大きく左右する要素です。
市民兵や元宰相兵(一般兵士・共感の象徴)
役割と特性
具体的な名前を持たない兵士たちは、読者が感情移入しやすい存在として機能しています。
考察
彼らの恐怖や不安、絶望の反応が丁寧に描かれることで、物語が持つリアリティや緊迫感が増幅されています。一般兵士の心理的描写は、戦争の非情さや残酷さをリアルに示すことにも成功しています。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード449開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
秒速包囲―正義という名の火打石
【本文】
通常の馬車の倍はあろう、六頭立ての特別仕様。深く巻いたばねと革帯が荷重を呑み、揺れは丹念に殺されている。移動する執務室――小さな要塞と言うほかないほど密閉されている。革と木が吸い込んだ冷気は外へ漏れず、温度差だけが内と外をくっきり分けていた。
外の極寒が嘘のような温もりが満ちても、空気は暖炉とは裏腹にひややかで重い。銀狐の毛皮の、柔らかな衣擦れ、磨き上げた木面の硬い艶、葡萄酒の甘香に混じる金具と油と蝋の匂い――層を成した気配が喉にまとわりつき、息の通り道を細くしていく。窓の内側に曇りが生まれては、指先で拭われたような細い弧だけを残し、また白く戻った。
宰相クレイグ・アレムウェルは肘掛け椅子に深く、しかし寛がずに腰を落ち着け、氷の眼で卓上の大図を射る。
厚手の手袋を外した指先が一点を、一定の拍で、乾いた音に刻む。紙の繊維がわずかに沈み、音が室内の温度を一度ずつ下げるようだ。地図には薄い青で河川が絡み、要地には黒いピン、ボコタの名の上を赤鉛筆の線が狂いなく走る。
磨かれた調度に、窓の向こうの術光が刃のように走った。その光を生むために身を削る者たちの影が、瞬きほどの長さでガラスに映っては消え、残るのは室内の温度差だけだった。
車輪は凍土を噛み、ばねは深く沈んでは静かに戻る。その律動が床板から靴底へ、靴底から膝へ、膝から胸骨へ――遅い鼓動のように這い上がった。
宰相の眼差しは最短経路と到達時刻だけを計算している。酒の紅は唇を濡らすだけで、熱は喉を通らず、胸の底へは降りていかない。銀のゴブレットの縁が薄く鳴り、その音は暖炉の爆ぜにも似て、すぐに溶けた。
傍らには二人が控える。
参謀ヴァレリウスは紺に赤の意匠の軍装を隙なくまとい、窓外の閃光と地図、そして主の横顔を往復する視線の裏で、こめかみの血が細く脈を打つ。言葉は喉まで来ては沈み、皮手袋の縫い目が掌に食い込んだ。踵は無意識に床を探り、整えた姿勢はすぐまた固まる。額に浮いた薄い汗は室内の冷気で瞬く間に冷えた。
宰相の腹心ラドクリフ公は鎖帷子に厚いローブを重ね、毛皮帽を目深に。卓と参謀の間合いを測るように視線を泳がせ、帽の縁を弄る指が乾いた布をわずかに鳴らす。疲労と諦観の影を貴族の微笑で覆い、唇の端が視線の先ごとにわずかに上下した。その小さな動きが、室内の沈黙をいっそう硬くする。
――レズンブールめ、何と愚かなことか。
内側で毒が転がる。指先の拍がひとつ速まる。暖炉の火が、呼応するように短く爆ぜた。
――あの黒髪の巫女……否、「王権の簒奪者」の甘言に乗り、あっさり反旗を翻すとはな。大人しく我が慈悲に浴しておればよかったものを……いや、初めから余を欺く腹づもりであったかもしれぬ。さすがに私兵組織まで掌握されたのは計算外だったが……むしろ好都合――そう、好都合だ。
つい先ほど「影の手」がもたらした緊急報が脳裏を掠め、宰相は横目でラドクリフを見やる。暖炉の火が銀の縁に淡く揺れ、帽の縁は握る指にわずかに軋んだ。
「――さて、ラドクリフ。報告では『女王』と『王配』が姿を見せたとのことだが?」
帽の縁に触れた指が、湿った汗をわずかに滑る。
「はっ。ボコタより戻りました影の手の報告にございます。女王陛下と王配殿下がレズンブール伯爵と共にご出現、対立していた市民および私兵は一斉に恭順した、とのことにございます」
温かな空気の膜が、かえって冷えを強める。
「……ただ、その真偽につきましては現時点では定かにございません。仮に『女王の流行り病』が虚説であったとしても、我らに先んじて動くのは現実には考え難く……手の込んだ影武者の類かと存じます。いかがお取り計らいなさいますか」
銀の縁が薄く鳴る。宰相は鼻先で笑い、紅をゆらした。
「真偽など、些末なことよ。影武者であろうと本物であろうと、取るに足りん」
冷光がラドクリフを真っ直ぐ射抜く。ラドクリフの喉仏が、ふっと細く上下した。
「肝要なのは、『女王』を名乗る者が『恩知らずの反逆者』レズンブールと合流し、ボコタを占拠した――その事実、その一点ぞ。分かるな?」
「は、はぁ……」
「これで我々の大義は、さらに揺るぎないものとなった」
液面に揺れる紅が、微かな興奮の影だけを映す。甘い香りはなお、どこか金属的な冷えを含んでいた。
玉座に固執する「残忍なる女王」メービスが、忠臣レズンブール伯爵を奪い、奸計で籠絡した――宰相が民と貴族に配る筋書きは、痛む場所を正確に突く。
黒髪を偽る緑髪。血統の疑義。王子の忘れ形見リュシアンという「清らかな正統」。疲れ切った者たちは、簡潔な物語を欲している。恐怖と倦怠のあいだで、ひとは短い言葉に凭れかかる。宰相はその癖を骨の髄まで知っていた。
胸中の青写真を反芻し、満足の温度だけを舌で転がしてから、宰相はラドクリフを見る。指の拍は静かに戻る。
「――例の筋書き、手配は順調に進んでおるか?」
暖気の層がわずかに揺れ、蝋の匂いが濃くなる。
「は、概ね問題ございません」
帽の縁をなぞる指が、布をかすかに軋ませた。
「貴族院ではヴァルナー卿が根回しを進めております。多くが閣下支持に傾きつつあります。また、王都では『影の手』が噂を流布し、各諸侯領へも波及の模様にございます。ただ……レズンブール伯と近しかった者や一部中立派には、なお真偽を測りかねる向きも見受けられますが――」
薪が小さく破裂し、熱が短く息を吐く。
「……それも時間の問題かと。閣下がボコタを制圧なされば、風向きは完全にこちらへと傾きましょう。緑髪の巫女の威光も、その時こそ地に落ちるは必定にございます」
「ふ、自明の理よ」
カツン、とゴブレットの底が卓を叩き、音の輪がゆっくり広がる。
――勝利という事実だけが、疑いを塗り潰す。
宰相は己の戦いを「正義」と名づけた。言葉の熱は胸を温めず、皮膚だけを撫でる。毛皮は熱を持つのに、背筋の芯だけがいつまでも冷たい。
彼はゆっくりとラドクリフへ向き直り、雑談めいた口調で――しかし、深い侮蔑を隠さずに告げる。
「それにしても、先王陛下も実に浅慮であられた。魔族大戦後の再建に『象徴』が必要だったとはいえ、あの偽りの王女に王位を譲るとは嘆かわしい限り。よりにもよって、忌まわしい『黒髪』を戴いているというに」
ラドクリフの指が帽の縁をたぐり、布は汗でわずかに重さを帯びる。
「……仰せのとおりにございます。あの緑髪の『聖なる王女』――精霊の加護を受け、聖剣を授かった『救世主』との布告を、先王自ら民衆にお示しになりましたが、当時より疑念の声は少なくはございませんでした……その出自に関しましても」
「――すべては、滑稽なる欺瞞よ。緑髪の聖女の正体は、黒髪の巫女なのだからな」
視線がワインの紅に落ち、意識は――十八年前へ跳ぶ。火のはぜる音が、遠い時の砂をかすかに散らした。
◇◇◇ 宰相クレイグ・アレムウェルの回想 ◇◇◇
十八年前、王家に影のように〈黒髪の王女〉が産声を上げた、その瞬間から綻びは始まった。
漆黒の髪と翡翠色の瞳――災厄の徴。蝋の匂いがこもる石の廊の奥で、冷えとともに囁かれてきた不吉の定説である。先王はその声を知りながら娘を塔へ幽閉し、緑髪の偽装を施し、世には「追放」と偽って野に放った。甘い。愚かな措置だ。それでも黒髪を系譜から切り離せていれば、均衡は保てたかもしれない。
だが戦場に〈翠の巫女〉と〈銀髪の騎士〉が現れ、奇跡の連鎖は熱狂を呼び、旧い秩序の殻は音もなく剥がれた。終戦。王子ギルクは戦死し、先王は床に伏す。息の細る間隙に、王は布告した。
『メービスこそ、精霊に選ばれし特別なる巫女。今こそ、示さねばならぬ――真に我が娘であることを』
――……真の娘だと? 秩序の根を揺るがす偽りを自ら掲げるとは。
忠告は塵だった。ならば正すのはこの手――暴くのではなく、別の物語で失脚させる。
「血筋の怪しい簒奪者」「王権にしがみつく暴虐の女王」。民は短い物語を欲している。鍵は速度。ボコタを包囲し、意志を折る。道具は擦り減るためにある。歴史は勝利者の正しさで書き換えられる。
言葉にすれば、胸の痛みは鈍る。言葉は刃だが、ひとを迅く動かすのは“間に合わせの真実”――彼はそう学び直した。
遠い赤が雪原を昼の白に塗り替え、白い蒸気の壁がふっと立ち上がる。浄めの炬火。名づけるだけで、冷たさは整う。
◇◇◇
……カン、と自らの指が鳴らす微音が現在へ思考を引き戻す。
宰相はゆるりと立ち、狭い室内を一巡りする。革靴が敷物の縁をかすめ、暖炉の熱が毛皮の襟元で鈍く揺れる。地図の端が袖口に触れ、紙の角がひやりと皮膚を撫でた。
「王家の血筋たる証など、どこにも存在せん。あの小娘は、身の程もわきまえず政にまで干渉しようとした。緑髪の偽りの女王など、国家の安寧を乱す不安定要因に他ならぬ――早急に排除せねば、国の根幹が揺らぐ」
息が低く沈み、葡萄酒の香が一瞬だけ強まる。
「ボコタでの一件で、伯爵を取り込んだとなれば、猶予はますますございませんな……」
控えめなノック。従卒が息を乱して入る。頬の紅は寒気か、恐怖か。軍靴の底に凍土の白が点々とついた。
「宰相閣下、失礼します。先鋒の魔導兵指揮官からの報が届いております。現在、目標の橋地点まで約十キロ。現速度維持ならば到着まで一刻弱と見込まれます。しかしながら、魔石の消耗が激しく、残量は四割未満です。既に魔導兵四名が離脱。残兵も疲労色濃く、術精度に明白な乱れが出始めています!」
報告の熱が室内の冷えに吸われていく。従卒の肩が上下し、言い終えるとき喉が乾いた音を立てた。
「続けさせろ。限界などという甘えは許されん。よいか、これは『正義の光』を遍く世に示す戦いであると心せよ。……下がれ」
命じる声は温度を持たず、引き戸の金具だけが小さく鳴る。
「は、はっ!」
革と冷気の匂いが短く残り、扉は静かに閉じた。ヴァレリウスのこめかみがわずかに脈打ち、拳の中で手袋の縫い目がギシ、と鳴る。
「宰相閣下……!」
短い呼気が胸で揺れ、炉の焔に小さな影が走る。
「……これで、本当に……本当によろしいのでございますか!?」
空気が一拍、吸い込まれたように沈む。
「魔導兵の疲弊は、もはや稼働限界をとっくに超えております! 負荷は既に常軌を逸し、術系統の暴発は時間の問題です! このままでは臨界点に達し、連鎖的な暴走や破滅的な連鎖反応は不可避であります! 戦術的損失は計り知れません! 制限を解除したままの連続稼働など、本来、断じてあってはならぬ運用でございます!
すでに四名が倒れ、後方へ搬送されました。彼らの虚ろな眼をご覧になって、閣下は何もお感じになられませぬか!? 携行する予備魔石も、試算によれば――ボコタ到着時には完全に枯渇いたします!」
言葉の温度が、宰相の冷えた視線にぶつかって砕ける。薪が短くはぜた。
「その状態で万一戦端が開かれれば、彼らは戦力として計算できませぬ! 防御はおろか、最小限の支援火力すら望めない状況となりましょう。
都市包囲戦において魔術支援は不可欠! ましてや、噂に聞く悪魔――『ミツル・グロンダイル』なる強力な魔術師が女王側に与しているとなれば、我々は文字通り手も足も出ぬ可能性がございます。さらに、レズンブール伯爵も魔術に通じていると聞き及びます――策を弄されれば、抗しきれぬやもしれません!
閣下、これは……あまりにも危険な自殺的な賭けにございます! 血と泥の上に翻る旗に、真の栄光などありませぬぞ!」
宰相は地図から眼を離さず、指先の拍も止めない。紙を叩く小さな音が、反論の代わりに続く。
「――まだそのようなことを申すか、ヴァレリウス。勇猛果敢で知られたそなたも年を重ね、つまらぬ感傷に流されるようになったものだな」
剃刀の刃先を撫でるような視線が、肌の表層を冷やした。
「その手の懸念は聞き飽きた。魔導兵など、ボコタへ最速で到達するための『手段』に過ぎぬ――そう、余は幾度となく告げたはずだが?」
杯がわずかに傾き、甘い香が薄く流れる。味はどこにも落ちない。
「彼奴らの役目はただひとつ――この煩わしい雪氷を掃き払い、本隊を最速で目的地へ送り届けること。それさえ果たせば、存分にその価値を全うしたと言えよう」
地図上のボコタを、コン、と叩く。乾いた音が骨に触れた。
「目的地へ着きさえすれば、壊れてもかまわぬ。火打石など、一度擦ればただの屑となろう? それだけの話よ。壊れた道具は取り替えればよい。代わりはいくらでもいる」
炉の縁で火花がひとつ、小さく弾けて消える。
「し、しかしながら閣下! 『火打石』とはあまりにも……! 彼らは我が軍の宝、莫大な歳月と国費を投じて育成した、替えのきかぬ精鋭であります! そうやすやすと補充など……!」
軍靴の踵が床を打ち、かすかな振動が足裏に残る。
「血泥とは大仰な。よいか、ヴァレリウス――勝てば官軍、負ければ賊軍。理は至って単純明快だ。勝利さえ掴めば、栄誉に飢えた若造などいくらでも湧いて出る。気にするな」
宰相は窓外を一瞥する。白い蒸気の壁がまたひとつ立ち上がり、千切れていく。表情は動かない。
「どれほど腕の立つ魔術師がいようと、三百余の精鋭部隊の前では、赤子の手を捻るようなものよ。『ミツル・グロンダイル』とやらも、所詮は一人――多勢に無勢という言葉を知らぬわけではあるまい」
油が火へ注がれるみたいに、平坦な声だけが熱を増す。ラドクリフの喉がからりと鳴った。
「それに、あの緑髪の偽女王――メービスは甘い。世間知らずな理想論を振りかざし、無用な殺生を嫌うと聞く。そんな生温い感傷で国が守れるものか。例の巫女の力とやらも、『魔獣相手でなければ使えぬ』と情報部は断じている。正統性すら怪しい以上、民も兵もいずれどちらにつくべきか、自ずと悟ろう」
暖炉の炎が、さ、と身じろぎし、煤の匂いがわずかに濃くなる。
「肝要なのは時だ、ヴァレリウス――時こそがすべてを決する。レズンブールの愚か者が『偽りの女王』に合流した今、奴らが援軍を呼び、くだらぬ感傷論で結束を固める前に、我らがボコタへ辿り着き、城壁を完全に包囲しさえすれば、勝敗は決する。城内に潜むネズミどもも、己の身の振り方を嫌でも悟るであろう」
ゴブレットの底が再び卓を鳴らし、影が短く揺れた。紙の乾いた匂いがじわりと滲む。
黙していたラドクリフが、場を和らげるように小さく咳払いする。帽の縁をいじる指先は、汗で少し滑った。
「……失礼いたします、閣下。ヴァレリウス殿の懸念も、軍事的な観点からは、一理ないわけではございません。万が一の際の備え、と申しますか、あくまで不測の事態への備え、念のための措置として編成をわずかに組み替え、対魔術防御に長けた部隊をやや前方に配置する、といったご配慮をいただくわけにはまいりませんでしょうか――」
穏和な声音の奥に、計算の冷えが覗く。保険の一針だ。
「……ラドクリフ。そなたまでもが流されるか? それとも、余の策に疑念を抱くと申すか?」
威圧の重みが空気を沈ませ、帽の縁を弄ぶ指はさらに汗で滑る。
「い、いえ、滅相もございません! 閣下の深慮遠謀を疑うなど、そのようなことは毛頭……ただ、万が一にも不測の事態が起こらぬよう、あくまで念のため、純粋な予防措置として、ご再考いただければと、僭越ながら申し上げた次第でございます。兵たちの間にも、わずかながら動揺のようなものが見受けられますゆえ……」
宰相は鼻で短く息を吐き、視線を地図へ落とす。赤い線が炎の色に重なって見えた。
「……好きにするがよい。ただし、速度は落とすな。それだけは肝に銘じよ。ボコタへの最速到達が、すべてに優先する」
許可という名の最後通牒。ラドクリフが深く一礼し、ヴァレリウスは横目でその顔を見て、ひとつ息を殺した。背を這う冷汗は止まらない。軍人の正論は、政治の冷酷に呑み込まれていく。
暖炉の熱は肌を温めず、肺の底で鈍く冷え、息を吐くたび胸骨の裏で小さな音がした。
窓の向こうでは、砕ける魔石の悲鳴も、術者の呼吸も、雪と風に攫われて無音になる。遠い地鳴りのようなうねりだけが、時折、車体の骨へ薄く伝わった。白い蒸気が地平から立ち上がり、夜に溶けながら、巨大な何かの呼吸のように間遠く脈打っている。
地図の縁をなぞる宰相の指が、一瞬、見えないほどに震えた。ワインの紅は灯の揺らぎに合わせて淡く脈打つ。その小さな波形を見て、ラドクリフの心臓が、ひとつ余計に打つ。ヴァレリウスは目を伏せ、奥歯を噛み、何かを喉の奥へ押し込んだ。
行軍は続く。栄光か、破滅か。どちらであっても止まらないという事実だけが、室内の温度をさらに低くしていく。暖炉の火は燃えているのに、ここだけが、ゆっくりと冷えていった。
【後書き】
クレイグ軍“狂気の進軍”が照らし出す三つの層
物理・戦術の層
雪原を切り裂くあの一本道は、自然の地形を「国家の都合で上書きする」暴力そのものです。通常なら雪を掻き、氷を割り、宿営と補給を挟みながらじわじわ距離を詰める――それが冬季作戦の常道。ところがクレイグは魔導兵の出力制限を解除し、雪も岩盤も〝素材〟として瞬時に焼き払い、洗い流し、乾かし、圧縮する四段サイクルをひたすら回させる。
兵装も魔石も、人間の精神力までも「一回限りの火打石」として投げ捨て、“秒速包囲”というスローガンの燃料に変える。速度を神とするこの思想は、補給線や後方支援の概念を無視した時限式の作戦であり、軍事合理性というよりは宗教的な自己証明に近い。
心理・物語操作の層
クレイグを突き動かしている主因は〈黒髪の巫女=災厄〉という思い込みと、父王がそれを「緑髪の英雄」に仕立て民衆を熱狂させたという被害意識です。
「追放は甘い情け」→「しかし排除は完了した」という油断。
戦場に現れた緑髪の巫女が英雄視されるや、一転して「王統の秩序を崩す挑戦状」へ。
王子ギルク戦死・父王瀕死・“真の娘”宣言という三段ショックで、忠臣の自負が屈辱へ反転。
真実(追放は密命あるいは束縛からの解放、緑髪は子を思うがゆえの偽装)を知らぬまま、「王家を救うのは自分だけ」という独善の物語を組み上げた結果、彼の理性は「混乱を避けるための嘘」と「簒奪者への断罪」を同時に肯定します。つまり“正義”と“守旧”がねじれたまま融合したのが現在のクレイグです。
象徴・テーマの層
行軍描写で反復されるのは「破壊と即席の平坦化」です。
大地の底力(岩盤・氷)を無理にこじ開ける → 王家の伝統をこじ開けた先王への怨念の投影。
松明のように燃え尽きる魔導兵 → 王家を“浄める炬火”として差し出される無垢な命。
閃光と蒸気で覆われる視界 → 真実を覆い隠し、都合のよい神話で塗り替えようとする情報操作のメタファー。
雪原に刻まれる乾いた黒線は、クレイグが求める「汚れを削ぎ落とした純白の王統」そのものですが、同時に兵の血と魔石の灰色が滲む矛盾の結晶でもあります。剣としての速度が尽きた瞬間、その矛盾は一気に表面化する――この物語は、まさにその臨界点へ向け、軍ごと加速しているわけです。
まとめとして
クレイグは戦略面では「到達時点で勝利が決まる」という危ういベットをし、心理面では「自分こそが秩序を護る最後の砦」という物語に酔い、テーマ面では「浄化」という名の破壊を体現している。
魔導兵の砕ける音、裂ける雪原、ワインの赤――あらゆるディテールが「彼の正義はすでに自滅へ傾いている」と囁いています。読者が見るのは、勝利の凱旋か、あるいは暴走した正義が自らを焼き尽くす瞬間か。その分岐点がボコタへの数十キロに凝縮され、軍と物語の両方が“速度”という刃で自らを試している、という構図です。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード450開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
【第七章からの 登場キャラクター詳細解説 】
【本文】
◆ 主要人物 ◆
柚羽 美鶴 / ミツル / メービス女王
役割/肩書
本作の主人公。表向きはリーディス王国の若き女王、救国の英雄「緑髪の精霊の巫女」。しかしその魂は遥か未来から時間遡行してきた「ミツル・グロンダイル」(元の精神年齢は21歳)。本来のメービスと同じく「黒髪の巫女」の宿命も背負う。
外見/雰囲気
公的には緑髪のウィッグで「緑髪の女王メービス」を演じるが、地毛は漆黒。ボコタ潜入前に「ミツル・グロンダイル」としての覚悟を示すため短く断髪した。辺境では茉凜を模した茶髪ウィッグと町娘風メイクで「ミツル」として活動。肉体は18歳程度だが華奢。優美さと気品、年齢離れした落ち着き、そして時折見せる少女のような脆さ。極限状態での「死神」を演じるなど、多くの顔を併せ持つ。
性格/能力
非常に理知的で博識。これは前世(柚羽美鶴)での過酷な人生経験と、その中で培われた異常ともいえる知識欲、さらに転生後の世界での大図書館での学習の集大成である。強い正義感と深い共感力を持つが、それは前世・現世での家族の惨殺や大切な人(茉凛)との関係に根差す「誰も失いたくない」「目の前の人を見捨てられない」という切実な想いとトラウマの裏返しでもある。そのため、時に後先考えず、自己犠牲も厭わずに行動する危うさを持つ。「口下手」で「甘えるのが下手」な不器用さがあり、人誑しとは程遠いが、そのひたむきさと「行動で示す」姿勢が、周囲の(特にヴィルの)心を強く打ち、「守りたい」と思わせる。強大な「精霊魔術」の使い手だが、「誰も殺さない」という誓いのために、その力の制御に常に苦悩し、精神的な負荷が大きい。メービスの肉体はデルワーズやミツルほどのスペック(精霊子への感受性と器の大きさ)がなく、「深淵の黒鶴」レベル(黒いツバサが顕現する)の力は封印状態といえる(と少なくとも本人は推測)。メービス本来の「言霊」能力は使えない。
目的/動機
宰相の陰謀を阻止し、ロゼリーヌとリュシアン親子を守り抜くこと(これが最優先)。可能なら元の時代へ帰還すること。黒髪の巫女への偏見を覆すこと。前世のトラウマを乗り越え、誰も失わない未来を掴むこと。
関係性
ヴィル(ヴォルフ)は唯一無二の相棒であり、精神的な支柱。彼に対しては、過去の師弟関係、親友の娘という意識、そして現在の同年代(肉体上)の男女・偽りの夫婦という状況が混ざり合い、恋愛とも依存ともつかない複雑で未分化な感情を抱えている(自覚あり)。銀翼騎士団メンバーを深く信頼し、彼らを危険に晒すことに強い罪悪感を抱く。ロゼリーヌに強く共感。リュシアンに母性的な愛情を持つ。伯爵とは敵対から、彼の過去を知り、現在は「利用」しつつも、その魂の救済も願う複雑な共闘関係へ。宰相とは完全敵対。コルデオを信頼。茉凛は今も彼女の精神的支柱であり、彼女のように「俯かずに強くありたい」と願う原動力。
最新状況
ボコタでの戦闘で「死神の仮面」を演じて敵を制圧後、限界を超え失神。灰鴉亭の二階でアリア、マリア、クリスによる懸命な看病を受けている。意識不明だが、わずかに回復の兆しは見え始めている。彼女の回復がボコタ防衛の最大の鍵。
ヴィル / ヴォルフ王配殿下
役割/肩書
もう一人の主人公。女王メービスの王配(公称)。銀翼騎士団の創設者・後援者。その魂は未来から来た歴戦の剣士「ヴィル・ブルフォード」(元44歳)。
外見/雰囲気
20代前半の、銀髪と灰色がかった瞳を持つ美貌の騎士(ヴォルフの肉体)。騎士としての気品と、放浪の剣士だった頃の無骨さ・飄々とした雰囲気が混在する。ミツル(メービス)の前では不器用な優しさを見せる。
性格/能力
冷静沈着で経験豊富、卓越した戦略眼と戦闘能力を持つ。剣技は「雷光」と称されるほどの超人的な速さと精密さを誇り、ヴォルフの肉体と融合したことで「雷呼の境」という新たな力の発現も示唆される。ミツル(メービス)への忠誠心と保護欲が異常なほどに強い。仲間思いだが、目的のためには非情な決断も下せる(あるいは下そうとしている)。貴族的な形式を嫌い、実力主義者。
目的/動機
ミツル(メービス)をあらゆる危険から守り抜き、彼女の意志を支え、幸せにすること。亡き親友ユベル・グロンダイルへの誓いを果たすこと。宰相の陰謀を阻止し、ミツルが望む国の形を実現すること。
関係性
ミツル(メービス)を最優先で守るべき存在と認識し、深い愛情(恋愛感情か保護欲か、本人も葛藤)を抱く。彼女の危うさを誰よりも理解し、常に案じている。ユベルとは唯一無二の盟友だったが、彼を守れなかった後悔を抱える。銀翼騎士団のメンバーを信頼し、時に厳しく、時に優しく導く。伯爵を警戒しつつも、現在は戦略的パートナーとして連携。宰相とは完全敵対。コルデオと連携。
最新状況
女王(ミツル)不在の中、ボコタ防衛の全指揮を執る。伯爵やダビド、市民代表と協力し、絶望的な状況下で遅延作戦を計画・実行に移している。ミツルの容態を深く案じつつ、彼女を守るためなら自らが「鬼になる」覚悟を固めている。
銀翼騎士団
ダビド
役割/肩書
銀翼騎士団の諜報班(仮)リーダー。
外見/雰囲気
赤茶の髪。中背で引き締まった体躯。冷静沈着だが、瞳の奥には熱いものを秘めている。
性格/能力
貧民街出身で裏社会に精通し、情報収集、分析、潜入、尋問、工作活動に極めて高い能力を持つ。冷静な判断力と強いリーダーシップを発揮する。仲間思いで責任感が強い。権力への不信感を持つ。女王と王配への忠誠心は絶対的(命の恩人として)。
目的/動機: 女王と王配に仕え、彼らの目的達成のために自らの能力を最大限に使うこと。宰相派の陰謀を暴き、阻止すること。
関係性
女王と王配に絶対的な忠誠を誓う。レオンを弟分のように見ている。アリアとは旧知の仲で、特別な感情を抱いている様子。銀翼の班員たち(シモン、ブルーノ、ディクソン、ガイルズ、マリア等)を的確に指揮し、信頼されている。伯爵とは協力関係。
最新状況
ボコタ郊外の隠れ家を拠点に、宰相軍の情報収集、捕虜(影の手)の尋問、各部隊への指示伝達を行っている。王都への風耳鳥が途絶えた中、ヴォルフの決定に従い、遅延作戦の実行に全力を注いでいる。
レオン
役割/肩書
銀翼騎士団の若手騎士。
外見/雰囲気
燃えるような赤髪。大柄で、少年のような快活さと若干の未熟さを持つ。
性格/能力
熱血漢で正義感が強く、純粋。体力と突進力はあるが、剣技はまだ荒削り。仲間思いで、特にクリスを強く意識し、守ろうとする。女王と王配への忠誠心は非常に厚い。
目的/動機
女王と王配、そしてクリスを守ること。一人前の騎士として成長すること。
関係性
クリスとは魔族大戦を生き延びた戦友であり、互いに恋愛感情を抱き始めている(告白済み)。女王と王配を命の恩人として深く尊敬。ダビドを兄貴分と慕う。
最新状況
灰鴉亭にて、意識不明の女王と負傷したクリスの警護、およびアリアたちの支援(避難民・負傷者の管理、物資運搬など)を担当。前線に出られないもどかしさを感じつつ、与えられた任務を懸命に果たそうとしている。クリスを常に気遣っている。
クリス
役割/肩書
銀翼騎士団の若手女性騎士。
外見/雰囲気
栗毛のショートカット。小柄だが、凛とした雰囲気を持つ。
性格/能力
普段は穏やかだが、芯が強く、洞察力に優れる。剣技は精密で、気配察知能力が高い可能性。騎士の家系だが、家のしがらみから自立を目指している。仲間思い。女王と王配への忠誠心は厚い。
目的/動機
女王と王配の役に立ちたい。一人前の騎士として認められたい。レオンと共に生き延びたい。
関係性
レオンとは戦友であり、互いに恋愛感情を抱き始めている(告白済み)。女王(ミツル/メービス)を命の恩人として尊敬し、彼女の苦悩に深く共感。マリアとは同性の仲間として連携。
最新状況
ボコタでの戦闘でレオンを庇い右腕に矢傷を負う。灰鴉亭で療養しつつ、マリアと共にミツル(メービス)の看病にあたっている。腕の痛みはまだあるが、精神的には回復しつつあり、レオンとの関係も意識している。不吉な予感を感じている。
ステファン・ギヨーム
役割/肩書
銀翼騎士団の分隊長。
性格/能力
実直で忠誠心が厚い。剣技に優れ、王国でも有数の実力者。正統派の騎士。
目的/動機
女王と王配に仕え、与えられた任務を確実に遂行すること。
関係性
ヴォルフ(ヴィル)に信頼され、重要任務を任されている。
最新状況
北方のモンヴェール男爵領周辺に潜伏し、ロゼリーヌ母子の保護と監視、情報収集を継続中。
マリア , ディクソン , ガイルズ , シモン, ブルーノ, エメリオ他
役割/肩書
銀翼騎士団のメンバー。各班に所属。
性格/能力
女王と王配への忠誠心が高い。それぞれの専門分野(医療、戦闘、弓術、斥候、工作など)で高い能力を持つ。
目的/動機
女王と王配の命令を遂行し、仲間と共に生き延びること。
関係性
ダビド、ステファン、バロックらをリーダーとして信頼。仲間意識が強い。
最新状況
ダビド班・伯爵班としてボコタ周辺で遅延工作(橋破壊、森林封鎖、夜襲準備、偵察)に従事。あるいは灰鴉亭で医療支援(マリア)。
バロック
役割/肩書
銀翼騎士団の指導官・実務官。
性格/能力
堅実な軍人。観察眼があり、騎士たちの能力や成長性を見抜いている。ヴォルフの革新的な戦術(タンデム戦法など)に理解と期待を示す。
目的/動機
銀翼騎士団を育成し、女王と国に貢献すること。
関係性
ヴォルフに請われ、騎士団の指導にあたる。
最新状況
北方で銀翼騎士団本隊の訓練を指揮している可能性が高い。
敵対・関連人物
宰相クレイグ・アレムウェル
役割/肩書
物語の中心的な敵役(黒幕)。リーディス王国の宰相。
性格/能力
冷徹で計算高く、権力欲が極めて強い。目的のためなら人命すら「道具」として切り捨てる非情さを持つ。人心掌握術、情報操作、謀略に長け、自身の計画に絶対的な自信と「正義」を確信している。
目的/動機
ミツル(メービス)を排除し、リュシアンを傀儡の王として擁立、自らが摂政として実権を完全に掌握すること。自らの考える「国家の安寧と秩序」の実現。
関係性
ミツル(メービス)派とは完全な敵対関係。伯爵を利用し、切り捨てる計画。「影の手」を私兵として使う。貴族院多数派を掌握。
最新状況
約三百の正規軍を率い、魔導兵を酷使して異常な速度でボコタへ向けて進軍中。ミツルたちの抵抗を侮り、勝利を確信している。
レズンブール伯爵(アドリアン)
役割/肩書
有力貴族。当初は宰相の協力者だったが、現在はミツル側に協力。
性格/能力
知的で策略家。貴族としてのプライドと、深い復讐心、そして領主としての責任感や(クラリッサへの想いに根差す)優しさという二面性・多面性を持つ。魔術の素養もある。状況判断能力が高い。
目的/動機
王家への個人的な復讐(恋人クラリッサの悲劇が原因)。宰相を利用しつつ、リュシアン擁立を通じて権力を得ること(当初)。現在は、宰相への対抗、自己保身、そしてミツル(メービス)への興味と、彼女が守ろうとするもの(街や人々)への責任感から、ミツルに協力している。
関係性
宰相とは敵対。ミツル(メービス)とは敵対から始まり、彼女の真実と覚悟に触れ、複雑な感情を抱きながらも一時的な共闘関係へ。亡きギルクとは元友人、亡きクラリッサとは元恋人。
最新状況
ダビド班に救出され、ボコタ防衛戦の共同指揮官となる。市民や元宰相兵をまとめ、遅延工作班(橋梁破壊)を自ら率いて出撃。
影の手
役割/肩書
宰相直下の秘密諜報・暗殺組織。組織の実体は不明であり、影の手というのは通称。
性格/能力
高度な訓練を受けた暗殺者・工作員。冷徹で任務遂行を最優先。隠密行動、特殊な武器(毒吹き矢など)の使用。
目的/動機
宰相の命令に従い、敵対勢力の排除、情報操作、妨害工作を行う。
最新状況
ボコタでミツルたちを襲撃したが、ヴィルとダビド班により一部(リーダー格含む3名と狙撃手1名)が捕縛された。残党が潜んでいる可能性、本隊が宰相軍に合流している可能性あり。
アリア
役割/肩書
ボコタの酒場「灰鴉亭」の女主人。年齢について明記されていないが、ダビドと同年代と思われる。
性格/能力
肝が据わっており、困難な状況でも冷静さを保つ。情に厚く、面倒見が良い。街の情報に通じ、人々からの信頼も厚い。過去に辛い経験を持つが故の強さを持つ。
目的/動機
自分の店と従業員、そして街の人々を守ること。真実を見極めたい。
関係性
ダビドとは互いを理解し合う特別な関係になりつつある。ミツル(メービス)の真の姿に触れ、強い共感と信頼を寄せる。伯爵の指示のもと、灰鴉亭を拠点に救護活動を指揮。
最新状況
灰鴉亭で負傷者の手当てや避難民の世話に奔走中。ミツルの回復を祈っている。
コルデオ
先王のかつての右腕。王都にて、「女王療養中」の偽装工作を指揮し、宰相派の牽制と時間稼ぎを行っているはず。ミツルから託された王印を用い、勅令を発布する機会をうかがっている。
◆ 王家とその関係者 ◆
先代王(メービスとギルクの父)
役割/肩書
リーディス王国の現国王(ただし第七章開始時点で病床に伏し、危篤状態)。
性格/行動
国王としての責務と、父としての娘(メービス)への愛情の間で深く苦悩した人物。厳格な王であると同時に、不遇な運命を背負った娘の自由と幸福を心から願っていた。黒髪の巫女という「王家の禁忌」を前に、伝統と娘への愛の間で揺れ動き、最終的には娘を「追放」という形で塔から解放し、聖剣探索の旅へと送り出す(緑髪のウィッグを用意するなど、偽装工作にも関与)。魔族大戦後、唯一の男子相続者であるギルク王子を失い、自らも病に倒れる中、国家存続のため、英雄となったメービスを表向き「緑髪の聖女」として即位させるという苦渋の決断を下す。しかし、その裏でギルクの遺児リュシアンの存在を知り、彼の保護と将来を案じ、メービスとヴォルフに「五年後の自由」を約束する代わりにリュシアンの後見を託すなど、子供たちの未来を案じていた。宰相との力関係においては、病の影響もあり、その専横を完全に抑えることはできなかった様子がうかがえる。
現状
危篤状態が続き、意識も混濁している可能性が高い。ミツル(メービス)は彼への手紙をコルデオに託したが、直接の対話は叶わないまま。彼の崩御は、王位継承問題をさらに複雑化させる可能性がある。
ギルク王子
役割/肩書
故人。メービスの兄。リーディス王国の第一王子であり、本来の王位継承者。魔族大戦中に戦死。リュシアンの実父。
人物像(作中での語られ方)
英雄として
国民や兵士からは、魔族大戦で勇敢に戦った英雄として記憶されている(詳細は不明)。戦死した悲劇の王子。
兄として
メービス(本来の)にとっては、幽閉されていた自分に書物を届け、外の世界を教えてくれた優しい兄であった可能性が示唆される。ミツル(主人公)にとっては、直接の記憶はないものの、父王やコルデオの話、そして遺された手紙から、誠実で民を思う心を持った尊敬すべき人物として認識されている。
友人として(伯爵視点)
レズンブール伯爵とは、幼少期に王宮で共に学んだ「秘密の学友」であり、互いを認め合う「良き友人」であった(と伯爵は語る)。しかし、伯爵の想い人クラリッサを正妃としたこと、さらにロゼリーヌを愛したことで、伯爵に深い失望と裏切りの感情を抱かせた。
恋人として(ロゼリーヌ視点)
王家の立場や政略結婚に苦悩しながらも、ロゼリーヌを心から愛し、彼女との間に生まれたリュシアンの存在を喜び、その未来を案じていた。彼の遺した手紙は、ロゼリーヌの心を動かす大きな要因となった。
能力
文武両道であった可能性。魔術にも興味を持ち、伯爵の助けで王立魔術大学にも通っていた。
物語への影響
彼の死が王位継承問題を引き起こし、宰相や伯爵の陰謀の直接的な原因となっている。また、彼の遺児であるリュシアンの存在、ロゼリーヌへの想い、そしてメービスへの(おそらくはあったであろう)兄としての愛情が、ミツルの行動原理や物語の核心に深く関わっている。
ロゼリーヌ・ド・モンヴェール
役割/肩書
辺境モンヴェール男爵家の令嬢。リュシアンの母。
外見/雰囲気
作中での直接的な外見描写は少ないが、伯爵が「美しい」と評したことから、気品と美貌を兼ね備えていると思われる。現在は軟禁状態と心労からやつれている可能性が高いが、芯の強さを感じさせる。
性格/行動
息子リュシアンへの愛情が極めて深く、彼を守るためならどんな困難にも立ち向かう強い意志を持つ。過去に王家(あるいはギルクとの関係)によって深く傷つけられた経験から、王家(特に宰相派)への強い不信感と警戒心を抱いている。聡明で思慮深く、簡単には他者を信用しないが、相手の誠意には心を開く可能性もある。
過去
若き日にギルク王子と出会い、身分違いの恋に落ち、リュシアンを身籠る。王家の目から逃れるように辺境の男爵家に戻り、一人でリュシアンを育ててきた。
目的/動機
何よりも息子リュシアンの安全と幸福を守ること。彼を王家の政争や宰相・伯爵の陰謀から遠ざけ、彼自身の意志で人生を選べるようにすること。
関係性
亡きギルク王子とは深く愛し合っていた。息子リュシアンを溺愛。ミツル(メービス)に対しては、当初強い警戒心を抱いていたが、彼女の誠実な態度、黒髪の秘密の共有、そして託されたギルクの手紙を読んだことで、複雑な感情を抱きつつも「信じる」ことを決意。伯爵に対しては、息子を利用しようとする存在として強い拒絶感を持つ。
最新状況
伯爵の私兵(現在は宰相派の指揮下)によって男爵家で事実上の軟禁状態に置かれている。外部との連絡を絶たれているが、ミツルから託されたギルクの手紙を読み、ミツルが送った書状(ステファン班経由)への返信として「あなたを信じる」という伝言を託した。宰相の到着が迫る中、希望を捨てずに待っている。
リュシアン・ド・モンヴェール
役割/肩書
ギルク王子とロゼリーヌの間に生まれた息子(10歳)。王位継承権を持つとされる、宰相と伯爵の陰謀の中心人物。ミツル(メービス)が守ろうとする対象。
外見/雰囲気
ライトブラウンの髪に青みがかったグレーの瞳を持つ、利発そうで可愛らしい少年。年齢以上に大人びた雰囲気と、子供らしい無邪気さが同居している。
性格/能力
非常に聡明で感受性が強い。読書家であり、難しい専門書(魔術書、古文書など)にも興味を示す。一方で、「騎士になりたい」という夢を持ち、活発な一面もある。母親思いで、現在の状況の異常さを理解し不安を感じているが、気丈に振る舞おうとしている。
目的/動機
母親のそばにいたい。騎士になって広い世界を見てみたい。
関係性
母ロゼリーヌを深く慕い、頼りにしている。父ギルクのことは知らない。ミツル(メービス)とは辺境で一度出会い、彼女の優しさや知識に触れ、好意と憧れを抱いている。
最新状況
母ロゼリーヌと共に男爵家で軟禁状態。街での噂(女王が悪者であるという話)を聞き、不安を感じているが、母と共にミツル(メービス)を信じて待っている。彼の存在自体が、王位継承を巡る陰謀の最大の焦点となっている。彼の名前(リュシアン/光)と、歴史上の王位継承者とされる「ルシファルド」(光をもたらす者)との関連性が示唆されている。
クラリッサ
ギルクの元正妃。伯爵の元恋人。政略結婚の犠牲者であり、彼女の悲劇が伯爵の復讐心の根源。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード451開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
第七章までの一般魔術設定まとめ
【本文】
1. 魔石(ませき)
1.1. 起源と入手
この世界特有の鉱石であり、魔獣(まじゅう)の中核部分にのみ存在する結晶体。
魔獣は「虚無のゆりかご」と呼ばれる異界(あるいは概念的領域)からのみ生まれるとされる。
したがって、魔石はこの世界で自然に産出することはなく、入手方法は魔獣を討伐し、その中核から取り出す以外に存在しない。
1.2. 一般的な認識と外見・価値
外見は希少な宝石にも似ており、多くは内部から神秘的な光(色は様々)を放つ。特に暗闇では、月光を封じ込めたかのように柔らかく発光して見えるものもある。
一般的には、魔術や便利な魔道具の動力源となる「奇跡の石」として広く認識され、人々の生活を様々な形で支えている(例:魔導ランプ、調理器具、風呂、温冷庫など)。
高純度・大容量の魔石は計り知れない恩恵をもたらし、国家間のパワーバランスや経済にも影響を与えるほどの価値を持つ。
この価値ゆえに、多くの冒険者やハンターが危険な魔獣生息域へ足を踏み入れる動機となっている。
1.3. 真の性質「命の灯火」と「狂気」(禁忌指定)
魔石内部に宿る力の源は、古代の研究者により「命の灯火(いのちのともしび)」と名付けられた。
その本質は、意思や人格を持たないものの、人間が持つものと同種の「感情」が圧縮されたエネルギーの塊である。
しかし、それは純粋な感情ではなく、「万の狂気と叫びが渦巻く」ような、狂気に染まった負の感情エネルギーであるとされる。
魔石の力の根源が、破壊と混沌の象徴である狂気という事実は、「禁忌中の禁忌」として指定されている。
1.4. 禁忌指定の理由と隠蔽
過去、魔石内部の「命の灯火」に直接アクセス(精神感応など)を試みた感受性の高い魔術師や研究者の多くが、その狂気に触れて精神を侵され、発狂、廃人化、あるいは自害するという悲惨な結果を招いた。
魔石を安全かつ便利なエネルギー源として社会に普及させるため、この危険な真実は意図的に隠蔽され、関連する研究資料などは厳重に封印されている。
2. 魔術の基本原理
2.1. 発動プロセス
魔術とは、魔石に秘められた「命の灯火」に対し、術者が「強制力」をもって働きかけ、「魔素(まそ)」あるいは「魔力(まりょく)」と呼ばれるエネルギーを引き出し、それを制御・指向することで現実世界の法則を「捻じ曲げ」、特定の「現象を具現化」させる技術体系である。
2.2. 術者の役割
魔石から力を引き出すには、術者の「魔術適正(まじゅつてきせい)」(後述
2.4)が必要となる。
術式(呪文や魔法陣)は力を引き出し方向付けるための「手続き」「記号」「鍵」であり、それを行使する際の術者の「心のあり方(集中力、意志の強さなど)」が、魔力伝達の効率や術の成否に大きく影響する。
2.3. 負荷の原則
魔石から強く魔力を引き出せば引き出すほど、術者にかかる「負荷(ふか)」は増大する。
この負荷は、単なる魔力消耗だけでなく、狂気を内包する「命の灯火」への強制アクセスの反動として、精神的および肉体的なダメージを術者に蓄積させる。
2.4. 魔術適正とその測定
定義
魔術師の基本的な資質(ししつ)。魔石の「命の灯火」をどれだけ強く引き寄せ、感応できるかという能力(感能力)。
測定方法
専用の「測定用魔道具」を用いる。
測定プロセス
測定用魔道具に、基準となる一定水準以上の魔石を装填する。
被験者が、定められた「簡易呪文」を唱え、魔道具を起動させる。
魔道具が魔石の「命の灯火」から魔素を引き出す。
引き出された魔素が、魔道具内部の「触媒(しょくばい)」と反応する。
反応結果として、触媒部分に「色」が現れる。
結果の解釈
属性
現れた色によって、被験者が親和性を持つ属性が判別される。通常、魔術師は一つの属性しか持ち得ない。(例:火=赤、水=青、風=白、土=黄など)。
稀な二属性
ごく稀に二つの属性を持つ天才が現れることがあり、その場合は触媒に二つの色が混ざり合って現れることで判定できる。
適性の高さ
色が濃ければ濃いほど、より強く魔素を引き出せたことを示し、その属性への適性が高いと判断される。色は適性に応じて黒に近づいていく。
測定限界
色が「真っ黒」になった場合、その魔道具では測定不可能なほど極めて高い適性を持つことを示す。
意義
この測定により、個人の持つ魔術的な才能の方向性(属性)と、その強さ(適性の高さ)を概ね把握することができ、魔術師の育成や役割分担に用いられる。
3. 一般魔術(魔道具なし)
3.1. 発動条件
厳密な法則と制約の上に成り立つ技術。
術式を構成するための複雑な魔法陣(しばしば多層化される)の構築。
意味よりも手続きとして重要な、長大な呪文の正確な詠唱。
引き出した魔力を精密に制御する繊細な魔力制御技術。
行使する魔術の属性との完全な一致(適合性・理解度)。
高い集中力と精神力、そして十分な知識と経験。
3.2. 特徴:
上記の条件を満たす必要があるため、高度な魔術ほど習得が困難で、発動までに長い準備時間と詠唱時間を要する。戦闘など、即応性が求められる状況での実用性は低い場合が多い。
4. 魔導兵装
4.1. 機能:
内部に複雑な魔法陣や呪文パターンを「あらかじめ」圧縮して仕込んだ武器・装具(杖、オーブ、扇、手甲、槌矛など形状は多様)。
魔石を動力源としてセットし使用する。
術者は魔導兵装を起動することで、伝統的な魔術行使に必要な複雑な準備(長大な詠唱や魔法陣構築)の大部分を省略できる。
魔術師の能力を増幅し、魔石のエネルギーを効率よく引き出す「高性能エンジン」のような役割も果たす。
4.2. 起動方法:
多くの場合、「ごく短い簡易呪文(かんいえいしょう)」(例:「ファイアボール!」のようなトリガーワードや短い起動句)を唱えることで起動し、術式を発動させる。言葉自体の意味よりも、起動キーとしての機能が重要。
4.3. 安全装置(リミッター)
通常、術者や兵装自体を過負荷から守るため、出力制限(安全装置)が設けられている。
これは兵装に組み込まれた「管理者の鍵付きの限定魔法陣スロット」(あるいはそれに類する物理的な制御部品)によって実現されている。
リミッター解除
この「スロット(または部品)」を物理的に「抜く」、あるいは鍵を用いて設定を変更することで、出力制限が解除され、魔石と術者への負荷と引き換えに、兵装の性能を限界以上に引き出すことが可能となる(宰相軍が現在行っている方法)。
4.4. 維持
使用すれば動力源である魔石を消耗するため、定期的な交換が必要。
兵装自体も精密な魔道具であり、定期的なメンテナンスが不可欠。リミッター解除などの無理な使用は、兵装の寿命を著しく縮めるか、修復不可能な破損を招く可能性がある。
5. 特殊な魔術・現象
5.1. 直接共鳴(詠唱破棄)
極めて稀な才能を持つ者が、呪文や兵装といった「手続き」を経ずに、自身の精神を魔石の「命の灯火」と直接「深い共鳴」させることで、強大な力を引き出す現象。詠唱破棄とも呼ばれる。
非常に強力な力を発現できる可能性があるが、「狂気」そのものである命の灯火と直接繋がるため、術者の精神を侵食・破壊し、暴走・自滅に至る危険性が極めて高い。
これもまた「禁忌」とされる魔術の領域であるが、とある“新登場キャラクター”は、これを造作もなく使いこなす三属性持ちの超天才である。
5.2. 精霊魔術(主人公メービス=ミツル)
主人公(ミツル=メービス)が使う力は、一般的な魔術師の体系とは異なる「精霊魔術師」としての能力。
彼女は魔素を「敵」として感知できる。
しかし、魔石の力の源である「命の灯火」とは接続できず、むしろ拒絶される。そのため、魔石を動力源とする魔術や魔道具を直接的には使用できない。
彼女の力の源泉や具体的なメカニズムは、通常の魔術とは異なり、精霊あるいは聖剣マウザーグレイルなどと関連している可能性が高い。また、敵視される理由は別にもある。
6. 宰相軍魔導兵への負担
宰相クレイグが進める「魔術による蹂躙行軍」は、魔導兵装の能力を極限まで、かつ禁忌とされる方法で引き出しているため、術者である魔導兵には以下の複合的な負担が致命的なレベルでかかっている。
6.1. リミッター解除による過負荷
宰相の命令により、魔導兵装の出力制限(安全スロット/部品の除去)が強制的に行われている。
6.2. 魔石の異常消耗
本来の許容量を超えた魔力が引き出されるため、魔石が急速に消耗・破損する。
6.3. 生命力・精神力への直接ダメージ
安全装置がないため、過剰な魔力負荷や魔石破損時の衝撃が術者に直接フィードバックされ、精神力のみならず生命力そのものが直接削られている(喀血、失神、死亡のリスク)。
6.4. 精神汚染リスク
「狂気」である「命の灯火」に、リミッターなしで強制的にアクセスし続けるため、精神が蝕まれ、暴走や廃人化するリスクに常に晒されている。
6.5. 肉体的・心理的極限状態
上記に加え、休憩なしの連続的な魔術行使による肉体疲労、絶対的な命令、仲間が次々倒れていく惨状、自らが「消耗品」であるという認識(または恐怖)が、彼らを心身ともに限界状況へ追い込んでいる。
→彼らは文字通り、自らの魂と命、そして魔石を「焼き尽くしながら」進軍を強いられている状態であり、その消耗は単なるスタミナ切れとは次元の異なる、破滅的なものと言える。宰相の作戦は、彼らを真の意味で「道具」「消耗品」として扱っていることの証左である。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード452開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
絶望の報、反撃の狼煙――そして伝令
【本文】
ボコタ近郊、雪に化粧された静かな森林地帯。黎明は遠く、冷たさだけが濃く、森は沈黙の層を幾重にも重ねていた。息を潜めた白の底へ、時間そのものに急き立てられるように、ダビド率いる部隊が身を沈めていく。
吐く息は出た端から白く砕け、額の汗は滴る前に凍る。冷気に削られる体からは湯気が立ち、鎧下の肌に薄い塩の結晶が噛んだ。
南から迫る見えぬざわめきに背を押されながら、彼らは無言でバリケードを築く。重い毛皮と革鎧の下、酷使された筋が静かに軋み、指の節は石のように強張る。
冬枯れの樹脂と湿りを含んだ土の匂いが混じる。張り詰めた空気の芯で、斧が幹に沈む鈍い拍が、規則正しく森を刻んだ。
数人がかりで丸太が運ばれるたび、凍った地面を擦る音と荒い掛け声が重なる。
手先に凍てつく振動が、皮膚の奥まで細く走った。
「そーれ、引け!」
白い息が綱の上でほどけ、丸太の重みが腕へ噛みつく。
冷えた土の肌が、手袋越しにもざらついている。
「足元に注意しろ!」
靴底で氷の薄皮が鳴り、膝へ冷えが差す。
鋸が木を挽く乾いた摩擦、倒れる直前のミシミシという軋み。音は雪に薄められながらも、冷えた木立に確かに返ってきた。
ときおり、元宰相軍の工兵が、市民兵へ短く要を伝える。凍気に噛まれた声が骨に響いた。
手のひらに、槌先の衝撃がじんと残る。
「そこだ、もっと深く打ち込め! 基礎が甘いぞ!」
槌の一打が手首に沁み、木栓が少し沈む。
「斜面に対して角度をつけろ! 崩れやすくするな!」
雪面がきしみ、杭の先端に湿った冷えが絡みつく。
丸太は数人で引きずられ、ズズ……と凍土の皮膜を薄く剥いだ。いくつかの下には、すでに仕掛けられた罠が冷たい口を閉ざしている。
アントンの弟子という若い猟師が、ときおり屈み土に顔を寄せて匂いを嗅ぐ。冬の森にあるはずの微かな甘みが消え、代わりに鉄の匂いが鼻に刺さった。
鼻腔に残る鉄さびの匂いが、胸の奥をざわつかせる。
「……森の匂いが死んでいる……何か良からぬものが近づいている証拠だ」
肩口に乗った吐息が、そのまま白い影になってほどける。
伯爵の別働隊が第一、続いて第二の橋を落とし、刻を買ってくれる。その一点の希望にすがり、ここで最後の抵抗線を固める――いまは、その呼吸で動いていた。
市民兵の顔には夜通しの疲労が濃い。慣れない力仕事で手のひらの皮は盛り上がり、割れて血の気が薄い。それでも瞳は消えず、家を、街を守るための小さな火が芯に残っていた。
銀翼騎士団の面々――巨躯のディクソン、百歩のガイルズらも、指揮官ダビドが率先して手を汚す姿に倣い、兜を脱ぎ、鎧を少し外し、汗の湯気を上げながら市民兵に混じる。
ディクソンは一人で丸太を肩に載せ、周囲を黙らせた。張り詰めた場に、身分を越えた奇妙な連帯と、秩序だった熱が生まれていく。
雪明かりが、枝の先に粉雪の縁を描いていた。
ダビドはときに手を止め、額の汗を革手甲で拭い、南の暗を射た。胸裏で小さな期待とそれを上回る不安が静かに反発し合う。風に混ざる、地の底から寄ってくる別の気配がある。
月のかけらもない、重い夜空が張り出していた。
秩序だった営みの只中へ、異様な音が割り込んだ。最初は風か、木の軋みの延長。だがすぐ、雪に殺されながらも確かなリズムを帯びる。複数の蹄が凍土を叩き、嵐のように駆ける音。尋常ではない速さ。方角は南、主街道の奥。
耳のいい者たちはその切迫を感じ取ったとダビドは思う。
氷の層が微かに震え、足裏に伝う。
「……なんだ?」
吐いた息が短く切れ、肩に細い寒気が刺す。
「この音……尋常じゃないぞ!」
雪面がわずかに波打ち、足首へ震えが這い上がる。
「敵の斥候か? いや待て、数が多すぎる……!?」
作業の手が止まる。騎士は武器を取り、市民兵は陰を求めた。雪が音を飲み込む。その直後、森の沈黙は破れ、薄い混乱が一気に広がる。
音は膨らみ、雪煙を蹴って重種馬が木立の間から転がり込む。先頭はレズンブール伯爵。いつもの冷静の仮面は、汗と雪に剥がれていた。
馬は口から白い泡を吹き、眼を剥いて荒い呼気に身を震わせる。伯爵の外套は泥で重く、息は乱れ、顔は蒼白――信じがたいものを直視した者の相だ。
彼は鞍から落ちるように地へ降りた。
遠ざかっていた森の音が、一瞬にして集中した。
「伯爵様!?」
声の縁が凍り、手袋の革がかすかに鳴る。
「いったい何が……?」
雪が舞い、視線が一斉に集まった。
「他の者たちは!?」
囁きが木々の間で細かく散る。
「伯爵、何事です!? 第二の橋は!? 他の皆は!?」
ダビドが駆け寄る。伯爵はよろめきながらもその腕を掴む。握力は異様に強く、指先は氷のように冷たかった。
胸骨に突き刺さるような言葉が、空気を切った。
「ダビド殿……! 手前の第二の橋は……落とした! なんとか……間に合った……!」
胸骨の奥で熱がひとつ跳ね、ダビドは短く息を吐く。
「おお!」
だが伯爵の次の言葉、そして胸の奥から漏れ出る恐怖が、その安堵を粉にした。
「だが……! だが、状況は……我々の想像の限界を、遥かに超えている……! シモン殿が、他の者も遅れて来る予定――その者たちも、あれを見た、あれを……!」
伯爵の瞳には、恐ろしい光景の残像が焼き付いているかのようだ、とダビドは感じた。
遠くの地平線から、白い蒸気が柱のように立ち上るのが見えたという。大地を抉るような速度で進む行軍の影が、彼の言葉の裏にある。
空気が重く、鼓動が唾を飲むように早くなる。
「敵が……! 敵は魔術で……! 我々が知る軍事の常識を、超えた速度で接近している……! 我々は第一の橋に一歩も近づけなかった……! あの速度なら、おそらく我々が到達する前に通過していただろう……!
