第16話 それぞれの怖さ
放課後の校舎は、昼よりも音が少ない。
チャイムが鳴って、机が引かれて、誰かが笑って、廊下に足音が散って――それでも、夕方はいつも“余白”が残る。
由衣がいない時間ほど、由衣の存在ははっきりする。
名前を出さなくても、視線が向く。
話題にしなくても、考えてしまう。
“好き”ってたぶん、そういうものだ。意識しない努力を始めた瞬間から、意識が始まる。
その日、三人は同じ学校にいて、同じ空の下にいて、同じものを胸に抱えていた。
けれど、その中身は――まったく違った。
◇
1 雪村――「持つ資格がない」
雪村は部活がない日ほど、帰りが遅くなる。
特別に用事があるわけじゃない。ただ、帰る理由が薄いと、廊下のどこかで立ち止まってしまう。
夕方の教室は、空気が冷えている。
窓から入る風が、プリントの角をふわりと浮かせて、机の木目の上を滑っていく。誰もいない教室の真ん中に立つと、自分の足音だけがやけに大きい。
雪村は、自分の机に座らずに、由衣の机の前で止まった。
――癖になっている。
文化祭が終わったあとから。
片付けの日の夕方から。
由衣が笑っていた日の帰り道から。
由衣の机の上には、今日誰かからもらったらしい小さな紙袋があった。
パン屋のロゴ。可愛らしい印刷。中身はもうない。香りだけが、ほんの少し残っている。
藤宮か。と、雪村はすぐに分かった。
分かった瞬間、胸の奥がざらりとした。
――嫌な感じ。
でも、その“嫌”は、相手への怒りでも、由衣への怒りでもない。
自分の内側が勝手に反応することへの、自己嫌悪に近い。
雪村は、拳を握りかけてやめた。
握ったところで何も変わらない。変えられる立場じゃない。……変えようとしてはいけない。
雪村は、一度、由衣を振った。
振った、と言うと簡単すぎる。
告白されたとき、雪村は「ごめん」と言った。
優しく言ったつもりだった。誠実に言ったつもりだった。理由も言った。「今は誰とも付き合うつもりがない」と。
嘘ではなかった。
ただ、真実の全部でもなかった。
その頃の雪村は、恋愛をする余裕がなかった。
家の事情。部活。成績。将来。
いつも何かに追われていた。息を吸うたびに、焦りが入ってくるような日々。
由衣は、その焦りの外側にいた。
焦っている雪村に、焦りをぶつけてこない人だった。
たとえば、ある冬の日。
期末試験前の放課後。図書室で雪村がノートに顔を近づけていたとき、由衣は隣に座って、何も言わずにシャーペンの芯を一本置いた。
「……これ、落ちてた」
そう言って、それ以上何も言わなかった。
慰めも、応援も、励ましも、期待も。
ただ、芯を置いて、隣に座って、自分も黙って勉強を始めた。
雪村はあのとき、妙に救われた。
何かを言われたら、返さなければいけない。
期待を向けられたら、応えなければいけない。
でも由衣は、雪村に“返す義務”を作らなかった。
それが、当時の雪村にはありがたかった。
だから雪村は、由衣が告白してきたとき、怖くなった。
この人が自分を好きだと言った瞬間、
自分は応えられないかもしれないのに、
応えるべきだと思ってしまう。
応えられない自分を、許せなくなる。
だから「ごめん」と言った。
優しく言った。誠実に言った。
そしてそのまま、由衣の気持ちを“なかったこと”にしないように、普段通り接した。
由衣も、普段通りだった。
普段通りすぎた。
雪村は、そこからずっと、どこかで息が詰まっていた。
由衣の普段通りは、雪村にとって、救いであり、刃だった。
――俺は、あの子の気持ちを受け取らなかったのに。
あの子は、俺を嫌いにならなかった。
だからこそ、今になって由衣が誰かに笑いかけるだけで、胸がざらつく。
そんなの、身勝手だ。
今さらだ。
持つ資格がない。
嫉妬なんて、持つ資格がない。
雪村は、由衣の机の横に置かれた椅子を、ほんの少しだけ引いた。
座るわけじゃない。ただ、音を立ててしまったことを誤魔化すように、静かに戻した。
そのとき背後で、廊下の足音が止まった。
「……雪村?」
振り向くと、藤宮がいた。
片手にバスケ部のジャージ。もう着替えている。髪が少し湿っているから、たぶん走ってきた。
