第36話 過去の霧都と黒き王の予兆

リセル・フローレンスは、自身の身体が時空の奔流から解き放たれたことを理解するよりも先に、肺いっぱいに澄んだ空気を吸い込んだ。


「ここ……は」


彼女は抱きかかえた昏睡中のアークの重みを感じながら、周囲を見渡した。霧都エセリア・ゲート。しかし、未来の荒廃した姿ではない。塔は崩れておらず、街を覆う濃霧はごく薄い。数千年前に遡ったのだ。


その足元、まだ土埃にまみれたばかりの路地裏で、小さな少年が座り込んでいた。青い傘を開いたり閉じたりする、奇妙な動作を繰り返している。


「あ……」少年はリセルと、彼女に背負われた漆黒の傘を持つ青年(未来の自分)を見て、目を丸くした。


「そ、その、あなたたち、一体どこから……?」


少年アークの瞳は、未来の彼と同じ色をしていたが、自己卑下に満ちた怯えと混乱が揺れていた。


リセルは深呼吸し、感情を押し殺して冷静さを装った。ここで感情的に動揺すれば、未来のアークの能力が暴走しかねない。彼女の全身に浮かんだ術式(鎖)が、重い振動を伝えてくる。


「私たちは、遠くから来た旅の者よ。道に迷ってしまって」リセルは、最大限に優しく、そして曖昧に答えた。


少年アークは、未来の自分が持つ漆黒の傘に視線を奪われていた。彼の持つ青い傘とは、似て非なる、完成された『器』の冷たい威圧感がそこにはあった。


「その……傘、とても立派ですね。僕のとは大違いだ」少年は、自分の青い傘をすぐに閉じて、隠すように背中に回した。「僕のは、パカパカしてるだけで、何の役にも立たないって、みんなに笑われるんです」


リセルは胸が締め付けられるのを感じた。これが、全てが始まる前のアークなのだ。蔑まれ、自信を失っている、能力の源流そのもの。


「そんなことはないわ」リセルは努めて平静を保ち、少年を見つめた。「その青い傘は、とても美しい器よ。あなた自身が、その真価をまだ知らないだけ」


「真価……?」少年は首を傾げた。


リセルは素早く周囲を観察した。彼女が持ってきた黒い傘と、昏睡中のアークの存在は、この時間軸にとってあまりにも異物だ。能力の暴走による時間転移は、過去の法則に大きな歪みを生じさせているはず。


「ねえ、坊や。ここは、エセリア・ゲートの、どのあたりかしら?」リセルは尋ねた。


少年アークは指を差した。「ええと、あそこに見えるのが、中央の、封印の塔ですよ。今はまだ、霧が薄いからよく見えますけど、もう少ししたら、また濃くなるって」


封印の塔が完全に無傷だ。つまり、リセルたちが『霧の王』を覚醒させるよりも遥か以前の、平和な時代。王の核は、完全に休眠状態にあるはずだ。


リセルは安堵したが、同時に能力の根源が近いことに、緊張が走る。彼女の身体に刻まれた術式が、再び強く熱を持ち始めた。


「――観測。外部(アウトサイド)。強引な介入(インターフェアランス)。法則崩壊(ロウ・クラッシュ)。」


リセルの背中で、昏睡中のアークが無意識に呟いた。その声は冷たく、完全にデータ処理に基づいた警告だった。


「静かにして、アーク!」リセルは焦り、アークの胸に手を当てて鎮めようとした。


少年アークは、未来の自分が発した、機械的な声にさらに怯えた。「う、うわあ……その人、大丈夫ですか?」


リセルは、彼の視線から逃れるように、再び周囲に目を走らせた。その瞬間、彼女の背筋に冷たい予感が走った。


平和な過去の街路に、彼女たちが飛び込んできた場所を中心に、微細な空間の歪みが発生していた。それは、アークが特異点で作り出した漆黒のドームに似た、法則が崩壊する予兆。


『王の解放は、汝の魔力を呑み込むだろう』


以前、塔の地下で聞いた古代術師の警告が、リセルの脳裏に響く。そして、その警告に呼応するように、遥か地下深くから、地面を揺るがす微かな「鼓動」が伝わってきた。


それは、封印されているはずの『霧の王』の核が、未来から飛来した完成された『器』(黒い傘)の存在を感じ取り、目覚めようとしている音だった。


「間に合わなかったの……。私たちが、この時間の法則そのものを乱してしまった」リセルは愕然とした。


「何か、音が聞こえませんか?」少年アークが、地面に耳を当てた。


「ええ、ええ。すぐに行かないと」リセルは焦燥に駆られた。このままでは、過去のアークの能力が目覚める前に、王が封印を破ってしまう。


彼女が少年を抱えて逃げようとしたその時、背中に背負った黒い傘の先端が、地面にわずかに触れた。


接触した地点から、漆黒の渦が、まるで王の核へ向かう導線のように、過去の都市の地面に、瞬時にして術式を刻み始めた。それは、アークの力がこの過去の法則を、無意識に**『簒奪』**しようとする動きだった。


そして、その刻まれた漆黒の術式の上を、ひとつの影がゆっくりと、しかし確実に踏みしめてきた。


「――観測。目標の座標特定。法則崩壊領域の残渣を追跡しました」


金属的な声が響く。それは、リセルとアークを初期化しようとした、**白い兵士**だった。(続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る