人殺しの使い魔
朝の光が障子を透かして、淡く部屋を照らしていた。
小鳥の声が聞こえる。
けれど、私の身体は鉛のように重かった。
寝返りを打っても眠気は戻ってこない。
夜明けを迎えるまで、ほとんど一睡もできなかったのだ。
夢を見ていたような、でも確かに現実だったような――そんな、曖昧な夜。
「……夢、だったのかな」
ぼんやりと呟きながら、寝間着のまま襖を開ける。
その瞬間、空気があたたかく変わった。
焼き魚と味噌の香ばしい匂いがふわりと漂い、鼻をくすぐる。
「おはよう」
台所に立つ千秋が、振り向きざまに微笑んだ。
朝の光を背に受け、湯気の向こうに柔らかな笑みを浮かべている。
白い袖をまくり上げ、器用に出汁をとっていた。
――まるで、いつも通りの朝だ。
「お、おはよう」
声が少し掠れる。
寝不足で頭がぼんやりしているせいか、現実感が薄い。
「随分と眠そうだね」
「うん……ちょっと、寝付けなくて」
「昨日は術が上手くいったから、気分が高揚してしまったかな?」
そう言いながら、千秋は器を並べていく。
味噌汁の湯気が視界を曇らせ、その向こうの彼の顔がゆらりと揺れた。
私はふと、昨晩の記憶が胸の奥でざらりと動くのを感じた。
――あの黒い染み。
――足を引き摺る千秋。
――壁に背を預け、苦しそうに息をしていた姿。
まるで夢の中の出来事みたい。
しかしあの冷たい空気は、あんなにもはっきりしていた。
気付けば、私は視線を彷徨わせていた。
台所の隅、廊下の角、壁際――
昨夜、黒い染みが落ちていたはずのあたりを。
けれど、どこを見ても床は綺麗なままだった。
木目が光を反射し、丁寧に拭かれたように整っている。
……そんな、はず、ない。
けれど、確かめる勇気は出なかった。
もしかすると、あれは本当に夢だったのかもしれない。
千秋が何も言わずに家を抜け出していたなんて――そんなこと、あるわけがない。
「……変な顔してるよ」
「え?」
「いや、なんというか……狐につままれたみたいな」
千秋が茶碗を差し出しながら、首を傾げて笑った。
その仕草があまりにも自然で、心の奥に巣くっていた違和感がふっと揺らぐ。
「疲れてるのかもね」
「うん、たぶん……」
自分でも分かるほど声が弱々しい。
千秋はしばらく私を見つめていたが、すぐにいつもの穏やかな笑みを戻した。
「じゃあ、今日は息抜きに出掛けようか」
「えっ?」
「術は心情の影響を大きく受ける。気分転換も大事だよ」
「でも……」
「それとも、叱りつけてほしい?」
くすりと笑うその声は、あの夜の気配とはまるで違う。
やわらかく、温かく、どこまでも優しい。
「……息抜き、行く」
「よし。じゃあまずは腹ごしらえだね」
千秋が振り返り、鍋の火を落とす。
彼の背中を見つめながら、私はそっと胸に手を当てた。
――夢、だったのかな。
そう思い込もうとすればするほど、心の奥のざらつきは消えなかった。
けれど、彼の作った朝ごはんの香りがそれを覆い隠していく。
あたたかい空気が部屋を包み、まるで何も起きなかったかのように、朝は穏やかに流れていった。
昼下がりの街は、祭りの前触れのように賑やかだった。
行き交う人々の声、屋台から漂う甘い蜜の匂い、遠くで響く笛の音。
色とりどりの暖簾が風に揺れ、あちこちから笑い声がこぼれている。
「わあ……! 見て、千秋! この店、呪符用の墨がこんなに種類ある!」
私は目を輝かせながら、軒先に並ぶ品々を見つめた。
古びてはいるが質の良い呪具、薬草、護符、指先ほどの小瓶に詰められた霊砂――どれも高価で、でも一つ一つに心を惹かれる。
「いつか全部、自分の力で買えるようになりたいな……」
呟きながら、私はつい頬を緩めた。
少しずつでも貯めて、良い道具を揃えて、
強くなって、胸を張って“呪術師です”って言えるようになりたい。
そんな未来を想像するだけで、胸の奥が熱くなる。
