19.逃走
結城は、カフェのテーブルに両手を置き、
まるで懐かしい思い出でも話すように微笑んだ。
「凪沙。覚えてるか? あの川沿いの小学校。」
凪沙は息を呑んだ。
「……どうして、今その話を。」
「懐かしいだろう。
俺たち、あの頃はよく一緒にいたじゃないか。
放課後の空き教室、壊れたブランコ、あの錆びた鉄棒。」
蓮は眉をひそめる。
「小学校……?」
結城は続けた。
「凪沙はいつもいじめられてた。
泣きもしないで、じっと黙って殴られてた。
俺はそれを見て、面白いと思ったんだ。」
凪沙が目を伏せた。
「やめて。」
「何が? あのときの俺は正義の味方だっただろ。
“助けてくれた”なんて、何度も言ってくれたじゃないか。」
「違う……助けてなんて、お願いしてない。」
結城の声が低く笑いに変わる。
「でも俺は助けた。あの三人を、全部壊してやった。
ひとりは歯を全部折って、ひとりは両腕と足を潰して、
もうひとりは肋骨を折って内臓を潰した。
それでお前、初めて笑ったんだ。」
蓮はぞっとした。
「お前、何言ってる……」
「周りの大人たちは俺を“英雄”って呼んだ。
悪ガキから“弱い子を守る正義の少年”だってさ。
笑えるだろ? ――俺はただ、実験してただけなのに。」
凪沙の肩がわずかに震えた。
「あなたは、私を……」
「そう。“作った”んだよ。」
結城の瞳が、淡く笑った。
「俺は自分がどういう人間なのか、知りたかった。
だから、自分と同じような人間を造ったんだ。
凪沙、お前は俺の“作品”なんだよ。
泣くタイミングも、笑う仕草も、全部俺が教えた。」
「やめろ……」
「小さい頃は、猫を一緒に殺したよな。
お前、最初は怖がってたけど、二匹目のときにはもう震えなかった。
俺はその時確信した――お前は“作れる”。」
凪沙が立ち上がり、結城を睨んだ。
「私を実験台にしたのね。」
「そうだ。でも失敗作だと思ってた。
引っ越してから、お前は“普通の人間”のふりを始めた。
でも――俺の作ったものは、結局壊れやしない。」
結城の目が凪沙を舐めるように見つめる。
「だって、お前も殺しただろ。
麻衣も、有紗も。
……ちゃんと俺の作った通りに、育ってる。」
「黙れ!」
凪沙の手が動いた。
次の瞬間、コーヒーカップの中身が結城の顔に飛ぶ。
熱い液体が頬を焼き、結城が反射的に目を押さえる。
「蓮、走って!」
二人は席を蹴り、裏口に飛び出した。
結城の怒号が響く。
「凪沙ァ!!!」
外に出ると、冷たい風が顔を叩いた。
二人は雨の匂いが残る街を、ただひたすら走った。
***
路地裏に転がり込むように止まった蓮は、
息を切らしながら凪沙を見た。
「……さっきの話、全部本当なのか。」
凪沙は肩で息をしながらも、真っ直ぐに答えた。
「ええ。本当よ。
あの人は……私の“創造主”みたいなもの。」
「創造主……?」
「結城は、生まれつき感情が欠けていた。
でも、“愛”というものを理解したかった。
だから、私を使ったの。
助けて、守って、依存させて――感情を植えつけた。
でも、それは愛なんかじゃない。支配よ。」
蓮は頭を抱えた。
「……もう逃げよう。二人で。どこでもいい。」
凪沙はわずかに微笑んだ。
その笑顔は、ほんの一瞬だけ、少女のように柔らかかった。
「……あなたとなら、どこまでも行ける気がする。」
蓮は彼女の手を握り、
篠田の言葉を思い出していた。
> “お前たちを疑ってるのは、俺と結城だけだ。”
――今なら、間に合う。
結城の罪を全部押しつければ、
この事件は終わる。
「もう、大丈夫だ。」
そう言った直後――背後からサイレンの音。
「パトカー?」
凪沙は振り向き、道路に出た。
ライトが近づく。
「おまわりさん!助けて!」
手を挙げて叫ぶ。
だが、車は止まらなかった。
加速した。
「危ない!」
蓮は咄嗟に凪沙を突き飛ばした。
轟音。
鉄と肉がぶつかる鈍い音。
蓮の体が宙を舞い、道路に叩きつけられた。
凪沙が悲鳴を上げる。
ゆっくりとパトカーのドアが開いた。
降りてきたのは――結城。
助手席には、刺殺された警察官。
胸からナイフの柄が突き出ている。
結城は血まみれの手で蓮を抱き上げ、
凪沙へ視線を向ける。
「“あの場所”で待ってる。」
そう言い残し、蓮を後部座席に押し込み、
パトカーを走らせた。
タイヤが火花を散らし、夜の道を滑っていく。
凪沙はその場に崩れ落ち、
腹を押さえながら唇を噛んだ。
「……蓮。絶対に、取り戻す。」
夜風が、彼女の頬を撫でた。
そしてその目に、
かすかな“人間らしい涙”が光った。
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