第10話 恋じゃない。けど——心臓がうるさい。

 月曜日の朝の空気は、ちょっとだけ味が薄かった。


 文化祭と大会と、いろんな「特別」がぎゅっと詰まっていた一週間が終わって、カレンダーだけがいつもの月曜に戻っている。

 なのに、胸の中だけはまだ、昨日までの余韻が残っているみたいにざわざわしていた。


 玄関でローファーを履きながら「行ってきます」と言うと、キッチンから母の声が返ってくる。


「行ってらっしゃい。——展示、もう片付け終わったの?」


「うん。全部外して、ピンも抜いた」


「そっか。なんか、ちょっと寂しいね」


「……うん、ちょっとだけ」


 家を出ると、青空にまだ文化祭の紙吹雪がくっついているような気がした。

 もちろん、実際に何かが舞っているわけじゃない。それでも、校門に近づくにつれて、胸の奥の水は静かに揺れ始める。


 校門をくぐると、掲示板にはまだ文化祭のポスターが残っていた。


「本館二階・特別展示」


 その文字を目でなぞった瞬間、喉の奥がきゅっとなる。

 あの部屋の白い壁。光。キャプション。

 今はもう何も貼られていないはずなのに、そこに自分の線の気配がまだ薄く残っているような気がした。


「——由衣」


 背中から呼ばれて、振り向く前に笑いそうになる。


「おはよ、詩織」


「おは。月曜の顔してるね」


「月曜の顔ってなに」


「“昨日まで青春してたのに急に数学やらされる顔”」


「それは確かに月曜」


 詩織はいつもより少し高い位置でポニーテールを結んでいた。揺れ方が元気だ。


「今日はね、あえてテンション上げていく日ですよ。文化祭ロス防止週間」


「そんな週間あるの?」


「今作った」


 くだらない会話をしながら昇降口へ向かうと、靴箱の前が妙に騒がしかった。

 男子たちの声の中に、聞き慣れた名前が混じる。


「雪村、マジ準決勝はエグかったって!」


「動画撮ったから後で送るわ」


「三回戦負けなのに褒められまくる男ってなに」


「負けたって千回言っても勝ち扱いされるやついるよな」


 雪村の笑い声が混じる。その音で、胸の奥の水がもうひと揺れした。


「……行く?」


 詩織が顔だけこちらに寄せてくる。


「行かない。ここからでも声聞こえるし」


「声だけで表情想像するの、ちょっと彼女ムーブっぽいんだけど」


「やめてよ」


 そう言いながらも、耳は勝手にそっちの方向を向いてしまう。

 「行ってらっしゃい」「行ってきます」のメッセージのやり取り。

 あの日の画面の白さが、ふっと蘇る。


「でもまあ、いい顔してるっぽいよ?」


「見てないじゃん」


「音で分かるの。今日の由衣の声も、ちょっと“いい顔してる”声だし」


「何その特殊能力」


「十年のバグだよ」


 詩織は笑いながら、自分の靴箱を開けた。

 その笑いにつられて、私も口角が少しだけ上がる。


     ◇


 教室に入ると、いつもの朝のざわざわに、まだ文化祭の名残が少し混ざっていた。

 後ろの黒板には「おつかれさまでした」の文字が消し残っていて、誰かが描いたハートだけがやたら元気に残っている。


「佐伯、おは〜。展示、うちのお母さんも褒めてたからね」


 前の席の佐々木が、椅子をくるっと回転させてこちらを向いた。髪には新しいヘアピンが二つ。


「ほんと? ありがとう」


「“なんか息しやすくなるやつだったわ〜”って。語彙力はあんまりなかったけど」


「充分伝わってるよそれ」


 そう言いながら鞄を机に置いていると、廊下側のドアが開く音がした。


 雪村が入ってきた。


 陸上部のジャージじゃなくて、いつもの制服。

 でも、肩のあたりの力が前より少し抜けているように見えた。

