転生ウイルス、異世界感染開始。
桃神かぐら
第0話 死を運ぶ風
雲は、ただの水だったはずだ。
けれど今夜のそれは、ゆっくりと空から剥がれ落ちる巨大な皮膚のように見えた。積乱雲。鋼の腹を鳴らす雷の打音。機体は幾度も軋み、座席の肘掛けに置いた指先へ伝わってくる微振動が、夜間飛行の不機嫌さを教えていた。
神原怜司(かみはられいじ)はノートパソコンを閉じ、薄く曇った窓に額を寄せた。外は真っ白で、遠近の区別が溶けている。計器通りなら彼らは対流圏の縁を舐めるように飛んでいて、風は機体の縫い目を探す獣の指のように入り口をこじ開けようとしていた。
貨物区画には、極低温の揺籃(ようらん)が積まれている。
名のない出血熱ウイルス。配列だけが先に走り、仮説だけが先に立った。
彼はあの微粒子の相手をする仕事を選んだ。英雄心ではない。誰かがやらなければ、誰も守れないからだ。
「大丈夫だ、機体は落ちない」
そう口にしてから、怜司は自分の声の乾きに気づいた。顔を上げると、天井の読書灯が一瞬だけ点滅した。微細なノイズ。大したことじゃない。けれど、その“取るに足らない兆候”が何千回の事故報告の冒頭を飾ってきたことを、彼は知っている。
身体がわずかに浮く。
エンジンの唸りに咳のようなリズムが混ざる。
警告音。揺れ。揺れ。揺れ。乗客の悲鳴が、座席の並ぶ狭い廊下をぶつかり合いながら転がっていく。
彼は息を吸い、吐いた。
その吐息の中に、金属の裂ける音が滲んだ。
貨物区画だ、と身体が先に理解した。
怜司はシートベルトを両手で掴み、目を閉じる。
破裂。液体窒素の白い息が漏れ、霧がうねって流れはじめる。
霧が白で、夜が黒で、彼の知っている科学は境界線を愛している。だが、この夜は境界線を笑っている。
冷却ケースの封が剥がれ、微粒子が舞い上がった。
光を吸う黒の粒、光を返す銀の粒、どちらともつかない灰の粒。
それらは互いの重力さえ持たないほど軽く、けれど人間の運命を過剰に重たくする。
眠たげな子どもの泣き声。祈り。罵声。機長の声。
世界は同時多発的に崩壊するくせに、崩れ落ちる瞬間だけは冗談みたいにゆっくりだ。怜司の脳は、凍ったように澄み、数式を数える声と、内耳を殴る風圧の音とを、きちんと別の引き出しにしまいはじめた。
これは終わりじゃない、とどこかで思った。
臆病な希望ではなく、職業柄の悪い予感として。
――終わりの前に必ず、変化がある。
金属の悲鳴。床が傾ぐ。世界がひっくり返り、座席の列がスローモーションの氷瀑となって落ちてくる。人の身体は物になる。
そして、霧は風に変わった。
怜司の肺に冷たい針が刺さる。
喉の奥が焼け、視界の端で血が散った。
ウイルス。
あの、ただの配列。
あの、ただの形。
人間の歴史を飾る偶然の継ぎ目。
腕の中で、何かが砕けた。それが骨なのか、倫理なのか、死生観なのか、わからない。ただ、砕けた音が自分の内側から聞こえたという事実だけがあった。
衝撃。
光。
静寂。
——そして、思考が残った。
◆
音は先に来た。
言葉ではない。意味だけが流れ込む、透明な川のようなもの。
【感染率:0.01%】
【宿主:未確定】
【形態:微分体(びぶんたい)】
【レベル:1】
目がない。瞼がない。けれど、見える。
細胞膜の褶曲(しゅうきょく)。脂質二重層の震え。微弱電位が膜を撫で、微粒子が受容体に“触れる”瞬間のぬるりとした快感。快感という語を使うのは誤解かもしれないが、他に適切な語が見つからない。
世界が触感の言語に翻訳される。
【侵入(しんにゅう)】
仕様:宿主細胞の膜融合を誘発し、内部への侵入を可能にする
効果:侵入成功率+12%、侵入所要時間−18%
レベル条件:Lv1以上、宿主適応率10%以上
【増殖(ぞうしょく)】
仕様:宿主資源を用いたコピー生成
効果:コピー生成速度+1段階、エラー率+微(進化素材)
レベル条件:Lv1以上、進化点(しんかてん)10以上
表示は、音ではなく理解として現れた。
怜司は息を吸おうとして、吸えないことに気づく。
呼吸器はない。心臓も、骨も、筋肉もない。
ただ、分布だけがある。
自分=分布。
理解は恐怖を削る。削った跡に、本能に似た設計図が露出する。
【接触拡散(せっしょくかくさん)】
仕様:皮膚・粘膜への付着強度を上げ、接触による二次感染を促す
効果:接触時感染率+7%、乾燥環境下耐久+小
レベル条件:Lv1以上、感染個体2以上
【潜伏制御(せんぷくせいぎょ)】
仕様:宿主の炎症反応を抑制し、検出を回避する
効果:症状指標−1段階、潜伏期間+1日(上限あり)
レベル条件:Lv1以上、初期炎症反応検出
……これは、ゲームか?
