かろうじて青春
小川がお
第1話 背中
私は苛立っている。
メロスが感じた激怒は、後に彼を大きく前進させる原動力となるが、今の私の場合、この小さな怒りはただ疲労を増幅させるだけで、時間が解決してくれることがわかっている。
記録的な大雨。銀座四丁目交差点の渋滞に、私たちは完全に捕まってしまった。私を助手席に乗せた6人乗りの黒いバンは、10分で軽自動車一台分ほどの距離しか進んでいないように感じる。
右手首の時計をちらりと見てから、運転席に目線をやると、新人運転手の男性はぐったりと項垂れていて、今日一日の過酷な疲労を隠す様子がない。
「新人よ、まだ仕事中だ。少しは遠慮しろ」と喉まで出かかったが、言葉を飲み込んだ。思えば今日のスケジュールは過酷だった。忠告は後日にしよう。辞められてしまえば、また私が『パワハラ女史』だと疑われてしまう。勘弁してくれ。
交差点の中央付近では、赤く光る誘導棒を持った警察官が、激しい雨粒に撃たれながら車両を捌いている。
小学生時代の私は、あの赤く光る誘導棒に底知れぬ憧れを抱いていた。振るとブンッと音が鳴り、棒同士が触れると火花が散る。男子に混ざってチャンバラごっこに興じていた当時の私は、映画「スターウォーズ」の中の世界だから、そんなはずはないのだと頭では理解していた。
しかし、心のどこかで、あの棒を手に主人公に成り切り、いつも私を小馬鹿にする憎たらしい弟を成敗して泣かせてやりたいと思っていた。
私とは真逆の価値観を棒に宿し、あたり構わず振りかざす弟の泣きっ面を拝めたかもしれない。弟はいつも冷静で、口喧嘩では勝てる気がしない。私の前では一度も感情を露わにせず、ただ黙々と、淡々と、私を凌駕するための知識と論理を蓄えていった。
私は妄想が好きで、どちらかといえば怒りっぽくて自分に甘い。自分の実力以上のことはしたくないのである。それなのに、そこそこの大学に進学し、ある程度の地位とそれなりの報酬を貰えているのは、ひとえに『弟に舐められたくない』と感じ、それなりに努力した結果だ。
私を動かす原動力は、愛や夢ではなく、いつだって小さな復讐心と見栄だった。
そうだ、本当に苛立っているのは、この雨の中で誘導棒を振っている彼らの方ではないか。
ひょっとしたら、今日は残業を強いられ、彼女との貴重な夜の約束を棒に振ったのかもしれない。
あ、いま実際に棒は振っているか。
これは自分に一本取られた、などと考えていると、私の苛立ちと弟への小さな復讐心は、雨音が掻き消す喧騒の中にいつの間にか消えていた。
からっぽになった頭をサイドウィンドウに預けて、あくびを1つ。ガラスが生暖かい吐息で曇る。目尻から垂れてきた涙を拭おうとバッグの中のハンカチに手を触れると、携帯の着信音が鳴った。
耳障りな電子音を聞いた運転手が思わず、ビクッと背筋を正すのがわかった。
発信元は、本日最後の現場の責任者からである。
「お世話になっております。只野さん、交通状況などいかがでしょうか?もし遅れるようでしたら、こちらで対応しますけど……。予定では30分前到着のはずでしたが」
予定通りであれば既に到着しているはずだった。たとえ1分の遅れであろうと、その後の仕事が全て遅れ、ドミノのように計画と信用が次々と崩れていく。この仕事をする上で、過密ではあるけれど、私は完璧にスケジュールを計画し、そして遂行してきた。今まで時間を守れなかった事は一度もない。
私なりにそうやって満足な実績を残してきたのだから、それが信用に繋がる何よりの鉄則だと思っている。
しかし、この状況は予測できない。
この交差点を右折すれば目的地であるホテルが見えてくる。本来ならば時間にして5分にも満たないはずだけれど、今日は読めない。
わからないことをあやふやに伝えて、希望的観測をさせてはいけない。もしそれ以上に遅れてしまった場合、これまでの信用は無に等しくなる。
ここは事実をしっかりとお伝えしよう、と唇を噛んで、渇いた口元を開く。
「誠に申し訳ございません。現在、会場すぐそばの銀座四丁目交差点が冠水しており、これによる渋滞の為、全く車両が進まない状況でございます。ご迷惑かと思いますが、最悪の場合……」
続きを言おうとした、その時。
「只野さん!車、進みました!」
新人運転手が喜びの声を大にして言った。
先方もこれを聞いていた様子で、耳元から安堵の笑い声が聞こえる。「電話の最中に大声を出すな」と、これも後日、忠告しておこう。
「お聞きした通り、只今車両が進みましたので、あと五分ほどで……」
と、言いながら、運転席後ろに座る、土砂降りでボヤけた銀座の夜景を眺めている姿に目を向ける。
……ヒール?
