第4話 匿名通報
午前八時四十二分。地域再生課のフロアにほぼ同時に震える音が走った。
机の上のスマホ、袖の中のスマホ、会議室に置きっぱなしのスマホ――それぞれが短く震えて止まり、また震える。
広報からの一斉メールの件名は、やけに軽いフォントでこう書かれていた。
《SNS上で当市の補助金運用に関する情報拡散 初動共有》
リンクを開く。
黒地に白字のサムネイル。センセーショナルな影絵の上に、冗談みたいな見出し。
〈“体感値”で水増しする優良自治体/内情暴露〉
記事の中には、報告書の写真――改ざん前の数字を写した、確かに見覚えのあるフォーマット――が、角度を付けて貼られていた。
キャプションは「内部資料」とだけ。撮影者の名も、出所も、文脈もない。だが、写真だけは正確に本物だった。
陽一は喉の奥が乾くのを感じた。
スクロールする指の先で、コメントが増えていく。
〈やっぱりね〉〈税金泥棒〉〈どこも同じ〉〈体感値てなに?〉〈“優良表彰”って茶番だったのか〉
怒り、嘲り、達観、皮肉、正義。
どれも同じ速度で流れる。
――そして、流れるものは、すぐ“真実”になった顔をする。
「集まってくれ」
課長の声が低く響く。会議室に入ると、机がコの字に並べられ、紙コップとミントの飴が等間隔に置かれていた。
課長は開口一番に言う。「騒がん。まず事実や。流出は“資料の写真”一枚。内容は、昨年度の観光実績の修正前値。誰が撮ったか不明。外からの問い合わせは広報に一本化」
財政、観光協会、建設課から呼ばれた担当者たちは、一様に表情を固くしている。
「“体感値”の説明は?」
企画調整の係長が訊くと、課長は「要綱に準拠した“補正”の一種や。技術的説明は俺がやる」と短く返す。
隣の席で神崎が、陽一の肘をつついた。「ノート、守れ。今日はそういう日だ」
陽一は小さく頷いた。自分の机の最下段。鍵はかけていない。鍵をかければ、かけたこと自体が疑いになる世界がある。
九時半。電話が鳴り始める。
代表回線が詰まり、内線が鳴り、携帯が震える。
「事実ですか」「担当者に繋いで」「謝罪は」「返金は」「調査は」――声はどれも正しい。正しいが、どれも刃渡りが少し長い。
広報が駆け込み、定型文を置いていく。「“誤解を招く表現があった。事実関係を精査中”――ひとまずこれで」
課長が紙を見て、目だけで笑った。「“誤解”か。便利な言葉やな」
「“虚偽”と書けませんから」
広報は苦笑する。「“虚偽”と書いたら、今度はその根拠を求められる。言葉は、逃げ道か、袋小路か、どっちかです」
「今日は逃げ道にしよか」
「今日は、ですね」
広報が去ると、部屋の空気はわずかに重くなった。
十時。記者クラブの電話会見。
スピーカーホンから、無機質な音声が複数重なって聞こえる。
「昨年度観光客数“8,120人”の算定根拠に、“体感値”という表現がある。これは何か」
課長。「現場観察に基づく補正。推計の技術的手法で、恣意的な水増しではない」
「内部からの流出か」
「不明。現在確認中」
「市民説明会で“映えを削る”と発言した職員がいた。見栄え重視の慣行があるのでは」
課長は少しだけ間を置いた。「本市は“質”を重視する。発言は現場の工夫を求める趣旨」
「誰が言った」
「個人名の回答は控える」
陽一は壁際で聞いていた。
自分の舌の上に、いくつかの単語が乗り、また降りた。
正しく説明することが、いまは火に油だと分かっていても、飲み込むたびに喉が擦れる。
電話が、止まらない。
「昔からだよ、こういうのは」
「友だちの店を作るんだろ」
「匿名でも通報できる窓口は?」
匿名は便利だ。弱い人が安心して声を出せるという意味で、便利だ。
同時に、匿名は残酷だ。誰かが投げた石の軌跡が、最後まで見えなくなるから。
机の上で鳴り続ける受話器を、陽一は一つずつ取って、一つずつ置いた。相槌は短く、言葉は削り、息は長く。
同僚が背後で囁く。「誰が出したと思う?」
「協会筋?」「外部コンサル?」「中の誰か?」
推理は熱を帯びるが、正解に近づくほど現場は冷える。
神崎が肩を軽く叩いた。「外、行くぞ」
屋上。
風が、書類の角をめくるように頬を撫でる。遠くの山の稜線の上に、薄い雲が流れていた。
「やられたな」
神崎が言う。
「“やられた”で済むように作られてる」
「誰が?」
「空気が」
神崎は笑い、手すりに背を預けた。「正義は音がでかい。誠実は音が小さい。だから、音の勝負になったら負ける」
「じゃあ、どうする」
「音の外へ回る。やることやる。第三者検証に賭ける」
「それも音に飲まれるかも」
「それでもやる」
短い沈黙が、二人の足元に置かれた。
神崎はポケットから携帯灰皿を出して、また戻した。「吸うの、やめたんだ」
「いつから」
「昨日。続くかどうかは、知らん」
二人は笑った。笑いは風に乗って、すぐ遠くへ行った。
午後、内部監査の臨時ヒアリング。