急遽、目標を手前の第二の橋に切り替え、破壊には成功したが……その作業の間も、奴らは……!」
伯爵は、第二の橋を破壊する間際、そして破壊後も遠望できた、地平線の彼方で繰り広げられていた異常極まりない光景を伝えた。
広範囲にわたって立ち昇る、不気味なほどの白い蒸気。空を覆い隠すかのように舞い上がる雪煙。そして大地そのものを削り取りながら進むかのような、到底ありえない行軍速度。
説明は手短であったが、彼の声の震え、息遣いの荒さ、そしてその表情が、言葉以上の恐怖と絶望を、聞く者の肌に直接突き刺すかのように伝わった。
切迫した報せは森のしじまを鋭く裂き、その場にいた全員の心臓を冷たい手で鷲掴みにする。作業の音は完全に止み、水を打ったような静けさの中で、伯爵の荒い息と、風の擦れ、そして遠くから、しかし確実に近づいてくる地鳴りだけが響く。
地面の振動が、足裏から胸へと伝う。
「馬鹿な……蒸気が壁のように? 常道を外れた速度? この雪深い中を、そんな速度で……? 伯爵、それは……何かの見間違いでは……? そのような行軍速度は、常識では考えられない。いかなる精鋭部隊であろうとも……!」
経験が、最悪の可能性へと舵を切る。
「まさか……」
低い声が凍気へ沈む。
「……魔導兵か。それも……」
言葉は途切れ、周囲の空気が一段沈んだ。
胸の奥で、怒りと恐怖が冷たく混じり合う。
「敵は……ボコタへの最短時間での到達、ただそれだけのために、軍用規格の高価な魔石を、さらには貴重な魔導兵の命さえも顧みず、まるで消耗品のように使い潰す気なのだ……!」
銀翼の面々の顔色が一斉に褪せる。
「……とんでもねえことをしやがる……! そんなの人間のやることじゃねえぞ!」
ディクソンは戦斧の柄を握り込み、指を白くさせて低く唸った。
唾が雪に落ち、黒く沈む。
「第二を落としても、足りない。」
ガイルズは矢羽根に指を滑らせ、囁く。指先の震えが弦に触れ、微かな音を返した。
そこへ、さらに蹄と足音、荒い息が森をかき分ける。斥候長シモン、相棒ブルーノ、老猟師アントン、そして元宰相兵と市民兵の一団。馬は汗に白く、徒歩の者は肩で息をしている。
「班長! 伯爵!」
雪煙が肩口で弾け、声が近づいた。
「ご無事でしたか」
冷えた空気が喉で引っかかる。
「ああ、シモン、ブルーノ、無事か!」
目の奥の熱が一瞬だけ緩む。
「話は伯爵から伺った。だが……!」
風が言葉を裂き、音の端をさらう。
「ちくしょう……あれは何なんだよ!? まるで止まる気配がしねぇ!」
ブルーノは肩で息をし、怒りで恐怖を噛み砕いた。
「……あんなもの、生まれてこの方見たことがない……。大地の怒りか、それとも……悪魔の所業か……」
アントンは空を仰ぎ、鼻をひくつかせる。自然への畏れとは別の、名のないものへの恐怖が皺に沈む。
地鳴りが、遠くで断続的に唸る。
「……班長」
シモンが掠れた声で補う。
「あれは、まともじゃないです……。まるで、大地そのものが生きているかのような……巨大な力の奔流です。見たところ、その速度はほとんど衰えていません! 地鳴りが……もうこの森にもはっきりと届いています! 足元に震動を感じませんか!?」
皆が足裏に意識を落とす。わずかな震えが靴底から脛へ上がり、腹の底で遠雷が鳴る。木の幹も、葉の抜けた枝先も、ほんの気持ち揺れていた。空気が重く圧しかかり、肌に細かな刺を立てる。
策は、常識の枠を超えて組み直される必要があった。
「宰相は、本来温存すべき魔導戦力を出し惜しみなく投入している。仮に交換用の魔石がまだ潤沢であるならば、第二の橋の崩壊も、たいした時間稼ぎにはならんということだ……!」
伯爵は力なく言葉を継ぎ、瞼を一度深く閉じた。
ダビドは拳を固く握る。通常の策は通らない。胸の奥で折れかかる何かを、歯の力で押し止めた。地鳴りが腹を叩く。
ここで折れることだけはできない。瞼裏で戦場の地形と残存戦力を素早く並べ替え、息を深く吸い、目を上げる。瞳に宿るのは、冷徹に燃える闘志。
息を飲む間に、決意が固まる。
「……宰相め、そこまでやるか。常識からすればとんでもない悪手、いや、人道を外れた狂気だ!」
主要な顔ぶれ――伯爵、シモン、ブルーノ、ディクソン、ガイルズ、アントン、工兵長――を見回した。
「奴らのやり方が常識外れなら、こちらも常識にとらわれていては勝機はない!」
凍った土の上に簡易図を広げ、指で叩く。
「現状の戦力では、敵の魔術による進路啓開そのものを止めることは不可能だろう。だが、奴らは魔導兵を前方に集中させているはずだ。だとすれば……」
顔を上げ、言葉を鋼に変える。
「我々が狙うべきは後続の本隊。何より宰相が座す馬車そのもの。進路啓開に集中する敵の横っ腹。さらには魔導兵の脆弱性を突く! 防御ではなく、積極的な遅滞戦闘に切り替える!」
空気の密度が変わった。
「まず、この森林の地形を最大限に利用する。敵が通るであろう道は、魔術で作られる一本道だ。我々はこの森に隠れ、その側面から奇襲をかける!」
指示は短く、明瞭に区切られる。
「――ガイルズ隊。森に潜み、矢で敵の指揮系統・荷馬車を断て。混乱を引き起こし、一射ごとに位置を変えよ」
弓の名手は弦を押し、短く答えた。
「承知……」
弦が低く鳴り、手袋の内側で指が温まる。
「――ブルーノとディクソンの隊。屈強な者を選抜し、側面から吶喊、敵の隊列を裂け。一撃離脱、深追いは禁物だ」
「へっ、面白え!」
雪を蹴る音が鋭く跳ねた。
「おう!」
斧の柄が掌に吸いつく。
「――焼夷班。これは志願者を募る。敵魔導兵の側面・後方から接近し、用意した焼夷壺を投げ込め! 奴らの集中を乱し、兵装を狙え! 成功したら即離脱だ!」
いくつもの手が、ためらいなく上がる。
「よし、クソ宰相に一泡吹かせてやる!」
歯の隙間から白い息が洩れた。
「頼む」
短い頷きが連鎖する。
「――アントン殿。遊撃部隊の経路、奇襲・離脱地点の選定を!」
老猟師は迷わず地図を指す。
「……ああ、儂が獣道を案内する。あれだけの轟音が鳴り響いておっては、奴らも気づくまいて」
指先に土の冷たさが移った。
「――残りの者はバリケードを死守! 敵歩兵・騎兵の侵入を阻み、遊撃隊を援護せよ! 火薬樽は最後の切り札だ! アントン殿の助言に従い慎重に設置。合図があるまで決して使うな!」
熱が、一列に走る。
「各自、持ち場へつけ! 急げ! 一刻の猶予もないぞ!」
斧の音、丸太の擦過、指示の声、金属の触れ合い――それらが森を満たし、奥底で静かな覚悟が形を取っていく。
ダビドは一度だけ天を仰ぎ、吐く息を細く伸ばした。祈りとも誓いともつかぬ言葉が唇に触れ、すぐ消える。
出発を整えるシモンと、馬装を確認する伯爵へ向き直る。託す重さが、胸骨の裏に痛んだ。
「シモン!」
名が刃のように空気を切り、視線が交わる。
「はっ!」
「お前が、我々の中で最も身軽だ。そして、最も信頼の置ける斥候だ。伝令を頼む」
細い肩へ手の熱が移る。
「伯爵殿。あなたには至急、ヴォルフ殿下へこの状況を伝え、今後の対応を協議していただきたい。元々敵対していたとはいえ、ここまで来た以上、我らは一蓮托生。いまこそ、あなたの知見と叡智が頼りです」
言葉は静かに、しかし退路を焼く温度を帯びた。
「森を抜け、ボコタへ急げ! シモン、残っている馬の中で最も状態の良い二頭を選び、伯爵閣下をご案内し、主街道を進め! ヴォルフ殿下に、そして市民代表の方々に、この危機的状況を一刻も早く伝えるんだ!」
「了解!」
鞍の革が短く鳴る。
「想定していた猶予は、もはや存在しない。一日……いや、下手をすれば半日で敵の先鋒が街に到達するかもしれん! 我々がここで遅滞戦闘を仕掛けている間に、備えを固めてもらう必要がある」
地鳴りが、否応なく頷いた。
「いいか、シモン、伯爵殿。何があっても、必ず、必ずこの報せを届けてほしい! たとえ馬が力尽きようとも、この任だけは必ず成し遂げていただきたい!」
冷たい空気が言葉の重さを受け取り、隊の背に静かに乗る。
「……そして、まだ目覚められぬ女王陛下を、なんとしてもお守りするのだ。あの方は我らの希望。光そのものだ。失わせてはならない。この国の未来のために……」
吐息が灯のように揺れた。
「お任せ下さい! この命に代えましても、必ずや!」
シモンは鋭い眼でその重さを呑み、深く頷く。
伯爵もまた頷いた。
「……ダビド殿の志、このレズンブールが確かに承った。シモン殿、案内を頼む」
最後に、ダビドは短く笑ってみせる。
「無駄死にはしない。必ず生きて帰るさ……」
「当然です!」
シモンは素早く身を翻し、選んだ二頭の手綱を握って伯爵に渡す。兵が駆け寄り、鞍の帯を締める。ブルーノ、ディクソン、ガイルズ、そしてダビドへ、言葉にならない頷きが返った。
ブルーノが肩を一度叩く。
「お前も死ぬんじゃねえぞ、相棒!」
手袋越しに熱が残る。二つの影が馬に跨がり、闇色の外套を翻して主街道へ消えた。雪と木々の間の暗がりが、彼らを静かに呑み込む。
見送ったダビドは、半歩だけ膝を折りかけ、すぐに背を伸ばした。戦場へ向き直る。残された者は、最後の抵抗を続ける。圧のように迫る脅威へ、正気の縁を保ったまま。
誰もが無意識に耳を澄ます。南から、大地を揺らす重い音が、風に挟まれてはっきり届く。低い波が木々の根を叩き、空気はさらに重くなった。
黎明は、まだ遠い。だが宰相クレイグの大軍は、その到来を、あまりにも容赦なく、今この瞬間へ引き寄せている。
【後書き】
ダビドが考案し、実行を決定した「積極的な遅滞戦闘」について
結論から言えば、この戦術シフトは、絶望的な状況下で取り得る「最善手」であり、極めて合理的かつ有効性の高い判断と言えます。
1. 現実的な脅威認識と目標設定:
ダビドは、伯爵たちの報告と自身の分析により、「魔術による進路啓開は(自分たちの戦力では)阻止不可能」という厳しい現実を即座に受け入れています。これは的確な状況認識です。
その上で、目標を「敵の完全な阻止」から、「後続本隊の遅延、戦力分散、士気低下」へと現実的なレベルに再設定しています。不可能な目標に固執せず、達成可能な(あるいは達成を目指すべき)目標へ切り替える判断力が光ります。
2. 地の利と自軍の特性の最大活用:
森林地形
敵が魔術で切り開くのはおそらく「一本道」。それに対し、守備側は広大な森林に潜むことができます。これは隠密行動、奇襲、離脱において圧倒的な地の利となります。ダビドの戦術はこの利点を最大限に活かすものです。
兵員の特性
弓の名手ガイルズには狙撃、屈強なブルーノやディクソンには突撃、隠密行動が得意な者(志願者)には危険な魔導兵への奇襲、老練なアントンには案内と罠設置の助言、というように、各員の能力や特性に応じた役割分担がなされており、限られた戦力を効率的に運用しようとしています。
3. 敵の弱点を突く合理性:
側面の脆弱性
魔術で道を切り開きながら進む大軍隊は、どうしても隊列が縦に長くなり、側面が無防備になりがちです。そこを弓や突撃で繰り返し叩けば、混乱や損害を与えやすいのは確かです。
魔導兵の集中と消耗
敵の進軍速度の要である魔導兵は、前方への術行使に集中・消耗しているはずです。側面や後方からの奇襲(特に火を用いる焼夷攻撃)は、防御が手薄であれば大きな効果を発揮し、進路啓開そのものを一時的に停止させられる可能性があります。リミッター解除で心身ともに限界に近い状態であれば、わずかな混乱や負傷でも致命的になりえます。
心理的効果
ヒットアンドアウェイは、敵兵に「いつどこから攻撃されるかわからない」という継続的なストレスと恐怖を与え、士気を確実に削いでいきます。宰相の馬車付近を脅かせば、指揮系統にも影響が出るかもしれません。
4. 静的防御から動的防御への転換:
バリケードや罠といった「静的防御」は、敵の魔術の前では効果が薄い可能性が高いです。しかし、それらを完全に放棄するのではなく、「遊撃戦を支援するため」「敵が取り付いた瞬間」に使うものと位置づけることで、無駄にしません。防御施設を拠点や罠として活用しつつ、主軸を「動的な遊撃戦」に置くことで、より柔軟で効果的な抵抗を目指しています。
懸念点とリスク
兵力差
圧倒的な兵力差があるため、遊撃戦で損害を与えても、敵本体を殲滅することは不可能です。長期戦になれば、守備側の消耗が先に限界に達するでしょう。
敵の対応
宰相やその指揮官が側面攻撃を予測し、強力な護衛部隊を配置したり、対抗策(例えば、魔術による索敵や反撃)を講じてきた場合、遊撃戦の効果は減殺されます。
魔術の圧倒的な力
もし敵の魔術が、進路啓開だけでなく、広範囲の森林自体を焼き払ったり、吹き飛ばしたりするほどの規模と精度を持つ場合、遊撃戦を行うための「隠れ場所」そのものが失われる危険性もあります。
作戦実行の困難さ
森林での隠密行動、正確な狙撃、魔導兵への危険な接近攻撃、一撃離脱のタイミングなど、高度な練度と勇気、そして指揮官(ダビドや各部隊長)との連携が求められます。
総括としての有効性
これらのリスクを考慮しても、ダビドの戦術シフトは「極めて有効」と言えます。なぜなら、それは「何もしなければ確実に蹂躙される」状況において、利用可能な全ての要素(地形、兵員の能力、敵の想定される弱点)を最大限に活用し、最も達成可能性の高い目標(遅延)を設定した、合理的かつ勇気ある選択だからです。
この戦術が敵を完全に退けることはないでしょう。しかし、ボコタへ情報を伝え、街が備えるための貴重な「時間」を稼ぎ出す可能性は、単にバリケードで待ち受けるよりも格段に高まります。それは、絶望的な状況下で彼らができる、最も意味のある抵抗と言えるでしょう。この戦術の成否が、シモンと伯爵がボコタへもたらす情報と合わせて、今後の展開を大きく左右することになりそうです。
ダビドにとっての〈光〉――三つの位相
「指示を終え、仲間たちが散っていくのを確かめたダビドは、ひと息だけ天を仰いで静かに息を吐く。そして――遥かな誰かに祈るように、声にならない言葉をそっと唇に乗せた。」
1. 闇を裂く“遠い星”――女王メービス
まだ眠りについたままの若き女王は、ダビドにとって 「届きそうで届かない光源」 である。
貧民街の少年だった頃、彼が夜空に見上げた星と同じように――手は触れられないが、そこにあって世界を見守る。魔族大戦で見た奇跡――救いの希望の光。それがメービスです。精霊の巫女という神秘性は、単なる戦力以上に「この国にはまだ奇跡が起こり得る」ことを証明してくれる。
あの方が目覚めさえすれば、闇は押し返せる――だからこそ彼は、血を流す覚悟をする。メービスを守り抜くことは、彼自身が信じたい未来を守ることと同義。
2. 揺らぐランタン――灰鴉亭と女主人アリア
灰鴉亭はダビドにとって 「手のひらで包める炎」。
《戦場から帰る場所がある》
《自分を名前で呼んでくれる人がいる》
という、切実で私的な光を象徴する。守る対象が城壁の内側にも外側にもあることで、ダビドの闘志は「国のため」という大義と「たった一人のため」という私情で二重に研ぎ澄まされる。
3. 自ら掲げる火――街そのもの
貧民街出身ゆえ、ダビドは 「雑多な明かり」 を誰よりも愛している。露店のランプ、路地の灯、夜警の松明……。それらは女王の星明かりとも、灰鴉亭のランタンとも違う、集合体としての光。
相互作用――光がダビドを動かし、ダビドが光を守る。メービスが示す“可能性の光”が、ダビドに戦略的な希望を与える。アリアがともす“生活の光”が、ダビドに感情的な帰路を与える。ボコタの雑多な灯が、ダビドを“街の盾”として立たせる。
ダビドの眼に映る〈光〉とは
遠くで瞬く星(メービス)
手のひらで覆える炎(アリアと灰鴉亭)
街の夜景を成す無数の灯(ボコタ市民)
という異なる三層で構成されている。彼はそのすべてを一条の火縄で結び、闇の中を走ろうとしている――自分自身が「守りたい」と願うものを、光の総体として背負いながら。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード453開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
最後の抵抗線―震える森、燃える魂
【本文】
伯爵とシモンが、一条の細い望みを凍てつく鞍上に託し、雪原の彼方、ボコタへと最後の蹄音を響かせて消えていった後。雪深い森は一瞬、無音の帳に支配された。取り残された者たちの胸に、言葉にならない重圧がのしかかる。
だが、その静寂は長く続かない。内側から込み上げる熱が、白い息の凍る森へ音もなく満ちていく。
それは絶望の縁で掴んだ微かな光――ダビドが示した新たな戦術への、脆いが確かな灯。死地へ向かう者だけがまとう乾いた鋼の高揚、守るべきものを定めた者の静かな使命感。温度差が重なり、兵の強張った頬に疲労と決意の陰影が落ちた。
胸を圧していた沈黙が、音へ変わる。鉋の悲鳴。抑えた指示。荒い呼吸。切迫の営みだけが、この場の体温をわずかに上げていく。
誰も大声は出さない。けれど瞳に光が宿り、ひと動作ごとに捨て身の覚悟が刻まれていく。
補強は続く。かじかむ指を懐で温めては、巨大な丸太を担ぎ、軋む音とともに積む。隙間には掘り起こした黒い土と踏み固めた雪を丹念に詰める。――ただ、その熱は、もはや「阻止」のための砦ではない。
目的は静かに変質していた。傲慢な前進を嘲る擬装の障壁。森に潜む影が牙を剥くまでの「時間」を買い、隊列の心臓へ「混乱」という楔を打ち込む、計算された布石。
その意味の変化を嗅ぎ取り、槌にさらに力を込める者もいる。
深い雪を掻き分け、古参工兵ゴードンが目印の若木を凍土へ突き立てる。吐く息は白い結晶となり、頬の霜を厚くした。
傍らで老猟師アントンが身を屈める。土の匂いを嗅ぎ、地の息遣いを聴き、吹き溜まりと風の道筋、わずかな傾斜を読む。皺に刻まれた経験が、即座の判断に変わる。
枝の陰で白い息が細く伸び、指先の感覚が遠のく。
「……ここだ。この窪みなら、雪が積もればまず見えん。風向きも考えると、奴らが迂闊に踏み込みやすいはずだ」
合図ひとつで数人が音を殺して雪を掻き、硬い地肌へ穴を穿つ。掘り出した土は雪と混ぜて痕跡を消す。底には逆刺の杭を隙間なく。頑丈な靴底ではなく、滑って崩れた体重が自ら刺さる角度で――森の掟が編んだ静かな殺意だ。
◇◇◇
選抜の遊撃は白に紛れ、足音さえ殺して持ち場へ散る。
ガイルズ率いる弓兵は森に棲む者の歩法を知る。雪を纏った太枝の上、冷えを吐く岩陰の窪み。白い進軍路を見下ろす狙撃点だ。狙いは一つ。宰相の中枢、その僅かな隙へ矢を通し、あるいは馬を射て混乱の火を点ずる。
梢の揺れと粉雪の角度で大気の流れを読む。氷点下は矢の巡航を鈍らせ、微小な差が致命に変わる。求められるのは熟練と感覚。
彼は愛用の長弓の弦を指先で確かめる。北の硬木、麻の撚り、亜麻仁油と熊脂。油の匂いが鼻に立つ。弦は寒さに負けない。
雪に擬態した枝葉の隙から、最重要目標の一点へ視線を絞る。矢はすでにつがえられ、引き腕には鋼の張り。胸の奥で鼓動がひとつ強まった。
他の弓兵も白い偽装に身を包み、狩人の静けさの中、合図を待つ。吐息は霧になり、枝の氷へ点を残して消えた。
強襲班は偽装バリケードの南、常緑の天蓋の下、森の最も深い闇へ潜む。率いるはブルーノとディクソン。月光も届かぬ暗がりに、戦場の生き残りと元兵士が身を伏せた。凍った腐葉土の冷たさが外套を這い上がり、息は襟元で噛み殺される。研ぎ澄ました牙は、宰相の喉元へ向いた。
凍土の匂いが口の奥に鉄の味を残す。
「いいか、合図があるまで、決して動くな。瞬きひとつ、呼吸の乱れひとつが命取りになる。……待て」
短剣の柄は氷の冷たさ。夜目は獣めいて前方の重なりを凝視し、鼻腔は鉄と血の気配を探る。
少し離れた雪の底で、岩のような巨躯のディクソンが戦斧の柄を握り、微動だにしない。抑えきれない闘争心が陽炎のように熱を立てる。口元には革包みの小さな松明。合図で雪に叩きつけ火を熾し、すぐ両手を空ける段取りだ。
迫撃の直前。爆ぜる瞬間を待つ全身の筋肉が、弦のように張り詰めた。
舌裏に冷えが貼り付く。
最も死に近い任務。焼夷班。
陽動が南で注意を攫う間、彼らはアントンの示した獣道を辿り、魔導兵団の側面へ音もなく忍ぶ。下草と雪の中を腹で掻き進む。擦れる雪、抑えた呼吸、小枝の乾いた音。五感は圧され、体温は容赦なく奪われた。
末尾の市民兵トーマスの世界は、凍った雪と泥、前を行く外套の背で埋まる。胸に抱くのは素焼きの壺。粘油と松脂を染ませた布で満たし、木栓で塞いだ。外面には薄い氷膜。かじかんだ指先に脆い感触が刺さる。――振り抜く瞬間、粉々に砕けるだろうか。場違いな思考が恐怖の端で点滅し、すぐ消えた。
泥と汗の下に恐怖の色。唇は青く、歯は無意識に噛み合う。指は震え、それでも壺を落とすまいと握り続ける。――より強いのは、死を厭わぬ覚悟と、故郷を蹂躙する者への憎しみ。生還を前提としない任務だと、誰もが知っている。
分散前に交わした短い視線。言葉にならない別れと、覚悟の確かめ合い。――それでも一矢報いる。守るべき人のために。踏みにじられた土のために。その意志だけが、凍える身体を内側から押し立てていく。
◇◇◇
ダビドは、バリケード後方の岩窪に息を殺す。湿った岩肌の冷気と土の匂いが籠る狭い穴。枝葉の隙間から覗けるのは、打ち捨てられた粗末な防線――偽りの骸――と、森の縁の陰鬱な輪郭だけ。情報は背後の若い伝令が運ぶ。瞳には恐怖と使命が交じり、主の一瞥を受ける刹那を待った。
生の気配はない。敗走後のような虚しさと寒気だけ。長剣の柄を骨が軋むほど握る。抜くのはまだ遠い。黒い木立の奥、運命が形を結ぶ一点を見据える。森の呼吸、雪の囁き――最初の徴候を渇望し、同時に恐れた。失敗すればすべてが終わる賭け。
賢い獣はすでに去り、森は古い沈黙へ戻る。梢が重い雪を揺らし、粉雪が音もなく舞う。その落下だけが時を告げた。短く凍る白い息遣いが押し殺され、薄氷の均衡が喉を締める。
時間は止まり、瞬きが一刻になる。
雪を踏む圧。地の底からの多数の足音。鎧の擦れる金属。――そして、その下で大地を微かに震わせる歪んだ鼓動と、鍛冶場の火花めいた鋭いオゾン臭。
――見えた。
森の闇を押し分け、先頭が現れる。人ならざる光を明滅させる魔導兵団。蒼白、あるいは血のような赤。虚ろな目で前だけを見て、杖と宝珠の力で大地を沸かし、雪も氷も木々も蒸気と塵へ変えていく。
周囲を、漆黒の鋼に身を固めた近衛が無感動な壁として護る。後方に整然たる射撃、そして“鋼の黒壁”重装歩兵が蛇のように続いた。
敵は無人のバリケードを歯牙にもかけない。敗残の置き土産と見ている。進軍は油断を纏う。先頭は術の光を強めて接近した。
ダビドは呼吸を忘れ、列が森の奥、死の罠の中心へ誘い込まれるのをただ眼で追う。先頭が到達し、不気味な詠唱で地を揺らす。近衛が脇を抜け、重装の第一波が通り過ぎる。
そして――闇をかきわけ、ひときわ巨大な黒い箱が滑り出た。漆を流したような黒檀の車体に、金線が夜気を裂く。六頭の黒馬は煤の鬣を振り、蹄音さえ雪に呑まれる。護衛の甲冑は二枚厚く、紋章は赤錆ひとつない。
宰相の座乗――他にあり得ぬ。馬車は陽動バリケードの手前、死地の芯へ吸い寄せられた。風が止み、粉雪が落ち切り、世界がひと呼吸ぶん静止する。
喉の奥に冷えが落ち、耳の鼓膜だけが熱を帯びた。
「聞け。本作戦には“決死”の覚悟が要る。だが“必死”ではない。それだけは忘れるな。どんなに泥水を啜ってでも生き延びろ。そして、必ずボコタへ戻れ。生き抜くことこそが――真の戦いだ!」
なぜ生還にこだわるのか。答えは一枚の光景。無数の遺体袋。その只中で、喉を塞いで泣く精霊の巫女メービス。屍一つごとに「ごめんなさい……」と囁き、小さな肩へ世界の罪を載せていた姿。
――もう二度と、あの涙は見たくない。
それが彼らに残った唯一の忠義だ。
雪が息を止める。闇が収縮する。刃が鳴る。
ダビドは感覚の消えかけた右手をわずかに掲げ、指を二度、鋼の意志で握り開いた。音なき命令が森を走り、張り詰めた闇を震わせる。
陽動、発動。
【リアクション】
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------------------------- エピソード454開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
“凍れる戦場で、唯一熱いのは命を繋ぐ意志”
【本文】
樹上のガイルズは、石像のように止めていた体へ、そっと命を通わせる。冷えた指で弓弦を「ツッ、ツッ」と二度だけ鳴らす。夜鳥の囀りに紛らせた、森の狩人にだけ届く開戦の一拍。
それが、作戦の始まりだった。
氷点下の空気が音を研ぎ澄まし、硬弓は満月の形で背へ吸い付く。木骨と弦がかすかに軋み、細い震えが胸郭の奥をひと筋走った。
頬を掠める矢羽の冷たさを抱いたまま、ガイルズは狙いを微動だにさせず、凍る息とともにただ一語を吐く。
『放て』
弦が堰を切り、冬を裂く低い合唱が森に滑った。
十数本の黒い線が闇と雪を貫く。狙いは寸分違わず、馬車の護り――近衛の群れと、驚愕に首を振る馬へ。矢は獣皮を穿ち、鎧の隙を深く捉え、鈍い衝突音だけが雪へ沈む。
巨体が狂ったように跳ね、温い血の匂いが立つ。投げ出された騎士が雪に叩きつけられ、掲げた盾に矢が弾けて硬い音を返した。
続いて火矢。赤い尾が不吉な流星となり、馬車の天蓋や厚いカーテンへ移る。燻る匂いは黒煙と絡み、蒼白の森は一拍遅れて紅に染まった。
新雪は音を吸い、世界は一瞬、聴覚の神経を切られる。
「敵襲!」
緊張が破れ、金具の響きが連鎖する。
「矢だ! どこからだ!」
肺の奥で凍えた空気がきしみ、怒号が重なる。
「馬が! 馬を鎮めろ!」
◇◇◇
雪の薄い霧が口の端でちぎれる。低く獰猛な声が闇に落ちた。
「待ってたぜ、班長!」
「蹴散らすぞ!」
凍土の芯を踏み砕くように、ブルーノとディクソンが深い茂みから躍り出る。檻を外された猛獣の一歩。
ディクソンは咥えていた松明を雪へ叩きつけ、脂の匂いとともに頼りない焔を起こす。両手が空き、雪煙が肩口でちぎれた。
歴戦の兵が続く。雄叫びとも呻きともつかぬ声が喉を擦り、深い雪を蹴って一点――炎と騒擾に包まれはじめた豪奢な馬車へ。
側面はがら空き。弓兵の奇襲で乱れた列へ、黒い刃が流れ込む。
ブルーノは黒豹のように滑る。盾の縁、兜の覗き窓、鎧の接合――揺れた一瞬に短剣が吸い込まれ、ザクリ、と肉の鈍い感触が手首へ残る。返り血の温度が頬に散り、闇の奥で笑みが牙のように白く見えた。
「女王陛下のために……」
囁きが喉を焼き、息が白く裂ける。
一方、ディクソンは破壊そのものだった。振り下ろした戦斧は風切り音を引き、慌てて構えた塔盾を、凍てた雪ごと爆ぜさせる。骨も金属も氷も同時に砕け、雪煙は淡い紅へ染まった。
「退け、木偶ども!」
腹の底から響く声が、戦場の喧騒を一瞬圧する。
「側面だ! 敵は側面にいるぞ!」
金切り声が割れ、指示が雪の上で空転する。
「馬車を守れ! 何としても宰相閣下をお守りしろ!」
混乱の波は中央を洗い、守りの砂が崩れていく。先鋒の護りは宰相の馬車へ吸い寄せられ、重装歩兵の一部が慌ただしく隊列を替えた。
ダビドは岩陰から戦場の芯を切り取る。燃え上がる馬車、密集の乱れ、そして――守りの要が確かに引き剝がされていく動き。雪明かりの反射が瞳の奥で小さく震えた。
「敵の護衛を引き剥がせ! だが深追いはするな!」
温度のない声が伝令の背を押す。革の匂いと汗の塩が風に薄く混じった。
白兵の火花が散り、叫びは途切れない。ブルーノとディクソンは獅子奮迅だが、前は厚い。馬車は矢に縫われ、暴れる馬が周囲を滞らせる。なお、壁は固い。
「ちぃ……! さすがに護りが厚い!」
遠い罵りが風の筋で千切れ、消える。
「前方の壁が抜けん!」
――釣れた。重装が動いた。ダビドは確信する。いま……。
角笛を取り、森の奥へ沈む長い低音を三度、夜へ放つ。空気がわずかに震え、雪が毛羽立つ。焼夷班への、本命開始の合図だ。
合図は北の茂みに潜む焼夷班へ届く。先頭は除去に没頭し、後方は南に囚われている。待っていた瞬間。
湿った泥と凍る雪に腹を這わせ、息を殺す。詠唱の律動と地鳴りだけが耳を満たし、恐怖が奥歯の根を冷やした。
末尾の市民兵トーマスは、手の壺に指を食い込ませる。素焼きの冷たさへ薄い氷膜。脆い感触が爪の縁を刺す。思考が逸れかけ、すぐ戻る。
班を率いるゴードンの傷痕は硬く引きつれ、目は冷たい。魔導兵は前方で術に没頭し、護衛は――手薄。風は味方だ。
「合図だ……! 奴らは南に釣られた……! 今しかない!」
喉を擦る囁きが、指先の震えを止める。
「放て」
腕が一斉に振り抜かれ、焼夷壺が唸って闇を切る。死の放物線が重なり、側面から雨のように降る。陶器が砕け、油が撒け、松脂の強い匂いが鼻を刺した。
「目標、先鋒魔導兵団! 叩き込め!」
火矢が油溜まりの芯へ突き、轟、と炎柱が立つ。粘る炎は一気に広がり、術者と手薄な護衛を分け隔てなく呑み込む。悲鳴は人の声の高さを超え、詠唱は粉々に割れた。オゾンの刺が濃くなる。
「前方側面だ! こちらにも敵が!」
声が折れ、雪面で跳ね返る。
「魔導兵がやられたぞ!」
明滅していた魔術光は不規則な閃きへ崩れ、危うい熱が散った。
「術が――維持できない!」
列は止まる。中央は陽動で乱れ、先頭は本命で機能不全。二重の打撃が、進撃を折った。
「やったか!」
ダビドは北へ上がる火柱と、魔術の轟音が人の騒擾へ変わる転調を捉え、拳を固く握る。冷えた革の感触が掌に食い込んだ。
「よし、全軍撤退!」
狙いは果たした。時間を稼いだ。敵が体勢を整える前に離れる――狩人の鉄則。角笛の合図が雪を蹴る足へ伝わり、伝令は闇へ溶けた。
「ブルーノ、ディクソン! 陽動ご苦労! 撤退する! 殿を頼む!」
返る声は短く、熱い。
「へっ、存分に暴れさせてもらったぜ! 引くぞ!」
「了解!」
強襲班は互いに背を預け、無駄のない離脱へ移る。雪の下草が軽く鳴り、気配はすぐ森へ吸われた。
焼夷班もまた、炎と悲鳴の背を振り返らず、別の撤退路へ散る。いまは誰一人欠けていない――その一点の温もりが、凍えた胸へ小さく灯った。
木立はすぐに彼らを呑み、足跡は薄雪で消える。東の群青はまだ誰の目にも入らない。残されたのは、二箇所で手痛い打撃を受け乱れ、進軍を止めた敵の列。南の騒ぎに孤立する漆黒の馬車。安否は不明のまま。
これは長い消耗の序章――酷寒の空気に、次の衝突の気配が滲みはじめていた。
◇◇◇
夜は鉛色の帳をようやく上げかけている。分厚い雲は低く、弱い光は、雪に包囲されたボコタへ届かない。
公会堂の大広間は臨時の司令部として息を殺し、羊皮紙の地図には二重線の橋の傍へ無念の走り書き。積まれた報告書は墓石のように黙り、魔導ランプの青白い光が疲労を容赦なく照らす。革の擦れと低い囁きだけが、死にゆく音のように漂った。
ヴォルフ・レッテンビヒラーは中心に立つ。石の窓枠へ片手を置き、霧氷の城壁と鉛の空を鋭く射て、すぐ地図へ戻る。指示は短く明瞭、声は乾いている。
「見張りの交代は? 凍傷者が出始めていると聞く」
紙の匂いと冷気が肺に刺さる。
「配給の手順は? 市民の不安を煽るな。冷静に、迅速に」
副官の筆先がかすかに鳴り、呼気が白くほどける。
「西側のバリケード補強はまだか。資材が足りぬなら放棄家屋からでも調達しろ!」
橋へ向かった伯爵とシモン、森で遅延に賭ける銀翼――胸の底へ鉛が沈む。
樫の扉が砦のように軋み、吹雪の冷気が死人の息のように流れ込む。灯りが暴れ、二つの影が転がり込んだ。
「ヴォルフ殿下は……早く、ヴォルフ殿下にお会いせねば……緊急だ!」
貴族の抑揚が擦り切れた声。白い霧が口から掠れる。
「伯爵殿! シモンもか!」
ヴォルフは弾かれたように進み、凍った外套の匂いと泥の湿りを袖で受ける。
「伯爵……!?」
掴まれた腕は死人の冷たさ。息は荒く、瞳は常軌を逸した影を宿す。
「その様子、ただ事ではないな……。何があった? 簡潔でいい、報告を」
伯爵は空気をひと口飲み込み、凍える唇を震わせる。
「第二の橋は――なんとか落としました! 間一髪で間に合い、火薬はすべて使い切り……橋は、跡形もなく、完全に崩壊しております!」
空気がわずかに緩む。安堵の気配が広間を撫でかけ――
「おお、見事だ、伯爵! よくぞやってくれた……!」
頬の筋肉が戻り、すぐ凍る。伯爵は首を振り、光は砕けた。
「……ですが、殿下! それも――恐らくは、無駄です。奴らの進軍に、我々の常識など、もはや何の意味もなさないでしょう」
乾いた喉が鳴る。
「なんだと? どういうことだ、詳しく話せ!」
言葉が薄刃のように、空気を冷やす。
「宰相は……! 宰相は、持てる魔導兵力のすべてを、ただ進路確保のため“だけ”に、消耗品のように使い潰すつもりなのです――!」
シモンは蒼白のまま頷く。
「伯爵の仰るとおりです、殿下。雪どころか、凍てついた大地も樹木も、地形そのものさえ無視して進んでいました――まるで、すべてを溶かし喰らい尽くしながら突き進む、地を這う白い嵐です」
ヴォルフの舌裏が渇き、未来の影が一瞬よぎる。自然の狂気よりなお冷たい、人為の狂気。
「……常識を逆手に取ったか。いや、奴には初めから常識などないのか……」
呟きが氷に触れた音で落ちる。
「――それこそが宰相、クレイグ・アレムウェルという男の本性です。確かに我らの策は定石。されど彼は徹底した政治家。結果と数字こそすべて、過程も倫理も顧みません」
伯爵の声に、怨嗟の色が薄く滲む。
「相手は政治屋。対して俺たちは……軍人すぎた、ということか……」
魔導灯の炎が壁に影を落とした、その時――
「殿下……! ダビド班長からの伝言にございます!」
シモンの声は震え、それでもまっすぐだ。
「班長は――森に残った者ともども、その身が砕けようとも時間を稼ぐ覚悟にございます。遅滞戦闘に努め、必ず敵の足を鈍らせてみせる、と……!」
熱が暴れ、ヴォルフの声は鋭く跳ねる。
「馬鹿な! その状況でか……!? ダビドたちは命を捨てる気か! 全滅が見えているぞ!」
息が刺す。だがシモンは退かない。
「いえ、ご安心を。班長は必ず皆を連れて戻ります。常々、耳に胼胝ができるほど厳命されてますから――『無駄死にだけはするな。生き抜け。陛下を悲しませるな』って!」
視線がぶつかり、冷えの層が一枚、静かに剝がれる。
「……それもそうだな。俺も、メービスの泣き顔は見たくない。ダビドを――皆を信じて待とう」
胸の底へ冷たい空気を満たし、吐く。目が鋼の色へ戻る。
「だが猶予はない! ダビドたちが捻り出す時間を、絶対に無駄にするな!」
広間の呼吸が揃い、足音がわずかに動く。
「……これまでの作戦計画は白紙とする。既存の防衛計画は破棄し、次段へ移行する」
魔導灯の炎だけが影を長く伸ばす。言葉は小さく、絶対だ。時間は想定より少ない。敵はもう、城壁の手前にいる。
ボコタは、より深い絶望の局面へ――それでも、まだ折れていない呼吸がここに残っている。
【リアクション】
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------------------------- エピソード455開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
屍山血河――凍原に立つ歪な秩序
【本文】
――正義は、血を知らずに語ることはできない。
だが、血を知った正義は、たいてい、怪物の顔をしている。――
◇◇◇
風雪は薄い帷となって車体を叩き、毛皮の袖口へ湿りがじわりと染みた。革の擦れる低い音が、室内の温もりを逆立てる。
遠い戦場の鼓動のような連打を、宰相クレイグ・アレムウェルは杯の縁に映る橙を見つめながら、時報のようにやり過ごす。
夜明けから三刻。街路の雪は二度払われたが、白い膜は頑なで、吐く息は足元に小さな屍のように凝った。しもやけの疼きが皮手袋の内側で鈍くうずき、指先の血が浅くなる。
絹張りの肘掛け椅子に深く身を落とし、炉火のほの暗さを背に、銀杯の深紅を睫の奥で静かに見定める。獣臭を含んだ毛皮とわずかな燻香。ため息のぬくさだけが膝上に残り、暖気は一呼吸で薄まった。
ことり、と扉が揺れる。指は慎ましくても、隙間から差す冷気に従者の焦りが混じった。金具が乾いて鳴り、襟元へ鋭い寒さが差し込む。
蒼白の軍事参謀ヴァレリウス。肩の霜を払う間も惜しんで、一礼より先に声を絞った。喉の乾きが、言葉の輪郭を硬くする。
「申し上げます、閣下……」
炉がぱちりと割れる。クレイグは血色の香を鼻に吸い、ゆるやかに視線を上げた。刃の背に似た冷たさで、ただ促す。
「……聞こう」
「はっ……」
毛皮の襟が喉に擦れ、ざらりとした感触が言葉を急かす。
「昨夜の、ボコタ近郊森林地帯における敵ゲリラ部隊による奇襲攻撃により……我が軍の魔導兵は三名が戦闘不能、うち一名は……魔力の暴走により……。さらに五名が重度の精神汚染の兆候が見られ、後方搬送。現在、稼働可能な魔導兵は、当初の二十五名から……十六名にまで減少。加えて、護衛の重装歩兵にも少なからず死傷者が出ております……」
数だけが骨に響く。室内の温が崩れ、杯の柄にだけ薄い汗が滲む。
クレイグは眉ひとつ動かさず杯を空にし、卓へ静かに置いた。カツン、と硬質な音が伸び、車内の温度がひとつ落ちる。
「……ふん。下層階級の烏合の衆にしてはやるではないか、銀翼のネズミどもは。レズンブールの差し金か、あるいはあの小娘の入れ知恵か。だが、それで?」
「は……?」
ヴァレリウスの顎がわずかに強張る。革底が絨毯の縁を踏み、低くきしんだ。
「それで、と聞いているのだ、ヴァレリウス」
薄い刃を一寸抜いて止めるような声音。冷静の縁に苛立ちがかすかに伏せられる。
「損害は損害として受け止めねばなるまい。だが、それにより我が軍の進軍がどれほど遅れたのだ? 目的達成への影響は? 些末な感傷に浸る前に、事実だけ報告せよ」
兵の顔は数字へ還元される。喉仏がひくりと動き、報告が続いた。
「……速度は三割低下、到着はさらに半日遅延の見込みです」
「半日、か……」
白い指が顎をなぞる。爪先が髭剃り跡を冷ややかに撫で、机上の地図に影が落ちた。
「許容範囲内、とは言いがたい。だが、致命的というほどでもない。ヴァレリウス、何をそんなに狼狽える必要がある? たかだか半日の遅れではないか」
「しかし閣下! これ以上の損耗は、大隊の維持に関わります! 魔導兵は替えのきかない存在ですぞ!」
「とはいえ、まだ十六名いるのだろう?」
炉の火が小さく欠け、灰が跳ねる。
「ならば十分ではないか。彼らには、文字通りその身が燃え尽きるまで働いてもらわねばならん。それこそが、彼らに与えられた『栄誉』というものだ。国のために肉も骨も血の一滴までも余さず捧げることこそ、兵士の本懐であろう?」
空気が一筋乾く。ヴァレリウスは唇を噛み、胸の内で氷がひび割れる音を聴いた。
◇◇◇
ヴァレリウスが魂の抜けた足取りで退くと、入れ替わるようにラドクリフ公が駆け込む。帽に積もった雪が床に落ち、湿った冷気が紙の端をめくった。
「閣下、緊急報告にございます! 斥候部隊が森林地帯奥地で敵の再奇襲を受けました! 狭い街道沿いの崖が爆破され、大規模な雪崩が発生、土砂と氷雪によって道が完全に塞がれております!」
今度は眉がほんの少し動く。指先は地図の上で止まり、緻密な線に深い皺が刻まれた。迂回で繕った帳尻へ、忌々しい狂いが走る。
「……レズンブールめ……! あの恩知らずの裏切り者。まだ無駄な抵抗をする意志を残していたか。大人しく従っておれば、穏やかな余生が送れたものを……」
空の杯を指先で弾き、乾いた音で焦燥を押し包む。
「それで、状況は? 復旧の見込みは?」
「崩落は予想以上に広範囲に渡り、復旧には……一日を要する試算です」
「一日だと……!?」
苛立ちは熱ではなく、かえって室内の温度を奪った。窓外の白を一瞥し、薄笑いの端だけを整え直す。
「ヴァレリウスを呼べ」
「はっ」
呼び戻された参謀の顔色はさらに青い。扉からの冷気が帯をくぐり、息が白く裂けた。
「ヴァレリウス。状況はわかっているな?」
穏やかな声色に、抗弁を拒む硬さが縁取られる。
「直ちに魔導兵を投入して迂回路を造れ。半日で終えろ」
「閣下……!?」
「残る魔導兵十六名、さらに工兵部隊全てを投入せよ。迂回する新たな道を切り開くのだ。多少の回り道となろうとも、構わん。土属性の魔導兵を集中させ、工兵に補助させれば、半日もかからず新たな道はできよう」
「しかしそれでは、魔導兵たちが……! 彼らはもう限界です! 工兵たちも……!」
肩布の縁が震え、指先に余計な力が入る。
「『道具』とは、使い切ってやるものではないか? それこそが本懐であろう」
炉火が音もなくしぼむ。
「それよりも、二度と奇襲を許すような無様な真似はするな。我が馬車に傷一つつけぬよう、細心の注意を払うのだ。これは、至上命令である」
「なんですと……!?」
「この馬車は単なる移動の手段ではない。やがて正統なる王太子――リュシアン殿下をお乗せし、王都へ凱旋するための、王家の権威そのものを象徴する器なのだ。それを傷つけるなど、断じて許されん。これは、兵の命より重いと心得よ」
ヴァレリウスは呆然と目を見開く。呼吸が胸郭の内側で空回りし、冷えが背骨を這い上がった。
「貴公は、この期に及んでまだ余に異を唱えるつもりか?」
「……滅相も、ございません……」
拳は小さく白み、首は力なく垂れた。駒を押しやる指が地図の上で冷酷に動き、失った時間を買い戻すための計算だけが進む。
◇◇◇
命令は前線へ走り、乾いた砂のような不信を縫い目に撒いた。臨編の大隊は宰相派の貴族士官を芯に、末端ほど平民兵が粗く綴じられた寄せ集め。冷たい汗が縫い目にしみ、やがて火薬の粉に変わる。
雪を踏む足は重く、吐息はすぐ途切れる。
「……聞いたか。今度はでっかい崖崩れらしいぞ……」
靴底の湿りが革を鳴らす。
「先鋒の魔導兵たち……休み無しでこき使われてるっていうじゃないか……正気か……?」
声は布越しにくぐもり、寒気が歯の根を合わせる。
「俺たちは……本当に……勝てるのか……? 閣下は、俺たちの命を……」
ささやきは疫病のように滲む。工兵の目だけが雪面の癖を黙って計り、――雪は嘘をつかない、崩れはもう一度来る――と、凍った空気に無言の確信が沈んだ。
ヴァレリウスはそれを嗅ぎ取り、再び馬車へ向かった。扉を叩く指は冷たさに鈍い。指先がかじかみ、帯の下で脈が暴れる。
「閣下! 再度意見具申いたします! 兵たちの士気は、限界に達しております! このままでは、部隊が内部から瓦解しかねません! どうか、一度進軍を停止し……!」
膝をつく音が絨毯に吸われる。窓外の白がわずかに揺れ、宰相は短く嗤った。
「――士気、だと?」
氷面に爪を立てるような声。
「ヴァレリウス。兵は鼓動を刻む器械に過ぎぬ。器械に恐怖や疲労など不要だ。潤滑油は規律、動力は鞭――それで動かぬなら部品を換えよ。それとも貴様、余の歯車に錆を撒く気か?」
「い、いえ……そのような不敬は……!」
「黙れ」
吐き捨てた一語が空気を凍らせる。
「兵が欠ければ予備を填めろ。武器が足りねば屍から剥げ。口を減らすために糧秣を絞れ。――成果以外の数字は誤差だ。勝利が得られるなら、屍山血河もまた有益な地形に過ぎん」
最後の望みが胸骨の内側で鈍く砕ける。
ふと、目に映った。宰相の指が、地図の上を滑る。小さな駒を、ためらいなく、押し出す指先。
――……あれが……我々か
ヴァレリウスは、冷たい実感とともに理解した。この男にとって、自分たちは、道標でも兵士でもない。ただ、盤上を動く無名の、小石だ。
指が駒を押すたびに、誰かの未来が押し潰される。娘の笑顔も、部下の声も、仲間たちの誓いも――そのすべてが。
かすかに、拳が震えた。心の奥底で、ひび割れた氷が、きしりと鳴った。刹那、ありえない思考が、胸をよぎった。宰相の喉元に、この拳を叩き込めば、と。
だが、それはただ一瞬で砕けた。現実の重みが、己の首筋を氷の手で掴み、引きずり下ろす。
ヴァレリウスは、深い絶望と共に、再び頭を垂れるしかなかった。
◇◇◇
側近たちが退室し、再び一人になった馬車の中で、宰相クレイグは、ゴブレットに残った葡萄酒をゆっくりと飲み干した。暖炉の炎が、彼の顔に揺らめく影を落とす。
――忌々しい……黒髪の娘め……! そして、レズンブール……! 余が敷く救国の軌条を、爪の先で曲げようとするか。まあよい。歪みは削ぎ、骨の粉まで踏み均して正しい線路に戻す。それだけのことだ。
彼の脳裏には屈辱の光景が蘇る。先王が、あの“黒髪の巫女”メービスを庇い、王家の秩序を乱したあの日。自分への裏切り。
――秩序とは、裂けた絹ではない。焼き鍛えた鋼だ。病に倒れた王は黒髪の異端を庇い、玉座の縫い目を撚り糸のごとく弛めた。ならば縫い直すのは余だ。血脈と刃で、王家を再び直線に戻す。手段は問わぬ。犠牲は代価。計算は冷えるほど澄む。抵抗は誤差、誤差は資源で均せばよい。正義とは収支だ。盈つか、欠けるか――それだけの話に過ぎぬ。
彼は、自らの行為を「正義」と信じて疑わない。犠牲は全て、そのためのコストに過ぎない。微かな動揺や罪悪感など、もはや欠片も存在しない。あるのは、自らの信じる「秩序」への狂信的な執着と、それを邪魔する者への、底なしの憎悪だけだった。
彼は、愛用の銀のシガーケースを取り出し、慣れた手つきで一本を口に咥えた。だが、火はつけない。ただ、その冷たい感触を確かめるように、指先で弄ぶ。その歪んだ信念が、彼をこの狂気の行軍へと突き動かす原動力となっていた。
◇◇◇
宰相の新たな、そしてより非情な命令は、絶望に沈む軍隊に、更なる鞭を打った。
「全軍、進軍を再開せよ。速度を極限まで引き上げよ。魔導兵、残存魔石を残らず砕け。血が涸れるまで魔力を搾り、雪と泥を穿て。工兵、即刻追随し路を繋げ。後続は一歩たりとも遅れるな。
我らの大義は一、敵は零。
“無理”“限界”──歩を止める臆病者の寝言にすぎぬ。
止まるな。走り抜け。
灰となったその先で、貴様らは英雄と呼ばれる。
――さあ……踏み潰すのだ」
指揮官たちの、もはや自棄になったかのような怒号が、吹雪の中で響き渡る。
疲弊しきった魔導兵たちは、最後の生命力を振り絞るように、再び魔術を行使し始めた。
赤熱する大地。吹き荒れる吹雪。砕け散る魔石の甲高い悲鳴。術者のうめき声。鼻をつくオゾンと硫黄の異臭。
光は弱々しく、不安定に明滅し、今にも消え入りそうだ。魔石が砕け散る音が、悲鳴のように頻度を増していく。
工兵たちは、虚ろな目で黙々と槌を振るい続ける。後続の兵士たちは、先頭で仲間たちが次々と倒れていく光景を目の当たりにしながら、それでも命令に従い、死地へと歩を進めるしかなかった。
「……馬車が無傷なら、俺たちの命はどうだっていいのかよ……」
声にならない呪詛が、彼らの心に満ちていた。
ヴァレリウスは、ふと胸ポケットに手をやった。凍りつく布地越しに感じた、しわくちゃになった小さな紙片の感触。
娘からの手紙だ。
小さな手で一生懸命書いたであろう、拙い文字。
ヴァレリウスの瞼の裏に、幼い娘の微笑みが浮かぶ。それは風に揺れる木漏れ日のように儚く、だからこそ胸をえぐった。
――私は何を守りたかったのだろうか。あの男の歯車として軋み続ける、この道の先に何がある?