「なにしてんの。誰もいない教室で。怖いって」
「……別に」
「別に、って顔じゃない」
藤宮はにやっと笑った。
その笑い方が、雪村には少しだけ苛つく。軽い。軽すぎる。……でも、それは藤宮の悪さじゃない。
「由衣の机見てた?」
藤宮は平然と言う。
言い方が軽い。でも目はちゃんと見ている。
「……見てない」
「見てたじゃん。パンの袋?」
「……」
雪村は黙った。
藤宮は肩をすくめた。
「俺、あれ渡した。あの子、笑ってた」
その言葉で、雪村の胸のざらつきが増した。
増したのに、同時に、心の奥で小さく安心してしまう自分もいる。
由衣が笑っていた。
それは、良いことだ。
……良いことなのに。
「雪村さ」
藤宮が少しだけ声を落とす。
「自分のこと、責めすぎ。あの子、責められるの嫌いだよ。自分も、誰かも」
「……知ってる」
「知ってるならさ」
藤宮は、廊下側の窓の方を見た。夕方の光が、ガラスに薄いオレンジを落としている。
「今さらとか、資格とか、そういうのに逃げないで。ちゃんと好きなら、ちゃんと好きでいればいいじゃん」
雪村は、息を止めた。
――逃げてるのは誰だ。
逃げてるのは俺だ。
でも、藤宮の言葉は正しすぎて、雪村は腹が立たない。
正しい。正しいから、苦しい。
「俺は……」
雪村は言いかけて止まった。
言葉にしたら、戻れなくなる気がした。戻る場所なんて、もうどこにもないのに。
藤宮はそれ以上詰めずに、笑った。
「ま、ゆっくりでいいよ。あの子も、ゆっくりでいいって思ってる。……たぶん」
藤宮は廊下へ出ていく前に、一度だけ振り返った。
「でもさ。ゆっくりって、止まることじゃないからね」
雪村は返事ができなかった。
ただ、藤宮の背中を見送った。
教室にまた静けさが戻る。
雪村は由衣の机を見た。パンの袋の小さなロゴ。もう何も入っていないのに、存在感だけがある。
雪村は小さく呟いた。
「……俺は、奪いたいんじゃない」
声が、机の木目に吸い込まれる。
「否定したくないだけだ。あの子の気持ちも、……俺の過去も」
手のひらが少し震えた。
震えは、嫉妬の熱じゃない。罪悪感の冷たさだ。
雪村は、由衣の机の端を指でそっと撫でた。
触れた瞬間、なぜか、あの冬の図書室のシャーペンの芯の冷たさを思い出した。
あのとき自分は、救われた。
救われたのに、受け取らなかった。
受け取らなかったことを、正解だと思いたい。
でも、正解だったとも言えない。
雪村は椅子を引いて座った。
由衣の席じゃない、自分の席に。
そしてノートを開き、何でもない数学の問題を一つ解いた。意味はない。
ただ、今のざらつきを“形”にしたかった。
形にして、持っていたかった。
消えないように。
忘れないように。
◇
2 朝倉――「情報にすることで、守ってきた」
朝倉は、部活のない日は写真部の暗室に行く。
行っても、現像するフィルムがあるとは限らない。ただ、暗室の匂いが落ち着く。薬品の匂いは、世界を現実にする。
赤いランプの下で、朝倉は洗浄中の印画紙を眺めていた。
水面に紙が揺れて、光が反射して、像が少しずつ浮かび上がる。
像が浮かび上がる瞬間は、いつも少し怖い。
見えてしまうからだ。
自分が写してしまったものが、隠せなくなる。
朝倉は、手を止めて、今日のことを思い出した。
――雪村が「駅まで一緒に」と言った。
由衣が「うん」と答えた。
藤宮が「班行動」と笑った。
朝倉は、何も言わなかった。
言わなかったのは、余裕があったからじゃない。
言えば、何かが露骨になると思ったからだ。
自分が、何を感じたのか。
朝倉はそれを、いまだに“言葉”にできない。
できないから、情報に変換する。
雪村の声のトーン。
由衣の返事の速さ。
藤宮の笑いの質感。
自分の呼吸の乱れ。
――情報。
ただの観察。
ただの癖。
そう思い込むと、楽だった。
朝倉は昔から、感情を“情報”にすることで生きてきた。
悲しみも、怒りも、怖さも。
情報にすると、処理できる気がした。
だから、喪失も。
朝倉は、印画紙をそっと持ち上げて水を切った。
赤いランプの下で像がぼんやり見える。雨上がりの路面。夕立の後の反射。オレンジの光。