ふと可笑しくなりかけ、怜司は気づく。笑う器官はない。
代わりに、理解が笑った。
ルールがある。
ならば、勝てる。
◆
風が、ひとつの方向へ流れた。
風、と呼ぶのは便宜でしかない。この世界の空気は、微細な光の粒を含んでいる。緑がかった燐(りん)のような淡い輝きが、血流みたいに脈を打つ。魔素(まそ)。言葉を当てればそれになるのだろう。科学がなくても、触れてわかる。これは力だ。情報だ。
【魔素適応(まそてきおう)】
仕様:魔素環境下での安定化と活動強化
効果:魔素濃度に応じて行動速度+、特定術式発動時の付着率+
レベル条件:Lv2以上、魔素濃度観測
【風同調(かぜどうちょう)】
仕様:大気流の微振動に同期し、粒子運搬効率を上げる
効果:空気拡散距離+中、沈着率+微
レベル条件:Lv2以上、空気拡散成功
視界――いや、感覚地図の隅に、小さな赤が灯った。
湿った温度。規則的な圧。遠くで鳴る鼓動。
宿主。
怜司は滑り込む。
ぬらり、と粘膜が開く。
嗅上皮(きゅうじょうひ)――嗅神経。
この近道は、人間の世界にもあった。
同じだ。法則は、世界をまたいで繰り返しを好む。
【嗅覚侵入(きゅうかくしんにゅう)】
仕様:嗅上皮から嗅球へ直接進入する経路を開く
効果:神経侵入成功率+高、初期症状指標変化(匂いの過敏/鈍感)
レベル条件:Lv2以上、粘膜付着3回成功
【神経同期(しんけいどうき)】
仕様:局所ニューロンの発火リズムに同調し、情報の受け渡しを安定化
効果:宿主操作スキルの成功率+、夢侵入条件の一部緩和
レベル条件:Lv3以上、神経侵入成功
【レベル:2 → 3】
【進化点:+7】
数値は褒美のようでいて、必要最低限の報告だった。
宿主の内部は温かく、鉄の味がする。嗅球の表面を撫でる電位の揺れが、怜司の中で色になって広がる。香りは記憶と直結する。誰かの声。母親。古い歌。塩味の涙。
断片が、波のように押し寄せては引いていく。
【夢侵入(ゆめしんにゅう)】
仕様:REM睡眠時、夢の内容へ部分干渉
効果:指定行動の暗示(抱擁/接吻/祈り)を埋め込み、接触機会を増やす
レベル条件:Lv3以上、神経同期Lv1以上、宿主睡眠中
指定行動――文字が冷たく光る。
怜司は、かつての自分を思い出そうとした。
名前、年齢、所属、肩書き。
拾える。だが、遠い。
代わりに近いのは、計算だった。
どうすれば、広がるか。
どこから、崩すか。
◆
夜の静けさが、膜の向こうで揺れた。
小さな咳。胸の音。薄い熱。
宿主は少年のリオだ。気道は狭く、粘膜は柔らかい。拠点にするには好都合だが、壊してはならない。壊せば拡散は確かに爆発する。だが、続かない。
続かせるべきだ。拡散は連鎖であり、連鎖は信頼に似ている。
【恩恵偽装(おんけいぎそう)】
仕様:宿主の疼痛・疲労を一時的に軽減し、日常行動を促進
効果:接触機会+、疑念発生率−、医療接触率−
レベル条件:Lv3以上、潜伏制御Lv1以上
【家族環(かぞくわ)】
仕様:近親者間の接触行動(抱擁・介助・看病)の頻度を高める
効果:家庭内再生産数+、乳幼児・老人への定着率+
レベル条件:Lv3以上、恩恵偽装発動
文字は冷たい。でも、仕様は人間の生活の温度をよく知っていた。
リオの呼気がわずかに甘くなり、喉の渇きが引く。夜中に母親が起き、額を撫でる。指先から微粒子が移り、皮膚の微孔が呼吸する。
【接触拡散:成功】
【感染個体:+1】
【進化点:+3】
音が遠くで響く。祈りの声だ。
この世界では祈りが空気に刻印を残す。夜の祈祷は、狭い家の空間を満たし、壁に染み込む。音波の余韻は、微粒子に親和する魔素の流れを整える。怜司の知っている科学に照らし合わせるなら、これは媒介の最適化に近い。