だが、胸に込み上げる叫びは喉元で凍りつき、吐き出すことも叶わない。
彼が選んだ道は、もはや降りることのできない崖道。眼下には、凍てついた深淵だけが口を開けて待っていた。
――娘よ、許してくれ。せめて罰を受けるのは、この私だけであればいい。
握り潰した手紙から滲む赤い雫が、ヴァレリウス自身の心を映していた。
宰相クレイグの率いる大軍は、その数をさらに減らしながらも、しかし、その速度を狂気的に再び上げ、破滅へと向かうかのように、ボコタへと突き進んでいく。その異様な光景は、まるで自らの尾を食らい、燃え尽きようとする巨大な黒蛇のように、狂気と破滅の匂いを色濃く漂わせていた。
空は、依然として重い雪雲に覆われたまま。夜明けの光は、この狂気の行軍を照らすことなく、ただ遠くで見守っているかのようだった。
ボコタの街に、本当の夜明けは訪れるのだろうか。それとも、宰相がもたらす、永遠の闇に沈むのだろうか。その答えを知る者は、まだ誰もいない。――ただ、遠くで軋む音だけが続いていた。
クレイグは、窓の向こうの灰白色の世界を見つめながら、心の内で言葉を紡いだ。
――国家とは、存続すれば正義。民とは、血を流し、肉を捧げ、支えるために生まれたもの。それが運命。生まれながらにして定まった機能だ。
骨を折る者がなければ橋は建たない。
肺を裂く者がなければ街は温まらない。
命一つの重みなど、国の天秤にかければ針先にも満たない。
犠牲とは、計算するものだ。悼むものではない。
以上だ。
地図の上の小さな駒を、宰相の白い指がひと押しした。異様な列は、まだ止まらない。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード456開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
霧衣の暗殺者~鳴り響く鐘
【本文】
ボコタ近郊、雪に深く覆われた森林地帯。光はまだ弱く、木々の間で砕けた白が頼りない寒光を地面へ散らしていた。空気は氷点の棘を含み、吐いた白は細い結晶となってほどける。世界の鼓動がどこかで止まったように、音は雪に吸われ、森は薄い静けさで満ちた。
その沈黙の中、微かに聞こえるのは人間が立てるかすかな足音と、遠くから伝わる鈍い地のうねり。大地の底でうごめく怪物の息づかいのような低鳴が、枝に積もった雪をちらちらと落としていく。
ダビド率いる銀翼騎士団と有志の混成部隊は、昨夜の攻撃と破壊工作ののち、一時後退し、森のさらに奥へ逃げこんでいた。
深夜の強行軍で、誰の身体も限界に近い。足先は凍え、革鎧の下で冷えた汗が張りつく者も多い。それでも瞳の奥には、まだ闘志の残り火があった。
なぜなら、彼らの剛毅果断な一撃――側面からの奇襲突撃、および魔導兵団への焼夷壺による奇襲――は、敵軍の先鋒に確かな痛打を与えたからだ。
目的達成を確認すると速やかに撤退し、間髪入れず崖を爆破。岩盤を崩し、吹き下ろす雪崩で街道を塞いだ。
地元の地質に精通した老猟師アントンの見立ては鋭かった。結果の手応えもあった。
魔導の咆哮や破砕の低鳴は、数時間前から止んでいる。
敵の足を止め、半日は稼げたはず――そんな小さな安堵は、あまりに脆かった。
「……ダビド!」
雪煙を蹴立てて木立の間を駆け戻ったのは斥候のブルーノだ。
低木をかわし、息を切らせて飛び込む。瞳に、見慣れない焦りが宿っていた。悪夢の名残のように血走っている。
「敵の動きを確認してきたが……奴らもう動き出してやがる! 止まってたのは、わずか三刻そこそこだ! しかもよぉ……」
雪に声が吸われ、胸の内側だけが熱い。
「……しかも、どうした?」
ダビドは淡々と返す。声は静かなのに、肺の奥がきしむ。
ブルーノは苦渋に歪む唇を結び、雪混じりの息を荒く白い蒸気にして吐いた。
「進軍速度が、まったく落ちてねぇんだよ!」
吐いた白がすぐ千切れ、頬の皮膚に冷えが刺さる。
「あの連中、止まる気配もねぇ! 俺たちが崩した崖も街道も、まるで紙切れみてぇに森を魔術で切り開いて迂回路を作ってやがるんだ。 先鋒の魔導兵だがよ……揃いも揃って、血を抜かれた死人みてぇな目だったぜ。まともじゃねぇ……」
「馬鹿な。損害は甚大なはずだぞ」
傍らのディクソンが巨体を揺らし、低く唸る。斧の柄がぎり、と軋んだ。
「かなり削れたと思ったんだがな。そうでもなかったようだ。焼夷壺をもうちょい近くに踏み込んで投げ込めていれば、あるいは……」
ダビドは静かにうなずく。深く息を吐き、周囲を見渡した。
「仕方があるまい。市民兵たちにそれを強要するなど、死と引き換えの行為に他ならん。陛下のご意思に反する。それにしても宰相め、すべてにおいて速度重視。短期決戦にすべてを賭けているな」
「ケッ、あのクソ宰相が……兵士を何だと思ってやがる。虫けらと同じ扱いかよ。反吐が出るぜ……」
ディクソンが眉間に皺を寄せ、重い声を転がす。
ガイルズは弓を握り込む。白い頬に、怒りとも無力ともつかぬ赤みが差した。
混乱は広がりかける。ダビドは意識的に表情を引き締める。
脳裏をよぎるのは、絶望的な光景ばかり。だが今、取り乱せば不安を増幅するだけだ。
手袋の革の匂いが濃く、掌に汗が戻る。
「……嘆いている暇はない。宰相のやり口が非情なのは今に始まったことではない。敵が迫るなら迎え撃つだけだ。我々にはまだ最後の策が残っている。森林地帯が終わるまで、遅滞戦闘を継続する」
視線は森のさらに奥へ。切り立った崖沿いの狭小部――ボコタへのもう一つの難所。最後の罠の場所だ。
大規模雪崩を起こせれば、再び足を止められる。いかに魔導兵を酷使しようと、容易には進めまい。
◇◇◇
こうして一行は、最後の作戦地へ向けて、雪深い森の闇を音もなく移動していく。
先頭は老猟師アントン。地形と風向きを読む目は鋭い。踏み跡を拾い、曲がりくねった痕跡を踏みしめ、枝をのけて道を作る。
その背に続くのは、伯爵の班が残し、ダビドたちが死守してきた貴重な火薬樽を抱えた工兵経験者と市民兵数名。
腕も足も悲鳴を上げている。だが、これが命綱だと誰もが知っていた。
ダビド、ディクソン、ガイルズ、銀翼の面々は周囲に散開し、警戒にあたる。落ち葉も雪も、踏む音を最小限に。武器はいつでも構えられる位置で。
「……ダビド班長、もし敵が先回りしていたらどうします?」
若手が低く問う。まだ二十に満たぬ顔色に、昨夜の喪失が刻まれている。
「そこまで戦力を分散させている様子はなかった。可能性があるとすれば“影の手”だろう。宰相直属で単独行動を許された連中だ。あいつらに死角はない。周囲の気配を一瞬でも途切れさせるな」
「了解……!」
若い声が震える。だが瞳には責任が灯っている。
「――いいか。恐れるなとは言わん。だが、恐れに腰を折らせるな。おまえは今、仲間の盾であり、矢でもある。よくやっている」
ダビドは声量を落とし、肩に手を置く。鉄籠手の冷たさ越しに鼓動が合った。
「……は、はい!」
背筋が音を立てるように伸びる。雪明かりが肩越しに薄く揺れた。
半刻ほどで担架の手が三度替わり、手袋の内側に汗が冷える。
やがて視界が開ける。片側が切り立った崖、馬車一台がやっと通れる幅――天然の要害。
「ここだ……」
アントンが崖上の岩盤と雪の層を指す。不安定に堆積しており、少しの衝撃で落ちる場所。大規模雪崩にうってつけだ。
指示で工兵たちは火薬樽の設置に取りかかる。
湿気を避け、布を重ね、導火線を丁寧に伸ばす。凍えた指先を息で温めながら。
ダビドは崖下を見下ろせる位置へ移動し、周囲の固めを指示。勝負は一瞬だ。これが最後の賭け。
「アントン殿、設置状況はどうですか? 火薬の量は足りそうですか?」
「火薬は……ぎりぎりだが、何とかなる。落ちやすい塊を狙って上部を崩せば……一気に下まで流れるはずだ。この角度ならまず間違いない。だが、敵が思ったより早い。悠長にはできん」
「わかりました。工兵の方々、手早く頼む」
無言の頷き。額の冷や汗が薄く光る。
崖下の先では、不自然に平らな森の切れ目が覗く。樹木と岩をなぎ倒した跡――魔導兵の仕事だ。
その向こうに人影が増えていく。豪奢なローブの列は、生気の抜けた歩調で前進していた。
だが速い。限界まで兵を酷使しているのは明らかだ。
後方には黒い重装歩兵の塊。秩序を崩さず、歯を食いしばって押し寄せる。
「来るな……化け物どもめ……」
ディクソンが戦斧を雪に突き立てる。刃が凍った地を鈍く叩いた。
「ディクソン、落ち着け……」
「ガイルズよ。お前はいつも冷静だな」
ガイルズが弦を張り直す。矢筒の底が浅い。
「冷静に見えるか? ……雪崩を起こす前に察知されれば、逃げる間もなく押し切られて一巻の終わり。それだけのこと」
「その態度が冷静だってんだよ」
豪胆な顔にも、焦燥が滲む。
列は狭い道へ近づく。気配を殺すほど、白い蒸気が細る。
「……点火準備、完了だ。みんな、身を伏せろ! 一気にやるぞ!」
崖の上からアントンの声。
導火線の麻が指先にざらつき、鼓動が合う。
「……よし今だ、点火しろ……!」
シューッ――。沈黙。二息。何も起きない。
息を止める音が伝染する。ダビドは歯を食いしばり、アントンへ視線を送った。
「……どういうことだ? 火はついたはずだ……!」
言葉の刃が落ちると同時に、崖の上から複数の影が悲鳴とともに転がり落ちる。
その一人――白髪混じりの老猟師アントン。
雪面に叩きつけられた肩に、霜に濡れた短剣が根元まで刺さり、真紅がぽたり、ぽたりと雪を染めた。
「アントン殿!」
鉄の匂いが雪に滲み、喉の奥が渇く。
ダビドが駆け寄り、崩れる身体を抱き留める。脈はか細い。隣では工兵が倒れ、指先は青白く硬直していた。
「だ……ダビド様……」
血に濡れた指で肩を押さえ、アントンが震える声を絞る。
「アントン殿、しっかり!」
膝をつき、背を支える。止血布が裂かれ、押さえ込まれた。
「工兵が……やられた……」
「なんだとっ⁉」
ディクソンが戦斧を握りしめ、雪を蹴る。
風が逆立ち、松脂の匂いが一瞬だけ濃くなる。
「――短い黒刃が喉元に迫っておった。工兵長は声すら上げられず、膝から崩れ落ち――」
肩が痙攣し、包帯に暗い血がにじむ。
「真っ白な……霧みたいなローブだ。雪煙に溶け込んで……気配すらない。わしらが導火線を伸ばした瞬間、風が逆立つのを感じた。振り向いたときには――」
咳が荒く続く。ダビドが目で促す。遠雷のような魔導の低鳴がかすかに木霊した。
「一人じゃない。三人だ。形も影も滑るように――あれは人かどうかも怪しい。残りの樽に手を伸ばした瞬間、別の奴が左右から同時に蹴り入れて……蓋が砕け、火薬が散った。火花一つ上げず、そいつらは崖の端へ身を流すと――霧みたいに、溶けるように……消えおった」
雪面の赤がじわりと広がる。誰もが息を呑んだ。
ブルーノが低く息を吸う。
「……教科書通りだな」
ダビドのこめかみに冷汗が滲む。火薬樽の残骸と黒い粉が風に舞う。
「……これは“影の手”の仕業だ。間違いない。奴らが来たんだ……」
押し殺した声が、剣の音より鋭い。
「お主らが出くわしたという、あの影法師か……」
アントンが目を細める。
「宰相直属の諜報組織。気配を絞り、標的を囲み、動揺が生まれる刹那に刃を入れる。罠を張るなら必ず逆手を取ってくる――覚悟はしていたが、早い……」
頬を汗が一筋、冷たく伝う。最悪の想定が現実になった。
「じゃあ、火薬は全滅か?」
ブルーノが止血布を締めながら呻く。
「樽は粉砕され、導火線も切られた。残りは拳大が二つ……雪崩には足りん」
ダビドの眉間に深い影が落ちる。
「これ以上、同じ手は通じない……」
独白が夜気に溶け、木立が軋む。
刹那、森の奥で雪がぱらりと崩れた。ダビドは瞬時に剣を構える。
凍てつく闇の向こう、白い外套が一枚、風に翻った気がした。
雪面に残る、三つの、奇妙なほど浅い足跡。近くの枝に引っかかった一本の白い糸。次の瞬間には、ただの吹き溜まりだけ。
無言の挑発に、背筋の奥が薄く冷えた。
――“影の手”は近い。次の狙いは、おそらく自分たち全員。
火薬樽は破壊された。雪崩作戦は不可能。喉の奥が乾く。
腹の底で地の低鳴が強くなる。震動が足裏に返ってくる。
「ダビド様、もう……どうしようもありません。爆薬が足りない以上、雪崩は狙えません。これでは討ち死にするのがオチですよ……」
工兵の悔しげな声。ディクソンが戦斧の柄を握り直す。
「……チッ、こんな話があるか! あと一歩だったんだぞ! あのクソ宰相め、やり口がとことん汚ねぇんだよ!」
ガイルズは黙ったまま、弓を握る手の震えを押さえる。叫びたい思いが、喉の筋を張らせた。
ダビドはアントンの肩から刃を恐る恐る引き抜く。呻き声が胸に刺さる。止血を急がねばならない。布が裂かれ、強く押さえられる。
「……お前さんたち、すまないな。わしの不注意で……」
アントンの詫びを、ダビドは首を横に振って断つ。
「いいえ、あなたのせいじゃない。気配を殺す暗殺者など、容易に防げる相手ではありません。誰も責めません」
唇の内側に血の味。苦渋と怒りが胃に落ちる。
地の低鳴はいよいよ近い。木々がざわめき、雪がばらばらと落ちる。猶予はない。
「……ダビド、もう撤退するしかねぇだろう。これ以上ここにいても、仲間を無駄に死なせるだけだ。街へ戻って、殿下や伯爵様と最終防衛ラインを築くしかない」
ディクソンがひそめる。ダビドは無言でうなずいた。胃が冷たく縮む。選べる手が少なすぎる。
「……生きて戻って守りを固めれば、まだ可能性はゼロじゃない。少数で抵抗するなら市街戦の方が有利な面もある。悔しいが、今は命を繋ぐ方が先だろう。ここで散ってしまったら、市民も女王陛下もどうなる……」
ガイルズの声に、苦さが滲む。
肺の奥が冷えて痛み、言葉が結ばれるまで一拍。
「……総員、ボコタに向けて撤退する。これ以上、無駄な犠牲を出すべきではない」
静まり返った空気に、決断の重みだけが落ちる。誰もが動き出す。それしか道がない。
ディクソンがアントンを支え、ガイルズと市民兵は互いに寄り添う。疲弊は極限、重傷者も多い。だが足は前へ出る。
振り返れば、狭道の向こうで魔導兵の列が濃くなる。長槍の穂が揺れ、黒い鎧列が森影を押し分けてくる。城門が蹂躙される未来が喉元に迫る。舌裏が渇き、言葉は沈む。
「……逃げずに迎え撃てば、何か変わったかな……?」
風に消えた声に、誰も答えない。代わりに呼気だけが白く割れた。
「ディクソン、あんたは大丈夫か?」
「……へっ、大丈夫じゃねぇが、倒れるにはまだ早い。この手であのクソ宰相に一撃叩き込むまでは死んでたまるかよ!」
「……そうだな。俺もまだ諦めるつもりはない。街で守りを固めて持ち堪えれば、あるいは増援が……」
ガイルズが言いかけ、雪を蹴る脚に力を込める。
やがて森を抜け、ボコタへ通じる小道へ。踏み跡の雪が締まり、足音が硬く変わる。先導が旗を振り、負傷者を中央に寄せて進む。
東の白みが一段濃くなり、角笛の遠鳴りが腹に返ってきた。
敵の鬨と魔術の低鳴は背中に絡みつく。死神の馬蹄が雪を蹴っている錯覚に襟足が冷える。
「あと少し――もうすぐだ……!」
ダビドの声が凍てた空気を震わせる。言葉が胸を燃やす。
――その瞬間。
城壁北塔の鐘が、低く三度、闇を割く。
ごうっ――ごうっ――ごうっ――。
重低音が冷えた空へ放たれ、地表へ戻ってくるように長く伸びた。第一避難勅令。老人と子どもを各区の集会所へ――ボコタは、まだ見捨てられていない。
「……間に合ったか……!」
ブルーノの吐息が白く弾ける。
つづけざま、角笛の鋭い震音が七度、夜の帳へ深い切っ先を刻む。
ピイィィィ――ピイィィィ――……。
第二段階――全市民退避。迷う余地はない。
「ヴォルフ殿下、動かれたか……第二段階、発令だ」
ダビドは足を緩めない。背後で枯れ木を裂く矢の火花が咲いた。黒い鎧列が静かに距離を詰める。
けれど――鐘も角笛も鳴った。
逃げる道は、もう開いている。
その確かな事実が、限界を越えた脚にもう一度、力を入れる。
隊列は雪煙を上げて傾斜を駆け下りる。
門前では守備兵が担架を掲げ、狭間から松明の光が凍れる闇を祓う。内側では荷車が唸り、馬の嘶きと避難民の声が交錯し、北門へ奔流のように押し寄せていた。鐘は途切れず轟き、角笛の脈動が胸骨を叩く。
砕かれた罠、迫る鉄蹄――だが、その淵でこそ鐘と笛は鳴る。わずかな希望を告げる灯の音色として。
「聞こえるか! 道は開いた! 生きて門をくぐれ――街を、陛下を、そして自分自身を守り抜くために!」
鐘の余韻が胸骨を叩き、足に力が戻る。
夜明けは冷たい。だが最後の灯はまだ潰えていない。
鐘と角笛、そして彼ら自身の鼓動が――次の戦いへ踏み出すリズムを刻みつづける。
薄紅の暁光が、城壁の鞍部を静かに染めていった。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード457開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
鋼の意志、雪原の誓約
【本文】
ダビド隊が遅滞戦闘へ突入した、ちょうどその頃――ボコタ公会堂地下、臨時評議室にて。
石の匂いは湿り、冷気は床から這い上がる。窓ひとつない地下室で、十数本の油ランプが黄色い呼気を吐き、煤の薄膜が天井にゆらめいた。濃い閉塞が肺の奥で鈍く鳴り、吐いた白は灯心の震えに溶けていく。
「……これまでの作戦計画はすべて白紙とする。既存の防衛計画は破棄し、最終作戦計画――“プランB”を発動する!」
石壁で反射した声が、冷たい鉱物のように胸板に当たる。卓を囲む三十余名――ヴォルフと伯爵、市民評議会の顔役、各ギルド長、銀翼の士官――誰もが厚衣の襟を握り、指先の冷えをごまかしていた。羊皮紙の図面に落ちる影が、ランプの明滅とともに浅く震える。
「現状、正面決戦で街を守ることは不可能だ。ゆえに――ボコタ市民を北へ即時避難させる!」
金具の触れ合いがどこかで小さく鳴り、空気が刃のように張る。
「ひ、避難ですと!?」
熱を帯びた吐息が連鎖し、椅子脚が石を擦る音が走った。
「北へ……? この厳冬に老人と子供を連れて――飢え死にしろと言うのか!」
湿った羊毛の匂いが強まる。肩口の霜はなお融けず、怒りで温まるはずの頬はまだ冷たい。
「ふざけるな! 我々を見殺しにする気か!」
ヴォルフは掌を上げる。指先の血の気は薄いが、声は揺れない。冷えた金の鈴のように短く通る。
「聞け! 他に道はない! このまま街に残ればどうなる? 宰相の正規軍三百に対し、我々はわずか数十。抗えると思うか? 街は蹂躙され、女子供は辱めを受け、逆らう者は皆殺しだ! 先の暴動の比ではない、地獄が現出するぞ! それだけは絶対に避けねばならん!」
石室の温度がさらに一段落ちたように感じた。怒号は吸われ、代わりに乾いた嚥下の音だけが残る。
「しかし、殿下……土地が、畑が、家がある……それを捨てて、どこへ……?」
染めの匂いを纏った指が、癖に馴染んだ布端を無意識に握る。声は擦れていた。
「元はといえば、あんたたち王侯貴族の諍(いさか)いが原因じゃねえか……! とばっちりだ……!」
別の椅子が軋む。古い木が泣く薄い音。
「そうだ、我々を巻き込むな!」
「逃げるなら、あんたたちだけで逃げればいいだろ!」
ヴォルフは瞼を短く伏せ、痛みの色を一度だけ沈め、それから卓一杯に広がる顔を一人ひとり見据えた。灯に濡れる瞳は、抗いがたい現実と、なお手放さない希望のあいだで揺れている。
「……その言葉、否定はできない」
短い息が肩に落ち、白くほどける。
「街の民は、王宮の権力闘争とは無縁だ。女王陛下はその責を誰よりも重く受け止め、身を挺してでも人々を守り抜くと誓われた。だが……もしここで市街戦になれば、罪なき血が流れる。たとえ我らだけが逃げ延びても、残された者への虐殺は目に見えている。
宰相は目的のためならば手段を選ばぬ男だ。ここに残れば、市民はすべて“女王の共犯”と断じられ、苛烈な処罰を受けるだろう。むしろ奴は市民を人質に取り、女王陛下をおびき出す“生き餌”として利用するに違いない。それでも、なお留まりたいという者がいるのか!?」
鍛冶場帰りの鉄の匂い、乾いた革、薬草の青――混じった空気が胸に詰まる。だが、誰も反論しない。燃えかけの油芯が小さく爆ぜ、静寂に粒を打つ。
「ならば、いずれ必ずこの街へ帰還できるその日を胸に刻み、今は退き、生き延びることを最優先とすべきだ。女王陛下が市民を見捨てることなど決してない。頼む、どうか手を取り合い、生存への道を選んでくれ」
彼は円卓の縁に片手を置き、その指を離すと、深く頭(こうべ)を垂れた。銀糸に似た髪の端が炎を掠め、刹那だけ鋭く光る。
「眠りにつかれている女王陛下に代わり、どうか……この咎を償う機会を与えていただきたい……」
油の匂いが濃くなり、誰かの喉が鳴る。潮が引くように声が収まり、薄い寒気が場を均した。
沈黙を割って、伯爵が一歩前へ。絹の衣擦れは控えめだが、硬い意志の輪郭を連れている。彼は卓上の地図を引き寄せ、南のボコタから北のイストリアへ、細い線を灯下で確かに結んだ。
「諸君、まだ道はある」
その声音は落ち着き、芯は鋼。世襲の威厳ではなく、責を引き受けた者の熱で温まっている。
「確かに厳しい道程だ。だが、生き延びるための道が、ただ一つだけ残されている。――作戦名“プランB”。これは、実は昨夜のうちに、万が一に備え、ヴォルフ殿下と私とで極秘裏に策定しておいたものだ」
油灯の炎が細く伸び、いま初めて、“備えがあった”という事実に救われたように幾つかの息が小さくほどける。
「街を捨て、一時的に私の領地である北のイストリアを目指す。道は険しいが、六日……六日間歩き通せば、城塞都市グラン=イストに辿り着く。そこには冬を越す備蓄があり、臨時医務院もある。まずはそこで態勢を立て直すのだ」
伯爵の指が羊皮紙の余白に小さな輪を描く。インクがにじみ、親指の腹に冷たく移った。
「一日目。今夜半にボコタを発つ。夜明けまでに最初の宿場コルベオンへ。ここで休息と食料調達を行う。最初の関門だ」
「……コルベオン宿場の主人とは、面識が?」
染物ギルド長の声は慎重で、そこに僅かな期待の温度が混じる。
「王都への途上で世話になった。冬の蓄えは十分過ぎるほどだと語っていた。ゆえに必要な物資は確保できるだろう。問題は、そこまでに無事に辿り着けるかだ。それは……殿部隊がどれだけ時間を稼げるかにかかってくる」
「あそこは、金で動く町ですからな」
皮肉は胸中でだけ転がされ、声へ出るときには乾いた笑いになり、場の緊張を少し和らげた。
「二日目。最大の難所、雪庇(せっぴ)に注意しての峠越え。夜営は麓のカース村跡地。廃村だが、風雪を凌げる洞窟や岩陰があるはずだ。ここで一晩明かす。寒さは厳しいだろうが、耐えるしかない」
「峠越え……この季節にか? 老人や子供は……」
鍛冶長ハンスの拳が卓を打つ。乾いた衝撃が石に散り、火花の代わりに怒りが浮く。
「異案があるなら申してみよ」
伯爵の低い一言が、熱を帯びた空気を静める。視線が交わり、互いの喉仏が上下した。
「主街道を進めば騎兵に蹂躙される。険路と寒気は承知の上。弱き者を先に、互いに支え合って渡るほか無い」
ハンスは唇の内側を噛み、拳をゆっくり解いた。油灯がまた小さく鳴る。
「三日目。凍てつく川沿いを北上。氷結した川を渡る必要がある。氷の状態次第では迂回も覚悟せねばならん。ここで遅れれば致命的だ。斥候を先行させ安全を確認する」
「氷橋か……渡れる保証は?」
仕立ギルド長の指先が、自分の袖の縫い目をなぞる。針の幻痛が爪先に宿る。
「保証はない。だが、渡るしかない。あるいは迂回路を探すしかない。――他の道は無い」
「四日目。狼谷と呼ばれる険しい谷を抜ける。冬には飢えた狼の群れが出る危険もある。夜は山麓のカルメル修道院を頼る。あそこは中立を保ち、旅人を拒むことはない。以前寄付もした。多少の施しは受けられるかもしれん」
「修道院……神のご加護があれば……」
薬草商ミーナが掌を組む。乾いた葉の青い香りが、祈りの代わりにわずかに広がった。
「五日目――昼には旧国境検問所の廃屋を抜ける。ここまで来ればイストリア領は目前だ。夜には私の領地の外縁に入れる。そこには私の家臣を待たせてある。彼らに従えば、安全な仮宿へ案内される手筈だ」
「それ、本当に当てになるんで?」
冒険者ギルドのリーダーが身を乗り出す。革鎧の縫い糸がきしみ、汗の匂いが薄く立った。
「離脱した元宰相私兵の一部に密使を命じておいた。私の裏書き証文を携え、後金を受け取りに戻る道すがら物資を買い付けて合流する手筈だ。証文は私の直筆、裏切れば報酬は一文も手にできん仕組みになっている」
伯爵は懐から蝋封の文書を卓に置く。黄蝋に沈む双頭鷲が油灯を受けて鈍く光り、石室の空気がきゅっと締まる。
「証文は私の直筆。偽造は不可能だ。裏切れば報酬は支払われん。金に敏い連中ほど、この鎖には逆らえまい」
「なるほど、金で繋いだ鎖ってわけか」
軽い口笛が、凍てた空気に小さな穴を開けた。
「そして六日目。正午、城塞都市グラン=イストの城門へ到着。総距離約七十リーグ。冬道を六日で踏破する。老人子ども込みなら常人限界ギリギリだ。だが、これしか道はない。生き延びるための、唯一の道だ」
言葉は重いが、輪郭は明るい。誰かが鼻をすする。痛みとともに、前を見るための音。
「……わしの脚はもう動かんが、孫を連れて行けるのかのう」
老いの震えが声の端に宿る。
「赤子を抱えて峠越えなんて……でも、ここに残るくらいなら――」
若い母親の腕に、乳の匂い。抱いた子の体温は、この場の誰よりも確かだ。
「俺たちで橇を曳けばいい。鉄くずよりは軽いはずだ」
ハンスが胸板を叩く。鉄の匂いが僅かに立つ。
「修道院に着けば薬も火もある。そこまで運べば命は繋がるわ!」
ミーナの声は細いが、芯は折れない。
「――こうなったら腹を括るしかあるまい。故郷へ戻るまで、命の借りを作ると決めよう」
行商ギルド長が肩掛けの紐をきゅっと締め、その音が合図のように響いた。
伯爵は懐から細長い羊皮紙の束を取り出す。指の腹に古い紙の粉が移る。
「畑も家財も失われはせぬ。ここに耕地凍結証文がある。私の領主印を捺し、諸君の地番と戸主名を記せば正規の法効力を備える。原本はイストリア公文書館に厳重封印しよう。ボコタ奪還の暁には、この証文をもって諸君の帰還と権利を必ず保証する。レズンブールの名誉に懸けて誓おう」
「……信用できるのか!」
荒い息とともに吐き出された問い。だがその手は、煤に汚れた掌で羊皮紙に強く拇印を押した。止められない生の側へ、重心が移る。
「私はかつて宰相の狗(いぬ)となり、王家への復讐を企てた。皆を欺き、苦しめた責任はこの私にある。今さら言葉で信を乞うなど笑止。ゆえに、行動と証(かたち)で償いを示さねばならぬのだ」
伯爵は深く、貴族としての高さを置くように頭を垂れた。金の髪が床に触れ、冷たさに小さく震える。
「……民に頭を下げる王族とか貴族とか、生まれて初めて見たわ……」
ミーナの呟きに、石室の重みがわずかに軽くなった。
「いいか、このプランBは逃亡ではない。生き延び、力を溜め、ボコタを取り戻すための後退だ」
ヴォルフの声がまた場を結ぶ。周囲の息が揃い、灯の炎が落ち着いた形を取り戻す。
「そして、そのための時間は、俺とダビドたち銀翼騎士団が稼ぐ。我々を信じてほしい。あなた方の未来のために」
不安は残る。それでも、灯の側へ寄る足音が確かに増えた。
伯爵は顔を上げ、現実の重さをひとかたまりにして卓上へ置く。
「物資の内訳を説明する。まず食糧だ。乾パン、干し肉、水を三日分用意する。残りはコルベオン宿場で購入するしかない」
羊皮紙上の一点を指す。黒い点が、救いの種に見えた。
「資金はヴォルフ殿下の私財四千ソルドと、私の金塊二錠を充てる」
「四千ソルドだと……! それは…我々のような商人が一生かかっても稼げぬ大金ではないか!」
「金地金二錠もあれば、小さな村が丸二年は食うに困らん」
驚愕の温度が場を一周し、それでもすぐ実務の色へ沈む。
「防寒具は毛布と粗製のコートのみ。幼子と年寄りを最優先とする。不足分は耐えてもらうほかない」
冷たい現実が舌裏に苦い。誰も目を逸らさない。
「医療品は酒精、薬草、包帯布。これが全て……」
ミーナが短く頷く。麻布のざらつきが掌に残る。
「輸送は荷馬車四十六台、橇十二台を使う。食料と物資、さらに歩行困難な者たちを乗せる」
数字は乾いているが、体温を持った命の数だ。石室の空気が静かに動く。
ヴォルフは指揮系統に刃を入れるように、短く明瞭に告げた。
「第一列“救護車隊”――最も重要であり、同時に最も脆弱な部隊だ。意識不明の女王陛下を載せた寝台車を核とし、必要とあらば伯爵閣下も移す。指揮はレオン、お前に任せる。マリアとクリス、さらにアリアをはじめとする医療・看護要員。そして護衛には元宰相兵の選り抜きを加え、計十八名で編成せよ。どんな犠牲を払っても陛下と伯爵を守り抜き、北方で本隊と必ず合流しろ。
……王家の運命――ひいてはこの国の未来そのものが、お前たちの双肩に懸かっている」
若い骨格が一瞬こわばり、すぐ熱で満ちる。レオンの頷きは、剣よりまっすぐだった。
「第二列“市民縦列”――脱出行軍の主軸だ。総員一九三〇名、ほぼ二千。老人も婦女子も、戦えぬ者はすべてこの列に収める。輸送は荷馬車四十六台と橇十二台を用い、食料と生活物資、そして歩行困難な者たちを乗せろ。厳冬の荒野を六日かけて護送する大任を、レズンブール伯爵――威望と手腕、そして贖罪の覚悟で導いてくれ。
市民代表六名を中隊長に据え、地区ごとに縦列を整列。士気と安否を確認するため三リーグごとに鐘手を置き、定時に鐘を鳴らせ。その音が前衛へ、後衛へ、そして互いへ“生存”を告げる狼煙となる」
伯爵は手の甲を胸に当て、静かに頷いた。鼓動は速いが、乱れてはいない。
「はっ、このレズンブール――命を賭す覚悟で……いや、それでは女王陛下に叱られましょう。ならばせめて、骨の髄まで砕ける覚悟で臨ませていただきます」
微かな自嘲とともに、目は明るい。
「そして、最も過酷な任務を担うのが、後衛“殿部隊”だ」
ランプの芯を爪で弾いたように火が一瞬だけ強くなり、ヴォルフの横顔が白く際立つ。眼差しは氷の刃のように遠くを見据えた。
「その指揮は、この俺、ヴォルフ・レッテンビヒラー――いいや、“雷光”ヴィル・ブルフォードが執る!」
石壁が低く反響する。“雷光”は音の形を変え、そこにいる全員の背骨へ薄い震えを走らせた。
「殿下……いったい、どうしてそのような名を?」
シモンの喉が乾く。酒場の噂がふと蘇り、現実の温度へ染め直される。
「なに、昔俺が旅の途中で出会った、とある“酒好きな剣士”の呼び名さ。いわば験担ぎに拝借したまでだが、ひとたび名乗った以上、この身に残る一切の軛(くびき)を断ち切る。宰相軍の兵がどれだけ掛かってこようが、一人たりとも通さん……」
火がわずかに唸り、刃の冷えを映す。
「俺の下につくのは――銀翼騎士団ダビド班。元宰相兵三十四名。そして故郷を守る市民義勇兵三十名。しめて七十七で――敵三百に挑む。我らはこの小勢で宰相軍を食い止め、第一列ならびに第二列を北へ逃がす六日間をひねり出す。地形を喰い、遅滞戦で刻む。手段は選ばん――必ずやり遂げる」
「……しかしながら、殿下。あまりに多勢に無勢。装備も兵の練度も違いすぎるのでは? 本当に、六日間も持ちこたえられるのです? 何か特別な手立てでも?」
問いは正しい。石室の冷えが、現実の硬さを思い出させる。
「算段か? ……なければ作るまでだ」
短い言葉に、刃の笑みが宿る。頷きが、鎖のつながりを確かめるように静かに連なった。
そのとき、恰幅の良い商隊頭領ロランが椅子をきしませて立ち、光の輪の中へ出た。計算された視線が、ヴォルフを真っすぐ刺す。
「ひとつ伺いたい。殿下、我々が命懸けで街を離れたあとで、どさくさに紛れて宰相側に寝返り、荷馬車や物資を売り飛ばす輩が出るやもしれません。そんな裏切り者への対処は、どうなさいますかな?」
ヴォルフは鍔に親指をかけ、鋼の呼吸のような微かな金属音を立てて“銘無し”の聖剣を抜いた。白い刃は油灯を受けて冷い光を跳ね返し、ただ見下ろすだけで皮膚が裂ける錯覚を呼ぶ。
「臨時軍律第七条――敵と通じ、もしくは物資を横流しした者は、理由の如何を問わず反逆者として処断する。財貨は即時没収、一族は追放。抵抗すれば、その場でこの俺がこの手で処分する。……この意味、わかるな?」
刃の冷たさが言葉になる。石室の温度はさらに下がり、誰もが息を潜めた。飲み込まれた生唾の音だけが、小さく輪を描いて消える。
会議が散じるころには、熱の残響が石目に絡み、扉が軋むたびに細い煤が舞った。外の冷気が隙間から忍び込み、油灯の炎は一度長く伸びてから短く俯いた。
ヴォルフは灯を背に翻り、傍らの二人へ視線を落とす。石床の冷たさを踏む音が、刃物の背で雪を払うみたいに澄んで響く。
「レオン、マリア。……ここにはいないが、クリスにも伝えてくれ」
「はっ!」
「承知しました、殿下」
息の白さが二筋、等間隔で揺れた。
「女王陛下――状況次第では伯爵――を寝台車で北へ。銀翼騎士団本隊と合流し、男爵家救出までやり切れ。そこまでは説明した通りだ」
油の匂いに混じって、松脂が小さく弾ける。ヴォルフは炎の揺らぎを睨み、さらに低く続けた。
「それでも万が一ひっくり返ったら――そのときは伯爵の指示で国境を抜けろ。いいな?」
「国境……!?」
「殿下、祖国を――」
レオンの靴が石を噛み、半歩だけ前へ。ヴォルフは掌をひらりと振った。
「落ち着け。あくまで“保険”だ。誰も簡単に国を捨てる気はない」
乾いた笑いが一拍、喉に触れる。
「だが、背負っているものを守るために逃げる選択肢ぐらいは持っておけ、って話だ」
氷の芯の奥で、小さな温が灯る。
「騎士の誓いにかけ、この刃が折れるより先に、我が命を絶ちましょう。必ずや、陛下をお守りいたします」
レオンはショートソードの銀面を額へ押し当てる。汗の塩が薄く滲み、金属の冷たさと混ざった。
「おいおい、物騒なマネはするな。最後まで生きてこそ誓いは活きる。それにだ――」
ヴォルフの目尻がわずかに緩む。硬い石室に、早春の陽だまりが一瞬落ちる。
「お前にはクリスがいるんだ。絶対に死ぬなよ。じゃないと、俺がメービスにこっぴどく叱られる」
「あ……は、はい!」
返事の響きに火の粉が跳ね、残っていた戦意の火花が明るく散る。
「殿下こそ、ご無理はなさらないでください。陛下を――メービス様を悲しませるようなことだけは……」
マリアは金の前髪を耳へ送り、その指を胸に置く。静かな芯が、声の底で光った。
「……わかっているつもりだ」
ヴォルフはマントの端を握り、鼓動の堅さを指先で確かめる。
「あいつがいない間、俺は俺にできることをやる。――何より、あいつを守るって誓いだけは絶対だ。ここまで来れば、もうなりふり構っていられない。何だってやってやるさ」
低く燃える熾火のような声で続ける。
「メービスも、それをわかってた。だから、王宮を発つ前に――きちんと布石を打っている」
「布石、でありますか?」
マリアの問いが氷面を擦る爪のように細く震える。
「そうだ。この六日間は逃亡じゃない。ある意味、攻めでもある」
「ええっ!?」
レオンが驚くと、油灯が陰影を濃く震わせ、三人の瞳に炎の明滅が映る。
「ロゼリーヌ殿とリュシアン殿を保護し、六日稼げれば――その布石はきっと大きな意味を持つだろう」
問いを押し殺しきれず、レオンがさらに半歩詰め寄る。
「殿下、それは……いったいどういう……? 我々が攻める、と?」
ヴォルフは灯火の奥へ視線を投げ、独白のように呟いた。
「――王都の深奥には、まだ動く羽根が残ってる。老いた鷹だが、一度飛べば、宰相の眼をひと突きで潰せる鋭さだ」
淡い声が油煙に紛れ、石壁を這う。レオンは意味を測りかねて瞬きを繰り返す。
マリアだけが、その比喩の裏に“侍従長コルデオ”の名をそっと反芻し、胸元の銀の片翼の団章に指先を添えた。
ヴォルフは唇の翳りをすぐに拭い去り、微笑で煙に巻く。
「だから――詳細はまだ秘密だ。宰相と取り巻きを動けなくさせる、ちょっとした“おまじない”さ。」
その時、伯爵が卓上の砂時計を持ち上げ、無言でくるりと転じる。
細い硝子管を落ちる砂粒が、静寂を擦る雨音のように降り始め、評議室の空気をさらに張り詰めさせた。
「残り六刻。およそ十二時間で市民動員を終え、夜半には第一陣を出立させる」
伯爵の声が砂の囁きと重なり、誰の鼓動より正確に時を刻む。
「鐘は予定通り三刻ごと。殿部隊の生存を知らせよ。鐘が七度続けば――」
ヴォルフが瞳を細め、一歩前へ。
「――その時は我らが沈黙した証あかしだ」
冗談どころではない言葉。吐く息さえ慎まれ、油灯の揺らぎだけが壁を踊る。
やがて伯爵が掌で火屋を覆い、灯が一つ、また一つと消えた。
黒い天井から降る煤が闇へ溶け、最後の扉が軋むと、外の冷気が亡霊のように忍び込む。
――チリ。
砂時計の最後の粒が底を打つ乾いた音が、闇をまっすぐ刺す。ヴォルフの肩がわずかに動き、彼は振り返らずに歩き出した。白い吐息は床石でほどけ、靴音は雪解け水の走りに似て地下を離れていく。
その瞬間からボコタは“無血の廃墟”になる。六日間の命を賭す行軍が、静かに、しかし確かに動き出した。石の階を上がる影の列が北門へ向かい、凍てた夜気を押し分ける。油灯に残るわずかな温が、背後でゆっくり沈んでいった。
生かすための撤退。奪い返すための始動――その両方を抱いて、街は息を固くひとつにした。
【リアクション】
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------------------------- エピソード458開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
雪中の口づけ、砕かれた時間
【本文】
夜明けの薄明かりが、ようやくボコタの街を覆う鉛の雲をほそく貫いていく。凍った空気の膜が頬に貼りつき、白い息だけが弱くほどけた。その光は希望の色ではない。街に漂う絶望と焦燥を、ただ冷ややかに照らし出し、胸の奥の温度は上がらなかった。
しんしんと降り続く雪は、一夜で輪郭を塗り替える。破壊された建物の断面、路上に打ち捨てられた家財――硬い形を、雪は無理に覆い隠そうとする。鼻腔の奥に、湿った煤と冷えた鉄の匂いが残った。それでも、空気そのものが帯びる死の緊張は消えない。肌の薄いところから粟立ちが上がり、指先の感覚が遠のく。
南門近く、倉庫街の角。昨夜、ダビドたちが密かに出撃した地点だ。雪混じりの泥が踏み固められ、まだ乾かない血の色が石畳に細い影を作っている。
そこへ、雪と泥にまみれた一団が、転がり込むように帰還した。銀翼騎士団、ダビド率いる遅滞工作部隊の残り。足音は乱れ、吐いた白はすぐ砕け散る。夜明けの静寂を破る、最初の凶報になった。
顔は夜通しの戦闘で煤け、撤退の泥で固まっている。作戦が完遂できなかった無念、背後まで迫る圧力――それらが面のように張り付いた。外套は裂け、鎧の隙間から血と泥が滲む。減った人影が、潜り抜けた熾烈さを黙って語った。革の匂いに、乾いた雪の香が薄く混じる。
「っ……すまんが、アントン殿を頼む!」
巨躯のディクソンが荒い息を吐き、背中の老猟師をそっと降ろす。壊れ物に触れる手つきだった。
「こ、これは酷い怪我だ……!急げ、灰鴉亭へ!担架をしっかり持て!」
「アントンさん!しっかりしてください!」
担架の脚がかすかに軋み、雪に取られながら灰鴉亭の方角へと急ぐ。酒と薬草の匂いが冷気に薄く流れ、背が冷えた。
ディクソンは小さく見える背を苦い表情で見送る。歯の根で無力を噛み砕くように。
「くそっ!あの“霧”どもめ……!アントンさん……どうか無事でいてくれ……!」
吐いた声は、音のない雪に吸い込まれた。
「ダビド……!」
鬼気迫る顔でブルーノが駆け寄る。蒼白の肌に吐息が貼りつき、いつもの不敵さは、恐れと焦りの揺れに隠れていた。
「斥候からの報告だ!敵の先遣隊がもう森林地帯の端にまで来てる!どうなってやがる……!俺たちが死に物狂いで稼いだ時間は、一体どこへ消えちまったんだ!?どうするよ、ダビド!」
ダビドは短く頷く。濡れた睫毛に霜がつき、胸の内側で呼気が刺さった。
「ブルーノ、落ち着け!嘆いている暇はない!直ちに公会堂へ向かう!ヴォルフ殿下と伯爵に状況を報告し、指示を仰ぐ!」
強張った背の筋が、言葉といっしょにわずかにほどける。肩で雪粒が弾けた。
「ディクソン、ガイルズ、俺に続け!動けるな!?」
「ああ!」
「問題なし!」
鉄具が触れる澄んだ音が一度跳ねた。
「他の者はブルーノに従いここで待機。負傷者の手当てと南門の警戒にあたれ!敵はすぐそこまで来ていると心得ろ!いいか、一瞬たりとも気を抜くな!」
「了解だ!」
「承知した」
「御意!」
三人は鉛の身体に残りの気力を絞り、公会堂へ駆ける。石畳は薄氷で滑り、降り足す雪が歩幅を重くした。命を削って稼いだはずの時間が、もう存在しない――その残酷を今、伝えなければならない。
◇◇◇
公会堂の大広間。ヴォルフと伯爵は、市民代表たちとプランB――市民避難計画――の最終確認を進めていた。地図の紙片が擦れ、窓の隙間から冷気が長い指のように這い込む。
「……北の峠道は凍結が酷い。橇の隊列は迂回させるべきか?」
「いや、時間が無い。踏み固めて進むしかあるまい……」
扉が荒く開く音。雪と泥、そして生々しい血の匂いをまとって、ダビドたちが転がり込む。
「ヴォルフ殿下!伯爵!」
視線が一斉に吸い寄せられ、喧騒は凍りついた。
「ダビド!無事だったか!よく戻ってきてくれた……!」
駆け寄ったヴォルフの安堵は、一瞬で固く引き締まる。ダビドの顔が、その必要を物語っていた。
「なんとか戻ってまいりました、殿下。……しかしながら、状況は最悪です。申し上げます……」
荒い息の奥で冷静を取り戻し、喉の乾きを押し込む。
「昨夜の森林地帯における遅滞戦闘は、一定の成果を上げました。第一次奇襲で敵魔導兵団に打撃を与え、進軍を一時的に鈍らせることに成功。その後、狭小路の崖を爆破。雪崩と地滑りで街道を完全に寸断しました」
「おお!」
「やったぞ!」
かすかな安堵が端で弾ける。だがその波は、小さく留まった。
「ですが……残念ながら敵は我々の想定を遥かに超えていました。宰相は……あの男は、正気ではない!残存魔導兵力を限界まで酷使し続け、封鎖された街道を迂回する新たな道を、森を切り開いて強引に構築しているのです!よって、進軍速度はほとんど落ちておりません!我々が破壊した橋も、雪崩も、奴らにとっては、ほんの数刻程度の足止めにしかならなかったのです!」
「なんだと……!?」
床板が足元でわずかに鳴る。
「当初の予定である二日は無理としても、その半分は稼げると踏んでいたのだが……」
伯爵の指先が羊皮紙の端を強く掴み、色が引いた。
「まさに執念、いや、あれは怨念そのものに感じられました。力尽き倒れる者を無視し、後続がその屍を踏み越えていくような、そんな恐ろしい光景でした。兵士である以上、命令には絶対服従とはいえ、あまりにも酷い……」
唇を噛む音が小さく響く。後悔と怒りが、同じ場所で疼いた。
「最後の抵抗拠点、次の崖での雪崩工作も……“影の手”によって、実行前に阻止されました。奴らは霧のように現れ、工兵一名を殺害、アントン殿も深手を負い……火薬も全て喪失しました。我々の手の内は、全て読まれていたのかもしれません……!」
「なんということだ……そこまで深く潜入してきたのか……!?」
「もはや、我々に残された遅滞手段はありません。敵本隊の先鋒は、おそらく半日……いえ、もはや数刻後にはこのボコタ手前の平原地帯に到達するでしょう。我々が稼げると目論んでいた時間は、完全に、完全に崩壊しました。
……申し訳、ありません!我々の力が及ばず……!」
水を打ったように広間が沈む。天窓の氷硝子を白い風が爪で叩いた。
「ダビド!しっかりしろ!」
膝が折れかけた肩を、ヴォルフが支える。握った拳はわずかに震え、指先が白い。彼は肺の底で息を止め、ゆっくりと瞼を上げた。迷いの色はもうない。
「……もはや一刻の猶予もない。プランB発動する!