この現場の為に着替えは事前に済ませていたのは良かった。しかし、ヒールを履いている彼女はバンから降りる時、足を挫かないよう、かなり慎重になる。そして白いサテンのワンピース。汚れが目立ってしまうため、会場までの通路を歩く際は、両端をなるべく避けて歩く。活発な彼女は、知らないうちに服を何かに引っ掛けてしまうかもしれない。
開演まで、残すところあと5分。
車が勢いよく右折し、会場である華麗な一流ホテルのポーチが見えた。到着まで1分といったところ。入り口から大広間までの距離を歩く彼女の歩幅を考慮すると、やはりオンタイムでは厳しいか。
即座に思考を巡らせて、話を続ける。
「大変申し訳ございません。車は無事に動きましたが、会場までの移動時間、2分間進行役にお任せして頂けないでしょうか」
ー只野さん?
「時間通りで大丈夫です」
声がした後部座席を振り向くと、彼女は脱いだヒールの踵をつまみながら微笑んでいた。
「あぁ、や、やっぱり時間通りで大丈夫です!」
「承知しました。本日も宜しくお願い致します」
咄嗟に勢いで言ってしまった。
彼女の言葉に流された、という方が正しい。
「只野さん。私に付いてこれますか?」
彼女の声には、挑戦的な響きが含まれていた。
「うるさい。学生時代はバスケ部だったんだ」
無駄な虚勢を張り、新人運転手をギロリと睨む。彼の顔は、突然の事態に驚きながらも、どこか楽しそうに口元を緩めている。
「自動ドアの、あれ?スイッチ?今だけ切っとけ」
彼は返事はしなかった。
私はバッグに常備している常温の飲料水の蓋をほんのわずかに緩め、右手首の時計をチラリと確認する。残り時間。――確かに走れば間に合う。
メロスよ、私も走ることにするよ。
だが途中で休んでいる暇はない。
高校生以来の短距離走だ。
バンが会場であるホテルのポーチに滑り込むように到着すると、後部座席の彼女は、車がしっかりと停車したかどうか定かではないタイミングでドアを開け放ち、駆け出していた。
一流ホテルということもあり、ベルボーイの一人はバンの到着に合わせてホテル入り口の自動ドアに手をかざし、もう一人はバンの後部座席ドアに近寄ってきたものの、特にやることはないのである。
私はと言うと、そんな彼女の背中を瞬き一つの時間を置いて助手席ドアを開け放ち、高級車ということもあって無駄に車高が高く、ほとんど飛び降りる感覚で地面に片足をつけた。バンに近寄っていたベルボーイが、凄まじい速さで開くドアの勢いに「ヒッ」と驚く声を漏らし、私が開け放った反動で、再びドアが閉まる。
これまた彼がやることはないのだ。
彼女の背中との距離は三馬身ぐらい。逃げ馬を捉えようと本能の赴くままに走る競走馬の如く、スーツのまま追いかけた。しかし、体力的に彼女を差すことは無理なようだ。足が上がらない。もつれて転びそうになる。
レッドカーペットを駆ける後ろ姿の彼女は、白馬が飛んでいるように軽やかで、楽しそうだった。白いワンピースの裾を気にすることなく、しっかりと腕を使って体を前に運んでいる。
きっと笑っているだろうな。そう思った。
たった数秒走っただけで心臓が破裂しそうになっている。このまま廊下で大の字になってやりたいけれど、時間がない。
私の3秒ほど前に大広間入り口の硬い扉の前に到着した彼女は、深呼吸をしながら目を閉じ、祈るように手を固めている。
私はバッグから飲料水を取り出して彼女の前に差し出すと、目を閉じたままそれを受け取り、少し緩んだボトルキャップを外して2回、喉をゴクリと鳴らす。大きく息を吐いた後に、こくりと頷き「よしっ」と声に出して気合いを入れる。
それを見た私は彼女に「いってらっしゃい」と声をかけた後、仕事を見守るのである。いつの日からか、これが私達の仕事前のルーティンとなっていた。
しかし今日は違った。
いつもなら、「よしっ」と気合いを入れるタイミングで「只野さん」と、少し畏まった声で話しかけてきた。
「このお仕事は只野さんにとっても、私にとっても特別なお仕事だと思います」
彼女は目の前の重い扉を見つめながら話し始めた。