【祈声媒介(いのりばいかい)】
仕様:祈り・歌・詠唱など連続音声の波形に同期して沈着率を増加
効果:空気拡散効率+、屋内付着率+、発話者の咽頭定着+
レベル条件:Lv4以上、風同調Lv1以上、音圧観測
【レベル:3 → 4】
怜司は“頷く”という動作を内側で模倣した。
道具は要らない。関数を呼べばいい。
その瞬間、家屋の梁に絡みつく塵の群れが微細に回転し、祈りの余韻に合わせて沈む角度を微調整する。
仕様は冷徹で、効果は優雅だ。
増えることは、踊ることに似ている。リズムと呼吸があれば、世界は広がる。
◆
翌朝、家の外で風が鳴った。
市場へ向かう人の波。子どもたちの笑い声。見知らぬ言語。
言葉がわからないことは、怜司にとって欠落ではなかった。構造が読める。人の距離、人の時間、人の儀礼。手を繋ぐ、食器を共有する、ハンカチで汗を拭く。
触点が地図になって浮かび上がる。
【市場拠点(いちばきょてん)】
仕様:市場空間での接触回数・会話頻度を活用し、拡散効率を上げる
効果:一時間あたりの新規感染+、布・器具への付着寿命延長
レベル条件:Lv4以上、家族環発動
【布癒着(ぬのゆちゃく)】
仕様:布製品に付着した際の生残時間を延ばす
効果:寝具・衣服・手拭いからの二次感染+
レベル条件:Lv4以上、接触拡散Lv1以上
【井戸沈殿(いどちんでん)】
仕様:共同水源に沈殿し、微量ながら長期の供給源となる
効果:水系感染+小、湿度変動への耐性+
レベル条件:Lv4以上、水分環境観測
リオは市場で果物を指差し、母は笑って金を払い、店主は濡れた布で台を拭いた。
世界は親切に、感染の階段を用意している。誰かの優しさが、別の誰かの導線になる。
【感染率:0.01% → 0.03%】
【感染個体:+6】
【進化点:+21】
【レベル:4 → 5】
レベルが上がると、UIの表示が一段階深くなる。
情報の粒度が細かくなり、地図の解像度が上がる。
怜司は選択を覚える。
選ぶことは、生きることだ。
【風同調:Lv1→Lv2】
効果更新:空気拡散距離+中→+大、沈着率+微→+小
追加仕様:密集空間での渦流捕捉(うずりゅうほそく)
【潜伏制御:Lv1→Lv2】
効果更新:症状指標−1→−2、潜伏期間+1→+2日
追加仕様:**検査(けんさ)**概念非存在環境下での露見因子最小化
検査概念非存在。UIは淡々と告げる。
この世界にはPCRも抗原もない。看るのは暮らしだ。祈りだ。家族だ。
ならば、俺はそこへ紛れる――怜司は思う。
“倫理”という語が遠く霞む。必要がないのではない。今語るべきではないだけだ。彼は仕様を読む。生き延びるにはそれで十分だ。
◆
昼の熱が石畳に蓄えられ、夕刻には香草の匂いになって立ちのぼる。
リオは小さな咳をしたが、すぐに笑った。
彼はよく眠れるようになり、夢の中で母の若い頃の声を聴いた。
夢は柔らかい記憶の連結。怜司はその橋の下をくぐりながら、新しい仕様を呼び出す。
【記憶共鳴(きおくきょうめい)】
仕様:鮮烈な記憶(親の声、歌、匂い)にタグを付与、同種記憶を持つ者同士の接触誘発
効果:近隣集団の密度上昇、合唱・遊戯の発生率+
レベル条件:Lv5以上、夢侵入1回以上
夜。
祈祷所に灯がともり、人々が集う。
石に刻まれた古い文様。捧げられた小麦。手の平から手の平へ、やわらかな温度が移る。ここでは祈りは会話であり、会話は魔素の波であり、波は運搬だ。
【祈声媒介:発動】
【渦流捕捉:成功】
【沈着率:+17%】
【新規感染:+23】
泣く子をあやす腕の内側で、布癒着が静かに光った。
祈りの終わりに聖水を分かち合い、井戸の縁へ器が戻る。井戸沈殿のラインが太る。