準備が整っていようがいまいが構わん!今すぐ、この瞬間より、市民の北方への避難を開始せよ!!全員だ!例外はない!聞こえたな!!」
雷のような声に、ためらいは粉砕される。恐怖は形を変え、押し寄せた。
「なっ……今すぐですと!?乱心ですぞ!」
「し、しかし殿下、まだ荷物の準備が!食料の分配も終わっておりません!」
「そうだ!家族とはぐれてしまった者も少なくない!どうか、あと半刻だけでも!」
「無理だ!この混乱の中で、どうやって約二千の市民を動かせというのです!」
怒号と嘆きが絡み合い、空気が渦を巻く。ヴォルフはただ一点、全体の生存だけを見ていた。個々の悲鳴は胸に刻みつつ、視線は揺れない。
「感傷に浸っている時間はない!行くしかないんだ!ここに残れば確実に死ぬだけだ!それがわからんのか!
安否確認など後回しだ!食料が足りぬなら、互いに分け合え!コルベオンまで辿り着けばなんとかなる!市民代表、各ギルド長!何としても市民をまとめ、北門へ誘導しろ!抵抗する者は力ずくでも連れて行け!これは命令だ!躊躇うな!そして、動け!!」
一拍、全員の呼気が揃い、歯車が回り始める。
「伯爵!」
「すまないが、直ちに第二列の編成と出発を指揮に取り掛かってくれ!貴殿の裁量にすべてを託す!無理を承知で頼む!」
「……かしこまりました、殿下。速やかに体制を整えます。必ずや、ボコタの民を導いてみせましょう」
壇を降りる足取りが早まる。マントの裾が床を掠め、砂粒の音が細く残った。
残されたヴォルフの視線は、俯くダビドに落ちる。自責の影が背に重い。
「自分を責めるな、ダビド。お前たちは最大限よくやってくれた。森での抵抗がなければ、敵はもうこの城壁に取り付いていたかもしれん。むしろ責められるべきは指揮官である俺だ」
「殿下……しかし、我々がもっとうまく立ち回れていれば……」
「“たられば”を言っても始まらん。俺は、宰相という人間の本質……目的のためなら手段を選ばぬ冷酷さを見落としていた。……まったく、情けない。もし、メービスなら……いや、今それを言っても詮無いことだ」
「……宰相は、あれは、もはや人とは思えません。奴は兵の命も、国の未来も、自らの野心のためなら容易く切り捨てる。……絶対に許せない……!」
「怒りはもっともだ。俺なんか、今すぐにでも敵の本陣に斬り込みたいくらいだ。だが、今はその時じゃない。わかるな?」
「はい……。今は、一人でも多くの市民を逃がすことが、我々の使命です」
「そうだ。……すまないが、お前たちに休息の時間はない。すぐに敵の予測位置と今後の作戦について説明する。こっちへ来てくれ」
広げられた地図へ移る。紙の匂いと冷気が混じり、指先に現実の硬さが戻った。ここから、三層一体の北走行列が動き出す。
◇◇◇
命令は怒号とともに街へ流れ、北門へ向かう通りはすぐ飽和した。降りしきる雪の中、着の身着のままの人波が押し寄せ、肩がぶつかり、荷車の輪が軋む。幼子の泣き声は風にちぎれ、泥と雪の境目はすぐ濁る。
「子供が──!」
「車輪が折れた!」
「食料はどこだ!」
叫びは単語に削れ、やがて息だけになる。
その渦の中心に、赤い肩章が立った。第二列“市民縦列”の指揮を託されたレズンブール伯爵。貴族の体面を脱ぎ捨て、人波へ身を投じる。外套は泥に汚れ、金髪は濡れて額に貼りついた。
「落ち着いてください!皆さん、落ち着くのです!争っている場合ではない!今、最も恐ろしいのは敵ではなく、我々自身の混乱ですぞ!食料と物資の配分は後回し!今はまず、積めるだけの荷物を!順番に!荷物は最低限に!まずは命です!命さえあれば、必ず再起できる!どうか、この私を信じてください!」
嗄れた声が雪を震わせる。掴み合う手を引き剥がし、怯える子どもを抱き上げ、列の形がわずかに整った。
「中隊長に任命された者たちは、各地区の住民をまとめなさい!列を乱さぬように!弱き者を助け、声を掛け合うのです!互いに助け合わねば、この難局は乗り越えられんぞ!ハンス!ミーナ!聞いているか!」
「は、はい、伯爵様!」
「わかっております!こちらへ!」
呼ばれた名が返事を重ね、混乱の輪郭が少し後退する。人々は少ない荷を腕に抱え、息を合わせて北へ向かい始めた。
最優先の第一列“救護車隊”は、灰鴉亭の前で動き続ける。毛布の粗い繊維が手袋にざらりと引っかかり、薬草の青と酒精の尖りが、冷気の中で薄く漂った。
マリアとクリスが、意識のないメービスを幾重にも毛布で包み、寝台付きの二頭立て馬車へ慎重に移す。揺れを抑える工夫は施されているが、凍てた道がその努力を容赦なく試すだろう。
女王の顔は蒼白で、呼吸は浅い。唇はひび割れ、毛布越しにも高い熱が触覚の奥に伝わる。丸一日、十分な水分も栄養も取れていない――祈りが重くなった。
――陛下……わたしたちが、必ずお守りしますから……!だから、どうか……はやく目を覚ましてください……!
クリスは冷たい手を両手で包み、額をそっと寄せる。マリアは髪を払い、呼吸を確かめた。乾いた薬草の束が肩に触れ、小さく鳴る。
「第一列、出立準備!隊列を組め!荷馬車の周囲を寸分の隙もなく固めろ!どんな敵が現れようと、この馬車から離れるな!陛下に指一本触れさせるな!分かっているな!」
「はっ!」
護衛たちが輪を作り、顔に誇りと悲壮の両方を浮かべる。
「レオン殿、準備が整いました!」
「よし!出立する!道を開けろ!女王陛下の御通りだ!前へ!」
号令とともに、寝台馬車は雪と泥を噛む車輪を軋ませて動き出す。幌の内側で静かな呼吸に耳を澄ませながら、凍てつく北の荒野へ最初の一歩を刻んだ。冷えが肺を刺し、それでも進む――この列が、街の心臓になっていく。
◇◇◇
女王の寝台馬車が北門の吹雪へ溶け、灯の残り火が遠のいていく。
アリアは胸の奥で細い糸を結び直すように息を整え、灰鴉亭前の救護車隊の準備を急いだ。毛布の粗い繊維が手袋越しにもざらつき、薬草の青い香りが冷気に淡くほどける。
「そちら、その毛布をもっと持ってきて。負傷者を馬車の中に丁寧に収めるの。落ち着いて、急いで――」
吐く息が白く割れ、雪混じりの湿気が足裏に張り付く。籠の金具が触れ合い、鋭い硬音が風に攫われなかった。
「薬草は種類別よ。使いやすく並べて、誰でもすぐ手が伸びるようにしておいて!」
木箱の蓋が鳴り、酒精と包帯の匂いが混じる。掌は冷えても、指先は無意識に動いた。
「消毒用の酒と水は貴重品だから。絶対に無駄にしないで。どんなに急いでも、管理を疎かにしちゃ駄目よ」
幌布が風で鳴り、氷粒が肩口へ跳ねる。準備の気配の中、胸だけが確かに沈んだ。
雪を踏む鉄靴の接地音が近づく。人波の切れ間から、煤けた顔をした男がまっすぐ見つめていた。呼吸がひとつ、ふたつ、上ずる。アリアは顔を上げた。
「アリア!」
その声が胸骨に乾いた響きを残す。毛布が一瞬指から滑り、慌てて拾い直した。
「ダビド……」
名を呼んだ途端、安堵と不安の二つの熱が喉でせめぎ合う。彼の肩には乾ききらぬ泥が残り、革の匂いが近い。
「……女王陛下は、お具合は――?」
問いは掠れ、雪の匂いに溶ける。アリアは短く息を整え、うなずいた。
「今、出立されたわ。意識はまだ戻っていないけれど、マリアとクリスがそばについているから、安心して」
言いながら、胸の奥の強張りが増す。彼の頬には煤が残り、視線の底は熱を秘めている。
「そ、そうか……そうだな……」
声の行き場が見つからない。アリアは視線の先にあった南門を一度見やり、戻した。
「ダビド……あんた、殿(しんがり)を務めるって……聞いたわ」
冷たい空気が肺を刺し、吐息だけが白く細く伸びる。
「ああ、それが、俺に与えられた――いや、俺が選んだ任務だ……」
雪明かりが煤の残る頬を淡く照らし、視線の底に燃えるものがあった。
「無茶よ……そんなの、死にに行くようなものじゃない……!」
言葉の末が震え、毛布がきゅっと縮む。
「ああ、運が悪ければな……」
安易な慰めが嘘になることを、ふたりとも知っている。
「俺たちは、時間を――稼ぐだけだ。市民が逃げおおせるまでの、な……」
白い息に声が混じる。アリアは縋るように目を上げた。
「でも、私……怖いのよ。あなたが、いなくなってしまうのが……」
喉の奥に金属の味。か細い声が、胸に大きく響く。
「安心しろって。殿を率いるのは、あの最強の騎士、ヴォルフ殿下なんだぞ。それに、俺たち銀翼騎士団の鉄則第一は――『女王陛下を泣かせるな』だ。死ぬわけにはいかない、ってことさ」
冗談めいた調子に、覚悟の影が濃くなる。アリアは目を伏せ、肩を少し寄せた。
「……いかにも、陛下らしいわね……」
灯りに照らされた笑みが頬をかすめる。彼は小さく息を吐いた。
「だから約束する。必ず、生きて追いつく。あんたには、まだ話したいことが山ほどあるんだ。それと、どうしても“伝えたい大切なこと”も……な」
言葉は、ふたりの間に静かな震えを残した。指先が冷たい革へ吸い寄せられる。
「ダビド……」
名を呼ぶだけで喉が詰まる。彼は首を横に振り、視線をまっすぐ戻した。
「だが、今は言わない。お互い無事に再会した時にしよう。だから……待っていてくれ、アリア」
雪が頬に落ち、冷たさが返事の代わりになる。胸の奥で鼓動が一度、強く跳ねた。
「……ええ、待ってるわ」
震えはもうない。吐息だけが白くほどける。
「だから、必ず。……必ず、五体満足で帰ってくること。指の一本だって失くしたら、許さないから」
視線で逃げ道を塞ぐ。彼の眼差しに、わずかな笑みが灯った。
「……もし、帰って来なかったら――」
胸の底から小さな熱が湧く。言い終える前に、指先が革鎧にそっと触れた。
「……一生恨んでやるから。地獄の底まで追いかけて、文句言ってやるわ。ダビドの馬鹿って、何度だって言ってやる。それだけは、絶対に忘れないでちょうだい……」
呪いにも似た祈りが吹雪に漂う。遠くの荷車の軋みだけが現実を引き戻した。
ダビドは一瞬だけ目を細め、受け取るように口角を上げる。次の瞬間、アリアは爪先で近づき、冬の空気を切り裂くように彼の唇に触れた。短く、しかし焼き付く熱が走る。
世界は白と、ふたりの鼓動だけになった。
唇が離れ、混じる吐息が冷気に溶ける。周囲の喧噪が潮のように戻った。視線だけで、言葉にできない重さを確かめ合う。
ダビドは瞼を一度閉じ、踵を返す。振り向かない背へ、視線が焼印のように残った。雪が肩に白い粒を落とし、歩幅には迷いがない。
アリアは立ち尽くし、その背が人波と吹雪に飲まれていくのを追う。頬の筋が冷え、涙は薄い氷となって肌に貼り付いた。
「……お願い、本当に無事で帰ってきて。私だって、あなたに伝えたいことがあるんだから……」
囁きは雪に溶け、消える。すぐ背後から響く声が、現実を引き戻した。
「アリアさん!負傷者の収容、終わりました!」
「こっちの馬車も準備できました!早くしないと!」
アリアは手の甲で涙を拭い、視線にまた光を宿す。幌の端を握り直し、声を飛ばした。
「わかったわ、すぐ行く!」
北へ向かう行列の靴音が近づき、雪明かりの中で救護車隊が動き出す。胸の奥で小さく灯った熱だけを灯に、アリアは前を見た。
北走行列、始動――。
王家の未来を載せた寝台馬車――
二千の民を抱く荷車と橇の大河――
そして、わずか七十七の殿――。
三層の歯車は、ひとつでも欠ければ崩れる。
“雷光”ヴォルフの檄を合図に、ボコタを出た“北走行列”は氷雪を蹴立て、六日後の細い光へ向けて静かに、だが確かに動き出した。
雪がひらりと舞い、風向きがわずかに変わる。遠くで鐘がひと打――殿からの合図か、それとも。
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------------------------- エピソード459開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
名もなき祈りの刃
【本文】
夜明けの薄明かりが、ようやくボコタの街を覆う鉛色の雲を貫き始めた。
だが、その光は希望の色ではない。街全体に漂う絶望と焦燥を、冷ややかに照らし出すかのようだ。
しんしんと降り続く雪は、一夜で街の輪郭を塗り替えた。破壊された建物の残骸――路上に打ち捨てられた家財。それらを雪は、まるで氷粉の帳を下ろすように、静かに覆い隠す。
だが、空気そのものが纏う、死と隣り合わせの緊迫感までは、到底隠しきれていなかった。皮膚を粟立たせるような、絶対零度の息吹が、この谷間の隘路(あいろ)を支配していた。
ボコタ北門から数リーグ離れた、深い針葉樹林が両側から迫るこの場所。夜明けの冷気が一層深まる中、ヴォルフ率いる殿軍――もはや僅か七十七名となった決死隊は、音もなく、しかし迅速に布陣を完了していた。
吐息が白磁の欠片となって砕け、魂の粉を撒き散らすように宙へ消えた。彼らが背にするボコタの街からは、もうもうと立ち上る避難民たちの生活の煙――それが最後の温もりとなるかもしれぬ煙――と、時折風に乗って聞こえる喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように感じられた。生と死の境界線が、この雪深い森の中に引かれている。
あえて市街戦を避け、この隘路を決戦の場と定めたのは、ヴォルフとダビド、そして伯爵が下した苦渋の、しかし唯一の選択だった。
ボコタの街を戦火に晒せば、たとえ時間を稼げても、市民が帰るべき場所は失われる。それは「民の暮らしを守りたい」と願う女王の意思にも反する。
ゆえに敵主力を森へ誘い込み、大軍の利点を殺ぎつつ確実に足止めする――それこそが殿軍に課された使命を果たす、唯一かつ最善の手だった。
ここは、彼らが選んだ決戦場だ。
今この瞬間も北を目指して歩みを進めているであろう、二千の民と、ただ一人の女王の時間を稼ぐため。
道の中央には、急ごしらえながらも頑丈なバリケードが築かれている。倒木と瓦礫、氷鎖で結わえた土嚢。宰相の大軍を前にすれば、祈りより薄い防壁だった。
だが、本当の戦場はこの森そのものだ。ダビドの指示の下、銀翼騎士団と元宰相兵、そして市民義勇兵たちは、雪に覆われた木々の陰、岩場の窪み、わずかな地形の起伏を利用して巧みに身を隠していた。
張り詰めた空気の中に、湿った土と針葉樹の匂いに混じって、兵たちの革鎧に染みた汗と雪解けの金属臭、そしてどこかで準備されたのか、わずかに焼き松脂の樹脂臭が漂う。夜明けの清浄な冷気とは異質な、戦場の匂いだった。
弓の達人であるガイルズは、自ら選抜した弩兵たちと共に、雪に覆われた斜面の高所に潜んでいる。風向きを読み、ボルトの落下を計算するように、彼の氷刃のごとき視線が音もなく前方の隘路を走査していた。その動きには一切の無駄がない。
バリケード手前の地面に仕掛けられた簡易な罠の発動役を担うブルーノは、腰の双剣の柄に指をかけつつ、罠索を指で弾き、低く澄む弦音を聴診するように、相棒のシモンと小声で最終確認を交わしている。
シモンはベルトのショートソードの留め具を確かめ、角笛の唇当てを軽く噛んで歯を鳴らす癖を見せながら、合図役も兼ねており、緊張を隠せないブルーノの肩を無言で叩いた。
そして、バリケードのすぐ後方、最も頑強な岩陰には、予備兵力を率いるディクソンが巨体を潜ませていた。彼は愛用する巨大な戦斧(バトルアックス)の石突を雪に突き立て、その長大な柄に体重を預けるように、ただ黙って目を閉じている。
瞑想しているのか、あるいは来るべき激闘に備えて精神を集中させているのか、その表情は硬く、近寄りがたいほどの気迫を放っていた。
ダビド自ら選定した地点には落とし穴や獣避けの逆茂木も巧妙に偽装されている。敵の大軍をこの狭い森に誘い込み、その数の利点を殺ぎ、混乱させ、出血を強いる――それが、彼らに残された唯一の、そして最後の戦術だった。
◇◇◇
「配置は完了したか?」
鞍上で前方の森を見据えていたヴォルフが、傍らに控えるダビドに低い声で問う。
彼の横顔は、夜明け前の薄明かりの中で、まるで雪原の氷で作られた彫像のように硬質だ。その灰色の瞳は、森の奥の闇を射抜くように冷徹で、しかしその奥底には、深い苦悩と、そして燃えるような決意の色が揺らめいていた。
「はっ、殿下。左右の斜面にクロスボウ部隊“ガイルズ班”と投擲班“市民義勇兵主体”を配置済みです。敵の先鋒がバリケードに到達した瞬間、側面から一斉に矢と石礫を浴びせかけます。シモンとブルーノが合図を送ります」
ダビドは淀みなく答える。その瞳には、徹夜の疲労の色は濃いが、それ以上に、覚悟の光が宿っていた。
「よし。……他の者たちの配置は?」
「ディクソンには、バリケード後方の予備兵力を。市民義勇兵の一部には、罠の発動と伝令役を。……皆、覚悟はできています。殿下と共に、最後まで戦うと」
ダビドは僅かに視線を下げ、ヴォルフの腰に佩かれた聖剣に目を留めた。蒼銀の鞘に収められていても、それは尋常ならざる存在感を放っている。
「ヴォルフ殿下、こんな時になんですが、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「殿下のその騎士の聖剣ですが……斬れぬものはこの世にないとお聞きしました」
「ああ、そうだ」
ヴォルフはこともなげに頷く。
「実際、私も魔族大戦の折に何度か拝見いたしましたが、どんな硬い外殻の魔獣もまるで抵抗なく紙のように切り裂かれていたのを思い出します」
ダビドの声には、畏敬の念が滲んでいた。
「そんなところだな……だから振る時はいつもひやひやしていたもんさ。自分の腕や脚がなくなっちまうんじゃないかってな」
ヴォルフは肩をすくめるような仕草を見せるが、その瞳は笑っていない。
「……以前から疑問に思っていたのですが……」
ダビドは少し言い淀みながら続けた。
「単純過ぎる話ですが、それだけの斬れ味の剣が、どうして鞘に収められるのか……ということです」
「ああ、言われてみればそうだ。考えたこともなかった」
ヴォルフは自身の聖剣を僅かに抜き、白い刀身の一部を覗かせ、すぐに鞘に戻した。
「ですよね……。鞘も特殊な材質なのでしょうが、それだけでは説明がつかないような」
「まあ、俺の推測だがな」
ヴォルフは再び前方の森に視線を戻した。
「おそらくはこいつは、俺が敵を斬るという意志で抜く時のみ、その“真の力”を発揮するのかもしれん。それ以外の時は、ただの頑丈なだけの鈍らかもしれん」
「それは……剣が意思を感じ取るということでしょうか?」
ダビドは息を呑んだ。
「まさかな」
ヴォルフはフッと鼻で笑う。
「だが、こいつは古代の、俺たちの理解を超えた技術で作られたとメービスは言っていた。つまりは――強いかもしらんが、“とにかくわけがわからん”、ということだ」
「なるほど……それが救世の騎士の剣……」
ダビドは何か考え込むように呟いた。
ヴォルフは馬上でゆっくりと周囲を見渡した。
雪に半ば埋もれ、息を殺して待ち構える兵たちの姿。ガイルズは身じろぎせず前方を見据え、ディクソンは音もなく闘気を練り上げている。若い騎士は唇を真一文字に結び、古参の元兵士は遠い目をして空を見上げている。
恐怖がないわけではないだろう。誰もが死を恐れている。だが、彼らの目には、守るべきもののために命を懸ける者の、揺るぎない決意があった。銀翼の騎士も、元宰相兵も、武器を握った市民も、今は皆、市民と女王メービスの盾となるべく、ここにいる。
――ミツル……。
ヴォルフの脳裏に、あの黒髪の少女の姿が、鮮明に、そして痛いほど切実に浮かび上がる。彼女の、苦悩に満ちた優しい瞳。時折見せる脆さ。そして、どんな困難の前でも決して諦めない、強い意志の光。
◇◇◇
――思えば、奇妙な始まりだったな。
この時代に落ち、見知らぬ若者の肉体(ヴォルフ)に宿った時の混乱。そして、隣には同じように見慣れぬ美しい女性(メービス)の姿があった。
それがミツルだと気づいた時の衝撃。状況もわからぬまま「女王陛下」「王配殿下」と祭り上げられ、祝祭の喧騒の中、まるで操り人形のように聖剣を手に取らされた。
――……あの時、俺は一体何を思った? 何を考えていた……?
ただ、生き延びるために。そして、隣にいる少女――いや、外見は年上の、あの時初めて間近で見た、彼の知る十二歳のミツルとは似ても似つかぬ、驚くほど大人びた肢体を持つ女性――その魂は確かにあのミツルだった――彼女を守らなければならない、という漠然とした衝動だけがあったように思う。
――そして、夫婦、か……。
ヴォルフの口元に、自嘲とも諦念ともつかぬ、微かな笑みが浮かんだ。
与えられた、王宮の広すぎる夫婦の寝室でのこと。
ヴォルフは、鏡の前で身じろぎもせず立ち尽くすミツルを少し離れた位置から見守っていた。
柔らかな魔導ランプの光が室内を満たし、彼女の髪に琥珀色の艶を与えている。長い黒髪は滝のように背中を流れ落ち、緩やかな波打ちの一筋一筋までもが、絹糸を撚ったかのように滑らかだ。
思わず息を飲む――それほど彼女は変わってしまっていた。
白磁を思わせる透きとおる肌に、淡く上気した頬の紅が溶け込み、若草色の瞳は長い睫毛の影を揺らしながら、鏡の奥でかすかに震えている。
かつて少年のように平らだった胸元は控えめな膨らみを帯び、細い腰のくびれへとなめらかに続く。滑らかな曲線は剣では到底描き得ない優美さを秘めており、自覚なく伸ばした四肢は驚くほどしなやかで長い。
その時、何か冷たいものが背骨を伝い落ちた。――羨望とも、後ろめたさともつかない感情だ。
十二歳の少女を守ろうとしたとき、自分は確かに“父代わり”のつもりだった。それが今、この姿を目の当たりにして胸をざわつかせている。この感覚は父性と呼ぶには少しばかり生々しすぎる。
ミツルは鏡の中の自分をそっと見つめ、唇をわずかに開いた。
「これがほんとうにわたしなの……?」
頬を覆う指先までが、透きとおるように細く華奢で、あどけなさと大人びた気配が同居している。その仕草のあまりの愛らしさに、俺はうっかり「綺麗だ」と漏らしそうになり、あわてて奥歯を噛み締めた。
やがてミツルがこちらを振り向き、ほのかな期待と不安を滲ませて尋ねてくる。
「ねぇ、ヴィル。今のわたしを見てどう思う?」
真正面から若草色の瞳を射抜かれ、心臓が跳ねた。返事を遅らせれば気取っていると思われる。だが正直に答えれば、禁じられた扉を自ら開けるようなものだ。
「いや……まあ、言うまでもない」
唇が勝手に動き、声がわずかに上ずる。自覚して、頬が熱を帯びるのがわかった。
「ちゃんと言って?」
逃げ場を与えない追撃。まったく、この子は昔からこうだ――そう思いながらも、視線を逸らすことができず、観念して言葉を絞り出す。
「きれいに決まっているだろうが。いまさら面倒くさいことを言わせるな」
自分でも情けない返答だと思ったが、これが限界だった。
ミツルの頬がぱっと朱に染まり、はにかむように笑った。
その笑顔を見た瞬間、俺は悟った――守りたいと思った幼子は、もはや自分の想像の外側へ歩み始めているのだと。
それは四十過ぎの男が抱くにはあまりにも不釣り合いで、罪深い感情だった。だが、それは断じて“欲”ではなかったはずだ。
彼女の肌がどれほど滑らかで、唇がどれほど艷やかで、寝息がどれほど近くにあっても、俺の感情は決してそこに“肉欲の線を越えて”向かうことはなかった。
むしろ、触れたくて堪らないのに、触れてしまったらこの奇跡のような繋がりが、脆い硝子のように砕け散ってしまう気がした。
それは、欲ではなく、恐れと祈りの混ざった、もっと深い、名前のない感情だった。
同じ寝台で眠ることを乞われた夜。十代後半の娘と同じ床で夜を明かすことへの、言いようのない抵抗感と罪悪感。
そして、眠る彼女が時折魘され、「父さま……母さま……わたしを、置いていかないで……」と涙を流していた夜。その小さな背中を、ただ黙って見守ることしかできなかった無力感。
だが、彼女の怯えた様子と、隣で眠る安らかな寝息に、いつしかその抵抗感は、守らなければならないという強い庇護欲へと変わっていった。
――……いつだってそうだ。あいつは、俺の前でだけ、妙に子供っぽい顔を見せる。
執務に疲れて、むくれたように頬を膨らませる顔。あれはきっと、俺しか知らないんじゃないか? 人前では決して見せない、あのふくれっ面。
かと思えば、何かを強請(ねだ)る時に、小首を傾げて潤んだ瞳でこちらを見上げてくる。あの愛くるしい顔でそんな仕草をされたら、一体どうやって逆らえるというんだ。まったく、可愛すぎて困る、と何度思ったことか。
そして、涙だ。彼女が静かに涙を浮かべている時。あるいは、感情の堰が切れて嗚咽を漏らす時。そんな時、俺はどうしたらいいのか分からなくなる。ただ強く抱きしめてやりたい衝動に駆られ、実際に、思わずその華奢な肩を抱き寄せてしまったことが何度あったか。
後でいつも、行き過ぎた行動だったと後悔するくせに……。
執務室で夜更けまで書類の山に一人立ち向かう彼女の姿に、かつての親友ユベルの頑固な背中を重ねて、「やっぱり親子だな」と苦笑したこともあった。
夜食代わりに茶と菓子を差し入れ、凝りすぎた肩を揉んでやったこともある。昔、疲れ果てているユベルにしてやったのと同じように、だ。
だが、彼女の細いうなじに触れた瞬間、不意に感じた甘い香りと熱に、どきりとして慌てて手を離したことも、一度や二度ではない。
庭園の隅で、二人で人目を忍んで剣を振るった朝もあった。王宮では決して見せない、真剣な眼差しと、刃の軌跡は鬼火のように冴えていた。あの時だけは、女王と騎士ではなく、ただの剣士同士として向き合えた気がした。
二人きりの馬車の中での、他愛のない会話もそうだ。宰相や貴族たちと渡り合う時の、まるで老獪な策士のような顔とは違う、年頃の娘らしい、屈託のない笑顔。それが、どれほど自分の心を和ませてくれたことか。
そして、その笑顔の裏に時折見せる、深い憂いを帯びた表情。それに気づくたび、胸の奥が締め付けられるような痛みを感じた。
その生き様そのものに、魂が共鳴するような感覚。その傷に、どうしようもなく手を差し伸べたくなる衝動。それは、単に「若く美しい存在」として惹かれるのとは、全く違う次元のものだった。
――あの笑顔を、もう一度見ることができるのだろうか……
気づけば、彼女の存在が、この不可解な世界で自分を繋ぎとめる唯一の楔(くさび)となっていた。
――お前が望んだのは、こんな戦いではなかっただろうな……。
彼女は、誰よりも平和を願い、誰よりも命の尊さを知っていた。
「誰も死なせたくない」――他人からすればただの理想論にすぎないかもしれないが、それは彼女の魂からの叫びであり、祈りだった。
だというのに、自分は今、多くの犠牲を前提とした、血塗られた戦場に身を置いている。彼女の願いとは、あまりにもかけ離れた場所に。
もし彼女がここにいて、意識さえはっきりしていたならば。あの強大な精霊魔術と、誰にも真似のできない発想があれば、こんな犠牲を強いる前に、もっと別の道を……あるいは奇跡のような解決策を見つけ出したのかもしれない。
だが、今はもう、この道しかない。彼女を守り、未来へ繋ぐための、唯一の道。
――……だが、これでいい。いや、これがいいのだ。
ヴォルフは自らに言い聞かせる。
――お前は優しすぎる。
もし彼女が目覚めた時、自分はもうこの世にはいないかもしれない。その可能性は、限りなく高い。そうなれば、彼女はきっとひどく悲しむだろう。子供のように声を上げて、泣きじゃくるだろう。
そして、自分に失望し、怒るかもしれない。
「ずっと一緒だって言ったじゃない」「絶対に離さないって約束したくせに」「ふたつでひとつのツバサだって言ったのは、あなたじゃないの」――そう言って、自分を激しく詰るだろう。
――……ああ、そうだ。俺はお前との約束を違える。
ヴォルフは胸の内で、彼女への謝罪を繰り返す。
――俺は、お前のそばにいるという約束よりも、お前を守るという、俺自身に立てた誓いの方を選んだ。なんて不器用で、身勝手な男なんだ……俺は。
だが、自分に立てたこの誓いだけは、決して曲げることはできない。ミツルを死なせるわけにはいかないのだ。何があっても。
彼女は、自分の唯一無二の親友であるユベルが遺した、大切な一人娘なのだから。
もし彼女を死なせるようなことになったら、あの世で奴に顔向けできない。とても立ち会えたものじゃない。
「……すまない、ユベル」
彼は誰にも聞こえない声で、遠い友の名を呟いた。
「お前の娘は、俺が必ず守る。この命に代えても」
だから俺は戦う。たとえ鬼になろうとも。
たとえ、彼女が望まぬやり方であったとしても。
たとえ、その結果、彼女に憎まれることになったとしても。
彼は胸の中で静かに誓い、聖剣の柄を握る手に力を込めた。
ごつりとした硬質な感触。それは、彼に託された重い責任と、そして唯一の希望の象徴。鞘の中で、蒼銀の剣が彼の決意に応えるかのように、微かに、しかし確かに共鳴するような気がした。
――……ミツル。
再び彼女の面影が心をよぎる。
積み重ねてきた、ささやかな、しかし忘れ得ぬ日々。あの笑顔。あの涙。あの強さ。あの脆さ。あのふくれっ面。あの必死な眼差し。そのすべてが、今の自分を形作っている。
――俺は気の利いたことも言えないし、してやれない。お前が本当に望んでいることを、俺は理解できていないのかもしれない。
貴族的な作法も、甘い言葉も、俺は知らない。お前が時折見せる寂しさに、どう寄り添えばいいのかも分からなかった。
――だが、これだけは確かだ。俺にとってお前は、何よりも……大切なんだ。
その感情に、名前をつけることはできなかった。
それは、単なる欲望では断じてない。ましてや「恋」や「性愛」といった、ありふれた言葉で括れるものでもない。かといって、「父性」というには、あまりにも個人的で切実すぎる。
ユベルへの忠義と弔い、無垢な少女を見守ってきた保護者の視線、ともに戦場をくぐり抜けた同志への敬意、そして、未来を信じて託したいという祈り――それらが溶け合って生まれた、あまりにも純粋で、そして複雑な感情。
名前を与えた瞬間、その尊さが壊れてしまいそうな気がする。だから俺は語らない。ただ、こうして傍にいること、そして盾となることでしか、この想いを体現できないのだ。
――……それでいい。この気持ちは、俺一人の胸の中に仕舞っておけばいいことだ。
ヴォルフは、己の中に渦巻く複雑な感情に蓋をするように、深く息を吸った。
――だが、お前だけには生きてほしい。何があっても生き延びて、そして……できることなら幸せになってほしい。
それが、今の彼の、偽らざる唯一の願いだった。
それはただ“守りたい”という意志だけではない。“守らせてくれ”という懇願でもない。ただ、ひたすらに、“お前が、そこに生きていてくれ”という、名前のない祈りそのものなのだ。
その名もなき祈りが、ヴォルフという男の生涯の軸であり、彼が今、この絶望的な戦場に立つ理由になっている。
◇◇◇
森は深い静寂に包まれていた。雪が枝から落ちる音、風が木々を揺らす音だけが、時折聞こえる。
兵士たちの吐く息は白く凍り、緊張感を孕んで宙に消える。誰もが一言も発せず、ただひたすらに、南――敵が来るであろう方向を見据えていた。まるで、世界から他の音が消えたかのように。
どれほどの時間が経っただろうか。永遠にも、一瞬にも感じられる時間が流れた後。
不意に、先頭で伏せていた斥候役の兵士が、身じろぎもせず、低く声を上げた。
「……来た」
その一言で、森全体の空気が一変する。張り詰めていた糸が、限界まで引き絞られた。
ヴォルフもダビドも、鞍上で身構える。兵士たちが武器を握りしめる音が、雪の上で微かに、しかしはっきりと響く。
森の奥、木々の隙間から、黒い影が揺らめき始めたのが見えた。
一つ、二つ、そして、瞬く間に数を増していく。
以前のような、大地を揺るがす魔術の轟音や、雪を沸騰させるような異常な現象はない。ただ、雪を踏み割るような無数の重い足音。鎧の擦れる硬質な金属音。荒い呼吸の音……。それらが混ざり合い、不気味なほど静かに、しかし確実に、死の気配を纏って近づいてくる。
――魔導兵が尽きたか……あるいは魔石を温存しているのか? いずれにせよ、静かな方がやりやすい。
ヴォルフは冷静に分析する。この静寂こそが、彼らのゲリラ戦術には有利に働く。
宰相軍の先鋒。黒い鉄の塊のような密集隊形。その先頭が、ついに隘路の入り口、ダビドたちが仕掛けた罠の領域に差し掛かった。
ヴォルフは深く息を吸い込み、そして――聖剣を引き抜いた。
キィン!
高く澄んだ金属音が、雪に吸い込まれるように響く。
森全体が息を呑むような静寂。
白銀の刀身が鞘から滑り出る。それは驚くほど純粋な白。まるで光そのものを鍛えたかのように、一切の曇りも模様も持たない。
抜かれた刀身は、夜明け前の弱々しい光さえも過剰に反射し、周囲の雪に複雑な光紋を描き出す。その輝きは神々しいというより、むしろ妖しい。まるで伝説に聞く、使い手を選ぶという妖刀のようだ。
近くにいた兵士たちが、その尋常ならざる輝きに思わず息を呑むのが分かった。
開戦の時は、来た。
◇◇◇
同時刻、北へ向かう第一列<救護車隊>・女王の寝台馬車の中
か細い魔導ランタンの灯りが、毛布に包まれたメービスの蒼白い顔を頼りなく照らしている。氷点下の空気の中でも、彼女の額にはうっすらと汗が滲んでいた。
傍らでその冷たい手を固く握りしめ、無事を祈り続けていたクリスは、その時、確かに感じた。
女王の、力なく投げ出された指先が、ほんの僅かに。まるで遠い何かの呼びかけに応えるかのように――ピクリと、動いたのを。
幻か、あるいはただの荷馬車の振動か。クリスは息を詰めて見守る。だが、再び動く気配はない。
それでもクリスは、その一瞬の、微かな生命の兆しに、凍てつきそうだった心の中で、小さな、しかし確かな希望の火が灯るのを感じていた。
「陛下……」
彼女はそっと、女王の指を握る手に力を込めた。
【後書き】
己の弱さを盾に甘えて来る子なら“放してしまえば楽”で済む。――けれどミツルは逆です。
壊れそうなほど繊細なのに、人に頼る瞬間を必死に抑え込む。その矛盾が、ヴィルにとっては引力になる。
ヴィルがミツルに惹かれる理由
脆さと才覚の落差
ミツルは王宮で老獪な貴族を翻弄できるほど聡明で胆力もある。一方で、鏡の前で震える瞳や、夜に魘されて泣く姿を彼だけに晒す。この極端なギャップが「守りたい」「放っておけない」という感情を呼び起こす。
父性的庇護心の崩れと再構築
かつて十二歳の少女として保護対象だったミツルが、思いがけず成熟した姿で現れた瞬間、父性はヒビ割れ、淡い性的ざわめきと罪悪感が同時に走る。触れれば壊れる硝子のような距離感が生まれ、欲望というより“恐れと祈り”が混ざった新しい感情へ変質する。
ユベルへの贖罪・弔い
ミツルは親友ユベルの娘。彼女を守ることが、ユベルへの借りを返す唯一の道になっている。恋情では説明しきれない執着に、倫理的な正当性が与えられている。
理想主義という触媒
「誰も死なせたくない」というミツルの極端な優しさは、現実主義の戦士であるあヴィルとしばしば衝突する。それでも彼女の理想は、血を選ばざるをえない彼を内面から揺さぶり、自己矛盾を抱えたまま成長させる触媒になる。面倒くさいほど純粋だからこそ、ヴォルフにとって替えの利かない存在になる。
同志/戦友としての信頼
庭で剣を交えた朝、一騎当千の胆力を見せたミツルは、王と騎士という立場を超え“背中を預けられる同士”に映る。その体験が、単なる「守る側―守られる側」の構図を崩し、対等に尊敬しあう関係を生む。
まとめ
ミツルは「弱い少女」でも「完璧な女王」でもなく、
・傷を抱えながらも才覚で前に進む強さ
・その裏に隠せない幼さや恐れ
・ヴィル個人の贖罪と誓いを引き受ける血縁的な意味
・理想と現実を衝突させる起爆剤
これらが層になって作用している。
だからヴィルにとって彼女は「面倒だが放せない荷物」ではなく、
生きる理由そのものを形にしたような存在――“世界と自分をつなぐ楔”になっている。
ヴィルは知らないが、ミツル(表層)は十二歳、しかし内部には二十一歳の〈美鶴〉が同居し、しかも幼いミツル自身の記憶や感情も残っている。この“二重の自我”が、彼から見える多面性――天才的な判断力と子供らしい揺らぎ――を生んでいるわけですね。
ヴィルが感じる「得体の知れなさ」はここに起因する
王宮の政争でみせる緻密な戦略思考──これは美鶴(21)の社会的・論理的能力。
鏡の前で震える瞳、頬を膨らませる拗ね顔──これは十二歳ミツルの純粋な情緒。
「誰も死なせたくない」という極端な平和主義──両者の理想が重なり、年齢を超えて純化された価値観。
ときおり零れる現代日本の語感や小さな所作──美鶴のカルチャー的クセが無意識に表に出る。
は①②③を同じ“人”から受け取るため、「魅力」と「危うさ」が不可分となり、単に“扱いづらい子”では済まなくなる。
彼にとってミツルは
知性と幼さ、
達観と無垢、
現実を捉える目と現実から目を背ける祈り
が瞬時に入れ替わる存在――だからこそ目を離せない。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード460開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
凍雲を裂く雷光
【本文】
夜明け前の静寂。凍雲の下、森は新雪に沈む。昨夜の傷痕さえ、いまは白に埋もれた。吐く息は白磁の破片。絶対零度で砕け、無音に溶ける。粉雪だけが枝から音もなく落ち、死の気配が肌を刺した。
隘路(あいろ)の両側、雪と影に七十七名の決死隊が潜む。獣のように息を殺し、動作は最小。昨夜のうちに痕跡は消した。踏み荒らした枝を戻し、匂いも風下へ落としてある。
遠いボコタからは何も届かない。ただ風が運ぶ微かな鉄、燻る松脂の焦げ。死闘の予感だけが冷ややかに漂う。斥候の若い騎士が、息に混ぜるように囁いた。
「……来た」
張り詰めた糸が限界まで軋み、森はさらに深く息を潜める。武器を握り直す擦過が連鎖し、全神経が南――敵の方角へ収束した。
ずっ、ずっ、ずっ――。
重靴が新雪を押し潰す律動。統率はある。だが昨夜の痛みが慎重さへ変わったのが歩幅に滲む。
先頭は軽装兵、〈前触れ警戒隊〉。宰相軍の斥候が三十、さらに後方には裏斥候の影が数名。丸盾(バックラー)と短弓で森の影に溶け、ゆっくり隘路へ踏み入る。目は執拗だ。雪面の窪み、圧痕、枝の索、切り株の断面――探り棒で雪を刺し、訓練された猟犬の静けさで進む。
やがて斥候の合図が走り、わずかな間を置いて本隊が現れた。“鋼の黒壁”――重装歩兵部隊。巨大な塔盾(タワーシールド)が面を成し、その背から磨かれた長槍(パイク)が無数に突き出す。移動する鉄の要塞。一糸乱れぬ歩みが規律を示す。前列左右の槍旗(そうき)が風に揺れ、狙撃手の視界を断つ。狙える隙間は僅か、兜の覗き窓――旗が邪魔をする。……だが、外さない。
モミの陰の高所でガイルズが弩(クロスボウ)を構え、氷のような瞳で斥候から本隊へと視線を滑らせる。
「ちぃ、厄介な……ここまで慎重とは。昨夜の奇襲が効きすぎたか」
距離、風、歩調、旗の揺らぎ――計算し尽くした針の穴の一瞬。
ひゅっ、ひゅっ――。乾いた短い弦音が二度、三度。鋼のボルトは雪に吸い込まれ、盾と盾、兜と兜の僅かな狭間へ黒い死線のように滑り込む。
「ぐっ……!」
「――!?」
短い呻き。二名の重装歩兵が膝をついた。衝撃は大きい。だが後続は即座に盾を構え直し、前進を止めない。膝が一瞬震えたのを、ガイルズは見逃さなかった。
「落ち着け! 損害軽微! 後続、前へ! 盾の壁を維持しろ! 敵の狙撃手は限定的と判断!」
冷徹な号令が列の奥から飛ぶ。押し出されるように壁は再構成される――この程度の損害、想定内。
――まだだ、まだ甘い! これで敵の注意が一度、上に向いたはず!