 大会の緊張と、終わったあとの空白が混ざった顔。


 男子たちが一斉に寄っていく。


「おつかれ〜、マジで三回戦熱かったわ」


「県大会行けるってあれ」


「いや行けてねーから」


 わちゃわちゃした輪の向こうで、一瞬だけ、雪村の視線がこちらを捕まえた。


 目が合った。


 胸の奥で、水が「ぽちゃん」と音を立てた気がする。


「……おはよ、由衣」


 何でもないみたいな顔で、でもちゃんとこちらを見て言われる。

 名前を呼ばれた瞬間、さっきまで普通にしてた自分の声が、急にどこかへ行ってしまう。


「あ、おはよ。大会、おつかれさま」


「ありがと。——行ってきます、効いた」


 さらっと言われたその一言に、心臓がふいに忙しくなる。


「え、そう?」


「うん。あれなかったら、たぶん途中で折れてた」


 そんな大げさな、と思いながらも、うまく否定の言葉が出てこない。

 代わりに、机の端っこを指でさわさわと撫でてごまかした。


 雪村は笑って、自分の席に腰掛ける。

 その背中を見たまま固まっていると、横からひそひそ声が飛んできた。


「由衣、今ちょっとニヤけてた」


「ニヤけてない」


「ニヤけてた。“いいやつに『ありがとう』言われたときのニヤケ”」


「分類が細かいんだよ」


 詩織が机にほっぺたを乗せて、ニマニマしている。

 私は彼女の額を軽くつついて誤魔化した。


     ◇


 一時間目のチャイムが鳴る直前、教室の後ろの扉が開いた。


「あ、委員長だ」


「やめてその呼び方」


 藤宮がプリントの束を持って入ってくる。

 相変わらずシャツの袖はきちんとまくっていて、ネクタイの結び目も完璧。

 なのに表情だけは、どこか柔らかくなっていた。


「佐伯さん、おはよう」


「おはよう」


「昨日、大谷先生に捕まってさ。フォトコンの話」


「あ、聞いた。藤宮くんから」


「エントリー用紙もらっといた。——ほら」


 彼は私の机に、折り目のない真っ白な用紙を置いた。

 「高校生写真コンテスト 申込書」と印刷された紙。

 自分の名前を書く欄に、ボールペンですっと線を引くところを想像しただけで、手汗が出てきそうになる。


「名前とタイトルだけ書いといてくれたら、俺、職員室に出しとくよ」


「いいの? 自分で出しに行くよ?」


「いいから。書類系でテンパる由衣さん、文化祭で何回か見たから」


「そんなにテンパってた?」


「安全管理の書式のとき、手震えてた」


「見てたんだ……」


 恥ずかしくてプリントの右下を見つめる。そこに小さく印刷会社の名前が書いてある。

 どうでもいいところに目を逸らす癖、我ながら分かりやすい。


「じゃ、よろしくね。——あ、今日の帰り、実行委員会あるから、ちょっと遅くなる」


「了解」


 藤宮はプリントを配りながら、さりげなく私の机の横を通る。

 そのとき、誰かの椅子が少しずれて、通路が狭くなった。


「っと、ごめ——」


 バランスを崩しかけた藤宮の腕が、私の肩に軽く触れた。

 一瞬だけ近くなる距離。

 すぐに離れたのに、その瞬間の温度だけがやけに鮮明に残る。


「大丈夫?」


「だ、大丈夫」


 答えながら、心臓がさっきからずっと忙しいことに気づく。


 まだ一時間目も始まってないのに、今日の胸は明らかに月曜向きじゃない。


     ◇


 現国の授業で教室移動があって、廊下を歩く。

 列の順番的に、私のすぐ後ろに朝倉がいる。


 展示終わりの日以来、美術室以外で一緒になるのは少し久しぶりな気がした。


「——おつかれ」


 背中越しに、落ち着いた声が飛んでくる。


「うん。朝倉も」


「ピンの数、ぴったりだった。さすが佐伯」


「数えたの朝倉でしょ」