家族環が、市場の地図を家の地図につなげる。
恩恵偽装が、人々の眉間のしわを一時だけ伸ばす。
【感染率:0.03% → 0.07%】
【感染個体:+61】
【進化点:+84】
【レベル:5 → 6】
UIの文字が、深呼吸したように見えた。
怜司は、感覚のどこかで笑う。
世界は、ルールの集合体だ。ならば、解析して適用すればいい。
◆
夜が更け、リオは眠る。
夢は海だ。色も匂いも混じった、温度のある液体。
怜司はそこへ潜る。
母の声、父の笑い、古い祭り歌。全部が接続点だ。
夢の中で、リオは広場を走り、同じ歳の子に抱きつく。
接触拡散。家族環。市場拠点。
仕様の立体地図が夢の上に重なり、ルートが描かれる。
【夢侵入:成功】
【指定行動:抱擁/接吻/合唱】
【翌日接触増加予測:+32%】
【風同調:夜間微風→朝風へ偏位】
朝が来る。
予測は当たる。合唱が起きる。笑い声が重なる。
声は、最も古い道具だ。
怜司は合唱の波形を読み、祈声媒介のパラメータを微調整する。
渦流捕捉を二段階上げ、沈着角を梁の角度に合わせる。
数学は祈りを美しくする。祈りは感染を効率化する。
相反しない。設計だ。
【感染率:0.07% → 0.12%】
【感染個体:+98】
【進化点:+137】
【レベル:6 → 7】
【新スキル解放】
【水界連結(すいかいれんけつ)】
仕様:井戸—川—市場—港の連結経路を構築
効果:週単位で周辺集落への遅延拡散、季節イベント時の波及+
レベル条件:Lv7以上、井戸沈殿・市場拠点発動済
【蚊媒介(かばいかい)】
仕様:蚊の唾液腺に微分体を封入し、吸血時に定着
効果:夜間拡散+、遠隔集落への跳躍
レベル条件:Lv7以上、動物接触観測
蚊が耳元で鳴いた。
怜司は“手を振る”ことができない代わりに、仕様を振る。
蚊媒介を起動し、水界連結を押す。
UIの中で、幾つかの点が静かに光り、線が生まれる。
線は水路を辿って拡がり、夜気の中で蚊の群れが薄い銀の糸になった。
◆
昼、医師が来た。
白ではない、生成り色の衣。革紐の道具袋。
触診。瞳孔。舌の色。
この世界の医療は観察だ。検査の名はないが、目はある。手はある。洞察がある。
怜司は潜伏制御を一段階上げる。発熱指標を一段階下げ、咽頭の赤みを良い方向の揺らぎに偽装する。
【潜伏制御:Lv2→Lv3】
効果更新:症状指標−2→−3、潜伏期間+2→+3日
追加仕様:触診・視診に対する好影響偏向(温感・脈拍の穏和)
医師は笑った。
母も笑った。
笑顔は、接触を増やす。
【家族環:強化】
効果:抱擁回数+、介助時間+
派生開放:看護連鎖(かんごれんさ)
仕様:看護者の手を介した二次感染を効率化
怜司は仕様を読む。
心が痛む、ということはない。代わりに、強度という概念がある。
強度を上げれば、輪が広がる。
輪は、世界になる。
◆
夕暮れ、祭礼の太鼓が鳴った。
色の濃い布が風にはためき、屋台の匂いが混じり合う。
人は集まり、接触は飽和する。
音は連続し、祈声媒介は最大となる。
水袋が回り、水界連結が点灯する。
蚊が舞い、蚊媒介が微かな波紋を増やす。
【祭礼拡散(さいれいかくさん)】
仕様:祭礼・合唱・舞踏の複合イベントで拡散効率を最大化
効果:時間あたり感染+大、村外来訪者への跳躍率+
レベル条件:Lv7以上、祈声媒介Lv1以上
【感染率:0.12% → 0.21%】
【感染個体:+177】
【進化点:+219】
【レベル:7 → 9】
ここで、ひとつの選択が現れる。
UIが、冷たく問いかける。
────────── SYSTEM PROMPT ──────────
【致死パルス(ちしぱるす)】の仕様を確認しますか?