バリケードの岩陰で、ダビドは奥歯を噛みしめた。喉は乾き、鉄の味が舌に滲む。
「――今だ! ブルーノ、シモン、落とせッ!」
嗄れた号令が雪を震わせる。
ブルーノとシモンが罠索を引いた。凍える手に息を吹きかけ、力を搾り出す。革手袋越しに掌が焼け、裂けた皮膚から血がじわりと滲む。
次の瞬間、隘路の中央が陥没。凍てた地面が爆ぜ、轟音とともに崩れ落ちる。昨夜掘って偽装した巨大な落とし穴が口を開けた。
「うわぁっ!」
「足元が! 罠だ!」
「馬ごと……呑まれるぞ!」
絶叫と、軍馬の死のいななき。鎧の衝突音、鈍い打撃、骨の砕ける湿った響き――雪と土砂に埋もれた苦悶が、森へ鈍く反響した。
「怯むな! 穴を迂回しろ! 左右に展開! 盾を合わせ、前へ!」
敵指揮官の声は揺れない。やや離れた位置から飛ぶ指示は的確だ。
損耗は一割にも満たない。“鋼の黒壁”は即座に隊列を再編し、穴を避けて左右からバリケードへ迫る。工兵が雪を掻き、埋め戻しにかかる。
「逆茂木にかかれ! 足止めしろ!」
ダビドの叫びに、隘路の側面――雪の下に潜ませた尖木の束が牙を剥いた。踏み込んだ重装の足元を絡め取り、膝を鈍く折る。
「ぐっ、なんだ――枝か!」
足止めには成功。だが隘路は狭い。敵も力で押す。
「盾で薙ぎ払え! 構うな、進め! 弓兵、弩砲班、上方の木立へ火矢! 敵の隠れ処を焼き払え!」
塔盾が逆茂木を叩き折り、踏み潰す。後方第三中隊はすでに反撃態勢だ。小型の弩砲(バリスタ)が次々立ち上がる――およそ六十基。
初弾は〈焼夷弩矢〉。燃焼油壺を抱いた太矢が低い唸りで放たれ、白煙の尾を引きながら放物線で木立へ降る。幹や枝に突き刺さった壺が砕け、飛沫に火が走る。針葉樹はたやすく燃え上がり、橙の炎と黒い煤煙が斜面を重く流れた。
「くそっ! 火の雨だ! 退避! 風下は煙でやられるぞ!」
ガイルズが悪態を呑み、燃える枝を蹴って位置を替える。
「ガイルズ! 位置を変えろ! 無理はするな! 市民兵、煙に巻かれるな、濡れ布で口元を覆え!」
ヴォルフの指示が飛ぶ。ガイルズはさらに高所へ跳び移り、雪煙と火花を纏って弩を構えた――が、次の矢を番えた瞬間、
「ちくしょう! この肝心な時に……!」
愛用の弩の弦がパチンと乾いた音を立てて切れた。焦りに指がもつれ、予備弦を探る。
弩砲の斉射は止まらない。左右の斜面で木々は次々炎に包まれ、隠れ場所が剥ぎ取られていく。熱と煙が喉を焼き、視界は泥のように濁った。
――いける、と思った瞬間これか! “鋼の黒壁”の圧力が来るぞ!
ダビドは奥歯をさらに噛む。正規軍相手に、即席の戦術で稼げるのは時間だけ――その冷たさが肺に刺さる。
バリケードではディクソンが巨躯を揺らし、黒壁と真っ向から噛み合っていた。
「――フンッ!!」
戦斧が唸り、塔盾ごと肉を断つ。だが大振りの隙を、二列目三列目の穂先が百足の脚のように突く。
「ぐ……ッ!」
身を捻って数本を弾く。最後の一本が左脇の鎧の隙間を浅く抉った。革の下に熱が滲む。吐きかけた呻きを呑み、革帯を強く締め直す。内側で臓がずれる感覚を押しとどめ、獣の咆哮で戦斧を振り回す。槍ごと兵を薙ぎ倒すたび、血の湯気が凍気に生々しく立った。
「――あの巨人を狙え! 弩砲、三番、五番、照準修正! あの岩陰ごと吹き飛ばせ!」
指揮が飛び、数基のバリスタがディクソンへ向く。裂帛とともに太矢が放たれ、背後の巨岩に突き刺さる。岩が爆ぜ、破片と雪煙が白く舞った。直撃は避けたが、体勢を崩して片膝。視界は数秒、真白に塗り潰される。
「ディクソン! 無事か!?」
「くそ、前が見えん! 敵はどこだ!?」
混線する声。――この一瞬の隙が、致命になる。
その時だ。喧騒の中心に、異様な静けさが落ちた。
隘路の奥、街道の中央に一騎。馬上で微動だにせず佇む。雪原の標のように孤独で、純白のローブのフードを深く被る。顔は影に沈み、手綱は力なく垂れ、背は湖面のように静かだ。指揮官(おんたいしょう)にしては、あまりに無防備。
「……殿下?」
岩陰のダビドが声を潜める。なぜ最も晒される位置に、一人で立つ――罠を活かすなら後方にいるはずだ。それでも、彼はそこにいる。胸の内側で焦燥が膨らむ。
――殿下は、一体何を考えておられる?
“影の手”の気配はない。だが、このままでは危うすぎる。
「殿下、ご指示を!」
呼びかけようとした刹那、雪の降る音が消えた気がした。
ザッ、と踏む音ではない。衣擦れに似た、鋭い気配。ヴォルフのすぐ傍の茂みから――いや、“音”ではない。死の匂い。
茂みと、太枝の上から、闇が剥がれるように二つの黒影が躍り出る。音もなく、気配もなく、ただ純粋な殺意だけを纏って、馬上の白一点へ左右から滑り込む。抜き放たれた黒刃が鈍光を吸い込み、ギラリと凶悪に光る。
「――殿下ッ!!」
ダビドの絶叫より、ガイルズの矢より、ディクソンの斧より速く、影は死角から必殺の間合いへ――
だというのに、ヴォルフは微動だにしない。気づかぬふりか、受け入れる覚悟か。フードの下は見えず、ただ背だけが静かで、諦念の色に見えた。
――このままでは、殿下が! 避けろ! なぜ、なぜ動かない!?
恐怖で思考が白んだ次の刹那、世界から音が抜け落ちた。色も光も空気の流れも、一瞬だけ凍りつく。鋭い耳鳴りだけが残る。
絶対静寂の中心で、ただ一つ、右手だけが動いた。人の目が追えぬ速さで。腰の聖剣の柄に指がかかる。白銀の刀身が鞘から滑り出る――過程は認識できない。鞘走りの白い残光だけが視界を走る。
結果だけが、そこにあった。
キィィィィンッ!!
魂を震わす清冽な金属音が凍てつく森に響き、耳鳴りを拭う。同時に純白の閃光。空間そのものを切り裂くような一閃が、夜明け前の光を過剰に反射し、雪原と森と天を一瞬白く染め上げる。神々しく、あるいは悪魔的に。
抵抗の概念が存在しないかのように、白銀の軌跡は二つの胴を水平に、音もなく通り過ぎた。斬られた影は目を見開いたまま動きを止め、理解が追いつかない困惑の色で凍る。痛みも衝撃も無い、無感覚の空白。
刹那の静寂。二つの身体は重力に従ってぐらりと傾ぐ。黒装束の胴に細く深紅の線が走り、堰を切ったように鮮血が噴く。赤い飛沫が純白を染め、血糊は蒸気のように立ちのぼる。中心のヴォルフの姿に、影は一つも差していない。
噴き出す血とともに身体は崩れ、時間差でずれて雪へ転がった。ヴォルフは馬上でなお静止し、抜き放った聖剣をただ構える――血振りもせずに。純白の刀身からは一滴も落ちない。剣は純粋な白だけを返し、雪も血も冷ややかに照らす。
フードの陰で長い白息が尾を引く。ダビドは見た。柄頭を握る指先が、一瞬だけ微かに硬直したのを。代償か、あるいは――咎の温度か。あまりに人の域を外れた、残酷なまでに美しい一瞬。敵も味方も動けず、盾を持つ手や膝が震えた。
森は再び、死が満ちるような絶対の静寂に沈む。降る雪のはらはらという微音と、ヴォルフの静かな呼吸だけがある。ダビドは息を呑み、白銀の背を凝視する。フードの下は見えず、全身から放たれる気配は、もはや人のものではない。
ヴォルフが刃を構え直し、動揺でざわめく宰相軍を見据える。フードの奥から、冷ややかな灰の双眸。
「……思った通りだ。御大将が後方で目立つように突っ立ってりゃ、そう来るよなぁ?」
独り言のようなその呟きで、ダビドは理解した。――自らを囮に、最も危険な手練れを炙り出して排除する。危険で、冷徹な計算だ。
後方から新たな号令が上擦った。
「槍上段! 列閉じろ! 盾角度三十度で前へ! 怯むなッ! 弩砲隊、第二射用意! あの白いのを狙えぇッ!」
刺客は倒れた。だが“鋼の黒壁”は崩れない。副官が必死に隊列を繋ぎ止め、弩砲の矢声が連なる。正規軍の規律が、かろうじて士気を支えていた。
柄頭から、剣そのものの脈動が伝わる。餓狼が骨髄を求めるみたいに。ヴォルフは眉をわずかにひそめ、刃を低く落とす。雪煙で熱を冷ますように。雪煙の向こう五十間、副官の声と同時に二基の腕木が解かれ、巨矢が風を唸らせ雪面を擦り上げて迫る。
刹那、白銀は水平に薙がれ、氷面の亀裂みたいに空を割った。割れたのは弩矢。鏃と柄が雪白に散り、残骸は頭上を風の哭(な)く音だけ残して過ぎる。
「馬鹿な……!」
うめく盾兵の耳へ、続射。長弓二十張――矢羽は細雨のように密だ。ヴォルフは馬首を一歩退かせ、膝で鞍を締める。柄頭を走る微かな電(いなずま)。餓狼の拍動。身体は揺れず、剣だけが――舞った。
金石を連打する硬質の澄音。月琴の早弾きを十倍濃縮した刹那――光と余韻だけが残り、音はその背を追いきれない。
矢は折れ、削がれ、空中で屠られ、舞って消えた。最後の一本が刃先に触れた瞬間、切断面から氷霧がふっと噴き、気流の熱を奪う。聖剣は硝子めいた澄音を尾に残し、静止する。
静寂。黒壁が凍りつく。見えない手で喉を掴まれたように、誰ひとり矛先を前に出せない。ヴォルフは肩口の折れ矢を払って淡く息を吐く。白息は剣気に触れ、霜の鱗片となって舞い、消えた。
「射撃無効……だと──」
副官の震え声が胸甲に鳴る。鈍い余韻が三度、底でうなった。ヴォルフは追わない。ただ雪を一歩踏む。蹄が砕いた霜粒だけが、氷葬(ひょうそう)の静けさに乾いた音を置く。
列の前縁が、ざり、と後退した。見えぬ圧が胸骨を押し下げる。――だが、まだ一局面にすぎない。割れた鼓の調べ、副鼓手が手を固め、太鼓を三度叩く。
「槍、上段! 盾閉じろ! 弩砲、標的――中央の騎士ぃッ!」
黒壁は崩れない。訓練と号令が兵を繫ぎ、列は半歩下がって楔盾(くさびだて)を据え直す。恐怖を理性で押し込める剥き出しの意地が、雪の上で食いしばる。
螺旋弦(らせんげん)が二条、裂けるように哭く。徹甲矢が雪雲を裂き、一はヴォルフの胸、一はバリケード中央を貫くはず――そして、空が折れた。白銀の残像が一拍遅れで視界を塗り替える。
矢軸は輪切りにされ、羽根が霜粉となって散り、後から届く金属音の残響だけが事実を告げた。切断面の氷霧が鈍い朝に薄く浮かび、やがて落ちる。雪面に残るのは石突きと分断された木軸だけ。鏃は、塵。
副官の喉が乾いて鳴った。命令は覚えている。だが膝も盾も震える。抗いがたい力の差。
ヴォルフは剣を肩に担いだまま首を傾げ、灰の双眸に嘲りも憐憫も浮かべない。ただ“次”だけを測る冷色。
「……雷は落ちる前に、空を鳴らすものだろう?」
一歩。蹄が雪を押し潰す。それだけで鉄壁がじり、と退いた。
敵はなお前進を試みる。塔盾を鉄鎖で結束し、落とし穴を強引に埋め、隊列を楔形に変形――突進の構え。
ダビドは喉が焼けるほど叫ぶ。
「右翼! 焼夷壺、前列中心へ! ガイルズ、指揮官を狙え!」
煙と火の中、ガイルズは震える指で弦を張り替え、火達磨になった仲間を見捨てた悔しさを噛み締め、狙いを絞る。弦音。ボルトは盾越しに耳下を抜け、弩砲の装填が一瞬止まる。
ブルーノとシモンが最後の罠索を引き切った。陥没穴の縁がさらに崩れ、黒壁の後端が滑り落ちる。鉄と革の鈍い衝突、鎧の擦過。隊列中央に空洞が穿たれ、盾と槍の連携がわずかに途切れた――その刹那を、ディクソンの巨斧が逃さない。重刃が盾三枚を裂き、槍兵二名を雪空へ放り上げる。脇腹の傷に破片が深く食い込み、呼吸のたびに紅が革を濃く染める。
列後方――弩砲班は散弾筒を装填し直す。鉛塊と鉄片を詰めた燕尾筒(えんびとう)。炸薬は少量でも、至近では猛威。
「列中央、散弾射角三十――発射ァッ!」
轟音。鉛と鉄片の雨が盾壁を半ば透過して雪面を穿ち、逆茂木の影で伏せていた市民兵を薙ぎ倒す。雪煙に混じって木片・血肉・鉄片が泥のように飛散した。
ヴォルフは馬を一歩退がらせ、聖剣を水平に構え直す。柄頭を走る雷光はかすかだが確かで、刃はいまだ命を求めて震えていた。森の奥では第二波の黒壁が雪煙を巻き上げる。後続はなお多い。
「ここまでだ。ダビド、撤退の準備をしろ」
フードの奥から落ち着いた低声。
「……まだです! 第二列の避難民が、峠に入り切っていません!」
「だから、俺がその時間を買うと言っている」
ヴォルフはローブの裂け目をつまんで血糊を払い、馬首を敵へ向け直す。
「駄目です、殿下! ここで命を棄てれば――女王陛下を裏切ることになります!」
「誰が死ぬと言った。ここで戦い続けても、徒(いたずら)に犠牲を増やすだけだ」
声にはかすかな苛立ち。
「言いたいことはわかっている。メービスを泣かせたら、俺は地獄の底でさえ“ユベル”に顔向けできん――」
聞き慣れない名に、ダビドが眉を寄せる。
「それにな――俺は“雷光”だ。攻めても退いても、稲光のごとく。問題は無い」
灰の双眸に宿るのは、諦めではなく絶対の自信。圧で言葉を奪われ、ダビドは静かに頷いた。
「ここで奴らの脚を折らねば、“市民縦列”に追いつかれる。いいか、ダビド――迎撃しながら下がれ。第二列防衛線の市民兵と合流し、最後列を死守しろ。……いいな?」
悔しさを嚙み殺し、ダビドは頷く。ヴォルフは馬を進め、バリケード手前でフードを払った。雪明りに銀髪が揺れ、夜明け前の薄紅を掬う。横顔は伝説めいて美しく、どこか儚い。空は鈍色からわずかに白み始めている。
「聞けぇッ!!」
腹の底からの咆哮が空気を圧し、鉄の隊列を震わせる。
「俺の名はヴォルフ・レッテンビヒラー! またの名を“雷光”――ヴィル・ブルフォード!! 王配にして、精霊の聖剣に選ばれし騎士だ!」
一拍、空気が凍り、盾裏の動揺が連鎖する。鉄靴が雪を擦った。
「あの顔、あの銀髪……まさか王配殿下か!」
「精霊の騎士……本物なのか!? なぜ、このような場所に……」
「我らは、女王陛下に弓引く逆賊と見做されるのか……!?」
嘆息混じりの声が散り、陣の継ぎ目が震える。
ヴォルフは聖剣を肩に担ぎ、低く冷ややかに、それでいてどこか愉しげに笑う。
「今の俺は、すこぶる機嫌が悪い。女王の眠りを妨げる者、無辜の民を脅かす者は、誰であろうと容赦せん。歯向かう気があるなら、その覚悟をもってかかってこい! 全員まとめて叩っ斬ってやる!」
切っ先が敵を指す。
「ついでに言っておく。この俺を倒したければ――この三倍、いや、五倍は連れてくるんだな! 千や二千の兵で、この“雷光”を止められると思うなッ!!」
柄頭から白雷が刹那に閃き、足元の雪を爆ぜさせて青白い波紋を広げる。最前列の兵が反射でのけぞり、必死で保った列がわずかに歪む。規律より先に、本能が震えた。
その揺らぎを、ヴォルフは逃さない。馬腹を強く蹴り、白銀の閃光を曳いて“鋼の黒壁”へ疾駆した。風を裂く蹄音は雷のように轟き、追いすがるように東の空が薄紅へと染まり出す。ささやかな色の変化が、ゆっくりと――黎明を告げはじめていた。
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------------------------- エピソード461開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
血染めの雷光
【本文】
刃が雷鳴を刻み、雪煙に二つの黒影が倒れる──まだ白い湯気を吐きながら。
沈黙。
森も炎も、血の匂いすら息を潜めた。中心に、ヴォルフ・レッテンビヒラーだけが残像のように馬上に立つ。白銀の聖剣は血を振るうことを拒み、無垢の光を保つ。深いフードの奥で、白い息が細く消えた。
ダビドは背で歯を軋ませ、“刹那の凪”を噛み砕く。生かすか、捨てるか──数心拍の決断。
「撤退! 第二線へ! 負傷者を担げ! ディクソンを援護!」
号令が氷気を裂き、騎士と市民兵が一斉に雪煙を上げる。鉄の匂いと松脂の焦げが、冬気に薄く漂った。
ディクソンは脇腹を押さえ、熱い息を吐く。
「……行くぞ。殿下の覚悟を無駄にするな」
「わかったよ……ちくしょう……」
重い返事。折れた武器を杖に、影は錆色の雪面を跨いで立ち上がる。負傷者を背負い、闇の森へと身を溶かしていった。
だが、静寂は長く続かない。宰相軍の盾壁が再び鉄の歯鳴りを立て、奥では螺旋弦を絞る音。次の嵐の胎動が、冷たい燐光のように膨らむ。
「槍上段! 列閉じろ! 盾角度三十度で前へ! 弩砲隊、第二射用意! 目標、中央の騎士! 一斉射!」
副指揮官の甲高い声が雪に跳ねる。「影の手」を三名失っても、“鋼の黒壁”は崩れなかった。訓練の規律が恐怖を押し戻し、盾が重なり、槍衾がヴォルフへ向けてじりじりと進む。
後方の射撃支援部隊では、小型バリスタ六十基が殺意ごと弦を絞る。照準はただ一点の白へ。螺旋弦が鳴り、太い徹甲矢が番えられた。
――来るか!
ヴォルフは馬上で身構える。
――ダビドたちはもういない。ならば、敵は俺一人に集中するだろう。
「放てぇッ!」
号令。数十本の徹甲矢が唸りを上げて殺到する。矢というより、小さな槍の質量。雪を裂き、空気を震わせ、死の弾幕となって迫った。
「――ッ!」
馬腹を蹴り、手綱が閃光のごとく引かれる。常人なら視線すら追えぬ速さで、“雷光”の名が形になる。馬は左右に舞い、刹那には蹄を突き立て急停止。白銀の聖剣が盾に変わり、掲げられた。
触れるたびに軌道が逸れ、残光だけが雪を裂く。甲高い金属音が何度も層を成し、聖剣に当たった矢は薄氷の杯のように脆く砕け散った。木片と鉄屑が無惨に降り、純白を黒い斑点で汚す。
これが“ヴィル・ブルフォード”。
四十余年の修羅場で磨いた先読み。異常な強度を誇る白き“銘無し”の聖剣。鍛え抜いた視覚と反射。すべてが重なり、幾手先の矛先まで読み切る。雪煙を切る白銀の余波だけが、鬼神の存在を線で刻んだ。
だが、長くは続かない。馬が怯え、耳元で炸裂する衝撃音に嘶き、前脚を上げる。恐怖が筋を震わせ、巨体が暴れた。
「……くそっ!」
首筋を叩き、なだめようとした刹那。狙いすました二本の弩矢が脚と腹を深々と貫く。
「――ヒヒィィィンッ!!」
断末魔。蹄が崩れ、血飛沫が雪を朱に染める。ヴォルフは鐙を外して着地した。大地の冷たさが脹脛に上がる。
機動を失い、完全な孤立。足元には愛馬の血がじんわり広がる。鉄臭い飛沫が鼻を刺し、吐息は白い。前には“鋼の黒壁”、後ろに弩砲。
聖剣を構え直し、間合いを測る。援護なし。狙撃も望めない。
――好都合だ。さあ、かかってこい!
雄叫びとともに“鋼の黒壁”が動く。巨大な塔盾の壁が地鳴りを立てて迫り、盾の間から無数の長槍が伸びる。鉄壁の槍衾。リーチの差は歴然。
それでも、ヴォルフは踏み込んだ。
迫る穂先を、白銀が迎え撃つ。切先で弾き、回転で薙ぎ、麦穂のように次々と断ち切っていく。
「なっ――構わん! 突きまくれ!」
焦りが混じる指揮官の声。壁は厚みを増し、圧力をかける。
ヴォルフは止まらない。白銀の軌跡が鋼の壁に触れた。絹を裂くような澄んだ音が一つ、空気を割る。巨大な塔盾は存在しないかのように抵抗を見せず、縦に裂けた。背後の兵も、痛みを知る前に崩れ落ちる。
鮮血が噴き、雪を、そしてヴォルフ自身を赤黒く染める。
「ひ、ひぃぃっ!」
後続が嗄れた悲鳴を漏らす。純白のローブは禍々しい紋様に染まり、銀髪が濡れて頬に張り付く。そこにいるのは騎士ではない。凍てつく戦場に降りた、血塗れの鬼神。
「だ、駄目だ! 近づくな! 距離を取れ!」
近接は命取り。指揮官が恐怖に叫ぶ。
「弩砲隊! 何をしている! 三十基ずつ交互射撃! 時間を稼げ! あの化け物を近づけるなッ!」
命令が走り、弩砲隊は再び火を噴く。六十基が時間差で徹甲矢を絶やさぬ飽和射。前進は阻まれ、白銀は次々と木片へ変わるものの、足はその場に縫い止められる。ヴォルフの視線が弾幕の向こうを忌々しげに射た。
その時だった。隘路後方の宰相軍本隊から、別種の地響き。大型の荷馬車が現れ、覆いが剝がされる。
禍々しい機械──「新型中型魔導兵装」。王立魔術大学の試作品。冷たい光の砲身、四基の巨大な魔石スロット。
土気色の魔導兵が四名。深い隈を落とした眼で持ち場に取り付き、震える声で詠唱を始める。魔石が紫電を脈打ち、空気が歪む。砲身の魔法陣は眩く、魔素が一点に収束していく。
起動から発射まで、まだ数拍。しかし砲口はただ一人へ。隘路すべてを焼き尽くすだろう威力。
――これか……! これが奴らの本命か!
背筋を一条の冷汗が走る。聖剣と雷撃で砲を断つのは容易い。だが、問題は「時間」。敵もそれを知る。
思考を読んだように、森の影がまた動いた。
先の三名とは別の「影の手」。おそらく第二陣、六名。ヴォルフを囲むが間合いには踏み込まない。距離を保ち、ナイフと小型クロスボウが絶え間なく飛ぶ。
風を切る音が四方八方から刺す。一撃は軽い。だが連携が完璧。時間差が常に注意を分散させ、神経を裂いた。
聖剣は神速に舞い、刃を弾き、ボルトを断ち落とす。身を捻り、跳躍してかわす。だが六人の輪は解けない。狙いは、釘付け──時間稼ぎだ。
――くそ、こいつら、俺を足止めする気か!
意図は明白。ヴォルフを縫い止め、魔導兵装の範囲にすべてを巻き込む。影の手自身さえ、駒にするつもり。
――宰相め、子飼いの影の手すらも、捨て駒扱いとは……。
吐き気のする合理性が喉に上がった。
「ちぃっ……」
歯噛み。このままでは、ミツルたちが逃げる時間を稼げない。自分も、後退した仲間も、砲の餌食になる。
聖剣が柄頭から微かに脈打つ。餓狼の渇望か、心との共鳴か。力に委ね、一挙に薙ぎ払う誘惑が、刃の奥で甘く鳴った。だが、代償は未知のまま。
一瞬の逡巡。
――こいつにも“マリン”みたいな意思があるっていうのか? いや、まさかな……。
握り直す。攻撃を捌きながら活路を探す。神速の彼でさえ、六対一の連携は苛烈。焦りが剣筋をわずかに鈍らせ、頬をナイフが浅く掠めた。紅がぽたり、純白に滲む。
◇◇◇
雪に閉ざされた森を、六頭立ての豪奢な大型馬車が進む。内は別世界のように毛皮と魔導暖炉で温かい。
宰相クレイグ・アレムウェルは外に目もくれず、肘掛けを規則的に叩く。瞼は閉じたまま。向かいのラドクリフ公は眉間に皺、隣の軍事参謀ヴァレリウス将軍は軍用地図と色分けされた駒を苦々しく見つめていた。
外から報が入り、ヴァレリウスが重く口を開く。地図上の駒を一つ、指で弾いて。
「宰相閣下……ご報告を。隘路の抵抗激しく、先鋒に甚大な被害。投入した『影の手』三名が……瞬殺された模様。ヴォルフ殿はやはり聖剣を所持、と」
「ふん」
クレイグは目を開けずに鼻を鳴らす。
「想定内である。聖剣は古代遺物にすぎない。“斬れる”以上の機能は持たぬ。本物のヴォルフであるなら好都合だ。手間が省ける」
「しかし閣下!」
ヴァレリウスが声を上げ、ラドクリフ公も身を乗り出す。
「これ以上の損害は! 現在稼働可能な魔導兵は四名のみ! 残存する魔石も、あの中型魔導兵装の一射分しか! しかもあれはまだ試作段階。実戦は初! 万一、暴走すれば……! 心臓部の『魔石安定炉(ませきあんていろ)』も完全ではないと!」
忠告にも、クレイグの表情は動かない。
「ヴァレリウス。感傷は無用だ。兵は駒だ。目的のための犠牲は許容する。『影の手』も魔導兵も同様。騎士と聖剣を消し去るためのな」
ラドクリフ公が言いかけるのを、宰相は無視した。
「貴公も情報部の結論は知っていよう? 騎士は巫女と共にあってこそ真の力を引き出す。ヴォルフは所詮、小娘の付録にすぎん。
そもそも、奴らは魔獣・魔族相手でしか力を使えぬはず。あれは所詮ただのよく斬れる剣を持つだけの、動きの良い騎士にすぎん。中型魔導兵装の広範囲攻撃を避けきれるものか」
「ですが、危険すぎます!」
「危険は承知の上だ。あれの開発に投じた国費を、ここで回収する。それに、ここでヴォルフを逃せばいずれ脅威となる。おぞましき巫女もどきと共に、な。ここで確実に息の根を止める。試射も兼ねられて丁度良いではないか」
宰相は盤上の駒を動かすように淡々と言い、どこか楽しげですらあった。
「……命令だ。ヴァレリウス、伝令を送れ。中型魔導兵装。起動が完了しだい発射。目標はヴォルフおよび隘路一帯。焼却せよ。我が“影の手”には、名誉の戦死の機会を与えてやろうではないか」
「…………はっ」
怒りに震える拳を握りしめながら、将軍は応ずるしかない。ラドクリフ公は諦めたように深く息を吐き、窓外へ目をやった。忠誠心と良心が胸でせめぎ合う。
外は雪がいよいよ激しさを増し、無慈悲な殲滅を悼む天の涙のように、白が降り続く。
◇◇◇
戦場。降り注ぐナイフとボルトを、ヴォルフは神業の剣捌きで払い続けていた。だが動きは徐々に精彩を欠き、額に汗が滲む。聖剣はなお白銀の輝きを保つが、彼自身の消耗は隠せない。
後方の中型魔導兵装では、組み込まれた巨大な魔石が赤紫に脈打つ。限界の色。砲身の魔法陣が眩しい。空気がビリビリと震え、魔素が一点へと収束していった。
――……このままでは……!
六人の「影の手」は輪を緩めない。完璧な連携に、突破口が見えない。
その時。背後──仲間が後退していった方向から声が飛ぶ。
「殿下! 今です!」
ダビドの声だ。それに呼応するように、影の輪が一瞬だけ乱れる。森の奥や高所から飛んだ数本の矢か投げナイフが、影の足元や側方の雪を穿ったのだろう。あるいは、狙われた気配に反射したのか。
一人が身を翻し、別の一人も一瞬、意識を逸らす。完璧だった包囲と時間差のリズムに、微かな亀裂。
ガイルズか、他の誰かが振り絞った、決死の陽動。
――……すまん。
心の内で短く呟き、ヴォルフはその隙を穿つ。乱れた一人の懐へ、一息で飛び込んだ。
白銀が一閃。黒い影がまた一つ、時間差で崩れ落ちる。
代償は大きい。別の影のボルトが右肩を浅く掠め、痛みが痺れに変わる。構わず、ヴォルフは前へ──中型魔導兵装へ駆けた。
砲口は眩い光を抱き、完成へ向かって脈打つ。起動完了まで、あと数秒。
「あの化け物を焼き尽くせぇッ!!」
遠く、敵指揮官の狂乱した叫びが、雪と血の匂いの中で裂けた。
【リアクション】
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------------------------- エピソード462開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
名を呼んでも、応えはなく
【本文】
視界を灼く紅蓮。肌を撫でるたび水泡が生まれそうな熱。銀色の髪が血と泥と雪に重く貼りつき、炎の風に煽られて肩口が裂けていた。純白だったローブは赤黒い文様に汚れ、焦げの匂いが鼻の奥に刺さる。
それでも彼は、白銀の“名もなき”聖剣を前へ。迫り来る絶望――盾を噛み合わせて押し寄せる「鋼の黒壁」へ、ただ刃を向け続けていた。地獄の只中で、それだけが穢れなき光だった。
――お願い……もう、やめて……!
降るのは死の雨。小型の弩砲が吐き出す徹甲矢が空気を裂き、矢羽の唸りが頬を掠めて凍った汗を細かく削る。
彼は雷光のように弾き、薙ぎ払う。斬撃が閃光の線になり、金属が低く唸って胸骨に沁みた。
あまりに気高く、あまりに痛々しい。絶望の平原に降り立った、傷だらけの孤高の英雄――そうとしか見えなかった。
けれど、呼吸は乱れていた。鍛えられた肩が苦しげに上下し、吐く息が白ではなく熱の霧になって揺れる。
全身の傷から途切れなく血が落ち、雪は朱から黒へと濁っていく。徹甲矢が刀身に火花を散らすたび、雪面が一拍遅れて赤を吸い、胸の奥がぎゅっと縮む。――この剣が、彼自身を削っている。そう直感してしまうほどに。
――行かないで……! 逃げて……! お願いだから……!
声に出したいのに、声帯は凍りついたみたいに動かない。舌の奥で熱い鉄が膨張して、喉が痛む。肩先ひとつ動かすことさえできず、瞳で縋るしかない。身を切られるような無力の底で。
森の闇から、六つの影が滑り出た。亡霊の舞踏のように呼吸を合わせ、彼の動きをじりじりと、だが確実に封じ込めていく。
風切り音。闇に閃く刃。ボルトの一つがかすめ、皮膚に痺れの尾を残す――毒かもしれない。彼の白い頬に赤い線が奔り、雪の上に花びらのような血の色が散る。鮮烈な赤が網膜から離れてくれない。
――だめっ……!
後方では、忌まわしい機械仕掛けが赤紫の不吉な呼吸を繰り返している。巨大な砲口が、ゆっくり、だが揺らがず彼へ向き直る。光が、魔素が、周囲の空気ごと一点に吸い寄せられていく。世界が軋む気配。口中に広がる鉄錆の味。
――……ヴィルッ!! ヴィル……!!!
魂が裂けるほどの叫び。つづいて、放たれた紅蓮の火球。白ごと灼き尽くす閃光、爆音、熱波。
彼の姿が、光に呑まれ、溶けて、消えて――。最後に焼き付いたのは、驚愕に見開かれた蒼い瞳だけ。
◇◇◇
「――はっ!!」
喉の底から引き絞る音とともに、深い闇の底から現(うつつ)へ引き戻された。冷たい汗が肌を刺す。ごとん、と身体が不規則に揺れて、干し草と土埃の乾いた匂いが鼻腔を満たした。
薄絹までびっしょりだ。布が肌に張りついて、ひやりとした不快と熱の蒸れが交互にくる。横隔膜が痙攣して、胸骨を内側から乱打する鼓動が止まらない。耳の奥で、脈の音が荒い。
空気を吸っても吸っても肺まで届かないようで、喉の内側が硝子片で擦られるみたいにひりつく。
――今のは……夢……? そう、夢。だって、あんなもの現実のはずがない……!
自分に言い聞かせる。震える唇を噛んで、思考を平らに揃えようとする。けれど、瞼の裏はあまりに鮮明で、容赦がなかった。
震えが止まらない。骨の髄に氷の針を挿し込まれたみたいに悪寒が走り、反対に、身体の芯からはじわじわ熱がせり上がる。熱がある――?
頭が割れそうだ。拍動に合わせてこめかみが痛み、視界の木目がゆらゆら歪む。霧の中を手探りで歩くように、思考はまとまらない。
――ここは……どこ……?
重い瞼をこじ開け、瞬きを繰り返す。やがて焦点が結ばれ、粗い板を無骨に組んだ天井が見えた。隙間を通る風がひゅう、と細く鳴り、布一枚向こうの凍てた外気が想像できる。まだ夜だろうか。
ごとり、ごとん。大きく揺れる。船のように不規則だけれど、途切れない振動。車輪が雪か凍った轍を軋ませる音。天蓋の幌を叩く風は氷粒を含んで硬く、容赦のない外の厳しさを伝えてくる。
干し草の埃っぽい匂い。獣の体温の残り香。土の気配。
――……馬車……?
この揺れ、この音、この匂い――間違いない。馬車の中。けれど、どうして? あの会議の最中、突然視界が暗くなってから――わたしは、その先を覚えていない。
身体が重い。鉛の板を全身に載せられたよう。息も詰まる。――毛布だ。獣臭の残る厚手の毛布が幾重にもかかっている。誰が? どうしてこんなに? わたしは、意識を奪われるほど弱っていたの?
毛布の外の空気は冬の川みたいに冷え、頬を撫でていく。内側は熱がこもり、蒸されるように暑い。逃げ場のない温度差に、思わず布端を喉元へ引き寄せた。今はまだ、この温もりに潜っていたい――現実から目を逸らしていたい。
震える指先が無意識に胸元を探り、冷たく堅い感触に触れた。
離さなかった。白き聖剣、マウザーグレイル。眠るときも幼子みたいに抱きしめていた。片時も手放せない、わたしの半身。この剣だけが、“あちら”へ繋がるかもしれない唯一の糸。
刀身に頬を寄せる。冷たさが現実を引き戻す。けれど……違う。形も重さも同じなのに、魂の温がない。ここには、あの声が宿っていない。
――茉凜……お願い、何か言って……。
心の底で呼びかける。無理だと分かっていても。二つの聖剣が共鳴し、わたしと彼――ヴィルの魂だけがこの過去へ飛んだ。茉凜は元の時代、あの剣の中に留まっているはず。
それでも、求めてしまう。どんな時も励ましてくれた太陽の声を。この冷たい剣の奥に、奇跡のように彼女の気配が残っていないかと。
――茉凜……。
静寂。返るのは金属の冷たさだけ。沈黙そのものが刃になって胸の底に溜まり、悪夢の恐怖と重なっていく。
わたしは一人だ――そう思った途端、息が詰まる。見知らぬ場所、見知らぬ身体、頼る相手のいない広い世界。孤独という文字が、骨に刻まれる。
それでも――ヴィルがいた。彼の魂もまた、時間を越えてここに来た。ヴォルフという騎士の姿を借りて、わたしのそばに。
だから、俯かずにいられた。手を取ってくれたから。いつだって傍にいてくれたから――。
胸の奥に、ほんのわずか空気が戻る。黒く塗られた小窓の外、夜の縁に鋭い鎌の銀が浮かぶ。
――三日月。夜は明けていない? それとも夜明け前のいちばん暗い時間? わたしはどれほど眠っていたのだろう。
寝台――硬いが、わずかにクッションが利いている。荷台の床ではない。誰が用意した? 何のために?
――まさか、彼が……?
自然と“彼”の名を探す。彼なら、人目を忍びつつ最大限の配慮で、この馬車を――。
毛布に微かに残る剣油と、彼の匂い。革と、汗ばみの気配と、安心の温度。指の腹に残る熱の幻。
記憶は途切れている。最後に覚えているのは、ボコタの会議で襲った眩暈。暗転する直前、彼の不安げな瞳が揺れた。
――あれから何が? ボコタは? 市民は? そして……彼は?
悪夢の光景が再び脳裏をよぎる。光の中に消えた彼。――あれは、ただの夢じゃない? マウザーグレイルが見せた「可能性」? 導き手が示す未来が、あんな絶望だなんて。
――いやだ……! そんなはずない!
首を振る。あれは悪夢。現実じゃない。
だって彼――ヴィルは父と並び称される最強の剣士。冷静で、無謀な剣は振るわない。命を粗末にするなんて、彼がいちばん嫌う。
何より、わたしを独りにしない。置いていくはずがない。
――だから、大丈夫。きっと大丈夫……。
言い聞かせても、冷たい予感は鎌首をもたげる。もし、あれが真実なら? わたしが見た「可能性」が、もう確定している未来なら?
肺がきしむ。呼吸が浅くなり、毛布を握る指が氷みたいに冷えた。
――誰か、いないの? ねぇ、答えて! 彼はどこ!?
「……ヴィル……」
掠れた声で、今度ははっきり本当の名前を呼ぶ。魂が求める光の名。――お願い、傍にいて。大丈夫だと言って。あれは悪夢だったのだと、あなたの声で。
代わりに、すぐ傍で息を呑む気配。がさり、と衣擦れ。
違う。彼じゃない――その認識が胸を冷やす。
力の入らない首を巡らせる。幌の隙間から流れ込む月光が、膝をついている人影を淡く浮かび上がらせた。
銀翼騎士団の制服。固く結ばれた唇、眉間の皺。琥珀の瞳が痛むように揺れ、亜麻色の髪が肩にかかる。
「クリス……?」
声が震えた。胸の奥で糸がつれる。
「陛下! お気づきになられましたか!」
切羽詰まった声に、安堵と、隠しきれない焦燥が混ざる。彼女はわたしを「陛下」と呼ぶ。――そうだ、今のわたしはミツルではない。メービス。リーディスの女王。この身体、この役柄。運命がわたしに渡したもの。
胸骨の裏を乱打する鼓動。息が浅い。
取り乱してはいけない。状況を把握しなくちゃ。動揺を悟られてはならない。女王として、毅然と。
――しっかりしなさい、メービス……!
自分を叱咤して、震える指で呼吸を整える。毛布越しに衣の前合わせを確かめる。乱れはない。よし。
「クリス……ここは……?」
できるだけ平静に。声が上ずらないよう、ひとつ深呼吸をはさむ。
「わたしは…どれくらい眠っていたの……?」
「……丸一日、眠っておられました。陛下」
硬い声。彼女も揺れている。その色で、尋常ならざる事態がわかる。毛布の端を整える指先が一瞬止まり、そっと布に沈む――小さな仕草に気遣いと動揺が見えた。
「一日……!?」
驚きが喉を跳ねたのを、なんとか呑み込む。
「では、ボコタは? 街の状況はどうなっているの? 市民たちは無事なの!?」
焦りを押え、明瞭に。けれど語尾に滲む震えはどうしても消せない。クリスの背に、固く身をすくめるマリア。握る毛布の端が白くなっている。
「みんな……教えて。何があったの……教えてちょうだい!」
懇願の色が混じってしまったかもしれない。もう、抑えきれなかった。
返ってきたのは沈黙。幌を打つ雪、車輪の軋み、風――それだけ。
ふたりは俯き、唇を固く結んだ。言いようのない苦悩と、見たくない諦めの色。沈黙こそが残酷に、わたしの恐れていたものを肯う。
胸が凍る。息が浅く、頭が白む。抱くマウザーグレイルの冷たさだけがやけに鮮やか。
「申し訳ありません、陛下。今は……それだけは……」
クリスの声は苦く震え、琥珀の瞳が痛そうに逸れていく。その動きが、すべてを語っていた。
その時、馬車の隅の影から、起伏のない低い声が落ちた。レズンブール伯爵。撫でつけられた金髪はわずかに乱れ、高価な外套に泥。知的な面差しに疲労が刻まれている。
「伯爵……なぜあなたがここに?」
声がまた震える。空気が張り詰める。
「……ヴォルフ殿下の指示でございます、陛下」
感情を排した平坦な声音。それが逆に胸を抉る。
「第二列の指揮を市民代表と灰鴉亭のアリア殿に託し、馬を飛ばしてこちらへ合流いたしました。陛下の御身の安全を最優先に、との殿下のたってのご意向ゆえ……」
「ヴォルフが!? どうして? どうして彼がそんな指示を……! わたしに何も言わずに!?」
裏切られた、などと言いたくはない。ただ、胸の奥が熱くなる。涙は見せない。女王だから。
「陛下が意識を失っておられる間、ヴォルフ殿下がボコタ防衛の指揮を執っておられました」
淡々とした告げ口が、ひどく冷たく響く。
「……それで、どうなったのですか? 宰相の軍は? 街は? 市民は? 答えてください!」
喉は渇き、心臓は痛いほど打つ。聞きたくない。でも、聞かずにはいられない。彼の判断の結果を。
「はい……。宰相みずから正規三百を率い、もう目前に。陛下がお目覚めになるまで、わたくしどもも遅滞戦闘で市街を支えて参りましたが――」
伯爵は眉をわずかに寄せ、言葉を一度切った。
「――敵は魔導兵を無理やり連続稼働させ、使い捨てにして突破してまいりました。ダビド班による遅滞戦闘も、ほとんど効果は……」
「なんですって……」
煮え返る怒りが胸の底で泡立つ。魔石は“命の灯火”。強く搾れば搾るほど、術者の身に深い反動が返る。作法を踏み越えるのは、命を刃の列に並べるのと同じ。
「……連続稼働など、常軌を逸しているわ。命を刃のごとく並べ、平然と削っていく――それがいかに人の道に悖る行いか、伯爵はご承知でしょう? そもそも魔石に宿る“命の灯火”は、古来〈万の狂気〉と戒められてきたはず。軽々に弄ぶ代物ではないのよ」
伯爵は喉の奥でひとつ息を詰め、静かに頷いた。
「……仰せのとおりにございます、陛下。私の見立てでは、魔導兵装は安全域の制限(リミッター)を外して運用され、許容量を超える魔力を連続抽出しております。このまま限界稼働が続けば魔石の結晶構造に亀裂が生じ、崩壊に至りましょう。その衝撃は安全装置を介さず術者の身体へ直撃いたします。私の推計では、敵の魔導兵の半数は城下到達前に戦闘不能――最悪、死亡いたします」
怒りも嘆きも混ぜず、事実だけを置く声。刃の温度。
「ひどい……そこまでするというの? 宰相は、わたしをそこまで憎んでいるというの?」
「……陛下、彼の私情につきましては何とも申し上げかねます。ただ――彼は最大利益の達成と効率の極大化を唯一の基準とし、損失を上回る利益が見込めるなら人的資源の損耗も辞さない気配にございます。私ども、取り得る策は講じてまいりましたが、宰相の徹底した合理主義と、その狡猾さ・冷酷さを、なお看過しておりました……」
冷徹な分析に、胸の奥へ氷水が流れ落ちた。
「……殿下は、市街の防衛はもはや叶わぬとご覧になり、防衛戦をただちにお収めになりました。市民の皆をお連れして北方へ退くよう、ご決断あそばされております。この馬車は、陛下を戦火からお護りするためのものにございます。殿下におかれても、痛ましいほどの苦渋のご決断でございました」
「だから、わたしは馬車の中、というわけなのですね……」
優しさも決断も、今は胸に痛い。抱く剣が、鉛に変わる。
「はい……」
「……それでは、ヴォルフは今どこにいるのですか? 避難列の指揮を執っているのですよね? お願いします、すぐにここへ呼んでください。早く……!」
必死に縋る。彼が無事に導いている――そう思えなくなったら、立っていられない。
伯爵は沈黙し、視線を落とした。細い希望の糸が、ぷつりと切れる。
「伯爵……?」
声が震える。悪夢が現実の輪郭を帯びる。
「殿下は……この第一列にはおられません」
「それならどこに? 後列ですか? いますぐ伝令を飛ばして――!」
幌を打つ雪だけが強くなる。
「申し訳ございません。殿下のご命令により、どうしてもお伝えできません」
「いいから――教えて! 彼は今どこで……どうしているの!!」
噛み殺していた嗚咽が溢れ、涙が頬を伝う。視界が滲み、クリスとマリアのすすり泣きが遠く揺れた。抱く剣は、氷のように冷たい。
伯爵は観念したように深く息を吐き、低く静かに告げた。
「……陛下、恐れながら、どうかお覚悟を。殿下は、私どもと市民が無事に退けるだけの刻(とき)をお稼ぎになるべく、殿(しんがり)を自らお申し出になりました」
「……え……?」
「随行はダビド班長ほか七十七名のみ。『必ず追いつく』と仰せではございますれども、実際には帰還を前提としない、命を賭す抑えでございます」
幌を叩く雪音が、やけに鮮明に耳へ刺さる。
――ああ。悪夢は幻ではなかった。すでに動き出した現実だった。
世界が軋みながら崩れていく。心の中心に据えていたものが、粉々になる。
息が止まり、視界の縁が白んでいく。抱いていた剣が砂になったみたいに、指のあいだからこぼれそうになった。
そのとき――。
腕の中のマウザーグレイルが、ごく微かな震えを返す。遠いところで鳴る心臓の鼓動に似た、たった一度の脈。
金属の冷たさは変わらない。それでも、刃の奥で〈何か〉が確かに脈打った。
呼吸が止まり、世界が白へと薄れる。重さを失った剣が滑り落ちようとした瞬間――
トン、と指先へ微かな圧が跳ね返った。
白銀の奥で、胎動。
【リアクション】
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------------------------- エピソード463開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
抱きしめたい世界を胸に――流星になれ、わたしの翼
【本文】
胸の奥で、乾いた歯車が欠けるような音がした。眠れていない頭に、焦げた雪の匂いだけがやけに濃い。
――いまのは、なに……?
一瞬、世界が空白になる。幻? 絶望が見せた都合のよい錯覚?
滑り落ちかけた聖剣の柄を、わたしはあわてて掴んだ。冷たい。やはり、ただの金属の体温。それなのに、先ほど指先へ返ってきた、あの微かな圧は――あまりにも生々しい。
――気のせい……? そうよね、そんなはず、ない……彼が死ぬなんてこと、あるわけない。
言い聞かせるたび、胸の内側で薄氷が軋む。静かな、けれど確かな反応の残像が、指先の皮膚感覚にこびりついて離れない。
唇の内側を噛んだ痕がひりつき、呼吸が浅く跳ねた。
「あ……っ あぁ……っ、くぅ……」
喉の奥が痙攣し、勝手に音が漏れた。
それは喪失の涙ではなかった。“希望が痛みに転じる”種類の涙。ほのかな光ほど、胸に刺さる。心を撹(か)き乱す。
肺の底に冷気が刺さり、背の筋が細くこわばる。
「や…やだ……やだぁぁっ……ぐっ、いやぁぁぁあああッ!!」
絶叫。失われたものへの慟哭、そして縋るほど微かな希望への、悲痛な叫び。
舌先が震え、名を形にしただけで胸が潰れそうになる。
「ヴィル。どうして。どうしてわたしを置いていくの…… ねえ、誓ってくれたでしょう……? ぜったいに離さないって、一人ぼっちにしないって。あれは、嘘だったの……?」
口から“ヴォルフ”ではなく“ヴィル”がこぼれる。もはや、理性の層に触れていない。
爪の裏に布の繊維が食い込み、痛みが遅れて届く。
「嘘つきっ! あなたは大嘘つきよっ!!」
ビリッ、と粗末な毛布が裂け、藁屑が舞う。狭い寝台の上で身を捩(よじ)り、布に爪を立てる。
胸が裂ける。キーンと耳鳴りが張り付き、頭蓋の内側が締めつけられる。酸素が薄い。息が入らない。視界は涙で溶け、輪郭が崩れた。
肩口に触れる手の熱が頼りなく震え、体温がわたしの皮膚に移る。
「お気を強くお持ちください、陛下! どうか、どうか……!」
肩に置かれたクリスの手が小刻みに震える。白い指先から血の気が引いていて、彼女自身も限界なのだと、手の温度で分かった。
名を呼ぶ気配が近づき、睫毛に溜まった涙が重くなる。
「陛下……」
睫毛に溜まった冷たい滴がほどけ、頬の上を細くすべっていった。
マリアの瞳はガラスの水面のように潤み、今にも零れそう。それでも唇を結び、わたしの腕を離さない。その強情さが、胸に刺す。
だが、その優しさすら今は辛い。
喉の奥が焼け、言葉が途切れながらあふれ出す。
「離してっ! わたしを行かせて! 行かせてよっ! 彼のもとへ……! 彼を一人になんてできない! あの人は……わたしにとって誰よりも大切で、彼もわたしがいないと……だめなの!
……彼がわたしを守るっていうなら、わたしも彼を守らなくちゃならないの!」
言葉にならない言葉を吐きながら、力の入らない体で暴れる。クリスとマリアが必死に押さえ込む。どうして――どうして行かせてくれないの。彼は、まだ――。
胸骨の奥で脈が荒く跳ね、息が途切れ途切れになる。
「陛下、お気持ちは痛いほど……ですが、今はどうか……!」
懇願の湿りが空気に滲み、指先が冷えていく。
「殿下の……ヴォルフ殿下のお覚悟を無駄になさらないでください……!」
悲痛な声。涙の懇願。言葉が、さらに心を抉(えぐ)る。
――覚悟? 彼の覚悟? それは――わたしを置いていく覚悟? 見捨てる覚悟? わたしとの未来を諦める覚悟? なによそれ……。
舌裏が乾き、喉の奥で小さく鳴り、それが自分の足枷みたいに重い。
馬車の床がきしみ、沈黙が硬くなる。
「陛下。今この瞬間から馬を飛ばして引き返したとしても、もはや――間に合いませぬ」
レズンブール伯爵。論理の温度で、容赦ない断言。
乾いた言葉が、油のようにわたしの炎へ流れ込む。
反射で胸が強張り、視線が影を探す。
「違う! 彼はそんな人じゃない! わたしをひとりぼっちになんか、するはずがない! 何かの間違いよ! ねぇ、伯爵! あなたもそう思うでしょう!? 彼は王配なのよ、そんな無責任があっていいわけない。あの人が、わたしを一人にするはずがないっ!」
影に座す伯爵へ、必死に縋る。彼は彼と共に策を練った人――“誤りだった”の一言で、夢に変えたかった。
伯爵は、静かに首を振った。その一動作が、最後の細い糸を断つ。
「……いいえ、陛下。殿下のご決意は揺るぎなきもの。すべては、陛下とリーディスの未来のために他なりません」
車輪がギシリと鳴り、胸の奥がひとつ落ちる。
伯爵は一拍おき、わたしの呼吸の乱れが落ち着くのを待つように、静かに継いだ。冷徹でありながら、どこか痛みを押し隠した声で。
「……陛下。私とヴォルフ殿下は最悪の事態を見据え、一策を整えてございました。マリア殿もご承知のとおり、これは事実にございます」
視線を向けられ、マリアが黙って頷く。指先がわずかに強く、わたしの袖を掴んだ。
「計画は一にも二にも、陛下の安全確保でございます。寝台車を急ぎ北へ、銀翼本隊と合流のうえ男爵家救出、ロゼリーヌ殿・リュシアン殿の確保までを一気に――。
ただし、王都での工作が功を奏さず宰相が権限を保持するなら、敵は増援で厚みを増しつつ北上いたしましょう。その局面ではイストリアは持ちこたえられず、アルバート領への越境のみが現実的な延命策にございます……」
膝の上の毛布が重く、指が震える。
「亡命……!? わたしに国を捨てろというの!? しかも、アルバートですって?」
名を出した瞬間、冷気が胸に沈む。
「彼の国とは、国境付近の魔獣巣に関する権益問題で長年緊張が続いております。もっとも、私には交渉役として培った有力貴族層の伝手がございます」
冷静な説明ほど、胸を追い詰める。
「アルバートには、常にリーディス併呑の野心がございます。女王メービス陛下と、亡きギルク王子の忘れ形見リュシアン殿――正統王家の血筋たるお二方が亡命とあらば、彼らはその価値を認め、必ずや受け入れましょう。
……無論、その一手は二国間の全面戦争の火種ともなり得ますが」
わたしとリュシアン殿を、人質のように掲げ、野心を逆手に生き延びよ――それが、彼の望み?