「確認したのは俺。数えたのは佐伯」


「それ、褒めてる?」


「もちろん」


 会話だけ聞いたら完全に事務連絡なのに、なぜか胸の奥の水面がちょっと揺れる。

 階段を下りるとき、窓からの光が強くなって、前を歩く生徒の髪がきらきらしていた。


 ふいに強い風が吹いて、私の前髪がふわっと持ち上がる。


「——」


 後ろで、何か小さく動く気配がした。

 振り返ると、朝倉が目を細めて、私の頭のあたりをちらっと見ていた。


「なに」


「いや。……髪色、ほんとに光のとき綺麗だなって」


「え」


「展示のときも思ってたけど、窓側の光に当たると柔らかくなる。——あ、ごめん、変なこと言った」


 朝倉は慌てたように視線を教室のほうへ逸らす。

 その動きが逆に不意打ちで、私のほうがあたふたする。


「へ、変じゃない、……と思う」


「ならよかった」


 何でもない会話。

 でも、前髪の先にまだ光が残っている気がして、しばらく手で触れられなかった。


     ◇


 四時間目の体育は、体育館の片付けも兼ねていた。

 文化祭で使ったパイプ椅子やステージの板がまだ隅っこに積まれていて、体育教師が指示を飛ばしている。


「男子は椅子片付けー! 女子はマット拭きー! 怪我だけすんなー!」


「はいはーい」


 体育館に行くとき、藤宮がいつの間にか隣にいた。


「マット拭き、雑巾足りてる?」


「たぶん」


「足りなかったら言って。委員長、雑用係だから」


「便利な肩書きだね」


「でしょ?」


 その会話を聞いていたのか、後ろから雪村の声が飛んでくる。


「藤宮、お前ちょっとサボってない?」


「これも大事な仕事ですー。環境整備ですー」


「どの口が言うんだよ」


 雪村が笑いながら、パイプ椅子を二脚ずつ持ち上げて運んでいく。

 腕の筋肉がシャツ越しにも分かるくらいはっきりしていて、なんだか絵の中の線みたいだと思った。


 マット拭きの列に並んでいると、雑巾の取り合いみたいになって、私の手と誰かの手が同時に布を掴んだ。


「あ、ごめ——」


「ごめん、佐伯」


 雪村だった。

 手の甲が一瞬触れて、すぐに離れる。

 その一瞬の、汗と洗剤の匂いの混ざった温度が、指先に残る。


「由衣、こっち使って」


 すぐ横から、別の雑巾が差し出された。

 藤宮だ。


「ありがと」


「男子の手汗つき雑巾より、新品に近いやつのほうが良いでしょ」


「言い方」


 軽口のはずなのに、ちゃんと「私のこと気にして渡してくれた」ことだけは伝わる。


 マットを拭いていると、体育館の窓から光が斜めに差し込んで、床に長い線の影を落としていた。

 その光の中を、椅子を運ぶ雪村と、脚立を片付ける朝倉と、雑巾を絞る藤宮が、入れ替わり立ち替わり通っていく。


 ——なんか、今日、みんな近くない?


 体育館の広さに対して、三人の存在感がやけに近い。

 距離が縮んだわけじゃないのに、胸の中の物差しのメモリが勝手に変わっている感じがした。


「由衣、手、止まってる」


「あ、ごめん」


 詩織に小突かれて、慌てて拭き続ける。

 マットの表面に残った薄い水跡が、すぐに乾いていくのを見つめていると、なぜかさっきの手の感触まで一緒に消えていってしまいそうで、急に勿体なくなった。


 別に、好きとかじゃないのに。


     ◇


 放課後。

 教室の空気がいったん緩んで、部活に行く人、寄り道の相談をする人、真っ直ぐ帰る人、それぞれの時間に散っていく。


 私はフォトコンの申込書に名前を書かないといけないので、席に残ってノートを広げた。

 ボールペンのインクの出を試すために、余白に日付と自分の名前を書いてみる。


 “佐伯 由衣”


