君に咲く

雨間イブキ

別れ

春の風が吹いて、花びらがひとひら、またひとひらと私の髪に落ちた。

手のひらを伸ばすとそれはふわりと逃げて、すぐに消えてしまう。

「お兄ちゃん。桜って、どうして散っちゃうの?」

私の言葉に、隣に立つ青年が少しだけ目を細めた。

陽の光を透かした横顔はどこか寂しそうで、でも微笑んでいた。

「散るからこそ、また咲けるんだよ」

「また咲けるの?」

「そう。春が来たら、必ずね」

彼の声は優しかった。けれど、どこか遠くを見ているような響きがした。

いつもなら私が話しかけると笑って頭を撫でてくれるのに――今日は少しだけ違う。

胸の奥が、なんだかざわざわして落ち着かない。

「お兄ちゃん」

思わず呼びかけると、彼はゆっくりと振り向いた。

風に揺れた長い黒髪が頬にかかる。その瞳が、ほんのわずか、苦しそうに歪んだ。

「……ごめん。しばらく会えなくなるかもしれない」

やっぱり。そうなんだ。

言葉にされると、涙がこぼれそうになった。

「いやだ。行かないで」

小さな手で彼の袖を掴む。必死で、離したくなくて。

けれど彼は優しく私の手を包み込み、そして、そっと外した。

「大丈夫。また会えるよ」

「ほんとに?」

「うん。約束する」

その言葉に、私は必死で笑顔を作った。

泣いたら彼を困らせてしまうって、分かっていたから。

「じゃあ約束ね。つぎに会うときは、また一緒に桜みようね」

一瞬、彼の瞳が揺れた。

光の中で、何かを決意するようにまぶたが伏せられる。

――そのときの彼の表情を、私は今でも憶えている。

笑っていたのに、泣きそうだった。

「……ああ、必ず。また桜の下で」

そう言って、彼はいつもみたいに私の頭を撫でた。

大きな手のぬくもりが、春の風よりもあたたかかった。

けれどその日を最後に、彼は消えた。

桜の花がすべて散るよりも早く。

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