「私にとってお仕事はどれも大切で、いつでも感謝の気持ちをお伝えしようと心掛けています。あの時私が只野さんのことを存じ上げていなかったら、そして私が臆病のままだったら、今の私はここにはいません」
彼女はうっすらと、目に涙を溜めていた。純粋な感謝の光を宿した雫だった。
大広間に集まった取材陣に向けて、司会役が進行を開始する文言が聞こえてきた。大勢の記者が集まっているのだろう。重い扉の外からでも、騒めきが漏れて聞こえてくる。
「今日大勢の方の前で、私は、自分の口からお話しをします。時には事前に原稿があったり、大人の事情で言ってはいけないこともたくさんあります。ですが、このお仕事は違いますよね。私自身が主体となって、自分の言葉で未来を語れる。これが、私にとっての自由なんです」
大広間からは記者が放つフラッシュとカメラのシャッター音が聞こえてきた。800名以上の取材陣、インターネット中継が数社と知らされている。異例の規模だ。
「これから、いったいどんな人生が待っているのか、私はとっても楽しみで仕方がないのです。私の人生に只野さんがいないだなんて、想像もできなくなってしまいました。それはとても嬉しいことです。私はまだまだ伝えなければならないことがたくさんあります。これからも一緒に……」
「それでは登場していただきましょう……。
『花道なぎさ』さんの登場です!」
大広間の中から司会進行役の声が一段と大きく、長い廊下に響き渡った。ずっしりとした大きな扉がゆっくりと開き、会場内の騒めきが強くなる。
「これからも一緒に、お仕事、しましょうね」
彼女は子供のように、無邪気な顔をしていた。
それは私が見てきた中で、最も輝く笑顔だった。
私は「そうだな」と無愛想な言葉を投げた。
走った疲れと時間に間に合った安心感で体がだるい。会場内の様子を背中で聞くように壁にもたれながら、まだ走った後の余韻が残る火照った足元を見つめる。
私の言葉は、なぎさに放たれる無数のフラッシュとシャッター音のせいで聞こえていなかったかもしれない。私はあの時どんな顔をしていたのだろう。苦しい表情だっただろうか。どちらにしろ笑顔ではなかったのは確かだ。
私は彼女からの感謝に対して、どうにも臆病だ。私はただ、彼女が万全な状態で仕事に臨めるように、完璧に仕事をしているだけにすぎない。
それ以上の感情を返してしまうと、私のプロとしての壁が崩れてしまう気がしていた。
これから先、なぎさはどういう人生を歩むのだろう。見てみたい。しかし、この気持ちはいつも、どこか他人事だ。
顔を上げると、目の前にガラス張りの喫煙所が見える。呼吸も落ち着き、ようやく安堵感が湧いてきたので、バッグに手を突っ込みながら、よろよろと誘われる。
取り出した最後の一本に火をつけ、くしゃっと空箱を潰す。今日一日の疲れを最初に吐き出す煙にまぶすと、途端になぎさに言った言葉が情けなく思えてきた。
タバコを半分ほど吸ったところで、バンの新人運転手が歩いてきた。私に気付き、スラックスのポケットから出した掌をこちらに向ける。
こいつ、なんだか可愛く思えてきたよ。
「間に合ってよかったっすね。自動ドアの判断はさすがでした。ってかタバコ吸うんすね。俺もご一緒します」
「お疲れ様です、とか、まずは挨拶だろうが。何がご一緒しますだ。お前はただ喫煙所を探して歩いてただけだろ」
へへっと首に手を当てながら笑う。
ここまで自然体なのも今時珍しい。
その割に気が利いていて、休みの日は渋滞を回避する道を探すために、散歩に出かけることが趣味になったらしい。私にフランクな態度を見せるのは、うちの事務所ではこいつぐらいだ。
私もこいつみたいに、明るくて、素直でいられたら、さっきなぎさに言った言葉も、違っていただろうか。
「すんません、火貸してくれないすか?あれ?なんか揺れてる気が……」
はぁ?っと、たった今お前を少し評価した私を悔やみながら、胸内ポケットのライターを彼に渡そうとすると……揺れている。微弱ではあるけれど、会場の様子が心配だ。
「お前、これ残り吸っていい」
そう言いながら、大広間の重い扉に向かって小走りで向かう。ふくらはぎが痛い。背中からは「マジすか!ご褒美あざす!」と呑気な声が聞こえる。
なぎさの様子は?会場は気づいているのか?
