結界
夜の風は冷たく、どこかざらついていた。
頬を撫でるたびに、指先から熱が奪われていく。
だけど、胸の奥は逆に燃えるように熱かった。
どこに行けばいい。
どこに彼はいる――?
暗闇の中を無我夢中で歩き回っては足を止める。
息が白く霧散する音だけが、静かな夜に響いた。
駄目だ。闇雲に探したって、見つかるはずがない。
焦りばかりが先走ったとき、ふと、頭の片隅にかすかな記憶が浮かんだ。
何度試しても使い魔を召喚することが出来なくて、必死に読み漁った術書の一節――
“契約とは、血でも言葉でもなく、魂の共鳴である。”
“意識を研ぎ澄ませば、いかに遠くとも互いの気配は響き合う。”
「……千秋……」
ゆっくりと、目を閉じる。
意識を深く、深く沈めていく。
遠くで、水面の下を手探りで進むような感覚。
細くて、頼りなくて、それでも確かに、あの呪力の残り香が……あった。
まるで、霧の中で一本の糸を見つけたようだった。
その糸はどこか痛々しいほどか細く震えていて、今にも切れそうだった。
足が勝手に動いた。
藪をかき分け、夜の湿った風を切るようにして走る。
どこかで、彼が泣いているような気がした。
次の瞬間――
「……きゃんっ……」
風に混じる、子犬の悲痛な鳴き声。
心臓が早鐘を打つ。
気付けば、足が地を蹴っていた。
草木が揺れ、枝が頬を掠める。
息が切れても止まらない。
辿り着いたその先――
そこはかつて二人で修行した、森の開けた場所だった。
月が高く、雲の切れ間からこぼれる光が冷たく地面を照らしている。
風に混ざった血の匂いが鼻を刺す。
「――千秋!」
人型の彼が、ぐったりと倒れていた。
薄桜に似た淡い布が、土と血に濡れている。
白い肌が夜気の中で青ざめ、唇からかすかな息だけが漏れていた。
彼を見下ろすようにその前に立っていたのは――あの男。
漆黒の衣を纏い、腕には幾重もの呪符。赤い目だけが異様に光っている。
「お前は……、この犬の飼い主か」
男の唇が、ゆがんだ笑みを形づくる。
その言葉の直後、彼の手に禍々しい光が光った。
黒くねじれた呪の文様が空気を歪ませ、地面の草を焼く。
その手はぴくりとも動かない千秋の方へ向けられ――
(――駄目だ!)
考えるより先に、体が動いた。
私は千秋の前に飛び出して、両手を突き出す。
喉の奥で呪が焼ける。
「来るなあぁぁっ!」
瞬間、光が爆ぜた。
足元の土が震え、風が渦を巻く。
自分でも信じられないほど強固な結界が、目に見える形で展開された。
淡い蒼光の幕が円を描き、男の放った呪の波を弾き返す。
「……ほう」
男の声が低く唸る。
歪んだ笑みが更に深くなった。
空気が一気に重くなる。
まるで空そのものが圧しかかるような、圧倒的な呪力。
「邪魔をするなッ」
その声と同時に、地面が裂けた。
呪の文様が赤く光り、結界に無数の亀裂が走る。
耳鳴りのような轟音が響き、木々が軋んだ。
それでも――私は退かなかった。
足元が崩れ、腕が震えても、その向こうにいる千秋を、どうしても守りたかった。
口の中に鉄の味が広がる。
全身の呪力が、まるで燃えるように体内を駆け巡る。
黒い閃光と蒼い結界がぶつかり合い、夜の森が一瞬、昼のように明るくなった。
ぴしり、と細いひびが入る。
すぐに、またひとつ。
まるで氷の表面に罅が広がるように、蒼い光が脈打って震えた。
「……っ……!」
息が荒い。
胸の奥で、呪が暴れている。
もう維持できない――そんな声が、頭のどこかで響いた。
だが、背後には千秋がいる。
倒れて、血に染まり、動かない彼が。
絶対に、これ以上は――失えない。
男が一歩こちらへ踏み出した。
月明かりがその顔を照らす。
冷たく、笑っている。
「それに守る価値があると思っているのか?」
低い声が、静かに心を抉った。
「そいつはお前のことなんか主人だと思っていないぞ」
「可哀想な奴だ、いいように使われて」
その意味が脳内で何度も反響する。
痛いほどに。
でも、言葉を返す余裕なんて無かった。
口を開いても声にならない。
喉が焼けるように熱く、頭の中が白む。
ただ、必死に両手を突き出した。
それだけが、今の私に出来ることだった。
「あ゛ッ……」
光が弾けるたびに、全身から力が抜けていく。
もう、腕も上がらない。
ひびは更に増え、結界が砕ける音が耳を打った。
男の口元がゆっくりと吊り上がる。
「終わりだ」
世界が、音を失ったように静かだった。
風も止み、ただ自分の鼓動だけが聞こえる。
(……ああ、駄目だ)
肩が震えた。
体の芯から力が抜けていく。
視界の端が滲んで、千秋の姿が霞む。
「……ごめんね、千秋……」
それが、最後に絞り出した声だった。
膝が崩れ落ち、辛うじて保っていた光の膜が完全に砕け散る。
夜の空気が一気に押し寄せ、冷たい風が頬を叩く。
その瞬間――
「――ッ!」
空気が震えた。
まるで雷鳴のような低い唸りが、森全体を揺らす。
眩しい白光が背後から溢れ出した。
風が逆巻き、地面の草が一斉に倒れる。
私は反射的に目を細める。
光の中から、巨大な光が飛び出した。
それは、月光を受けて輝く“白”。
毛並みは雪のように光を放ち、瞳は燃えるような金を宿していた。
「な――」
男の声が震えた。
白狼――いや、それは、間違いようもなく、千秋だった。
私の知っている姿とはまるで違う。
けれど、確かに彼だと分かった。
怒りと痛みと哀しみを宿したその眼光に、いつもの優しい目を見たから。
彼は私の前に立ち、喉の奥から低く唸りを上げた。
月光に照らされたその背が、大きく揺れる。
「千秋……!」
声が震えた。
胸が締めつけられる。
男が一歩退いた瞬間、白い影が閃光のように駆けた。
風が爆ぜ、土が舞い、森の中で、光と闇がぶつかり合った。
……ふいに、視界が明滅する。
世界が遠のいていくようだった。
森のざわめきも、白い光の奔流も――すべて、遠い夢のように滲んでいく。
その影に手を伸ばそうとしたとき――なすすべなく、私の意識は闇に沈んだ。
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