去年の夏、撮れなかった一枚の代わりに、朝倉が撮り続けている“跡”の写真だ。
あの日、シャッターが切れなかった。
切れなかった理由を、朝倉は今も説明できない。
ただ、指が動かなかった。
世界が美しすぎて、「次も続く」と思ってしまった。
続かなかった。
そこから朝倉は、写真の中の白が増えた。
写っていない白。
触れなかった白。
白を見ると、安堵する。
届かなかったことを、覚えていられるから。
――由衣も、たぶん同じだ。
朝倉が由衣を“好きになった瞬間”は、文化祭の日じゃない。
もっと前。
由衣が泣いているところを見たことはない。
由衣が笑っているところは何度も見た。けれど、それが起点じゃない。
起点は、由衣が“泣く前に黙る瞬間”だった。
春の終わり。
放課後の廊下。
由衣が一人で掲示板の前に立っていて、貼り紙を見ていた。
何の貼り紙か分からない。文化祭の実行委か、部活の募集か。
でも由衣の肩が少しだけ固かった。
朝倉が「どうしたの」と聞く前に、由衣は一度だけ唇を噛んだ。
噛んで、息を吸って、何も言わずに笑った。
笑う前に、音を消した。
その瞬間、朝倉は思った。
壊れない人なんていない。
壊れる前に、音を消す人がいるだけだ。
そのやり方が、自分と似ている。
朝倉は、泣く前に黙る。
怒る前に黙る。
怖いと言う前に黙る。
言葉にしたら、世界が壊れる気がして。
由衣も、そうだった。
そして、由衣はその黙りを“優しさ”で包んでいた。自分を守るための黙りなのに、周りのために黙っているように見えた。
朝倉は、その矛盾が好きだった。
好き。
そう思ったとき、自分の中で一瞬だけ“警報”が鳴った。
危ない。
踏み込むな。
失うぞ。
だから、距離を取った。
距離を取って、見続けた。
近づきすぎない。触れない。
触れない方が届くものがあると、信じてきた。
それでも、今日。
雪村の名前が出た瞬間。
藤宮の軽い笑いが広がった瞬間。
朝倉の思考は、一瞬止まった。
止まったのは、情報処理が追いつかなかったからだ。
追いつかなかったのは、感情が先に出たからだ。
――嫉妬。
朝倉はその言葉を、まだ口にしたくない。
したくないのは、認めたら踏み込んでしまうからだ。
踏み込めば、失う。
失うことを、もう知っている。
朝倉は、印画紙を乾燥棚に入れ、暗室を出た。
赤い光が消えると、廊下の白い蛍光灯が眩しい。
世界が急に現実になる。現実は、いつも少しだけ残酷だ。
部室のドアを閉めようとしたとき、廊下の向こうから声がした。
「朝倉!」
藤宮だ。
階段を二段飛ばしで降りてくるみたいな勢いで、こちらに来る。
「お前、今日さ、黙ってたな」
「……黙ってただけ」
「それ、黙ってただけの顔じゃない」
藤宮は笑っているのに、目が真面目だった。
「雪村が駅まで一緒って言ったとき、な。お前、ちょっと止まった」
朝倉は、心臓の鼓動が一つだけ強くなるのを感じた。
ばれた。
というより、藤宮は“見ている”。
「止まってない」
「止まったって。俺、そういうの分かる」
「……藤宮は、なんで分かるんだ」
藤宮は肩をすくめた。
「俺、軽そうに見える?」
「見える」
「知ってる。だから、見てるんだよ。軽いままだと、誰かを傷つけるから」
藤宮は一度だけ、息を吸った。
「朝倉。嫉妬してんだろ?」
朝倉は、その言葉に返事ができなかった。
返事ができないのが、答えだ。
藤宮はそれ以上追い詰めない。笑って、少しだけ声を落とす。
「いいじゃん。嫉妬しても。
嫉妬って、奪うための感情じゃないときもあるよ。
“失いたくない”ってだけのときもある」
朝倉は視線を落とした。
床の白いタイル。自分の靴の影。
影は、ちゃんとそこにある。消えない。
「……失いたくない」
朝倉が小さく呟くと、藤宮は頷いた。
「うん。俺も。雪村も、たぶん。
でさ、それって悪くない。悪くないけど、由衣にぶつけんなよ?」
「ぶつけない」
「だよな。朝倉はそういうやつだ」
藤宮は笑って、手を振った。
「じゃ、また。由衣のこと、ちゃんと見てやれよ。距離はそのままでもいいから」
藤宮が去ったあと、朝倉はしばらく廊下に立ち尽くした。