私はずっしりと重い扉を、ゆっくりと、しかし確実に開けた。
会場の中は取材陣のフラッシュ音も止んでいて、これから本日の主役である経済評論家が登壇するというところだ。揺れは一瞬だったようで、既に収束していて、壇上の椅子に座るなぎさも表情を変えず、落ち着いている様子だった。
そしていま演壇の前に立った男性を私はよく知っている。表面は明るく振る舞っている為、傍から見れば外面は菩薩。だがその中身は夜叉だ。
私が小学六年生の時の、12月25日の朝早く。
外がまだうっすらと暗い時間に目を開けると、念願の赤い誘導棒が枕元にあったのだ。
まだ誰も起きていないリビングの真ん中で、ブンブン振り狂っている私を前に、彼は、古書ピーター・F・ドラッガー著「マネジメント〜基本と原則〜」を大事そうに両手で抱えながら歩み寄ってきた。
蔑むような目で私を見ると、「うるさい」と一喝し、その分厚い書籍でもって私の頭をぶん殴ったのである。私はその衝撃で誘導棒を落とし、直後、彼は床に落ちたそれを足で踏んづけて大破させたのだった。
両親はこの書物を探すのに本当に苦労したようで、もう数十年も前に発刊されたエッセンシャル版ですら手に入らない古書なのである。そんなレアな古本で人の頭を殴るなど、夜叉でなければなんなのだ。
この憎たらしい笑顔で口を回す経済評論家こそが私の猿、もとい、弟「只野貴史(たかし)」だ。
こいつが発刊した啓発本「アイドル論」は、現在、日本政府が掌握しているアイドル産業に、核爆弾を投下したように自身の論文を元にして刊行されたものだ。その石が投げ込まれた業界は、今では大きな波紋となり、日本政府が公認しているグループのうち、3割が離席。独立するアイドルが増え続けている。
「僕はこの本の中で、現代のアイドル産業が衰退している諸悪の根源は、経済産業省がアイドル産業を国営化したことが大きな要因だと指摘しております。過去にはアマチュアアイドルが爆発的に増加し、地下アイドルと総称された時代もありました。皆さん、現代はどうですか……。」
彼は目の前の取材陣に、そしてインターネット中継を観ている視聴者に問いかける。随分と饒舌だ。彼の声は、会場の隅々まで響き渡るように調整されていた。
「現在、地下アイドルと聞けば、皆さまは時代遅れで、中にはセンシティブなイメージを持たれる方もいらっしゃるでしょう。それもそのはず、政府がプロとアマチュアの境目を設けたことにより、アマチュアで生計を立てられるのは、過度な露出やアイドル活動とは逸脱した、過激な集客イベントを行うグループしか残らなくなってしまったのです。
しかし、これも政府が一部のグループに対して、そういった活動を生業としているという誤った知見によるものです。【売れないアマチュアグループのイベントには、その手のカメラマンが多く出入りし、違法スカウトの対象になっている】と。政治家は時に無責任です。誤解を招く発言をしても、辞めれば責任を果たしたことにする。
当事者の事など、一切考えないのです。
では、プロとアマチュアの中間はどうなっていると思いますか?そこには、希望はありません」
中間層は事実上なくなっている。プロになるものとアマチュアになるもので完全に二極化したことで競争が起こりにくい。政府公認のグループは、地方のPR活動、海外向け広報業務などに携わる、謂わば"アイドル公務員"と化していて、退職後も政治活動広報や、議員秘書といった座布団が用意されている。
安定した収入は得られるが、グッズ収益や個人活動の利益は全て国へと上納されている。安定を獲得する代わりに尊厳を失い、ファンに至っては"推し"に対する熱意の灯火が徐々に鎮火されていく。彼はこの書籍の中で、アイドル活動の自由化と、本人たちに必要なのはビジネス的思考だと記述している。
