第1話 薬屋エヌート

 エルドリア王国は広大な土地を有しており、領内の一つである自由港ザカの外れ、東方街区ロータスランタンは、海風が先に角を曲がってくる。


 港には、大型の船がいくつも止まり、エルドリアの海運業によって様々な品物が集まる場所でもある。



 潮の匂いに混じって、揚げ油と香草、干した魚の匂いが混ざるのが街の匂いであり、石畳の路地をするりとすべる。


 低い庇の家々は赤や桃色の紙灯籠とうろうをぶらさげ、灯籠には蓮の花びらが粗い筆で描かれている。


 軒下では洗い立ての布がひるがえり、木の洗濯ばさみが風に鳴った。



「ふぁ〜寝過ぎてもうたな」


 

 ボサボサ髪に鋭い目つきをした柄の悪い男は、簡素な部屋の中で大きなあくびをして目を覚ます。


 窓から見える景色には、建物と建物のあいだに「隙間」というものは存在しなかった。


 鉄骨とコンクリートが、まるで生き物のように絡み合っている。


 片方の屋根はもう片方の壁にめり込み、階段の途中で別の家のベランダが顔を出す。


 窓の向こうにも、すぐ隣の窓があり、そこから漏れるテレビの青白い光が、相互に反射して夜の街を照らす。



 通りと呼べるほどの幅もなく、人ひとりがようやくすれ違える細い通路を、湿った空気が流れていく。


 街中を無数のパイプと電線が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、滴る水滴がぽつり、ぽつりと落ちてくる。



 部屋の上に部屋が、家の上に家が、積み木のように重なっている。


 どの家がどこまでなのか、もう誰にも分からない。洗濯物が他人のベランダにまで干され、鉄格子にプランターがぶら下がり、窓枠の外に置かれた古い扇風機がカタカタと音を立てる。



 路地のいちばん広い通りは、昼を少し過ぎても人で詰まっていた。



 港から戻った男たちが膝に網をのせ、糸をほどきながら無言で指を動かす。網には小さな銀の鱗が二、三枚だけ残っていて、指先に貼りつくたび、男は海に向かって舌打ちする。



 向かいでは女たちが木箱を台にして小さな市場をひらき、乾物、香辛料、刻んだ生姜や葱を紙に包んで量り売り、値切りの声と計量皿が触れ合う金属音が、小さな喧嘩みたいに交じり合う。



「相変わらず、この街はうるさいのぅ」



 オンボロの冷蔵庫から冷えた麦茶を出して飲みながら、タバコに火をつけた。


 ベランダに出て涼みながら、一服する。


 子どもらは裸足で駆け、ひとりは竹の棒で輪を転がし、もうひとりは捨て縄をくくって自分の腰に巻いた。


 橋のたもとでは年寄りが蓮鉢の水を替え、浮いた葉を指先で押しやって、金魚が顔を出すのを待っている。



 水面に映る空は浅く、そこに灯籠の赤が昼間から薄く落ちていた。



 ドンドン。



 扉を叩く音がして振り返れば、すでに開かれていた。


 十五歳くらいの少女。艶のある黒髪を二つにまとめ、細い紐で結んでいる。


 頬はまだあどけないが、瞳は夜の灯籠のように澄んでいて、芯が強い。


 チャイナ服を思わせる赤い上着の裾を短くして、太ももまであるスリットに黒いショートパンツを合わせていた。


 袖口には金糸で龍の刺繍が走り、胸元の留め具には古びた翡翠の飾り、布の継ぎ目は丁寧に縫い直されていて、貧民街にしてはずいぶん整っている。


 だが、裸足に近いサンダルと、ところどころ擦れた膝の傷が、彼女の生活の現実を語っていた。



「先生! お仕事の時間なのです!」

「ルゥ、オレは起きたばかりや。ちょっと一服させてや」

「もう、先生はいつもお寝坊さんなのです!」



 男の助手を務める少女は、ため息を吐きながら、部屋の中に入ってきて、勝手に冷蔵庫を開いた。


 ジュースを取り出して、飲み始める。


 そんな光景から目を逸らして、街を見下ろした。



 通りの片側では茶売りが湯気の立つ急須を並べ、薄荷茶、菊茶、柑の皮の茶と、手書きの札を吊るした。


 杯は小さく、値段は正直で、忙しい船荷車の男たちが一口で喉を潤していく。


 湯の匂いは、海の匂いと喧嘩しない。茶売りの脇では饅頭屋が蒸籠せいろを開け、白い湯気の幕から丸い影が顔を出すたび、並んだ客の肩が同じように少し上がる。



「腹へったな、ルゥ。朝食に肉まんでも食いにいくか?」

「いくのです!」



 男はワイシャツの袖を通して黒いスーツの上に白衣を羽織る。

 


「ほな、行こか」

「はいなのです!」


 

 街を歩けば、潮の香に混じって、腹をくすぐる蒸籠からいい匂いがする。



「おばちゃん、いつもの」

「はいよ。肉まん二つね。先生、ありがとうね」

「薬が必要なら、うちに来てや」

「はいはい、いつも助かってるよ」



 肉まんを購入した二人は、そのまま仕事場へ向かって歩いていく。



「ルゥ、客は来てるん?」

「いえ、ゴンザレスさんが、来ているだけなのです」

「ああ、そうか。それは客ちゃうな」


 

 仕事場である港近くに行けば、遠くでは木槌の音が響いて船の板を打ち直す音は、ここでは日和みたいなものだ。


 荷車の鉄の輪が石畳をこすり、ギルドの書記が板切れに符丁を記す。


 すれ違う人々は肌の色も言葉もまちまちで、誰も長くは立ち止まらない。


 立ち止まるときは、値段の札を見るときか、靴ひもを結ぶときか、灯籠の芯を取り替えるときくらいだ。


 店舗前に二メートルを超える大男が、箒で掃除をする珍味な光景が広がっていた。



「おはようございます。サソリの兄貴」

「ああ、おはようさん」



 街の外れにある薬屋:エヌート。



 そこが、薬師サソリの職場である。


 港町でひっそりと営む薬局だった。

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