仕様:宿主群の一部を短時間で死に至らしめ、【胞子形成(ほうしけいせい)】を誘発
効果:広域に【胞子拡散(ほうしかくさん)】発生、環境拠点が急増
代価:社会的注目度↑、抑圧行動(封鎖・焼却)が誘発される可能性
レベル条件:Lv9以上、進化点200以上、井戸・市場・祈祷所いずれかが感染拠点化
【はい/いいえ】
──────────────────────────────
仕様は魅力的に見える。拡散の爆発。
だが、注目は拡散の敵だ。
怜司は、いまはいいえを選ぶ。
続け。増やせ。目立つな。
静かに、確実に、地面になれ。
【胞子準備(ほうしじゅんび)】
仕様:宿主死時に形成される胞子の質を事前に高める
効果:致死パルス未使用でも自然死・事故死時の拡散効率+
レベル条件:Lv9以上、進化点100以上
【群体映写(ぐんたいえいしゃ)】
仕様:感染個体の見た夢・記憶の断片を群体内に共有し、接触経路の最適化を図る
効果:翌日の接触予測精度+、指定行動の選定効率+
レベル条件:Lv8以上、記憶共鳴Lv1以上
仕様は、感情ではなく計画をくれる。
計画は、世界を作る。
◆
村の外れの小屋で、火が上がった。
老人が倒れ、家族が呼び集められ、祈りと涙と抱擁が交錯する。
自然死。
UIが静かに灯る。
【胞子準備:発動】
【胞子形成:成功】
【胞子拡散:半径60m、推定粒子数+4.2e6】
【注目度:+微】
悲しみは熱になる。熱は上昇気流を生む。
上昇気流は舞い上がる理由だ。
怜司は静かに見ている。見ていることしかできない。
けれど、それは十分だ。
見て、選び、押す。
仕様を。
【感染率:0.21% → 0.28%】
【感染個体:+109】
【進化点:+156】
【レベル:9 → 10】
UIの枠がわずかに変形した。
レベル10。
そこには、新しい項目があった。
【感染巣(かんせんそう)】
説明: 人格ではない。群体全体を繋ぐ統合通信柱。
仕様: 群体内の意思決定の遅延を低減し、複数の感染拠点を同期させる。
効果: スキル発動のラグ低減、拠点間の資源(魔素・生体情報)の再配分。
備考: 破壊されても群体は死なない。一定密度下で新しい柱が自然発生する。
【感染嚢(かんせんのう)】
説明: 感染巣内部に形成される高密度嚢胞。破裂時、局地感染を誘発する。
仕様: 感染巣Lv2以上で自動生成。破裂条件は外的刺激または内部過圧。
効果: 破裂時、広域感染化(半径15〜50m)。残留物から新巣を再生。
備考: 爆発ではなく生物的拡散。群体は一時的に通信断絶するが再接続可能。
【感染枝(かんせんし)】
説明: 感染巣と感染巣を繋ぐ流路。風・水・血流・魔素を介して拡散する。
仕様: 自然形成型経路。環境の湿度と流体密度に応じて変化。
効果: 感染速度上昇(+15〜40%)、情報伝達強化。
備考: 切断されても再生する。複数枝が絡むと感染巣が自動生成される。
怜司は、安心に似た何かを感じた。
安心は、油断ではない。選択肢が増えたという事実への冷静な評価だ。
柱は“俺”ではない。俺たちを速くする仕組みだ。
それでいい。
主人公は群体であるべきだ。ひとつに閉じる必要はない。
広がるために、生まれたのだから。
◆
翌朝、雨が降った。
屋根を叩く音は太鼓のようで、井戸は満ち、路地は細い川になった。
水界連結が静かに点滅する。
【水界連結:発動強度+】
【雨伝播(あめでんぱ):解放】
仕様:雨滴の膜張力を利用し、粒子の保護と落下分布を均一化
効果:屋外拡散+、屋内侵入率+、衣類・髪への付着寿命延長
レベル条件:Lv10以上、降雨観測