――けれど。
「……あれ?」
振り返った先に、千秋の姿がない。
さっきまで隣で「見つめすぎると目が疲れるよ」と笑っていたのに。
「千秋?」
人の波の中に特徴的な白髪を探す。
左にも右にも同じような背丈の人が行き交って、目が回る。
「まさか……迷子?」
半ば冗談のようにぼやきながら、私は少し焦って人混みを縫うように歩いた。
あの人が迷うなんてありえない――そう思いながらも、不安が胸をくすぐる。
「千秋? どこ行ったの?」
誰も振り返らない。
通りの喧騒が一層遠く感じられて、心細さが募る。
人の肩にぶつかりながら、私は足早に角を曲がった。
その瞬間、誰かの身体と勢いよくぶつかって体がぐらりと傾く。
「――っ!」
なすすべもなく地面が迫る。
けれどその前に腕と腰を掴まれ、ぐっと引き上げられた。
「危ない」
低く、耳に馴染んだ声。
胸元に引き寄せられた私の視界に、淡い色の羽織の襟と、香のような匂いが広がった。
「千秋!」
顔を上げると、彼がいた。
いつもと同じ穏やかな笑みを浮かべて。
「ごめん、驚かせたね」
人混みを避けるように私を引き寄せ、道の端へと導く。
彼の手の温もりが、じんわりと指先に残った。
「もうっ、勝手にどこか行ったら危ないよ! 心配したんだから」
ぷんすこと頬を膨らませると、千秋は苦笑しながら片手を上げた。
「すまない。君に似合いそうなものを見つけて、つい」
そう言って懐から小さな包みを取り出す。
中から現れたのは、淡い桜色の玉が連なった、美しい簪だった。
「綺麗……」
日差しに透けて、細工の中で金糸がほのかに光る。
彼は私の頭にそっと手を伸ばした。
指先が髪を梳き、耳の後ろで静かに簪を挿す。
桜の飾りがかすかに揺れて、風に小さく音を立てた。
「うん。やっぱりよく似合う」
その言葉は、まるで春の陽だまりのように柔らかかった。
思わず目を合わせると、千秋はほんのりと微笑んでいた。
笑っているのに、どこか切なげな眼差しで。
頬が熱くなるのを感じて、私はそっと視線を逸らした。
胸の奥で何かが静かに跳ねた。
それが嬉しさなのか、不安なのか、自分でも分からない。
人のざわめきの中で、ふたりだけの時間がゆっくりと流れていた。
その時、通りを歩いていた人々の笑い声に、ふと不自然な音が混ざった。
甲高い悲鳴。
そして、地鳴りのようなざわめき。
最初は祭りの喧騒のように聞こえたそれが、すぐに“異質なもの”だと分かった。
人々の顔から笑みが消え、恐怖が走る。
「逃げろ! 怪魔だ――!」
誰かの叫びが響いた瞬間、通りが一変した。
屋台が倒れ、子どもが泣き叫び、人々が押し寄せ合うようにして逃げ出す。
目の前の景色が、ほんの一呼吸で日常から地獄へと変わった。
私は息を呑み、隣の千秋を見上げる。
すると――
彼の表情は、まるで別人のように変わっていた。
穏やかだった微笑みが、ひっそりと消える。
瞳の奥に、冷たい光が宿る。
唇が僅かに吊り上がり、凍えるような笑みを浮かべた。
「こんなところへまで追ってくるのか……」
その声は、低く、静かで、どこか愉しげだった。
「必死だな」
その言葉に、背筋が凍った。
“彼”じゃない――そう思った。
目の前にいるのは、私の知っている優しい千秋ではない。
けれど、次の瞬間にはいつもの柔らかい表情に戻っていた。
「君は皆と一緒に逃げて」
「えっ、でも――」
「俺は少しやることがある。大丈夫、すぐに追いつくよ」
それだけ言い残すと、風を切るような速さで駆け出した。
人の流れに逆らって。
まるで、何かを追うように。
「待って、千秋!」
叫んでも、届かない。
人々の悲鳴と足音に掻き消される。
……逃げろという言葉を理解していても、足は勝手に動いていた。
胸が痛いほど高鳴って、息が苦しい。
分かっている――
彼は私を巻き込みたくない。
だから、置いて行った。