ごめんなさい、厳粛な会見ですが、私、また一つ、あくびをさせていただきますわ。
弟の長すぎる説明に、私の集中力は限界だ。
そんな堅苦しい内容が書かれた書籍だが、読み手の中にはこの書籍を知識・教養だけに留めておかず、聖書のように信仰するものまでいる。
あんな知識に飢えた猿でも、内容に関しては私も感銘を受けている。そして、この「アイドル論」によって、人生のどん底から這い上がるきっかけを得た一人が、「花道なぎさ」であることもまた事実なのだ。
彼女は例外にして規格外の唯一無二。
個人名義でただ一人、政府に縛られず、確実に、そして着実に成功を収めているソロアイドル。
古来伝説となったアイドル達は、いったいどれほどだったのだろう。なぎさは親衛隊がいなくても睡眠時間は保たれているし、例えスケジュールの都合だからと言っても移動中の新幹線の中で歌ったりしない。彼女は今では偶像では収まらないところまで登り詰めている。
置いていかれたりしないよな。
私は、彼女の行く末が少しだけ怖いんだ。
只野貴史が降壇すると、司会進行役が「さぁ」と一呼吸の間を置いてプログラムを進めにかかった。先程まではどっしりと落ち着いていたが、この大舞台で自身も脚光を浴びることに、少しそわそわしていて、緊張している様子が伺える。
「それでは最後に、アイドル論によって人生が変わったと公言しております。国民的アイドル。花道なぎささんに登壇して頂きましょう」
拍手とフラッシュ音がけたたましく鳴り響く。椅子から腰を上げたなぎさは会場に一礼し、書籍を両手で大切そうに抱え、ブローした少し長めのセミロングヘアーを揺らしながら演壇へと向かう。
フラッシュの光で白いサテンのワンピースが発光し、僅かに舞い上がる塵さえも彼女の装飾品となる。
なぎさが登壇すると、鳴り響いていた拍手とフラッシュ音が消え去り、一瞬で静寂が訪れた。一本のスポットライトに射抜かれたなぎさは、そこだけ切り抜かれた絵画のように存在している。
会場を目の前にすると深く一礼し、喜色満面に話し始めた。
「国民的だなんておこがましいです。せめて国民の娘さんにして頂けますか?」
張り詰めた空気を一瞬にして揉み解し、こほんとキツネの鳴き声のような小さな咳払いをする。この一瞬の隙を作る術も、彼女は学んだのだ。
「私にとって、アイドル論はバイブルです。この本は、今では人生の指南書になりました。アイドルに憧れてこの世界に飛び込んで、厳しい現実に挫折しそうになっていた18歳の私。家に着いて一人になると、なぜだか涙がただ溢れるだけの毎日。秋風が冷たくて、生きることにも辛さを感じていた時、この瑠璃色の本に出会いました。まるで宝石のように輝いて見えたのです。そのおかげで、今では私のお仕事を全力でサポートしてくれている只野マネージャーに拾ってもらうことができました。あ、ちなみに只野マネージャーは、この本の著者、只野貴史さんのお姉さんです」
咄嗟に下を向いた。
笑顔でこっちを見るな。
ほら見ろ、何人かの取材陣は私を撮っているではないか。マネージャーの顔をインターネットに流して何になる!撮るなら美化して使え!私はプロデューサーであって、アイドルではない。
「この本に書かれていることは決して間違いではありません。と言うのも、解釈を間違えて、本の通りに先走ると、必ず後悔してしまうと思います。なぜなら最初の項目にある【セルフプロデュース戦略】の中では……」
ん?そこまで言って話が途切れた。演壇のなぎさを見ると、頭上を眺めている。……揺れている。天井に吊るされた舞台照明がゆらゆらと揺れているのが見えた。
――まただ。さっきのは余震だったのだろうか。
今回は立っていると視界が上下する気分だ。途端に膝をつき状態を屈める。なぎさは!?
