第7話 病の殻

診察を終えたあと、霧島は机の上に広げた純平カルテの余白を眺めていた。

「患者さんが怖かったり、迷惑な人に見えるのは病気のせい…」

大学病院時代、精神科部長は常々我々研修医に熱弁を振るっていた

あのとき私は、あの言葉を信じきれずにいた。

けれど大学病院で出会ったあの人が、私の迷いを変えた。

混乱の闇の奥に、人間の光が確かにあった

そう思わせてくれた人だった。

「…純平くんも岩谷さんみたいになれるだろうか」


「離せ!オメエらみたいな集団ストーカーに俺は屈しねえぞ!」

岩谷浩二。51歳男性。通行人に対し「集団ストーカーをしている」と因縁をつけて暴行、110番通報のち措置入院となった。

もちろん岩谷は特定の集団からつきまとい被害を受けているわけではない。脳の回路がショートしてしまったが故に見えてしまう幻、統合失調症の被害妄想だ。

「岩谷さん、今日からは研修医も同席するからよろしくね。」

白髪でどこか落ち着くような雰囲気の声を発する大学病院精神科部長、横山の声は残念ながら岩谷には届いてないようだ。

「なんだあ?おめえも集団ストーカーの手下か!話すことなんかねえよバーカ!」

岩谷は保護室の扉を蹴りながら罵声を浴びせた。

それを当時の霧島は怯えながら向き合うしかなかったのだ。

「横山部長…やっぱ僕精神科じゃないほうがいいかもしれません…」

「うーん最終的に決めるのは君の自由だ。けどいくつか聞きたいことがある。君は…岩谷さんが怖いかい?」

「…はい、怖いです。」

「自分の気持ちに正直になれる、それもまたメンタルに向き合ういいやり方だよ。その上で私のモットーを聞いてほしい。霧島くんは岩谷さんの病前性格はわかるかい?」

「いえ、わからないです」

「そう、わからない。それは私も同じことだ。だからやりがいがある。患者さんが怖かったり迷惑に思えるのは病の殻で覆われているから。それを取り除いて人それぞれの素晴らしい善性を表面化させる、それが私たち精神科医の仕事なんだ。ぜひその喜びを君にも共有してほしい。岩谷さんをよく観察してみるといいさ。」


言われた通り霧島は横山の岩谷への診察に同行し、時々対話も試みた。

根気強く薬物療法を続けていると、岩谷がある日こんなことを言い出した。

「おい創生委員会のお前!」

「え?僕ですか?」

「お前以外にあるかボケ!」

創生委員会は巨大な新興宗教で、陰謀論界隈ではよく黒幕にされる団体の一つでもあった。

「はあ…すいません…」

「お前、なんで毎日来るんだ?」

「…僕の夢に向き合うためです」

霧島の夢、心を傷つけ、病んでしまった人に寄り添い力になることだ。

「…ほお、なら俺の願いも聞いてくれるか?」

やはり出たいとか言い出すのだろうか?岩谷は措置入院の身であるから残念ながらそれは不可能だ。そうしたらまた怒鳴られるかもと怯えていたが出た言葉は意外なものだった。

「お前らに預けてる音楽プレーヤー、あれ返してほしいんだわ。久しぶりに音楽が聴きたい」

ほっ

「僕の一存では決められないことですが横山先生に頼んでみます」

「ほうか、あんがとな。おめえも組織の人間だよな?無理言ってすまねえわ」

岩谷の目の奥にある敵意が少し和らいだ、そんな気がした。そしてようやく横山の言う意味が理解できた。

岩谷も人としての趣味はあるし感謝の気持ちもあるのだ。それが病で見えなくなってしまっていたが彼もまた一人の人間だったのだ。

それならばと、霧島は言葉を返した。

「いえ、どういたしまして。これからもお話聞かせてください。」


それから、岩谷は横山に同行する霧島をみると嬉しそうに話をするようになった。

趣味の洋楽のこと、昔読んでいた本のこと、病院食の天丼が美味しかったからお礼を伝えてほしいとも言われた。

集団ストーカーや電磁波攻撃といった妄想由来の話もあったが、だいぶ凶暴性は収まってきたようだ。

「なあ、おめえもっと集団ストーカーについて知ってもらうにはどうしたらいいと思うか?」

「そうですね、やっぱ怒ってるとこわいなーって思っちゃうから呼びかけるときは優しくしてくれるとありがたいですね。」


横山は診察終了後霧島を褒めた。

「君のおかげでだいぶ岩谷さんは落ち着いてるよ、ありがたいね」

「あの、横山先生には『妄想を無理に取り除く必要はない』と言われましたが本当にこれで大丈夫なんでしょうか?」

「ああ、あくまで自分や他人に迷惑をかける危険な行動をするのがダメなのであって、できるだけ患者さんの意思は尊重しないとっていうのが最近の流れなんだよ。それに、君も気づいてるんじゃないかな?岩谷さんの『集団ストーカー』の話も根本的には善意なんだよ」

「私も彼と話してそう思いました。考えは事実無根ですが彼なりに人助けをしたい、そんな思いを否定するのはさみしいですよね」


二週間後、岩谷の措置入院が解除された。今後は外来で病気の管理をすることになる。

「岩谷さんお疲れ様でした。今度からは外来でも話聞かせてくださいね。」

「おうわかったわ。なあ、霧島先生よ。」

はじめて名前を呼ばれ驚きつつ霧島が応じると

「俺は先生に言われた通り集団ストーカー相手にも手荒なことはこれからせんわ。約束したことは筋通すのが正義の側だよな?」

「ですね、ありがとうございます。」

こうして岩谷はゆっくり病院を去っていった。

横山と岩谷、二人の「恩師」の言葉が霧島に精神科医の道を選ばせる決定的なものになった。


そうだ、いくら難しいケースでも岩谷さんのようにあきらめず向き合えば素晴らしい人間性が見えてくるんだ。だから純平くんは必ず社会に復帰できるんだ。

そう奮起させ霧島は純平のカルテを閉まった。純平の性格は果たして病の殻に包まれたものなのか、それとも…。





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