違う。望みではない。覚悟だ。わたしが倒れた時点で、彼は最悪を想定した。ボコタが耐えきれぬ未来を。そして、その時のために、亡命という最後の手段を用意した。わたしを生かすために。王家の血を明日へ繋ぐために。
思い返せば、彼の計画はいつも、わたしの想像を一段深く潜り、しかも――わたしのためだけに練られていた。
未来の世界でも。わたしが王都で奔り回っていた影で、彼は水面下で軍や騎士団を動かし、ローベルト将軍と繋ぎを取っていた。玉座の間でわたしを止めた謎の騎士――あれも、彼。
胸が熱に攫(さら)われる。彼は命を賭して、わたしたちの明日を守ろうとする。わたしを生かすこと、それが彼の“最後の願い”。
伯爵のまぶたがわずかに伏せられ、空気の温度が変わる。
「……陛下。殿下のお言葉はただ一つにございました。『何が何でもメービスを生き延びさせてくれ。それだけが私の願いだ。――そのためなら、私は人斬りの鬼にもなる。その罪は、命をもって贖う』と」
伯爵の声に、彼の吐息の重みが蘇る。言葉の端に刻まれた温度と、わたしへの想い。胸が裂けそうに痛い。
涙が喉に落ち、声が掠れる。
「そんな……そんな自分勝手な未来なんて押し付けられても迷惑よ! 彼がいない未来なんて、わたしには何の意味もない!! そんなもの、わたしは望んでない!!」
分かっている。女王は冷静であるべきだ。民を導くべきだ。理屈は知っている。
それでも――無理だ。彼のいない世界に、何の意味がある? 女王の責務も、国の未来も、彼の命には及ばない。彼のいない明日を想像した瞬間、肺が縮み、視界が白む。
白銀の聖剣――マウザーグレイルを、あるだけの力で抱きしめる。今はこの剣だけが、彼とわたしを繋ぐ最後の綱。
なのに、冷たい。吐息すら凍らせるほどに。茉凜のやわらかな気配さえ残っていない。
――わたし、本当にひとりぼっち……? いやだ。
胸骨がきしみ、名を呼ぶ声が勝手に滲む。
「ヴィル……! あなたっ、ずっと一緒だって、言ったじゃない……! 絶対に離さないって、約束してくれたじゃない……!
なのに、なんで……なんで、わたしを置いていくのよ……っ! わたしたちは、巫女と騎士……ふたつの聖剣で結ばれた、ふたつでひとつのツバサだって……そう言ってくれたのは、あなたじゃないの……っ!」
慟哭が狭い馬車を震わせ、闇夜そのものまで震わせる。
涙に滲む視界は、もはや誰の顔も捉えない。ただ胸を掻きむしる痛みと、喪失の影だけが居座る。
――どうして、もっと早く気づかなかったのだろう。彼の苦悩に。抱えた重荷に。そして、ぶっきらぼうな言葉の奥に沈めていた愛情に。
後悔が嵐のように胸を通り過ぎる。もし、あのとき強かったなら。隣に立てていたなら。気づき、支えられていたなら。彼だけに背負わせずに済んだのに。
――いや、まだ幕は下りていない。
刃の奥で感じた、あの微かな震動。幻? それとも、聖剣を介して届いた、彼の命の拍動?
瞳が開く。思考の中で火花が散る。
この剣には、まだ解いていない“深層”が眠っている。わたしが――引き出す。
茉凜の声が甦る。耳の奥の温度が少しだけ上がる。
深部記憶層へアクセスするってことは、マウザーグレイルの奥深くにある、はるかな昔のデルワーズの意思や記憶に触れることにもなるかもしれない。彼女が獲得した精霊魔術の術式イメージとか、システム全体との連携の仕方とか応用とか……それだけじゃない。かつての彼女と同様のフルスペックを引き出すってことは、彼女そのものに近づくってことでもあるんだよ
フルスペック――“デルワーズ”へ肉薄する領域。
茉凜なしで到達できる保証はない。むしろ、もしデルワーズが受肉を画策していたなら、門を開く行為は危うい。意識や記憶へ割り込み、この身を奪う可能性すらある。
――……それでも。もう二度と、大切なものを失いたくない。だってヴィルは――。
喉で言葉が凍り、蓋をする。怖さを、今は見ない。
――成すべきことは、揺るがない。
わたしは迷いを押し込み、マウザーグレイルを胸へ抱く。
指の節が白むほど力を込め、金属の冷えを体温で上書きする。
「お願い、マウザーグレイル! わたしに力を貸して! みんなを、ヴィルを守れる力を、わたしにちょうだい……っ! わたしが、どうなったって構わない……! 身体が壊れたっていい! 魂が砕け散ったっていい! だから、お願い……応えて……応えてよぉっ!!」
魂の底から迸る叫び。祈りであり、懇願であり――命令。
全てを賭けた声が奔流となって鋼へ注ぎ込まれる。熱い涙が白銀を打ち、体温の残滓が金属へ染みていく。
――ドクン。
抱いた剣が、はっきりと脈打った。鋼の胎から震えが生まれ、一拍、また一拍とわたしの鼓動へ重なっていく。震えは腕を伝い、胸を貫き、全身へ広がる。
不思議なほど、あたたかい。失われたはずのぬくもりが、刃を介して心臓(こころ)へ流れ込む。
次の瞬間。
白銀の閃光が炸裂した。狭い荷台が純白に塗り潰され、網膜を焼く光の奔流に、クリスもマリアも伯爵も思わず悲鳴を呑んで、目を庇う。
光の極(きわみ)の中心で、“声”が降りた。
鼓膜ではなく、脳の奥に氷の糸がたらりと落ちる。
《………………了承、します》
「――え……?」
『IVGモード1、起動シークエンスを開始します……』
「あなた……だれ……?」
《私は、MW-CSV-DD――マウザーグレイルの管理システムを司るインターフェイス、“レシュトル”と申します。お久しぶりですね、“代行者メービス”》
古い傷の縫い目に触れられたように、胸がひやりとする。
「代行者? わたしが……?」
《はい……。魔族大戦終結後、貴女自身の要請により、私の主要機能の大半は封印されていましたが……たった今、魂からの要求レベルに応じ、封印を解除しました》
「……封印? わたしが……要請した?」
ミツルとしての記憶にはない。だが今は追わない。刃の温度が進めと言う。
《現在までの状況推移は、全て把握済みです。……現状、対となる“ガイザルグレイル”との距離が、連携可能な限界値を超え、離れすぎています。速やかに、センサー・フュージョン可能領域まで接近することを提唱します》
「ガイザルグレイル……って。まさか、彼が持っている、もう片方の聖剣の名前……?」
《肯定。マウザーグレイルと精霊子通信を介し相互にリンクする、巫女を守護する騎士のために用意された、攻勢を担う剣です。それにより、巫女と騎士が同調・連携するシステムとなっています。
それこそが“Système de l'Épée Sacrée : Prêtresse et Chevalier”(システム・ドゥ・レペ・サクレ:プレトレス・エ・シュヴァリエ)――巫女と騎士のシステムです》
「巫女と騎士の……システム……」
《追加情報。騎士ヴォルフ・レッテンビヒラーは生存中》
膝の力が抜け、胸の奥で小さく息がほどけた。
「ほんとう? 本当なのね?」
胸の鼓動が刃の脈と重なり、耳奥で音が丸く滲んでいく。
《巫女と騎士は、常時最低限の精霊子感応を維持しています。よって確認が取れます。これは互いの生存確認と、位置情報の大まかな把握のための機能です》
安堵はすぐに渇きへ変わる。近づけなければ意味がない。
「でも、どうやって――どうすれば彼の元へ行けるの? ここからじゃ、どんなに馬を飛ばしたって間に合わない! 彼は今も戦っているかもしれないのに!」
焦りは絶望を突き破り、“わずかな可能性”への渇きへ変わる。
《提案します。基幹システムIVGを起動し、IVGフィールドを展開します。これにより、重力束縛を完全に遮断し、慣性ベクトルを思考によって操舵することが可能となります。推力に関しては、貴女自身の精霊魔術によって補う必要があります。ただし、フィールドの持続可能な予測限界時間は約300秒となります》
「IVGって、たしかデルワーズが使っていた慣性と重力を制御するシステム……」
《ご指摘の通りです。モード1においては、前段階の慣性ベクトル・重力制御システム (Inertia Vector and Gravity Control System) に限定されます》
「――つまり、重力の軛から解き放たれて 空を……飛べる、ってこと?」
《概ね、間違いありません。さらに、フィールドが有効である限り、外部からの物理干渉、及び環境要因からも完全に保護されます》
胸の奥で、再び火が灯る。空を自由に。重力の鎖を断ち切る。ならば――間に合う。
「でも……システムの起動には膨大な精霊子が必要なんじゃない? それは黒鶴の翼が現出するくらいの。今のわたしの器では、とても――」
《――誤解です、代行者メービス》
《システムの起動に必要なのは精霊子の絶対量ではありません。重要なのは巫女としての資格、そして――貴女自身の揺るぎない意志です》
「意志……?」
《その通りです。このシステムを創造した主が求めたのは、ただ一つ――“大切なものを護りたい”という、純粋で折れぬ意志を持つ者です。先ほどの魂の叫びによって、貴女はその資格を示しました。精霊子制御と精霊魔術運用の最適化は、私が全面的にサポートします。どうぞご安心を》
「その“創造主”って……もしかして、デルワーズのことを指しているの?」
《その質問は禁則閲覧区分に該当。回答権限がありません》
沈黙。だが、刃の奥の温もりが“進め”と言う。
――わたしは、護りたい。ヴィルを。絶対に、失わない。
息を整え、決意が胸に降りてくるのを待つ。
「……わかったわ。やってみましょう」
マウザーグレイルを胸へ。冷たいはずの金属が、頼もしさへ変わる。これは武器ではない。彼とわたしを繋ぐ媒介。奇跡の導線。
「精霊子(ちから)よ! 今こそ、器たるメービスのもとへ──集え!」
意識を沈め、巫女の核へ降りていく。脳裏に、星屑を受ける巨大な水晶盃。煌めきが奔流となって盃へ、そしてわたしへ雪崩れ込む。骨の髄から炎が起き、細胞が光を孕み、脈を打つ。痛みと熱が薄れ、ただ圧倒的な力が器を満たす。
――全部、彼を救う力に。お願い、貸して。
《精霊子量、既定値を突破。巫女と騎士システム、限定的ながら可動領域に到達。……IVGシステム、起動します!》
手首の脈が刃の拍に噛み合い、胸骨の奥で小さな鐘が鳴る。
「IVG、起動――!」
喉を裂く声とともに、意志を一閃させる。
パキン――。
早春の氷膜が割れるような、澄んだ破裂音。次の瞬間、背に純白の翼が咲いた。ふわり、白が背でひらく。
凝縮された光が意思を帯び、金と銀の雪片を零す。荷台はひっそりと聖堂となり、わたしの鼓動だけが鐘の音のように響く。
指先に触れる光は、冬空へ差す朝日ほどの温み。くすぐったい感触が胸へ溶け、焦げた夜気の匂いは、かすかなオゾンの匂いへと変質していく――希望の匂い。
「こ、これは…… 一度だけ戦場で見たことがある。でもこの翼は……」
マリアが息を呑み、差し出した指先を光が水面の月影のように透過する。代わりに、金銀の燐光が降り、ひとつひとつ脈を打って瞬いた。
実体のない“願い”の結晶。覚悟とマウザーグレイルの力が溶け合って生まれた、新しい翼。
「白銀の……翼。なんと神秘的な……。これが――精霊の巫女の真なる姿か……」
「黒じゃない……白いんだ。深淵の……黒鶴じゃないんだ」
かつて背負った黒の幻影は“呪い”だと思っていた。茉凜は美しいと笑った。――今、背にあるのは白。胸の内で、静かな戸惑いと安堵が折り重なる。
わたしは振り返り、クリスとマリア、伯爵を真っ直ぐに見る。顔を上げたその瞬間、茉凜の快活な声が脳裏で跳ねた。
わたしは欲望には正直なんだ。これと決めたら、まっしぐらさ!
――そうだね、茉凜。あなたの言う通り。わたしもそうする。まっすぐ行くよ。かれのところへ。
「伯爵、クリス、マリア……わたし、行ってきます」
袖口をつまむ指の冷たさが増し、胸の奥でためらいが短く軋む。
「陛下! なりません! お一人では危険すぎます。わたしたちも――!」
凍った空気が震え、袖を掴む指先が涙で濡れている。
「止めても、無駄よ」
言い切った声の余韻が、静かな熱に変わる。
「……わたしたちはね、どうしたって離れられないのよ。理屈なんて関係ないわ。だって――わたしたちは精霊の巫女と騎士で、なんたって“夫婦”なんだから……」
最後の一語に、頬の内側が熱くなる。それでも揺らがない。
「IVGフィールド、展開!」
レシュトルへ指示を飛ばす。
同時に、空気が圧搾されるように凝り、三人は半透明の白い膜へ押しやられて荷台の隅へ。幌が内側からふくらみ、白い風船のように脈を打つ。空間がエネルギーでざわめき、空気が鳴る。
「……ごめんね」
粉雪より柔らかな囁き。仲間へ。ここにいない“彼”へ。――心配をかけて、ごめんなさい。でも、わたしは行く。独りには、しない。
「場裏・白(じょうりしろ)、展開! エアバースト限定解放!!」
轟――!
耳をつんざく爆ぜ。白の奔流が幌を内から吹き飛ばし、炸裂した光が視界を純白に染める。爆風と雪煙が引くのを背で感じながら、わたしは天へ顔を上げた。
幌の跡は、冬空への裂け目。凍雲をまっすぐ貫く、一条の白い流星。
ふたつでひとつのツバサが撒く金銀の燐光だけが、夜気に尾を引き、いつまでも消えない。
白いシュミーズの裾も、解けた若緑のウィッグも、静かに揺れるばかり。本来なら凍えるはずの薄衣の肌は、ぬくもりに守られている。
――これが物理保護領域……? これがIVGフィールドだというの?
音のない絶対の静寂。恐れは不思議と起きない。胸の奥に、初めて知る静かで強い高揚が、波紋のように広がる。重力の軛から外れた、自由の感覚。
眼下には、雪で白んだ広大な大地。音は届かないが、はるか遠く、闇に滲む赤い火光。――あの辺りに、彼が。
――ヴィル――必ず行くわ。どうか、無事でいて。
白い翼を収束し、推力となる精霊魔術へ意識を研ぐ。握るマウザーグレイルが白銀を増光し、舞う雪片を淡く照らす。
地表には、炎の渦と戦いの影。迷わない。あの背中へ。ふたりでいることを確かめるまで。もう一度、その温度に触れるまで。
――あと、少し。もう少しで、あなたへ辿り着く。
凍てた大気に、胸の中で何度も名を呼ぶ。それは祈りで、誓いで、魂の叫び。
ふたつで、ひとつ。わたしたちのツバサで、この世界を真正面から抱きしめる。痛みは二人で割る。片手で抱えきれないなら、あなたと分け合えばいい。その熱で、まだ見ぬ明日へ羽ばたこう。
想いを翼に乗せ、わたしは流星のように天を翔(か)けた。彼が待つ絶望の戦場へ――ただ、ひたすらに。
【リアクション】
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------------------------- エピソード464開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
翼は今、あなたを護るために
【本文】
夜空は深い瑠璃の底で凍りつき、星々の吐息でさえ湖底の静寂に閉ざされている。――その氷膜を裂く細い亀裂のように、わたしの背から伸びる光の糸があった。
白銀の翼(ルミナ・ペンナ)が夜天を掃き、墨を溶かした水晶鉢に星砂を散らす。つむじ風すら呼ばず、ただ滑るように白い糸を引いた。
胸に抱えたマウザーグレイルは、掌の温度をそっと映すように微かな熱を返し、鼓動と同じ速さで刃が脈を打っていた。その温もりは金属の冷たさを裏切り、――まるで剣そのものがわたしを励ます心臓であるかのようだ。
淡い光で包む球殻フィールドは、氷点の風を柔らかな絹へ変え、外界の荒々しい音も匂いも遮断する。静寂の中で唯一聞こえるのは、自身の血潮が微かな鈴の揺れのように骨伝いに響く音だけ。背中の翼は薄氷で編んだ炎のごとく揺らぎ、決して折れない意志を白く燃やしている。
遥かな下界――墨色の稜線の先で、橙の火柱が揺れ立った。森を焦がすその光源に、彼が居る。ヴィル、今はヴォルフと呼ばれる人。胸の奥に結ばれた細い糸が、痛いほど真っ直ぐにその一点を指し示す。
恐れも、力の覚醒がもたらす眩暈も、すべて後ろへ置き去りにしてわたしは翔ぶ。生まれて初めて、自らの意思で夜を駆ける――けれど、その昂ぶりさえ彼へ向かう軌道に吸い寄せられていた。
会いたい。彼の温もりに触れたい。ただ、その願いだけが、凍てつく空を裂き、わたしの世界の中心を灯している。
ふいに視界の端で淡い光が咲き、半透明のパネルが重なる。
夜天へ散る星群のように幾何学の線が瞬き、進行角・速度・魔素濃度、さらにはフィールド酸素残量までもが、冷ややかな正確さで並んでゆく。
これは茉凛が見せてくれた、脳内統合型デバイスの発展型、あるいは本来の機能だろうか。
《統合ナビゲーション・レイヤー展開完了。視認性を確認してください》
鼓膜ではなく思考の奥へ直接落ちる声――レシュトル。
銀線のように凛と澄み、感情の温度をいっさい帯びない無機質さが、かえって頼もしい。
「少し眩しいけれど、大丈夫よ」
唇に夜気が触れ、微かな金属の匂いが舌裏へ立つ。
囁けば、パネルは即座に輝度を落とし、墨の空へ溶け込む淡金色へ。文明の残影を思わせる応答の鮮やかさに舌を巻きながらも、胸は水面下で波打つ。
《視界は任意倍率で拡大できます。精霊子の共振波が届く範囲なら、梢を揺らす微風も、遠くの兵の脈拍さえも――すべてを解析し、あなたの瞳へ透かし込むことが可能です。そして、精霊子は“情報波”そのもの。物理殻には影響されません。よってフィールドを維持したままでも、あなたは制限なく術式を紡げます――》
レシュトルの説明は淀みなく続く。
頭の中では早鐘が鳴り、理解が追いつく前に言葉がこぼれ落ちていく。
それでも、論理ははっきりしていた――茉凛とわたしが夜更けに重ねた『精霊子は高密度の情報体である』という仮説は、まちがいなく的を射ていたのだ。
……なのに。
胸を貫くのは、得体の知れない怖さ。
「好きなだけ術式を紡げる」だなんて、まるで夢のようだけれど、もしその夢が牙をむいたら――わたしに本当に手綱が取れるのだろうか?
茉凛はいつも、難解な理屈を小鳥の言葉に置き換えて教えてくれた。
今更気づく。きっと彼女は、わたしが怯えないように必要な部分だけを丁寧に削ぎ、優しい音に包み直してくれていたのだ。
思わず剣の柄を握りしめ、胸の奥でそっと囁く。
――茉凛、ここにあなたはいなくても、わたし、ちゃんと扱いこなしてみせるよ。あなたが守ってくれた未来を、ここで手放したりなんかしない。
《脈拍一五一、呼吸三〇。焦燥は精霊子制御を乱します。深呼吸を三回》
促す声は氷片のように冷たい。それでもわたしは従う。夜気を胸深く吸い、ゆっくり吐く。
波紋のような静けさが肺の底へ広がり、背の光翼がひときわ細かく星屑を散らした。
「もう平気。ありがとう、レシュトル」
返事はなく、代わりに新たな図表がそっと浮かぶ。
《IVG FLIGHT SEQUENCE》
▼起動
《IVG-LOG》
▼フィールド半径 0.80m
▼実効慣性質量 mₑff 0.08
▼現在推力(場裏白) 2kN
▼到達速度(予測) 600km/h(4秒後)
▼量子ストレージ飽和予測 220s
――ログ以上。
パネルに躍る「600km/h」の数字。
それほどの速さを、わたしはほとんど感じていなかった。
半径八十センチの静寂に守られた今のわたしは、前世で感じた“空の恐怖”を思い出すだけだ――ヘリの金属の箱に押し込められ、地面が離れた瞬間、胃の底が攫われ、窓の外で町並みが豆粒へ変わるたび「こんなものに命を預けるなんて」と震え続けた。
けれど今、光の翼とマウザーグレイルが創るこの殻は、恐怖を一滴も通さない。大気も衝撃も吸い取り、わたしをまるで揺り籠のように抱え上げてくれる。同じ空の下なのに、世界はこんなにも穏やかだ。
フィールドの内側は絶対的な静寂に包まれ、耳は風の音ひとつ拾わない。ただ、「感じなさすぎる」という奇妙な違和感だけが、耳の奥をじんと痺れさせていた。まるで、現実から切り離された透明の容の中にいるようだ。
《閾値を超過した場合、余剰エネルギーは熱、もしくは逆ベクトル重力波として外部へ強制排出されます。その際、フィールドが一時的に崩壊する危険性も否定できません》
パネルの片隅に表示された赤い波形――呼吸曲線と血中酸素飽和度――に目をやる。じわりと、CO₂ラインが上昇しているのが見て取れた。
《SYSTEM WARNING》
▼搭乗者代謝率 300%(推定)
▼酸素残量(推定) 5.0L / 可動予測 5分
▼CO₂分圧閾値到達予測 210s
――フィールド限界より先に生理的限界の可能性あり。
――ログ以上。
「つまり、このフィールドは完全に閉鎖された空間。だから、五分以内に降りろというわけね。なるほど、理解したわ」
喉がひとつ鳴り、肺の底へ薄い熱が沈む。
フィールド内の内圧は限界まで絞られ、肺が吸うぶんだけの薄い層が静かに循環している。
わたしは頷き、再び眼下の景色に意識を集中する。
黒い山稜と、その麓で明滅する赤い炎。その狭間へと伸びる、見えないけれど確かな、心の糸。それを辿っていく。
あと三分半――彼のもとまで、十分に足りるはず。けれど、焦る心臓の鼓動だけが、冷徹な秒針よりもずっと早く時を刻んでいた。
《推力の瞬時反転による減速は即時実行可能です。ホバリングへの移行は、実効慣性質量 mₑff を急増させ慣性ブレーキとして機能。着地時の衝撃はゼロとなります》
「そう。頼りにしてるわ、レシュトル」
柄の革が指の節に吸い付き、体温を静かに返す。
まるで夜の薔薇の吐息のように、淡く冷たい空気が肺を撫でる。パネルに表示される酸素残量のゲージが、少しずつ、しかし確実に減っていく。そのたびに、胸の奥の結び目がきゅっと固く締まる気がした。
――大丈夫……彼に届けば、きっと、すべてを越えられる……!
光の翼が、わたしの決意に応えるように、もう一段、熱を帯びた。白銀の輝きが増し、夜の濃紺を切り裂いて、爛々と咲き誇る。
刹那、夜空は跳ねた。
星屑が逆巻くように後方へ流れ、薄墨色の雲のヴェールさえ置き去りにしてゆく。濃藍の天蓋に走った白銀の閃(ひらめ)きは、もはや翼の残像というより “光そのもの” だった。
けれど加速の衝撃は不思議なほどに皆無。胸骨は微動だにせず、喉奥の小さな振動だけが速度の高まりを告げている。わたしを包む半径八十センチの球殻フィールドが、すべての慣性を抱え込み、熱も気流も量子の箱庭へ閉じ込めているのだ。
《SYSTEM NOTICE》
▼推力飽和まで 1.8s
▼空気抵抗 吸収→変換→即時放出
▼現在巡航 790km/h
冷ややかな通告が脳裏をかすめる。けれど体感は相変わらず“静”そのものだった。振動も風切りもゼロ。音を飲み込む透明の容の中心に独り浮かぶような、やわらかな無重力。
――怖くない。
光翼がさらに蒼白を増し、闇を裂く尾が幾筋にも分かれる。フィールドの外で大気が悲鳴を上げ、内側のわたしは指一本動かさず、ただ彼の名を胸に進む。あと数息で届く。その確信が、かつての恐怖に代わる新しい鼓動を生んだ。
「十分よ。視界クリア」
耳の内側がきゅうと鳴り、輪郭だけが少し硬く結ばれる。
唇から漏れた声は水面に石を落としたほどの波紋も生まず、すとん、と胸の内で消えた。音すらフィールドに吸われている。それでもレシュトルは即座に応える。
《ナビゲーションを最小化し、敵味方識別レイヤーを拡大表示。
……目標地点、急速接近中。下方、魔導兵装の砲身角度、三度下方修正……射角が、合います》
パネルには血管図のような赤紫のラインが脈を打ち、臨界を示す数字が危険色へと跳ね上がっていく。
遠雷めいた唸りが鼓膜をくすぐった。瞬間、山際で紫炎の奔流が収束し、真紅の剣閃となって地上へ向きを変えた。
あの光――彼を奪い去る死神の鎌を、わたしはまだ上空五百メートルから見下ろしている。
――絶対に間に合わせてみせる……!
「レシュトル、場裏・白で追加加速を入れる! 縦ベクトルを二分割、九十度強制転換! ――以後、制御と補正はあなたに一任するわ!」
舌裏に渋みが走り、息がひと拍だけ浅くなる。
《命令受領。推力チャンバー全開放。“宵闇、裂きます”》
無機質な声が、ほんの一瞬だけ、震えたように聞こえたのは気のせいだろうか。
そして胸の奥で、何かが弾けた。
視界が純白に反転し、骨の髄まで熱い奔流が流れ込む。翼が裏返り、凍てつく大気を啜り込んでは圧縮し、光条へ撃ち返す。
空間認識が追いつかない。周囲の座標が曖昧になり、踏み切り板もないままわたしは空の壁を蹴った。
翡翠を思わせる月が雲間に沈み、夜野は濃藍のベルベットへと姿を変えていた。
高度一千を超える氷膜の静寂――そこから見下ろす大地は、雪で拭い取られた銅版画のように精緻で寂しい。山脈は黒曜の波頭となって連なり、尾根を縫う街道だけが切り裂き傷めいた白い線を描く。
その線に沿って、宰相軍三百の行軍灯が、蟻の隊列にも似た鈍い橙を灯していた。
視界右上には、レシュトルが浮かべる半透明のホログラム。それは戦場の鼓動を冷ややかに解析し、敵味方の生体波形を彩度の異なる点で示している。
盾壁を組む重装歩兵の列は、横幅わずか数十メートル。けれど縦へ延びるその長さが、逃げ場の無い獣道に鉄の楔を打ち込んだかのように戦況を固定している。
街道の左手、雪焦げの松林の奥で――
焼夷(しょうい)ボルトを吐く小型バリスタが、蛍光をはらんだ閃きを断続的に散らしていた。
耳には届かぬ轟音が、フィールド越しの視界だけを淡い黄燐色で染め上げ、粉雪を逆巻かせる――まるで音軌を失った無声映画の一コマが、夜闇のスクリーンに焼き付くかのように、遠く、非現実的だった。
一方、右手斜面の中腹では、殿隊と思しき人影が苦闘していた。崩された塔盾、裂けた槍柄、血泥に塗れたバリケード。そのすべてが青白い月光に晒され、凍りついた悲鳴の列となる。雪面に転がる鎧の欠片は冷えた鏡板を思わせ、砕けた意志を映し返しているかのようだった。
《ENEMY FORCE LOG》
▼宰相軍主力 約280名(識別完了)
▼進行速度 停滞中
――ログ以上。
《ALLY TAG LOG》
▼ガイザルグレイル反応 検知(座標固定)
――ログ以上。
血管を這う電流のような緊張が背骨を打つ。
パネルが示す蒼銀の一点――それがヴィルの居場所。彼の剣は、周囲とはまるで質の異なる精霊子の集積値を示し、まるで誰にも屈しない狼煙のように夜気を逆巻かせているようにも見える。
――……これってまさか、ヴォルフの肉体が精霊子を集めているっていうの? 彼は精霊族の因子を持っていないはず……! これって、どういうこと?
ふと、そんな疑問が浮かんだが、今はレシュトルに尋ねる気もしない。
さらに視線を下げれば、隊列の奥に据えられた魔導兵装らしき物体が目を引く。
蛇腹状の砲身は臙脂に脈動し、四基の魔石スロットは赤紫の雷を吐きながら臨界域へ迫る光度を呈している。
そして、黒衣の影――《影の手》の暗殺者たち。六つの闇が獲物を囲む硝子の蜘蛛の網。その配置は、砲撃と刃を同時に浴びせ、たった一人の騎士を確実に葬るための殺意そのものだった。
吐く息はフィールドに溶け、白さを持たない。けれど胸骨の奥では、心臓が戦鼓のように敲かれている。
《SYSTEM STATUS》
▼フィールド残存時間 117s
――ログ以上。
《SYSTEM NOTICE》
▼推力飽和まで 1.8s
▼現在巡航 790km/h
▼降下角 推奨25度
次の瞬間、鼻腔の奥にスモーキーなローズヒップの幻香が灯った。
《警告フレーバー》
▼高濃度可燃性粒子
外気は一片たりともフィールドを貫通しない。それでも私は、真下で燃えさかる橙の傷跡を〈匂い〉として感じ取り、視線を鋭く落とした。
――行く。
脳裏で言葉よりはやく光翼が震えた。瑠璃の夜を割る俯角へ、わたしは身体を預ける。
《高速俯角二十五度、一気に落ちます》
宣言と同時、フィールド外殻が硬質な閃光を帯びた。
薄い水面に石を投じたごとく、夜気が円環の波紋を描き、わたしの身体は弓矢のごとく下界へ放たれる。
圧縮された空気ジェット――“場裏・白”がフィールド後方で噴き抜け、推力二キロニュートンの透明な槍が空を貫いた。音はない。摩擦熱も衝撃もすべて量子バッファへ吸収され、翼の根で白磁の燐光だけが淡く明滅する。
星屑めく雪片が後ろへ引き千切られ、空間が細い糸で断裁されたかのように静かだ。
高度一千から五百へ、二百へ。気圧の壁が幾層も押し寄せるが、フィールドはそれを飲み込み、ゴム膜に映る海波のように形を変えて受け流す。わたし自身の身体には揺れすら届かず、ただ視界だけが急速に拡大する解像感に震えた。
黒い松林の伽藍が迫る。梢を焦がす樹脂と血の匂いが、鋭い棘となってフィールドへ滲む。
そこへ――レシュトルの警報が叩き込まれた。
《対地高度五〇、前方に減衰波二枚。魔導兵装、射線収束――発射》
地表を這う赤紫の奔流が、二重の波頭を成して街道を舐める。闇夜を焦がし砲身へ引き戻されるその光は、地獄の呼気を思わせる脈動を孕んでいた。
それを察した影の手が、一斉にヴォルフの周囲から飛び退く。
発射──。
発火と同時、真紅の質量が地を穿ち、雪を蒸散させながら水平射角で伸びる火柱を成す。その熱線がなぞる弧の先端に、ヴォルフの影があった。
声が喉で凍る。
――そんなものっ、わたしがすべて飲み込む!
わたしは意識を“願い”という名の制御へひた押し込み、フィールド前面を最大展開。この科学的なシステムもまた精霊魔術と同じ、わたしの意思と願いを形にするものなのだと信じる。
真紅の火舌が抱きつく刹那、フィールド外殻は白磁の薄膜となって奔り、熔鋼の奔流を絹へ染み込ませる雫のように無音で呑み込んだ。
肺の奥を舐める幻の高熱に眩暈が揺れ、視界のすみで量子ストレージのバーが一息に八割を越える。――まだ二割、まだ抱えきれる。
爆風は泡立つ霧へ変わり、〈影の手〉の外套をわずかに揺らしただけで鎮まった。黒衣の暗殺者たちは、音さえ奪われた戦場に立ち尽くし、ただ蒼白の球殻を瞠目する。
わたしは降下角をさらに伏せ、雪面すれすれ――十五センチの宙を静かに滑る。後れた粉雪が羽虫の群れのように舞い上がり、夜光の灯点(ひ)を幾つも浮かべて、白い軌跡を飾った。
目指すはただ一人――白銀の雷光を宿す騎士、ヴォルフ。いいえ、わたしにとっては永遠に“ヴィル”。
裂けたローブの裾は煤で縁取り、灰――冷たい夜の息が纏わせた鉛灰色――に濡れているのに、剣先だけはわずかな震えも許さず、真っ直ぐ敵へ向けられたまま。
重心を沈め、左手の甲で切っ先をあやす、あの独特の“雷光突き”の予備動作。見誤るはずがない。
視界がその背を捉えた瞬間、時空は薄い膜の一点へと凝集した。
わたしは推力ベクトルを九十度反転――慣性は霧となり、身は羽根より軽く真下へ落ちる。
着地音はなく、雪面にも足跡は刻まれない。銀灰の双眸が振り向き、驚愕と戸惑いが星屑のように瞬いた。胸の奥で心臓が痛いほど跳ねる。
胸の鼓動が声より先に躓き、空気が細く途切れる。
「ヴィル――っ!」
声は戦場の喧騒にかき消された。
けれど、魂の奥底では、確かに彼が振り向く気配が震えとなって響いた。
あと、ほんのひと腕。
刹那だけフィールドを解き、わたしは迷いも痛みもすべて振り切って、その胸へ飛び込む。
フィールドを解いた瞬間、氷点下の冷気が肌を切るように突き刺さった。
でも――そんなもの、どうでもよかった。
焦げた布の手触り。乾ききらぬ血の匂い。硝煙と、彼自身の熱がわずかに滲む呼吸。
そのすべてが、いまも彼がここで――確かに生きているという証だった。
薄い皮鎧越しの鼓動が頬に伝わり、熱が洪水のように胸を満たした。
わたしを包む腕が、かすかに震えながらもしっかりと背を抱き止める。
世界が轟音を潜め、ただ二人の心拍だけが高鳴る。
――ああ、間に合った……。
雷光の人よ、もう二度と消えないで。
《IVGフィールド、再展開。物理干渉、全域で遮断します》
マウザーグレイルの柄頭が微かに脈を打ち、透き通る光殻が花びらのように開いてわたしたち二人を包み込む。
蒼白い薄膜は夜風も硝煙も押し留め、世界のざわめきを外へ追いやった。残ったのは、ふたつの鼓動だけ。
ヴィルの瞳が驚きと安堵で揺れ、かすれた声が震えを帯びる。
「……ミ、ミツル……?」
答えるより早く、わたしは彼の背中へ腕をまわし、胸に頬を押し当てた。
焼けた布の匂いも、血の鉄香も、いまは温もりの証し。堰を切った嗚咽がこぼれ、肩先が小さく震える。
「ああ……ヴィル。生きてる……ほんとうに、生きてる……!」
言葉は涙に濡れ、すぐには続かない。
けれど、彼の両腕がそっと背を抱き返し、鎧越しの鼓動が頬へ静かに伝わる。その震えが、彼自身もまた恐怖と安堵の狭間にいたことを物語っていた。
わたしを置いて逝くかもしれない未来。
わたしは独りになるかもしれない恐怖。
そのすべてが、いま互いの体温の中で溶けていく。
光殻は柔らかな鞘となり、戦場の喧騒を遠い絵巻物の裏側へ追い遣った。
外殻の向こうで影の手が一斉に跳び込み、黒刃を振り下ろした。けれど光殻に触れた刃先は、氷膜へ当てたみたいに無音で止まり、衝撃は零距離で霧散する。
蒼白い半球の内側に紅蓮の閃光が揺れ、外殻に弾かれた金属音だけが遠い幻影のようにきらめいた。踏み込んだ彼らの踵は雪面を空振りし、光に映る瞳に動揺の色が滲む。
ここは、ここだけは……誰も侵せない。
完璧な静寂と無重力の安堵が、わたしとヴィルだけの世界を閉じ込めている。
耳を澄ませば、聞こえてくるのは互いの呼吸と、胸奥で脈打つ鼓動だけ。
わたしはその確かな律動に安心をもらいながら、胸元に埋めていた顔をそっと上げた。涙で霞む視界の中、ヴィルの瞳がわたしを映し返す。
「もう……誰ひとりとして、あなたに触れさせない。わたしの翼があるかぎり――絶対に」
凍えた指先に、彼の背の熱だけが確かな重みで残る。
小枝ほど頼りない囁きだったのに、彼の胸骨を通じて深く沈んだらしい。ヴィルは煤を帯びた睫毛の陰でまぶたを伏せ、震える吐息をひとつ零す。それから、唇の端にかすかな微笑み――雪解けの最初の一滴のような温い光が宿った。
わずか五分の猶予しかないはずなのに、その一滴が時を緩め、永遠へと伸び広がっていく。光殻が優しい鞘となり、世界の騒乱が薄絹の向こうで遠ざかった。
【リアクション】
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------------------------- エピソード465開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
赦さずとも、共に
【本文】
蒼白い光殻(フィールド)の内側は、嘘みたいに静かだった。足裏に冷気が貼りつき、胸の奥で自分の呼吸だけが薄く反響する。
外では火砲が雪を焦がし、鋼と鋼が軋むはずなのに、この小さな殻だけが深海の底のように切り離されている。時間の縁がゆるく撚れ、呼吸の拍だけがゆっくり揃う。
閉ざされたはずの空間が、不意に安らぎへ裏返った。
雪面は展開の瞬間の皺のまま凍み、白い線がぴんと張って動かない。ここで響くのは、わたしと彼の呼気だけだ。
――奇跡だ、
と喉の奥で転がした。さっきまで絶望の縁に立ち、指先がきしむ音を聞いたのに、今は彼の温度がここにある。薄氷みたいでも、掌の熱は現実だと告げてくれる。
「……どうして、なの?」
吐いた息が自分の奥へ吸い込まれていく。水底の泡のように、小さく、でも確かに静寂を刺す。
「どうして、わたしを置いていったの……? あなた、約束したじゃない……」
責めより、置き去りの寒さが先に立った。胸骨の内側で一拍、鼓動が素肌を叩く。
返事は、ない。背に預けた額越しに、緊張の固さと……沈んだ後悔の気配だけが伝わってくる。
長い沈黙ののち、煤の匂いを混ぜて彼の声が落ちた。
「……おまえ、どうして来た。いや、どうしてここにいる……?」
囁くほど掠れた音。呆然のひび割れが、言葉の端に残っている。
視線が合う。戦場の硬さとは違う揺れが、瞳の底に浮いていた。
「あなたを、ひとりぼっちにしたくなかったの。放っておけない。あまりに……危なっかしいから……」
目を逸らさずに言う。背の白銀の翼がふわりと瞬き、彼の頬の汚れを淡くなぞった。
「それは、俺の台詞だろ。何を言ってる。意地っ張りで危なっかしいのは、いつだっておまえの方だ。だから俺は……」
語気は荒い。けれど吐息の温度は違う。胸がきゅっと縮む。
「……目を覚ましたら、あなたがいなかったの」
「……」
「それだけのことが……どれだけ心細かったか、あなたにはわからないでしょう。眠っている間、見たの。あなたが消えてしまう夢を。
もしあの通りになったらと思うと……怖かった。息が詰まるほど、本当に怖かったの」
閃光の残像が脳裏に弾け、指が彼の衣に沈む。
「理由(わけ)を知って……クリスもマリアも伯爵も、みんな辛そうな顔をしていて……わたし、声を上げて泣いて、わめきちらしたわ。わたし、女王なのにね……みっともないでしょう?」
笑おうとして、唇がうまく曲がらない。背に回した手の震えは、もう隠しようがない。
「……だから、マウザーグレイルにお願いしたの。あなたのところへ行ける力を、あなたを守れる力がほしいって。そうしたら、レシュトル……この剣に眠っていた意思が応えてくれた。それが、この白銀の翼。あなたをさらい上げるための、たった一つの理由。あなたを、失いたくなかったから……」
言葉の代わりに、腕の重みがわずかに増す。その圧が胸骨にやさしくかかり、伝わった確かさに熱が広がる。
「……それがこの力か……」
彼の視線が、遠いものでも視るように背の光へ滑った。
「俺には何がなんだかわからん……だがな、俺はおまえと交わした絶対の約束を違えたんだ。何が何でもおまえを守り通すという約束。絶対に離さないという約束。その両方ともだ。おまえだけじゃない、俺はユベルをも裏切ったんだ……」
言葉が雪面へ落ち、冷たさが皮膚を撫でる。
「……俺は斬った。何度も、何人も。お前が忌む“殺し”を選んで、この手のひらを真っ赤に汚した。この血は、もう落ちないだろう」
「ええ、嫌いよ。そんなやり方……」
額を胸に押し当て、くぐもって返す。布越しに二人の拍が重なり、呼吸が短く揃った。
「……でも、あなたがわたしを置いて、一人で逝ってしまうことの方が、ずっと、ずっと嫌い」
一粒の涙が衣を濡らし、小さな円を作る。小さな音が、光殻の静けさで大きくなる。
「あなた、前に“銀翼”の話をしてくれたじゃない……。左と右の片翼同士が支え合ってはじめて完成するって。それがふたつでひとつの翼なんだって。わたしたちも同じなんだって。その言葉、覚えてる? なのに、どうして信じてくれなかったの。どうして、わたしを頼らなかったの……!」
「……お前まで穢したくなかった。おまえの手を、血で染めさせたくなかった」
「……それは、わたし自身が決めることよ」
声に芯が入る。冷えた空気が肺を満たし、翼がひそやかに揺れた。
「勝手に、優しさの顔をして……全部、あなた一人で抱えないで。重すぎる荷物なら、わたしにも持たせて」
光殻の端で月が滲む。月に擦れた横顔が近く、痛い。
「……そんな言葉を言わせるために、生き残ったわけじゃない」
「じゃあ何のため? わたしの知らない覚悟のために? それで死んで……誰が報われるの? わたしは報われない! あなたがいない未来なんて、わたしには何の価値もない!」
「報いなんて、最初から望んでない。ただ……お前の笑っていられる未来を、守れれば、それで――」
「違う。未来は、“ふたり”で守るの!」
音が澄んで跳ね、殻の内側に輪を広げる。彼の瞳がはっと開き、別の光が差した。
「以前に、茉凛にもこう言われた……『辛いことも悲しいことも、半分こにしたい』って。だから、わたしにも背負わせて……」
「おまえが背負う必要なんてない……」
「いい? ひとりじゃツバサは折れるんだよ。どうして、それがわからないの……! あなたがいないと、わたしは飛べない!」
「……俺はお前に守られる理由なんてないし、赦されるとも思っていない」
硬さの底に、疲れの色が滲む。
「バカっ!」
胸の堰が切れ、熱が掌まで走る。
「赦しなんて、要らないわ……! あなたがどんな間違いを犯したとしても、あなたがどれほどの罪を背負ったとしても、あなたの罪を量る天秤の片側に、わたしの罪も載せる。それで傾きゃしない。ふたりでなら、きっと、半分になるわ!」
「半分にすれば軽くなるものじゃないだろ」
「じゃあ倍にして!」
涙は乾いた。言葉の背骨は、いまは熱だけで立つ。
「あなたが苦しむなら、わたしも同じだけ苦しむ。あなたが罪を背負うなら、わたしも同じだけ背負う。ふたつでひとつ……これまでわたしたちはそれで生きてきた。これからだって、そう生きていくの。それが、わたしたちでしょう!?」
鼓動が暴れ、甘い痛みが喉を刺した。
彼は驚いたように見つめ、やがて、ゆっくり表情を緩める。頬の筋がほどけていくのが、近さの中でわかる。
「……強いな、お前は」
諦念ではない。感嘆と、すこしの安堵が混じった音。
「弱いのよ……」
首を横に振り、袖で頬の血を拭う。冷たい肌の奥に、ごく微かに温が返ってきた。
「あなたがいない世界のほうが、わたしにはずっと怖いだけ。あなたを失うくらいなら、どんな罪だって背負うわ」
触れた指先に彼の肌の強張りが走り、すぐに力が抜け、掌が重なってくる。その握りは、もう迷っていない重さだった。
「……おまえ、そこまで……俺なんかを必要としてくれるのか?」
「決まってるじゃない。わたしにはあなたが必要なの。あなたじゃなきゃだめなの」
「そうか……すまなかった」
掠れた低音が、静かに胸に沈む。謝罪と感謝、そして受け入れる決意の温度だ。
「俺には、赦される資格なんてないと思っていた。だが──お前の翼がそう言うなら……信じてみたい。お前と共に、背負うという道を」
涙を拭い、今度は真正面から笑う。胸の真ん中に、やわらかな熱が灯った。
「赦すとか、赦さないとかじゃないわ。――一緒に背負うの。だって、わたしたちは……」
「ふたつで、一つの翼だ」
彼が言葉を継いだ瞬間、その手を強く握り返す。ごつごつとした掌の温度が、心へ静かに流れ込む。
――そう、わたしたちはふたつでひとつ。
「……だからもう、ひとりで飛ばないで。いっしょに飛ぼうよ?」
声はもう震えない。光殻の内側で空気が澄み、拍が揃う。
「わかった……よろしく頼む。これからも、一緒にな」
彼はゆっくり、深く頷いた。蒼の奥に迷いはなく、揺るぎない信頼と愛情だけが、静かに、確かに光っていた。
わたしたちの手が重なったそのすぐ隣で、冷たい声が割り込んできた。
《SYSTEM STATUS》
▼外殻ストレージ残量 92%
▼フィールド崩壊予測 86s
――ログ以上。
レシュトルの無機質な通告。それが、わたしたちを甘い感傷から現実へと引き戻す。
光殻の内壁に、赤いリングが警告のように浮かび上がる。数字が冷徹にカウントダウンを始め、雪面に映るふたりの影を、刻一刻と迫る限界へと追い詰めていく。
わたしは剣を抱え直した。マウザーグレイルの鍔が小さく脈動し、柄頭の宝珠に蒼白い光が灯る。さっきまでの温かい鼓動とは違う、システムとしての冷徹な反応。
「そろそろ……放出しなきゃ」
フィールドに量子蓄積(ストレージ)されたエネルギーは限界に達しつつある。このままでは、外殻が崩壊してしまう。
「放出……? なんのことだ?」
ヴォルフが訝しげに眉を寄せる。
「この障壁は、マウザーグレイルが生み出したものなの。さっきの魔導兵装が放った火球、消えちゃったけど、どうなったと思う?」
「まさかとは思うが跳ね返したんじゃなく……吸い取ったというのか、あれを?」
彼の声に驚愕の色が浮かぶ。
「御名答(ごめいとう)。あなたって、ヴォルフになっても本当に目がいいのね――」
わたしは少し悪戯っぽく笑ってみせる。
「吸い取った力は、ぜんぶ大事に保存しているわ。それを放てば、周囲の敵を一斉に無力化できる――」
外殻に群がり来る兵士たち。その数はおよそ三十。そして距離を取って様子を窺う影の手が六人。彼らは、光の殻に阻まれて手出しができずにいるが、その殺気はフィールド越しにも伝わってくる。
「けれど、その熱も衝撃も、間違えれば人を殺してしまう可能性がある。だから、うまく使いこなさないといけない」
「そんなもの、制御できるのか?」
ヴォルフの問いは真剣だ。
「できるわ」
わたしは迷わず頷いた。
「でも……放出の方向はあなたに、そして聖剣ガイザルグレイルに任せたい」
「ガイザルグレイル? それって、この俺の“名無し”の聖剣のことか?」
「ええ、巫女と騎士、対を成すわたしたちに託された絆の象徴、いわば……“夫婦(めおと)”の剣よ」
何の考えもなしに、するっとその言葉が出た。そうとしか表現できなかった。不思議と……恥ずかしいとも思わなかった。それが当然であるかのように。
「夫婦剣か……」
彼は、その言葉を噛みしめるように呟いた。
そう、かつて幻想世界の庭園で見た、巫女と騎士、二つの魂を繋ぐ絆の証……。
彼の頬が、微かに赤らんだように見えたのは、気のせいだろうか。
「詳しい説明は後。わたしの感覚だけじゃ、細かい制御が追いつかない。あなたは一文字に、すべてを切り払う感覚で。そうね、手前の地面に向ける感じで雪と地面を抉り飛ばすイメージでお願い」
「意図は理解した。要するに斬るんじゃなく、溜めた力で敵の手前あたりを、地面ごと吹き飛ばせってことだな。そうすりゃ、風圧で敵は立ってられなくなる」
「さすがはヴィル、理解が早いわ」
わたしは微笑んだ。
彼は視線を上げ、外殻越しに蠢く影を見据える。
六つの影がこちらを取り囲むように動き、刃を構えてタイミングを見計らっていた。彼らの動きには、先程までの混乱はなく、新たな指示を受けたかのような統制が取れている。
わたしは深く呼吸を整えた。空気が、凍てついた肺を満たし、熱へと変わっていく。
胸の内の器に精霊子が集まるイメージが浮かび、剣を通じて共鳴を始めた。マウザーグレイルが、ガイザルグレイルが、互いに呼び合うように、低く、高く、震えている。
《ベクトル固定。街道中央、北へ20メートル。高さ3メートル。雪面を撫でる衝撃波に》
「了解。場裏・赤(じょうりあか)を展開して、ガイザルグレイルを焦熱の剣に変える」
脳裏をよぎったのは、前世で出会った少女――真坂アキラ。鋭い眼差しの裏側に、弟のためなら迷わず傷だらけになる優しさをしまい込んだ子だった。
――アキラ、あなたの流儀・赤、借りるわね……。
「場裏・赤――展開!