それでも――
「放っておけるわけ、ないでしょ……!」
押し寄せる人の波に逆らいながら走る。
肩がぶつかり、体が何度も揺れる。
転んで、膝が焼けるように痛んだ。
手のひらに砂と血が滲む。
それでも立ち上がって、走る。
「千秋……、千秋!」
通りの向こう、煙の上がる方へ。
光のように遠ざかる黒い影を、必死に追いかける。
もう、あの笑顔が消えてしまいそうで――
二度と、届かなくなりそうで。
「お願い、行かないで……!」
叫んでも、返事はなかった。
ただ、風だけが私の頬を冷たく撫でていった。
息が切れていた。
心臓が破裂しそうなほど脈打ち、喉が焼けるように熱い。
どれだけ走ったのか分からない。
気づけば街のざわめきは遠く、足元には草の匂いが広がっていた。
夕暮れに染まる、少し開けた丘。
そして――そこに、千秋がいた。
陽の光が傾き始めて、長く伸びる二人分の影。
片方は千秋。
もう片方は、見知らぬ男。
長身で、黒い衣を纏い、冷たい光を帯びた瞳をしていた。
その立ち姿だけで、空気が張り詰める。
この場から彼ら以外の生き物が消えてしまったかのように、鳥の鳴き声ひとつしない。
二人は深く知った仲のように互いに言葉を交わしていた。
だが、何を話しているのかまでは分からなかった。
声が風に掻き消されて届かない。
千秋の横顔が見える。
いつもと違う。
柔らかな微笑ではなく、冷たく研ぎ澄まされた表情。
さっきと同じ――怪魔が現れた瞬間に見せた、鋭い瞳。
胸の奥がざわついた。
私は物陰に身を潜め、息を殺した。
風が草を揺らす。
焦げたような匂いが、かすかに漂ってくる。
次の瞬間。
男が右腕をひと振りした。
たったそれだけで空気が裂けた。
呪の気配が、肌を焼くように漂う。
刹那、千秋の身体が弾かれたように崩れ落ちる。
「千秋!」
叫んだ時には、もう遅かった。
膝をついた千秋の身体は、淡く光を放ちながらぐにゃりと揺らぎその姿を縮めていく。
人の形がほどけ、やがて掌に収まるほどの小さな白い子犬へと変わっていった。
あまりにも脆くて、壊れそうで。
「やめて……っ!」
気付けば駆け出していた。
倒れた千秋の前に立ちふさがり、腕を広げて庇う。
膝が震えていたけれど、足だけは後ろに退けなかった。
顔を上げると、あの男が目の前に立っていた。
男は目を細め、ゆっくりとこちらへ歩み寄る。
「なるほど」
息を呑む。
その瞳は底なしの闇のようで、視線が突き刺さった。
「確かに扱いやすそうだ。心優しく、愚鈍で……」
薄く笑い、声を潜めるように言った。
指先が顎に触れ、無理やり顔を上げさせられる。
「――人殺しの使い魔には、お似合いだな」
一瞬、時が止まったように思えた。
何を言われたのかすぐには理解できない。
けれど、その言葉の重さだけは胸の奥深い場所へ落ちた。
男は私の動揺を愉しむように薄く笑った。
数秒後、煙のようにその姿が掻き消える。
湿った風が残り香を運び、静寂だけが広がった。
「……千秋!」
慌てて振り返ると、子犬の姿の彼がぐったりと横たわっていた。
白い毛並みに、ところどころ黒い血のような染みが滲んでいる。
「しっかりして……お願い、目を開けて」
震える手で抱き上げると、かすかに胸が上下していた。
まだ、生きてる――
涙が滲んだ。
その小さな身体を抱きしめ、頬を寄せた。
「もう大丈夫。私が守ってあげるから」
子犬の小さな耳が、微かに動いた気がした。
それだけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
風が止み、遠くで誰かの笑い声が聞こえた気がした。
それが現実か幻か、もう分からなかった。
ただ、腕の中の温もりだけが――確かに、ここにあった。
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