会場はどよめきと混乱の中、各々パイプ椅子の下に潜り込んで頭を守っている。避難訓練の成果は我々日本人に条件反射として備わっているのだ。
なぎさは演壇の僅かな凹みに頭部だけを突っ込んでいるが、もしも舞台照明が落ちてくると、首から下は決して大事では済まされない。
私は立ち上がり、心許ない耐久性のバッグで頭部を守り、揺れ動く大広間をよろけて転びそうになりながら彼女のもとへと歩みを進めた。足元がぐらつき、走っているというより、水中で泳いでいるような感覚だ。
演壇の僅かな凹みの中で、彼女はじっと、揺れが収束するのを待っていた。私が丸くなった彼女に覆い被さるようにして体重を預けると、「只野さん」と安心したような声を漏らしたが、彼女の華奢な身体は極限の恐怖で震えていた。
「さっきは、」
私は無意識に口から出た言葉によって、こんな状況にも関わらず、私はまだ、なぎさに言った情けなくて、ぶっきらぼうな言葉を悔やんでいるのだとわかった。
「さっきはごめん」
「な、なにがですか」
答えるなぎさの繊細な声が、演壇の狭くて浅い凹みに反響して私の耳に届く。
「仕事、一緒にしてこうな」
震えている身体と同調して、なぎさが鼻で笑ったのがわかった。
「ッ!?」
硬い棒に背中を打ち据えられたような衝撃が走ったと同時に、壇上にガラスの破片が飛び散る音がした。それは、照明を吊るす単管が落下し、照明自体を破壊した音だった。なぎさにも衝撃が伝わったのか、一瞬顔を上げようと力んだけれど、体勢も悪く、脱力した人間の体重をこんな華奢な背中でどかすのは難しい。
身体に力が入らない。
気持ちが悪い、吐き気もしてきた。
私の意識が、急速に遠のいていく。
なぎさが私を何度も呼ぶ声が、だんだん霞んで消えていった。
――硫黄の香りがした。
強烈な刺激臭が鼻を突いた。
真紅の曼珠沙華が一面に咲き乱れ、その花々は全て、こちらを向いて頭を垂れている。
ほんの数メートル先の視界は白くボヤけて霧がかっている。
積まれた小石の山々。
風がないのにカラカラと廻る風車。
どこからか波の音に合わせて、言葉かどうかもわからない、悲しみを帯びたような歌が聞こえてくる。
――私は、……そうか、こっち側に来たのか。
腰に感じた照明が直撃した際の鈍痛は消えていて、なんだか身体も軽い。硫黄の香りを思い切り吸ってみたけれど、タバコの本数が増える毎に増していった肺の痛みも感じない。全てがクリアで、研ぎ澄まされている。
何故だか私は白装束を纏っているし、いよいよ確信が持てた。
霧の中にわずかな明かりが見える。
それは誘蛾灯のように、私の意識を惹きつけて離さない。視界が悪い霧の中、誘われるように足が勝手に進んだ。
【三途川】
と書かれてある和紙が貼り付けられた木製の道標の前で歩みが止まった。
……これが?
そこにあるのは想像していた黄泉の大河とは全く異なり、涼やかな水がちょろちょろと音を立てて流れる小さい川だ。幅にして50センチメートルぐらい。これなら跨いで渡れそうだ。
あまりに貧相な水の流れに、私は拍子抜けした。
私が呆れていると、対岸の霧の中から女の子がぬるりと現れた。ショートボブ、小柄で中学生ぐらいに見える。その目は強く、少女は凛とした表情でこちらを見つめる。
「おばさん、だれ?」
――おばさん?