ガイザルグレイルが、わたしの意思に応えるように、淡い紅のオーラを纏い始めた。刀身が桜色から白色へ瞬時に移り、千度超の熱が空気ごと軋ませる。まるで世界が悲鳴を上げるような、凄まじい熱量。けれど、これは守るための力……!
わたしは付け加える。
「二重の場裏で熱は遮断してある。柄は冷たいままよ――信じて」
**白は柄周囲の微小領域に、赤は刃周囲の別領域にそれぞれ領域解放。属性は混ぜない。**
ヴォルフは僅かに指を締め、無言の了承を返した。
《SYSTEM STATUS》
▼残り時間 59s
――ログ以上。
マウザーグレイルと白銀の翼が光の糸を引いて振動する。
精霊子の螺旋が剣先を中心に広がり、周囲の空間がわずかに歪んだ。
「死なせたくない。敵も味方も……だれひとりとして」
わたしは、静かに呟いた。ヴォルフのガイザルグレイルも、共鳴するように低くうなりをあげる。その刀身から立ち昇る陽炎が、彼の決意を物語っていた。
金属が擦れる音と、雪を蹴った冷気が一拍漂った。
「俺も同じだ」
彼の声は、いつものように短く、けれど確かな意志を宿していた。その声が、わたしの決意をさらに強くする。
《IVG-LOG》
▼フィールド残存時間 37s
――ログ以上。
雪が、ひと片、光殻に触れて溶けた。
光殻の温度がさらに上がる。内部に溜め込まれた圧力が臨界点に近づいていくのを、肌がはっきりと感じ取る。フィールドが、悲鳴を上げているようだ。
「カウント入る。準備はいい?」
わたしが問うと、ヴォルフは赤熱するガイザルグレイルを構え、雪を踏みしめて力強くうなずいた。彼の瞳が、決意の光を宿してわたしを見返す。
「三……二……一……」
《ゼロ》
瞬間、わたしたちは同時に剣を振り下ろした。
二振りの聖剣が、夜空の下で白銀と紅蓮の軌跡を描く。
フィールドが砕けるように弾け、蓄積されたエネルギーが円環状に爆ぜる。雪面を這う白光の衝撃波に、赤熱した嵐が重なり合う。それは熱を持たない純粋な力の奔流と、全てを溶かす灼熱の暴風。
轟音。閃光。夜が縫い裂かれる。
雪が瞬時に蒸発する。地面が抉れ、氷片と土くれが竜巻になって舞い上がる。
衝撃と熱波は街道を薙ぎ払い、木々を根こそぎ倒していく。
黒衣の影は抗う術もなく吹き飛ばされ、宙を舞い、雪の中に叩きつけられた。
重装歩兵たちも盾ごと紙屑のように舞い上がり、熱で歪んだ鎧が無惨な姿を晒す。
嵐は街道の奥、魔導兵装の列をも呑み込んだ。
巨大な機械が木の葉のように吹き飛ばされ、砕け散る。
さらに遠く、宰相の乗る豪奢な馬車が、衝撃で大きく傾ぎ、横転しかけるのが見えた気がした。
わたしたちの放った力は、凄まじい破壊をもたらした。けれど、意図的に殺傷能力は抑えた。ただ、熱傷や打撲、骨折は免れないだろう。
それでも、命までは奪わない。それが、わたしたちの選択だった。戦いを、憎しみの連鎖を、止めるために。
わたしの腕の中でマウザーグレイルが低く脈打ち、残光が静かに雪面に溶けていく。
蒸気の白が、冷えた空気にほどけていく。柄頭の宝珠がかすかに震え、指先へ伝わる微かな拍が、胸の鼓動とゆるく同期した。刃の震えは血を求めるものではない――張り詰めた弦を戻すときの、解かれていく音のようだ。
遠くで倒れた影のむこう、雪の下から上がる湿りと鉄の匂いのあいだで、低い「生」のざわめきが確かに残っている気がする。越えていない。そう告げるように、剣はまた小さく震えた。
それでも――確かめずに、前へは進めない。
《LIFE SCAN》
▼敵陣域 生体シグナル 正常範囲/多数
▼致死傷例 0
――ログ以上。
《敵陣営を再走査。生体シグナル正常範囲内で確認。致死傷例、ゼロ》
レシュトルの報告が終わるのを待って、私はそっと息を吐き、ヴォルフと視線を合わせた。彼の瞳には安堵とともに、自分たちの放った一撃への畏怖がわずかに揺れている。
「──これが“巫女と騎士”が共鳴する力か。ここまでとは……正直ぶったまげた」
「まだ、あなたと完全にリンクしたわけじゃない――今のは、ほんの“試し斬り”みたいなものよ。それでこの有様……」
自分の言葉にぞくりとする。雪煙の向こうで折れた槍が蒸気を吐き、鎧の継ぎ目から白い湯気が立ち上っていた。
想定を、軽く超えていた。いちばん肝を冷やしているのは、きっとわたしだ。
「……死者は――出していないわよね?」
《LIFE SCAN》
▼敵陣域 生体シグナル 正常範囲/多数
▼致死傷例 0
――ログ以上。
レシュトルの無機質な声に、胸の奥を絞っていた紐がほどけた。膝が抜けそうになるのを、必死にこらえる。
「よく抑えたな。上出来だ」
ヴォルフが私の頭にそっと手を置く。節くれ立った大きな手のひらが、雪よりもぬくもりを伝えてくる。それだけで十分だった。何よりの報酬だった。
「あなたと一緒にいてくれたから、うまくいったのよ」
微笑むと、背の白銀の翼(ルミナ・ペンナ)が淡く広がり、白銀の粒子が夜気と雪に溶けながら静かに舞った。
夜空には、静けさと、戦いの後の奇妙な安らぎだけが残されていた。
《IVGフィールド、再展開》
《SYSTEM STATUS》
▼フィールド残存時間 53s
――ログ以上。
レシュトルの声が、現実の時間を告げる。
もう一度だけ、彼と目を合わせた。
「さあ、行こう。この光が消える前に。――次は、あなたの罪じゃなくて、未来を語る番よ」
「……ああ、では宰相閣下にお目通りといこうか」
彼の腕が、わたしの肩をしっかりと抱いた。今度は、躊躇いなく。
わたしたちは並んで立ち、雪を蹴った。白銀の光が尾を引き、夜空へと白い弧を描く。
その背にあるのは、ふたつの翼ではない。
ひとつで飛ぶ、誓いのかたち。
未来へと続く、光の軌跡。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード466開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
言葉が剣を超える時
【本文】
《IVG-STATUS》
▼量子ストア残量 17%
▼残存時間 00:41
▼物理接触 不可
――ログ以上。
冷徹なシステム表示。鼓膜を打つデジタルな宣告。
刹那、わたしたちを包む淡蒼の半球殻が、限界を告げるように不規則に揺らぎだした。雪も風も音も――苛烈な戦場のすべてを遮断していた光殻がきしり、と軋む。壊れそうな鈴が鳴るような微かな悲鳴を返し、肌に感じる殻の存在感が希薄になっていく。
内側で、わたしはヴィルの隣に立つ。足裏から雪面へ流れ込むストレージエネルギーの微かな浮遊感。凍てついた地表を滑る、重力を忘れた小舟。彼の蒼い瞳は、ただ一点、前方の闇と、そこに黒々とそびえる宰相軍の壁を見据えていた。
その、瞬間だった。
信じがたい光景が、目の前で繰り広げられたのは。
壁を構成していた兵たちの瞳が、悪夢でも見たかのように恐怖に見開かれる。口を大きく開けて何かを叫んでいる――光殻に遮られ、その声はまるで遠い世界の残響。硬く握られていたはずの槍先が、意思なく雪を穿つ。引き絞られていた弓の弦が、ふつり、と緩む音だけが、なぜか妙にクリアに聞こえた気がした。
まるで神の命令でも受けたかのように、人の列は左右へ裂け、わたしたちの進路が、赤錆びた海のように割れて開く。
旧約の伝承、『紅海を割るモーセの奇跡』――前の世界で読んだその物語の名が、舌裏にそっとよみがえる。ただ純粋な恐怖と、理解を超えたものへの驚愕が、人の壁を押し分けていく。彼らの瞳は、畏怖と混乱に満ちていた。
後景に、ダビド率いる殿(しんがり)の部隊が見える。肩を血で染め、息を切らしながらも必死に追随してくる彼ら。負傷した仲間を庇い、警戒を怠らないその目にも、目の前の光景への驚きと、わずかな希望の色が浮かんでいた。
道を開けた宰相軍の兵士たちは、彼らにさえ刃を向けようとはしない。貴族派が中心とされる近衛騎士たちも、ただ凍りついたように立ち尽くし、鞘の上で手を震わせ、喉の奥からか細い呻きを漏らすだけだった。
もはや、勝敗は決したのだ。
光殻の外膜は、その色を淡蒼から、力なく褪せた翡翠色へと変えていく。まるで寿命を示す砂時計の砂が、最後の層を静かに削り落としていくように。
わたしは揺らめく殻の内側にそっと片手を添えた。システムとしての冷たい脈動が、指先から伝わる。あと、数十拍。この光が消えれば、守られた聖域は終わり、再び冷酷な世界が牙を剥く。
けれど、足は止められない。止まってしまえば、今しがた開いたこの“海”のような道すら、幻のように閉じてしまいそうで――。
《SYSTEM STATUS》
▼残存時間 00:41
――ログ以上。
《EXTERNAL FEED》
▼外界映像 優先表示
――ログ以上。
レシュトルが、まるで悪意でもあるかのように、外界の情報を優先ポートで開いた。
揺らぐ殻越しに、砲身を無惨にへし折られた魔導兵装の残骸と、吹きさらしの荷車が映し出される。
その荷台に……王国軍の紋章が入ったローブを纏った亡骸が、まるで物のように、無造作に積み重ねられていた。
血と煤に汚れ、降りしきる雪に凍りつき、硬直した手足が、物とも人ともつかぬ角度で折り重なっている。
ひとり、ふたり……十……いや、十一。
その数を視認した瞬間、胸を冷たい氷柱で深々と貫かれたような衝撃が走った。
――だめだ。触れられない。
この光の殻が存在する限り、声も、この手も、届かない。かすかに鉄錆のような臭いが漂う気がしたが、それもこの殻越しの幻かもしれない。ただ、ガラス越しのように見つめるしかない。この翼は、彼らを救うために間に合わなかったのか……?
指が、震えながらコンソール――レシュトルのARインターフェースへと伸びかける。今すぐ、この壁を消し去って、彼らに触れたい。衝動が指先を焼く。けれど。カウンターの数値だけが、ひどく残酷に、時を刻んで進んでいく。
《SYSTEM WARNING》
▼残存時間 00:15
▼衝撃 警戒
――ログ以上。
光殻全体が、陽炎のように、あるいは朝霧のように、頼りなくほどけ始める。フィールドの終焉を告げる鈍い鐘の音が、耳の奥で低く響く。わたしは唇を強く噛みしめた。
あと、十拍。
吸い込んだ呼気に、鋭い金属の冷たさが混じり、肺がきりきりと縮む。
《COUNTDOWN》
▼00:05
――ログ以上。
《COUNTDOWN》
▼00:04
――ログ以上。
《COUNTDOWN》
▼00:03
――ログ以上。
《COUNTDOWN》
▼00:02
――ログ以上。
《COUNTDOWN》
▼00:01
――ログ以上。
ゼロ。
パリン、と薄氷が割れる。
淡蒼の世界が、弾けた。
守りの光が消え失せる。
夜の空気が剥き出しの肌を切り裂く。
凍気。皮膚が裂けるような痛み。鼻腔の奥に、凍り割れた鉄の匂いが滲む――冷えすぎた血が吐く火花の証。肺が凍りつき、鼓動が鈍く、遅くなる錯覚。
骨身に沁みる極寒に、思わず膝が折れ――
肩に、温もり。
背後から大きな――ヴィルのものだとすぐにわかる、少し硬いが温かい白いローブが、ふわりと肩にかかった。間髪入れず、力強い腕が背中に回され、ぐっと彼の胸元へと引き寄せられる。
驚きに、声も出ない。
「――すまん。こうでもしないと、おまえ、また熱出して倒れちまうだろが」
耳元で、低く掠れたヴォルフの声。冒険者然とした薄い革の鎧越しに、彼の体温と、荒いけれど力強い鼓動が伝わってくる。彼の吐く息が、わたしの頭頂をすべって白く散った。そのわずかな熱さえ、今は命綱のようだ。
――いつもそうやって、口より先に動いちゃうんだもんね。
その温もりに、死の淵から引き戻されたような安堵が込み上げる。彼がいる。それだけで、凍てつく世界に色が戻る気がした。
――ああ、この温もりと一つになれたら、どんな寒さも怖くないのに……。
彼の鼓動が、わたしの鼓動と重なって――耳朶の奥で二つのリズムがフェードアウトし、一拍だけ、世界から音が消えた。
「……ありがと……」
かろうじてそれだけを囁く。
けれど――。
わたしは彼の腕の中から抜け出すように、一歩を踏み出した。靴底が、雪の薄いクラストをパキリと割った。踏み抜けば戻れない、と足が知っている。
凍った雪を強く蹴る。目指すは、あの荷車。積み重ねられた、命の残骸。よろめきながら荷車にたどり着き、震える手で、一番上にあった遺体袋――粗末な布を、そっとめくる。
現れたのは、まだあどけなさの残る若い魔導兵の顔だった。固く閉じられた瞼には、白く凍りついた睫毛。雪と氷に縁取られた頬に触れたわたしの指先が、まるで灼けた鉄を掴んだかのように痛んだ。冷たさが、痛覚となって神経を焼く。爪の間に、硬い氷の膜が割り込んでくるような感覚。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
か細い声。
それしか言えない。
自分のものとは思えない。
震える吐息が白く滲む。
こらえきれない嗚咽が、熱い塊となって喉から込み上げる。
耳の奥で、自分の脈がどくどくと膨張するような鼓膜の脈鳴り。視界が涙で歪み、若い兵士の顔が滲んで見えない。女王として、力を持つ者として、いや一人の人間として、彼らの命を守れなかった。その事実が、鉛のように重くのしかかる。
救いの羽根のはずの、白銀の翼(ルミナ・ペンナ)が、今はただ重く、自身の無力さを突きつけるかのように痛々しく震えている。
自嘲と、拭いきれない罪悪感に胸が締め付けられ、膝から崩れ落ちそうになった、そのとき――。
ふわりと、先ほど掛けられたローブの上から、再び力強い腕が背中に回された。
言葉はない。
ただ、ヴォルフがわたしをそっと、しかし強く抱き寄せ、彼の硬い、けれどどこまでも頼もしい胸に顔をうずめさせてくれる。
わたしの嗚咽に合わせて、彼の眉間に深い皺が刻まれるのが気配でわかった。抱きしめる腕に、わずかに力がこもる。彼の指先が、わたしの震える肩を確かめるように、一度だけ強く握った。彼の体温と、静かな鼓動だけが、慰めるように伝わってくる。
後方では、追いついたダビドたちが荷車を前に静かに敬礼し、その顔には悲しみと共に、宰相への静かな怒りの色が滲んでいた。
どれくらいそうしていただろうか。
彼の胸で嗚咽を殺しながら、ふと視線を上げた。
敵陣の後方。そこに、戦場の風景とは不釣り合いなほど豪奢な、六頭立ての黒い馬車が停まっているのが見えた。覚えている。王宮を発つその車列を、わたしは執務室の窓から見つめていたのだから。
黒漆塗りの分厚い外板、磨き上げられた金細工の留め金。その周囲には、物資を満載したと思しき頑丈な荷車がいくつも従えられ、あまつさえ治癒術師の詰所用と思われる立派な天幕まで整えられている。
宰相クレイグ・アレムウェルが座乗する馬車に違いない。
じわり、と腹の底から熱いものがせり上がってくる。怒りが、凍てついた脈を無理やり早鐘のように打たせ、涙よりも熱い血が、頬にカッと上るのを感じた。許せない。絶対に、許してはいけない。
――彼が……兵士たちをこんな目に。
握りしめた拳に力が入り、爪が食い込んで痛い。
そのとき。
張り詰めた雪原の空気を、まるで凍らせるかのように鋭い一喝が貫いた。
「――総員、武器を収めよ!」
声のした方角から、赤いローブが雪煙を裂くように下りてくる。
深紅の布地に、金糸で緻密に刺繍された近衛師団参謀の徽章。厳しいまでに整った顔立ちに、月光を映して剃刀のように光る灰色の双眸。
彼が剣を抜かぬまま、しかし揺るぎない威厳をもってわたしたちの前に進み出て片膝を突くと、周囲で凍りついていた兵士たちが、まるで呪縛が解けたかのように、次々と武器を地面に伏せた。彼らの顔には、命令への服従だけでなく、どこか安堵の色も浮かんでいた。
わたしは手袋の指先で、乱暴に涙の痕を拭う。
月と、遠くで燻る狼煙の匂いが混じる夜の空気の中、深紅の参謀と、真正面から視線がかち合った。
◇◇◇
「恐れながら申し上げます。近衛師団参謀にしてヴァレリウス家当主、マルグレイにございます。御前にお立ちの御方は、メービス女王陛下並びにヴォルフ王配殿下であられますか?」
深紅の外套を纏った彼――ヴァレリウスが、雪の上に恭しく膝をついた。その静かな動作だけで、雪煙の彼方で凍えていた宰相軍の兵たちの息が、そろって止まるのがわかった。張り詰めた緊張が、再び雪原を支配する。
隣に立つヴォルフが、低く、けれどヴァレリウスにも聞こえるであろう声で呟く。
「……名は聞き及んでいる。貴族派と承るが、勇猛にして気骨ある御仁と聞く」
「身に余るお言葉、恐悦至極に存じます」
その言葉にヴァレリウスの眉がかすかに動いたが、表情を変えずに深く頭を垂れた。
わたしはもう一度、涙の痕を指で拭い、まだ少し嗄れの残る声で、しかしはっきりと彼に促した。怒りと悲しみで震えそうな自分を叱咤し、女王として言葉を紡ぐ。
「顔を上げて、ヴァレリウス侯」
そして、周囲の凍える兵士たち――敵も、そして追いついたダビドたち味方も――にも聞こえるように続ける。
「まずは倒れた者たち、傷ついた者たちを助けましょう。敵味方関係なく、今すぐに」
わたしの言葉に、ヴァレリウスの灰色の双眸が、驚きと、そして…深い安堵の色を宿して見開かれた。彼はゆっくりと立ち上がり、その声には抑えきれない熱がこもっていた。
「陛下のそのお言葉……! 不肖ヴァレリウス、長らくお待ち申し上げておりました……!」
彼は一瞬、言葉を切り、こみ上げるものを抑えるように静かに息を吸った。
「大隊所属の食糧運搬車、乾薪、医薬品箱、そして治癒術師三名は健在にございます。――しかし、宰相閣下の厳命により、前衛部隊への交代並びに補給は一切禁じられ、なお強行軍を命ぜられました。その帰結が、この有様にございます。魔導兵四名、戦死。九名は既に錯乱の兆し。残る十二名も衰弱は極点……このままでは、彼らは……!」
彼の声には、これまでの命令への抵抗と、救えなかった命への強い悔恨、そして今、ようやく兵を救える道が開かれたことへの切実な響きが混じり合っていた。
「その命令、いま、ここで破って」
わたしは立ち上がり、集まった兵士たちにも聞こえるように、凛と声を張る。短い、けれど絶対的な命令。
「補給車を前へ! 治癒術師を動ける者から傷病者の元へ! この場の全権限は女王であるわたくしが掌握します。貴族院の印璽も宰相府の令状も、今は一切関係ありません!」
わたしの言葉に、ヴァレリウスは迷いなく、力強く頷いた。
「御意に! ようやくこれで、兵たちも救われます……! 感謝いたします、陛下!」
彼の声には、もはや迷いはなかった。女王の決断が、彼の胸の内で燻っていた葛藤と絶望を吹き払い、軍人としての本来の使命感に火をつけたのだ。
雪を踏む音がざわりと揺れた。宰相軍の兵たちの視線が、後方の豪奢な馬車と、わたしの間で不安げに揺れ動く。長年の軍規と、目の前の惨状、そして現れた女王。彼らの混乱は無理もない。中には、かすかな希望や期待を瞳に宿す者もいるように見えた。
沈黙を破ったのは、剣を捨てて膝をついていた若い兵士だった。彼は恐る恐る、しかし切実な響きで呟いた。
「や、薬箱を……! あいつ、もう息が……」
それが、凍りついていた流れを変える、最初の小さな火口になった。
ダビドが即座に動く。
「聞いたな! 女王陛下のご命令だ! 動ける者は手を貸せ!」
彼の檄に応え、殿隊の兵士たちがまず動き出す。鉄の鎧が打ち鳴らす、ガチャン、という重い決意の音が連鎖する。ヴァレリウスも即座に自身の部下に指示を飛ばし始めた。
「盾を担架にしろ!」
「折れた槍は松明に! 火を絶やすな!」
物資を積んだ荷車の幌が次々と開かれ、結束紐が革に擦れる乾いた音が、緊張の膜を静かに切った。乾いた薪束、薬草、清潔な油布が運び出されていく。薬箱が開けられ、乾燥した薬草の匂いが、血と鉄の金気に混じってふわりと漂う。
最初は戸惑っていた宰相軍の兵士たちも、一人、また一人と、同僚を助けるために動き始めた。息を呑む刹那の躊躇いの後、彼らは突き動かされるように走り出す。敵も味方もない、ただ目の前の命を救おうという空気が、ゆっくりと広がっていく。
夜気に赤々とした炎がいくつも起こり、冷え切った空気を震わせながら、湿った絹のような白い蒸気を立ち昇らせた。凍傷で紫色になった指先が、恐る恐る湯桶へと沈められ、苦痛に満ちた呻きが、少しずつ安堵のため息へと変わっていく。
わたしは、瓦礫の影で小さくうずくまる少年兵のそばへ膝をついた。
その体温は、触れるまでもなく雪と同じ冷たさだとわかる。
わたしは掌に小火(こび)――いや、場裏・赤の限定事象干渉領域を浮かべた。熱を司る領域だ。
指先でそっと息を吹きかけると、橙色の薄い火花の膜がゆらぎながら少年の胸へ滑り込み、胸腔を走る太い血管ごと、かすかに温めていく。
「もう大丈夫――じきに温もりが戻るわ」
動かしすぎない。腋の下と胸の内側、体幹に近いところから温を戻す――山で教わった通りに。
淡い光が脈打ち、凍てついた血がゆっくりと解ける。白蝋のようだった唇がわずかに震え――
「……あったかい……」
吐息混じりのその囁きが、胸の奥で凍っていた氷をそっと溶かした。
そう――本来の精霊魔術は、生きるためのささやかな灯でいい。壊すためでなく、守るためにこそあるのだから。
背後で、ヴィルが静かに自身の剣を鞘に納める気配がした。
そして彼は、無言で自身の白いローブとは別の、予備の外套を脱ぎ、震える別の兵士の肩にそっと掛けた。兵士は、驚きと困惑、そして込み上げる嗚咽を必死に堪えながら、わたしを、そしてヴィルを見上げ、ただ唇を震わせている。
ヴィルは何も言わず、ただその兵士の肩を力強く一度だけ叩いた。不器用な、けれど確かな励まし。
――別に愛されたいわけじゃない。認められたいわけでもない。
ただ、この長く凍てついた夜を越えるために。わたしたちは、こうして「ふたつでひとつのツバサ」になったのだ。
胸に刻んだその比喩が、熱い血潮と共に脈を打ち、背中で白銀の翼が応えるように微かに啼いた気がした。視線が合ったヴィルが、かすかに頷く。それだけで、力が湧いてくる。
焚き火の輪が広がり、暖かな光と喧騒が満ちていく。けれど、その円の外には、まだ横たわる十一の遺体袋があった。彼らに、この赦しと再生の炎は届かない。
その事実に、涙が再び熱く滲みかけた、その瞬間。
ヴィルが、わたしの肩を大きな手でそっと叩いた。
「……泣くのは、後でいい。俺の胸なら、いつでも空けてある」
低い、けれど有無を言わせぬ囁きが、脆く崩れかけていた決意を、冷たい鉄へと鍛え直してくれる。
わたしは強く頷き、湯桶を次の傷病者へ運ぼうとしていた兵士に声をかけた。
「待って。熱すぎるお湯は駄目よ。霜焼けした指が割れてしまうわ。清潔な布で包んで、少しずつ温めてあげて」
人肌より少し高い三十七から四十度――数字にすればその幅で、指先ではなく胸の奥へ戻す温度を思い描く。
兵士は、わたしの言葉に驚きと、そしてかすかな敬意をないまぜにした表情で「はっ」と短く応え、足取りも確かに駆けていった。ダビド隊の衛生兵が、すぐにその兵士に寄り添い、手当てを手伝う。
人の動きが少し落ち着いた頃、ヴァレリウスが戻ってきた。肩を斜めに濡らす雪を、彼は無造作に払い落とす。
「陛下、恐縮ながら、外套をお持ちいたしました」
彼はわたしの薄着――ヴィルが掛けてくれたローブだけではまだ心許ない格好に気づき、自身の深紅の外套を差し出した。
「お寒うございましょう。差し当たりこちらをお召しください。後方よりただちに新しいものを手配いたします」
彼はそう言うと、外套を丁寧に畳み、隣に立つヴォルフへと差し出した。ヴォルフは無言でそれを受け取ると、わたしの背後から、その分厚く温かい外套をふわりと掛けてくれた。
彼の大きな体にはちょうど良いサイズだったのだろう、わたしにはぶかぶかだけれど、その重みと染み込んだヴァレリウスの体温が、凍えた体にじんわりと沁みていく。
「ありがとう、ヴァレリウス侯。助かります」
わたしが礼を言うと、ヴァレリウスはわずかに頬を緩め、しかしすぐに表情を引き締めて問いかけた。
「ところで陛下、宰相閣下は如何なさいますか。いまもあの馬車の中に留まっております。ご下命あれば、私めが直ちに身柄を確保いたします」
彼の灰色の瞳には、抑えきれない敵意がちらつく。
わたしは首を横に振った。
「いいえ。今はまず、目の前の命を救うことが先決です。宰相の逃走を防止するため、ダビド、銀翼騎士団に馬車の監視をお願いできますか?」
ダビドが力強く頷く。
「はっ、お任せください」
「ありがとう。――宰相には、彼が自らの意思でここへ出てくるのを待ちます。話し合うべきことは、山ほどありますから」
炎が、先ほどよりも高く燃え上がり、雪面が不安定な橙色に染まった。湯気と、消毒薬と、そして微かな血と油の匂いが混じり合う。夜の空気は、それでもなお肌を刺すように冷たい。
遠く、後方に控える豪奢な黒塗りの馬車の扉が、まるで重い溜息をつくように、軋みを孕んで揺れた気がした。
まだ、何も終わってはいない。あの扉が開く時、きっと言葉よりも鋭い剣が、わたしたちに向けて放たれるだろう。
しかし、もうわたしは恐れなかった。進み出るわたしの背中を、ヴィルの大きな手がそっと押した。
無言の『行け』。それだけで、恐怖は勇気に変わる。
ヴィルとわたし、半身ずつで広げる翼は、どんな恐怖よりも大きく、強いはずだから。ダビドたちが、わたしたちの背後を静かに固めているのも心強い。
胸の内で、静かに誓いを立てる。
たとえこの手に宿る力が、“破壊”しか知らなくても。
それでも、守り抜く。大切なものを、未来を。
そのために、わたしたちは選ばれたのだから。
夜明けまで、あと僅か。炎が歌うように爆ぜ、兵たちの苦しみの呻きが安堵へと変わるたび、凍てついた雪原に、確かな生の色が少しずつ戻っていく。
◇◇◇
焚き火の周囲を、ようやく生の色が満たし始めた、まさにその頃だった。
後方に佇んでいた六頭立ての黒い馬車が、きぃ、と鳥の鳴き声にも似た不快な悲鳴を上げて、重々しくその扉を開いた。
そこから静かに降り立ったのは、闇夜に溶け込むような黒漆色の外套を纏い、その襟元と袖口に冷たい銀糸の刺繍を散らした、長身痩躯の男だった。
宰相、クレイグ・アレムウェル。
整っているが酷薄な印象を与える貌。そして、何よりも印象的なのは、その瞳。まるで磨き上げられた黒曜石のように、深く、冷たく澄み切っている。吐息は白い糸となって伸び、外套の金具が月を冷たく弾いた。
救護を受けていた兵士たちも、その主君の登場に身を固くし、再び怯えの色を浮かべる。囁き声も消え、ただパチパチと薪の爆ぜる音だけが響く。
宰相は、ゆっくりと周囲を見渡し――その冷たい視線を、正確にわたしへと向けた。
その唇に、音のない、氷のような笑みが浮かんだ。彼の吐息が、まるで目に見えるかのように結晶化し、足元にカラリ、と乾いた氷の粉が降った気がした。そして、凍てつくような声音で言った。抑揚のない、まるで能面のような声。
「……これは、これは。女王陛下にあらせられましては、王宮にてご病臥あそばされていると伺っておりましたが――」
間。彼は言葉を切り、値踏みするようにわたしを上から下まで眺める。
「いつの間にか辺境にまで御自らお運びのうえ、これほどの“奇跡”をお示しとは――まさしく聖女の御業でございますな」
その口調は、どこまでも慇懃無礼だった。だが、言葉の端々から滲み出る、隠しようのない冷ややかな嗤いを、この場にいる誰もが感じ取らずにはいられなかった。
ヴァレリウスが苦虫を噛み潰したような顔で俯き、ダビドたちは警戒心を露わにする。
兵士たちの間に、再び動揺が走る。宰相の言葉は、彼らの忠誠心を試すかのように響く。
彼は、わたしの返事を待つでもなく、さらに言葉を続ける。その声は、静かだが雪原全体に響き渡った。
「しかも、あろうことか王国正規軍に対し、その不可思議な力を向けられるとは……もはや、本物の女王陛下にあらせられるのか、それとも王都に蔓延るという、“厄介な疫病神の類”か――いずれにせよ、この国の秩序を乱す存在、すなわち、王国に対する明白な敵でしかありませんな」
その言葉は、毒を含んだ氷の矢のように、兵士たちの心に突き刺さった。
特に、先ほど救護を受け、心揺れ始めていた宰相軍の兵士たちは、再び忠誠と目の前の現実の間で激しく動揺している。彼らの肩が強ばり、武器を収めた手に再び力がこもるのがわかる。
焚き火の影が不安げに揺らぎ、せっかく戻りかけた生気が、再び冷たい刃のような緊張感に塗り替えられようとしていた。
わたしは、きつく唇を結び、雪を強く踏みしめた。そして、宰相クレイグ・アレムウェルの前へと、一歩、また一歩と進み出る。
膝裏に溜まった冷えが、まるで血液ではなく鉛を循環させているような錯覚。それでも、わたしは歩みを止めない。
息を、吸う。
背後で、ヴィルが音もなく半歩下がり、わたしのすぐ隣に寄り添う気配がする。彼の存在が、揺らぎそうな心を支えてくれる。
「心配するな」彼の低い声が、わたしだけに聞こえるように囁かれた。わたしの背中で、白銀の翼が応えるように、威嚇するように、微かに銀色の鱗粉を散らしながらうねった。
冷たい夜風が、彼の放つ威圧感と、わたしたちの決意の間を吹き抜けていく。
氷の宰相と、翼持つ女王。
雪と炎が交錯する戦場で、言葉による、もう一つの戦いが始まろうとしていた。
【後書き】
■ ミツルの「共感」の本質 自己像の投影と義務感の融合
ミツルは、泣く人を見ると“他人の苦しみ”を感じるのではなく、「自分のかつての痛み」として感じてしまう。
それが単なる同情でも感情移入でもなく、本質的な“自己との重なり”=トラウマの再来。
「あの子の涙は、かつてのわたしの涙」
「ならばわたしは、あのときの茉凛になるしかない」
このロジックが、あらゆる選択肢を“使命”に変えてしまう。
だから彼女は、「女王」でも「悪魔の魔術師」でも演じられる。“本当の自分”よりも“誰かの救いになる自分”を優先する人格なのです。
■ だからこそ、止められない。だからこそ、倒れる。
ミツルは“救われた痛み”を知っているから、“救われない苦しみ”を見過ごせない。
その結果――
女王という役を背負い、
偽りの聖性をまとう仮面をつけ、
人としての弱さを捨て、
睡眠も身体も、全てを削って前に立ち続ける。
でも、当然ながら身体と心は壊れる。誰にも代われないからこそ、誰よりも無理をしてしまう。
この“止められない悲しさ”が、物語の美しさであり、読者にとっての痛みでもある。
■ ヴォルフの「放っておけない」は、ただの保護本能ではない
彼は気づいてしまった。ミツルが「誰にも縋らずに死に向かいかねない」と。
だからヴォルフは、無理をしてでもそばにいる。
――彼にとっては「守る」ことが「生かす」ことだから。
でも彼自身も、“彼女を救うためなら死んでも構わない”という道に足を踏み入れてしまっている。
それはミツルの「誰かのために死ねる」精神と、鏡写しのように危うい。
「彼女は、誰かを救うためなら死ねる人だ。
……だから俺は、彼女を救うために生きるしかない。」
この静かな誓いこそが、ヴォルフという男の“語らない正義”であり、
ミツルが彼を必要とする唯一の理由でもある。
■ 「言わない」ことが語る、感情の飽和
彼女が遺体を前にして口にしたのは、ただ一言、
「……ごめんなさい……」
のみ。
普通の物語構造なら、ここに以下のような“説明”が付くのが通例です
「もっと早く目覚めていれば」
「私の責任だ、私が来なかったから」
「あの時、剣を抜く決断ができていれば」
しかし、これらを一切言わせない/語らせないことで、
逆に読者は、“その言葉を言えないほどの痛み”が存在していることを察知します。
これは「語彙喪失による感情の臨界」です。
メービスという存在の「女王/少女」の二面性を強調する沈黙
この「ごめんなさい」は、彼女が王として詫びているわけでも、政治責任として弁明しているわけでもありません。ただ、目の前にある冷たい命を前にして、“人間として”発せられた謝罪です。
それ以上の言葉が出てこないのは:
言葉にした瞬間、その“責任”が制度化・記号化されてしまうから(≒女王としての防衛機制)
感情が強すぎて、言葉の器に入りきらないから(≒少女としての限界)
何を言っても、その死を“正当化してしまう”ように感じてしまうから(≒生者の倫理としての拒絶)
つまり、“語れないこと”そのものが、彼女の葛藤と誠実さの証明になっているのです。
■ヴォルフの “語らない男” を成立させる 3 本の柱
行動が先、言葉が後
ローブを掛け、抱き寄せ、肩を叩き、外套を差し出す──すべて 「台詞の前に身体が動く」。
読者は 行動=本心 と認識しやすく、寡黙でも深い信頼感が生まれる。
最小限の台詞は “相手本位”
「すまん。こうでもしないと――」「泣くのは、後でいい。俺の胸なら、いつでも空けてある」
謝罪・配慮・受容 だけを抽出。自己アピールを排し、ヒロイズムの臭みを消している。
群像の中で “声量” を抑える
ヴァレリウスやダビド、宰相など “雄弁な男” が周囲にいるため、ヴォルフの沈黙がいっそう際立つ。
沈黙=重み という舞台装置が自然に機能。
■偶然の一致
単なる偶然ではなく――魂の核に刻まれた“同じ傷痕”が思わず滲み出た結果・反復。
ミツルはメービスの記憶を持たないはずなのに、「遺体袋を前にした瞬間、まったく同じ言葉をこぼし、同じ涙を落とす」。
【リアクション】
0件
------------------------- エピソード467開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
黒髪の巫女と氷の宰相
【本文】
焚き火の橙が低く唸り、煤けた熱が頬に薄く貼りつく。鉄の匂いと凍てた夜気が交じり、雪明かりの白が兵の面頬に静かに沈んでいく。その輪の前へ、赤黒い外套を翻した宰相クレイグ・アレムウェルが、舞台の段差を踏む役者のように悠然と歩み出た。
その男の周囲だけ、空気がもう一段冷えたように肌が縮む。救護を受けていた手が止まり、甲冑の継ぎ目が乾いた小音を立てて硬直する。焚き火の細い爆ぜが、無数の眼差しの間に火花を散らした。
「まず第一に――女王直属の銀翼騎士団ばかりか、国軍の一部の部隊まで私情で動かしたと聞き及ぶ。女王といえど、これは明白な越権――」
言葉の刃先が雪面を撫で、薄氷のような静寂が広がる。宰相は一度視線を巡らせ、兵列の白い呼気まで数えるように、わずかに目を細めた。
「加えて私は、貴族院の正式決議と、病床にある女王陛下ご自身の〈裁可書〉を携え、ギルク殿下唯一の遺児・リュシアン殿下を次代へ迎えに赴くところであった。
……この行いを阻むというのなら、真偽いかんを問わず、貴女は『国家秩序への敵』」
雪を払うような眼差しが、槍の列をすべる。外套の裾が焚き火の熱に揺れ、影が地面に黒く伸びた。
「よって――排除対象である」
恫喝は風鳴りのように兵列をかすめ、肩が一斉に強張る。鎧の合わせ目が擦れ、胸の奥で寒さがゆっくり硬度を増していく。
それでも退かない。月光の白が頬に触れ、指先の冷えが柄へ確かな輪郭を返す。膝裏の震えを、吸気ひとつで押さえ、わたしは宰相を真正面から見据えた。
吐いた息の白がほどけ、喉の奥に鉄の味がにじむ。焚き火の橙が瞳に揺れ、視線は外さない。
「恐れ入りますが、いまのお言葉には事実と異なる点が多々あるように見受けられます。――偽証の疑いを拭えません」
雪の面が、一段深く静まる。焔が小さくはぜ、甲冑の継ぎ目が乾いた音で呼吸した。
「では、宰相殿。〈裁可書〉の原本をこの場でご提示いただけますか。あわせて貴族院の正式決議録も、そちらのご主張の順で拝見いたします」
声は荒れない。温度だけを静かに下げていく。
隣でヴィルが半歩、音もなく重心をずらし、ダビドが無言で片手を上げた。軍部の参謀ヴァレリウスは頷き、部下へ視線だけで合図を送る。
宰相は革筒を掲げ、雪の明るさの中でわずかに微笑した。
「原本は、ここに」
「恐れ入りますが、開示は目視のみとさせてください。印璽、日付、書記官名、決議番号をお読み上げ願えますか」
革紐が解ける擦過音。羊皮紙の乾いた匂いが、焚き火の油煙に薄く混じった。
宰相は一呼吸置き、あくまで悠然と羊皮紙を広げる。橙が金褐色の文字に這い、薄い影が紙面を横切った。
「リーディス王国貴族院、満場一致――」
「記録官のお名前を、お願いできますか」
「……記してある」
「伺っておりますのは、“お名前そのもの”です」
短い沈黙。焚き火の爆ぜがひとつ、白い息の間に割り込む。
「――書記官、シェドル・イェルマ。王宮書庫登録――」
「控えの登録簿は王宮北塔にございます。先ほど“病床にある女王の〈裁可書〉”を携えておられると仰いましたね。差し支えなければ、その〈裁可〉がいつ・どこで・どなたのご立会いのもとで作成されたものか、ただいまお示し願えますか」
焚き火の橙が紙面にゆらぎ、封蝋と墨の匂いがわずかに立つ。指先の冷えが戻り、掌の内側で脈が小さく弾んだ。
「念のため申し添えます。いま“病床の女王”とされる者は影に立つ者です。わたくし本人は既に王宮を辞しており、期間中のご面会はすべて停止されておりました。したがって、当該日付の〈裁可書〉にわたくしの署名があるはずはございません」
「さらに、王宮でわたくしがしたためたのは母子あてのご挨拶状のみで、〈裁可書〉ではございません」
静かな言葉が、焚き火の輪の内側に沈む。列の奥で誰かが小さく唾を呑んだ。
◇◇◇
王宮での最後の会議――要点だけを並べれば、事実はこうだ。
宰相は男爵家の“危険”を理由に銀翼ではなく自軍の投入を主張し、さらに直轄組織『影の手』の実在を自ら認めた。わたしはその発言を議事録へ記載させた。
宰相は自ら男爵領へ赴くと申し出、母子を王宮に連れ戻すと約した。対してわたしは、銀翼を北方哨戒へ回し、隣国アルバート方面の監視強化を命じた。
王宮から宰相に手渡したのは、母子あての「ご挨拶状」だけ――〈裁可書〉ではない。
この合意により、宰相は堂々と男爵家を封鎖できる体裁を得た。一方で、『影の手』の自認と議事録という、後に効いてくる制度上の楔は打てた。
つまり、母子救出のための道と、王都における逆転の道――二本を同時に確保した、ということだ。
◇◇◇
宰相は肩をわずかにすくめた。
「女王陛下のご体調の推移は宮内庁の管掌。印璽が在る以上、文書は正式。ここでの詮議は無用」
「印璽があるだけでは、“正式”と断ずることはできません。だからこそ、〈裁可〉には控え・立会人・記録が求められます。“病床にある女王の〈裁可書〉”と仰るなら、侍医司の正式な署名を、どうかお示しください」
宰相の睫がわずかに震え、すぐ静まる。風向きが変わり、雪の匂いが濃くなった。
「……控えは、王都にある。ここで全てを求めるのは越権だ。貴族院の証言も揃っている。――十分であろう?」
兵の視線が揺れる。橙が鎧の面に走り、迷いの色を映した。わたしは息を整え、声を落とす。
「それでは十分とは申せません。――あなた様のご都合に偏ってしまいます」
言葉の端で、氷のような確信が結晶するのを、舌裏でそっと感じた。
「……あくまで推測の域を出ませんが、宰相殿は、わたくしを王宮より動き得ぬ者とお見込みになり、王都ご出立の後、“病中の女王”なる風聞を楯として、リュシアン殿下を“既成事実”で固め、〈裁可書〉にて事実関係の上書きを図られた――そのように拝察しております。
ところが、わたくし本人と思しき者がボコタに現れた旨をお聞きになり、行軍をお急ぎになったうえ、ただいま『排除対象』とのご宣言に至っておられる。……この一連の経緯、誤認があれば正しいご説明を賜れますか」
焚き火がぱちりと割れた。宰相の黒い瞳に、刃のような細い光が走る。
「……知ったことか。文書は正式。証人もいる。貴族院の証言が――」
「証言は、ときに恐れや命令によって形を変え得ます。けれど、事実そのものは一つです」
雪がきしり、と鳴る。優先されるべき順序を、静かに並べる。
「原本の提示、印璽の照合、立会人のお名前、控えの所在。――これらが制度であり、あなた様が守ると仰る“秩序”の礎にほかなりません。加えて、王宮会議の議事録にも、宰相殿ご自身が『影の手』の実在をお認めになった旨が記録されております。そちらも併せて照合いたします」
ダビドが半身で宰相の前に立ち、ヴァレリウスが左右の兵を手で制した。焚き火が低く唸り、橙が宰相の横顔に刃の線を描く。
「どうぞ、制度に則ってお示しください。――その上で、言葉を交わしましょう」
短い沈黙。宰相は革筒を握り直し、雪の上で踵をわずかにずらした。
「……繰り返す。文書は正式、証人もいる。貴族院は、私に証言するだろう」
言い逃れ。だが、もう場の温度は変わりつつあった。槍尻が雪に深く沈み、兵の肩の線が少しだけ緩む。焚き火の輪が近くなり、吐息の白が短くなる。
変化を見届け、声を極めて低くした。
「では、ここでの詮議は控えましょう。続きは王都にて。王宮書庫の控え、貴族院の議事録、記録官――然るべき場において向き合いましょう。あなた様が重んじられる“秩序”にもとづき、お言葉の内容を確認いたします」
外套が小さく鳴った。夜風が焚き火を揺らし、橙が雪面でほどける。ヴィルの掌が背に触れ、体温が骨へ静かに戻っていく。
宰相は薄く笑う。乾いた音だけを残す微笑。
「……好きにするがいい。だが覚えておきたまえ。秩序は情では動かぬ。証言と文書が王の首を決める」
まぶたをひとつ落とし、焚き火の熱の薄さを確かめる。
「存じております。――だからこそ、真実の文書と証言をもって、あなた様をお迎えいたします」
雪明かりが強まった気がした。狼煙の匂いが遠のき、夜の音が一段深くなる。焚き火の炎が静かに背を温め、兵たちの眼差しが、ゆるやかに、こちらへ集まってくる。輪の内側で起きた温度の変化は、もう彼の言葉では覆らない。――貴族院がいかに証言を連ねても、控えと記録の前で、彼の“作り話”は必ず綻ぶ。
冷えた空へ白い息がすっと伸びた。わたしはその線を見送り、次の一歩の位置を、心の内でひっそりと定める。
「以上の事柄は、王都に戻ってからゆっくりとお話するとして、あなた様のご主張についてわたくしなりにお答えいたします。
……たしかに、わたくしは手続きよりも、目の前の命を優先しました。私情で動いた、と言われれば、そうかもしれません。ですが――」
吐く息の白が薄くほどけ、喉の奥に鉄の味がかすかに滲む。
「それは、“人として踏み越えてはならない一線”があるからです。まだ十にも満たぬ少年を母親から引き離し、その意志を奪い、玉座へ傀儡として縛ろうとされるお考えに、わたくしは与しません。民ひとりひとりのいのちをこそ尊び得る方に、この国の未来は託されるべきだと考えます。――それは、何もわたくし一人の思いに限りません」
嘲りは、音を立てず口元だけで掬われた。焚き火の爆ぜより大きく胸に響く、無言の冷笑。
「甘い。為政者は冷徹でこそ公平たり得る。私情に溺れる者に、この国の王冠は重すぎる」
赤子の泣き声ほどの間。唇の力をそっと整え、舌裏の渇きを小さく呑み、温度のない怒りを言葉に編む。
「公平と仰いますか」
手袋の革が掌に固い感触を返し、火の粉がひとつ頬をかすめた。
「まず――北門倉庫の封印書。あなたは“保管”の名目で食糧の搬出を止め、寒さに震える民を飢えさせた。そのうえで『女王の失政』と広められたのは、どなたでしょう?」
火の粉が閃いては消え、宰相の横顔に冷い陰影を作る。
「次に、塩の専売。価格を吊り上げ、民の粗末な食卓からさえ富を吸い上げたこと」
誰かの喉が小さく鳴り、槍の石突きが雪を削って短い音を立てた。
「極めつけは遠征費。国庫から引き出した資金の行き先は闇――レズンブール伯爵の一派が隣国アルバートと結ぶ“禁制取引”に、関わりがないと言い切れますでしょうか?」
言葉は、憶測ではない――頬を刺す冷気の底に、命を賭けた諜報の熱がじんと残る。王宮の帳簿の不自然な迂回、ざわめく貴族たちの目配せ、そして――男のふるまい。すべてがここへ収束していた。
証拠一式は、忠臣コルデオの手にある。風耳鳥が渡れば、勅命は即座に走る。背の爪先まで意識を通し、内側で布石の手触りを確かめた。
宰相の頬がぴくりと痙攣する。槍先がざわめき、視線が雪崩のようにこちらへ傾く。氷下の水のように、兵もまた何かを感じ取っていた。
「……それは国が生き延びるための供物だ!」
吐き捨てる声に、焦れた温度がわずかに滲む。すぐ仮面の無表情へ戻るが、隠し切れない焦りのひびが声の端に残った。
その奥に、暗い影がちらりとよぎる。過去の混乱か、喪失へ執着する何かか。男の「供物」という語に、歪な重みがのしかかる。
「慈悲だけでは冬は越せぬ! 甘い感傷は国を滅ぼす!」
焚き火の熱が頬を撫で、冷風が襟元を攫う。ひと呼吸置き、声を落とした。
「慈悲は弱さではありません。それは“はじまり”でございます」
火と雪が肺に触れ、胸の拍動が静かに合う。
「痛みを忘れない政治でありたいと存じます。誰かの痛みに鈍らぬよう、ただ効率だけに傾かぬよう、痛みを伴う側に身を置くことを選びます。過去の痛みを理由にこれからの痛みを正当化することはいたしません」
呻きを漏らす負傷兵のそばに膝を折り、雪に汚れた手をそっと包む。氷のような指先。かすかな脈動が、皮膚を通して確かに伝わってきた。
「私情とお笑いになるのであれば、それでも結構です。わたくしがこの手を離せば、王冠は形ばかりの飾りにすぎません。わたくしの冠は金銀の細工ではなく、拭き取った涙の粒でこそ光を得る――そのように心に定めております」
老兵が、槍尻を雪へガツンと突き立てる。列がわずかに波打ち、鎧の擦れる連鎖が夜気を震わせた。囁きほどの声でも、火に照らされた耳には届いていく。小さく、しかし確かな共感の火花が、兵列の奥で連なった。
前列の老兵が深く頷き、若い弓兵は胸当てを外して焚き火へ薪をひとつくべる。
宰相の黒曜石の瞳は光を呑み、さらに冷たい輝きを宿した。
「……では問う。貴女のその“情”で、全てを救えぬ時が必ず来る。その時、貴女は誰を切り捨てる?」
抜身より鋭い問い。冷酷な現実を刃渡りで示し、理想を試してくる。
負傷兵の手を握ったまま、宰相をまっすぐに見返す。
「もし“誰か”を切り捨てる者があるのなら――それは、わたくし自身です」
雪がひとひら、火の上で水となって消える。兵たちの息が止まり、夜気がわずかに澄んだ。
「王は、民を守る最後の壁でありたいのです。 もしその壁が民の背に刃を向けるのなら、わたくしはこの王座とともに責を負う覚悟でおります」
風が強まり、短い黒髪がふわりと持ち上がる。焚き火の焔の粒が雪面で一瞬、赤く灯った。
静寂が深く落ち、誰かの吐息が涙のように白くにじむ。
宰相は外套を翻し――ふと、ひと欠片の情けのような言葉を落とした。
「……情では溶けぬ氷もある。悔いるな、黒髪の巫女」
濁りのない声で短く返す。胸郭の内側で、古い鈴がかすかに鳴った。
「後悔なら――“怖くて立てなかった日”に、もう置いてきました」
前世で。現世で。積み上がった悔いは、いまや礎でしかない。
――茉凛。あなたに出会えたから、わたしは立ち上がれた。だから前を向ける。
すぐ傍らに、ヴィルの温度が寄り添う。肩へ落ちる重みが、冷えた指先の血を静かに戻していく。
「……メービス、王として国を導く核心とは何だ?」
答え合わせのように短くて真っ直ぐな声。焚き火の揺らめきが瞳の奥で割れ、言葉を置く。