“距離はそのままでもいい”という言葉が、胸の奥で反響する。
距離を取ることは、逃げじゃない。
そう信じてきた。
でも、距離を取ることが、ただの臆病になる瞬間もある。
朝倉は、自分のポケットの中で指を動かした。
スマホを出さない。
ただ触る。布越しに。
この癖は、喪失の癖だ。
思い出しそうになるとき、確かめるように触る。
朝倉はゆっくり息を吐いた。
――奪いたいんじゃない。
――壊したくないだけだ。
でも、その“壊したくない”が強すぎると、
何もできなくなる。
朝倉は、階段の踊り場の窓から外を見た。
夕方の空が、少しだけ薄い。
夏の前の、まだ優しい光。
由衣はきっと、今日も笑っている。
笑っているのは、強いからじゃない。
笑おうとしているからだ。
朝倉は、そう思う。
そして思う。
その笑おうとするところに、自分は触れてしまっている。
触れてしまったなら、
もう、戻れない。
◇
3 藤宮――「軽さの裏側」
藤宮は、部活帰りにコンビニへ寄る。
その習慣は、腹が減るからというより、頭を整えるためだ。
スポーツドリンクを買って、レジの前で雑誌をちらっと見て、外に出て、夜風に当たる。
そうすると、今日の自分のテンションが“どれくらい高かったか”が分かる。
テンションが高すぎた日は、何かを見落としている。
だから藤宮は、わざと冷える場所へ行く。
熱を落とす。
自分の軽さが誰かを傷つけないように。
コンビニの前でスポーツドリンクを一口飲んで、藤宮は空を見上げた。
夕方と夜の境目。
雲が薄く流れて、街灯が一つずつ点いていく。
藤宮は、自分が由衣のことを意識し始めた瞬間を、はっきり覚えている。
それは、由衣が笑った瞬間でも、泣いた瞬間でもない。
“笑おうとしている”瞬間だった。
文化祭の準備の少し前。
教室で、実行委の連絡が回って、みんなが「めんどくさ」と言っていた日。
由衣は、机の上の紙を見ながら、小さく笑った。
笑ったけど、その笑い方がいつもと違った。
口角だけが動いて、目が笑っていない。
それでも“笑っている形”を作っていた。
藤宮は、その形に惹かれた。
強い人が好きなんじゃない。
強くなろうとする人が好きなんだ。
藤宮自身、昔から明るいと言われる。
でも明るいのは、気質というより、選択だ。
暗くなってしまう自分を知っているから、明るく振る舞う。
だから、由衣の“笑おうとする笑い”が分かった。
分かった瞬間、藤宮は思った。
――この子、今、ひとりで踏ん張ってる。
踏ん張っている人を見ると、藤宮は放っておけない。
助けたいから、じゃない。
助けるって言葉は、相手を弱い側に置くから。
藤宮は、ただ隣にいたいと思った。
軽い冗談を投げて、笑わせて、呼吸を少しだけ楽にしたいと思った。
それが、藤宮にとっての“好き”の始まりだった。
好きだと自覚したのは、もっと後。
文化祭で由衣の展示を見たとき。
キャプションを読んだとき。
「泣いたことは消さない。乾く前に光った、その一瞬を渡す」
その一文で、藤宮は胸の奥が苦しくなった。
ああ、この子は、本気だ。
自分を誤魔化さないために、こういう言葉を書ける子だ。
藤宮はそこで、好きだと思った。
好きだと、自分で認めた。
認めたから、藤宮は嫉妬も認められる。
今日だって、雪村が「駅まで一緒」と言った瞬間、藤宮の胸はちくっとした。
朝倉が黙った瞬間、藤宮はそれを見逃さなかった。
自分だって、軽く笑いながら、本気で状況を見ている。
藤宮は、そういう自分が嫌いじゃない。
恋って、全部きれいじゃない。
嫉妬も、独占欲も、怖さも、混ざる。
混ざるけど、それを相手にぶつけたら終わりだ。
藤宮は、由衣にぶつけたくない。
ぶつけたら、由衣は笑ってしまうからだ。
笑って、傷ついた自分を隠してしまう。
藤宮が好きになったのは、そういうところなのに。
それを増やしたくない。
藤宮は、スポーツドリンクの残りを飲み干して、空のペットボトルを握った。
ペットボトルが潰れる音が小さく鳴る。
自分の中にある“奪いたい”衝動を、そこで潰してしまうように。
藤宮はふと、さっきの廊下での雪村の顔を思い出した。
罪悪感で固まっている顔。
由衣の机を見ていた背中。