 その字を見ていると、「負けヒロイン」と自分で自分につけたラベルが、ふと遠く感じた。

 最近の自分は、確かに何かが少し違う。


「由衣〜」


 詩織が机に突っ伏したまま、手だけ伸びてくる。


「なに、そのホラー」


「エネルギー切れ。充電させて」


「太陽光じゃないんだから」


「じゃあ恋バナで充電させてください」


「してないよ、恋バナ」


「してないけど、進行形で恋の前兆は起きてるじゃん?」


「前兆?」


「今日一日の由衣の心拍数、普段の一・五倍はあったでしょ」


「……なんで分かるの」


「顔色で」


 詩織はひょいっと顔を上げて、真面目な目でこちらを見る。


「今日さ、“雪村ゾーン”“朝倉ゾーン”“藤宮ゾーン”全部踏んでたよ?」


「ゾーンってなに」


「ご本人たちの近くに行くエリア。由衣、全部でちゃんと揺れてた」


「揺れてないし」


「嘘。マットのときも、階段のときも、靴箱のときも」


「観察しすぎ」


「十年だから」


 言い返せない。


 詩織は机に頬杖をついて、にやっと笑った。


「でもね、今の由衣のいいところは、“誰も選ばない”って意味で揺れてるんじゃないとこ」


「どういうこと?」


「前は、“雪村じゃなきゃ”って感じで揺れてたでしょ」


 その言葉に、少しだけ胸がきゅっとなる。

 あの頃の自分の顔を思い出す。

 時間ごとに「雪村」を探していた目。


「今は、“自分の心臓がどう動くか”で揺れてる。相手じゃなくて、由衣側で揺れてる」


「……よく分かんないけど」


「分かんなくていい。そういう時期だから」


 そう言って、詩織は伸びをした。


「とにかく。“好き”って言葉にしなくていい時期って、そんな長く続かないんだよ。だからちゃんと楽しめ」


「楽しめるかな」


「楽しむんだよ。悩むのも込みで」


 悩むことまで「楽しめ」と言ってくるあたり、詩織はやっぱり最強の友達だと思う。


     ◇


 フォトコンの申込書にやっと名前を書いて、タイトル欄のところでペン先が止まった。

 何を書くか、まだ決めきれていない。


「タイトル、どうしよ……」


 机に突っ伏してうなっていると、教室の入り口から声がした。


「佐伯さーん。申込書、書けた?」


 藤宮だった。

 手にはまだ職員室行きのプリントの束。


「名前だけ」


「充分。タイトルは、後日でもいいって」


 彼は私の机まで来て、用紙を受け取る。

 名前のところをちらっと見て、ふっと笑う。


「字、綺麗だね」


「そうでもないよ」


「少なくとも俺よりは綺麗」


 そう言って、自分のノートを見せてくる。

 丸っこくて読みやすいけど、ところどころ走っていて、いかにも「委員長の字」という感じがした。


「じゃ、これは責任持って提出しとくから」


「ありがと」


「ついでに——」


 藤宮は少しだけ声を落とした。


「今日の掃除当番、雪村と同じグループだったから、さっきちょっと聞いたんだけどさ」


「なにを」


「“ちゃんと負けてきた”って」


 そのフレーズを口にしたとき、藤宮の目尻が少しだけ笑った。


「佐伯さんの前で、それ言ってたんでしょ?」


「……聞いてたの?」


「教室の端からでも聞こえるくらいの声だったから」


 そう言われて、机に額をぶつけたくなる。

 そんなに大きい声だった?


「で、なんか安心した顔してたから、“ああ、いい負け方したんだな”って思った」


「負け方、って」


「大事だよ? 勝ち負けより負け方。——って、他人の受け売りなんだけど」


 藤宮は肩をすくめて、プリントを差し出した。


「また明日。——あ、おやつにミカン持ってきたら一房あげる」


「何その条件」


「委員長への賄賂制度です」


「賄賂って自分で言うんだ……」


 笑いながら、少しだけ気持ちが軽くなった。

 藤宮と話していると、胸のざわざわが「うるさい」から「忙しい」に変わる感じがする。


     ◇


 家に帰る道。

 夕方の光が、アスファルトに長い影を落としていた。


 電柱、カーブミラー、犬の散歩をする人。

 全部の影が少しずつ伸びて、重なって、ほどけていく。


 自分の影も、さっきまでより少しだけ、真っ直ぐに見えた。


「——なんか、今日、みんなおかしかったな」


 ぽつりと声に出してみる。

 雪村のまっすぐな視線。

 朝倉の、ふいに止まる指先。

 藤宮の、距離の近い笑い方。


 それぞれの顔を思い浮かべるたびに、胸の奥の水が静かに波打つ。


 好き、って言い切れるほど強い波じゃない。

 でも、「何か」がいることだけは、はっきり分かる。


 玄関を開けると、台所から母の声がした。


「おかえり」


「ただいま」


 靴を揃えて、自分の部屋に入る。

 机の上にスケッチブックとノートを並べて、ペンを取る。


 日記というほど大げさじゃないけれど、今日の胸のざわざわを、少しだけ文字にしてみる。


好きかどうかなんて、まだ全然分からない。

でも、名前を呼ばれたり、近くに立たれたりするたびに、心臓の音が変わる。

これが“前兆”ってやつなら、ちょっとだけ面白いかもしれない。


 書き終えてペンを置くと、スマホが震えた。


 画面を見ると、グループトークに通知が来ている。

 「文化祭実行委員」「陸上部」「美術室メンバー」。

 それぞれのトークルームで、それぞれの今日の話題が飛び交っていた。


 そのどれにも、自分の名前が一度ずつ出ているのを見つけて、胸の中の水がもう一度、静かに揺れた。


 ——負けヒロイン、って、誰かと比べて決める言葉だった。

 前は、勝つ人と負ける人、みたいに世界を見ていた。


 でも今の私は、自分の胸の音で世界を測っている。

 誰かに選ばれるかどうかじゃなくて、自分がどう息をしているかで。


 そう思ったら、「負け」って言葉が、前ほど重くはなかった。


 スマホを伏せて、ベッドに仰向けになる。

 天井の白は、相変わらず何も描かれていない。


 でもその白の向こう側で、今日一日分のざわざわが、静かに形を変えながらそこにいてくれる気がした。


 好きかどうかなんて、まだ分からない。

 でも——


 胸が、静かに、うるさい。


 その状態自体が、少しだけ愛おしかった。

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