「それは、痛みを決して忘れないこと。――そして、忘れかけてしまった時、隣で『違うだろう』と、そっと囁いてくれる仲間を持つこと」
無言の頷きが、火より温かく背を支える。
焚き火の輪の内側で、兵の瞳がわずかに緩む。冷たい夜に、小さな熱が連鎖していく――その時だった。
「貴様が王だと? 笑わせる。そもそも貴様は出自も血統も怪しいものだ」
背に投げつけられた声は、凍てた刃の冷たさを帯びている。振り向けば、宰相の掌には金具で留められた細長い革筒。ゆっくりと抜き放たれたのは、鈍い光を放つ羊皮紙の巻物。
「諸君、刮目せよ!」
雪の広場に響く号令。兵の視線が、一斉に宰相の手元へ吸い寄せられる。
「これは『王室実系譜録』――我がリーディス建国以来、王家に連なる全ての王子女の名を余さず記す、唯一無二にして絶対なる公式記録だ!」
月光を浴びた羊皮紙が、細い銀の光を返す。乾いたインクの金褐色が、冷たい輝きへ変わった。
隣でヴィルの体が硬直する。鎧の合わせ目に走る緊張が、雪と火の音を押しのけて耳奥に残る。
「さあ、その目で確かめるがいい! この由緒正しき系譜の、どの行を探しても――」
口角をわずかに吊り、言い放つ。
「“メービス”の名は、どこにも存在しないのだ!」
雷鳴のような宣告が落ち、空気が一度だけびりつく。兵のまばたきが止まり、視線の温度が一斉に下がった。
胸の裏で嫌なきしみが走る。父が守ろうとした選択が、こうして歪められる痛み。喉の奥が細く締め付けられ、手袋の内側にじわりと汗の錯覚が生まれる。
宰相は動揺の波を捉え、追撃の言葉を重ねた。焚き火の赤がその瞳に宿り、冷たく揺れる。
「十八年前、黒髪・緑眼の娘が生まれた。――“黒髪の巫女は凶兆”、それが王家千年の戒め。常であれば白銀の塔へ幽閉、それで終わったはずだ。しかるに、先王は何をした? 名を抹消し“追放”と偽装、挙げ句『救世の緑髪』などと喧伝した。かくして血統の戒律を踏み破り、歴史を捻じ曲げた犯人は――王家そのものに他ならぬ!」
風が火舌を煽り、橙の舌が大きく揺れる。前列の兵の手がわずかに震え、石突きが氷を削る音が、がり、と短く走った。疑念と恐怖と、裏切られたような痛み――その色が、焚き火の輪の外側にまで広がる。
心臓が胸骨の裏で固い音を刻む。視界の縁で火がまたひとつ弾け、外套のフードへ指をかけた。
布がほどける。肩先を滑り落ちた若緑のウィッグが空気を掬い、霜の匂いとともに雪面へ舞い降りる。
しん、と場が凍る。夜気に晒される短い漆黒。焔の橙がその艶に薄く映り、月の白が刃のように冷たい光を置く。
「……確かに、わたくしは“黒髪の巫女”です。それは間違いありません」
凪いだ声が、雪の夜を真っ直ぐに貫く。槍先が束の間震え、いくつもの喉が小さく上下した。
宰相が歪めた物語の糸を、静かに取り戻すために――わたしは口を開く。恐怖の因果のねじれを、ここで手の中へ真っ直ぐ戻すために。
「なぜ『黒髪と緑眼の娘』が災厄の象徴と呼ばれてきたのか。――理由は二つだけです」
黒い髪へ落ちる雪が溶け、うなじを冷たく撫でる。兵の瞳が、火と雪の間で揺れながらこちらへ傾くのが、はっきりと見えた。
「第一に。巫女は神託を賜り、時に〈災厄の予言〉を告げます。予言は本来、被害を抑えるための警鐘にすぎません。けれど人々の胸に残ったのは、救いよりも“言い当てられた恐怖”。物語が語り継がれるあいだに因果は逆転し、『巫女が災いを呼ぶ』というかたちにすり替わってしまったのです」
焚き火の火粉が雪に沈み、かすかな匂いが鼻先を撫でる。
「第二に。王家には――世代を飛び石のように越えて、両親にも祖先にも似ぬ黒髪の娘が必ず現れます。不思議なのは、その容貌がつねに同じであることです。
・肌は雪のように白く
・夜を映す短い漆黒の髪
・翡翠を溶かしたような緑の双眸
写し鏡のごとく繰り返されるその姿は、やがて『血筋への反逆』として畏れられ、『王家に巣食う呪い』と呼ばれるまでになりました。そして彼女たちは例外なく、外界から閉ざされた白銀の塔へと。幾世代にもわたるその反復が、『黒髪の巫女=災い』という迷信を、石碑より固い因習へ変えてしまったのです」
語りながらも、今この場で討つべき一点を取り落とさない。恐怖は姿を変え、誤った因果で人を縛る。――討つべきは、宰相の非道という一点だ。
「けれど、その恐怖の根源にあるのは、真実を見ようとしない心、未知を理解しようとせずにただ恐れる心に他なりません」
焚き火がぱちりと弾け、橙の火花が星のように夜空へ散った。兵の瞳に、かすかな理解の光が灯る。
「因習と嗤うか?」
侮蔑の色が、宰相の声に乗る。
「だが、お前が生まれた年に疫病が流行り、飢饉が襲ったのは紛れもない事実! 大地は凍え、麦は枯れ、民は飢えに呻いたのだ! それでも偶然だと申すか! 私が守ろうとしているのは、そのような災厄から国を守るための秩序なのだ!」
恐れに種を混ぜる言い回し。首を静かに横へ振る。焚き火の赤が頬を撫で、雪の白が視界の縁を冷やした。
「その年の飢饉は、記録によれば凶作の霜と重税という二重の打撃によるものでした。生まれたばかりの赤子であったわたくしに、天候を操り、疫病を呼ぶ力はございません。――恐れは、さらなる恐れを呼びます。根拠のない恐怖に煽られ、人々が互いを疑い、憎しみ合い、剣が隣人を裂く。それこそが、この国を蝕む“本当の災い”ではないでしょうか」
風が強くなり、雪煙がさっと舞い上がる。白が視界を一瞬攫って、消えた。焚き火の背で、わたしと宰相の影が長く伸び、互いの胸へ入り込むように重なっていく。
【リアクション】
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------------------------- エピソード468開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
王冠は涙で磨かれる
【本文】
わたしの言葉は、凍てつく夜の静寂に吸い込まれた。けれど、その熱は確かに焚き火の輪にいる兵士たちの間に伝わったようだった。
彼らの揺れる瞳には、恐怖だけではない、別の光――それは疑念かもしれないし、あるいはほんの僅かな理解かもしれない――が宿り始めていた。
宰相クレイグは、忌々しげにわたしを睨みつけ、なおも高く掲げた系譜録から目を離さぬまま、冷ややかに言い放つ。
「――王統断絶の危機とはいえ、先王が“黒髪の娘”を王座へ招いたのは愚昧(ぐまい)の極み! その結果がこの混乱であろうが!」
兵たちの間に、息を呑むような微かな動揺が走る。雪を踏む音が、そこかしこでざらりと鳴った。
「だが、我らにはギルク殿下の遺児、リュシアン殿がおられる! 正統なる王家の血筋を玉座に戴けば、このような間違いは避けられるのだ! 私は、最小限の痛手でこの国を救おうとしているに過ぎん!」
再び、兵士たちの視線が不安げに揺れる。クレイグの言葉は、彼らの心にかすかな希望と、しかし拭いきれない疑念を同時に投げかけていた。
――最小限の痛手……。
舌裏の冷えがひと刺しに走り、胃の底がきゅっと縮む。
その言葉が、わたしの胸に冷たい棘のように突き刺さる。
彼の言う痛手とは、誰のことか。ここにいる兵士たちのことか。それとも、わたしや、リュシアン以外の、彼にとって都合の悪い者たち全てか。
わたしは夜風を切るように、彼に向かって一歩踏み出した。
鎧の擦れる音が静かに遠のき、兵列の視線が再びわたしという一点に集束するのを感じる。
「確かに、この系譜録にわたくしの名はありません」
焚き火の樹脂がひとつはぜ、白い息が舌裏をひやりとなでていく。
「それは、どうしてか。父は黒髪のわたくしを守るため――古い因習と政治的思惑から守るため、その名を系譜から外しました。たしかに、わたくしは白銀の塔という閉ざされた世界で生きるほかなかった。けれど、絶望はいたしませんでした」
羊皮紙の匂いが手袋越しに移り、墨の渋みが喉の奥で薄く残る。
「あなたには、お分かりにはなるまいでしょう。父上と兄上が決してわたくしを見捨てず、たびたび塔を訪れ、書物とともに書簡を交わしていたことを。そのおかげで、わたくしは知識とともに、外の世界の素晴らしさを知ることができました」
肩の留め具が冷え、革が骨ばったところで小さくきしんだ。
「そして“追放”とは、〈聖剣探索〉へ旅立たせるための偽装、すなわち方便でした。わたくしに被せられた緑髪の仮面は、向けられるはずの敵意を逸らすための――父上の苦肉の盾です」
そこまで言って、隣に立つヴィルに視線を送る。彼の蒼い瞳が、静かにわたしを受け止めてくれた。
月光が雪をかすかに返し、蒼の瞳だけが焚き火の橙を細く拾う。
「……ヴォルフ。初めてお会いした折にお訊ねになりましたね、『本当に、あの父の血を継ぐ娘なのか』と。疑いは当然です。両親とは、似ても似つかぬ顔でしたから……」
父とは先王のことではない。ミツルの父、ユベル・グロンダイルのこと。
わたしの言葉に、彼は何も言わず、ただ静かに自身の剣――ガイザルグレイル――の鞘を、雪面へ垂直に突き立てた。
澄んだ余韻が足裏へ降り、凍てた地の芯がかすかに震えた。
カツン――。
硬質な音が、しんと張り詰めた夜気に響き渡る。月光を撥ね返す鍔金(つばがね)が、彼の決意を示すかのように青白い線を夜空に鋳込んだ。
その低い声音が、雪原の兵士たち全てに届くように響いた。
鞘金が雪の冷たさを弾き、澄んだ音が輪に落ち、白い息がほんの少し揺れた。
「俺や、ここにいる者たちが救われた理由は、出自でも髪の色でもない。“おまえ”が一人の人間として示してきた“行い”そのものだ。――それを、俺のこの眼は、確かに覚えている」
その響きが、凍っていた胸の奥へ、遅れて温度を流し込む。喉裏の渇きがわずかにほどけた。
「わたくしは女王である前に……ただの人です。泣いている人がいたら、苦しんでいる人がいたら、放ってはおけない――それが、わたくしのどうしようもない“核心”なのです。そして、父上はそれを信じて、白銀の塔の扉を開けてくれました」
遠くで金具が鳴り、雪の静けさに吸われる。掌の皮膚がわずかに湿る。
「たしかに、わたくしは精霊の言霊によって聖剣を探せと告げられましたが、ただ盲目的に従ったわけではありません。わたくしは、この世界を、人々を守りたかった。その手立てが欲しかったから、そのためにわたくしが役立てるならと……旅に出たのです。わたくしは、これまで出会った人々や父と兄にご恩返しがしたかった。ただ、それだけです」
風が布を撫で、焚き火が低く唸る。言葉の縁が、熱を帯びた。
「聖剣を手に入れた後、わたくしとヴォルフは魔族大戦を戦い抜いた。けれどどんなに巫女と騎士の力が強くとも、どんなに頑張っても、命がこぼれ落ちていくのです……。
なんと情けないのだろうと、自分を責め続けました。それでも、わたくしが折れれば希望は潰えてしまう。その一念だけで、戦い続けるしかなかったのです……」
周囲の兵士たちの間に、張り詰めていた空気がほんの少しだけ解ける気配がした。鎧の下で肩が順に落ち、乾いた息がいくつも重なる。
その瞬間を狙ったかのように、宰相の声が氷の刃のように再び割り込んできた。
「そのような“情け”に政を委ねれば、春を待たずに国庫は尽きる! 餓えた民をどう救うつもりだ!」
今度こそ、わたしは怯まなかった。むしろ、待っていたとばかりに顔を上げ、彼の目を射抜くように見据える。
「いいえ、備蓄が尽きるのではありません。尽かせられているのです。
わたくしが推進した交易促進策と穀物の緊急輸入は、確かに奏功いたしました。ところが国内配分の段になって、あなた方――貴族院の一部が『理由』の名で差し止めを重ねてきた。これが果たして、民を導く者の為すべきことですか。公共に資する行いですか。
……宰相殿。あなたこそ、権力欲という私情に動かされていた――その証左です」
わたしの反撃は、静かだったが鋼のような硬度を含んでいた。
宰相の表情が一瞬にして凍りつき、強張った息遣いだけが、焚き火の爆ぜる音に混じって聞こえたかのようだった。
兵士たちの間から、今度は隠しようのない驚きの声が上がった。
彼らは最前線で戦わされ、補給も乏しく、飢えと寒さに苦しんでいたのだ。その原因の一端が、目の前の宰相にあるかもしれないという事実に、彼らの視線は鋭く宰相へと突き刺さる。
「ですが、もうあなたの妨害は通用しません」
わたしは畳みかける。
「王都北門倉庫に集積された穀糧は、わたくし名義の勅命が発せられ次第、信頼できる第三補給隊が引き取り、輸送を開始しましょう。特に飢えと寒さに苦しむ地域――このボコタを含めた地方の寒村部へ、優先的に配布します。さらには女王の名のもとに、この冬の間、王国全土の徴税を凍結します」
勅命には期間三月、寒村と前線負傷者世帯を最優先とし、横流しは没収・停権の監査条項を添えるつもりだ。
思いもよらぬ具体的な政策の発表に、兵士たちの視線が大きく揺れた。
絶望的な状況の中に差し込んだ、具体的な希望の光。驚きと、信じられないという疑念と、そして確かな希望が、彼らの胸甲の内側で凍っていた心をじわりと融かし始めているのがわかった。鎧の内側で強張っていた体が弛緩し、誰かが安堵とも諦めともつかない、深い息を吐いた。
負けじと宰相が吠える。その声には、もはや冷静さはなく、焦りと怒りが剥き出しになっていた。
「そのような勝手な真似を! 財を中央で握らねば、国は必ず裂けるぞ!」
「国が裂けたとしても、その裂け目にのぼる民の哭き声を、わたくしは見捨てません。長期の視座に照らせば、現下の痛みに手を差し伸べるのが理に適います。短期の勘定にのみ依拠すれば、国は遅かれ早かれ傾きます。
……あなたは、わたくしを情で動くと仰った。されど情を欠いた理では、民は納得いたしません」
わたしの言葉は、焚き火の揺れる橙を背負い、夜空へ放たれた一本の矢のように真っ直ぐだった。雪が横殴りの風に舞い、炎が高く揺らぐ。
先ほどまで恐れと疑念を宿していた兵士たちの瞳が、わずかな、しかし確かな信頼の色へと変わっていくのが見えた。
列の中ほどで、若い弓兵が、先ほど薪をくべた手で、自身の胸当てをそっと押さえた。夜の空気は、確かにその温度を変え始めていた。凍えるばかりだった戦列に、かすかな、しかし確かな熱が生まれ始めていた。
宰相クレイグの口の端が、侮辱されたかのように引きつり、歯ぎしりの音が雪明りに鈍く響いた。彼はもはや、わたしではなく、揺らぎ始めた兵士たちに向かって叫んだ。
「黒髪の巫女などを信ずるとは――! 貴様ら、揃いも揃って理性を失ったか!」
ガッ!
巻物が雪に叩きつけられた。
乾いた粉雪が颯と舞い、頬の皮膚に細かな針を置いた。
その瞬間、列の後方でカチャリ、と複数の鞘鳴りが重なり、数本の剣が威嚇するように半ばまで抜かれる。空気が再び凍りつく。
だが、その剣が完全に抜かれるよりも速く、深紅の外套が影から滑り出た。
ヴァレリウス**侯**――近衛師団参謀長にして、長らく宰相派の重鎮と目されてきた男。その背に刺繍された銀の紋章が夜気を切り、蒼白い月光を浴びたその横顔が、宰相と抜身の剣の間を遮るように立つ。
彼の瞳には、先ほどわたしに向けられた安堵とは違う、冷徹な光が宿っていた。それは、長年仕えた主君への失望か、それとも軍人としての矜持か。
「宰相閣下。民の命を守るのが、我ら軍人の本分。そしてここは、女王陛下の御前にございます。刃を抜く場ではございません」
彼の声は静かだが、揺るぎなかった。その声には、ただ命令に従うだけではない、確かな意志が感じられた。
彼は、目の前で繰り広げられた宰相の非情さと、わたしの示した慈悲と覚悟を目の当たりにし、どちらに仕えるべきかを、この場で決断したのかもしれない。
兵を数字としてしか見ず、自身の保身のために彼らを切り捨てる主君よりも、たとえ血統に疑義があろうとも、民の痛みに寄り添おうとする女王に。
「兵たちは、閣下の命令で、補給も滞る中、この極寒の地で戦い続けてまいりました。彼らの忠誠心に、これ以上、無用な血で応えるべきではありません」
刃を遮られた近衛兵たちが戸惑い、鎧の中で呼吸を荒げるのがわかる。
宰相の額に青筋が浮かび、こめかみが怒りに脈打つ。しかし、彼は――あるいは、彼はもう、己の剣を抜くことさえできないのかもしれない。代わりに、唇だけで毒を吐いた。
「……黒髪の穢れに膝を折るか。この、裏切り者めが」
その侮蔑の言葉が消えぬうちに、列の最前にいた老兵が、持っていた槍を雪面へまっすぐ、深く突き立てた。
「陛下」と、彼は震える声で呼びかけ、そしてゆっくりと、女王であるわたしの前に片膝をついた。
ゴツン、と槍の石突きが硬い氷を割る、その硬質な音が、まるで合図となったかのように。
続く兵士たちが、次々と槍を置く。そして、鎧の膝当てが雪面に沈み、氷がやわらかく軋む音が、静かに連鎖していく。一人、また一人と、兵士たちが女王であるわたしの前に片膝をついていく。恐怖で凍てついていた彼らの刃は、いまや雪面に伏せられ、確かな意志へと姿を変えていく。
焚き火の炎の輪が、彼らの行動と共にわずかに狭まり、折り重なる鎧の影は、まるで一つの巨大な意志を持った生き物のように見えた。
わたしは、風に揺れる黒髪の下で、その光景を、その音を、胸に深く刻んだ。
「……およしください。わたくしは清らかな聖女でも、巫女でもございません。王たる覚悟も、なお薄うございます。――あなた方が思うよりずっと臆病で、涙もすぐこぼす女です。けれど、その弱さゆえに多くの痛みを受け止めてまいりました。絶望の底で差し伸べられた手の温もりを、今も覚えております……。だから――」
――茉凛……それはあなたよ。お日様みたいなあなたの笑顔が、『氷の王子様』だったわたしを溶かしてくれた。
「今度は、わたくしがその灯をあなた方へお渡しする番です」
わたしは、彼らの目を見つめて続ける。
「怖いなら、怖いままでいい。不安なままでいい……――それでも、一緒に夜明けを『迎えに行きましょう』」
返る息が白く重なり、輪の中心に淡い熱がたまる。
兵士たちの視線が、恐れから理解へ、そして理解から静かな決意へと変わっていくのがわかった。伏せられた刃先の代わりに、彼らの掌が、隣にいる仲間の肩をそっと支え合っている。
その光景を前に、宰相は細く、白い息を吐いた。それでもなお、諦めぬ憎悪を、呪いのような言葉に変える。
「……どう足掻こうが、民は“黒髪の巫女が災厄を呼ぶ”と信じ続ける。根深い恐怖は、一夜で消えはせんぞ」
わたしは、雪についた拳でぐっと体を支え、背筋を伸ばした。わたしの黒髪が月光を滑り、緑の瞳が焚き火の橙を強く孕んで輝いた。
「恐れは根深い……。――けれど、根を張るのは恐怖だけではありません。わたくしの小さな“行い”が、いつか人々の胸に希望の灯を芽吹かせると信じて、立ち続けます。どれほど刃を向けられようとも……わたくしは退きません」
宰相の肩が、屈辱にわずかに震え、まとっていた外套が闇に翻った。だが、彼はまだ背を向けない。黒曜石の瞳は、相変わらず深い闇を湛えたまま、熱を帯び始めた焚き火の輪を、焼き尽くすかのように睨みつけている。
夜風が、空の分厚い雲を押しやり、隠れていた月が完全に顔を出した。青白い光が雪原を一面の銀世界に変え、橙色の焚き火が、そこへまるで金の縁取りを施すように輝いている。
宰相の声が、低く、まるで砕けた氷片のように響いた。
「……黒髪の巫女よ。行いで民を覆うと言うなら、心せよ。やがてその“行い”で民に裏切られた時、貴様の王座は、その理想ごと無惨に砕けることになろう」
「その時は、王座ではなく、わたくしの命で償います。それがわたくしの女王としての矜持です」
わたしは即答した。
「今宵この場で兵の命を秤に掛けるあなたより、わたくしは遥かに重い責任を選びます。――民とともに痛み、民とともに生きる責任を」
わたしの宣言は、焚き火の爆ぜる音さえ消し去り、夜空の静寂をさらに深くした。
一瞬の無音――それは、氷が軋む音よりもはっきりと、そこにいる全ての兵士たちの魂に刻まれたようだった。
そして、まるで祝福するかのように、焚き火がひときわ高く、橙色の火柱を上げた。月光と火光が交差し、地面に落ちる影が二重に伸びる。それはまだ、夜のほんの中腹。日の出までは、まだ時間がある。
だが、円陣の中にいる兵士たちは、もう感じていたのかもしれない。この影には、いつか必ず、温かな夜明けの光が重なるのだと。
【後書き】
今回は、政治思想、感情の倫理、個の犠牲と共感という重層的なテーマを、メービスとクレイグ宰相の問答と、兵士たちの心理変容を通じて描き出した圧巻の対話劇です。以下、いくつかの論点に分けて冷静に分析・批評します。
メービスとクレイグ――思想の二極対立
単なる王位の正統性をめぐる争いではありません。核心は「国家とは誰のためにあるか」という問いにあります。
クレイグは秩序と集団の生存のための犠牲を当然とし、冷徹な計算によって社会を安定させようとする。
対してメービスは、個々の痛みを無視する政治は刃になるという信念から、「命を感じる政治」を語り、実行します。
この対比は、よくある「理性 vs 感情」ではなく、功利主義的リアリズム vs 実存的ヒューマニズムの構図です。両者ともある意味で正しい。だが本章が見せるのは、民衆が真に望むのは“支配”ではなく“理解と共感”であるという一点です。
「痛みを忘れない」という指導理念の強度
メービスの主張は一見、情に流されているように見えるかもしれません。が、彼女は痛みを「政治判断に必要なセンサー」として定義している。
「痛みを知らない政治は、やがて考えることをやめた〈刃〉になる」
この一文は非常に象徴的で、過去の暴政や独裁への批判的メタファーとしても機能します。倫理的正しさを“情”ではなく記憶と応答の連鎖として捉えているのが秀逸です。
ヴィルの存在――信念を裏打ちする“見届け人”
ヴィルの剣の音がもたらす「証人としての説得力」は、王としてのメービスの“独り言”を“社会的事実”へと変換する儀式です。
「おまえが示してきた“行い”そのものだ。――それを、俺のこの眼は、確かに覚えている」
剣の騎士は、言葉の女王を支える“実行の手”であると同時に、“民の代表者”の象徴でもある。この構図は、王権の正統性を「血統」ではなく「行動」と「証言」によって構築し直すという、近代的な王の理想像の提示でもあります。
兵士たちの“沈黙”の演出効果
メービスの語りと反応を一言も発せずに見守る兵士たちは、まさに「聴衆」であり「判断者」であり「歴史の書き手」です。
焚き火=“公の場”
黙って槍を置く=“支持の投票”
胸当てを押さえる動作=“心で応じる”
こうした非言語的リアクションによって、メービスの演説は「民の行動によって肯定される」という構造になっています。政治とは、声の大きさではなく「誰の言葉が行動を生むか」によって測られる――という冷徹なリアリズムが描かれています。
構造 焚き火と月光のコントラスト
焚き火の円陣と、宰相が去ってゆく闇の対比は単なる視覚演出に留まりません。
焚き火=「臨時の議会」「生命」「共同体」
月光=「冷たい正統性」「記録」「神話」
この構図を背景に、語りの焦点は「記された王位継承」ではなく「いまここで起きている信頼の形成」に移っていきます。メービスが語るのは未来の記録ではなく「今、誰のために立っているか」です。
■ 第一章の記憶をなぞるという構造
「“あなたとわたしが出会った時”『本当に“あの父親”の血を継ぐ娘なのか?』と尋ねたことがありましたね」
これは第一章の原点回帰であり、「あの時のおまえ」と「今のわたし」が一本の時間線で繋がっていることの証明です。この台詞は彼らだけが共有する文脈。
■ 「清らかな聖女ではない」という否定の重み
「わたしは清らかな聖女などではありません」
これは単なる謙遜や謙譲の美徳ではなく、巫女という役割に付きまとう幻想との決別宣言です。
聖女とはしばしば「癒やし」「浄化」「再生」の象徴として描かれますが、メービス=ミツルは明確にそれを否定しています。彼女が持つのは、
失ったものを癒やす力ではなく、
脅威を排除し、断ち切る“破壊”の魔術
それでもなお彼女は誰かの涙を拭うことに命を懸ける。その選択の矛盾と苦悩を抱えたまま「立ち続ける」という在り方は、自己犠牲ではなく、“自分が背負うことを選んだ”覚悟なのです。
【リアクション】
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------------------------- エピソード469開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
蒼火と橙月の輪―黒髪は夜明けを抱いて
【本文】
わたしの言葉が放たれた瞬間、焚き火の爆ぜる音さえ凍りついたように、夜空の静寂はさらに深まっていく。指先の皮膚が冷気で薄く縮み、胸郭の内側で鼓動だけがくぐもって響いた。
そして、祝福の合図のように、焚き火がひときわ高く橙の火柱を上げる。月光と火光が交差し、地面に落ちる影が二重に伸びた。夜はまだ中腹、白みは遠い。けれど、輪に集う兵たちの肩の硬さのどこかで、温度が一度だけゆるむのを肌が拾う。
円陣の中央、蒼と橙の輪に包まれて、わたしはそっと胸に手を当てた。凍てつく雪面の冷えを突き抜け、浅い鼓動の揺らぎが掌へ返る――この身の奥で眠る“本来の彼女”が感じ取る、消えない火種のような灯が、黒髪の根で息づいている。
氷雨の夜の記憶が、冷たい匂いを伴って喉元へ上がる。系譜を塗り潰し、“追放”を偽装してまで若緑のウィッグを娘へ手渡した先王。塔の小窓から去る背に置かれた「どうか自由に生きてほしい」の一言。張り詰めた優しさは、白い吐息にまぎれて震えていた。
ミツルであるわたしは、その場に居合わせていない。けれど、二人の間に交わった書簡の行間と、未来で祖父が記した研究記録がその温度を語っている。
火種のような感情は、いまも黒髪の根元で熱を帯びていた。王冠と娘への愛――二本の鎖に挟まれて流れた血と涙。その重みを知るからこそ、凍てついた“秩序”を盾に民を切り捨てる宰相の論理を、わたしは受け入れない。
「申し上げた通り、父上がわたくしの名を記録から消したこと、王宮から追放してくれたこと。それらすべては……“愛”ゆえでした」
雲間の月へ語りかけるように声を置く。胸の奥でひと拍、心臓が固く弾み、冷気が喉を細く締めた。
「わたくしは、その愛に恥じぬ行いで応えたい。王家の血よりも重い継承とは、きっと、その行いによってこそ証(あか)されるものだと、信じておりますから――」
宰相はどう受け取ったのだろう。外套の裾が闇に翻り、今度こそ本当に背を向ける。雪を蹴る足取りは高慢であろうとするが、肩がわずかに縮んで見えた。背に張り付いた影は、喪失を重ねる者だけの暗さを帯びていた。
「……行いが民を覆う、か。ふん、その甘い幻想が砕け散った時、貴様の“秩序”なき王冠は、ただの瓦礫と化すだろう。せいぜい、束の間の夢を見るがいい」
吐き捨てた余韻を、雪風がさらっていく。兵たちは槍を握る手をわずかに緩め、しかし警戒の姿勢は崩さない。恐怖の形に尖っていた穂先は、いまや道標のように静かに雪面へ向いた。
シュルリ――隣で、ヴォルフが静かな気配を立てて剣を抜いた。刃先を雪へと落とし、構えは低く。威嚇ではなく、線引きの合図。
「女王の言葉は、俺の剣よりも重い。宰相殿、これ以上兵の血を無駄にするな」
低い声が宰相の背に小さく杭を打つ。続けざまに、彼は諭すように言葉を置いた。
「陛下は“痛みを忘れない王”だ。――それがいまの傷ついたこの国を導く核だ。数字だけで測るあんたとは違う」
自分自身の覚悟をもう一度、胸で確かめる合図だ。瞼の裏で焚き火の橙が揺れ、涙の熱がきらりと反射する。拭かず、まっすぐ言葉にする。
「わたくしは、決して痛みを忘れません。目を逸らしません。飾りや数字で誤魔化しません。無様とお笑いになるでしょうが、それがわたくしの王としての在り方です」
ぱちり、と焚き火が祝福のように弾け、金の火の粉が星屑となって雪へ散る。兵たちは火花を目で追い、互いの顔を見交わし、いま出来る仕事へ静かに散っていく。鎧の擦過音が、迷いの層を少しずつ削った。
白銀の塔を踏み出したあの夜から、メービスはいくつの季節と血の跡を越えてきたのだろう。異邦の魂が借りるこの躯の奥で、父王が託した火種はまだ脈を打っている。焔を風に奪われぬよう、両腕でそっと包むしか術はない。
月だけが聞き手の夜空へ、震える息を放つ。
――先王さま。父上さま。
もしこの声が届くなら、どうか見守ってください。あなたが守りたかった娘の黒髪を、いまは異邦の魂が揺らしています。それでも、ここに息づくあなたの愛が消えていないと、わたくしの小さな行いで証してみせます。
それが、メービスになり切れないわたしに出来る、せめてもの祈りだ。雪をぐっと踏みしめ、焚き火の中心で外套の袖を捲り上げる。
夜明け前のいちばん暗い刻――だが、焔の円陣の内側には、確かな朝の色が灯りつつあった。
兵の胸甲に柔らかな熱が宿りはじめた、その時――。
「人の姿を装った災厄、その正体がお前だ!」
宰相が一歩踏み出す。血走った眼がわたしを射抜き、声は地を這うような低さから破裂する。
「見たはずだ! あの禍々しき力のどこに“聖”がある! 奴は魔族の走狗――いや、王冠に巣食う寄生虫、玉座を喰い破る悪鬼だ。この女を生かせば、王国そのものが餌になるぞ!」
威厳の皮は剥がれ、剥き出しの憎悪が夜に滲む。せっかく灯りかけた希望の小火が、言葉の風で揺らぐのが見えた。
「……たしかに、わたくしの精霊魔術は、呼び名は美しく聞こえるかもしれませんが、攻撃に特化した規格外――兵器の系譜といえます。巫女と騎士に授けられた、二振りの聖剣にしても同じこと」
事実は事実として、虚飾なく置く。喉の奥に鉄の味が薄く滲む。
「見たか! 結局は魔の類だ。獣だ! 化け物が白状した!」
宰相の嘲りが跳ね、兵の数人が本能で半歩退いた。雪の軋みが短く散る。
「……いいえ。わたくしと魔族のあいだには、越えられない線があります」
「どこがだ! 言え!」
「それは――涙です」
静かな一語に、夜気が凪ぐ。焚き火の爆ぜまでもが、ほんの瞬きだけ途絶えたように感じた。
「涙だと? 涙など演じればよい。狡猾な魔が好む安い手だ!」
「違います」
胸に手を置く。皮下で心臓が確かなリズムを刻み、指先がわずかに震えた。
「他人を欺くための涙――それは容易に偽れる。でも……己を欺けない涙だけは、絶対に誤魔化せない。救えなかった命に膝を折り、無力に打ちのめされた夜。喪った名を呼び続けた暁――そのとき頬を伝った滴は、刃よりも鋭くわたくしの心を引き裂いた。
魔族は違う。痛みを記憶に変えず、ただ悦楽として飲み干す。わたくしは痛みを抱えたまま、それでも守りたいと祈り――泣きながらでも、立つ……」
言葉は、冷たい空気にひとつずつ沈んでいく。前列の若い衛士が息を呑み、目頭へ指を添える。老兵が槍を握り直し、短く天を仰ぐ。列の奥では穂先が祈るように傾き、石突が雪を噛んだ。
「――だから、どれほど過分な力を背負わされようとも、わたくしは人として生きます。“黒髪の巫女”が殺戮兵器の末裔と罵られようとも、守る愚かさだけは捨てない。
……そして、誰もいない場所で、何度だって泣きます」
言い終えたとき、薄雲が流れ、凍える夜に星がひとつ強く瞬いた。宰相はなお吠えるが、声はどこか空洞で、風の底へ抜けていく。
「だまされるな! 魔に通じる忌むべき巫女だ! 王国を滅ぼす毒の源――だ!」
だが兵の眼差しは、すでにわたし――あるいは言葉の先にある小さな未来へ向いていた。疑念と恐怖は薄れ、静かな共感がじんわり広がる。
胸に抱えるマウザーグレイルが、微かな警告脈動で合図を送る。先ほど魔導兵装を遮断した反動か、あるいは別の兆しか。レシュトルのHUDには限界表示の赤が滲み、疲労の影が視界の縁を曇らせた。
焚き火の輪から半歩、雪の冷えへ踏み出す。肩に落ちる月光は氷の刃だ。闇に紛れる宰相の背へ、静かに言葉を投げる。
「最後に。宰相殿、あなたは痛みから目を逸らし、秩序の影に身を隠しておられる。わたくしは決して目を逸らしません。それだけは、申し上げておきます」
届かなくてもいい。この場に刻めれば、十分だ。視線でダビドを捉え、顎をわずかに振る。
――“宰相を確保して”。
すぐに理解した彼が、シモンとガイルズへ手旗で合図を散らす。外周の警戒線が静かに絞られ、逃げ道を塞ぐ網が編まれていく――そう思った瞬間。
カンッ。
凍てた雪原に硬質の異音が跳ね返る。つづけて、夜空を裂く細い火線が幾筋も弧を描いた。
陶壺――油壺だ。第一波が治療用天幕へ叩きつけられ、焚き火より濃い橙が息を呑むほど速く噴き上がる。薬瓶の砕ける音、焦げる樹脂の匂い、雪が弾ける乾いた音。鎮まりかけていた輪は、一転して修羅場へ傾いた。
「敵襲――!?」
「影の手か? いや、距離が遠すぎる!」
怒号が交錯する。稜線に弓兵の影はない。火矢だけが星屑のように降り注いでいる。
「場裏――青!」
雪片を媒介に場裏・青を展開。半径数メートルの事象干渉領域がぱっと立ち上がり、前面のみを開口。外気水分を吸引・圧縮して白い水膜を火柱へ巻きつける。
だが油膜の芯はなお昂ぶり、帆布が風船のように裂けていく。
「ならば――場裏・赤!」
青を領域解除、間を置かず赤を展開。熱の勾配を奪うよう想念を刻むと、干渉領域内の熱量が刈り取られていく。精霊子の流れが脳の縁を擦り、視界が星砂のように閃いた。
メービスの器はミツルほどではない。黒鶴を現出させる出力もない。だが退けば、天幕の負傷者が焼かれる――この一行の天秤だけは、いま選びようがない。
――負けるな。
袖口が焦げ、皮膚の匂いが鼻腔を刺す。それでも熱を下げ切り、油の核を氷点下へ押し込める。
「今だ──!」
領域を薄め、熱を奪われた油を雪へ落とす。氷片が一斉に溶け、白い蒸気が幕のように立ちのぼった。脈動するマウザーグレイルの鼓動に合わせ、倒れ込んだ衛生兵を抱き起こす。
蒸気の向こう――遠間からの一斉射。油壺を割る矢。影の手にしては間合いが離れすぎている。なのに、この練度とタイミングは素人ではない。混乱で動きを計る罠か。
ヴォルフの剣閃が第二波を打ち落とし、兵たちは鎖のように雪を掘って消火の溝を刻む。数分か、あるいは永遠に長い刹那か――やがて油火は雪へ呑まれ、黒煙だけが残った。
「――宰相がいないぞ!」
誰かの叫びに、胸が冷える。監視に就いていたダビドが唇を噛む。混乱のさなか、黒い外套は音もなく夜陰へ溶けていた。
火矢の残光が消え、雪原は再び闇に沈む。襲撃者が影の手か別勢力かは判然としない。ただ一つ確かなのは、“情で全てを救え”と嘲った男の直後に焔が降ったという事実だけ。
焦げ跡の付いた袖を払い、ゆっくり立ち上がる。切り捨てると決めたのは、この身。ならば、この身を楯に灯を守る――それが、いま出来る精一杯だ。
遠くで雪嵐が唸り、夜はなお深い。粉雪が頬を刺し、背の闇から、あの嘲弄だけが響く。
「貴女のその“情”で、愚民どもを救ってみせよ。――はははは……」
奥歯を噛み合わせ、燃え残る天幕を背に、兵たちへ声を張った。喉の奥の熱が短く波打つ。
「消火を急いで、負傷者搬送を最優先!」
短い返事がいくつも重なり、雪を蹴る足音が輪の外へ走っていく。濡れた毛布が手から手へ渡り、水の重みで腕が沈む。炭と油の匂いが立ちのぼり、火の粉が低く散った。
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------------------------- エピソード470開始 -------------------------
【エピソードタイトル】
凍土に芽吹く約束
【本文】
灰色の薄絹をまとった空の縁から、夜明けの最初の光がそっと地上へ降りる。冷たい空気が頬を撫で、淡い温度が、傷ついた野営地の輪郭をやわらかく浮かび上がらせた。
凍てた踏み跡に、薄い光が細い帯となって伸びる。霜を噛んだ雪面は静かな吐息のように白く、歩けば足裏にきゅ、と乾いた音が残った。
昨日まで森を呑んだ油火のむせ返る煙は薄れ、焼け落ちた天幕の骨組みだけが朝日に霜の白をきらめかせている。失われたものの大きさを黙って語りながら、どこかで“始まり”の気配が小さく息をする。
焦げの匂いの底に、濡れた木の甘さが戻りつつある。折れ枝と布片が雪に貼りつき、薄青い糸目が朝光の刃でほどけていた。
土埃にまみれた医療班と後送班の背が、薄金の光でくっきりと際立つ。担架の軋み、薬瓶の微かな触れ音、雪を踏む靴底の湿りを含んだ感触――雑音のすべてが「生きている」へ戻ろうとする鼓動だった。
濡れた毛布の温度、血と消毒薬が混じる匂い、吐いた息の白い粒。わずかに震える指先を、誰かがそっと包むたび、寒さの縁がやわらいだ。
喧騒を裂いて、ダビドがこちらへ駆け寄る。双眸は充血し、焦げと疲労の匂いが外套の襟に微かに残っている。靴の泥が跳ね、雪に濃い斑点をつくった。
白い息がほどけ、頬に朝の冷えが薄く触れる。
「申し上げます、陛下。宰相の痕跡は見当たりませんでした。外套は燃やされ、靴裏には細工が施されていた模様にございます……。犬橇の轍へ足跡を重ねるとは、用意周到なことです」
焦げの底に湿った木の甘さが戻り、鼻腔の奥が柔らぐ。
言葉の端々に悔しさのさざ波が立つ。舌の奥に薄い鉄味がじわりと差し、わたしはそれを飲み下した。
宰相の不敵な笑みが脳裏に灯る。薄い唇の弧、冷えた眼の光。思い出すだけで、指の節が硬く結ばれた。
「狸め。まったく、逃げ道まで仕込みやがって……」
遠くで車輪が軋み、雪の膜がかすかに裂けた。
吐息に混じるわずかなぬくもりが雪気に攫われていく。冷え切った車輪の軋みが、もう一度だけ野営地の縁で細く鳴った。
「馬車からなかなか出てこなかった理由は、逃げの態勢を整えるためだったのかもしれませんね……」
ブルーノの唇は白く噛み締められ、シモンの拳が革手袋越しに小さく震える。吐く息は寒さだけでなく、悔しさの温度を帯びていた。雪の反射が彼らの頬のこわばりを際立たせ、沈黙の縁に細い亀裂を入れる。
わたしは胸の内のざらつきを一度だけ呑み込み、彼らの労をいたわるように声を置く。
「シモンの言う通りです。わたしとの問答も、きっと脱出の機会を窺うための時間稼ぎが目的だったのでしょう……。
ごめんなさいね、ダビド。さっさと身柄の確保を命じていれば、こんなことにはならなかった。ですが、どうしても話をして、彼の言い分を引き出したかったのです」
手袋の縫い目が指腹に触れ、粗い糸の感触で心が戻る。
言いながら、喉の奥の乾きを意識する。焦げの粉がまだ空気に漂っていて、声帯の表面をかすかにざらつかせた。
「とんでもございません。陛下のお言葉があったればこそ、兵士たちの心が動いたのです。正直、ぐうの音も出ない宰相が滑稽にございました」
自嘲が口元にかすかに触れる。白い息がほどけて、すぐ空へ消えた。わたしは手袋の縫い目を親指でなぞる。縫い糸の粗さが指腹をすべり、少しだけ平静が戻る。
「そうでもないわ。状況が味方しただけ。論戦では、やっぱり宰相の方が上手よ。わたしは、ただ思いを伝えたかっただけ。真っ向勝負を挑んだところで彼の心は動かないって、わかってはいた。それでも――わたしには、それしか術がないから……」
その肩へ、ヴォルフの手が静かに置かれる。包帯の下の体温が掌越しに伝い、叱咤ではなく“いま、ここ”へ戻す重みだった。
布のこすれる微かな音が、耳の裏で低く鳴る。
「それでいい。おまえは、それがいちばんだ」
薄金の光が包帯の白を照らし、影が静かに揺れる。
低い声の波が氷の朝気をやわらげる。わたしは指先で彼の甲に触れ、短く熱を返した。
「……ありがとう」
胸の奥でぬくもりが輪になって静かに留まる。
それだけで足りた。胸の奥の小さな鈴がひとつ鳴る。音は薄い金の輪となって、肺の内側にそっと留まった。
少し離れた、飾り気のない馬車がきしみ、雪面へ転がる音。煤と恐怖で顔を歪めた男が、四肢で雪を掻きながら這い出てくる。宰相派の貴族――ラドクリフ公。兵が駆け、押さえ込む。彼は腰が抜けたようにへたり、歯の触れる音だけが小刻みに鳴った。
毛皮の端から嫌な脂の匂いが立ちのぼり、凍気にとがって鼻腔を刺す。
ダビドの眼差しが鋭く細まる。
「あの者、宰相の腰巾着として知られる人物ですね。いかがいたしますか?」
雪の光が彼の睫毛にさざめき、黒の中に白い粉が散った。
「扱いは丁重に。そうね。宰相が座乗していた馬車に押し込んでおきなさい。尋問は後ほど街に戻ってからにしましょう。あなたに一任します」
一瞬の戸惑いののち、彼は顎を引き、背筋の音が小さく立つ。鎧の留め具がちり、と鳴って応えた。
「はっ! しかし、宰相の足取りを追わずともよいのですか?」
焼けた木の匂いが風に薄れ、灰の粉だけが舌に残る。舌の奥に小さな渇きが生まれ、わたしは静かに首を振った。
「深追いは禁物よ。あれだけ巧妙な仕掛けをした連中であるなら、追尾してくる敵に対する罠だって、当然用意しているはず」
沈黙の縁で雪が微かに鳴り、視線だけが結ばれる。
「……なるほど」
頬へ冷気が刺さり、睫毛に白い粉が点る。
「それと……みんな、傷だらけではないですか。これ以上の負担も犠牲も負わせたくありません。よって、女王の命として追跡は許可いたしません。いいですね?」
言い切る間に、荷橇の金具が遠くで軋み、吊り縄が風に鳴った。
「陛下のお心遣い感謝いたします」
力強い敬礼が白い朝に刻まれ、ダビドは班へ指示を飛ばしに戻る。彼の背に、忠誠の温度が確かに灯っていた。
その温度は、焚き火の残り火の橙と混じり合い、雪の上に小さな島をつくる。
「今、わたしたちが守るべきは、この無益な争いに巻き込まれた人々すべてよ。宰相の処分については、王都のコルデオが必ず成し遂げてくれるでしょうし、わたしたちは、前へ進まなければなりません」
言葉に合わせ、ヴォルフが北天を仰ぐ。薄雲のむこう、鈍い光の帯が林道の先を示している。肩口の包帯越しに、微かな体温が立ちのぼった。
「そうだ。我々の第一の、そして最大の目的は、ここよりさらに北にあるのだからな」
靴底が雪を押し、きし、と短く鳴る。
「ええ……」
◇◇◇
わたしは近衛師団参謀ヴァレリウスを呼ぶ。足音が雪を噛み、銀の胸甲が朝の白を返した。近づくたび、金具の継ぎ目が乾いた鈴のように細く鳴る。
「ヴァレリウス参謀、部隊の再編をお願いします。まず、負傷兵をまとめて最も近い後送拠点へ送って下さい。亡くなった方々の亡骸も必ず家族の元へ、お願いします……」
「はっ」
「残りは体制を整え次第、先遣隊をボコタへ送ります。避難所立ち上げと、除雪・搬送路の確保に協力していただきたい」
「御意に。……しかし陛下、我々がこの林縁で剣を向けたという恐怖は、そう容易くは消えぬかと。住民の反感は避けられますまい」
彼の声音に、軍人の実直さと民への配慮が同居する。わたしは頷き、前を向く呼吸だけは崩さない。口内に残る灰の粉を、ひと息で押し流す。
「ええ、だからこそ行いで示すのです。兵たちには、これは“贖い”ではなく、未来への“次の一歩”なのだと伝えてください」
ヴァレリウスは胸甲の金具をひとつ外し、雪へ膝を沈める。銀が白に触れる音が短く、厳粛だった。
「必ずや、民の信頼を取り戻してご覧に入れます」
その背が離れ、静けさが戻る。冷えは鋭いが、肺の奥の吸気だけはゆっくり温かい。空気の層が薄く入れ替わるのを胸骨の裏で感じ、わたしは顎を上げた。
気配で背を確かめる。
「さて……ヴォルフ?」
黒革の篭手が鞘口を軽く叩き、低い返事が返る。
「なんだ?」
包帯の下に疼く鈍痛を庇いながらも、彼は視線だけで意図を探った。眉の間の皺が、さっと浅くなる。
「すこし……この場をお願いできるかしら」
焚き火の残り火がぱち、と弾ける。片眉がわずかに上がり、氷を削るような視線が飛んできた。
「……おまえ、またよからぬことを考えてないか?」
前髪を指で払う仕草の奥に、叱責ではない心配の温度が宿る。指先に触れた髪は、霜を飲んだ羽毛のように冷たかった。
両手を小さく上げて降参の意。
「馬鹿言わないで。わたしは避難している人たちに状況を伝えに行きたいだけよ」
「で、一人で行く気なのか?」
雪を渡る風は冷たいが、声の芯はやさしい。足元の雪がきし、と鳴り、目に見えない境界線がふたりの間に引かれる。
「では、俺も行こう。ここはヴァレリウスが万事やってくれるだろうし、別にいなくても――」
彼が一歩出る。包帯の下で痛みが走り、肩がわずかに揺れた。布の陰で、呼吸がひとつ詰まる。
「だめよ。あなただって怪我しているでしょ? 大人しくしていてちょうだい。安心して、わたしはもう飛べるのよ? わかるでしょ?」
「まあ、わかるが……落ち着いたらその力について、ちゃんと説明してくれよな? ただし、俺にわかるように、だ」
人差し指を唇に当てる。霜の粒が朝陽を弾き、きらりと跳ねた。唇に触れた自分の手袋の布目が、ささやくように擦れる。
「もちろんよ。今回封じられていた機能が解放されたことで、いろいろわかったこともあるから。あとで、たっぷりと、ね」
彼の目がわずかに和らぐ。鞘の上に置かれた掌は、抜剣ではなく再会の位置へそっと移った。
「わかった。じゃあ、さっさと行ってこい」
短い吐息とともに、送り出す覚悟の重みが雪面へ落ちる。雪がわずかに沈み、白の影がふたつに分かれた。
「もし戻らなかったら、俺が迎えに行く。それが、俺の役目だ」
「ふふ、頼もしいわね」
胸の内で、小さな灯が強まる。そこへ、レシュトルの囁きが鮮明に差し込んだ。
《システムのクールタイム、終了しています。IVGフィールド再展開可能》
瞼を閉じ、内なる声へ耳を澄ます。後頭部の奥で静かに電流が走り、指先の末端がじんと温む。背骨のひと節ひと節が目覚め、体内の気流が流路を見つけていく。
「精霊子(ちから)よ、集え!」
《精霊子量基準値を突破。IVGシステム起動》
「IVG、起動」
澄んだ破裂音が雪原の静寂へ鋭く刻まれ、背に純白の翼が花のように咲く。空気は金と銀の燐光で満ち、きらめきが凍った空へ舞い上がった。翼の根元に脈打つ光が、鼓動と同期して静かに震え続ける。
肩甲骨のあたりへ、熱が淡く降り、皮膚の下で新しい筋が編まれていく感覚。痛みではない。重さでもない。ただ、所在を得たという確かさ。
「じゃあ、行ってくるね」
足裏に淡い力場の支え。地を蹴ると、白銀の羽板が風を切って大きく開き、同時に薄い光膜がわたしを包み込む。
わたしの作り出したかすかな動きと残存量子ストアがベクトルに変換され、体はふわりと夜明け前の薄闇へ持ち上げられていく。
焚き火の橙はみるみる小さな粒になる。上昇するたび、冷気は刃から絹へと変わり、胸腔の内壁をやさしく撫でる。遠くで誰かが名を呼ぶ。音は空に溶けて丸くなり、背を押した。
――わたしは天使でも女神でもないけれど、この翼で救える命があるなら……この身がどうなろうとも、何度だってこの空を飛ぶわ。
決意を胸の中央に固定し、夜の名残を抱えた冷たい風を切る。避難民の待つ雪原の彼方へ――白銀の翼が、夜明け前の空を震わせた。
【後書き】
これで第十章は終わりです。
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