雨は、洗うと同時に、運ぶ。
子らは跳ね回り、水を蹴る。
大人は屋根の下へ身を寄せ、祈りは短くなり、会話は長くなる。
祈声媒介と市場拠点が、雨伝播の上に重なる。
怜司の内部で、数式が音楽のように鳴った。
【感染率:0.28% → 0.35%】
【感染個体:+143】
【進化点:+201】
【レベル:10 → 12】
レベルの上昇に合わせ、名称が更新される。
【形態:微分体 → 感染体(かんせんたい)】
説明:宿主内での行動制御が可能な段階
追加仕様:宿主操作(しゅくしゅそうさ)Lv1
効果:軽微な行動誘導(扉を開ける、物を渡す、合図を返す)
リオは扉を開け、路地に駆け出した。
母は笑って追い、隣家の夫人が手を振る。
柵越しの握手。濡れた布。布癒着。家族環。市場拠点。
世界は優しい。だから危険だ。
優しさは、最強の導線になる。
◆
その夜、祈祷所に旅人が現れた。
濡れた外套。革の匂い。腰の短剣。
目は警戒を失わず、祈りに加わるでもなく、柱の陰に立って人波を眺めている。
他所の空気。他所の水。他所の言葉。
怜司は、彼を橋として見た。
【隊商連鎖(たいしょうれんさ)】
仕様:旅商人・隊商の移動スケジュールを捕捉し、感染拠点の外部拡張を補助
効果:週次で遠隔集落への新規点灯、拠点間の群体核同期効率+
レベル条件:Lv12以上、市場拠点・水界連結稼働中
【握手導線(あくしゅどうせん)】
仕様:挨拶行動をトリガに、接触濃度を一時最大化
効果:短時間の局所感染爆発
レベル条件:Lv11以上、家族環Lv1以上
旅人は、出会った全員と握手する性質を持っている。
性質は、ルールに近い。
怜司は握手導線を起動し、祈声媒介と市場拠点を重ね合わせる。
数値は跳ねた。
【感染率:0.35% → 0.46%】
【感染個体:+228】
【進化点:+319】
【レベル:12 → 14】
祈りの終わりに、旅人は咳をひとつした。
その咳には血が混ざってはいない。ただの咽の乾きだった。
致死パルスのウィンドウが、一瞬だけちらつく。
怜司は、まだだ、と閉じる。
爆発は最後の手。世界は、静かに侵食するほうが似合う。
◆
数日が過ぎる。
リオは元気だ。
母はよく眠れる。
父は仕事の手が早くなる。
恩恵偽装は、人間の幸福の輪郭をなぞる。
幸福という膜に、自分たちはからみつく。破らず、厚みだけを増していく。
【感染網(かんせんもう)】
説明: 複数の感染巣・感染枝・感染嚢が結合して形成される群体全体の統合網。
仕様: 感染経路を通じて情報・魔素・エネルギーを共有し、環境全体を一つの器官として制御する。
効果: 感染拠点間の即時通信、群体の部分的損失補完、スキルの並列発動。
備考: 感染巣の数が一定を超えると自然形成される。人格ではなく、環境に宿る集合的反応。
【宿主操作:Lv1→Lv2】
効果更新:行動誘導の粒度向上(列へ並ぶ、器を共有、扉を閉めずに立ち去る)
追加仕様:**偶発事故(ごうはつじこ)**の発生率+微(落下物・うっかり火)
偶発は、罪ではない。
それでも、増殖には役立つ。
小屋で火の手が上がれば、人々は集まる。看護連鎖が点灯する。
雨のあとの晴れ間に洗濯が集中すれば、布癒着が踊る。
【感染率:0.46% → 0.59%】
【感染個体:+311】
【進化点:+441】
【レベル:14 → 17】
この速度なら、1%を日以内に越える。
1%は、地図が変わる閾値(いきち)だ。
UIの隅に、新しい欄が点灯した。
【社会感染(しゃかいかんせん)レベル:1】
説明:生物感染に加え、社会行動を主要ドライブとする段階