ガラス張りの小さな会議室。卓上のボイスレコーダーが赤く点灯する。
監査担当は淡々としていて、声に起伏がない。
「“体感値”による補正の定義を説明してください」
「現場の観察、導線調査、聞き取り――統計的には脆弱だが、傾向把握のための補助線です」
「当該“補正後値”の採用に、あなたは同意しましたか」
「最終値には同意していません」
「異議の記録は」
「個人ノートのみ。議事録には残っていません」
「ノートの提出は可能ですか」
陽一は一拍置いた。「私的な記録です。提出は控えます。ただし、必要なら内容の説明はします」
「分かりました」
担当は打鍵を続ける。カタカタという音が、やけに広く部屋に響く。
人は、記録に残る時だけ、少しだけ丁寧に嘘をつく。
それが悪いと知りながら、すぐにはやめられない。
だから、ノートは自分に向かって書く。誰かを責めるためでなく、自分が折れないために。
夕方、広報が戻ってきた。
「一次声明、出しました。“誤解を招く表現があった。事実関係を精査中”」
課長は「“誤解”は誰の?」と訊いた。
広報は肩をすくめる。「受け手。……に見えるけど、本当は“発信者”の自分たち。誰のでもあり、誰のでもない。だから便利」
「便利は長持ちせん」
「長持ちさせる気はありません。二次声明を急ぎます。第三者検証の段取り、ください」
神崎がすっと手を挙げた。「用意してます」
フォルダから資料を出す。外部学識経験者のリスト、監査のスコープ案、報告期限の提案、データ保存プロトコル。
広報の目が少しだけ和らいだ。「……助かる」
課長は短く言う。「やるんや。逃げずに」
夜。
庁舎の外は、風が冷え、街灯が硬い白を落としている。
陽一は帰り支度をしながら、机の最下段のノートを取り出した。黒い表紙の角はすっかり丸くなっていて、掌に入る重さは、石よりも柔らかい。
ページを開く。今日の一行は、すぐに決まった。
――“匿名の声には、名前を与えず、足を与えよ。歩ける場所へ、運べ。”
匿名は、名を持つ必要がない。進む道があればいい。
道は、誰かが敷くのではなく、踏まれてできる。
踏むために、余白がいる。怒りの隙間に、小さな余白。
余白は、誠実の働き場だ。
スマホが震えた。非通知。取る。
しばらく沈黙のあと、かすかな呼吸音。
「……すみません」
若い、がさついた声だった。
「今日、電話で、“税金で遊ぶな”って言ったの、俺です」
陽一は言葉を探す。「はい」
「怒ってるわけじゃないんです。怒ってるけど、怒ってるわけじゃない。……意味、分かんないですね」
「分かります」
「俺、今仕事なくて。地元、戻ってきたけど、何したらいいか分かんなくて。それで、SNS見てたら……なんか、悔しくて」
「悔しいですよね」
「だって、俺ら“体感値”で褒められたりしないから。……すみません。迷惑ですよね」
「迷惑じゃないです。来てください。説明会に。またやります。設計の場にするので」
少しの沈黙。
「……行っていいんすか。俺、何も知らないですよ」
「知らないことが、参加資格です」
電話口の呼吸が、少し整う。
「じゃあ、行きます。……すみませんでした」
切れた。
陽一は、受話器の向こうに、どこの誰かも分からない“名のない重さ”が残っているのを感じた。
匿名は、顔を持たない。
でも、体重はある。
受け止める場所があれば、立てる。
帰り道。
橋の上で立ち止まる。川面は黒い絹のようにゆっくり動き、欄干は冷たく、街灯が等間隔の点を落とす。
空のはじに、ひかりの筋が少し走った。雷か、飛行機か、人工衛星か。
どれでもよかった。ただ、夜が生きている印だった。
スマホを取り出す。神崎からメッセージ。
《広報と段取り合意。第三者検証、走らせる。お前、今日は飯食って寝ろ》
《了解。明日もやる》
送信。
画面を閉じると、指先に街灯の熱が残った。
部屋に戻り、靴を脱ぎ、灯りを落とす。
机の上のノートをもう一度開く。
紙の匂い。インクの薄い光。
ページの余白に、もうひとつだけ書き足す。
――“正義は音、誠実は手。音が止んだあと、手が残る。”
ペン先の圧で、紙がわずかに凹む。
深呼吸。
胸の奥で、今日のざわめきが、少しずつ形を失っていく。
その隙間に、明日の段取りが並ぶ。
検証メンバーへの打診、データの凍結、協会との調整、次の説明会の議題。
眠気は来ない。けれど、焦りもしない。
音が大きいほど、手は静かでいい。
静かに、繰り返す。
静かに、積む。
静かに、進む。
窓の向こうで、風がひとつ通った。
雨の匂いはまだない。
遠くの国道で、トラックが低い唸りを残して走り抜けた。
その音は、今日の“匿名”よりも、少しだけ重かった。
重さは、現実の証拠だ。
現実は、明日も続く。
続くものに祈る必要はない。
ただ、手を動かせばいい。
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