私はまだ30歳。
最近歳について気になり始めた私にとって、その言葉は剣のようにグサっと刺さった。
確かにひと回りは違うと見えるが、初対面の人に向かって開口一番が「おばさん」とは失礼すぎるのではないか。新人運転手の彼でさえ、私をおばさん扱いなんかしないんだが。
「あのね、お嬢ちゃん。いきなり失礼だし、そもそも私が誰かというよりも、私たちの状況とか気にならないの?そして私はまだ30だから」
少女はカクンと首をかしげて眉をひそめる。
「は?やっぱりおばさんじゃん。私たちの状況とか見たらわかるでしょ。そこどいて。渡るから」
この子、若いのに肝が据わっているのか、それとも世間知らずなのか。未練などさらさらないといった様子で私に顎を突き出した。
その瞳には、諦念と決意が混ざり合っている。
いよいよプッツンしちゃうわよ、わたくし。
私はこの少女の態度に、地上で抑圧していた感情を揺さぶられた。
「あのね。渡るのは勝手にすればいい。でも別に私の前を渡らなくってもいいんじゃない?それに何にも未練はないわけ?さぞかし素晴らしい人生だったのね。……私はね!まだまだやりたいことたくさんあるの!仕事!仕事!仕事の毎日なの!そして、なぎさ!お前売れすぎ!休みくれ!そしてアニメ観たい!映画行きたい!読書したい!あぁ!」
目から大粒の涙が溢れた。
その涙は、30年間抑圧し続けた私の本音そのものだった。
こんな見ず知らずの少女に、仕事とプライベートの不満、そしてなぎさへの複雑な思いをぶち撒けるなんて、なんて惨めな30歳。
「ごめんて。謝るから泣くのやめてよ。うるさいよ」
そんな私に少女は力ない言葉をかけてくれた。
――あ!
涙で霞む目を擦ると、少女は背後の霧の中を見つめていた。小さく「聞こえる?」と呟くと、私に視線を戻した。
「ねぇ今の声聞こえた?私の友達なんだけど」
「……いや、全然。私には何も聞こえない」
私には本当に何も聞こえない。
だが、この子にはしっかりと友達の声が聞こえているようで、今にも駆け出そうとしていた。
少女の白い拳が、ぎゅっと強く握られて薄紅色に変わっているのがわかる。
私はその背中が、なぜだか、さっき追いかけたなぎさの背中と重なった。孤独に、しかし迷いなく進もうとする、その姿が。
私は少女の背に手を伸ばし、気づけばその細い腕を強く引き寄せていた。
「お、おい。ちょっと待て!そっちは地獄かもしれねぇぞ!」
二人の腕は、ちょろちょろと流れる小さな川の上で重なった。すると霧がかった景色が嘘のように晴れていき、辺り一面に咲いていた曼珠沙華は一斉に昇華され、花びらの一枚一枚が、光る蛍のように散っていく。視界は鮮やかな光に満たされた。
「……これって、川渡ったことに?」
「許さない。絶対許さない!末代まで呪ってやるからね!おばさん!」
鬼の形相とはまさにこのことか。
純情無垢な女の子の顔が、怒りと怨念に歪む瞬間を、私は見てしまった。
お、おばさんって言うなぁぁぁあ!
……いま私、寝言言った?
ッ!なんだ?頭が割れるように痛い。
ズキズキと脈打つような痛みが走り、頭を抱えると包帯の感触がした。
というか、あれ?私……生きてる?