あの背中は、ずるいくらい真面目だった。
朝倉の沈黙も思い出す。
あの沈黙は、強がりじゃない。
怖さの沈黙だ。
藤宮は笑う。
笑いながら、ため息を吐く。
「……みんな、怖いんだよな」
怖いのは当たり前だ。
好きは、他人の人生に触れることだから。
藤宮は歩き出した。
コンビニから駅に向かう道。
信号の前で立ち止まり、赤を待つ。
その間に、藤宮は一つだけ決めた。
自分は、勝ちたいわけじゃない。
雪村に勝ちたいわけでも、朝倉に勝ちたいわけでもない。
由衣の笑いを守りたい。
でも守るという言い方は、やっぱり違う。
――由衣が、自分の笑いを自分で選べるようにしたい。
それが藤宮の“好き”の形だ。
信号が青になり、藤宮は渡る。
歩きながら、ポケットからスマホを出し、詩織にメッセージを打った。
《なあ、由衣のこと急かすやついたら止めていい?》
すぐ返事が来た。
《当たり前。ぶっ潰せ。》
藤宮は声を出さずに笑った。
詩織のそういうところも、藤宮は好きだ。恋じゃなくて。
藤宮はもう一通、短く打つ。
《俺も、嫉妬してる。けど、由衣にぶつけない》
返事。
《それが大人。高校生のくせに。》
藤宮は笑ってスマホをしまった。
大人じゃない。
ただ、傷つけたくないだけだ。
由衣は、怖がりながら前に進んでいる。
それを見て、藤宮も前に進む。
進むっていうのは、踏み込むことだけじゃない。
待つことも、進むことだ。
引くことも、進むことだ。
藤宮は駅のホームで、電車を待ちながら、由衣の顔を思い浮かべた。
今日、片付けのときに笑っていた顔。
あの笑いは、逃げじゃなかった。
笑いながら、怖さを抱えていた。
藤宮は、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
――好きだ。
その言葉を、まだ由衣には言わない。
言えば、由衣が“答え”を出そうとしてしまうから。
今の由衣に必要なのは、答えじゃない。
怖さを大事にしていいという、時間だ。
藤宮は電車に乗り込む。
窓に映った自分の顔が、いつもより少しだけ真面目だった。
◇
4 由衣のいないところで、三人は同じ結論に触れる
その夜。
雪村は自分の部屋で、数学の問題を解きながら、何度もペンを止めた。
答えは出せるのに、心の答えは出せない。
朝倉は暗室で乾いた写真を見つめながら、白の多い部分に指を近づけて、触れずにやめた。
触れない距離のまま、確かめる。
藤宮は布団に入ってから、明日のパンの値段を思い出して笑って、すぐに真顔になった。
軽さは、いつでも戻れる。
でも戻ったところで、好きは消えない。
三人は由衣のいない場所で、同じことを知っていく。
由衣は、誰かを踏み台にして選ぶ人じゃない。
選ばないという行為は、逃げじゃない。
怖さを大事にしているだけだ。
そして、三人とも、もう薄々わかっている。
選ばれない未来も、存在する。
それでも、好きでいることはやめない。
奪うためじゃない。
勝つためでもない。
ただ、自分の中に生まれてしまったものを、なかったことにしたくない。
それが、彼らの“それぞれの怖さ”だった。
◇
翌朝、由衣はいつも通り学校に来る。
少しだけ丁寧に髪を整えて、少しだけ深呼吸して。
三人はそれぞれの距離で、由衣を見る。
雪村は、視線を逸らさずに「おはよう」と言えるようになっている。
朝倉は、いつもの柱影から一歩だけ光の方へ身体を向ける。
藤宮は、冗談を言う前に、由衣の目を一瞬だけ確かめる。
由衣はまだ、何も知らない。
でも、空気は少しだけ変わっている。
誰かが選ばれるためじゃない。
誰かが負けるためでもない。
ただ、由衣が“自分の笑い”を選べるように。
そのために、彼らはそれぞれの怖さを抱えたまま、同じ方向に少しだけ傾いていく。
恋は、いつも答えを急かす。
でも、この物語は、急かさない。
怖さを大事にすることで、
人は、ちゃんと前に進めるから。
――そして、進む先に、選ぶ日が来る。
まだ、遠い。
でも、遠いからこそ、今はこの怖さが必要だった。
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