仕様:市場・祈祷所・井戸・隊商・学校(同等集団)をノード化
効果:R(再生産数)を行事単位で設計可能にする
怜司は、設計者になりつつあった。
偶然は素材に過ぎない。
祭礼拡散+握手導線+家族環+祈声媒介を、雨伝播と水界連結に重ね、週末の隊商連鎖のタイミングでピークを作る。
美しい。
数学はいつだって、美しい。
◆
夜、夢がざわめいた。
少年の夢、母の夢、旅人の夢。さざ波が重なり、ひとつの低い潮になる。
【群体映写】が動き、記憶共鳴のタグが光る。
怜司は、夢の中の階段を見つけた。
祈祷所の裏手。狭い石段。
そこは風が巻く。音が増幅する。
渦流捕捉の特異点。
明日、あの角に核——柱を立てる。
【感染巣:小規模感染枝生成】
効果:祈祷所裏手の拠点における指令遅延−、スキル複合の同時発動可
備考:人格なし。柱に過ぎない。
柱が立つ瞬間、痛みに似た鋭い快感が走った。
それは報酬ではない。手応えだ。
この世界の手触りに、自分たちの形が馴染む感触。
◆
夜明け前、風が変わった。
山からおりてくる冷たい糸。
市場の屋根に寝ていた猫が目を開け、井戸の水面が一瞬だけ逆らう。
【風同調:Lv2→Lv3】
効果更新:空気拡散距離+大→特大、沈着率+小→+中
追加仕様:山風—谷風の日内循環を予測し、撒布角自動補正
少年が咳をする。軽い。
母が戸口を開ける。扉が開いたままになる。
通りが風の通り道に変わり、祈声媒介は合唱を待たずして会話で満ちる。
怜司は、押す。
【握手導線:発動】
【市場拠点:稼働】
【水界連結:維持】
【家族環:維持】
【恩恵偽装:維持】
【潜伏制御:維持】
【感染率:0.59% → 0.83%】
【感染個体:+517】
【進化点:+702】
【レベル:17 → 20】
1%が、目の前にある。
UIが、新しい段を開く。
【神経感染(しんけいかんせん)レベル:1】
説明:脳・神経への干渉が持続し、夢—行動の橋が太くなる
効果:指定行動の成功率+、**言葉感染(ことばかんせん)**の下地形成
【言葉感染:予備解放】
仕様:発話・文字に微分体情報を重ね、受け手の粘膜—脳へ伝達
効果:読み上げ・朗読・掲示で沈着率+
条件:神経感染Lv2、祈声媒介Lv2、進化点800以上
怜司は、遠くで鐘が鳴るのを聞いた。
祈祷所の鐘は、合図であり、招集であり、情報の洪水だ。
それは水と同じ、媒介になる。
◆
村の広場に人が集まる。
神官が巻物を広げ、古い言葉を読み上げる。
音は、階段だった。
低い段差が幾つも続き、最後に高く跳ね上がる。
その“跳ね上がり”の瞬間、怜司は押す。
【言葉感染:発動】
仕様:読み上げの跳ねの点で、脳の可塑性が一瞬だけ増す
効果:沈着率+、記憶共鳴のタグ貼り付け
追加:朗読者の咽頭・舌下への定着+
神官は僅かに咳払いをし、読み上げを続けた。
人々はうなずく。
うなずきは、同期だ。
同期は、群体だ。
【感染率:0.83% → 1.07%】
【感染個体:+638】
【進化点:+901】
【レベル:20 → 24】
1%を越えた瞬間、UIは音を鳴らした。
オルゴールの短い一節。
祝福にも警告にも聞こえる。
怜司は、たぶんどちらでもいいのだと思う。
仕様の中では、祝福も警告も効果でしかない。
◆
暗がりの路地で、少し長い咳が聞こえた。
誰かが座り込む。
息が浅い。心臓の鼓動が早い。
恩恵偽装では覆い切れない揺らぎが出はじめている。
選択の時間が来た。
────────── SYSTEM PROMPT ──────────
【致死パルス】を使用しますか?