今はベッドの上で、無機質な消毒液の匂いが鼻を突く。ということは病室か。
……そうか。私は、助かったのか。
しかし、夢の中でしつこく鼻にまとわりついていた硫黄の臭いをなんとなく覚えている。あの少女はいったい誰なのだろうと思い出そうとしてみても、靄がかかったように断片的だ。
懸命に思い出そうと目を閉じると、誰かが病室の扉を力一杯開ける音がした。
その音は、頭の痛みを増幅させる。
「なんだよ!いきなり大声出して!まだ傷口は塞がってないから、安静にしてろし!」
うるせぇ。
病室中に鳴り響く声が頭に響く。
何色もの明るいパステルカラーが混じったくるくるツインテールに、飴玉だの星型だのといったピンを付けている。一見小学生を思わせる容姿で、背格好には不釣り合いなダボダボの白衣を着ている幼女が、私のベッドの傍に仁王立ちしている。
腕組みしている手の爪は長く、キラキラと輝く宝石のようなデコレーションが施されている。その出で立ちは、この無機質な病室の中で、異様なコントラストを描いていた。
私は頭痛のせいもあって、脳内にいきなり飛び込んできたたくさんの情報を処理できずに、空いた口が塞がらない状態でいると、幼女はなんだか不機嫌そうな様子で私を見つめて言った。
「何が何でも絶対に定時で仕事を片付ける、この天才の"ももち"が、せっかく残業してオペしたんよ?これ以上傷口を広げんなし。あの二人も、さっきまでずっとここに座ってたんよ」
派手髪の幼女はベッド脇に置いてある、二脚のパイプ椅子を長い爪で指差した。
そこには、確かにさっきまで二人が座っていたのがわかるように、パイプ椅子に尻を乗せる人工革の部分が少しだけ窪んでいる。
幼女の細い首からぶら下がったネームプレートには、「百永(ももなが)」と記されていて、その周りを覆い尽くすように、アイスクリームや動物のキラキラのポップなシールが貼られている。
百永……、ももちとは、君の名前かな?
オペしたって?こんな幼女が?その爪で?
人は見かけで判断してはいけないものだな。しかし、目の前の現実は、私が知る常識の外側にあるようだ。
あの二人と聞くと、すぐになぎさと新人運転手が無事だったのだと安堵したが、しかし、私が痛めたのは腰だったはずだ。
今の私は腰に違和感はなく、頭が包帯でぐるぐる巻きにされている。
舞台照明の落下からなぎさを守ろうとして、私は不幸にもその下敷きとなった。それが最後の記憶だ。
腰を太い単管で思い切り殴られたような感触があったが、あれは各照明を固定しているものが落下したのだろう。
一瞬激痛が走った後、腰から下が痺れてからは、すーっと冷たくなっていく感覚があった。痛みには強い自信はあるけれど、人生であれほどまでの痛みを感じたことなんて一度もなかった。
思考の整理が追いつかずに放心していると、派手髪の幼女は私が寝ているベッドをリクライニングさせて、私の上半身を30度ぐらいの角度に起こし、それから何かの臭いを嗅ぐように、鼻をススッと2回鳴らした。
「うん、頭以外に大きな怪我しているところはないし、そのズキズキする痛みも、3日も経てば治まんね。でさ顔面から倒れたから鼻血がバァーってでたのと、たんこぶがちょい目立つかも。そこらへんの外科医なら、髪の毛剃ってやらないといけないオペだったけど、ももちは天!才!なので!あんたの髪は無事なんよ。包帯取ったげるからこれで傷口見てみ?」
この小さい医者の話し方、容姿、そしてポジティブなマインドは、当時日本で流行した"ギャル"そのものだ。しかし、この子から漂うのは、ただの子供の無邪気さではなく、確かな技術と経験に裏打ちされた『プロの自信』だ。
派手髪の幼女は長い爪をカチャカチャと鳴らしながら器用に包帯を取っていく。その間も、自分がいかに天才かについてひたすら喋っているが、私はなんのことかさっぱり理解できずに、ただじっとしている。
「――そんで、傷口は小さいっていうても、縫合したところはちょいグロだから先に言っとく。あと、今日は風呂キャンだけど、どうせ入院だし、明日の午後にももちが診察するから、痒くても傷口かくのは――」
小さい医者はマシンガンタレットのようによくわからない言葉を乱射しながら、白衣の胸ポケットから私に、おもちゃのような二つ折りの小さな手鏡を渡してくれた。
私は幼女から渡された掌に収まる程の、小さな手鏡を開き、その場所に鏡を持っていく。
――おもちゃのような小さな鏡が映し出したのは、私ではなく、夢の中で出会った、怒りに顔を歪ませたあの少女の顔だった。
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