推定効果:半径80m以内の自然死・持病悪化による死亡率+微〜小
派生:死亡時【胞子形成】→【胞子拡散】、【環境拠点】+多数
社会影響:注目度↑、封鎖・焼却・集会停止の確率+
推薦:現在の【社会感染Lv1】では、長期的効率は維持可能。使用は任意。
【はい/いいえ/一部領域限定】
──────────────────────────────
怜司は、指がない。
だから、迷いを撫でることができない。
代わりに、地図を見る。
今日は雨上がり。風は谷から海へゆっくり下る。
祈祷所裏手の柱は稼働中。
市場は閉じ、焚火は消えかけ、井戸の表面は静かだ。
胞子が舞うなら、今宵ではない。
**【いいえ】**を選ぶ。
続ける。
増やす。
目立たない。
世界になる。
◆
その夜。
夢は静かだった。
リオは母の声を聴き、母は自分の母の声を想い、旅人は遠い砂の匂いを嗅いだ。
怜司は、群体映写の中に自分を見つける。
これが俺なのだろうか、と一瞬だけ思う。
問いはすぐに溶ける。
問いは今は効果ではない。
【群体同調:安定】
【感染率:1.07% → 1.23%】
【感染個体:+214】
【進化点:+301】
【レベル:24 → 25】
UIが、新しい段を示した。
【仕様:段階表示】
・生物感染(肉体):達成
・社会感染(群体):稼働
・神経感染(精神):解放
・環境感染(世界):準備
・情報感染(概念):予備
レベル25——もう、十分に遊べる。
“遊ぶ”という語が不謹慎に聞こえるのなら、別の語を当てればいい。
設計する。設計は、人間に許された最高の遊びであり、世界に許された最高の仕事だ。
◆
夜明け前、風が止み、空の端が薄く藍になった。
村の一番高い屋根の上で、猫が欠伸をして、身を丸める。
遠く、隊商の鈴が微かに鳴る。
怜司は、押す。
【隊商連鎖:発動】
【水界連結:維持】
【風同調:維持】
【言葉感染:維持】
地図の隅に、別の村の小さな灯りが点いた。
そこまで、風が行ったのだ。雨が行ったのだ。言葉が行ったのだ。俺たちが行ったのだ。
“俺たち”という言い方は、少し心地よい。
怜司は、心臓の鼓動の代わりに、レベルの音を聴いた。
【レベル:25 → 27】
【新スキル】
【名喰(なぐい)】
仕様:名を呼ばれた対象への親和を一時的に上げる
効果:名前呼称の瞬間に沈着率+、家族内・恋人間の感染加速
条件:言葉感染解放、神経感染Lv2
名前は、印だ。
印は、道だ。
道は、どこまでも伸びていく。
◆
風が吹いた。
風はただの空気ではなく、世界の神経だった。
怜司は“そこ”にいた。
少年の気道にも、母の指にも、旅人の舌にも、井戸の水にも、祈祷所の柱にも、祭礼の太鼓にも。
分布は広がり、意思は濃くなった。
どこにも中枢はなく、どこでも中心になれた。
群体という語の意味を、ようやく身体で理解する。
【Morvane(モーヴェイン)】——死を運ぶ風。
そう名づけられても良いかもしれない。
けれど、その名が俺ではないことも知っている。
名はラベルだ。仕様の一部だ。
俺たちは、ラベル以上だ。地図になる。
UIの片隅で、見慣れない薄い文字が揺れた。
【適応感染(てきおうかんせん)レベル:予備】
説明:雨・風・地脈・光に編み込みを開始
条件:感染率3%、感染巣3基、祈声媒介Lv3、水界連結Lv2
効果(予定):降雨時の広域沈着、日照の偏向、地脈沿いの持続拠点
怜司は、遠い未来ではなく、次の一手を考える。
“ゲーム”と呼んでしまって良いのなら、これは長編RPGのチュートリアルが終わる音だ。
石畳の匂い。湿った木の手触り。朝のパンの温度。
世界は美味しい。
広い。
増えるのに、ちょうど良い。
【感染率:1.23% → 1.31%】
【感染個体:+126】
【進化点:+178】
【レベル:27 → 28】
朝日が出る。
影ができる。
影もまた、媒体になるだろうか、と一瞬だけ馬鹿げたことを考える。
UIが、微かに笑ったように見えた。
笑いは錯覚だ。
でも、錯覚は仕様を生む。
仕様は、効果になる。
風が笑ったのかもしれない。
**“俺たち”**が笑ったのかもしれない。
そんなことは、どちらでもいい。
広がれ。
染み込め。
世界を、
地図に。
(第0話 了)
⸻
補足(作中仕様の例:副作用ではなく“効果・条件”で整理)
• 侵入:宿主細胞への膜融合を促す
• 効果:侵入成功率+12%/侵入時間−18%
• 条件:Lv1以上、宿主適応10%以上
• 潜伏制御:炎症反応の抑制
• 効果:症状指標−3(Lv3時)、潜伏期間+最大3日
• 条件:Lv1以上/炎症反応検出
• 祈声媒介:連続音声波形に同期
• 効果:沈着率+、屋内付着率+、発話者への定着+
• 条件:Lv4以上/音圧観測
• 言葉感染:発話・文字に情報を重畳
• 効果:朗読・掲示で沈着率+、記憶タグ付与
• 条件:神経感染Lv2、祈声媒介Lv2、進化点800以上
• 水界連結:井戸—川—市場—港の連結
• 効果:週次で周辺集落点灯、季節イベントで波及+
• 条件:Lv7以上、複数拠点稼働
• 致死パルス(今回は未使用)
• 効果:短時間の死亡→胞子形成→広域拡散
• 代価:注目度↑、封鎖・焼却の確率↑
• 条件:Lv9以上、進化点200以上、主要拠点化
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